国内情勢

国内情勢
 明治27年から翌年にかけて行われた日清戦争は、第二次伊藤博文内閣が政治を行っていた。戦争という非常事態を受けて、政府と政党は政争を中止し全会一致で協力体制を整えたが、この姿勢は日清戦争後も続けられた。
それは日清戦争の得た巨額の賠償金による軍事力の強化、および産業の振興には政党が一致して民意を尊重することが不可欠と判断したからであった。政党も強い政治権力を得るには、政府との連携が重要と判断して、衆議院で多数を占める政党との関係を政府が重視するようになった。
 第二次伊藤内閣が退陣して、明治29年に組織された第二次松方正義内閣も、立憲改進党の流れをくむ進歩党の大隈重信を外務大臣に迎え、この内閣は松隈内閣と呼ばれた。
 第二次松方内閣の後を受けて明治31年に成立した第三次伊藤博文内閣は、再び超然主義に戻り、財源確保のために地租の税率を上げるなどの増税案を議会に提出しましたが、これに反対した自由党と進歩党は、合同して憲政党を結成し衆議院で絶対多数を得る巨大政党が誕生した。議会運営の見通しが立たなくなった第三次伊藤内閣は退陣に追い込まれ、我が国最初の政党内閣である第一次大隈重信内閣が成立しました。この内閣は内大臣として板垣退助が就任したことから隈板内閣とも呼ばれている。
 隈板内閣は陸軍・海軍大臣を除く閣僚の全員を憲政党員で固めたが、成立直後から旧自由党と旧進歩党の派閥争いに悩まされた。その中で文部大臣の尾崎行雄が、金権政治への批判として「絶対に有り得ないことだが、もし日本で共和政治が行われたら三井・三菱が大統領候補となるであろう」と演説した(共和演説事件)。この共和政治の発言が天皇への不敬にあたると激しい非難を受け、尾崎が大臣辞任に追い込まれると、後任者の選任をめぐって憲政党は分裂し、そのため隈板内閣は4ヵ月余りで総辞職を余儀なくされた。
 日本初の政党内閣は短命に終わったが、この後の本格的な政党内閣の実現は、「大正デモクラシー」の時代まで待つことになる。
 第一次大隈内閣の後に、第二次山県有朋内閣が成立した。第二次山県内閣は、憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂した政党のうち憲政党を与党として懸案だった地租の税率を2.5%から3.3%に引き上げるとともに、衆議院総選挙の選挙資格を国税15円以上から10円以上に引き下げた。前任の隈板内閣が短期間で崩壊したことから第二次山県内閣は、政党の影響力が政府内の組織にまで及ぶのを警戒し、明治32年に文官任用令を改正して、それまで自由任用だった文官を試験合格者に限定し高級官吏への政党の影響力を抑えた。
 また同時に文官懲戒令や文官分限令を制定して、内閣の交代ごとに文官が任免されるのを防ぎ、行政官の身分保障を強化した。さらに、翌33年には軍部大臣現役武官制を定めて、現役の大将や中将以外は陸・海軍大臣になれないことを明記し、政党の影響力が軍部にした。この他、同年に治安警察法を公布して、過激化しつつあった政治運動や労働運動への規制を強めた。
 第二次山県内閣の様々な政策が、与党の憲政党の反発を招いたのを見たいた伊藤博文は、党利党略といった私益に走るのではなく、国益を重んじる政党を組織して、それまでの藩閥政治の行政力と、政党の立法力とを調和した新たな政権をつくった。伊藤の考えに応じた憲政党は、明治33年に結成された立憲政友会に合流するかたちで解党し、初代総裁となった伊藤博文が第四次内閣を組織した。こうして誕生した第四次伊藤内閣であるが、結成された立憲政友会では旧憲政党と、伊藤派の官僚との意見の不一致や、山県の意を受けた貴族院による攻撃にも悩まされ、翌34年に退陣した。第四次伊藤内閣の後を受けたのは、長州閥出身で山県の後継者でもあり、軍部や貴族院勢力の支持を受けた桂太郎であった。この後、桂太郎と伊藤の後継者で立憲政友会総裁の西園寺公望(きんもち)が交互に内閣を組織することになる。伊藤や山県らは政界の第一線を退いたが、天皇を補佐して首相の推薦などを行う元老として影響力を強めた。
 明治34年に成立した第一次桂太郎内閣は、日英同盟の成立から日露戦争の終結まで長期政権を維持したが、日比谷焼打ち事件の影響により明治38年末に退陣した。後を受けて翌39年に立憲政友会を与党とする第一次西園寺公望内閣が成立するが、鉄道や港湾の拡充を積極的に行い、軍事的経済的な理由から鉄道国有法を成立させた。しかし、明治40年に恐慌が起きて政策が行きづまると、社会主義への対策の甘さも指摘され、翌41年に総辞職し、第二次桂太郎内閣が誕生した。第二次桂内閣は、まず明治天皇の名において戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布した。戊申詔書は日露戦争後に台頭した自由主義や個人主義的思想が、世の風紀を乱しかねないのを諌め、国民に節約と勤勉を説いて国際社会の一員としての自覚を持たせた。
 第二次桂内閣は、明治42年に内務省主導で地方改良運動を始め、行政単位としての町村を中心に地方産業の振興を積極的に進め、租税負担力の増加をはかるなど財政基盤の立て直しを目指した。この運動と関連して地方の青年団が組織され、明治43年には、退役軍人の全国的な集まりとなる帝国在郷軍人会が誕生している。また明治43年に起きた大逆事件を機に、過激化する社会主義者あるいは無政府主義者への警戒を強化し、その一方では翌44年には工場法を制定して労働者の保護をはかった。第二次桂内閣は日韓併合の実現や条約改正の達成を機に同年総辞職して第二次西園寺公望内閣が成立しました。10年以上にわたって桂と西園寺の二人が交互に政権を担当したこの時期は桂園時代と呼ばれている。

 

明治十四年の政変と政党の結成
 明治11年5月、最高実力者の大久保利通が暗殺され、強力な指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まるなかで分裂状態となった。肥前(佐賀)藩出身の参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信は、イギリスを模範とした議院内閣制に基づき、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などをめざした。しかし大隈重信の動きは、議会政治の実現に時間をかけて取り組もうとしていた、右大臣の岩倉具視や参議の伊藤博文とは相反するもので、やがて両派は政府内で激しく対立した。その最中に、政府内で発覚した一つの事件をきっかけに、国会開設に向けて大きく前進することになった。
 北海道に開拓使を設置して以来、政府は多額の事業費を投入したが北海道は赤字が続いていた。このため旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆は、開拓の官有物を民間に払い下げようとした。黒田清隆は同じ薩摩出身の政商である五代友厚に安く有利な条件で官有物を払い下げしようとした。しかし明治14年7月にその内容が新聞にすっぱ抜かれ、政府に対する非難の声が民間から挙がった(開拓使官有物払下げ事件)。この事件に乗じて民権派は藩閥政府を攻撃して、国会開設の早期実現を主張したが、この民権派の動きは同じ考えを持つ大隈の策謀があると政府は判断した。そのため政府は同年10月に大隈を罷免し、民権派の動きを抑える意味から、約10年後の明治23年に国会を開設することを公約した。国会開設は勅諭であり、勅諭とは天皇のお言葉を意味するので、政府は後に引けない覚悟を示すとともに、天皇の権威で民権派を納得させようとした(明治十四年の政変)。
 自由民権運動の悲願であった、国会開設に関する具体的な時期が決まったことから、民権派は政党の結成へ向けて動き出した。国会開設の勅諭が出された直後の同年10月、国会期成同盟を母体として、板垣退助が党首となった自由党が結成された。次いで翌15年には、大隈重信を党首とする立憲改進党が結成された。自由党はフランス流の急進的な自由主義をめざし士族や豪農などの支持を得た。立憲改進党はイギリス流の議院内閣制をめざし、都市部の知識人や実業家の支持を集める違いがあった。また政府が国会開設の勅諭を出した際に、天皇が定める欽定憲法によって制定する基本方針を明らかにしたことから、民間においても様々な私擬憲法(しぎ)がつくられた。福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)による私擬憲法案、植木枝盛(えもり)による東洋大日本国国憲按などの急進的なものが有名である。こうした国会開設への具体的な動きを受けて、自由民権運動はさらに発展を見せようとしたが、この後に大きな挫折を経験することになった。なお民間における政党の結成を受けて、政府側においても、明治15年に福地源一郎らによって立憲帝政党がつくられたが、民権派に対抗できるだけの勢力になりえないまま、翌年に解党している。