初期外交

初期外交問題と領土
 明治政府にとって旧幕府が欧米列強と結んだ不平等条約を改正すること、つまり条約改正であった。さらに西洋の進んだ制度や文化を学ぶために、政府首脳は直接海外に出かけて視察する必要があった。そこで、明治4年11月に、右大臣の岩倉具視を全権大使として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文を副使とする使節団を欧米に派遣した(岩倉使節団)。使節団はまずアメリカに入国し、条約改正の交渉に入ったが成果を上げることはできなかった。その後、使節団は欧米視察に切り替え、政府首脳は近代国家の政治や産業などの見聞を広め、欧米の発展した文化を目にすることになる。使節団は日本が列強からの侵略を受けないためにも様々な改革が急務であることを痛感した。しかし西郷隆盛を中心とする留守政府が外交面で大きな動きをみせようとすることを知り、使節団は予定を変更して、明治6年9月に急いで帰国した。なお岩倉使節団には多くの留学生が随行しており、その中には女子英学塾(津田塾大学)を設立した、当時8歳の津田梅子の姿もあった 。
 不平等条約の改正と同時に、日本が欧米列強からの侵略や植民地化をどのように防ぐかという問題があったが、特に深刻だったのはロシアの南下政策だった。当時のロシアは北半球でも緯度の高いところにあったため、極寒になると港の海が凍ってしまうのが悩みであった。そのためロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大していた。ここで問題となったのが、朝鮮半島であった。もし朝鮮半島がロシアの支配を受ければ、かつての元寇のように日本が直接ロシアの侵略を受けることになったからである。すなわち朝鮮半島がどのような状況に置かれるかが、日本の防衛のカギを握っていた。そこで明治政府は当時の李氏朝鮮に近代化を進めるように働きかけ、朝鮮半島が開国して独立国となれば、朝鮮の人々のためになると同時に、日本の安全度も増すと判断したのである。政府は朝鮮国王である高宗に外交文書を送ったが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生した。
 朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否したのである。なぜなら文書の中に「皇」や「勅」の文字が含まれていたからである。当時の朝鮮は中国の清の属国で、中国の皇帝のみが使用する「皇」や「勅」の字を日本が使うことで、「日本が朝鮮を清と同様に支配下に置こうとしている」と判断したのである。もちろん日本にはそのような意図はなく、江戸幕府から明治新政府になり、日本が天皇中心の中央集権国家に生まれ変わったことで、「皇」や「勅」の字を使用したに過ぎなかった。日本は朝鮮に理解を求め、新たに「皇」や「勅」の字を使用しない外交文書を送るなどの努力を重ねたが、態度を硬化させた朝鮮は首を縦に振らなかった。
 朝鮮と国交断絶の状態となったが、日本と清との間では、明治4年に日清修好条規が結ばれていた。宗主国である清が我が国と国交を結んでいるのに、属国である朝鮮が国交を結んでいないことは、「朝鮮は明治政府を承認していない」という意思表示ととらえた。朝鮮が排他的な外交態度を示していた当時、日本では政府首脳が海外視察中であったが、留守政府の中から、「我が国が武力を行使して朝鮮を開国させるべき」との意見が出始めました。いわゆる征韓論であるが、背景には「朝鮮との外交問題を早く解決しないと、ロシアが南下して朝鮮半島を支配するか分からず、もしそうなれば日本にとって死活問題になる」という焦があった。
 このようにして政府内で高まった征韓論であるが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし、西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて、直接交渉すべきであると考えていました。その意味では、征韓論というよりも「遣韓論」といったほうが正しいかもしれません。
 もっとも西郷のような政府の重鎮が、国交のない国に出向いて万が一のことがあれば、朝鮮とはそのまま戦争になってしまうのは明らかであった。留守政府は西郷の朝鮮への派遣を一度は閣議で内定したが、一報を聞いてあわてて帰国した使節団の岩倉具視や、大久保利通・木戸孝允らが猛反対をした。西洋の発展を直接目にした、いわゆる「外遊組」にとっては、富国強兵や殖産興業を一刻も早く行い、列強からの侵略を受けないようにすることが最重要課題であった。外交問題がこじれたからといって、朝鮮半島へ派兵する余裕は考えていた。一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府は、外遊組の意図が理解できなかった。西郷は朝鮮との戦争によって活躍の場をなくしていた士族を救済したいという思惑があったからである。
 征韓論は政府を二分する大論争となったが、太政大臣代理となった岩倉によって、西郷らが内定した閣議決定が覆された。朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞職し、同じく征韓論を唱えていた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の参議の四人もそろって下野した。
 この征韓論は否定されたが(明治六年の政変)、朝鮮との国交も急が、我が国と朝鮮との間で一つの事件が発生しました。
明治8年、朝鮮の首都である漢城(ソウル)の北西に位置する江華島付近で、我が国の軍艦の雲揚(うんよう)号が、測量を目的に海岸へ接近するという示威行動をしました。
雲揚号の行為に対して、朝鮮が江華島の砲台から攻撃を行うと、我が国も報復として砲撃を加えました。江華島事件と呼ばれたこの武力衝突(ぶりょくしょうとつ)をきっかけとして、我が国が朝鮮に対して開国するように働きかけたことで、翌明治9(1876)年に日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が結ばれました。
ところで、一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせに、自国より立場の弱い朝鮮に対し、列強の真似をして無理やり不平等な条約を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や、歴史的な意義を見出すことができません。
確かに日朝修好条規には、朝鮮に在留する日本人に対して、我が国側の領事裁判権が認められていましたが、これは江戸時代からの慣習をそのまま成文化したものですし、また関税自主権については、日朝両国がお互いに関税をかけないという取り決めをしているところが、他の不平等条約とは異なっています。
それよりも重要なのは、日朝修好条規の第1条で、「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と書かれていることです。これは我が国が朝鮮を独立国と認めたことを意味しており、当時の世界諸国が朝鮮を「清の属国」としか見ていなかったことからすれば、非常に画期的なことでした。
日朝修好条規は、朝鮮が初めて自国で結んだ国際条約であり、この条約が結ばれたことで、欧米列強も次々と朝鮮と条約を結びました。その内容は、我が国が欧米列強と結んだのと同様に不平等なものではありましたが、同時に欧米列強が朝鮮を独立国として認めていることも意味していたのです。
なお、日朝修好条規によって、朝鮮は釜山(プサン)・元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)の三港を開いています。
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清の存在は、南下政策を進めるロシアとともに、我が国にとって外交上の大きな問題でした。明治4年、政府は清とほぼ対等な内容の条約である日清修好条規を結んで国交を開きましたが、間もなく琉球をめぐって紛争が起きてしまいました。
琉球はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清との間で朝貢関係を続けていました。しかし、江戸幕府が倒れて薩摩藩が設立に加わった明治政府が誕生したことで、政府は琉球を日本の領土として組み入れることを決意し、明治4年の廃藩置県の際に、琉球を鹿児島県の一部として編入しました。
一旦は琉球を鹿児島県の一部として、我が国の領土に組み入れた政府でしたが、朝鮮と同じように琉球を属国とみなしてきた清が、強硬に抗議してくるのは明らかでした。そこで、政府は明治5年に新たに琉球藩(りゅうきゅうはん)を設置して、国王の尚泰(しょうたい)を藩主とし、またかつての我が国の藩主と同じく華族の身分とさせました。廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する、清からの抗議をかわそうとした政府の思惑(おもわく)があったからでした。
しかし、そのような小手先の手段に清が納得するはずがありません。清は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に、日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。
明治4年、琉球の八重山諸島の住民が台湾に漂着した際に、その多数が原住民に殺されるという事件が発生しました。これを受けて、政府は清に対し抗議しましたが、清は「台湾の島民には二種類あり、清の支配に従わない島民は自国の支配が及ばない化外の民である」として責任を逃れようとしました。
清の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7年に西郷従道が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを台湾出兵、または征台の役といいます。
出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清が我が国の行為を義挙(正義のために起こす行動)と認めて賠償金を支払い、政府が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。
台湾出兵によって、琉球の帰属問題が解決したものとみなした政府は、明治12(1879)年に琉球藩を廃して、新たに沖縄県を置きましたが、その後も清との間では交渉が続けられ、最終的な決着は日清戦争の終結まで待たなければなりませんでした。
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから、沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は、我が国と清とのはざまで時の流れに翻弄され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として、琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命があることをご存知でしょうか。
沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひっくり返してください。日本列島や沖縄、あるいは台湾の存在によって、中国が日本海や東シナ海から外に出ないように閉じ込めてられていることに気づきませんか?
つまり、沖縄は台湾とともに、地政学的に見て中国大陸を海上で封鎖するための重要な拠点になっているのです。現代において、もし沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。
それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない理由も考えることができるのです。
そして現在、中華人民共和国が我が国固有の領土である尖閣諸島の占有を声高に主張していることも、ガス田の開発といったエネルギー問題だけではなく、尖閣の侵略を自国による沖縄支配の布石としている気配を私たち日本人は感じなければいけません。
我が国と沖縄に関する歴史を学ぶことは、決して過去の話だけではなく、現代の我が国の安全保障について真剣に考えるべき重要な課題でもあるのです。
幕末に、我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島列島は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。
しかし、雑居地とした樺太において、ロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝突を避けるためには、樺太の支配を放棄せざるを得ないと判断しました。
かくして日露両国は、明治8年に樺太・千島交換条約を結び、樺太全島をロシア領とする代わりに、千島列島の全島を日本領とすることを決めました。樺太と千島列島という明らかに不均衡な領土の交換は、当時の我が国とロシアとの関係をそのまま映し出す鏡でもあったのです。
なお、小笠原諸島については、16世紀末に我が国が発見し、江戸幕府が開拓しましたが長くは続かず、所属不明となっていました。その後、新政府によって新たに日本の領土であると主張すると、一度は占領したイギリスやアメリカが異議を唱えなかったので、政府は明治9年に小笠原諸島を内務省の管轄としました。
ところで、卒業式の際の定番の歌のひとつとして「螢の光」が有名ですね。現在では2番までしか歌われませんが、実は歌詞が4番まであるのをご存知でしょうか。
3番の歌詞は以下のとおりです。
筑紫の極み 陸(みち)の奥
海山遠く 隔つとも
その真心は 隔てなく
一つに尽くせ 国の為
筑紫は九州、陸の奥は陸奥(みちのく)、つまり東北のことですから、「我が国のどこにいようと国のために真心を尽くしなさい」と解釈できますね。3番が歌われなくなった理由としては、第二次世界大戦後に軍国主義を過剰なまでに排除する風潮が高まったことで、歌詞の「一つに尽くせ國の為」が敬遠されてしまったからのようです。歌詞全体をよく読めば、愛国心を持つとともに相手を思いやり、社会に貢献するという当然の内容だと思う。では4番の歌詞の内容はどうなっているのか。実は、前述した樺太・千島交換条約が深くかかわっているのです。
螢の光は明治14年に発表されましたが、当時の4番の歌詞は以下のとおりでした。
千島の奥も 沖縄も
八洲の内の 守りなり
至らん国に 勲(いさお)しく
努めよわが背(せ) 恙無(つつがな)く
八洲とは「多くの島」という意味で、島国である我が国の別称です。従って「その内」、すなわち我が国の領土には「千島の奥」も「沖縄」も含まれるという意味に解釈できますね。
「千島の奥」は千島列島すべてを意味しますから、明治8年に樺太・千島交換条約を結び、また明治12年に沖縄県を設置した後でつくられた歌詞であるということが分かります。ちなみに4番の歌詞は、我が国の領土が拡大するたびに変化していきました。
「千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり」(日清戦争後に台湾を領有)
「台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり」(日露戦争後に南樺太を領有)
その後、第二次世界大戦で我が国が敗戦した際に、樺太や台湾を手放しただけでなく、千島列島がソビエト連邦(ロシア)に不法占拠され、また沖縄が長い間アメリカの支配下に置かれたことで、「実情に合わない」からと歌われなくなってしまったようです。
しかし、沖縄が返還されてから早や40年以上が経過した現在、我が国固有の領土である北方領土の存在を絶えず意識するためにも、当初の歌詞である「千島の奥も、沖縄も」を堂々と歌い継ぐべきではないでしょうか。

 

条約改正への道のり
 明治政府にとって重大な課題は、旧幕府が欧米列強と結んだ安政の五ヵ国条約による「不平等条約の改正」であった。とりわけ領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復は悲願であった。明治初年の岩倉使節団による交交渉が失敗すると、外務卿(がいむきょう)の寺島宗則(むねのり)は、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復の両方を一度に解決するのは困難と判断し、政府の財源を確保することを優先し、明治9年に関税自主権の回復に向けての交渉を開始した。寺島宗則はアメリカとの間で関税自主権回復の同意を得たが、当時アジアに対して大きな利権を持っていたイギリスやドイツが反対したことで交渉は暗礁に乗り上げた。
 同時期にイギリスのハートレーが日本にアヘンを密輸入して捕まったが、イギリスの裁判で無罪になり(ハートレー事件)、また西日本を中心にコレラが流行した際、神戸に停泊していたドイツ船のヘスペリア号が、我が国からの検疫命令を無視して横浜入港を強行したことことから、関東地方でもコレラによる被害が拡大し、全国で10万人を超える多数の死者を出(ヘスペリア号事件)す事件が起きた。このことから寺島は外務卿を辞任し、条約改正に向けての交渉も失敗に終わった。このハートレー事件やヘスペリア号事件のような出来事を繰り返させないため政府は領事裁判権の撤廃を優先して交渉を続けることになる。
 寺島宗則の次に外務卿に就任し井上馨は、明治15年に東京に関係国を集めて予備会議を開いた後、明治19年から正式な条約改正に向けての会議を始めた。井上は条約改正を有利に進めるには欧米列強の制度や風俗、あるいは習慣や生活様式などを日本にも導入すべきとして、明治16年に洋風の鹿鳴館を東京・日比谷に建設し、国際的な社交場とした。鹿鳴館では連日のように舞踏会が行われ、我が国の要人も夫人に洋装させてダンスを踊り続けた。井上によるこれらの手法は欧化政策と呼ばれているが、条約改正のための思いと気概を感じさせ。この努力のせいもあり、明治20年には外国人が日本への自由な居住を認め、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を改正を列強が了承した。しかしこの領事裁判権の撤廃には条件があり、その条件に深くかかわった事件が起きたことから、井上は政府の内外で大きな非難を受けた。
 井上によるく条約改正案は領事裁判権の撤廃に二つの条件が付いてた。一つは我が国が欧米並みの憲法や民法などの諸法典を整備することであった。あいかし問題になったのは、日本で外国人を被告とする裁判では半数以上の外国人の判事(裁判官)を採用するという条件であった。これは領事裁判権が撤廃されても、過半数の外国人判事により外国人に有利な判決が出る可能性がたかかったのである。井上の改正案は政府内からも批判が多く、日本のフランス人顧問で法学者のボアソナードが反対したほか、農商務大臣の谷干城(たてき)が抗議して辞任した。
この改正案を知った国民は、井上の極端な欧化政策に反発していた民衆が、前年に起きていた「ある事件」に対する不満もあって激高し収拾がつかなくなった。
 それは明治19年10月、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で暴風雨のために沈没したが、この時にイギリス人の船長以下乗務員が全員脱出したものの、日本人乗船二十数名が全員が見殺しにされるという悲劇だった(ノルマントン号事件)。船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けたが、イギリス人の判事は無罪の判決を下した。日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を殺人罪で告訴して、横浜領事裁判所で再び裁判が行われたが、船長への判決は禁錮3ヵ月であり、被害者への賠償は一切行われなかった。日本の外国人に同じ外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判が行われることが不可能であることを思い知らされた国民から、領事裁判権の撤廃を求める声が日増しに高くなったが、その際に井上の改正案が発覚したため、国民の怒りが頂点に達してしまった。結局、井上の改正案は見送られ、条約改正の交渉は中止し、井上は責任を取って外務大臣を辞任した。この井上による条約改正交渉に失望した民権派によって三大事件建白運動がおき、自由民権運動は再び活発化した。また、同じ紀州沖でこれより4年後の明治23年に再び起きた不幸な遭難事故(エルトゥールル号事件)が、我が国とトルコとの厚い友情のきっかけとなった。
 井上馨の後を受けて外務大臣となったのは大隈重信でした。大隈は井上とは異なって、条約改正に好意的な国から個別に交渉を始め、明治22年にはアメリカ・イギリス・ロシアとの改正条約の調印を行いました。
しかし、条約改正案の内容がイギリスの新聞であるロンドン・タイムズにすっぱ抜かれると、井上と同じように政府の内外で強い反対論が起きました。
なぜなら、大隈の改正案には「大審院(最高裁判所)に限って外国人判事を任用する」と書かれていたからです。いくら大審院限定であっても、下級裁判所で外国人が判決を不服として上訴すれば、最後には大審院で裁かれることになり、井上案と同じ結果になるのは目に見えていました。
大隈の改正案を受け入れるかどうか、政府内で様々な議論が続けられましたが、そんな折の明治22年10月18日、大隈が閣議からの帰途で馬車に乗っていた際、政治団体の玄洋社(げんようしゃ)の来島恒喜(くるしまつねき)が、大隈めがけて爆弾を投げつけました。
爆弾によって大隈は右足を切断するという重傷を負うと、これを機に条約改正の交渉は再び中断し、大隈も外務大臣を辞職しました。なお、大隈を傷つけた来島は、爆弾の炸裂(さくれつ)と同時に自決しています。

条約改正という悲願に向けて、我が国が試行錯誤を繰り返す間に、世界の情勢が様変わりしていきました。
ロシアがシベリア鉄道を計画し、明治24年までに建設を始めると、ロシアの東アジアへの本格的な進出に対して、利害関係にあるイギリスが危機感を持ち始めました。
東アジアにおける権益を守るためには、日本が持つ軍事力を利用したほうが、自国に都合が良いと判断したイギリスは、それまで条約改正交渉において対立関係にあった我が国に対して好意的になり、またこの頃までに明治憲法その他の諸法典が我が国で相次いで成立したこともあって、条約改正に応じる態度を見せるようになりました。イギリスの軟化を受けて、外務大臣の青木周蔵が条約改正の交渉を進め、領事裁判権の撤廃を含めた我が国の改正案に、イギリスが同意するまでこぎつけました。
 ところが、そのような大事な時期に、我が国の今後を揺るがしかねない大事件が起きてしまったのです。
明治24年、シベリア鉄道の起工式に出席するためにウラジオストックへ向かっていたロシアの皇太子のニコライが、その中途で我が国を訪問すると、大国ロシアの皇太子の来日に対して政府は国を挙げて歓迎し、各地で記念式典が行われました。
 そんな折の5月11日、琵琶湖を観光したニコライを乗せた人力車に対して、滋賀の大津で警備を担当していた巡査の津田三蔵が、突然ニコライに襲いかかりました。これを大津事件といいます。ニコライは負傷したものの、生命に別条はありませんでしたが、大国ロシアの皇太子がよりによって警備中の巡査に襲われるという想定外の出来事に、国内は大パニックになりました。何しろ相手は大国ロシアであり、これを口実に攻めてこられれば、我が国は滅亡するしか道はありません。
 事の重大さに対し、明治天皇は直ちに列車で京都へ向かわれ、療養中のニコライをお見舞いされました。また、国民の中には「ロシアの皇太子様に申し訳ない」と京都府庁前で自害する女性まで現われました。政府首脳も当然のように大混乱となり、ロシアの機嫌を損ねないためにも、犯人の津田を死刑に処すべきであるという意見でほぼ一致しましたが、それはできない相談でした。なぜなら、津田の犯した罪は「謀殺未遂罪」であり、当時の最高刑は無期徒刑(無期懲役だったからです。
通常の刑罰では津田を死刑にできないことに気づいた政府は、裁判所に対して皇族に対する罪である大逆罪を類推適用するか、あるいは戒厳令や緊急勅令を出してでも死刑にするように強く迫りました。しかし、大逆罪はそもそも日本の皇族を想定してつくられており、同じ皇族といえども外国人にまで適用させるのは無理がありました。また、戒厳令のような非常の手段で死刑にしたとしても、「法に規定が存在しないのに無理やり死刑にした」ことに変わりはなく、近代的な法治国家をめざす我が国がとるべき手段ではありませんでした。加えて、いくら国際問題に発展しかねないからといえ、政府が裁判所に刑罰を強要するという行為は、司法権の独立を揺るがす大問題であり、近代国家として許されるものでないことは明らかでした。
結局、当時の大審院長(最高裁判所長官)であった児島惟謙は政府の要求をはねつけ、犯人の津田に刑法の規定どおり無期徒刑の判決を下しました。
大津事件の顛末は世界中に大きく報じられ、結果的に司法権の独立を守った我が国に対する国際的な信頼が大きく高まるとともに、我が国が欧米列強にも引けを取らない近代国家であるということを証明することになりました。
当事者のロシアも、判決当初は「いかなる事態になるか分からない」と不服であったものの、明治天皇をはじめとする我が国側からの迅速な謝罪があったことや、イギリスやアメリカなどが上記の理由で我が国を高く評価したこともあって、賠償請求などの報復を一切行いませんでした。
大津事件は我が国にとって滅亡の危機をもたらしかねない大事件でしたが、事後の処置を誤らまなかったことで、結果として我が国の国際的な地位を高めるとともに、その後の条約改正にも有利に働くことになったのです。
ただし、青木周蔵はロシアの在日公使に対して津田の死刑を密約しており、事件の責任を取って外務大臣を辞職したため、条約改正の交渉はまたしても延期となり、青木の後を継いだ榎本武揚も、具体的な交渉ができないまま外務大臣を辞任しています。
なお、司法権の独立を守った児島惟謙ですが、大津事件より前の明治19年に大阪で開校した関西法律学校(関西大学)の創設者の一人としても知られています。
明治25年に外務大臣に就任した陸奥宗光は、各国と個別交渉を行い、ドイツ駐在の公使となっていた元外相の青木周蔵にイギリス駐在公使を兼任させ、青木にイギリスとの交渉をさせました。
約1年かけたイギリスとの交渉が実って、明治27年7月16日に両国は日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃や、最恵国待遇の相互平等および関税自主権の一部回復などに成功しました。
イギリスとの成功を受けて、陸奥は他の欧米列強とも同様の内容の条約を結び、それらはすべて明治32(1899)年に同時に施行(しこう、法律などの効力を発生させることるされました。そして、最後まで残った関税自主権の完全回復も、先の条約が期限を迎えた明治44年に、当時の外務大臣の小村寿太郎によって達成されました。
かくして、我が国は安政の五ヵ国条約を結ばされてから半世紀以上もの時間をかけて、ようやく欧米列強から、条約上において対等な国家として承認を受けることができたのです。