カラスの勝手と勝手なカラス

 カラスの勝手を主張する身勝手なカラスが街に溢れている。黄色い声を張り上げながら走り回る子供たち、うんこ座りの茶髪の若者たち、迷惑駐車を繰り返すおばさん連中、タバコの投げ捨てを平気とするおじさんたち、まったく勝手なカラスが街に溢れている。今回は勝手なカラスの生態学が話題である。

 勝手なカラスが街に出没するようになったのは、つい最近のことである。かつての日本人は礼儀正しく控えめで、忠犬ハチ公のごとく主人の為なら命を惜しまぬことを美徳としていた。しかしこの美徳が太平洋戦争の遠因と非難され、道徳よりは個人の自由を、倫理よりは個性を優先させる教育がもてはやされ、この敗戦からの二世代にわたる不道徳教育の結果が勝手なカラスの繁殖につながった。かつての日本人は、お天道様に申し訳ないとする自己規律があった。恥という言葉を知っていた。これをカラスたちに教えてやりたいのだが、不気味な瞳に思わず竦んでしまう。

 「誰にも迷惑をかけず楽しいことをしているのに、何が悪いの?」。これは援助交際で補導された女子高生の言葉である。このような疑問を平然と抱く女子高生、さらにこの疑問に答えられず当惑する大人たち、この両者の存在こそが戦後教育の結果である。

 カラスにもカラスなりの理屈はあるだろう。しかし彼らの根本的な間違いは「自由の意味の取り違え」である。元来、自由とは勝手気ままを意味する言葉ではない。自由とは三つの制約に縛られた厳格な意味を持つ言葉である。

 その制約のひとつは、他人に迷惑や危害を加えないこと、つまり個人の自由が他人の自由を侵害してはいけないことである。大人が自分の部屋でポルノを見ることも、誰もいない野原で大声を出すことも、他人に迷惑をかけなければ個人の自由として保護される。たとえ他人から蔑まれても、愚かな行為と非難されても、人間には愚行権という権利を有する。しかし電車の中でエロ本を広げたり、公衆の前でタバコを吸う行為は絶対的な間違いである。それは他人に不快な害を与えるからである。このように他人に迷惑をかけないことが自由の最大の原則である。しかし勝手なカラスはこれを理解しない。法律に触れなければ、すべてが許されると本気で思っている。

 自由における二番目の制約は、規則や法律による社会的制限である。この社会的制限の中でも刑法は社会ルールを文章化したものだから理解しやすい。しかし子供の義務教育、シートベルトなどのような個人を保護する法律は個人の自由と常に対立をきたし議論を引き起こす。シートベルトの着用は本来は個人の自由のはずであるが、国が罰則を設けるのは国が個人を守るためである。決められたルールは守るべきであるが、この個人を守るための法律が行き過ぎると国家による迷惑なお節介、全体主義のレッテルを張られることになる。

 この社会的制限で特に問題になるのは「未成年者の自由」である。子供の自由はワガママにすぎないが、大人と同じ体格の未成年者の自由をどこまで認めるかが問題になる。未成年者に善悪を判断する能力が無いとすれば、彼らは社会によって制限を受け、また同時に社会によって守られる存在になる。その境界線は18歳という年齢であるが、この法的年齢を厳密に適応するかどうか、子供と未成年、未成年と大人、この保護すべき年齢の線引きが問題になる。

 いつも不思議に思うのは、高校野球の監督が自分より体格の良い選手を子供と呼ぶことである。高校生なら立派な大人である。子供と呼ぶのは、あるいは子供扱いするのは、大人の勝手な思い過ごしである。子供の定義は電車料金の区別である小学生までであろう。中学生以上ならもの判断は付くはずで、判断がつく以上は大人として扱うべきである。小学生に英語を教えるよりは、人間としての本堂を教えるべきである。

 子供への対応策は法律よりは家庭の教育であるが、親に子供の教育の資格がない場合にやっかいになる。勝手なカラスの親は、同じ勝手なカラスである場合が多いからである。このような親ガラスの代わりに社会が子供を教育すべきであるが、教育の資格のない親ガラスがカァーカァーとうるさいため手が付けられない。このような教育体制により、善悪の判断のつかない子供が援助交際と称した売春に走ることになる。

 自由に伴う三番目の制約は、その自己責任である。自由と責任を論じる場合、医療におけるエホバの証人が最も適切な例になる。医師にとって輸血を拒否するエホバの証人は愚かに思えるが、それは患者の自己決定権であり、たとえ患者のためであっても医師は患者の自由を侵害してはいけない。医師が最も良い治療法を選択するのは患者がそれを望むからであって、患者が望まない医療行為はたとえ最良の治療であっても違法行為となる。自己決定権による結果が自己責任となるが、カラスたちの精神構造には責任という言葉さえ欠如している。この日本人特有の甘えと無責任を排除するのが自由に伴う責任なのである。

 これらの三つの制約を守れば、自由主義社会は個人の自由を保障している。しかしこれほど簡単な制約が理解されていない。また教育もされていない。これを勝手なカラスたちに理解させるためには二つの方法が考えられる。子供のカラスには教育で、成人カラスには刑罰で対応することである。これで退治できないのならば、それは現在の教育が悪いのであり、また刑罰が甘すぎるせいである。

 カラスたちを馬鹿な連中、下品な連中と蔑むだけでなく、教育あるいは刑法を変え勝手なカラスの繁殖を抑えることが必要である。