徳川吉宗

江戸社会の変容
 徳川家康が江戸幕府を開いた直後は盤石と思われていた幕藩体制であったが、4代将軍徳川家綱の時代に起きた明暦の大火や、5代将軍徳川綱吉の元禄時代における多額の出費による幕藩財政の悪化は幕藩体制の足元を動揺させ始めた。幕府は元禄小判にみられる貨幣の改鋳を行い、江戸・大坂・京都の三都の商人に御用金を命じたが、それらは急場しのぎであって財政難への根本的な対策にはならなかった。また諸藩も財政難に苦しみ、大阪の蔵屋敷に輸送する年貢米(蔵米)を担保に蔵元や掛屋から借金をして、また独自の藩札を発行して、家臣の俸禄を半分にし、さらには特産品の専売に踏み切っていた。
 武士である旗本や御家人の生活はさらに厳しく、禄米を担保に札差から借金をしたり、あるいは内職だけでなく裕福な町人を養子に迎えて武士の身分(御家人株)を売買する者まで現れた。

 諸藩は財政難の対策として農民に対する年貢率を引き上げたが、それは農民の生活を圧迫させ、農民は年貢の減免を要求して百姓一揆が頻発した。17世紀後半頃の一揆は、村の代表者が農民全体の要求を領主に直訴する型が中心で、下総の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)、上野(こうずけ)の磔茂左衛門(はりつけもざえもん)などが義民として歴史に名を残している。17世紀末になると農民全体が結集した惣百姓一揆が中心となり、信濃の貞享騒動(じょうきょう)などが知られている。このように社会が動揺する中で、豊臣家の滅亡から約100年後に江戸幕府に最大の危機が生じた。

 徳川将軍本家の血筋が絶えてしまったのである。徳川綱吉の後を受けて6代将軍になった徳川家宣(いえのぶ)は、就任からわずか3年後に51歳で死亡し、後継として家宣の子で4歳の徳川家継が7代将軍に選ばれた。しかし家継が8歳で亡くなると将軍家の血が絶えてしまったのである。

 このような事態を予測していた徳川家康は、家康が晩年に産ませた男子によって水戸・尾張・紀州のいわゆる御三家を残していた。御三家制度は、このような事態に備える家康の先見の明であった。徳川家の後継が亡くなると、次の将軍をどの御三家から迎えるかについて様々な意見があった。

 

徳川吉宗藩主の座

 1684年10月21日、徳川吉宗は紀州藩主の4男として誕生した。紀州藩といえば徳川家康の血を引く家の中でも別格で尾張藩水戸藩と並んで将軍を出すことすらできる名門中の名門で徳川御三家のひとつであった。しかし吉宗の場合は兄が3人いて、生母の身分も高くなかったため藩主になる可能性は極めて低かった。元服してから越前(福井県)に小さな領地を賜り、そこの藩主としておさまっていた。本来なら吉宗は小さな領地で穏やかな生涯を送るはずであったが、吉宗が20歳になった頃、紀州藩主の長男の兄が亡くなり、次男が継いだがわずか数か月後に亡くなってしまった。ここに至り御三家・紀州藩の藩主の座が吉宗に巡ってくることになる。

藩主から将軍に

 こうして紀州藩主となった吉宗であったが、当時の紀州藩は順調ではなく、藩政は緩み財政も厳しい状況であった。そこで吉宗は藩政改革に着手した。藩主としての倹約政策や人事改革は有効で、藩の状態もかなり回復した。

 そのようなときに7代将軍・徳川家継が死去。家継はまだ幼く後継者のないまま亡くなったため、8代将軍を誰にするかが大問題になった。当時の決まりでは中央で将軍を継ぐ者がいない場合、御三家から将軍が出されることになっていたが、その後継者は御三家から平等に候補を出すわけではない。御三家の中にも家格というものがあり、最も上位にあたるのは尾張藩とされていた。そのためまず尾張藩主が将軍の最有力候補となった。御三家の当主であった吉宗にも将軍位に就く可能性があったが将軍になる可能性は少なかった。

 ところが年齢や人柄から吉宗を推す声が高くなり、吉宗は紀州藩主の座、将軍の座と二度続けて奇跡的に将軍の座をつかみ取ったんである。血統の近さから紀州藩主の徳川吉宗(よしむね)が選ばれ8代将軍に就任したのである。

享保の改革

 徳川吉宗は30年近い在職期間を通じて、家康の時代を理想とした様々な改革を行った。これを享保の改革という。徳川吉宗といえば江戸幕府の将軍の中でも有名な人物で、歴史の教科書では必ず取り上げられ、時代劇のヒーローとして親しまれている。そのような徳川吉宗が、幕府にとって「享保の改革」を指導した将軍として大変重要な存在となる。

 徳川吉宗が将軍に就任した頃、幕府の財政は巨額の負債を抱え破綻寸前であった。将軍になる前の吉宗は紀州藩での改革に努めたが、幕府の巨大な財政難を目にした吉宗は、より以上の財政改革を行う必要に迫られ徹底した倹約を命じた。収入が期待できない以上、支出を抑えなければ赤字が増えるからである。

 徳川吉宗は自ら粗末な木綿を普段着にして、食事も朝夕の二回のみとし、献立も一汁三菜にした。自らが先頭に立って倹約して支出を抑えたが、次に取り組んだのは幕府財政の収入増である。1722年、吉宗は参勤交代での大名の江戸在府の期間を従来の一年から半年に短縮し、その代わりに一定の米を幕府に献上させた(上げ米の制)。江戸での生活を短縮して浮いた経費を幕府に米で支払わせる制度である。この上げ米の制は一定の成果を挙げ、財政が好転した1730年に廃止され、参勤交代も元の制度に戻っている。

 次に吉宗がとったのは人事の整理だった。江戸幕府では将軍その下に老中たちが付き、老中によって政治が進められたが、老中のほかに将軍の側近(側用人)たちも権力を持つようになっていた。この側近政治とも言える幕藩体制を吉宗は将軍や老中などを重用し、将軍の権威も高めた。

大奥の美女50人をリストラ

 幕府の財政状況が悪化したのは幕臣たちの贅沢三昧だけではなかった。大奥を維持するための経費も幕府の財政を圧迫していた。大奥維持のため幕府は財政の25%を使っており、その費用は着物や身に付ける贅沢品だった。倹約を勧める吉宗はこの大奥にメスを入れた。一般的に人員整理を行う場合、年齢の高い人や能力の低いものが標的になりやすいが、吉宗その逆の方法を取った。

 大奥の女性の中で容姿端麗で25歳以下のものを50人選ぶように命じたのである。これは将軍の側室選びと大奥は大騒ぎをしたが、意気揚々とやってきた容姿端麗な若い女性を吉宗はリストラしたのである。容姿端麗な若い女性ならば大奥にいなくても引く手数多と考えたのである。

新田開発
 吉宗は穀物の取れ高を増やすために新田開発を奨励した。新田開発は江戸時代の初期から続けられてきたが、吉宗は民間の財力によって開発を進め、経費を抑えて収入を増やそうとした。また水の供給を安定させるための堤防作りや河川の流れを変えることを実行している。
 収入増だけではなく、1年の収入の目安も重要であった。耕地を広げるだけではなく税率を一定にするため、豊作や凶作にかかわらず過去数年間の収穫高の平均から年貢率を一定にする定免法を定めた。それまでは1年の収穫高で年貢率が上下する制度だったので予算の目安がつかなかったのである。

足高制
 吉宗は優秀な人材を積極的に登用した。江戸時代でも高い役職につくにはそれ相応の身分が必要であった。つまりある程度の石高がないと高い役職にはつくことが出来なかった。しかし当然ながら身分が低くても能力がある人物はいるはずである。吉宗はこの点に目を付け、優秀な人物に米を支給することで石高を上げ、それ相応の身分にして役職を与えた。そしてその職を辞めるときには、コメの支給をやめてもとに戻すというシステムを作ったのである。吉宗は優秀な人物を発掘することに関しては、時代に先駆けた人物だったといえそうです。そのため旧来の地位や身分を重視せず、たとえ身分が低くても高い役職につけた。この制度によって江戸南町奉行に採用されたのが大岡忠相(ただすけ)である。

都市政策
 また「喧嘩と火事は江戸の華」と言われていたように、吉宗が将軍に就任する前から、江戸はしばしば大火事に見舞われていた。江戸のかなりの部分が焼け野原になり、明暦の大火では江戸城の天守閣が焼け落ちるなど、大火のたびに莫大な出費を必要とした。そのため江戸の町を大火から防ぐことが大きな課題であった。この都市政策を実行させたのが大岡越前忠相であった。
 吉宗は江戸の町に詳しい町民に住む町を守らせる制度を考え町火消制度り、その他にも火事による類焼を食い止めるために広小路と呼ばれる幅の広い道路をつくり、防火用の空き地である火除地を設けた。

 またそれまでの江戸の家屋は板葺きの屋根が多かったが、火の粉には無防備だったため瓦葺きに改良させた。ちなみに当時の消火方法は、火が広がらないように周囲の家を取り壊すのが中心であった。火事が起こるとその周辺の建物を破壊し燃え広がるのを防ぐような方法を取ったので、火消しになる人の多くは気性が激しい人が多く、火消しの組合同士のけんかも絶えなかった。

目安箱
 江戸時代では身分の低い人の意見や願いが将軍の耳に届くことはなかった。そこで吉宗は目安箱を設置して庶民の生の声を聞くようにした。庶民が幕府にどのような考えを持っているかを直接聞くことにしたのである。
 また目安箱を作り、目安箱は紀州藩主の時代も採用しており、目安箱に入れられた書状のなかには、吉宗に批判的な内容もあったが、吉宗は投書した人物を処罰しなかった。目安箱は封建社会においては時として独裁政治になりがちな時代でも、改善すべきことがあることを認めた画期的な制度であった。町火消のきっかけとも、貧しい人でも医者にかかれるようにしたのも目安箱の設置がきっかけとなってた。それが無料で町民の病気の治療を行う小石川養生所をつくった。

救荒作物
 吉宗は更なる収益の活性化を目指して新しい産業を奨励した。なかでも有名なのが甘藷(かんしょ)、いわゆるサツマイモの栽培だった。吉宗は青木昆陽に命じて薩摩で従来生産されていた甘藷を江戸でも栽培させた。甘藷はやがて飢饉に役立つ救荒作物として全国に広がったがこの背景には大きな教訓があった。それは享保の改革が行われた間に大凶作があったのである。1732年に起きた享保の大飢饉によって、西日本を中心に多くの餓死者が出たが、藩全体で甘藷を栽培していた薩摩藩では一人の犠牲者も出さなかった。吉宗はその事実に注目したのだった。
 吉宗は新しい産業を興すには日本だけでなく西洋の知識も積極的に導入すべきと考えた。しかし西洋の文書を無条件で輸入してしまえば、禁止しているキリスト教の復活にもなりかねない。そこで吉宗は、1720年にキリスト教とは無関係で、かつ漢文に訳した漢訳洋書に限って輸入できることを認めた。当時のヨーロッパで日本と貿易を行っていたのはオランダだけであったので、オランダ語によって西洋の学術や文化を研究(蘭学)することを積極的に導入した。この蘭学を学ばせたのが青木昆陽と野呂元丈などである。吉宗の時代に種がまかれた西洋の知識により、世界の様子が少しずつ広まり、将来の開国につながることになった。

訴訟対策
 さらに吉宗は幕府に殺到する訴訟への対策も考え、1719年に相対済し令を出した。これは金銭の貸し借りによる争いを当事者で解決させることである。但し借金を棒引きした徳政令とは違うので区別する必要がある。
 他の法令関係事業では、江戸の治安を守るためとして、幕府による本格的な法典の導入を目的に1742年につくられた公事方御定書(くじがたおさだめがき)も有名である。

享保の改革
 吉宗の享保の改革に共通しているのは「庶民の目線による政策」であった。特に土地開発や都市対策によって庶民のための政治を行なう姿勢が見られる。これを可能にしたのは、吉宗の母親の身分が低く、幼年期に家臣の子として育てられた影響が大きいとされている。享保の改革には善政の面が多かったが、どんなに素晴らしい政策でも光と影がある。吉宗の治世は決して明るい時代ではなく、農民にとっては非常に厳しかった。カギを握るのは、現代の日本と同様に必要悪である「ある職業」に対する徹底した差別で、またその差別を助長した儒教に由来する幕府の学問である。
 江戸幕府を開設した徳川家康は、主君に対して絶対的な忠義を重んじる学問である朱子学こそが徳川家による諸大名への統制にもっともふさわしいと考え、幕府の公的な学問として採用した。この朱子学が由来するのが儒教で、儒教でもっとも嫌われるているのが商人による商行為だった。
 家康自身は決して商行為を嫌っているわけではなく、江戸幕府成立直後には海外との貿易を積極的に考えていたほどの商業を重視する重商主義者であったが、朱子学が広まるにつれて、幕府の政策は次第に商業に対して否定的な路線を進むようになった。
 儒教の世界では商行為には生産性がないうえに「100円の価値のものを120円で売る」という行為自体が「いやしい」と見なされ道徳的に認められていなかった。江戸時代の身分制度として士農工商が有名であるが、商人が最下層とされていることからも分かる。江戸幕府の政策においては、商行為は「悪」とみなされ、商人が利益を上げても、彼らから所得税や法人税を集めるという発想がなかった。このように現在では当然のごとく重要視されている経済政策が全く考慮されず、それゆえに享保の改革も経済問題に関しては迷走を続けた。

 吉宗の政策の代名詞となっているのが倹約令であるが、財政の支出を抑えるために政府が倹約することは決して悪くはない。しかし倹約そのものを国民にも強要することは経済政策としては間違いである。現代でも国民の中には収入が多い人も少なく、彼らが贅沢品を買い求めたりすることで経済が活性化し、結果として文化が広がっていく。徳川綱吉の時代に減税によって人々の暮らしに余裕が生まれ、多くの人々が遊びを求めた結果、それに応えて元禄文化が生まれ栄えたのが何よりの証拠である。
 しかし吉宗は倹約令を国民に押し付けたことから、倹約ばかりでは消費が冷え込んで景気が悪化するだけでなく、人々の心にも余裕が生まれず、結果として文化も栄えない。綱吉の時代の元禄文化に対して、吉宗の時代には「享保文化」と呼ばれるものは誕生しなかった。吉宗の倹約令は庶民の消費意欲を奪い、広まるべき文化の芽を摘み取ってしまったが、農民の生活はそれ以上に苦しめられた。それはここにも「儒教と商行為」の問題が見え隠れしている。
 吉宗は別名を米将軍と呼ばれたが、それは幕府財政の基本となる米の増産に力を尽くすとともに、米の価格を心配し続けたからで、新田開発を手がけ米の増産につくしたが、その背景には「米を増産させれば年貢収入も増え財政が豊かになる」という思い込みがあったがこれが思い違いであった。米価格以前に大きな誤算を抱えていた。
 幕府の財政を支える米であっても、結局は流通する商品のひとつに過ぎない。つまり増産すればするほど余剰米がでることから、米の供給量が増えれば米の価格が下がり、その結果として財政も厳しくなってしまう逆効果をもたらすことになる。
 このような矛盾は、幕府が米を「神聖なもの」として扱う姿勢にあった。幕府は商品のひとつに過ぎない米を「通貨」扱いにして、この石高制が幕府の基本制度として当初から続けられてきたのである。
 もし米が通貨ならば増産すればするほど財政が潤うはずであるが、実際には商品として流通しているので無理があった。この矛盾を解決するには、米を通貨扱いにする米本位制の石高制をやめて、戦国時代同様に生産される米の量を銭に換算する貫高制に戻すのが一番良い方法だった。すなわち武士には米に代わって銭を支給して、綱吉の時代に元禄小判が流通したように、政府が通貨量を調整して経済を調節する方式にすればよかったが、商行為を敵視したゆえに極端な重農主義に染まったのである。
 この重農主義は農民にとっては大きな苦しみとなった。幕府からの命令で必死になって米を増産しても、結局価格が下がり収入が減ってしまい、財政難の幕府から増税を要求され、そのため苦しさが増すという典型的な悪循環が続いたからである。
 吉宗以前の治世では、幕府の直轄地である天領では一揆がほとんど起こっていない。それだけ農民の暮らしが安定していたのであるが、吉宗の治世の後半になると増税による苦しい負担に耐え切れずに天領でも一揆が多発するようになった。
 「ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど出る」という言葉があるが、これは農民に対する無慈悲な政策を象徴する言葉で、これは享保の改革の末期の勘定奉行である神尾春央(はるひで)の言葉なのである。
 このように享保の改革では庶民の目線での善政面があったが、経済対策という点では失政であった。吉宗の治世の間は「享保文化」が存在せず、天領では一揆が多発したが、農民に無理を強いたことで幕府の財政は上向き、蔵の中には相当量の金銀や備蓄米が集まったので、いわゆる「幕府のための改革」としては成功したのかもしれない。

倹約政策

 吉宗は経済対策として通貨の流通量を抑え消費を抑制するよう民衆に命じ、元禄時代から続いていた贅沢な消費生活を改めさせた。これが倹約政策であるが、倹約令はあまり効果を上げていない。倹約政策は消費低迷を生み、不況を生み、幕府の財政にもわずかな回復だけだった。吉宗はさらに財政を立て直すために新田開発、ならびに年貢の徴収率の増加をおこなった。この政策についても、農民の不満を招き、不作に直撃され、さらに年貢を増加させることになる。天領での一揆は吉宗の死後も治まる気配がなく、後を継いだ9代将軍の徳川家重も散々に悩まされた。

 しかし米が増えると柔軟な米取引を認め、相場の暴落や暴騰がないようにした。これらの政策から吉宗が将軍を辞める頃には、幕府財政も国内経済もなんとか安定にむかった。 吉宗が幕政から去った後、幕府の状態は再び悪化してゆく。そのためさらなる大改革「寛政の改革」「天保の改革」も行われました。これらは享保の改革に強い影響を受けたものですがいずれも失敗し、かえって幕府の命脈を縮めた。

 そもそも享保の改革は大成功の印象で捉えられることが多いがそうではなかった。それほどの成功ではなかった。

 この政策を静かな目で眺めていたのは、家重に若い頃から仕えていた家臣・田沼意次であった。田沼意次は吉宗の「重農主義」の限界を実感していた。田沼意次は出世を重ね、将軍の側用人と老中を兼任することによって政治の実権を握ると、過去の反省から「重商主義」に主眼を置いた政治に切り換えることによって好景気をもたらし、その開明的な政策は我が国の自主的な開国をもたらす一歩手前まできた。

 

質素倹約に反発した徳川宗春
 吉宗の時代は幕府の財政は破綻寸であった。そのため将軍である吉宗が自ら率先して倹約を徹底した。食べるものや着るものだけでなく、売り買いまでも制限をかけた。この吉宗の質素倹約に猛反発したのが、御三家尾張藩の藩主徳川宗春であった。藩主の宗治は吉宗の政策を大幅に緩め、夜遊びの門限を撤廃し遊郭の営業を許可し、芝居の興行を許すだけでなく奨励さえしている。徳川宗治の服装も豪華絢爛で漆黒の馬にまたがっていた。
 徳川宗治が吉宗の倹約路線に反発したのは、吉宗が将軍になる際に争った、尾張藩主徳川継友との因縁があると言われている。徳川継友は宗春の兄にあたるが、一説には吉宗に毒殺されたという噂がある。そういったことから必要以上に吉宗の政策に反発していた。とはいえ、宗春のとっていた行動にはそれなりの大義名分があったようである。

 吉宗の使者から問い詰められたとき、「倹約倹約といっても貯まるのは幕府の金庫であって、民を苦しませるのは本当の倹約でしょうか、私は金を使いますが、使うことによって金が回り、民の助けになるから使っているのです。」と述べている。確かに経済効果を考えたと、ある程度のお金を使わないと尻つぼみになってしまう可能性がある。
 実際、宗春の政策によってこのころの尾張はとてもにぎやかになり活気のある町だったそうです。こうした経済に対する考え方の違いを、実際に行動に起こして見せたのが宗春だったと言えるでしょう。宗春の考えにも一理あるとは言え、吉宗にとっては幕府の存続が第一ですからこの宗春の行動は大問題と考えたわけです。吉宗は宗春を危険人物とみなし、隠居させ死ぬまで幽閉してしまいます。
 死んだ後もなおその墓には金網がかぶせられ、60年間この金網は除かれなかった。それほど幕府の方針に背いた罪は重いということである。それぞれの立場が違うゆえにお互いの主張が噛み合う事はなかったのですが、民を思いやる強い気持ちから物事に臨むところは、ある意味似たもの同士だったのかも知れない。

吉宗の時代の考察

 吉宗の時代は江戸幕府成立より百数十年経っている。つまり享保の改革時点で、「幕府」というシステムは限界が近づいていたのであろう。享保の改革とは徳川吉宗という才能を得て、江戸幕府がやれた最後の改革かも知れない。江戸幕府最後の将軍は十五代徳川慶喜であるがが、ある意味、徳川吉宗が「江戸幕府の最後の将軍」だったのではないかと思われる。

 吉宗は約三十年の間将軍の座にあり、その後、長男の家重に将軍職を継承させて自らは一線を退きました。とは言え、引退将軍である「大御所」として、政治には関わり続けています(九代家重は知的障害があったとも、言語障害があったとも言われ、そのために吉宗が政務を執り続けたともされます)。吉宗は将軍を辞めてのち6年間生き、寛延4(1751)年6月20日に亡くなりました。67歳でした。