日清戦争

千島樺太交換条約
 日本が最も恐れていたのはロシアの南下政策であった。日本が白人列強国に対抗するには、ロシアへの防衛線の構築が不可欠であった。そこで日本はロシアと「千島樺太交換条約」取り交わした。

 千島樺太交換条約とは、千島を日本領、樺太をロシア領とする条約である。 1854年の日露和親条約ではロシアは千島の択捉島と得撫島の間が日本とロシアの国境となっていたが、樺太については国境は決められていなかった。そこで日本は樺太をロシアに譲り、代わりに千島を日本領にしたのである。千島を日本領にすれば、ロシアは太平洋に出れないからである。つまり膨大な樺太の地をロシアにゆずり、ロシアの南下政策を阻止する目的があった。明治政府はロシアと交渉を済ませ領土問題は解決するが、これを考えた黒田清隆は先見の明のある人物であった。
 この条約を建議したのは黒田清隆で、交渉に当たったのが五稜郭の戦いで旧幕府軍で最後まで粘った榎本武揚である。榎本武揚は旧幕府軍でありながら、黒田清隆が戊辰戦争終結後に、頭を剃って榎本武揚を生かすように新政府に懇願したのである。それだけ榎本武揚は優秀だったのである。

 東方と南方には太平洋が広がっていて、ロシアの南下政策を食い止めることできるる。そこで明治政府は西方の防衛線を朝鮮半島に求めたのである。ロシアが朝鮮半島を植民地化する前に、何としても朝鮮半島を確保していたかった。

朝鮮半島をめぐる情勢

 明治に入ってからの日本が朝鮮に「私達と同じように開国・西洋化して、近代的なおつきあいをしましょう」という手紙を送ったが、朝鮮はこれを無視する態度であった。朝鮮政府は「皇帝”は清の皇帝しか認めない。ニセ皇帝の手紙なんか受け取れない」という態度を貫き、手紙を読むどころか受け取りもしなかった。
 このため明治政府内でも「征韓論」を巡る政争が起きる。西郷隆盛は朝鮮に渡って開国・近代化の交渉を進めようとしたが、結局は「とりあえず朝鮮問題は後回しにしよう」ということになった。
 反征韓論の大久保利通や岩倉具視らは、朝鮮問題が万が一にも紛争に発展し、ロシアや欧米列強に付け入る隙を持たれたらと考えたのである。征韓論で負けた西郷はその後、西南戦争(1877年)へと駆り立てられ、板垣退助が自由民権運動に進む。
 その間も朝鮮は相変わらず攘夷の意向を強めていった。日本国内でほとぼりが冷めた頃、明治政府は再び朝鮮へ使者を送ったが、朝鮮の態度は頑ななままであった。
 しびれを切らした明治政府は、軍艦を派遣して空砲を撃つなどの威圧を行い、朝鮮との談判を進めようとした。さらに測量や朝鮮政府への薪水要求などまでした。当然、朝鮮政府は不快感を示し、小競り合いが起きて事件になりました。
 しかし明治9年に日本と李氏朝鮮との間に日朝修好条規が結ばれ、朝鮮は国王・高宗の外戚(母方の親戚)である閔氏(びんし)一族が開国派として日本と結びついた。日本との貿易は年々拡大し、朝鮮における日本人の居留民も増加して、日朝関係は良好になった。閔妃は一族による王族支配を考え、日本が開国して経済発展をしたのを見て、韓国でも近代化を進めようとした。
 当時の朝鮮は韓王国が支配していたが、韓王国は儒教国で完全な農本主義をとっていた。そのため近代産業の基礎を持っていなかった。しかも両班(ヤンパン=貴族)と呼ばれる特権階級は、農民の搾取に夢中で、既得権益に固執して国政改革に全く意欲を見せなかった。さらに韓国王も無為無策であった。

 

朝鮮反日派
 このような日韓の良好な関係を苦々しく思っている者がいた。朝鮮では新たに国王が就任すると、国王の父は大院君となるが、このころ大院君は閔妃によって政治中枢から追い出されていた。大院君はキリスト教に対して激しい弾圧を加えるなど、非常に保守的で、朝鮮を鎖国して外国人を追い出す政策を打ち出していた。

 朝鮮の政治は腐敗していた。当時の王様の妃・閔妃が我が子を次代の王にするため莫大な賄賂を送っていた。さらに上級役人は私腹を肥やすために軍の給料をごまかしていた。さらに日本がイギリスから綿製品を仕入れて朝鮮で売るという中継貿易を行ったことにより、貿易赤字が常態化し、このため庶民にしわ寄せが行った。文字通り、食うや食わずの状況に陥った庶民も最悪の選択をしていた。

 このころ大院君は閔妃によって政治中枢から追い出されていたのですが、その政権交代と日本が進出により、庶民が苦境に陥ったとし、「閔妃と日本のせいで、生活はめちゃくちゃになったと宣伝した。

 明治15年7月に漢城(ソウル)で旧派の軍隊が待遇改善を訴えて暴動を起こすと、西洋嫌いの大院君を中心とする守旧派が混乱に乗じて、「閔妃と日本人を追い出して大院君に戻ってきてもらえば元通りの生活ができる」としてクーデターを起こしたのである。

 

壬午事変

 このクーデターによって大院君が政治の実権を奪うと、漢城(ソウル)の日本公使館が朝鮮の兵士に襲われ、館員や軍事顧問らが殺害された。これを壬午事変(じんご)という。この壬午事変で朝鮮の兵士が日本の公使館に危害を加えたことは国際法違反であり、この大院君の勝手な動きに清も日本も黙っていなかった。壬午事変で日本が朝鮮へ出兵すると、あろうことか親日派の閔妃は清国に助けを求め、朝鮮は親日から清国側に態度を変えたのである。

 ちなみに壬午事変の際に清が派遣した軍は、後に中華民国大総統となった袁世凱であった。大院君は清のために開国派を打倒するクーデターを起こしたが、事変の後に逮捕され清へ連行された。自国のための行為であっても用が済めば大院君は「お払い箱」であった。大院君に対する冷酷な仕打ちを見れば、当時の清の朝鮮に対する態度がよく分かる。

 朝鮮の宗主国である清も同時に出兵し、日清の戦争になるかに見えたが、日本は平和的な解決を望み、清も朝鮮に対して日本への賠償や謝罪を勧告した。このことから日朝両国は済物浦条約(さいもっぽ)を結び、朝鮮が日本に賠償金を支払い、日本公使館の守備に日本兵を置くこと、さらに日本への謝罪のために使者を日本に派遣することが決められた。
 このように日本は武力に頼らず話し合いで解決したが、この姿勢が「日本は清に比べて弱腰」とみなされ、その後、再び政治の実権を握った閔氏を含め、朝鮮国内では清に頼ろうとする勢力が強くなった。

 朝鮮は壬午事変の謝罪の使者として、日本に金玉均(きんぎょくきん)と朴泳孝(ぼくえいこう)の官僚を派遣した。彼らが見たのは近代的化した日本の姿であった。日本が10年前に派遣した岩倉使節団が欧米列強の発展ぶりに驚いたのと同じ思いをふたりは抱いたのである。

 閔妃はもともと親日だったが親清となってしまい、そこで立ち上がったのが金玉均と朴詠考だった。

 金玉均は「近代化を成功させた日本に学ぼう」とし、朝鮮の軍の近代化を始め、装備、練度、待遇を比較的良くした。しかし豊かにしたとはいえ悪化した財政状態のままで近代化を進めたため、そのままの予算で近代化に使っていた。大院君派の旧式軍からすると「なんで伝統を守ってきた俺達が苦しい思いをしているのに、新参者の軍が高待遇なんだ」と文句が出て、朝鮮政府はこれをなだめるために、旧式軍にも給料を払ったが、これはなんと13ヶ月ぶりの支払いだった上に、本来支給されるべき半分は途中の役人にちょろまかされていた。耐えに耐えてきた旧式軍はついに壬午軍乱という内乱を起こす。

 金玉均らは福沢諭吉から多額の資金援助を受けた後、明治17年に清が清仏戦争に敗れたのを好機に、同年12月に改革派2人が中心となって独立党を結成しクーデターを起こした。

 

甲申事変と天津条約
 しかし清の袁世凱が再び朝鮮に出兵したために改革派2人のクーデターは失敗し、金玉均が日本公使館に逃げ込むと、清の兵士が公使館を襲って焼き討ちにして女性を含む多数の日本の民間人を殺害した。これを甲申事変(こうしん)というが、この甲申事変で日本は清との武力衝突を避け国力の充実を優先させた。

 翌年、伊藤博文が全権大使として天津へ渡ると、清の全権大使である李鴻章(りこうしょう)と天津条約を結び、日清両国は朝鮮から撤兵し、今後出兵する際にはお互いに通知しあうことを義務とした。
 この二つの事変から、日本は「朝鮮を独立させたくても、清が宗主国の立場から干渉してくる」ことを知らされ、日本が独立党などの開国派を支援しても、清の軍隊がその動きを封じこめば、朝鮮の独立はあり得ないことを実感した。なお金玉均や朴泳孝は甲申事変の後に日本に亡命するが、金玉均は明治27年に上海で暗殺されている。
 明治18年には、この独立党を支援するため旧自由党左派の大井憲太郎らがクーデターを計画するが、事前に発覚して大阪で検挙されている(大阪事件)。
 甲申事変以後、清は朝鮮への影響を強めたが、その勢いは朝鮮国内でさえ辟易するもので、朝鮮は清の影響を少しでも和らげるためロシアにすがろうとした。朝鮮の国王や閔氏一族は、ロシアに軍事的な保護を求めて密かに接近したが(露朝密約事件)、この動きが発覚すると清はまた袁世凱を朝鮮総督として派遣し朝鮮への圧迫を強めた。このようにして朝鮮半島は日本・清・ロシアの三ヵ国がお互いに勢力争いの舞台になったが、その背景には、朝鮮が日本、清、ロシアへと次々と接近することで、日本、清、ロシアからの干渉を逃れようとする姿勢があった。

 清が朝鮮の外交権を奪い、朝鮮との貿易を急速に進め、明治22年には朝鮮の地方官が凶作を理由に日本へのコメや大豆の輸出を禁じた。このことで朝鮮と日本の関係が悪化した。この背景には清の関与があり、朝鮮が清の支配下に入れば独立はおろか、遠からず朝鮮が欧米列強の植民地となり、日本は決定的な打撃を受けかねなかった。これまで話し合いで耐え続けてきた日本は、朝鮮国内で「大きな動乱」が起きたのをきっかけに、清との全面戦争を決意する。日清戦争の原因は日清両国が朝鮮への影響力を狙っていたことで、朝鮮をめぐる外交は朝鮮内部の主導権争いから、日本、清、ロシアの力を背景に、あるいはその力を利用し、さらには第二次世界大戦後はアメリカを巻き込んで争うことになる。

 

東学党の乱
 1884年、朝鮮の民間信仰団体である東学党(とうがくとう)の信者を中心とした農民が、朝鮮半島の各地で反乱を起した。西洋が西学であるように、彼らは東学という考えを持っていた。東学党は特に日本のことを嫌い、宗教団体である東学党が減税を求め、さらに日本の進出を拒もうとして起した運動が東学党の乱で、その運動はやがて朝鮮全土を巻き込み、親日派・改革派は朝鮮から一掃されてしまう。これを甲午農民戦争(こうご)あるいは東学党の乱という。

 自国で反乱を鎮圧できない朝鮮は清に派兵を要請すると、清は直ちに出兵し、また天津条約によって出兵の事実を日本に通知してきた。通知文を読んだ日本は、清に異議を唱え朝鮮への派兵を決定した。文書には「朝鮮への出兵は属邦(属国)保護のため」と書かれていて、朝鮮を独立国と認めていた日本の外交姿勢と対立したのである。

 清が朝鮮の外交権を奪い、朝鮮との貿易を急速に進め、明治22年には朝鮮の地方官が凶作を理由に日本へのコメや大豆の輸出を禁じた。このことで朝鮮と日本の関係が悪化した。この背景には清の関与があり、朝鮮が清の支配下に入れば独立はおろか、遠からず朝鮮が欧米列強の植民地となり、日本は決定的な打撃を受けかねなかった。これまで話し合いで耐え続けてきた日本は、朝鮮国内で「大きな動乱」が起きたのをきっかけに、清との全面戦争を決意する。日清戦争の原因は日清両国が朝鮮への影響力を狙っていたことで、朝鮮をめぐる外交は朝鮮内部の主導権争いから、日本、清、ロシアの力を背景に、あるいはその力を利用し、さらには第二次世界大戦後はアメリカを巻き込んで争うことになる。
 日清両国の出兵によって反乱は鎮圧できたが、反乱後の朝鮮の内政改革を日清両国で行おうとする日本の提案を清が拒否したために問題になった。清の宗主国としての強気の背景には、日本は政府と議会とが対立していて朝鮮に向ける余裕がないと判断したからである。しかし日本が撤兵すれば、清による朝鮮の属国化は避けられず、日本は清の勢力を朝鮮から追い出すため、明治27年8月1日をもって清に宣戦布告をして日清戦争が始まった。

 

日清戦争
 一般的な歴史教育では日清戦争が起きたのは「日清両国が朝鮮半島への影響を強めるために互いに争った」とされているが、両国の宣戦布告の文章を読めば、清は「朝鮮は我が大清国に属して200年になるが、毎年我が国に朝貢している」として朝鮮は中国の属国と主張しているが、日本は「朝鮮は我が国が列国に加わらせた独立国なのに、清が常に朝鮮を属国として内政に干渉している」と訴えている。つまり日清戦争は、朝鮮を自国の属領とする清と、独立を助ける日本との戦争であった。
 日本は政党勢力が強まり、政府批判が高まっていたが、日清戦争により帝国議会は政争を停止し、全会一致で臨時の軍事費支出を可決した。日清戦争における日本の戦費は、当時の貨幣価値で約2億円で、国家歳入の倍以上だった。

 欧米のほとんどの国が大国の清の勝利を予想していた。しかし日本は「朝鮮の独立を助けるのは義戦である」として、福沢諭吉は恩人の子が出征する際、「もし討ち死にしても、ご両親のことは心配なさらぬように」と手紙を書いた。他に後の日露戦争に反対した内村鑑三でさえ英文で「日清戦争の義」を世界に発信した。
 清は軍事力の高い強国だと思われていたが、豊島沖(ほうとうおき)の海戦から始まり、その後は日本の陸軍が平壌(ピョンヤン)から鴨緑江(おうりょくこう)を渡って満州へと入り、遼東半島(りょうとう)を占領して清の首都・北京へ迫った。
 海軍が黄海海戦で勝つと制海権を得て、明治28年1月に陸軍が威海衛(いかいえい)を占領すると清の北洋艦隊が降伏し、日本が圧倒的優勢となった。日清戦争の前の清は「眠れる獅子」と諸外国から恐れられていたが、陸戦でも海戦でも日本が勝利し、日本は軍隊の訓練や規律の優秀さを誇るとともに、新型の近代兵器を装備して勝利に終わり、これまで「眠れる獅子」と恐れられた清も講和せざるを得なくなった。

 日清戦争で争ったのは日本と清であるが、両国が手にいれようとしたのは朝鮮半島の支配権であり、戦場になった場所も朝鮮半島およびその周辺の地域・海域である。

下関条約

 明治28年4月17日、下関において日本全権の伊藤博文・陸奥宗光と清の全権大使・李鴻章(りこうしょう)との間で、日清戦争における講和条約が調印された(下関条約)。この条約には様々な事項があるが、重要なのは「清が朝鮮を独立国」として認めたことである。

 下関条約の第1条には「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢物などは永遠に廃止する」と書かれている。この条文によって、初めて朝鮮は清からの呪縛を逃れ独立することになった。
 朝鮮は清の属国でなくなり、明治30年に大韓帝国と国名を改め、国王の高宗(こうそう)が初代皇帝となった。古代から東アジアでつづいていた中国を諸国の最高権力として、周辺国を属国と見る冊封体制(さくほうたいせい)は完全にくずれました。それまで宗主国の中国しか許されなかった「皇帝」の称号を初めて使用できるようになったのである。
下関条約の主な内容は以下のとおりである。
1.清は朝鮮の独立を認めること。
2.遼東半島・台湾・澎湖諸島(ほうこ)をゆずること
3.賠償金として、2億両、当時の日本の財政収入の約3倍の金額を支払うこと
4.新たに沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)の4港を開くこと
 このうちの2.や3.については「敗戦国が相手国に領土を割譲して賠償金を支払う」というのが当時の世界の常識であり、決して我が国だけの要求ではない。また台湾やその西に位置する澎湖諸島は、清にとってはそもそも実効的支配が及ばなかった。また遼東半島も万里の長城の外に位置することから重要性は高くなかった。しかし日本が得た領土に対して、激しく抗議してくる国が現れた。

 日本は清からの多額の賠償金をもとに、産業開発の投資や軍備の増強を行った。八幡製鉄所はこのときに建設されたものである。

三国干渉

 遼東半島は、朝鮮半島の北西および満州の南側に位置するが、日本が領有すると困る国があった。それは東アジアに領土的野心を持っていたロシアであった。当時のロシアは南下政策を進めており、いずれは満州から朝鮮半島の領有を視野に入れていた。

 日本が遼東半島を自国の領土とすれば、ロシアの野望に大きな支障をきたすことになる。この事情を理解していた清は、我が国に「奪われた」領土の返還や、あわよくば下関条約の無効化を目論み、遼東半島の返還をロシアに働きかけた。要するに我が国は清とロシアに嵌(は)められたのである。
 ロシアはドイツやフランスを誘い、日本に遼東半島を清へ返還するよう強く迫った。いわゆる三国干渉であるが、これは下関条約の調印からわずか6日後のことである。この要求に日本は当然のように激怒したが、巨大な三国に対抗する軍事力を持っていなかった。

 日本は三国からの要求を受け入れると、賠償金3,000万両(当時の日本円で約4,500万円)と引き換えに遼東半島を清へ返還した。
 ロシアの横暴に対し国民の怒りは頂点に達し、いつの日か必ずロシアへの復讐を果たそうとする「臥薪嘗胆」が合言葉となったが、これは民間の動きであり、政府はロシアを刺激しないためこの言葉を使用しなかった。

 なお台湾や澎湖諸島は我が国の領土となり、明治28年には台湾総督府が置かれ、初代総督として樺山資紀(かばやますけのり)が就任した。沖縄の帰属問題も、沖縄より西にある台湾が我が国の領土となったことで自然消滅した。(上図:日本と清が互いに捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアが横どりをたくらむ風刺画、フランス人のビゴー筆)

列強の中国分割
 日清戦争で日本に敗北した清は、下関条約によって遼東半島や台湾を日本に割譲したが、これを不服とした清は密かにロシアに声をかけ、三国干渉によって遼東半島を返還させた。このように他国を利用して返還させることは中国の伝統的発想に基づくものであった。しかし清は領土の返還を受けたが、日清戦争の敗北から清は欧米列強から狙われることになることになる。
 明治30年に山東省でドイツのカトリック宣教師が清国人に殺害されことから、ドイツが膠州湾(こうしゅうわん)を占領した。翌年にはドイツは同湾を清から租借(占領)すると、山東省の鉄道敷設権を獲得した。同様にイギリスは九龍半島(きゅうりゅう)と威海衛(いかいえい)を租借し、フランスは広州湾の租借権と周辺の鉄道敷設権を得た。このように欧米列強が清の支配権を強めた(中国分割)。
 アメリカは中国分割には参加しなかったが、1898年にハワイを占領し、さらにフィリピンの支配し、翌明治32年には国務長官ジョン・ヘイが「門戸開放・機会均等」を列強に通告した。この国務長官の背景には、アメリカが中国分割に出遅れたが、アメリカにも利権を残してほしいという本音であった。
 門戸開放を宣言したアメリカの思惑をよそに、清の分割は着々と進んでいった。もっとも露骨に動いたのはロシアで、ロシアは明治29年に清と対日軍事同盟を結び、シベリア鉄道を清からウラジオストックへ至る東清鉄道の敷設権を得た。ロシアは、日本から返還を受けた遼東半島の旅順・大連の港を租借したが、これはロシアが間接的に日本の領土を奪ったことを意味していた。さらにロシアは東清鉄道から大連湾までの鉄道施設権を獲得したことによって、ロシアが自国と満州や遼東半島を自由自在に通行できるようになり、満州や遼東半島全体がロシアの支配を受けることになった。
 日本は清との間で台湾の対岸の福建省を他国に割譲あるいは租借させないようにしたが、満州を事実上占領したロシアの圧力に苦しむことになる。三国干渉によって日本がロシアの圧力に屈したことは、朝鮮半島にも大きな影響を与えた。ロシアは我が国の低姿勢ぶりを弱腰と見て、朝鮮政府はロシアへ接近するようにしたのである。
 このような強い国に自国を委ねる事大主義が、朝鮮政府内のいわゆる親露派の動きを強めたが、親露派の中心が朝鮮王妃の閔妃(びんひ)であった。閔妃によって朝鮮が親露政権となり、ロシアが朝鮮に影響力を強めれば、かつての清と朝鮮の関係が、ロシアに移行することになり、日本が何のために多数の犠牲者を出して清と戦ったのか分からなくなってしまった。この動きを憂慮した朝鮮の日本公使の三浦梧楼(ごろう)が、国王高宗(こうそう)の父である大院君と反閔妃派と結ぶと、明治28年に閔妃が日本の援助でつくられた訓練隊を解散させようとして王宮が混乱状態に陥り、閔妃が暗殺未遂事件が起きる(乙未事変)。
 閔妃を暗殺しようとしたのは朝鮮人の訓練隊の兵であったが日本の関与が疑われた。閔妃の暗殺に驚いた日本政府は、直ちに関係者を逮捕するなどの迅速な処置をとり、乙未事変は国際問題にはならなかった。乙未事変が問題にされなかったのは、朝鮮半島内において壬午事変や甲申事変などで多数の日本の民間人が殺害され、乙未事変後に国王の高宗がロシア大使館に移った際にも、多くの日本人が殺されたことがあった。

 つまり世界各国は日本と朝鮮とはお互い様で、乙未事変での日本の失態は国際情勢を視野に入れて考えなければいけなかった。この事変後に閔妃は大院君から身分を剥奪され平民に落とされたが、後に日本の助言から王位を回復している。

 この乙未事変後に朝鮮は韓国(大韓帝国)と改名してロシアとの結びつきを強め、ロシアが朝鮮半島を足掛かりに日本に圧力をかけるなど、日本の外交問題に深刻な影響をもたらした。

 

 

国内情勢
 明治27年から翌年にかけての日清戦争は、第二次伊藤博文内閣が政治を行っていた。戦争という非常事態を受けて、政府と政党は政争を中止し全会一致で協力体制を整えたが、この姿勢は日清戦争後も続けられた。
 それは日清戦争の得た巨額の賠償金による軍事力の強化、および産業の振興であるが、それは政党が一致し、また民意もそれを支持したからである。政党も強い政治権力を得るには、政府との連携、民意の支持が重要として、衆議院で多数を占める政党との関係を政府が重視するようになった。
 第二次伊藤内閣が退陣すると、明治29年に組織された第二次松方正義内閣も、立憲改進党の流れをくむ進歩党の大隈重信を外務大臣に迎え、この内閣は松隈内閣と呼ばれた。
 第二次松方内閣の後を受けて明治31年に成立した第三次伊藤博文内閣は、再び超然主義に戻り、財源確保のために地租の税率を上げるなどの増税案を議会に提出したが、これに反対した自由党と進歩党は合同して憲政党を結成し、衆議院で絶対多数を得る巨大政党が誕生した。議会運営の見通しが立たなくなった第三次伊藤内閣は退陣に追い込まれ、我が国最初の政党内閣である第一次大隈重信内閣が成立した。この内閣は内大臣として板垣退助が就任したことから隈板内閣とも呼ばれている。
 隈板内閣は陸軍・海軍大臣を除く閣僚の全員を憲政党員で固めたが、成立直後から旧自由党と旧進歩党の派閥争いに悩まされた。その中で文部大臣の尾崎行雄が、金権政治への批判として「絶対に有り得ないことだが、もし日本で共和政治が行われたら三井・三菱が大統領候補となるであろう」と演説した(共和演説事件)。この共和政治の発言が天皇への不敬にあたるとして激しい非難を受け、尾崎が大臣辞任に追い込まれると、後任者の選任をめぐって憲政党は分裂し、そのため隈板内閣は4ヵ月余りで総辞職を余儀なくされた。
日本初の政党内閣は短命に終わったが、この後の本格的な政党内閣の実現は「大正デモクラシー」の時代まで待つことになる。
 第一次大隈内閣の後に、第二次山県有朋内閣が成立した。第二次山県内閣は、憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂した政党のうち憲政党を与党として、懸案だった地租の税率を2.5%から3.3%に引き上げるとともに、衆議院総選挙の選挙資格を国税15円以上から10円以上に引き下げた。前任の隈板内閣が短期間で崩壊したことから第二次山県内閣は、政党の影響力が政府内の組織にまで及ぶことを警戒し、明治32年に文官任用令を改正して、それまで自由任用だった文官を試験合格者に限定し、高級官吏への政党の影響力を抑えた。
 また同時に文官懲戒令や文官分限令を制定して、内閣の交代ごとに文官が任免されるのを防ぎ、行政官の身分を保障した。さらに翌33年には軍部大臣現役武官制を定めて、現役の大将や中将以外は陸・海軍大臣になれないことを明記し、政党の影響力が軍部に及びにくいようにした。この他、同年に治安警察法を公布して、過激化していた政治運動や労働運動への規制を強めた。
 第二次山県内閣の様々な政策が、与党の憲政党の反発を招いたのを見たいた伊藤博文は、党利党略といった私益に走るのではなく、国益を重んじる政党を組織して、それまでの藩閥政治の行政力と政党の立法力とを調和した新たな政権をつくった。伊藤博文の考えに応じた憲政党は、明治33年に結成された立憲政友会と合流するかたちで解党し、初代総裁となった伊藤博文が第四次内閣を組織した。こうして誕生した第四次伊藤内閣であるが、結成された立憲政友会では旧憲政党と、伊藤博文派の官僚との意見の不一致や、山県の意を受けた貴族院による攻撃に悩まされ翌34年に退陣した。第四次伊藤内閣の後を受けたのは、長州閥出身で山県の後継者でもあり、軍部や貴族院勢力の支持を受けた桂太郎であった。この後、桂太郎と伊藤博文の後継者で立憲政友会総裁の西園寺公望(きんもち)が交互に内閣を組織することになる。伊藤博文や山県らは政界の第一線を退いたが、天皇を補佐して首相の推薦などを行う元老として影響力を強めた。

 明治34年に成立した第一次桂太郎内閣は、日英同盟の成立から日露戦争の終結まで長期政権を維持したが、日比谷焼打ち事件の影響により明治38年末に退陣した。後を受けて翌39年に立憲政友会を与党とする第一次西園寺公望内閣が成立するが、鉄道や港湾の拡充を積極的に行い、軍事的経済的な理由から鉄道国有法を成立させた。

 しかし明治40年に恐慌が起きて政策が行きづまると、社会主義への対策の甘さを指摘され、翌41年に総辞職し、第二次桂太郎内閣が誕生した。第二次桂内閣は、まず明治天皇の名において戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布した。戊申詔書は日露戦争後に台頭した自由主義や個人主義的思想が、世の風紀を乱しかねないことを諌め、国民に節約と勤勉を説いて国際社会の一員としての自覚を持たせた。
 第二次桂内閣は、明治42年に内務省主導で地方改良運動を行い、行政単位としての町村を中心とした地方産業の振興を積極的に進め、租税負担力の増加をはかるなど財政基盤の立て直しを目指した。この運動と関連して地方の青年団が組織され、明治43年には、退役軍人の全国的な集まりである帝国在郷軍人会が誕生した。

 また明治43年に起きた大逆事件を機に、過激化する社会主義者あるいは無政府主義者への警戒を強化し、その一方では翌44年には工場法を制定して労働者の保護をはかった。第二次桂内閣は日韓併合の実現や条約改正の達成を機に同年に総辞職すると第二次西園寺公望内閣が成立した。10年以上にわたって桂と西園寺の二人が交互に政権を担当したこの時期は桂園時代と呼ばれている。

清の滅亡

 もともと中国では満州族に対する不満が大きかった。清の王朝は満州族の王朝で、満州族が漢民族などのおさめていた中国を侵略してつくった王朝が清であった。満州族は漢民族を支配していた。日清戦争のあと、中国大陸では清の民族である満州族に対する反発がだんだんと強まってゆく。
 漢民族たちは満州族の支配を不満に感じていた。 満州族は自分たちの風習を漢民族にも、むりやりやらせました。たとえば満州族の男は、髪型が辮髪(べんぱつ)という、髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編み(みつあみ)にし、後ろにたらした髪型なのですが、漢民族の男にも、これをやらせました。ほかにも、いろんなことで、漢民族は、満州族のやりかたに、したがわせられました。なので日清戦争は、民族で見れば日本人と満州族との戦争である。