危機に対する脆弱さ

危機に対する脆弱さ

十代将軍・徳川家治の老中、田沼意次は、まさに「抜本的改革」を行おうとした人である。この人は、三大改革のように商業資本に抗うのではなく、むしろその流れに乗ってしまおうと考えたのだ。

彼は、株仲間(財閥)の結成を後押しし、その上で彼らに運上金をかけた。すなわち、「法人税」を発明したのである。それまでの幕政では、納税義務は農民にしか生じなかった。商人は賤業であるがゆえ、納税義務も無かったのである。だが、言うまでもなく、それでは農民が窮乏化して商人が肥えるだけであるから、田沼は商人の実力を正しく認め、この状況を改善しようと考えたのである。

田沼は大規模な干拓事業を開始した。印旛沼などを干拓し広大な農地にしようとしたのである。さらに、北海道を開拓しようとした。これはいわゆる「公共事業」で、田沼は公共事業が景気効果があることを知っていたのである。もちろん農地を増やすことで農業経済を強化する目的もあった。

しかしその過程で事業者から賄賂が流れ、田沼はそれを遠慮なく受けとおた。田沼にしてみればこれも抜本的改革の必要悪であった。しかしいわゆる「政治献金」は、儒教道徳が脳髄の隅々にまで染み渡った教条主義者たちにして見れば「絶対悪」であった。田沼は多くの幕臣たちから白眼視された。

不運なことに浅間山の噴火とともに「天明の大飢饉」(1783年~88年)が襲った。田沼はその対策に追われ改革を行えなくなった。これは政敵から見れば「政策の失敗」を意味する。やがて田沼の息子・意知が、江戸城内で暴漢に斬られて殺される事件が起きた。これは政敵の陰謀であった可能性が高いが、この事件が契機となって田沼は失脚した。

彼に代わったのは最大の政敵であった松平定信であった。しかし松平定信の「寛政の改革」はアナクロニズムの大失敗に終わった。彼は儒教オタクであって、田沼の着眼点の先進性に少しも気づかなかった。「寛政の改革」はひたすら農民と武士の関係ばかりに目を向けて、武士たちに「質素倹約」を強要することで商業資本を抑えようとした。それでは短期的な「問題先送り」にしかならない。

田沼意次の失脚は1例に過ぎない。「高度官僚統制社会」では、異端児とか天才、周囲に理解されず迫害されることが多い。未知なことや新しいことを危険視し敵視するのが官僚の特質なのだから、それが幕政の硬直化と想像力の欠如と無能の根源になる。

 世界は17世紀の終わりごろから寒冷期に入った。ヨーロッパで、植民地獲得競争や宗教戦争が激化したのは、そのことと深い関係がある。日本は鎖国のおかげで幸いにして戦争とは無縁だった。しかし気候の寒冷化にともなう凶作や飢饉の頻度は激しさを増し、農民一揆が次々に起こる情勢となった。

幕府はこの危機に対して適切な措置を取ることが出来なかった。官僚化し硬直化した幕府の官僚たちにとって、このような事態は「マニュアルに載っていない想定外事項」だった。そのため飢饉に見舞われた地域に対して、幕府直轄領や他の大名領から古米を適時に供給するシステムを整備できず、いたずらに被害を拡大させてしまった。

ところで従来の通説では、江戸期の農民は武士から残酷な搾取を受けて、いつも飢え死に寸前の悲惨な生活をしていたことになっている。しかし農民は実際には収穫の2割から3割を納税すれば良く、その暮らし向きはそれほど悪くなかった。むしろ明治時代の方が貧困になっているが、なぜこのような間違った通説布されたのかというと、全文の冒頭で述べた「マルクス史観」の影響である。マルクスの進歩史観では、社会は時代の流れとともに比例的に良くなるはずである。そんな論者の立場からは江戸期の農民の方が明治の農民よりも豊かだったという結論は絶対に許すことが出来ない。だか、わざと歴史を捻じ曲げたのである。我々が学んだ学校教科書にはこういう類の嘘がたくさん書いてあるので要注意だ。

江戸期に百姓一揆や飢饉が頻発したのは史実であるが、それは武士による極端な搾取のためではなく、気候全体が寒冷化した上に幕府の官僚機構が硬直化したためである。

幕府の官僚制度の問題点に議論を戻すと、「海防問題」がある。幕府は情報統制の手段として「鎖国」を行い、交易や海外交渉は長崎の出島を唯一の拠点としてオランダと清国(中国)以外との交渉を固く禁じていた。どうしてオランダは良かったのかというと、彼らは交易の条件としてキリスト教の布教を強要しなかったからである。

ともあれ日本に憧れるシーボルト(ドイツ人)などの西洋人は、オランダ人に成りすまして来日するしかなかった。このシーボルト医師は日本の地図を母国に持ち帰ろうとして大問題となる。幕府の統制は極めて厳しかったのだ。17世紀の終わりごろから、ロシア船が北海道や千島近辺に出没するようになった。ロシアは当時、良質な毛皮を求めてシベリアを横断しカムチャッカ半島までも領土に組み入れ、そして不凍港を求めて日本に接触を図ったのである。幕府はロシア船に送り届けられた漂流民(大黒屋光太夫が有名)などを通して彼らの情勢を探ったものの、基本的には国民の手前では「無かったこと」にしていた。

世界の情勢は徳川家康在世のころに比べ、刻一刻と変化していた。しかし家康が築き上げた「高度官僚統制社会」は、こうした変化に目を背けて「無かったこと」や「問題先送り」にすることを習い性にしてしまった。「高度官僚統制社会」は、国家の危機に際して意外な脆さを露呈する。そして黒船来航によってついに持ちこたえられなくなり、江戸幕府は倒壊するのであった。