わかっているけど

わかっているけど
 糖尿病患者の食事制限、肺気腫患者の禁煙、肝炎患者の禁酒、人間は馬鹿ではないから病気のために何をすべきかを十分に理解している。しかし悲しいことに、身体に悪いとわかっていても止められないのが、これもまた人間である。頭で理解していても、今回だけはと言いながら止められずにいる。自分の病気についてさえこうである。ましてや自分に関係ないことについては、それ以上にわかっているけど止められない。
 ゴミを捨てれば環境が悪化する。自動車に乗れば排気ガスをまき散らす。違法駐車は渋滞を引き起こし、合成洗剤は河川を汚染する。これらは誰でもわかっているが止められない。
 公共の場を汚してはいけない。このようなことは説教されなくても誰でも承知している。だから入試の小論文になれば多くがいっぱしの文章を書く。面接試験では理想的な解答しか返ってこない。日本の若者が礼儀正しくなるのは入社試験の時だけで、嘘が上手な者ほど面接では高得点を取る。
 小論文や面接で人物評価が難しいのは、人間は平気で嘘をつく動物だからである。人前では偉そうな建て前でモノを言い、ひとりになると悪魔の誘惑に負け本音で行動する。そして目の前の欲望が公共心よりも優先される。この建前と本音のギャップが、社会問題が解決しない1番の原因である。
 性善説と性悪説の2つに人間の本性を分け論じることがあるが、それ以前のこととして、善悪を判断できない人間などいるはずがない。善悪がわかっていても楽なほうへ流されてしまうことである。人間は集団の利益を理解しながらも、自分の利益と快適性を求めてしまうズルイ動物なのである。みんなの社会の自分だけの利己主義である。
 かつての日本人は、世間様が、あるいはお天道様が人間としての行動を見張っていた。しかし地域社会が崩壊し周囲が見知らぬ他人となって、毎日が「旅の恥のかきすて状態」となった。宗教的倫理観をもたない日本人は、周囲の相互監視がないとモラルや恥を失い、品性まで落とすことになる。
 日本は民主主義の国であるが、正確にはワガママ民主主義の国である。このワガママ民主主義を改善させる方法はあるだろうか。まず刑罰あるいは強権によって解決法について考えてみよう。
 ゴミを捨てた者に100万円の罰金を科せば街のゴミは確実になくなる。学会で時間を守らない演者にはマイクのスイッチを切ればよい。これらの方法は一見よさそうにみえるが、このような監視と統制の社会ではギスギスした全体主義になってしまう。強権による政治の代表は独裁政治であるが、この政治形態が良くないことは歴史が証明している。
 そして最後にたどりつくのが教育論となる。しつけや教育によって現状を変えようとする方法である。しかし教育改革を行うたびに教育がおかしくなったように、見識者の建前だけの改革であれば改善などは期待できない。学校でのいじめの問題は現在の教育が間違っているからである。
 本来、教育とは教え育てることであるが、現在の教育は暗記ばかりで、すべての試験は暗記大会である。重箱の隅を重視し、人間の品性や創造性を育てなかったので子供たちは学年を増すごとに人間性と学力を低下させている。
 教育が受験という競争を内在させ、さらにテレビやスマホによる社会汚染が進行している現状では、教育者の偉そうな言葉にうなずいても、生徒の心には浸透はしない。また子供たちが教育によって愛他的になったとしても、利己的な人たちに利用される危険性が生じる。このような問題はあるが、みんなの社会を守るためにはしつけと教育以外に何があるだろうか。
 本当の教育とは利己主義の醜さ、愛他主義の尊さ、他人の痛みを教えることである。学芸会よりはゴミ拾い、修学旅行よりは病院でのボランテアである。そして何よりも大切なことは、「他者に危害や迷惑をかけない」という、自由主義社会の大原則を教育の場で教えることである。幼い時から甘やかされてきたワガママ子供たちを矯正するにはワガママ親の抵抗が強いだろうが、これを教えなければ現状のままである。
 自分の病気をどうするかは個人の自由である。しかし自分たちの社会をどうするかは全員の問題である。そして愛他主義は無理としても、害他主義の厳禁ぐらいは最低限教えなければいけない。
 社会的問題を解決できないのは、わかっていることを解決できない弱さとズルさを合わせ持つからである。いずれにしても学校という小社会のなかで、弱者が、正直者が、馬鹿をみない社会を実現させてやることが接待に必要である。