神々の遺産

 アダムとイブが林檎をかじったことよりも、原子爆弾を作ったことよりも、月に足跡を残したことよりも人類にとって重大なことがある。それは1996年にクローン羊「ドリー」を誕生させたことである。

  アダムとイブが子供を作って以来、人間の歴史は常に男女の営みによって受け継がれてきた。しかし現在、クローン技術により男女の営みとは関係なく1つの細胞から人間を生むことができる。同性愛者からも、未婚者からも、そして死者からも、人間の生命を自由に誕生させることが可能になった。この生命科学の勝利が、人類最大の危機を導こうとしている。

 DNAが 遺伝子の本体であることが解明されてから、遺伝子工学は加速度的なスピードで進歩をとげている。ウイルスから人間に至るまで、生きとし生きる物の遺伝子配列が解読され、人間は神が創った生命の設計図を勝手に変えようとしている。患者の要望から不妊治療まで、人類のためと言いながら、踏んではいけない神の領域を人間は侵し始めている。

 体細胞を卵子に組み込んだクローン羊「ドリー」の誕生は世界中を驚かした。そして驚きの中で、遺伝子工学はさらに勢いを増し、翌97年には人間の血液凝固因子を組み込んだクローン羊「ポリー」が誕生した。ポリーの誕生は人間の構成蛋白を羊乳から大量に生産する技術の完成を意味している。インスリン産生大腸菌と同様、家畜にすぎない羊が薬物産生動物になったのである。同97年には日本においてクローン牛が誕生し、クローン牛は現在、ヨーロッパでは食肉がは禁じられているが、アメリカでは許可されている。このように世界的な規制はバラバラである。

 クローン技術は臓器移植についても大きな成果を上げている。人間に移植をしても拒否反応を示さないクローン豚の開発。患者の体細胞から移植に必要な臓器のみを作るES細胞の開発。まさに臓器移植に革命がおきている。脳死の議論を延々としている間に、生命科学は想像を越えたはるか高いレベルに達している。

 クローン操作は危険性を内蔵しながらマウス、サルと相次ぎ、中国ではパンダ増産計画が実施された。また1999年、東京農大では人間の体細胞を牛の卵子へ移植し非難を浴びている。

 クローン技術は人類に大きな夢を与えていることも事実である。シベリア凍土に眠るマンモスからDNAを抽出、マンモスを復活させることも可能になった。同様に、アインシュタインや夏目漱石の保存臓器から彼らのコピーを誕生させることも夢ではない。

 遺伝子工学は、すでに身近な日常生活に入り込んでいる。農作物の生産性を上げるため、除草剤や害虫抵抗性の遺伝子を組み込んだ作物が開発され、とうもろこし、大豆など8種類が私たちの口に入っている。つい最近まで話題になっていた体外受精が不妊治療として既成事実になっている。日本では体外受精は年間3万件を越え、生物学的親、生みの親、育ての親の議論はもう遠い昔の話になっている。

  このようにクローン技術が拡大し、遺伝子操作が日常的になっている現在、生命科学の是非を問う議論はなおざりになっている。大腸菌にヒトのインスリンを合成させた頃までは、遺伝子操作の議論は十分になされていた。しかし生命科学の猛烈な競争は、議論の余裕のないまま進行している。そして誰の目にも、遺 伝子工学の恩恵よりは、危険性のほうがはるかに高い状態に達している。

 脳死の議論にあれだけの馬鹿げた時間をかけながら、クローン人間の議論は限られた話題でしかない。倫理規定はあっても罰則を設けないルールはないに等しい。生命科学に罰則規定を設け、科学者の暴走をいかに防ぐのかが人類最大の課題である。

 クローン人間を誕生させる可能性、遺伝子操作が未知のウイルスを誕生させる可能性、可能性のあることはいつか起きることである。そして1度起きれば取り返しのつかない事態になる。

  科学者の倫理観を信じないわけではない。しかし数いる科学者の中には必ず間違いを犯す者がいる。原子爆弾のボタンを押せるのは世界で数人にすぎな いが、人類の将来を破壊するスイッチを持つ科学者は何万人もいるのである。暴走する前に科学者の手からスイッチを奪い取ることである。科学者の動機は、ど うせ好奇心、功名心、商業主義、これらを患者のためと言い換えた理屈にすぎない。

  人間が他の動物と違うのは、意思と尊厳を持っていることである。クローン人間が誕生した場合、クローン人間の尊厳と人格をどのように位置づければよいのだろうか。この問題は時間をかけて議論しても解決はできない。それは神の領域だからである。禁じられたパンドラの箱は、理屈など言わずに厳重に鍵をかけるべきである。クローン人間は夢の中の話で十分である。

 なお現在話題のiPS細胞とクローンは別物と考えてよい。iPS細胞は体細胞を用いるが、クローンは受精卵である。iPS細胞から精子と卵子を作っても受精はしない。日本にはクローン技術規制法があるが、いくら法の規制を行っても、世界にはそれをかいくぐる権力者や科学者が必ず出てくる。事実、ソウル大学の黄禹錫教授がクローン人間を作ったと捏造論文を書いたが、黄禹錫教授は1体当たり10万ドルで亡くなったペットのクローンをつくる企業をすでに立ち上げ、中国の関連会社は「クローン人間はいつでも作れる」と発表し、世界中の研究機関に衝撃を与えている。

 神が創った生命という遺産に手を加えるべきではない。それは踏み込んではいけない神の領域だからである。世界遺産に人間の手を加えてはいけないように、神の遺産である人間の遺伝子に操作を加えるべきではない。クローン人間は議論の余地のない、当然の禁止事項である。