現代の魔女狩り

 差別用語というものがある。これは社会的弱者に対する偏見を助長し、人間の可能性を否定する言葉として使用が制限されている。この差別用語については基本的人権に関する教育や法律の整備によりある程度の使用制限がなされ、また弱者に対する差別を悪とする考えが理解しやすいため、差別用語に反対する者はいない。
 身体的差別、男女差別、人種差別などは、これらを意識しても口に出すことは少なくなった。しかし弱者に対する差別とは別に、私たちはあらゆる人や職業に対し正のイメージで相手を批判する特性を持っている。この特性から生じるもっともらしい批判が、得てして問題解決の障害になる。具体的には教師は教師らしく、警察官は警察官らしくである。
 他人を評価する場合、自分が抱く理想的イメージで相手を批判することがある。この正のイメージによる差別は社会的に認知されていないだけに問題になる。
 妻は妻らしく、夫は夫らしく、子供は子供らしくという言葉は、それを理想とする者の勝手な考えであり、当事者にとっては余計なことである。男は男らしく、女は女らしくの言葉も同様で、自分のイメージを相手に押しつける身勝手な考えである。
 自分の妻や夫が、理想とする伴侶像と違う場合、我慢するか我慢できずに離婚となる。離婚の原因の多くは相手の現実を認めず、架空の伴侶像を正しいと固守するためである。自分のイメージを批判せずに、相手の現実を批判する。相手は何も変わらないのに、裏切られたと勝手に憤慨する。しかも過度の期待が、 常識的な考えと思い込んでいるため争点はすれ違いのままになる。
 個々の人間はそれぞれが独立した存在であり、考えも互いに違うことを忘れている。相手への理想が高いほど、相手へのイメージが強いほど軋轢を生じることになる。
 個々の人間はそう変わるものではない。立場により表面上変わっているように見えるだけである。職業意識という言葉があるが、職業によって人間の本性が変わるはずはない。立場によって人が変わるのではなく、立場に合わせて人が無理をしているのである。しかし世間はこの現実を許さない。
 学校の教師が犯罪を犯すと大きなニュースになる。そして教育者が何たることかと批判が集中する。犯罪への批判は当たり前だが、教師を必要以上に批判するのは聖職のイメージとの隔たりがあるからである。犯罪を犯した学校の先生は普段評判の良いことが多い。これは教師として表面を装っても、教師もひとりの人間であることを表している。
 政府官僚が失言すると、野党はピラニアのように揚げ足に噛みつき、マスコミはハイエナの集団のごとく吠えまくる。靖国参拝に私人公人の区別はどうでも良いと思うが、それを追及されたくないのならば日曜に参拝することである。官僚といえども日曜は私人である。それでも聞いてくるなら「クリスマスも正月も同じ私人ですよ、遊びにいらっしゃい」と答えればよいのである。
 医師についても、一般人の思い込みが激しい。医師は人間愛に満ち、患者のために自己を犠牲にしなければいけない。このような善のイメージに加え、 医師は傲慢で非人間的、権威を振りかざし金権主義との悪のイメージがある。一般人にとってこの二つのイメージが交錯し、何か問題が起きると二つのイメー ジが相乗効果を起こし、一般人のみならず社会全体が切れてしまう。
 医療事故が起きると、事故の真の原因を追及せず、社会全体が医師をバッシングする。「患者に対する思いやりがない」の言葉で批判する。さらに権威者と称する者が、世間の先頭に立ちバッシングを煽り立てる。これが看護師の場合は、看護師は人間愛に満ち、医師に虐げられているイメージがあるため世間からの批判は少ない。
 しかし医師も人間である、人間である以上間違いもあれば落とし穴に落ちることもある。人間は事故を起こす存在と考え、その対策を図るべきである。
 現在は事故に学ぼうとする再発防止より、犯人探しの興味だけで終わることが多い。このような魔女狩り的発想では事故を減らすことはできない。なぜ事故が起きたのか、医師が悪いのかシステムが悪いのか、その事故の本質を探る姿勢が必要で、その解決には問題を共有することである。
 医師や看護師の多忙が原因ならば、医療従事者の良好な心身状態をつくることである。そのためにコストが必要ならばコストを主張することである。安全に対するコストを考えず、責任だけを押しつける発想では何ら解決には結びつかない。夜間の当直は徹夜であるが、ふらふらの状態で、医師は翌日も普通に働いている。このことを一般人は知らない。
 イメージで相手を批判する行為を差別と呼ぶならば、医師を始めとした期待度の高い職業人も正の差別を受けている。そしてこの差別に基づく魔女狩り的集団ヒステリーが物事の解決を歪めている。そろそろ問題の本質に目を醒ます時である。