吉田松陰

吉田松陰
 吉田松陰は幕末の長州藩で活躍した思想家、教育者、兵学者である。幕末の動乱期に松陰の松下村塾は2年間で多くの長州藩の若者たちと関わり、多数の門下生を輩出した。明治維新の事実上の精神的理論者であり明治維新の震源地といえる。

 松蔭はアヘン戦争を知り「日本が西洋に侵略される」危機感を持っていた。1854年に浦賀に来航したペリーに対し、海外事情を知ることが大切として、アメリカへの渡航を計画する。しかし失敗に終わり、渡航しようとしたことから罪人になり、さらに幕閣拉致の計画を告白したため処刑されてしまう。松蔭は実際に活動したわけではないが、死後に塾生だった久坂玄瑞、高杉晋作は討幕運動を大きく推し進め、伊藤博文は明治憲法など近代国家を確立し、山県有朋は陸軍の礎を築いた。他にも、数多くの弟子たちが、明治維新の立役者となった。わずか数年間で明治維新の中核となる人材を輩出し、維新の志士活動のシンボルとなった。

長州藩
 長州藩は現在の山口県のを領有していた外様大名・毛利氏の藩である。毛利氏は戦国時代に毛利元就が興した大名家で、最盛期には中国地方の大半を支配するほどの大勢力となっていた。しかし「関ヶ原の戦い」で、西軍の総大将となり敗れたことから、戦後に徳川家康によって120万石から30万石へと大幅に領地を削減され、中国地方の端に押し込められた。毛利氏は領地を削減されたが、家臣を減らさず家臣を大勢抱えた。この時に帰農した者がいたが、そのせいか長州藩は武士と農民の身分を越えて結束が強かった。

誕生

 1830年8月、吉田松陰は長州藩の下級武士・杉百合之助の次男として萩の松本村に生まれた。生家は長州萩城下町(山口県萩市)を一望できる通称・団子岩にある一軒屋で、父の家禄は26石の貧しい生活であった。武士といっても農業を兼業しなければ生活が立たない境遇にあった。

 吉田松陰の幼名は杉虎之助で、松陰には兄と弟、四人の妹がいて、父は農作業に幼い兄と次男の松陰を連れていき、農作業をしながら武士としての心得や尊王の精神を教えた。
 貧しい武士の家に生まれたが、読書や学問に熱心な家柄であったため、優れた頭脳の持ち主が多く、上の武家の養子となって家督を継ぐことができた。この時代では階層の低い武士の子は、学問を身につけることで身分の上昇を図ることができ、杉家でも学問に熱心に取り組むでいた。

 叔父の吉田大助は、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)で兵学教育にあたていった。山鹿流軍学師範は世襲制であったが、吉田大助に息子がなかったため、松陰は4才の時に吉田家へ養子に出される。

 吉田大助は山鹿流という兵学の師範であり、松蔭は彼の養子になった時点で山鹿流を修め、長州藩の人々にそれを教授する立場につくことになった。しかし松蔭が吉田家の養子になってから1年後、松蔭5才の時に養父が亡くなる。

 このため松蔭はもうひとりの叔父である玉木文之進から教育を受けることになる。文之進は厳しい教育を松蔭にほどこして、時には体罰を加えることもあった。文之進は徹底して「私欲にとらわれず、公のために尽くすこと」が武士の道と叩き込み、それを素直に吸収した松蔭は剛直な性格の若者として育っていった。

 この玉木文之進がいた村落では、近所の子弟の教育のために玉木文之進が「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を開いていた。叔父の玉木文之進は自宅に松下村塾を開いていたが、松蔭は後にこの塾の号をもらい、自身も藩の若者たちに「松下村塾」で教育に携わることになる。

 吉田松陰は6歳にして吉田家の家督を継ぎ、わずか9歳で明倫館の兵学師範に就任し、11歳のときには長州藩主・毛利敬親の前で講義(親試)するほどになった。松陰は藩主を前に山鹿流「武教全書」戦法篇を朗々と講じ、その講義は藩主や重臣たちが目を見張るほどの秀才ぶりだった。その日から「松本村に天才あり」と、松陰の名は萩城下に知れ渡った。
 松陰は19歳で、玉木文之進らの後見人を離れ、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任。21歳の時、見聞を広めるために藩に九州遊学を申し出て10ヶ月の遊学が許可された。
 九州遊学で平戸、長崎、熊本と旅を続け、山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵などの人物に会い見識を深めていった。中でも熊本藩の名士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)とは国の防衛などについて意気投合した。宮部鼎蔵は松陰より10歳以上年上であったが、生涯の親友となった。宮部鼎蔵とは後の江戸遊学時に再会、東北旅行にも同行した。宮部鼎蔵は松陰の死後、勤皇の大物志士として京都で活躍したが、池田屋事件で新撰組に急襲され自刃している。

佐久間象山
 松蔭は長州藩で兵学の大家として成長してゆくが、アヘン戦争でアジアの最強国家の清がイギリスに大敗したことから、松蔭は旧来の東洋兵学では通用しない時代になったことを痛感する。長州藩の軍事顧問として松蔭は新たに西洋兵学を学ぶため、藩の外に出て活動するようになる。1851年3月、参勤交代に同行して江戸に遊学し、そこで洋学の第一人者であった佐久間象山の塾に入門する。
 松蔭も象山も清の思想家・魏源の記した「海国図志」という書物を読んでおり、海外の地誌を知るとともに「西洋を師として技術を学び、西洋に対抗する手段を得る」という、明治期において日本が実践した思想に触れる機会を得ている。
 佐久間象山から賞賛される松蔭は師の佐久間象山から「小林虎三郎と並び弟子たちの中で最も優れている」と評された。そしてその胆力を賞賛され、必ずや大きなことを成し遂げるだろう、と励まされている。しかし同時に象山は「自分の子どもを預けるのであれば小林虎三郎の方だ」とも述べており、松蔭の持つ危うさにも気がついていたようである。事実、松蔭と接した若者たちは、その多くが20代のうちに命を散らしている。
 松蔭に悪意はないが、結果として多くの血を長州藩の若者たちに流させることになり、後に長州藩そのものもを危うく滅亡寸前にまで追い込むほどの、激烈な影響を及ぼすことになる。

 同年12月には、九州で知り合った友人の宮部鼎蔵らと「水戸学」や「海防」などの兵学者としての見聞を広めるために東北の旅を計画するが、長州藩からの関所通過書(通行手形)が届かなかった。そのため「友との約束は破れない」として松陰は当時重罪覚悟の脱藩を実行する。脱藩した松陰は宮部鼎蔵らと水戸(茨城)、会津(福島)、弘前(青森)などを訪れ視察。江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還される。

 松陰は藩に正式な手続きを取らないで、日本各地を歩き回ったため、その罪に問われて牢に入れられた。脱藩とは藩士をやめることで、無断で脱藩をすることは大罪にあたり、所属していた藩に捕縛され死刑になることもあった。確実に先祖代々受け継がれてきた家禄は没収され、藩士としての身分を失うことになる。友人との旅行のために脱藩をするというのは異常な判断であり、ここに松蔭という人の奇妙さが現れている。松蔭からすれば、東北旅行は自らの兵学者としての能力を高めるための大事な活動であり、これを断固実行することは公に尽くすことになるのだから脱藩しても構わない、という心情だったのかもしれない。しかし現実の法の手続きでは松蔭は罪人になってしまうわけであり、江戸に帰還した後、士籍も家禄も失ってしまうことになる。長州藩は若者の跳ね返った行動に寛容だったので死刑にはならなかったが、松蔭はこうして長州藩士の士籍を失ってしまう。藩士の身分や家禄にこだわることは私欲であり、省みる必要がないと松蔭は考えていたのだと思われる。長州に戻ると松蔭は士分で罪を犯したものが収監される野山獄(のやまのごく)に入れられる。
松下村塾を開く
 出獄した松蔭は一切他国を出歩いてはならないと禁足処分になったまま、1857年に杉家の敷地内に松下村塾を開く。脱藩の罪により藩士の身分を失い、父・百合之助の保護下におかれたが、そのような制約を受けても門人に教えることは許された。

 松下村塾は自分が幼いころに学んだ叔父の塾の名をもらい受けたものであった。松蔭は師匠になっても偉ぶることはなく、若者たちを同格の存在として扱ったため、自然とその人柄を慕って多くの若者たちが顔を出すようになってきた。松蔭は若者たちひとりひとりの人柄や能力を観察し、それぞれに必ずほめるべき点を見つけ、それを伝えている。この時に松蔭の弟子となったのは、久坂玄瑞(くさか げんすい)、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、伊藤博文、山県有朋らで。
その多くは幕末の動乱の渦中で命を落としますが、生き残った者たちは明治政府の元勲となって位人臣を極め、松蔭を顕彰し、やがてはその名を日本中に知らしめることになります。

 松下塾は8畳10畳の二間しかない狭い塾であったが、ここから高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、井上馨、山県有朋、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、山尾庸三、赤根武人など、錚々たる人材が育っていった。また驚くのは松陰がこの塾で若者たちを教えた期間がわずか2年にも満たないことだ。これほど短い期間に、あれだけ多くの英才たちを輩出したのだ。まさに奇跡といってよい。

 松陰は死学ではなく、生きた学問を教え、「人を育てつつ、自分を育てる」ということを実行。そして、彼には私利私欲というものが全くなく、「人間は生まれた以上必ず死ぬ。だからこそ生きている間、国のため、人のためになるような生き方をしなければならない」と考えていた。弟子たちは松陰のそういうところに心を打たれ、敬慕の念を募らせたのだろう。松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。そして2度目の江戸遊学で佐久間象山に師事する。

密航計画
 脱藩した翌年の江戸での遊学中の1853年、アメリカ海軍の提督・ペリーが率いる蒸気船団が浦賀沖に来航し徳川幕府に開国を迫りました。松蔭は佐久間象山とともに浦賀に赴き、蒸気船の生の姿を、つまりは西洋文明の力をまざまざと見せつけられ、これに衝撃を受ける。そして幕府はペリーの横暴なふるまいを咎めることができず、いよいよ清と同じく日本もまた西洋諸国の脅威にさらされる時代となった。象山はこの時に幕閣に向けて「西洋事情を詳しく調査するべきだ」という意見書を送っており、松蔭も同じことを話していた。このことが思い立ったら行動せずにはいられない松蔭の、激しい活動を引き起こすことになる。
 ペリーが去ってから1ヶ月に、長崎にはロシアのプチャーチンの艦隊4隻が日本との外交交渉のために寄港しており、吉田松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かったが、しかしロシアとオスマン帝国の間でクリミア戦争が発生したことから、着いたときにはプチャーチン艦隊は出航した後だった。松陰は再び江戸にもどったが、密航をあきらめなかった。
 1854年1月ペリーが開国交渉のために再び来航する際、松蔭は金子重之助とともに江戸に戻っていて、松陰は攘夷を唱えるより西洋の先進文化を知るため密航を再度計画した。松陰は弟子の長州藩足軽・金子重之助とともに密航を企てた。松陰と師弟関係を結んだのは、この金子重之助が最初になる。
 吉田松陰と金子重輔はペリーの船に乗り込もうと手を尽くしたがことごとく失敗。最後には下田に移動した松蔭と重之助は海岸につながれていた小舟を盗み、ペリー艦隊の旗艦・ポーハタン号に漕ぎ寄せ、船上に引き上げてもらう。旗艦ポーハタン号上で主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は松陰たちの必死の頼みにも渡航を許可しなかった。松陰の密航計画はまたしても失敗した。その際、松陰たちがペリーに手渡した「日本国江戸府書生・瓜中萬二(松陰の偽名)、市木公太(金子重輔の偽名)、呈書貴大臣各将官執事」との書き出しから始まり、「外国に行くことは禁じられているが、私たちは世界を見たい。密航が知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」と訴えてる意の手紙が米国で発見されている。

 ペリーは陸に戻れば犯罪者になってしまう松蔭に同情したが、日本の国法破りを黙認すれば、外交交渉が破綻する可能性があるために受け入れるわけにいかず、このために松蔭の頼みを断った。松蔭の計画はいかにも性急すぎ、この時点では無理があった。

 松蔭たちはやむなく小舟で元の場所に戻ろうとするが、この際に難破してしまい、ほうほうの体で海岸に戻った。この難破の影響で重之助が病気になり、進退が窮まった松蔭は下田奉行所に自首し獄につながれ、師の象山も連帯責任を問われる。
 自首をした松蔭と金子重之助は、江戸にある伝馬町牢屋敷に投獄された。師匠の佐久間象山も松蔭に渡航を示唆したという罪に問われ捕縛され牢屋敷に入獄している。
 松蔭が純粋な意志で行ったことは、弟子と師匠に不幸をもたらした。この時、幕府では松蔭と象山を死刑にすべきとの意見も出たが、開国派で老中首座の阿部正弘らが反対しにそれぞれ国許で蟄居(家屋敷に押し込められる刑罰)にさせられた。松蔭は長州の獄に入れられ、象山は故郷の松代に戻り自分の屋敷に押し込められた。象山は公のために自分の思うがままに行動した松蔭に対して恨み言を述べたことはなかった。

投獄
 松陰と金子は江戸伝馬町の牢屋から萩に送還され、松陰は野山獄に入れられ、金子は身分の低い足軽の出身であったので岩倉獄へと投獄される。松陰が下田から江戸に護送される途中、高輪の泉岳寺の前で「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」と詠んだ。泉岳寺は忠臣蔵の四十七士の墓の前である。松陰は四十七士の気持ちと重ね合わせて詠んだのだろう。

 元々が士分であった松蔭に比べると獄吏からの扱いが悪く、このために体調を回復させることができなかったようです。現在では松蔭の銅像の側に、彼を見上げる重之助の像が作られています。松蔭は重之助の死を悼みつつも、生来の前向きな気持を失わず、他の囚人たちと交流を持ち、互いに得意なことを教え合おうと呼びかけました。松蔭は教えたり学んだりすることが、心から好きな人物であったのでしょう。

 その後、身分の低かった子重輔は劣悪な環境の岩倉獄で体調を回復させることができず、25歳で病死した。松陰は金子の死を深く嘆き悲しんだ。現在では松蔭の銅像の側に、彼を見上げる重之助の像が立てられている。

 野山獄に投獄された松陰は読書に没頭し、囚人達を相手に「孟子」の講義を始めた。野山獄の投獄された囚人は死刑あるいは無期懲役で出獄できるものはごくわずかであった。出獄できない囚人たちは何を今更学問の必要があるかと思い込んでいた。しかし松陰は勉学に励み囚人たちに講義を始めたのである。講義は松陰自らが世界の情勢を教え、日本の国力の充実や国防問題にまで及んだ。その講義は素晴らしく囚人たちは正座して学ぶようになった。囚人は次第に増え、牢の外から番人までも講義を聴くようになった。松陰の明確な講義は有名になり、自己の立場を明確にした主体性のある孟子解釈は松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられた。
 この時に松蔭は富永有隣という儒学者と親しくなり、後に松下村塾において講師を頼んでいる。この富永有隣は偏屈な人物で、頭脳は優秀であったが同僚たちと折り合いがつけられず、このために牢に入れられていた。松蔭は相手が変わり者であってもうまく付き合うことができる懐の深さを持っていたのである。そのようにして過ごすうちにやがて出獄が許され実家の杉家で蟄居することになる。吉田松陰の教えの原点は、牢獄の中にあったと言える。


松下村塾主宰
 松陰教育の原点となった野山獄に投獄されてから1年2か月が経ち、恩赦で野山獄から出獄すると実家の杉家で「幽囚」の自宅謹慎の身となった。
 松陰は自宅に設けられた幽囚室で、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開した。幽囚室での「孟子」講義は、単なる解説ではなく、松陰独自の解釈で高い評判となり、次第に萩城下から青年が集まるようになった。
 吉田松陰の叔父・玉木文之進が開いた松下村塾は、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいたが、松陰の幽囚室での講義を久保五郎左衛門が聴くようになると自然に松陰が塾の主となった。
 当初は3畳という僅かな幽囚室で講義を行なっていたが、受講者が増えると杉家の納屋を塾舎に改修し、ここに世に有名な松下村塾が誕生した。その後、松下村塾の存在は萩城下だけでなく長州藩からも才能ある若者達が集るようになった。松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。
 松陰が松下村塾で塾生たちの指導した期間はわずか2年余りに過ぎなかった。しかしその短い期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、また教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を考えていった。講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれ心身両面の鍛錬に重点が置かれた。
 松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」「人としていかに生きるか」であった。また「学問だけの学者になってはいけない。 学問は実行しなければならない」とも言い、学んだことを活かして実行に移す大切さを強く説いた。松陰は脱藩や密航を試みたが、自ら実行に実行を重ねたからこそ、若者の心は強く揺さぶられ惹き付けられのである。
 松陰の教育を受けた門下生達は、後に京都で志士として活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たすことになる。門下生には初代総理大臣伊藤博文、山県有朋、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など枚挙に暇がない。

久坂玄瑞と妹を結婚させる
 松蔭は、弟子たちの中で、特に久坂玄瑞と高杉晋作の2人を高く評価していた。玄瑞に対しては妹の文と結婚してくれと頼み、玄瑞は松蔭の義弟になる。玄瑞は松蔭に師事する前に、手紙のやり取りをして時勢に関する議論を行ったが、この時に松蔭は玄瑞がただ者でないと認め、なんとか大成させたいと思うようになった。松蔭の期待通り、玄瑞は後に長州の尊王攘夷派を代表する存在になり、藩論を主導する立場になった。また松蔭の存在を広め、松蔭が崇拝されるための役割を果たしている。

 

間部要撃策
 松蔭は教育者としての活動を始めるが、平穏な日々は長くは続かなかった。1858年になると、徳川幕府は朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約を締結する。これは日本とアメリカの間で交易を開始し、横浜や大阪、兵庫などを開港し、外国人の日本への居住を許可するという内容の条約であった。不平等な関税に関する取り決めがなされ、このあと数十年に渡って日本が苦しむことになるこれほどの重大かつ日本に不利な条約を、朝廷の許可なく締結した幕府に対し尊王思想を抱く松蔭は激怒する。そこで松蔭は「間部要撃策」を計画し実行に移そうとした。

 幕閣の間部詮房(まなべ あきふさ)が孝明天皇に対し、無断で条約を結んだことを弁明するために京を訪れるという話が持ち上がっていた。これを襲撃して間部を捕縛し、条約の破棄と攘夷の実行を迫るというのが松蔭の計画であった。この策を実施するため藩に対して大砲を借してくれるようにと頼むが、当時の長州藩は幕府への反抗が認められるような情勢ではなく拒絶される。この頃から松蔭の行動はますます過激なものになってゆく。同時期に水戸藩や薩摩藩なども幕府の専横を非難する動きを見せており、日本全体で見れば、決して孤立した動きではありませんでした。

 

再び野山獄に入れられる
 この時に長州藩を主導していたのは重臣の周布政之助(すふ まさのすけ)であったが、松蔭の計画を知って驚愕しそれを食い止めるため、再び松蔭を野山獄に入獄さる。これを受けて松蔭の弟子の前原一誠や品川弥二郎たちが政之助の屋敷に押しかけて抗議するが、長州藩は彼らを謹慎処分にすることで騒動を鎮めようとした。
 しかし松蔭はこれに屈せず、今度は攘夷派の公家・大原重徳(しげとみ)を長州に迎え、倒幕の兵を挙げる計画を立てるが、松下村塾の協力者であった小田村伊之助に諌められ頓挫する。この策謀は当時江戸に滞在していた久坂玄瑞や高杉晋作といった愛弟子たちからも反対され松蔭は孤立してゆく。
 この時に松蔭は「私は朝廷への忠義のために行動するが、諸君らは自分の功績のためにしか行動しないのだろう」と手紙で強く批判している。玄瑞や晋作からすれば、松蔭の行動は過激すぎ、とても成功するとは思えなかったのだろう。当時はまだ幕府の権威は国内で衰えておらず、一諸侯に過ぎない長州藩の実力で、幕府に対抗できるとは考えていなかった。松蔭は事の成否は問題ではなく間違ったことが行われているのであれば、これを正すべく行動しなければならない、という一途な思いにかられていたのである。こうして松蔭と弟子たちの間には亀裂が入りその関係は悪化した。

 

伏見要駕策計画
 松蔭は周囲からの強い反発にも屈せず、新たな計画を立てます。今度は長州藩主の毛利敬親が参勤交代のために京に立ち寄った際にその駕籠を止め、大原重徳に敬親を説得してもらい、ともに天皇に面会して幕府の非を訴えさせる、というのがその計画の内容でした。松蔭は獄につながれているため、代理の者に京に行ってもらおうとしますが、この頃には松蔭の協力者はほとんどいなくなっていました。それでも野村和作という足軽の若者が松蔭に協力を申し出て、京に向かって計画を実行しようとしました。しかし大原重徳は松蔭の策に賛同せず、これも失敗に終わっています。和作は長州に戻ると自首をして岩倉獄に入れられてしまい松蔭には打つ手がなくなった。

 

死の覚悟
 獄中の松蔭は和作と手紙のやり取りをし「金子重之助を失って以来、得られなかった同志を得られたことがうれしい」と告げてる。松蔭にとっての同志とは、命をかけてやるべきことにすべてを賭けられる存在のことであり、久坂玄瑞や高杉晋作ですらもこの時には同志とは認めていなかった。和作とのやり取りのなかで、松蔭は長州藩は尊王攘夷を掲げておきながらも実際には何も行動していないと批判します。
 そして自分が志を貫き天皇のために死ねば、長州藩の信用も少しは回復するだろうと述べている。松蔭は今では死を望んでいると語り、このまま生きながらえても志を実現できる見込みはないが、死んでみせれば誰かが日本のために立ち上がってくれるかもしれない。それが私が死ななければならない理由であると、和作への手紙の中で告げている。
 長州藩も弟子たちもみな尊王攘夷を口先で唱えるだけで、本気で実行しようという意志は持っていないようだ、ならば自分が死ぬことでそのさきがけにならなければならないと、松蔭はそう決意を固めていた。いわば殉教者になる覚悟を抱いていた。


草莽崛起論(そうもうくっきろん)
 松蔭はもはや幕府にも諸藩にも日本を統治していく資格はなく、草莽(脱藩浪士や民間人)の中から志を持った者が立ち上がり行動を起こすほかない、という「草莽崛起論」と呼ばれる主張をしている。これは金子重之助や野村和作といった命を惜しまない行動を見せた若者たちが、いずれも既得権益に縛られない、低い身分の出身者であったことが影響しているのであろう。この思想は脱藩浪士として自在に活躍した、坂本龍馬らにも影響を与えた。また後に長州藩が設置する、武士階級以外の者たちで編成した「奇兵隊」の創設にも影響を及ぼしている。
 この時に松蔭の中から日本で初めて、幕府も藩ももはや不要であり、志のある者であれば、誰でも参加できる新しい政体を創設しなければならないという、革命思想を誕生させている。この認識に至ったのは、松蔭が欲も得もなく正しさに向かってまっすぐに進める人格の持ち主であったからで、だからこそこの時の日本の政体が抱えている矛盾と、幕藩体制がもはや時代に適さない政体であることがいち早く認識できたのである。

 

安政の大獄
 松陰は門下生たちに行動を説く一方で自ら行動した。幕府の老中・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まるのを聞をきくと松陰は激怒し、間部詮勝の暗殺計画を実行しようとした。塾生に声をかけ要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出て藩を驚かせた。

 この行動は藩にとって危険人物として松下村塾の閉鎖が命じられ、松下村塾は閉鎖に追い込まれ、松陰は再度、野山獄に投獄された。その後、ついに幕府から松陰を江戸に送るようにとの命令が届いた。
 松蔭の活動は実らなかったものの、この頃には薩摩藩と水戸藩が手を結び、朝廷に働きかけて「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれる朝廷からの命令を受け取っていた。これは幕府に日米修好通商条約を締結したことへの弁明を要求し、攘夷遂行のための改革の断行を促すものでした。これが水戸藩に下され、諸国の大名たちに回覧させるようにと命じられたが、水戸藩は本来将軍の家来でしかなく、朝廷から勅命を受け取る立場でなかった。さらにこれに関わった者たちの中には、幕府を主導する大老・井伊直弼の暗殺を企んだ者たちも含まれていた。このため、弼は「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を実行するに至った。朝廷から密勅を得るための工作を行っていた志士の中に、梅田雲浜(うんびん)という人物がいたが、彼はこの時に直弼の命令によって逮捕され、倒幕を企んだという罪を追求さる。そして拷問を受けるが、頑として口を割らなかったため、関係者を江戸に呼び寄せて尋問を行うことになった。松蔭は梅田雲浜が長州に遊説をしに来た時に会ったことがあり、このため松蔭も召喚の対象になった。


江戸への護送
 松蔭が江戸に召喚されたという話が伝わり、それまで距離を置いていた弟子たちが松蔭の元に集い別れを惜んだ。松蔭は幕府に反抗する策をいくつも考えており、それが幕府の知るところとなり詮議を受けて処罰されるのではないかと心配された。

 この時に松蔭の監視係が便宜を図ってくれ、一日だけ実家に戻って親や兄弟たちと一緒の時間を過ごすことができた。その翌日、松蔭は家族や弟子たちに別れを告げると江戸に護送され、評定所で尋問を受けることになる。

 1859年5月25日早朝、吉田松陰は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かった。松陰が江戸に送られたのは、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(小浜藩士で尊皇攘夷の志士。安政の大獄で逮捕)が、萩で松陰に会った事を話したためだった。
 江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜と話した内容と、京の御所に文書を置いたかという2点のみであった。しかし吉田松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会と捉え、幕府が勅許なく日米修好通商条約を行ったことを激しく非難し、老中・間部詮勝の暗殺を企てたことを告白してしまう。
 人間を絶対的に信用し必ず自分の思いは届くはずと考えた松陰ゆえの告白であったが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕し、この時に松陰の命運が決まった。
 評定所の役人の態度から死を覚悟した松陰は、家族への「永訣の書」と門下生達に向けた「留魂録」を伝馬町牢獄で記した。留魂録は門下生達によって複写され、志士たちのバイブルとなった。1859年10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。吉田松陰、30歳であった。
 死に際しても平静でかつ潔い松陰の姿に、首切り役の山田浅右衛門は胸を打たれ、その様子を後々まで回顧している。

「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き役人どもに一揖(いちゆう)し、「御苦労様」と言って端座したのである。その一糸乱れぬ堂々たる態度は幕吏も深く感嘆した。
 江戸伝馬町の獄において斬首刑に処された吉田松陰は、わずか30年の生涯を閉じた。松下村塾が輩出した門人たちが明治維新の立役者となり、吉田松陰の死を持って門下生へ引き継がれた松陰の想いや志は後の世で大きく花開いた。現在、教育現場の荒廃が叫ばれているが、魂のきれいな教育者としての松蔭の生き方を知るべきだろう。

 松蔭の言葉

 吾れ今 国の為に死す 死して君臣に背かず 悠々たり 天地の事、 鑑照 明神に在り。
(私は今、国の為に死ぬ。死すとも、藩主への忠義、父母への孝行を尽くして、道に反することはない。天地は永遠で果てしなく広い。神様よ、私の行いの正しいことをご覧下さい)

 

志士は溝壑に在るを忘れず

万巻の書を読むに非(あら)ざるよりは、寧(いずく)んぞ

一己(いっこ)の労を軽んずるに

非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

 

仁とは人なり。人に非ざれば仁なし、禽獣これなり。
仁なければ人に非ず。禽獣に近き是なり。
必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云うべし。

 

仮令獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。
苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず。

 

己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る恐るるにたらず
凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

 

体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す

 

人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

 

死して不朽の見込みあらば いつでも死ぬべし

生きて大業の見込みあらば いつでも生くべし

 

辞世の句

身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂

これは江戸・伝馬町の牢内で斬首された吉田松陰の「最期の言葉」辞世の句だ。さらに「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」。これは安政元年(1854)正月、米艦六隻を率いたペリー再度浦賀港に現れた時、米艦に乗り込み密航を企て交渉しようとして失敗。自首して江戸の獄に下る時に詠んだもである。両句とも「大和魂」で結ばれているように、日本という国の行く末を見つめた憂国の心情があふれている。

留魂録が回覧される
 牢名主は松蔭との約束を守り、牢の役人に頼んで留魂録を長州藩の屋敷に届けさせた。これによって松蔭の遺志が弟子や同志たちに伝わり、彼らの行動に大きな影響を及ぼすことになる。
 松蔭はこの文書の中で、30才で生を終わろうとしていることについて「惜しむべきことのようにも思えるが、人の寿命には定まりがなく、ここで死ぬのが自分の寿命なのだろう」との覚悟を述べている。そしてもしも同志の諸君たちの中に、私のささやかな真心を受け継いでくれる者がいるならば、まかれた種が絶えずに、穀物は年々実っていき、収穫を得られることになるだろう、と告げている。そのことを同志諸君は考えて欲しい、と伝え、自分が30年の生涯で成し遂げられなかったことを継承し、やり遂げてほしいと促した。これを受けて松蔭の弟子たちは奮いたち、やがては長州藩そのものを尊王攘夷活動に邁進させ、時に暴発しながらも、明治維新の達成まで駆動し続けることになる。

純粋な思想家として生涯を完結させる
 革命が起きる時には、人々の意識を変える思想家がまず登場し、純粋に行動するがゆえに、非業の死を遂げることが多い。松蔭は幕末という変動期に生まれ、まさしく思想的に純粋に行動することによって、時代の変革への先導者になった。その結果として松蔭の死後にその弟子たちが松蔭の後を追い、日和見の傾向が強かった長州藩の空気を変え、反幕府勢力として重きを成すようになってゆく。しかし松蔭に関わった若者たちは、そのほとんどが若くして死んでしまっている。純粋な思想家というものは劇物のような存在で、松蔭は自らそうなろうと志しその通りにやり遂げた人物と言える。