戊辰戦争

幕府の滅亡と王政復古
 
戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは天皇政権と徳川政権との戦いで、王政復古をから明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らの新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦である。戊辰戦争の名称は明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

 新政府側の薩摩・長州の両藩はイギリスのトーマス・グラバー(グラバー商会)等から武器の援助を受け、公家の岩倉具視らと武力による討幕を目指していた。

 いっぽうの15代将軍徳川慶喜はフランス公使ロッシュの援助を受け、軍制をはじめとした幕政の改革に努めていた。

 朝廷は、慶応3年10月14日、薩長両藩に討幕の密勅を下し、薩長は武力による討幕のお墨付きを得た。薩長にすれば待ちに待ったお墨付きであったが、武力による討幕は、江戸をはじめとした全国各地が戦場となり、犠牲者も多数になることは容易に想像できた。たとえ新政権が樹立しても、大きな内乱となれば、外国の介入によって日本そのものの存亡さえ危うくなる可能性があった。

 武力による討幕は、徳川家の滅亡を意味し、徳川家を滅ぼすことに大きな抵抗を感じる藩が存在した。その中心となったのが土佐藩であった。公武合体派の土佐藩は、徳川の勢力を残したまま、武力に頼らずに新政権に移行することを模索し、討幕派の先手を打って「政権を朝廷に返還してはどうか」と将軍慶喜に提案していた。このままでは武力による討幕は避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した徳川慶喜はこの策を受けいれ、討幕の密勅の同日に大政奉還を朝廷に申し出た。

 

大政奉還と王政復古の大号令
 朝廷は大政奉還を受理し、徳川家康以来260年余り続いた江戸幕府は終焉を迎えることになった。幕府が「大政奉還」という形で政権を朝廷に返上したのは、慶喜が就任している「征夷大将軍」という地位が大きく関係している。そもそも幕府という言葉は、中国における「王に代わって指揮を取る将軍の出先の臨時基地」という意味があった。中国の皇帝は将軍に戦争をしやすいように、戦地における徴税権や徴兵権を将軍に与えていた。征夷大将軍も本来は東北地方の蝦夷を討伐するために設けられた臨時の職であったが、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と解釈され、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任じられ、軍事政権が朝廷から公認されることになった。
 朝廷から征夷大将軍に任じられた頼朝は、政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という形になった。この考えは室町幕府、江戸幕府も同じで、一度「預かった」ものは、いずれは返すことになる。朝廷から預かった大政(国政)を還し奉る、すなわち「大政奉還」という概念が成立し、武力討幕を実行しようとしていた薩長両藩に対する大きな牽制となった。
 大政奉還は土佐藩の坂本龍馬が考案し、後藤象二郎から前藩主の山内容堂を通じて、徳川慶喜に働きかけて実現した。幕府による大政奉還は、薩長らの討幕の密勅がその根拠を失い、徳川家が新政権の中心になり政治の実権を握り続ける可能性を秘めていた。

 討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上取り消された。既に大政奉還がなされ、幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝えた。

 大政奉還とは徳川慶喜が将軍の位を返上したことで、江戸幕府は名目上は滅んだが、朝廷(天皇)にとっても政権を返上されてもどうしていいかわからない。そのため大政奉還後の政治のは、徳川慶喜(および旧幕府)も含めた新しいしくみでおこなおうとする動きがあった。徳川慶喜は元将軍である上に最大の大名なので、徳川慶喜はその影響力を保持できるとしていた。

 しかしそれでは討幕の意味がなくなる。薩長両藩や公家の岩倉具視ら討幕派は、慶応3年12月9日に、武力を背景に朝廷内での政変を実行した。天皇中心の政治を宣言しただけでなく、徳川慶喜に辞官・納地(役職すべて返上し、領地も差し出すこと)を要求したのである。つまり「徳川慶喜を除いた新しい政府を作ろう」という宣言で、これを王政復古の大号令という。これによって天皇による新政府の樹立が宣言されることになる。新政府は江戸幕府のみならず摂政や関白も廃止し、新たに総裁・議定・参与の三職を創設した。
 総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)が就任し、議定には公家の中山忠能、前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)、土佐藩の後藤象二郎らが任命された。王政復古の大号令が発せられた慶応3年12月9日の夜、三職による小御所会議が明治天皇ご臨席のもとで開かれた。山内容堂らはこの会議に前将軍の徳川慶喜が出席していないことを抗議したが、岩倉具視らが受けいれず話し合いは紛糾して休憩に入った。
 休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷隆盛に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えた。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開けると岩倉具視を勇気づけた。西郷のこの発言が山内容堂の耳に届くと、土佐藩に傷をつけてまで幕府に肩入れすることはない、と判断した山内はその後沈黙し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議が進んだ。結局、徳川慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地の一部返上で決着した。
 徳川慶喜は会議後、配下の暴発を抑えるため二条城の京都から大坂城に引きあげた。当初は新政府との表立っての衝突を避けようとしていた。しかし会議の決定を不服とした旧幕府兵が、江戸の薩摩藩の屋敷を焼き討ちにする事件が発生し、慶喜も最終的に新政府軍と武力で戦うことを決断した。これが戊辰戦争の始まりである。

 

鳥羽・伏見の戦い 

 戊辰戦争とは新政府軍と旧幕府軍の16ヶ月に渡る戦争のことで、鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端である。この頃には幕府は返上しているので、倒幕という概念はないはずであった。慶喜は大政奉還で徳川家や臣下たちを守ろうとしたが、大名制は廃止されていなかったので、幕府がなくなっても慶喜は800万石と大きな勢力の大名であった。
 しかし小御所会議で慶喜の減給が決定されたのを不服とした旧幕府軍が武装蜂起したのである。徳川の力がまだ強く、これを薩摩藩と長州藩が潰そうとしたのである。この鳥羽・伏見の戦いにより倒幕軍の優勢が決定的なものになった。

 明治元年1月3日、旧幕府軍は、薩長を中心とする新政府軍と京都の鳥羽・伏見で激突した。兵力は旧幕府軍が15,000名に対して新政府軍は5,000名で、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいた。しかし蓋を開けてみれば、新政府軍の勝利に終わった。
 新政府軍が勝利したのは、旧幕府軍と比べて最新鋭の鉄砲などの火器が充実していたからである。戦いは兵力の数ではなく、いかに優れた火器を使用できるかという点に変わっていた。さらに新政府軍には明治天皇から下賜された錦の御旗があった。戦場に錦の御旗が掲げられたということは、新政府軍が官軍となり、旧幕府軍が賊軍、つまり朝敵を意味していた。
 前将軍徳川慶喜はこの厳然たる事実をすぐに感じ取った。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が錦の御旗を掲げた新政府軍に敗れたことを知った徳川慶喜は、大坂城から深夜に脱出し、海路で江戸へ向かった。主を失った旧幕府軍は、大坂を放棄して総崩れとなった。
 戦いに勝利した新政府軍は、慶喜を正式に朝敵とみなし征討軍を江戸へと向かわせた。この中には赤報隊を結成し、年貢を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたが、新政府から偽官軍として相楽総三が処刑された。
 江戸城に戻った徳川慶喜は、幕臣の小栗忠順の徹底抗戦を退け、フランス公使のロッシュの援助も断り、江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示した。しかし鳥羽・伏見の戦いで敗れたとはいえ、旧幕府を支持する兵力はまだ多く、今後の展開次第では軍事的勝利も考えられたが、慶喜は朝廷に対してつつしんで従う態度をとり続けた。
 その背景には、慶喜に隠された「血の秘密」があった。徳川慶喜は御三卿の一橋家の当主であったが、元々は御三家の水戸藩から養子に入っていた。水戸藩では水戸学が発達し、これは江戸幕府が「主君に忠誠を誓う」という内容から、公式の学問として採用した朱子学の流れが基本となっていた。ところが幕末の頃の水戸学は、「主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室である」とし、また欧米列強からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする尊王攘夷の考えが中心となっていた。
 徳川慶喜も水戸学を学んでいて、徳川家の将軍でありながら、皇室を尊敬する学問を幼い頃から身に付けていた。そのため自らが朝敵となることが、たとえ将軍という武家の棟梁の地位を投げ出してでも認められないことだった。
 こうした慶喜の姿勢が「弱腰」と見なされることが多いが、逆から見れば慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされず、欧米列強の介入を招くこともなく、また江戸の町を戦火にさらすことを防ぐこともできた。

江戸の開城
 鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、朝敵と定めた徳川慶喜への征討軍を編成して江戸へ向かったが、征討軍が駿府(静岡)にまでくると、旧幕臣の陸軍総裁であった勝海舟は、早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉を委任された。
 江戸を動くことが出来ない勝海舟は、山岡鉄舟を使者として駿府へ向かわせ、明治元年3月9日に官軍参謀の西郷隆盛と会見させた。山岡鉄舟は勝海舟の手紙を西郷隆盛へ渡し、朝廷に取り計らうよう依頼するが、西郷隆盛は山岡鉄舟に複数の条件を突き付けました。
 西郷隆盛の条件は、江戸城の引き渡し、旧幕府軍の武装解除などり、山岡鉄舟はそれらの要求を大筋で受けいれたが、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けることは拒否した。勝海舟と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪になることだけは絶対に受けいれられなかった。
 山岡鉄舟が「慶喜の備前藩お預け」を拒否すると、西郷隆盛は「これは朝命(天皇の命令)である」と一歩も引かず、平行線をのまま決裂かと思われたその時、山岡鉄舟が決死の思いで西郷に迫った。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津の殿様を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか」
 山岡鉄舟の気迫のこもった意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まった。やがて山岡鉄舟の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着した。山岡鉄舟は翌3月10日に江戸に戻って勝海舟に結果を報告すると、西郷隆盛も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入った。征討軍の江戸城進撃の予定日15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われた。
 西郷隆盛と勝海舟の話し合いは、明治元年3月13日から14日にかけて、江戸の薩摩藩屋敷で行われた。その結果、旧幕府は江戸城を無傷で明け渡し、徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎するという極めて平和的な内容で決着し、翌15日に行う予定であった江戸城への攻撃を中止した。
その後、4月に江戸城は無血開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避したほか、人口が100万人を超えた、世界最大規模の都市である江戸の住民を、戦火に巻き込まずに済んだ。もし江戸が焼け野原となり指揮系統が寸断されれば、欧米列強の軍事的介入を招きやすくなった。ま江戸の都市機能がそのまま残ったことにより、新政府による首都移転がスムーズに行われた。
 江戸城の無血開城の立役者は、西郷隆盛や勝海舟と言われているが、その西郷隆盛と命がけで交渉を行った山岡鉄舟の功績も見逃すことはできない。西郷は山岡に対し、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ者は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられない」、と賛辞している。江戸城の無血開城によって、大規模な戦乱は回避されましたが、戦わずして降伏することを嫌った旧幕臣を中心とする抗戦派は、各地で戦闘を続けました。
このうち、江戸の上野では彰義隊が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎が明治元年5月15日に総攻撃を加えました。これを上野戦争といいます。
 戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前佐賀藩の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで、戦いは1日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に、最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
 なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で、慶應義塾を開いていた福沢諭吉は、遠くから聞こえてくる戦争の轟音が響くなかでも、平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。

会津若松
 上野戦争の勝利によって江戸を支配下に置いた新政府軍は、戦いの矛先を奥羽越列藩同盟を結成していた東北諸藩に向けました。特に会津藩に対しては執拗に攻めました。会津藩の藩主は松平容保で義に熱く徳川のため自分の家臣のためにたたかいに望み、その会津を見捨てないため東北を中心に反新政府同盟がむすばれたのである。それが奥羽越列藩同盟であった。

 しかし会津藩主の松平容保は京都守護職として討幕派と何度も衝突していて、長州藩は会津藩が預かっていた新選組による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていたため、その恨みは深いものがあった。
 会津藩は会津若松城(鶴ヶ城)に籠城して抵抗を続けましたが、肥前佐賀藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元年9月22日に降伏した(会津戦争)。会津戦争では16~17歳の男子で編成された白虎隊などの悲劇のが多く残されています。

 余談ですが1986年に長州藩萩市が会津若松市に対して戊辰戦争時のことを「120年も経過したので水に流そう」といったが、会津側は「まだ120年しか経っていない」として拒絶している。
 なお旧幕府軍の残存兵力は仙台から蝦夷地(北海道)の箱館(函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになる。榎本武揚らの旧幕府海軍は、会津戦争が続いていた明治元年8月に江戸を脱出し、仙台で新選組の土方歳三ら旧幕府軍の残存兵を収容した後に蝦夷地へと向かうと、年末までに蝦夷地を平定して、箱館の五稜郭を拠点とする蝦夷共和国を樹立しました。しかし新政府は蝦夷共和国を認めず、雪解けを待って翌明治2年に攻め込んだ(箱館戦争)。榎本らは陸海それぞれで戦たが敗れ、同年5月に土方は戦死し、榎本は新政府軍に降伏しました。こうして鳥羽・伏見の戦いから約1年半にわたって続けられた戦いは、新政府による国内統一というかたちで終止符を打った。これらの戦いを総称して戊辰戦争という。箱館戦争で降伏した榎本は、投獄されたが命は助けられ、出獄後に新政府に登用されてその後長く活躍した。
 明治天皇は幕末から戊辰戦争の終結までに、多くの尊い生命が犠牲となったことに心を痛められ、その御霊を慰めるため、明治2年6月に東京招魂社を創建されました。東京招魂社はその後明治12年に靖国神社と改称され、国難に際して祖国に殉じた尊い英霊をお祀りする神社として現在に至っている。