責任という無責任

 いつの間にか日本中に無責任が蔓延している。
 政治家は日本に1000兆円の借金を残し、金銭の不正を犯した知事は頭を下げても退職金は辞退しない。企業の経営者は不祥事がバレても、不祥事を解決するとが責任であると逆手にとる。

 文部科学省は子供の学力を低下させ、厚労省は病院経営を悪化させた。これらは大罪であるが、それを罰する法律がないので、彼らはのうのうとしている。日本のトップは権限はあっても恥も責任もない。まさに日本は不思議な国である。
 いっぽう学校の先生は、子供に体罰を与えると、それが子供を思う気持ちからであっても、世間から糾弾されるので見て見ぬふりをする。
 かつて住民に密着していた警察は、日常の相談まで聞いてくれた。しかし人権がうるさく言われるようになると、苦情を訴えても民事不介入で被害が出るまで動こうとしない。
 これらは無責任な国民が、学校の先生や警察の責任ばかりを強く言い過ぎたからである。
  無責任な国民は、街にたむろしている非行少年を注意せず、家庭、学校、警察、文部科学省の責任としている。しかしそれでは地域住民としての責任を果たしていない。国会議員が逮捕されると、悪いのは議員本人であるが、議員を当選させた責任は国民にある。国民は国民としての身近な責任を放棄し、無責任な傍観者になっている。単なる評論家を真似た観客である。
 マスコミは子供の教育上に最悪のものを放映し、嘘だらけの健康番組では視聴率を上げ収入を得ている。情報汚染がマスコミの生活の糧ではあるが、今のマスコミにはオピニオンリーダー、社会の木鐸としての自覚がない。あまりに正義ぶった無責任である。
 病院で問題が起きると、その当事者や院長を責める。事故調査委員会が設置されが、彼らは事故を起こした当事者を悪人に仕立てる。その方がマスコミに叩かれず、世間受けがよいからである。当事者を悪人と決めつけ、クビにすれば非難も受けずに解決するからである。病気が引き起こす悪い結果まで病院に責任をとらせ、病院は当事者の医師や看護師に責任を転嫁する。これでは再発防止にはならない。
 20年ぐらい前は、赤ん坊の頭の形が良くなるとして、うつ伏せ寝が主流であった。しかし最近では、うつ伏せ寝による乳児の死亡があると病院が訴えられ敗訴する。自宅で同様に子供が死ねば母親は訴えられず、病院で死ねば病院が訴えられる。さらに介護のヘルパーが訴えられるケースまでおきている。
 患者が食事を喉に詰まらせれば病院が訴えられ、患者がベッドから落ちれば病院が怒鳴られる。家で同じ事故が起きれば、加害者である家族は訴えられず同情される。
 病院は家族の仕事を代行しているのに、なぜこのような現象が起きるのか。病院職がプロという理屈であるが、病院職も同じ人間である。厚労省は病院での家族の付添を禁止し、専門職の病院に責任を押し付けた。
 かつての病院は家族が付き添い、患者の食事や排便の世話をしていた。そのため家族は生死の実情や病気そのものを理解していた。そして医師や看護婦が忙しく働いているのを知っていた。
 厚労省が家族の付添を禁止したのは世間へのゴマすりである。そして結果として家族の責任を病院に転嫁させた。そのため事故が起きると、病院の実情や病気の本質を知らない家族は裁判に訴え、医療の現場を知らない裁判官が実情にあわない判決をだす。
 世の中に変人がいるように、医師にも変人はいる。そして忘れていけないのは、裁判官にも変人が多いという事実である。
 裁判官は自分自身の良識で判決を下すとされている。しかし良識は数学ではないので、裁判官によって判決が異なる場合がある。世間知らずの裁判官が常識にそった判決を出すとはいっても良識は世間にあわない良識である。また変人裁判官であっても、国家公務員なので辞めさせることはできない。その防止策が陪審員制度である。
 かつて植木等とクレイジー・キャッツが「無責任」という言葉を流行させた。しかしその時代の無責任はお笑いでかたづく程度のもの、無責任と言いながらも、心の中には責任感と良識があった。
 現在は、誰も責任を取りず、誰かに責任を押しつけようとする。あの時代の数10倍以上の無責任社会であり、責任転嫁も数10倍以上である。
 無責任な者は、心からの謝罪はない。恥もなければやましさもない、頭を下げても形式行為だから自分が悪いとは思わないない。そして無責任な者の発言が世の中を殺伐とさせている。このような世の中が良いはずはない。傍観者の無責任のツケをまわされる次の世代に未来はあるのだろうか。
 マッカーサー元帥は日本人を12歳の国民と称したが、今の日本人はいったい何歳位の国民なのだろうか。