民主的議論と陪審制度

民主的議論と陪審制度

 検事は悪を憎み、被害者に代わって加害者に相応の罰と償いを求める。弁護士は弱きを助け、被疑者の立場から不当な冤罪と主張する。そして裁判官は両者の言い分を聞き、白か黒かの判決を下す。このように法曹界の人たちは、それぞれの使命感を持ちながら職務についているが、検事は検事の立場でしか物を考えず、弁護士は弁護士の立場でしか物を言わない。法の正義を自負する者たちがこのような職務に縛られた形で議論する法廷は、どこか茶番に思われてならない。

 昨日まで鬼検事と評判だった者が弁護士に職を変えた途端、極悪人の味方になる。金持ちが被疑者になれば、金持ちは元検事の弁護士を集め弁護団を結成する。このように立場によって自らの主張を変える議論は到底民主的な議論とは思えない。同じ司法試験に合格した者が、同じ司法研修所で養成した者が、なぜ立場によって主張を変えるのか。弁護士、検事、裁判官、この法曹三者による法廷議論は見えすいた劇を見ているようである。これを司法制度の欺瞞と呼ぶかどうかは別にして、このような一方通行の議論が巷でも多く見られる。

 そもそも議論とはお互いの考えを述べ、相手の考えを尊重しながら、より良い結論を得るための手段である。つまり自分の主張と相手への理解が同時進行でなければいけない。しかし今日行われている多くの議論は、最初から相手の考えを否定し、自分の結論を押しつけるものばかりである。

 この傾向は議論を論争と称し、劇化させて視聴率を上げようとするマスコミの手法に似ている。声の大きさ、反論に値しない屁理屈、言葉の用法などにより、相手をいかに負かすかが議論の技術とされ、論理の矛盾やごり押しを恥と思わない。そしてたとえ議論に勝ったとしても、勝った者の意見が優れている訳ではないので、議論の敗者が勝者に心服することはない。逆に恨みを残すことになる。このような中身のない議論は、発言する者がそれぞれの立場に縛られているからである。議題に対し肯定側と否定側に分かれて議論をする遊びをディべートというが、この欧米の遊びを真面目な議論に持ち込んでいるのである。

 このような論争を見ながら、国民は無意識に自分と同じ考えの論者の肩を持ち、対立する論者を無意識に軽蔑する。そして見識者の非常識に優越感と自己満足を得ながら、一方では声を大にするゴネ得の手法を無意識に身につけてしまう。

 このような議論の虚像が国民の前に醜く露呈したのは、万年野党の日本社会党が政権の座についた時である。それまでの日本社会党の反対は保身のための反対であったことが明確となり、政党の理念を曲げて現実路線を選択したことで日本社会党は安楽死への道を辿ることになった。彼らが残したものは、政策の建て前と本音、議論による取引と落としどころ、などの政治理念ではなく政治的技法だけだった。

 議論の弊害として、次に議論のアリバイ化を挙げることができる。時間をかけ十分に審議を尽くした証拠が欲しいだけの議論である。広く意見を聞いた上での共同決定というアリバイが欲しいだけである。これは一見民主的な議論と錯覚しやすいが、最初から結果の決まっている議論は民主主義を装った議論といえる。

 この形式を取っているものに政府の諮問機関がある。厚労省の中央社会保険医療協議会(中医協)を例に挙げれば、中医協は診療側が四割、支払い側が四割、一般の代表が二割と形のうえでは公平に構成されている。しかし診療側以外の人員は元厚労官僚やその仲間たちで構成され、議論する前から結論は決まっている。難しい顔をしながら、時に声を荒立てながら、厚労省に操られた三文役者が茶番を演じて日本の医療費を決めている。

 国民が望むものは自分たちのことである。しかし国民の代表が諮問機関に含まれることはない。公益委員でさえ、省庁が選んだ団体の代表であって、国民の代表ではない。立場に縛られない国民の代表や全体を見渡せる見識者が不在のまま、偏った審議がなされている。国民の生活に関わることは国民の代表が決めるべきで、立場に縛られた者が関わるべきではない。

 本来は政治家がそれを担うべきであるが、政治家が営利団体との利害関係を断ち切るのは困難であり期待はできない。間接民主主義の限界である。

 民主的議論と政策を考えた場合、陪審制度が興味深い。日本では市民から選ばれたシロウトが陪審員として司法に参加しているが、これは国民の良識を司法に反映させるための制度である。立場に縛られず議論ができる、あるいは政策を審議できる方法はこの陪審制度以外に思い浮かばない。専門的知識に難点があるにしても、非常識な専門家の論理よりは常識的なシロウトの直感のほうが優れている。

 政治には利権が絡み、議員は立場に捕らわれ、官僚は省益にこだわる。そのため国政に対する国民の不満や不信はあきらめに近い立場にある。しかしこれを改善させる方法がある。それは国民のチェック機構を国政に導入することで、永田町や霞ヶ関の論理を国民の良識でチェックすることである。

 日本の民主主義を蘇らせるには参議院を廃院とし、陪審部会から構成される陪審院を創設するのがよい。衆議院で可決された法案を陪審員が評決し、案の成立、廃案、修正を行う新しい国民のための新しい民主主義政治の形態である。