情報化時代の憂鬱

 人類を悩ましてきた飢餓の時代は去り、飽食の時代と呼ばれている。この時代に本来の栄養学は不要となり、ダイエットのみが必要となった。いかに食事を減らし、痩せるかが現代人の課題となり、今どき栄養不足を嘆く者はいない。街を歩けば飢えに苦しむ者はいない。銭湯に行けば醜い脂肪の塊があふれている。

 この数年、インターネットやスマホが急増し、情報化時代ともてはやされている。しかし情報も食事と同様、適度な質と量が大切である。食べすぎれば肥満と下痢をおこすように、歪んだ情報は精神の腐敗を招く。また過度の情報は精神の衰弱を導くことになる。過食が健康を害するように、情報過多は不健在な精神をもたらす。情報過食症が新たな病気になっている。

 私たちが情報化時代に過度の期待を抱くのは、情報の即時性と共有化である。また官僚の恣意的な情報隠しからの解放も期待に花をそえた。権力が独占していた情報が公開され、これを「情報の民主化」と受け止め。情報が増えれば生活がより知的に、社会は豊かになると思い込んだのである。しかし実際にはどうであろうか。情報化時代は人々の期待とは裏腹に荒涼とした灰色の世界をもたらそうとしている。

 それは「情報を持つ者が優位に立つ」という商売人の戦略の概念を一般人が真似、それでいてウソの情報に騙され情報依存症、情報不安症を引き起こしている。

 情報に乗り遅れまいとする強迫観念が平穏な日々に侵入し、日常生活を撹乱させている。スマホを離さず、コンピュータのスイッチを切らず、顧客名簿のごとき住所録を作る。これらは商売人の真似であり、1億総ビジネスマン、1億 総手配師気分である。情報が多ければ選択の幅が広がるというが、人々は情報の前に縛り付けている。

 しかし実際には比較する物が多ければ判断はにぶり、 交錯する情報に混乱するのである。他人より優位に立てる情報などないにも関わらず、優位な情報を求めようとする。

 かつての母親は知識はなくても知恵があった。今の母親は知識があっても知恵も常識もない。子育ての本を探し、胎児教育、英才教育、子供の才能は3歳までと いう情報に振り回され、親子そろってノイローゼとなる。「子供の才能は親の遺伝子に拘束される」という真の情報を知らず、親心を狙った業者のニセ情報に騙され金をむしり取られてれている。これが情報化時代の撹乱である。多くの人たちは情報を利用しようとして、情報に利用され、しかもそのことに気づいていな い。

 医療に関しても多くの情報が街にあふれ、本屋に行けば健康雑誌が並び、病気やクスリの解説本、学会名簿を写した名医案内本が幅をきかせている。そして医療情報の量に比例して生かじりの誤解を招いている。医療の分野においてこうならば、他の分野においてもおして知るべしであ る。

 情報化時代は人間の心にも変化をもたらしている。かつての若者は恋文に精魂をこめ、恋愛が成就しなくても、自らの精神の高まりを得ていた。これが時代とともに恋文は電話となり、E-mailとなり、便利になったが精神の高揚を失った。恋愛はマニュアル化され心の機微を失った。相手の趣味や誕生日を入力しても、瞳の奧にひそむ無言の意味を探れな い。

 気分が乗らなければリセットボタンを押すだけで、人間関係は即物的となり深みを失った。仲間意識はあっても、仲間外れを恐れる表面的なつながりである。 仲間の数を誇っても友情は希釈化している。人間の精神を充実させるための情報が人間性を崩壊させている。

 若者は世界の情報を集めるが、世界へ飛び出す気概を持たない。新たなものを創造する気力を持たない。彼らが自慢するのは買い物情報、スキャンダル情報、イベント情報にすぎず、かつての若者が持っていた瞳の輝きを失っている。

 情報化時代はこれまでの工業化社会を飛躍的に発展させると期待されているが、多くの情報は役に立たず、まさに情報公害である。イン ターネットは電子チラシの巨大なゴミ箱にすぎず、ゴミ同然の情報を集めてもゴミの量を増やすだけ、情報オタクを増やすだけである。

 情報が増えても知恵とはならず、むしろ情報と知恵、情報と情は逆比例の関係に近い。情報と引き換えに失ったものが大きいのである。この情報化時代を平穏に生きていくには、まず雑多な情報に振り回されないことである。

 かつて「テレビを見すぎると馬鹿になる」という言葉が日常生活の中にあった。昭和31年、大宅壮一はテレビ時代を前に「1億総白痴化」という言葉を流行させた。もし大宅壮一が生きていれば、今日の情報化時代をなんと表現するであろうか。「1億総脳死状態」と言われないように、情報に流されず自分を見つめる余裕が必要である。情報は単なる遊びと受け止めれば良い。