教育

教育制度の整備
 明治維新より十余年の歳月をかけて徐々に新たな教育環境を構築していった。また明治時代初期より、福沢諭吉の慶応義塾、新島襄の同志社など、私学の創設が逐次展開されたことも見逃してはならない。

 明治5年に学制が発布され、義務教育の就学率が次第に上昇したが、理論より実用性・技術を重んずる実学が中心で、日本の伝統や道徳が軽視され、授業料が高額なこと、さらにはフランスの学区制を取り入れた統一的な学制画一的な統制に対し地方の実情を無視するものとして反発があった。

 それは全国の府県を8つの大学区に分け、1大学区を32中学区、1中学区を210の小学区に分け、大学校、中学校、小学校を置くという壮大な計画であった。しかし当時の日本の状況下でそれが実現されるはずもなく、地方の実情を無視した画一的な強制に対する政府内外の反動から、明治12年には学制を廃して、教育令(自由教育令、太政官布告)が公布された。これにより画一的な学区区分を廃して町村を小学校の設置単位とし、最低就学期間も大幅に短縮された。

 この教育令はアメリカ風の自由主義を基調とし、学区の廃止や小学校の設置を町村の裁量に任せ、義務教育の年限を短くするなどの改正を行った。しかしそれまでの統制から急激な放任主義への転換が、かえって教育界に大きな混乱を招いたので、翌年に教育令が改正されて政府の監督が強化された。

 しかし明治政府は専門教育にも力を注ぎ、明治10年には東京大学を設立し、多くの外国人教師を招いて各種学術の発達が図られた。また、師範教育や女子教育・産業教育についても専門の学校が設けられた。
 このような試行錯誤を経て、明治19年に森有礼(ありのり)初代文部大臣によって教育令が廃止され、新たに学校令が公布された。学校令によって小学校・中学校・師範学校・帝国大学などの学校体系が整備され、尋常・高等小学校各4年のうち尋常小学校の4年間が義務教育とされた。小学校教育の普及に力を入れ、男女等しく学ばせる国民教育の建設を目指したという姿勢には大いに評価すべきである。しかし次第に教育行政が国家主義的性格を帯び、小学校令においては就学に関して初めて「義務」という表現が用いられ、父母に子どもを尋常小学校へ就学させる義務が課せられた。また教科書に関しては文部大臣による検定制度が導入され、これは中学校令においても同様であった。このようにして、国家主義的な教育環境の素地が当時の日本に構築されていった状況が窺える。

 学校令が整備された明治20年代から30年代にかけて義務教育の就学率が急上昇し、明治35年には90%を超えた。これは学校令の制度が日本の風土に合っただけでなく、近代産業の発達やそれに伴う経済の発展によって国民生活が向上し、児童が教育を受けやすい体制が整ったからである。また教育費を国が補助し、明治33年には義務教育期間の授業料を廃止したことが大きな効果を表した。

 明治23年10月30日、忠君愛国が教育の基本であることが強調された「教育ニ関スル勅語」が発布され、さらに、明治24年には小学校祝日大祭日儀式規定(文部省令)が出され、紀元節など学校での儀式で勅語を必ず奉読することが定められるに至り、明治政府の教育政策は、国家主義的性格を強めていった。
 日清・日露両戦争を経て国民教育の重要性が再認識され、日露戦争の勝因は国民の教育水準の高さにあると海外からの指摘があり、明治40年には義務教育が6年に延長され、就学率は98%に達した。
 明治36年に小学校の教科書を、それまでの検定制から国定教科書制度に変更したが、これは検定制の教科書採用で数々の不正があったからである。なお義務教育制度とともに高等教育機関の拡充も進み、官立の東京・京都・東北・九州の各帝国大学が創設された。

 

学問の発達
 明治の初期に欧米から招かれた多くの外国人教師は、日本の近代的な学問研究の発達に大きな功績を残した。さらに彼らの指導を受けた日本人学者によって優れた研究が生み出された。経済学ではイギリス流の自由貿易を主体とした経済政策が盛り込まれ、その後はドイツ流の保護貿易や社会政策の学説が主流となった。
 法律学ではフランスのボアソナードが招かれて法典の編纂が進められたが、民法典論争をきっかけにドイツ法学が主流となった。哲学においては西田幾多郎(にしだきたろう)が西洋の哲学を踏まえながら、伝統的な禅の思想による独創的な哲学体系が確立された。
 史学では田口卯吉(うきち)が日本開化小史を著して文明史論を展開した。また重野安繹(しげのやすつぐ)は東京帝国大学に国史学科を設置し、同大学の史料編纂掛では大日本史料や「大日本古文書などの基礎資料の体系的編纂が進められた。その他、西洋の近代史学の影響を受けた実証的な研究も進み、帝国大学教授の久米邦武(くめくにたけ)がその先駆者となった。しかし久米邦武の研究が伝統的な思想と衝突し、久米は明治24年に発表した「神道は祭天の古俗」が神道家からの攻撃を受け教授の職を追われた。

 自然科学では、物理学では田中館愛橘(たなかだてあいきつ)が地磁気の測定で、長岡半太郎が原子構造の研究で成果を上げた。医学では北里柴三郎がペスト菌など細菌学を研究し伝染病研究所を創設した。さらに志賀潔が赤痢菌を発見し、秦佐八郎がサルバルサン(梅毒の特効薬)の創製を行い、千円札の肖像画で有名な野口英世が梅毒スピロヘータの研究を行ったが、彼らは北里柴三郎の弟子であった。

 

教育勅語
 明治22年2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)が公布され、日本は憲法を有する近代国家となったが、明治憲法は法律であり、道徳に関する規定がなかった。当時の教育界も、道徳教育の基礎を何に置くかという根本的な問題について一致した見解を持っていなかった。そのため我が国の伝統的倫理や道徳が軽視された。

 この事態を重く受け止められた明治天皇はご自身の考えを示され、井上毅(こわし)と元田永孚(ながさね)に起草させ、明治23年10月30日に「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)を発せられた。

 教育勅語には日本の伝統的な国家観と人倫道徳を融合させた「国民道徳」が分かりやすい文章で書かれており、孝行・友愛・夫婦の和・朋友(友人)の信・謙遜・博愛・修学習業・智能啓発・徳器成就(人格向上に努めること)・世の人々や社会のためになる仕事に励むこと(公益世務)・遵法(じゅんぽう、法律を守ること)・義勇の12の徳目(道徳の基本)を、天皇自らが国民とともに実践されるお考えが示された。教育勅語は明治天皇が国民に発せられたお言葉として御名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。


教育ニ関スル勅語(教育勅語)
 朕(ちん)惟(おも)フニ我ガ皇祖皇宗(天照大神と歴代の天皇のこと)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。
我ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此(こ)レ我ガ國体(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)実(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝(こう)ニ兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ夫婦相和(あいわ)シ朋友(ほうゆう)相信(あいしん)ジ恭倹(きょうけん、他人に対して慎み深く控え目に振る舞うこと)己(おの)レヲ持(じ)シ博愛衆(しゅう)ニ及ボシ学ヲ修メ業(ぎょう)ヲ習ヒ以(もっ)テ智能ヲ啓発シ徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ、進(すすん)デ公益(こうえき)ヲ広メ世務(せいむ)ヲ開キ、常(つね)ニ國憲(こくけん、憲法のこと)ヲ重(おもん)ジ國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急(かんきゅう)アレバ義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ以(もっ)テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ。
是(かく)ノ如(ごと)キハ独(ひと)リ朕(ちん)ガ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラズ、又以(もっ)テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顕彰(けんしょう)スルニ足ラン。
斯(こ)ノ道ハ実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スベキ所、之(これ)ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之(これ)ヲ中外(ちゅうがい、ここでは国内と国外のこと)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラズ。
朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう、心に刻み込んで片時も忘れることなく)シテ咸(みな)其(その)徳(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
  御名御璽(ぎょめいぎょじ)

 教育勅語は国民世論から大いに歓迎され、小学校修身科の教科書に掲載され、学校行事において校長先生が奉読するなど、多くの児童や生徒の日常の中にごく当たり前のものとしてあり、英・独・仏・中の各国語に翻訳され海外にも広く紹介された。
 ところで昭和に入って、勅語の文章中の「天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)」や「億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ」などの部分が、軍部を中心に強調されるようになったが、これは勅語本来の精神とは全く異なるものと解釈できる。
 なぜなら、勅語が発せられた明治23年といえば、国民の間でもようやく「幕府や藩への忠誠心」から「国家への忠誠心」へと変化した時期であり、それを踏(ふ)まえたうえで「これからは国の元首たる天皇の下で国家の繁栄のために力を尽くしなさい」という意味が、勅語において伝統的で古風な手法で述べられていたからある。
 教育勅語が我が国のために果たした役割の大きさから、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)、昭和23年6月に衆議院・参議院の両院で教育勅語の「排除」及び「失効」が決議されてしまったことが残念である。
 なお教育勅語が発せられた直後の明治24年に、勅語の親署に最敬礼をしなかった内村鑑三が各方面から非難を浴びた「内村鑑三不敬事件」が起きているが、これは内村がキリスト教徒であったことから、信教の自由の観点から宗教的儀礼である最敬礼への拒否をしたとの説がある。

 

文部省唱歌「われは海の子」
「われは海の子」は、文部省が明治43年に初めて編集した尋常小学校用の唱歌集である。ちなみに尋常小学読本唱歌は、すべての曲を日本人が作曲した画期的な唱歌だった。「われは海の子」はいわゆる文部省唱歌の一つとして多くの国民に親しまれ、時を越えて歌われ続けたが、最近は学校でも歌われることがなくなっている。
 この歌は7番まであるが、多くはを3番までしか歌われていない。「われは海の子」の歌詞をすべて読めば、これが「海洋国家日本に生まれた男子の成長の歌」であることが分かる。1番では故郷である海辺の住家をイメージして、2番から4番までで、幼少期から成長期までの流れを歌った後、5番でたくましく成人した「海の男」として、6番でその心意気を示し、7番では海洋国家である日本の決意をあらわす物語として完結している。
 ところが第二次世界大戦で敗戦すると、7番の歌詞で国防思想や軍艦が登場するのはケシカランということで、GHQの指示によって教科書から削られ、それ以降、戦後の教科書では3番までしか教えられていない。
 しかし日本が海洋国家であることを理解させ、青年に国防への認識を広めるためにも、小学校の段階で「われは海の子」を7番まで教えることは意義あることと思われる。7番の「いで大船を乗出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗組みて 我は護らん 海の国」という歌詞は、北方領土や竹島、尖閣諸島などの日本の領土を意識させるのに、この上ない教育になると思う。私たちの貴重な財産である唱歌をそのまま歌い継ぐことは当然であり、国民の未来のためにも必要と思う。

時代背景分析

 明治時代前期のの教育分野にみられる特徴として、政府主導による教育政策の推進、近代市民社会的な教育観から忠君愛国的な教育観への帰着、という2点を指摘することができる。なぜ明治時代前期には国家主導による教育政策が推進されることになったのか、なぜ明治時代当初に唱えられた近代市民社会的な教育観は忠君愛国を基本とする教育観へと帰着していったのかについて、その時代背景の分析が必要である。

 まず第一に欧米列強の東アジア進出に対し、日本が独立を達成するためにも欧米列強に並ぶ強国の建設を第一に実現しなければならないの基本理念があった。これは欧米列強による東アジア諸国の占領・侵略が現実のものとなる世界情勢の中で、日本そのものも近代的国家を確立しなければ列強諸国による占領・侵略を免れないという状況にあったことによる。そのた明治政府は富国強兵を掲げて資本主義化と軍備の拡充を目指し、近代産業育成政策として殖産興業を推進したのである。このことから社会の様々な分野において、近代化のための政策が推進されることになった。教育政策も近代化の一環として行われ、政府は欧米列強に倣った近代的な教育制度を導入する必要に迫られこれを実現していくためにも、中央政府が強い推進力をもつ必要があった。

 第二に、中央政府による強い政策推進力の必要性から、国家を個人に優先させるという国家主義が主力となり、これが天皇を中心とする伝統的な権力体制と結合していったことを指摘できる。すなわち、明治政府は、富国強兵・殖産興業の政策を国家主導で推進するに伴って、欧米列強に並ぶ強国の建設を第一とする国権論を強く示すようになり、さらに、日本の伝統的君主である天皇に主権が存すると明示した大日本帝国憲法を発布するに至り、天皇を頂とした国家主義が構築されていったといえる。かくして、近代国家の確立のためには、民権抑圧もやむを得ないという情勢になった。そのため、明治政府が当初掲げていた、「学問は国民各自が身をたて、智をひらき、産をつくるためのもの」という近代市民社会的な教育観も次第に国家主義的性格を強く帯びるようになり、結果として、教育勅語に示されるような忠君愛国を基本とする教育観へと帰着していったものと考えられる。

 以上の通り、明治時代前期の教育分野にみられる特徴と考えられる、1)政府主導による教育政策の推進、2)近代市民社会的な教育観から忠君愛国的な教育観への帰着、という2点について、その時代背景の分析から、それをもたらした要因に関して考察を深めた。その結果、「欧米列強の東アジア進出を前にして、日本が対外的独立を達成するためにも、欧米列強に並ぶ強国の建設を第一に実現しなければならないとする明治政府の基本理念があったこと」、「中央政府による強い政策推進力の必要性から、国家を個人に優先させるという国家主義が主力となり、これが天皇を中心とする伝統的な権力体制と結合していったこと」という状況を考察したことから明らかな通り、その時代背景というものが、明治時代前期の教育分野の特徴を形作っていたであろうことを見て取ることができよう。

 

4. 明治時代前期の教育から考察すべきこと

 

 ここまでにおいて、明治時代前期の教育環境を概観し、当該時代の教育分野にみられる特徴を考察するとともに、その特徴をもたらしたと考えられる時代背景を分析した。それでは、これらの考察から得られる、現代の教育分野へ応用すべき視点とは何だろうか。

 

 第一に、国家主導による教育政策の長所と短所の考察が挙げられる。明治時代前期における国家主導の教育政策の推進をみるに、その長所としては、強制力をもって全国に均質的な政策を一挙に推進できるという点を指摘できる。また、それまで何らかの理由により教育を受けることが困難であった者に対して教育機会を提供することができるという点も指摘できるであろう。逆に、その短所としては、強制力を発揮する反面、教育に関する個人の自由を奪い得るという点が挙げられる。また、中央の視点が色濃く反映されやすいため、学制の発布に顕著であったように、地方の実情を無視した政策になる可能性を孕むという点も指摘できる。我々は、これら長所と短所の双方を認識する必要があるであろう。

 

 第二に、教育理念の重要性の考察が挙げられる。明治時代前期における国家の教育観は、近代市民社会的なものから忠君愛国的なものへと帰着した。それに伴って、教育制度及び教育体系が変貌を遂げていった点は注目に値する。つまり、教育観すなわち教育理念とは、教育によって何を成すかということそのものであり、その如何によって人々の思想・生活様式も大きな影響を受けるという意味において、極めて重要であると言わざるを得ない。とりわけ、国家主導の教育政策においては、その政策推進が強制力を伴うため、いっそう慎重な配慮が為される必要があるであろう。教育分野においては、それが官主導のものであれ、民主導のものであれ、確固たる教育理念が第一に重要であることは言うまでもない。

 

 第三に、教育主体の考察が挙げられる。ある教育理念を実現しようとするとき、それを達成するための教育主体が必要となる。すなわち、誰が教育を担うのかということである。明治時代前期においては、国家という教育主体が主導的な役割を果たした。忠君愛国的な教育理念を実現しようとするには、まさに国家という教育主体が適していたとも言えよう。但し、掲げる教育理念によっては、多種多様な教育主体が考えられるはずである。それは、その時代背景等にも大きく関連するのであるが、ここで肝要なのは、教育主体の選定に柔軟性をもたせるという視点であると考えられる。つまり、時代に即応した教育主体を活用する柔軟性こそ、ある教育理念の効果的な実現をもたらすと考えるものである。

 

 最後に、これらの考察を踏まえ、現代の教育はどうあるべきかについて考察するとどうなるか。現代における国家の教育理念の根底は、日本国憲法及び教育基本法に求めることになる。それは、「個人の尊厳」「人格の完成」というものである。極めて抽象度が高いため、如何ようにも解釈できるといえる。但し、考察すべきは、それを実現するための教育主体及び教育制度には何が適するかということである。時代情勢に鑑みれば、改めるべき点を多々指摘することができよう。このように根本を再考していくと、そもそも義務教育という制度が本当に適切なものなのか、教育は誰が担うべきなのか、教育とは何なのかという議論にまで行き着く。この論考を皮切りに、逐次、私自身の展望を示していきたい。