善意の隣人

 預かった子供が二階から落ちて死亡した場合、法律はどのように適用されるであろうか。このような事例は刑事事件にはならないので、普通ならば善意の隣人はおとがめなしである。しかし世の中そう単純ではない。もし子供を預けた遊び人の親が民事訴訟を起こせば、善意の隣人は裁判で負け巨額の賠償金を払うことになる。隣人を訴える親に周囲の人たちがどれほど反感を持ったとしても、法律は善意の隣人に罪を着せるのである。
 最近、年老いた親の面倒をみない親不孝者が増えている。このことから老人の世話をするボランティア活動がさかんになっている。そして自分の子供よりもボランティアの若者に気を許す老人が多いのもご時世といえる。このようなの中で、散歩の途中で女の子が車椅子の操作を誤り老人を死亡させた場合、どうなるであろうか。親不孝者が女の子を訴えれば、たとえ金銭が目的だとしても、善意の女の子は賠償金を払うことになる。
 アメリカには「善きサマリア人法(グッド・サマリタン・ロー)」がある。これは新約聖書・ルカ福音書に書かれている善きサマリア人の1節のよるものである。あるユダヤ人の旅人が強盗に襲われ瀕死の重傷を負い道に倒れていた。この旅人を見て、ユダヤ人のエリートである祭司たちは旅人を避けるように道の向こう側を通るばかりで誰も助けようとしない。そして息も絶え絶えの旅人を助けたのは1人のサマリア人であった。旅人を介抱しながら宿まで運び、当座のお金まで置いていったのである。サマリア人は混血の民で、ユダヤ人にとっては血を汚した民と白眼視されていたが、ユダヤ人の旅人を助けたのは日頃から蔑んでいたサマリア人であった。
 イエスは善きサマリア人の話を終えると、群衆に向かい次のように言った。「あなたたちも、サマリア人と同じようにしなさい」。これが人間を愛するイエスの言葉であった。
 この善きサマリア人法は善意の行為を行った者は罰しないと定めている。それまでは医師が善意の救命行為を行い不幸な結果になった場合に訴えられるケースが頻発していた。そのため街で人が倒れていても医師は関わりを避け、知らないふりをするという悪習があった。この不条理をなくすために設けられたのが「善きサマリア人法」であった。
 10年以上前になるが、秋田県で5年間に1.500件以上の気管内挿管を救急救命士が行っていた。救急救命士は気管内挿管が医師法違反であることは承知の上で、法律よりも目の前の患者を優先させた美談であった。何でも医師まかせ、何でも法律優先、このような理不尽な現状に憤りを覚えていたので、このニュースは痛快かつ感動的であった。
 しかしこの事件に厚生労働省は大騒ぎになり、救命士の医療行為はまかりならんとの通達が下され、救急車から気管内挿管の器具が外されたのである。馬鹿な話である。1500人の命を救った救急救命士の職業倫理こそ表彰すべきなのに、石頭の官僚によって患者の生命が吹き消されてしまった。
 秋田県では心肺停止から蘇生処置を行った人の救命率は11.4%で、全国平均3.3%の3.4倍も高かった。似たような杓子定規の話はいたるところに転がっている。神戸や東日本の震災で外国人医師を拒んだのも医師法であった。在宅介護におけるヘルパーにも医療行為の壁が立ちふさがり、家族に認められている医療行為であっても法律はダメとしている。患者を預かるヘルパーや看護婦の現状を非現実的な法律がじゃまをしている。
 医療事故で最も頻度の高いのは患者の転倒、転落で、これらが医療事故の4分の1を占めている。また食事の誤飲の頻度も高い。そしてひとたび事故が起きると大変なことになる。家族の反応は2種類にわかれ、本人の不祥事をわびる家族と、病院の管理をなじる家族である。そして最近、後者の頻度が増している。
 元来、法律は悪人を罰するためのものである。この法律が善意の者を罰するならば法律などないほうがましである。法律を盾に取る人間ほど醜悪なものはない。
 医師法は病気という弱い立場の患者を助けるために制定されたはずである。医師法の条文がその目的を凌駕するようでは医師法の意義が薄れてしまう。法律でしか判断できない私たちの悪習である。
 救命士の問題で救命救急士の制度が改定され、気管の挿入や薬剤の投与を行う特定行為認定、薬剤投与認定が制度化された。しかしその認定を取るのに時間や費用がかり、緊張感、疲労感、時間もないのに勉強して研修を受けなければいけない。しかも特定行為や薬剤投与は、病院の医師と無線で連絡を取り医師の指示のもとで行うという縛りがある。そのためかつての秋田県のように救命率は上がっていない。
 このような事例に対し誰もが抱く違和感は、たとえ善意による無償行為であってもそれを阻む法律があることである。さらに賠償金が民事訴訟の決着となるため、賠償金が訴訟の目的であるかのようにも感じさせる。
 医療においては大きなミスがあっても結果が良ければ医療訴訟は生じない。反対に結果が悪ければミスが無くても訴えられる。訴えるのは相手の自由なので、たとえ善意による医療行為でも結果が悪ければ訴えられる。医療の結果の善し悪しは、医療行為よりも病気の勢いに支配されるが、結果が悪い場合に、たまたま医療側に落ち度があると問題になる。
 本当に悪いのは病気そのものである。精神病患者が犯罪を起こした場合、患者に罪を問わないのは患者個人に罪があるのではなく病気そのものに罪があるからである。医療側の明らかなミスは刑事事件で争われるべきであるが、医療訴訟のほとんどは民事事件になっている。
 医療訴訟において、医師は常に加害者の立場にある。裁判所は弱者救済の建前があり、患者勝訴の事例が多く見られる。このような傾向が賠償金を目的にした訴訟の急増と言えなくもない。またマスコミの医師に対する悪口が、何でも医師を悪者にする、何でも患者を被害者にする先入観を作っているのかもしれない。医療側にとって不可抗力と思われる事例があまりに目立つのである。
 医療訴訟のさらなる違和感は、死因なりの争点を白か黒かで断定する裁判所の考え方である。人間の病気に対する反応は不可解かつ不明瞭の部分が多く、生死の因果関係さえ分からない場合が多い。このように白でも黒でもない不明瞭な争点に対し、裁判は白か黒かで争うことになる。もともと分からないものを争うのだから、判決が下っても判決文はこじつけの文章となる。
 医師は瞬間の判断の違いで医師生命を失うが、裁判官は何年間もかけた一審の判決が二審で覆されても罪も罰もなく、逆転判決となっても裁判官は平気な顔をしている。彼らは一審の判決をわびるようなそぶりさえ見せない。医療にせよ裁判にせよ所詮人間の考えや判断には限界がある。医師は白衣を、裁判官は黒マントをはおりながら、それを威厳で装っているにすぎない。
 世の中は、好意と善意、習慣と道徳、義理と人情、道理と宗教、このような社会常識で成り立つが、法律とこれら社会常識とが相反する場合、この不条理の難問を直視し、人間の知恵でどうにか解決すべきと思う。
 いずれ天国に行ったらヒポクラテスや小石川療養所の赤ひげに医師のあるべき道を問うてみたい。また人間社会の善意という常識を評価しない裁判の是非を大岡越前守に聞いてみたいと思っている。