愚人か賢人か?

 日本人は愚人か賢人か? このような質問を受けたら、あなたはどのように答えるであろうか。次に、あなたは愚人か賢人かと問われたら、果たしてどのように返答するであろうか。この回答はともかくとして、自分は賢く周囲は愚かと考えるのが現代人の本音であろう。
 なぜ自らを上位に位置づけ、世間を見下す精神構造になったのだろうか。それはマスコミによる刷り込み効果の影響といえる。茶髪、ヘアヌード、援助交際、怪奇事件、さらには無節操な週刊誌、愚にもつかない街頭インタビューの内容、低俗なテレビ番組、このようなマスコミが作る愚かな映像が人々の脳裏に蓄積し、虚構の世界が現実の社会を押しやり、いつしか周囲を愚人に、その反作用として自らを賢人と思い込ませることになった。
 もちろん日本人は愚かではない。愚かに見えるのはマスコミが愚かな日本人像を作っているからである。もし違うと言うならば、あなたの知人を思い浮かべればよい。彼らのほとんどは常識人で、愚人と呼べる者がいかに少ないかに気づくはずである。マスコミによるこの錯覚が現代人の深層心理を作っている。
 もしテレビ局がNHKだけで、週刊誌が新聞系列だけならば、周囲を愚集団とする現象は起こりにくい。しかし同時に、娯楽性のないつまらない世界になるのも事実である。
 テレビのスイッチを押せば、にこやかなホステスが飛び出し、ご機嫌を伺ってくる。そして優越感と自己満足の時間を与えてくれる。競争社会におけるストレスを癒し、夢を与えてくれる。まさに視聴者は王様気分となる。この視聴者の満足度が視聴率として現れてくる。
 愚かな映像と高所から批判しても、それは人々が無意識にそれを求めているからで、批判の支持は得られない。難しい話より笑える話のほうが面白いからである。尊敬よりは軽蔑が、偉人伝よりはスキャンダルが、人格よりは下半身の方が興味をそそるのである。他人の幸せよりは不幸のほうが甘い蜜となる。テレビを見て文句を言うのは、街頭で貰ったティッシュペーパーの質が悪いと怒っているのと同じである。
 企業にとって視聴率は売り上げに直結する広告効率であり、民放にとっては総収入である。私たちは民間放送が広告料金だけで運営されていることを忘れている。文句を言うなら見ないこと、あるいは自分が金を出すことである。
 人々はマスコミに良識を求めるが、漫画本を持たない出版社は倒産し、裸を載せない週刊誌は売り上げを低下させている。この現実を前にして、彼らの志ばかりを問うのは酷である。
 このマスコミの低俗化競争は民衆が求める無意識の要求であるが、低俗に接すると低俗が伝染するから恐ろしい。特に無垢な子供ほど伝染しやすい。その対策は、禁酒、禁煙と同様、親が見せないことである。マスコミの低俗化は問題であるが、大人にとって問題は違う所にある。大人にとっては、むしろマスコミが偉そうなことを言い出すことが問題になる。
 マスコミが政策に賛成、あるいは反対のキャンペーンを行えば、国民の意思は簡単に流される。そして無責任な情報操作により政策が決定されることになる。ニュースキャスターの批判的な言葉にうなずき、無意識のうちに評論家と肩を並べ、世の中を分かったつもりになる。マスコミの言葉を検証もなく信じてしまうのである。
 マスコミが広い視野で日本の将来を考え、問題を提示するだけならかまわない。しかし視聴者におもねるマスコミは、泣き顔や笑い顔を意図的に作り、国民を感情的に扇動するのである。世論と言いながら世論を誘導するのがマスコミである。
 マスコミは不偏不党、政治的公平をとなえるが、政治に対する影響力は大きい。第四の権力と呼ばれる由縁である。細川内閣誕生時に、「自民党の長期政権を崩壊させるため意図的に番組を作った」と公言した報道局長が解任されたことがその証拠といえる。
 多くの人たちはこのマスコミの無責任な作為性を熟知している。しかし世間で耳にする日常会話の多くがマスコミの受け売りであることを、受け売りと気づかずに人々は話しているのである。そして度が過ぎると、まさにマインドコントロールとなる。
 日本のテレビの広告総収入は3兆円である。新聞の総収入は2.5兆円で、6割が購読料4割が広告代金である。放送業界も新聞業界も広告がなければ成り立たない。逆を言えば商業主義がマスメディアを牛耳っているといえる。経済界にとっては国民は愚かな方が都合がよい。何でも欲しがる愚集団の方が購買力を持つからである。
 もし商業主義による愚人化現象を変えたければ、ひとつは不買運動による企業への圧力である、さらには企業と同様にマスコミを金銭で利用することである。
 日本の総広告費はGDPの1%、7兆円と巨額であるが、日本の医療費30兆円に比べれば意外に小さな金額である。患者を治すだけでなく、ゆがんだ社会を正すことも医師の使命とするならば、マスコミを利用することも大きな手段のひとつである。