関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの背景

 戦国時代を終焉させ、その後の日本を決定した「関ヶ原の戦い」は日本最大の合戦で、まさに「天下分け目の戦い」であるが、その詳細はあまり知られていない。それは「関ヶ原の戦い」は戦国時代の終わり頃で織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信などの戦国時代の英雄はみな死去し、しかも関ヶ原の戦いに至るまでの過程は長く、政治的な理由や利害関係が複雑に絡んでいるからである。

 しかも戦いは1日で終わっているため、映画やドラマでは取り上げにくく、小説や歴史書では比較的取り上げられるが、関ヶ原の戦いに至るまでは様々な経過が積み重なっていて複雑である。つまり逆にいえば複雑な経過を知らないと関ヶ原の戦いを理解しにくいのである。また間違いやすいのは、関ヶ原の戦いは「徳川家康と反家康」の戦いであり、豊臣家は名目上関係ないことである。

 1598 年8月に太閤・豊臣秀吉が死去すると、豊臣家による天下はそまま「豊臣家が支配し五大老と五奉行がそれを支える体制」がとられた。秀吉が最も頼りにして、同時に最も恐れていたのは関東に地盤を置く256万石の徳川家康だった。

 秀吉は臨終の際に五大老筆頭の家康を呼び寄せて「わしの死後は、秀頼の後見をくれぐれもよろしく頼む」という遺言を残して、他の家老の前で秀頼への忠誠を誓約させている。
 5大老とは有力な大名によって構成された権力者の代表で、以下の5人である。

・関東を支配する五大老の筆頭家老である「徳川家康」256万石。

・北陸地方を支配する秀吉の親友「前田利家」83万石。

・中国地方の西部を支配する大名「毛利輝元」120万石。

・中国地方東部を支配し、秀吉に可愛がられた「宇喜多秀家」。

・越後・会津の大名で上杉家の後継者「上杉景勝」120万石。

 この五大老の宇喜多秀家の前に、小早川隆景が五大老に入っていたが、秀吉より先に死去したため脱落している。

 また五奉行とは豊臣家の中で政務を取り仕切った上層部で、筆頭が石田三成で、以下増田長盛、浅野長政、前田玄以、長束正家であった。この五大老・五奉行の中でもっとも主要な人物は、それぞれの筆頭である徳川家康と石田三成である。

  豊臣秀吉が死去すると、まず行動を起こしたのが徳川家康であった。徳川家康はそれまで秀吉が禁止していた各大名や家臣の「婚姻の斡旋」「領地の授与」などを五奉行に相談なく独断で行った。もちろん亡き太閤殿下(秀吉)の決めた事にそむく行為であり、豊臣五奉行は怒り、特に筆頭奉行の石田三成 は家康を非難した。

 家康は有力大名である伊達政宗・蜂須賀家政・黒田長政・加藤清正らと親族を介して婚姻関係を結び勢力拡大を図ったが、一時は、前田利家に上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老と石田三成が家康の違法行為に対して一触即発の雰囲気になった。

 石田三成は豊臣秀吉の側近として重用されていたが、それゆえに武将の失敗や失態を釈明なく秀吉に報告し、それに対する秀吉の処罰を告げていた。そのような役目だから仕方ないが、そのため多くの武断派武将から嫌われていた。

 石田三成は官僚ゆえに合戦で戦うことはなく「戦わない者に、あれこれ指図されてなるものか」と戦場で戦った武断派の武将から特に嫌われていた。豊臣秀吉が生きている頃から、豊臣家の内部では石田三成を中心とする官僚派(文治派)と、合戦で戦った武断派の間で対立があり、この内部対立が「関ヶ原の戦い」の原因になっている。

 豊臣秀吉の死後、家康が勝手に婚姻や知行の斡旋を行ったことが、文治派との対立を深めたが、この対立は戦いにはならなかった。それは前田利家が仲裁役になっていたからである。

 

前田利家

 尾張中村の百姓から天下人に上り詰めた豊臣秀吉は、死を前にして息子の豊臣秀頼の行く末が心配であった。また強大な勢力を持つ徳川家康の動きが気がかりであった。そこで北陸に大領地を持つ親友の前田利家を牽制役として、家康と共に五大老の一人に命じていた。案の定、家康は秀吉死後に態度を変え、有力大名と無許可で姻戚関係を結ぶなど、秀吉が決めた規則を無視する行動をとり家康派を増やしていった。

 前田利家は豊臣五大老の NO.2 としての権力を持ち、その人徳から多くの武将や大名に慕われていて、そのため文治派と武断派の対立は避けられていたのである。

 豊臣秀吉の死後、加藤清正、福島正則、黒田長政ら朝鮮半島で戦っていた武断派が帰ってくると、秀吉の命令書を送っていた石田三成ら官僚派と反目するようになった。徳川家康は加藤清正たちの武断派に目をかけて恩をばら撒き、石田三成らは人望の厚い前田利家を頼りに武断派の動きを牽制した。

 前田利家は家康の勝手な振る舞いに反発して、五奉行寄りの立場として武断派の暴発を抑えていた。徳川家康も有力武将の多くが豊臣家に忠実な前田利家に味方しているとして、前田利家に逆らうのは不利と判断して和解していたが、秀頼にとっては不運なことに豊臣家の忠実な守護者であった前田利家が、1599年4月にあっけなく病死してしまうのである。

 伏見城に入った徳川家康の権勢はますます高まり、豊臣秀頼に形式的には臣従しながらも奈良興福寺の僧侶・英俊が家康のことを「天下人に成られ候」と書き残したように、民衆の多くは徳川家康を「天下人」として評価した。

 武断派と文治派の内部対立が強まったが、豊臣家に忠節を尽くしていた文治派の石田三成に人望はなく、有力な武将を秀頼方につなぎとめることができなかった。このことが豊臣家の滅亡の一因になった。

 秀吉亡き後に徳川家康と真っ向から勝負できるだけの人望と武略を持っていた前田利家が死去すると、豊臣家の内部分裂は激化して「石田三成暗殺未遂事件」を引き起こすことになる。

 

石田三成暗殺未遂事件

 前田利家が死去すると、石田三成と対立していた武断派の7名が結託して石田三成を亡き者にしようと襲撃したのである。その武将とは福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長といった戦国時代の名将で、さらに池田輝政、蜂須賀家政、脇坂安治も加わることになった。

 石田三成は事前に襲撃を察知すると、三成は驚嘆して襲撃前に姿を消し、ライバルである徳川家康の伏見の邸宅に逃げ込んだ。そのため徳川家康がこの事件の仲裁をおこなうことになる。武断派の武将たちは石田三成を匿った家康に反発したが、この事件で石田三成は謹慎処分になり、三成は奉行職を失脚すると領地の佐和山城(彦根市)に引きこもることになる。

 徳川家康が武道派の反発を受けながらも、石田三成を助けた理由は不明であるが、家康がここで三成を殺せば、豊臣家が反家康でまとまると考えたのだろう。実際には、この仲裁に乗り出して事件を解決したことから家康の影響力はさらに大きくなった。と同時に、豊臣家の文治派と武断派の対立は修復不可能になる。

  徳川家康は失脚した石田三成の代わりに政務を指揮することになった。家康は他の五大老たちを領地へ帰還させると、秀吉が晩年を過ごした京都の伏見城へ入り、五大老の権限を家康ひとりで振るまうことになった。さらに豊臣家の大阪城の西の丸に入ると、徳川家康の権力はさらに強化された。もちろん他の五大老や五奉行にとって家康の独断支配は面白いはずはない。

  前田利家が死去し、前田家を継いだ前田利長は豊臣五奉行の浅野長政と結託して「徳川家康暗殺計画」を計った。しかしこれが事前にもれ浅野長政は失脚し、家康は前田利長を討伐するため兵を集め、前田家の本拠地である加賀を討伐しようとした。

 前田利家の嫡男・前田利長は家康と一戦交える覚悟をしたが、母のまつ(芳春院)が家康に敵対するのは無理として、自らが人質になることで家康と前田家との戦いを回避した。諸将を糾合する人望と信任のあった前田利家であれば徳川家康と互角の戦うことが可能だったが、家康は前田家の3倍以上の石高を持っており、嫡男の利長では他の五大老や五奉行などの勇将をまとめるだけの人望と戦略性が備わっていなかった。前田利長が家康に服従する姿勢をとったため成敗は回避されたが、このことで豊臣五奉行はさらに弱体し、天下は徳川家康のものになると誰もが思い込んでいた。

 

上杉景勝征伐

 1600年の正月、徳川家康は各大名に年賀の挨拶を求めた。ところがこの挨拶を上杉謙信の後継者で五大老の一人である上杉景勝が断り、それを伝えた上杉氏の家臣・藤田信吉を謀反の疑いで処罰したのである。上杉景勝は秀吉には大きな恩義があったが、家康に従う理由はなかった。

 1600年2月、徳川家康は越後領主・堀秀治と出羽領主・最上義光から、会津の上杉景勝が無断で軍備を増強し、城の防備を固めていると知らされ、さらに上杉氏の家臣で謀反の疑いで処罰を受けていた藤田信吉が会津から江戸へ「上杉景勝に謀反あり」と訴えてきた。

 徳川家康は問罪使を上杉景勝の元へ派遣するが、上杉景勝の重臣・直江兼続が「直江状」と呼ばれる書簡を返書として送ってきた。

 この直江状は有名で、その内容は「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど、子供のようなもので釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけで、そちらは京都で人たらしの茶器を集めているが、こちらは田舎者ゆえに武具を整えるのが武士だと思っている。これは国ごとの風流の違いと思いたい。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをして、景勝には謀反の心などまったくないのに、こちらに違約違反を言うのはおかしい。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せるのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」

 この直江状は家康への堂々とした挑戦状であった。あざけるような内容に怒りが頂点に達した家康は「上杉景勝と石田三成はすでに連携していて、直江状は自分を誘い出すための挑戦状」と受け止めた。

 家康は上杉景勝の叛意は明確として会津征伐を宣言した。出陣に際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石が下された。このことは朝廷と豊臣家から「豊臣家の忠臣である家康が、謀反人の上杉景勝を討つ」という大義名分を得たことになる。

 会津征伐は家康が半ば強引に決定したことだが多くの武将が参加した。そもそも五大老筆頭たる徳川家康が「豊臣秀頼様のため」と言って出陣し、しかも豊臣家からも軍資金や兵糧米が出されているので、諸将としては「豊臣家による反逆者征伐」をそう簡単に断れなかった。結局99人もの武将が集まったが、その中には今後の天下は家康のものとを見破り、家康に媚を売ろうとした者もいた。
 1600年6月16日、家康は大坂城から軍勢を率いて上杉景勝征伐に出征し、同日の夕刻には京都の伏見城に入った。ところがそれ以降、江戸までの進軍はきわめて遅かった。この出兵は家康に反感をもつ石田三成の挙兵を待っていたためである。

 

石田三成

 徳川家康が出陣したため大阪城には徳川派がいなくなった。石田三成の単独ではまったく歯が立たない状態であったが、三成は次第に賛同者を増やし、ついに家康打倒を掲げて兵を挙げるに至った。

 この家康の会津征伐には、後の関ヶ原の合戦で西軍についた大谷吉継も参加するつもりでいた。大谷吉継は石田三成と親友だったので、所領の越前敦賀から江戸に向かう途中で石田三成の佐和山城に立ち寄った。

 ここで石田三成大谷吉継を館に招くと打倒徳川の相談をした。この大谷吉継は豊臣秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わしめた名将であったが、皮膚がただれ腐っていく「ハンセン病」のため、他の者が近寄ることはなかった。石田三成はそれを気にせず、大谷吉継に家康打倒を語った。大谷吉継は三成の家康征伐の計略を聞いて、勝機なしと断固拒否して三成の説得にあたるが、三成の決意は固く、三成との友情と熱意から大谷吉継は西軍に参加することになる。
 その後、石田三成は豊臣五奉行の増田長盛、豊臣家の重臣の小西行長、豊臣五大老の毛利家の家臣の僧侶・安国寺恵瓊などと相談して、徳川軍打倒の計画を立てた。三成は「豊臣家を守るため」と諸大名に訴え、ついに五大老のうちの3人(毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)を味方につけた。
 翌月、石田三成はついに家康に対し13か条の問題点を書き連ねた「内府ちかひの条々」を各大名に公布し徳川討伐の挙兵を宣言した。「内府ちかひの条々」とは家康への弾劾状で「内府」とは徳川家康のことで「ちかひ」は間違いの意味である。

 つまり徳川家康は13の間違いを犯しているということで、13の間違いとは家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行い、無実の前田家や上杉家を攻撃し、勝手に手紙のやり取りを行い城の一部を無断で改修した、このような様々な家康の罪状を並べてたのである。

 石田三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康が占領している大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆とともに、豊臣五大老である中国地方の大名・毛利輝元(毛利元就の孫)を総大将として軍勢を整えた。西側の大名が徳川軍に参加できないように関所を封鎖すると、大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取った。徳川家康の東軍か、石田三成の西軍かに全国は分断され争うことになった。その頂上決戦とも言うべき戦いが「関ヶ原の戦い」である。

「内府ちかひの条々」の宣言の翌日、西軍(宇喜多秀家、小早川秀秋、小西行長、長束正家、長宗我部盛親、島津義弘、鍋島勝茂ら兵数40,000)が、東軍が駐留する京都の伏見城を攻撃した。伏見城には徳川家の重臣・鳥居元忠が守っていたが、守備軍 はわずか1800 人であった。

 

伏見城の戦い
 伏見城は豊臣秀吉が京都市南部に造った邸宅を兼ねた城郭で、秀吉の死去後は家康が関西における本拠地としていた。家康は三成が挙兵すれば、真っ先に伏見城を攻略すると予測していたが、最大の決戦は会津でつける以上、伏見城には必要最低限の兵士しか残せなかった。つまり伏見城では確実に負ける戦いを予想していた。家康は家臣の鳥居元忠を総大将に内藤家長、松平近正、松平家忠といった譜代の家臣と1800人ばかりの僅かな兵を伏見城に残した。
 鳥居元忠は家康が駿河の今川義元の人質だった頃から従っていた武将で、家康の戦いの中で多くの武功を立てていた。鳥居元忠との信頼関係は並大抵のものではなく、まさに家康にとって「自分のために死んでくれ」といえる人物だった。数々の権謀を駆使した家康でさえ、その別れの夜は鳥居元忠と話しながら涙が止まらなかった。

 当初、薩摩の島津義弘と小早川秀秋は東軍に味方するつもりであった。そのため伏見城に入城の意思を示したが、鳥居元忠は家康にそのような話は聞いてないと拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わった。
 7月19日の夕方、伏見城の戦いが始まった。戦いを前に「家康のいる関東に戻った方が良い」という家臣がいたが、鳥居元忠は「主命に従って戦うまで」と一蹴して、多勢に無勢のまま半月にわたる籠城戦に挑んだ。西軍は昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、鳥居元忠は大軍を相手に奮闘したが、8月1日に伏見城が炎上すると鳥居元忠は自刀して果てた。

 

小山評定

 上杉景勝を討つため会津征伐に向かった家康は、途中の下野国・小山の陣で石田三成ら西軍が決起し伏見城を陥落させたことを伏見城からの使者から知らされた。家康は重臣たちと協議し、上杉景勝征伐に従軍していた武将達に「人質を取られ困っている者もいる。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない、道中の安全は保証する」と言った。

 すると猛将・福島正則が立ち上がり「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する」と発言し、黒田長政がそれに続き、さらに織田家の旧臣だった山内一豊が「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する」と宣言した。

 この発言から反対意見はなくなり、石田三成に反感をもつ武断派の大名たちは家康に味方し「秀頼公を害する奸臣・石田三成を討つ」と家康を総大将に東軍が結成され、西軍が待ち受ける上方に方向を反転した。

 ここで石田三成軍=西軍、徳川家康軍=東軍という、関ヶ原の戦いの2大陣営が決定した。これが有名な小山評定である。

 東軍は徳川軍と福島正則の軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。徳川軍の本隊は徳川秀忠を大将に榊原康政・大久保忠隣・本多正信らが宇都宮城から中山道を進軍し、家康は息子の結城秀康に上杉景勝・佐竹義宣への抑えとして関東の防衛を託した。家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。

 あまり知られていないことであるが、この小山協定で家康の言葉に従って軍を引き払った武将が一人いる。この武将は田丸忠昌(具安)で、美濃・岩村城の城主で蒲生氏郷の妹婿である。田丸忠昌は「三成ごときが内府殿に刃向かうなどとは笑止千万であるが、三成は秀頼様を擁しており、ここは内府殿にお味方は出来申さず」、つまり三成というより豊臣家に恩義があると田丸忠昌は軍議の席上で堂々と言った。周りが福島正則の言葉に同調しているなか「わしは西軍につく」と言うのは相当の覚悟である。ちなみに家康はそれを聞いて、まったく気を悪くすることはなかった。自分で「西軍についても恨みには思わない」と言っているのだから、怒る方が筋違いであるが、家康は忠昌の忠義の姿勢を賞賛して「はなむけ」として刀を一振り与えた。この田丸忠昌は関ヶ原に参戦していたがあえなく敗走し、所領は没収され越後に流罪になっている。

 その後、東軍の細川忠興の妻 ・細川ガラシャ(明智光秀の娘) が、「人質となっては東軍にいる夫の邪魔になる」と、屋敷に火を放って自ら死を選んだ。この話が伝わると東軍の結束は強まり、石田三成が人質を取ったことが逆効果になった。

 真田昌幸(真田幸村の父)は小山評定で徳川軍から離脱し、この真田昌幸の離脱が後になって、徳川軍に大打撃を与えることになる。

 徳川家康は石田三成と戦うことを決めたが、もともと上杉景勝を討伐するための軍勢だったため、上杉景勝がこのままでいるはずがなかった。西軍へ向かう背後から襲ってくる危険があった。そのため徳川家康は武断派の大名に先鋒を言いつけ、8月5日から1ヶ月近く江戸城に篭もり、関東を中心とする各大名に協力を要請し、関ヶ原のための足場を固めた。関東・東北で西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉景勝・佐竹義宣であった。

黒田長政の活躍
 東軍の多数派工作や西軍の裏切りにおいて最も活躍したのが黒田官兵衛の嫡男の黒田長政であった。黒田長政は家康を助け、これは秀吉に貢献した父・黒田官兵衛の姿をほうふつさせるものであった。
 この時期の長政についての記述は少ないが、長政は朝鮮進出で労苦するが得られるものが少なく秀吉に叱責されている。そうなると豊臣政権に対する愛着は乏しく、むしろ諫言した石田三成に憎しみを持つようになった。

 長政にとっては石田三成は敵であり実際には襲撃もしている。もし三成が関ヶ原の戦いで勝てば自分の身が危なくなる。そうなれば家康に味方して三成を倒し、家康が勝つほうが自分のためになった。また父のように天下取りの争いに参加したい気持ちがあった。

 まず黒田長政は小山評定において、福島正則が「家康の味方をする」と宣言することを事前に約束させた。福島正則は清州(愛知県)24万石の領地を持つ秀吉子飼いの武将で、福島正則が家康の味方になると宣言すれば、他の武将たちは同意すると読んだ。福島正則が家康の味方をするのは豊臣秀頼のためであり、秀頼を裏切ることにはないと思わせた。

 福島正則は感情が激しく石田三成を深く憎んでいた。それを利用して家康の味方にすれば三成を討つことがでる。黒田長政と福島正則は共に「石田三成暗殺未遂事件」で石田三成を襲撃しようとした仲なので、説得は難しいことではなかった。黒田長政と福島正則は東軍として活躍する流れをつくった。

 小山評定に参集していた武将たちは上杉景勝を討伐するために集まったのであり、西軍と戦うために集まったのではなかった。そのため家康としては集まった武将たちを東軍に引き込み、石田三成と対決させなければななかった。小山評定において「家康こそ正義であり、石田三成は悪である」と福島正則に言わせることが必要だった。
 家康が西軍討伐を宣言しても説得力はないので、福島正則に言わせる必要があった。この工作は成功し、福島正則は評定の後、岐阜城攻略戦や関が原の戦いで死力を尽くして東軍に勝利をもたらしている。
 次に黒田長政は西軍の小早川秀秋と吉川広家に寝返り工作をした。小早川秀秋は秀吉の養子で跡継ぎだったが、秀吉に秀頼が生まれたことから、毛利家の分家に養子に出されていた。この小早川秀秋もまた朝鮮への討ち入りにおいて三成の讒言を受け秀吉から処罰されており、30万石の領地を半分に削られていた。
 しかし秀吉の死後、家康のはからいで秀秋は元の領地に復帰し、秀秋は家康に恩があり、かつ三成を憎んでおり、東軍への寝返りしやすい状態にあった。
 小早川秀秋は1万5千の大軍を擁しており、関が原の重要な戦術拠点である松尾山に軍を置いていた。そのため秀秋の動向が関が原の戦いを左右しかねないほどであったが、黒田長政はこの秀秋に工作を行い東軍への内通を約束させた。秀秋は東軍につくことを決意すると、西軍に攻撃をしかけて西軍を崩壊させた。
 吉川広家は毛利家の分家である吉川家の当主で、関が原における毛利軍の2万を指揮する立場にあった。吉川広家はもともと三成が家康に勝てるとは思っておらず、本家の当主である毛利輝元が西軍の大将を務めていたことをにがにくしく思っていた。
  そのため黒田長政と交渉し、吉川広家はあらかじめ東軍に内通していることを知らせていた。この吉川広家は長政と共に朝鮮の戦場で戦った友人で、秀秋のように戦場で寝返って西軍への攻撃はしなかったが、関が原の戦いでは戦闘に参加しなかった。
 吉川広家は毛利軍の後方にいた長宗我部や長束の軍勢を戦場に参加させず、約3万の兵力を無力化させている。黒田長政は小早川秀秋の軍勢1万5000を寝返りさせ、吉川広家を戦いに参加させず西軍の戦力を半減させた。
 このよう なに寝返り工作が成功したのは、長政が小早川秀秋や吉川広家と以前からつながっていたからである。父・黒田官兵衛は小早川秀秋が小早川隆景の養子になるために口利きをし、吉川家の本家の毛利家と織田・豊臣家の代表として外交交渉にあたったのであった。また官兵衛と吉川広家は親しい友人同士でもあった。
 こうした縁があるために、長政は両者とつながりやすく、秀秋とは朝鮮でも戦場を共にした仲なので交渉にはうってつけだった。
 長政は裏切り工作を成功させただけでなく、関が原の戦場では石田三成軍の主力武将である島左近を討ち取るなどの活躍を見せている。これらの働きによって家康から「関が原の一番の功労者」と賞賛され、領地を17万石から約3倍の52万石に加増されている。
 実際、長政の活躍がなければ、たった一日で関ヶ原の戦いの決着はつかなかった。長政が活躍できたのは、策士としての才能もあり、朝鮮からの帰国後に他の武将と結束して三成を襲撃した過去があったからである。
 黒田家が西軍の毛利家と昵懇の仲であり、補佐した徳川家康の戦力・名声が他の武将より抜きん出ていたため工作がやりやすかったのである。これらの条件が長政に活動しやすい下地を与え交渉が進行しやすかったのである。

 

徳川家康の関東・東北対策

 徳川家康は東北の大名・最上家(山形)と伊達家(宮城)に上杉景勝を抑えさせ、結城秀康(家康の次男)には佐竹義宣(水戸)を抑えることを命じた。最上家と伊達家は上杉景勝への攻撃を命じられるが、上杉景勝は最上家が攻め込むことを察知して、山形の最上家に対して直江兼続と前田慶次に先制攻撃を命じた。最上家は追い詰められるが、 伊達政宗が最上家の救援に向かい戦いは激化したまま一進一退の攻防のすえ、最上家は上杉景勝を抑えることが出来た。

 慎重な家康は、佐竹義宣の反撃の危険性から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間に160通の書状を全国の諸大名に送り、鹿島神宮・浅草観音に祈祷を命じた。これは源頼朝が平家を追討したときと同じで、家康はこの出陣を頼朝にならい武家政治確立のための門途(かどで)とした。家康が江戸城から出陣したのは9月1日で、9月11日に清洲、9月14日には美濃・赤坂に着陣した。

 東軍の先鋒として福島正則がすでに進軍しており、江戸から東海道を通り、三河や尾張(愛知県)を一気に進み各拠点を押さえていった。福島正則は清洲城に入ると、西軍の美濃国に侵攻し織田秀信が守る岐阜城を落とした。しかしその後、家康は信長の嫡孫である織田秀信の命を助けている。

 

織田秀信

 織田秀信は清須会議で豊臣秀吉に担ぎ上げた織田信長の孫・三法師のことである。三法師は織田信長の嫡男・織田信忠の嫡男で、織田信長の孫に当たるが2歳の時に本能寺の変で祖父の信長と父・信忠を同時に亡くしている。

 三法師は本能寺の変のときは物心もつかず岐阜城にいた。「跡継ぎは三法師様」と決まったが、当然実務はできないので、当分の間は信長の側近・堀秀政が後見となった。また政争相手にあたる叔父・信孝に岐阜城で見張りつきの生活を余儀なくされた。豊臣秀吉が「三法師様を出せ」と言って一度は秀吉の元にゆくが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家についた織田信孝が自害した後は、もう一人の信長の叔父・信雄の後押しを受けた。しかし実際に身を寄せたのは親族の誰でもなく丹羽長秀のところだった。
 三法師は岐阜城で元服すると、名前を「秀信」と変えている。織田家の通字である「信」より「秀」が先に来ていることが秀吉の陰謀を感じさせる。秀信は11歳で小田原征伐に参加し、12歳で岐阜城13万石大名になっている。
 朝鮮の役では前半戦にあたる文禄の役で渡海し、文禄の役では多くの兵が亡くなっているが秀信は無事に帰っている。秀吉の死後は関ヶ原の戦いを予見し、前年から岐阜城で戦いの支度をしていた。当初は会津征伐に参加するつもりだったが、支度が間に合わず、その間に石田三成から美濃・尾張をもらうことを条件に西軍についた。

 そのため東軍の福島正則・池田輝政と戦うことになるが、20歳になった秀信は、自ら出陣して迎え撃つが野戦で敗北し、岐阜城で籠城戦に持ち込んだが多勢に無勢だった。岐阜城は長い間、織田家や豊臣家に使われていたため、内部の構造が知れ渡っていたためあっさり陥落した(岐阜城の戦い)。秀信は切腹するつもりだったが、周囲の説得で思いとどまった。

 秀信の戦いぶりについて福島正則は「さすがは信長の孫」と賞賛し、その名に恥じない采配だった。石田三成は「岐阜城はしばらく持ちこたえてくれるだろう」と思っていたので、岐阜城落城は三成側の誤算であった。

 家康は秀信の一命を助け、秀信は異心のないことを示すため剃髪して高野山へ向かった。しかし高野山はかつて信長と戦ったことがあるため、入山しても周囲の視線からか、5年後には自ら山を下りて麓で細々と暮らした。しかし下山からたった20日で秀信は死去してしまう。享年25であった。英雄の孫であったが早すぎる死であった。病気のため下山したとも考えられるが自害した可能性もある。秀信は信長の孫という立場で自分の役目を成し遂げたのである。

 

徳川秀忠の大遅刻

 天下分け目の「関ヶ原合戦い」で、徳川家康率いる東軍と石田三成が率いる西軍とが激突したが、この戦いに家康の三男・秀忠も3万8000の兵とともに中山道から上方に向かっていた。

 徳川秀忠の軍勢は9月15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかったが、それは途中の上田城に徳川軍から離脱して西軍についた真田昌幸真田幸村 がいたからである。秀忠が率いる軍勢は徳川軍の本隊であったが、秀忠は大遅刻してしまい家康に激しく叱られてしまう。

 上田城には2000人が兵がおり、徳川秀忠の軍勢は38000の兵であった。兵力には圧倒的な差があり、秀忠は楽勝と思っていたが、名将・真田昌幸の防戦に大苦戦となった。徳川秀忠軍は「上田城を落とせず、戦わずに進むことは恥になる」と時間をとられてしまう。

 家康に味方する諸将は東海道を通って西へ向かっていたが、徳川秀忠は西に向かわず、途中で小諸城に立ち寄った。小諸城は武田信玄が築城した城で、徳川秀忠はこの小諸城を拠点に真田昌幸・幸村(信繁)父子の上田城を落とそうとした。大軍で包囲して攻めれば簡単に落ちるだろうと軽い気持ちであった。このとき秀忠22歳、しかも初陣で多くの兵を引き連れて気持ちが大きくなっていた。

 

上田城落城へのこだわり

 徳川秀忠が石田三成という敵を前にして、上田城の真田昌幸・幸村父子にこだわったのは、1585年の第一次上田合戦での敗北があったからである。かつての家康は8000の大軍を上田城に向かわせたが、たった2000の真田軍相手に苦戦し撤退を余儀なくされた。この屈辱を晴らしたいとする思いが、秀忠を上田城に向かわせたのである。上田城合戦は秀忠の血気による行動ではなく家康の命令であった。

 真田昌幸は武田信玄に認められ、秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれた名将である。目的のためなら手段を選ばない昌幸の策略が、真田家を戦国大名として躍進させていた。関ヶ原合戦のとき昌幸はすでに53歳、22歳の若き秀忠は昌幸の策略に見事はまってしまった。

 小諸城に入った徳川秀忠は昌幸の嫡男・真田信幸(東軍)と本多忠政を「降伏勧告」の使者として上田城に送った。すると真田昌幸はすんなりとこれを受け入れたのである。秀忠はやはり昌幸といえども3万8000もの兵の前に怖気づいたかと内心得意げだった。しかしこれこそが昌幸の策略だった。徳川秀忠は知謀・昌幸の策略にはまったのである。

 

時間稼ぎが目的

 真田昌幸が降伏を受け入れたのは時間稼ぎだった。昌幸はこの時すでに東西両軍の決戦城は濃尾平野になると読んでいた。その上で、家康は城攻めよりも野戦が得意なので、秀忠軍をここで足止めして、野戦を遅らせればその間に三成は大垣城に籠り、寝返りを待つことができると考えた。そのため降伏を約束した昌幸はなかなか秀忠のいる本陣に挨拶にこなかった。しびれを切らした秀忠が再び仙石秀久を使わしたところ、昌幸は今度は「西軍につく」と言いだしたのである。

 秀久は再び降伏を勧告する使者を派遣したが、昌幸がこれを受け入れることはなかった。こうして秀忠と昌幸は直接対決となり、徳川軍は昌幸の巧みな戦略の前に多くの犠牲者を出して敗北してしまった。こうしたやり取りにより、結局、秀忠の率いる徳川軍の本隊は上田城に7日間も足止めされ、関ヶ原決戦に遅刻する羽目になった。

 秀忠の本隊不在ながら、東軍は関ヶ原の戦いに勝利を収めることができたが、遅れた秀忠は家康に激しく叱られた。

 遅刻したこと以上に3万8000もの兵を率いながらわずか5000の真田軍に敗北したことへの叱責は大きかった。敗北した上に遅刻までした秀忠は、三方ヶ原で血気にはやって敗北した家康と同じだった。親子2代に渡って若い時に挫折と屈辱を味わうことになった。

「戦わずに西へ進め」という家康の使者が大雨で遅れて伝わらず、徳川軍の兵力の半分を徳川秀忠が率いていたが、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。このことは徳川家康の大誤算となった。合戦後の論功行賞では東軍の諸侯に西軍の没収地の大半が与えられたが、家康は秀忠の面会を断った。

関ヶ原の戦い前日

 西軍の総大将は毛利輝元であったが、名前だけの大将で大阪城から出陣しなかった。そのため実際には石田三成が指揮をとることになった。石田三成は徳川軍の京都・大阪への進軍を止めるべく、関ヶ原の近くにあった「大垣城」に入った。戦場に到着した東軍(徳川側)はまず大垣城の近くに布陣するが、徳川家康の本隊の進軍が思いのほか早かったため、急に増強された東軍を見て西軍(石田三成側)の兵は動揺を隠し切れなかった。

 東軍が大垣城に進軍すると、石田三成は決戦の地「関ヶ原」へと移った。名将として名高かった島左近は、石田三成から「私の知行(領地)の半分以上を与えるから、ぜひ家臣になってくれ」という申し出を受け、感動して石田三成のために尽くした武将である。その島左近は西軍の兵の動揺を鎮めるには「勝つ事」しかないと考え、島左近はさっそく兵の一部を率いて東軍の前に向かい敵を挑発した。

 この挑発にのった東軍の部隊が島左近の兵に襲いかかり、その勢いに押されて島左近の軍勢は後退するが、これは作戦の内で敵をおびき寄せた所で敵の背後を伏兵が遮断すると、孤立した東軍を包囲攻撃した。おびき出された東軍の部隊は壊滅し、それを見た西軍の兵は奮い立ち動揺も鎮まった。この戦いは関ヶ原の前哨戦となった「杭瀬川の戦い」と呼ばれ、東軍と西軍はにらみ合いが続きそのまま夜になった。

 大垣城にて家康との戦いの戦略をたてる西軍に、薩摩の島津義弘は「雨で見通しが悪いので、城を出て夜襲で勝負をかける」と石田三成に進言するが却下されてしまう。夜襲の提案が採用されなかった島津義弘は腹を立て、合戦に非協力になる。西軍は薩摩の猛将・島津義弘の協力を失うことになる。

 石田三成が主力と考えていた「豊臣五大老」の大名家・毛利家・宇喜多家の軍勢は、当主を含めて武将の多くが二代目であり、戦国時代を生き抜いた経験が少なかったため動きが鈍く思ったような軍事行動が出来きなかった。また徳川側からの寝返り要請、石田三成の不人気が影響して、西軍の武将や兵士の「やる気」に問題があった。

  石田三成の陣営、徳川家康の陣営、この双方ともにこの夜にどう動くか色々と思案していた。島左近が「杭瀬川の戦い」で戦ったが、ここで小早川秀秋が1万5千の大軍を率いて関ヶ原の近くの「松尾山」に突然移動した。「松尾山」は西軍の大垣城の西にあり、そこには西軍の別の部隊が駐留していたが、小早川秀秋の軍勢が勝手にその部隊をどかして居座ったのである。「裏切りそうな小早川秀秋」が自分たちの側面の山に布陣したことは西軍の石田三成たちに不安を呼んだ。

 一方、東軍は石垣城に篭っている西軍を、何とか城からおびき出したいと思っていた。そのため「東軍は大垣城を包囲したまま、本隊は大阪方面に進軍を続け、大阪と京都を制圧する」 という噂を西軍に流した。

 西軍は小早川秀秋にらみを利かせるため、あるいは「東軍が大垣城を包囲したまま大阪に向かおうとしている」という噂に影響され、その夜、西軍は大垣城を出て夜の雨にまぎれて松尾山の近くに移動した。

 

鶴翼の陣
 東軍はすぐに西軍を追いかけて両軍は関ヶ原へ向かうが、関ヶ原に先に到着した西軍は石田三成が笹尾山、宇喜多秀家が天満山、小早川秀秋が松尾山、さらに毛利秀元が南宮山に布陣して関ヶ原の高所の大半を抑え東軍を囲む鶴翼の陣を布いた。関ヶ原にて東軍を待ち構える西軍の布陣は万全のものであった。

 西軍の勇将「島左近」は石田三成の本陣のすぐ前に布陣し、東軍の本陣近くには戦国最強と呼ばれている「本多忠勝」や、赤備えの猛将「井伊直政」などの部隊が控えていたが、関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地で、その中に入った東軍を山の上に布陣した西軍が完全に包囲するかたちになった。

 後に明治になって陸軍大学校の教官・ドイツのメッケル参謀少佐が、関ヶ原の戦いにおける東軍西軍の配置を目にすると即座に「西軍の勝ち」と断言した。これに対し日本の軍人は「勝者は東軍です」と答えると、メッケル参謀少佐は「そんなはずはない。この布陣で負けるはずがない」と大いに不思議がった。

 西軍は鶴翼の陣で東軍を待ち受けた。鶴翼の陣とは鶴が羽を広げたような陣形で、中央に入り込んだ敵軍を翼を閉じるようにして殲滅することができた。西軍の布陣は笹尾山前方に石田三成、隣には池寺池横、小関村付近には島津義弘・豊久、北天満山に小西行長、南天満山には宇喜多秀家が陣取り、藤川を渡った藤川台地には大谷吉継・平塚為広、松尾山に小早川秀秋、その麓に赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治が並び、さらに伊勢街道を挟んだ南宮山には毛利秀元、吉川広家、垂井側の南宮山東麓には安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親が陣取った。西軍の布陣はおよそ8万数千、東軍の兵力よりもおよそ1万人上回っていた。

 まさに東軍をぐるりと取り囲む鶴翼の陣で、全ての部隊が西軍として行動していれば、野戦上手な家康でも負けるはずだった。その意味では家康の布陣は家康らしからぬ布陣であったが、実際の戦闘では西軍は少数の部隊しか戦闘を開始しなかった。

 本来ならば西軍は圧倒的に有利であったが、徳川家康は軍師で禅僧の閑室元佶に勝利の占いを行わせると大吉であった。家康は鶴翼の西軍の多くの諸将と内通しており、鶴翼の陣の奥深くに陣を置いた。この戦いの総兵員のうち10分の1(約2万人)が鉄砲を装備しており、日本は世界一の鉄砲保有量を誇っていた。

 

戦闘開始

 東軍が関ヶ原に着いたのが午前5時ごろである。小雨が上がったものの、辺りは深い霧が覆い数メートル先も見えぬほどであった。しかしその中でまず東軍が動き始めた。9月15日午前8時頃、関ヶ原で東西両軍による決戦が繰り広げられた。激突した主な武将は以下のとおりである。

    東軍・福島正則  VS 西軍・宇喜多秀家
    東軍・藤堂高虎・京極高知  VS 西軍・大谷吉継
    東軍・織田長益・古田重勝 VS 西軍・小西行長
    東軍・松平、井伊、本多忠勝  VS 西軍・島津義弘
    東軍・黒田長政、細川忠興  VS 西軍・島清興(石田三成隊先陣)

 

先陣争い

 戦いは夜明けと共に始まった。東軍の先鋒隊は福島正則隊と決まっていた。福島正則は賤ヶ岳七本槍の一人で、血気にはやる猪突猛進の武将であった。しかし井伊直政と家康の四男・松平忠吉の抜け駆けによって戦闘は開始された。

 関ヶ原の戦いは「徳川対石田」の争いで、秀吉恩顧の福島正則隊よりも徳川直属の自分達が先を越したいと井伊直政は抜け駆けを決行したのである。

 井伊直政は「物見の為に先にでる」と偽りながら福島隊の脇を通り過ぎ、宇喜多隊を見つけるやいなや発砲して抜け駆けを成功させた。先を越されてなるものかと福島正則隊もすぐに後に続いて、関ヶ原の戦いは幕を開けた。家康は抜け駆けを厳禁していたが、霧の中での戦いだったので偶発的な遭遇がきっかけとされた。

 家康にしてみれば「もし福島が訴えられば井伊を処罰する」つもりだったが、関ヶ原で勝てばどうにでも取り繕えた。

 福島正則の性格からいって抜け駆けを訴えてもいいが、戦場では訴えている場合ではなく、ひたすら奮戦し勝利した後は家康に背くのはよくないとして訴えなかった。先陣にこだわらなくても充分な恩賞は期待できるし、むしろ訴えて家康の心情を悪くしたくなかった。

両軍の激突

 最大の激戦は、東軍の福島政則と西軍の宇喜多秀家の争いであった。福島正則の部隊には槍の名手「可児才蔵」がいて強力であったが、宇喜多軍にも「明石全登」という勇将がいた。東軍の主力である福島正則の部隊は、兵力の多い宇喜多軍に苦戦しながらも一進一退の状況が続いた。

 その後、石田三成の首を狙って東軍が殺到し、黒田長政が石田隊の左翼を突き、そこに細川忠興、加藤嘉明らが後に続いた。石田隊は木柵や空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎ、鉄砲、大筒などで必死に東軍を抑えた。黒田隊の狙撃兵が石田隊の先陣を打つと、石田隊は大砲を発射して応戦した。石田三成隊を攻めたのは、みながかつての「石田三成暗殺未遂事件」の実行者であり、石田三成に恨みを持つ者ばかりだった。しかし石田三成の本陣の前には「島左近」が立ち塞がっていた。その島左近は開戦早々に黒田長政の鉄砲隊の銃撃をまともに受けて重傷となり、本陣に担ぎ込まれてしまう。

 大谷吉継隊には藤堂隊・京極隊が3倍近い兵で何度も襲い掛かり東軍側が圧倒していたが、大谷吉継は何度も藤堂隊・京極隊を押し返した。小西隊には古田隊・織田隊が攻めかかった。

 戦場ではどちらが勝ってもおかしくなかったが、この時点では石田三成の方が有利であった。まだ参戦していない毛利隊と小早川隊合わせて4万5千の兵が東軍を攻撃すれば西軍の勝利は確実であった。

 家康隊3万はまだ戦闘には参加せず、開戦からしばらく経ってから桃配山を降りて最前線へ陣を移した。敵味方とも押し合い、鉄砲を放ち、矢の飛び交う音が天を轟かし、大筒が地を響かせ黒煙が立ち、日中であったが暗闇になり敵も味方も攻め戦った。

 開戦から2時間が過ぎると、石田三成はまだ参戦していない武将に催促の狼煙を打ち上げ、島津隊には応援要請の使いを出した。

 西軍は総兵力のうち戦闘を行っているのは3万3000人ほどで、地形的に有利なため戦局は優位に進んでいた。西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って個別に戦っていたが、部隊間の連携が取れていなかった。

 これに対して東軍は部隊数、実動兵力数で上回り、西軍の各部隊に対し複数の軍勢が連携して同時多方面から攻撃を仕掛けた。入れ替わり立ち代り波状攻撃を加え、さらに最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、石田隊は猛攻を受けて柵の中に退却した。西軍主力部隊の抵抗力は頑強だったが、戦局を覆すほどの決定打にはならなかった。

 ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定するはずであった。

 しかし薩摩の島津義弘は「催促に来た使者が下馬しないのは無礼」として西軍への応援要請を拒否した。島津義弘は数々の合戦で活躍しその兵の強さは日本中に轟いていた。島津義弘は豊臣家への義理を果たすために西軍に参加していたが、元々は徳川家康に味方するつもりだった。石田三成の態度を嫌い、全面的に協力しているわけではなかった。島津義弘は関ヶ原での西軍の勝利よりも「島津家としての戦いをする」ために戦っていた。

 また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは徳川家と内応済みの吉川広家に行く手を阻まれて参戦できず、南宮山の毛利軍3万3,000の大軍は参戦しなかった。このことが直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となった。


小早川秀秋の裏切り
 家康は約束していた小早川秀秋隊が、松尾山の山奥に布陣したまま動かないことに業を煮やし、正午過ぎに松尾山へ向かって威嚇射撃を加えるように命じた。この家康の督促射撃によって小早川隊1万5,000の大軍が松尾山を降り東軍に寝返ったとされている。しかし轟音が響き黒煙が視界を塞ぐ中で、家康が打ちかけた鉄砲を判別できたかどうか分からない。家康が打った鉄砲が小早川の寝返りを促し、小早川がそれをきっかけに西軍を攻めたとされているが、秀秋自身は真相を語ることなく二年後にこの世を去っているため真相は明らかではない。

 なお小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「反逆は武士としてあるまじき事」として小早川秀秋の命令を拒否している。

 小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と戦っていた大谷吉継隊の右翼を攻撃した。大谷吉継は小早川秀秋の裏切りを予測していたため、600人の直属兵を温存しており、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。

 ところがそれまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍が小早川隊に呼応して東軍に寝返り大谷隊の側面を突いた。予測していなかった四隊の裏切りで戦局は一変し、戸田勝成・平塚為広は戦死して大谷吉継も自刃した。

 石田三成の軍勢はこの裏切りによってざわめき、陣列の混乱を生じさせた。大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂らの寝返りにより、藤堂・京極などの東軍は宇喜多隊に狙いをつけ関ヶ原中央へ向け進軍を始めた。ここで関ヶ原の戦いの勝敗はほぼ決定した。

 なぜ秀秋が裏切ったのか、諸説のうちの一つとして幼少の秀秋の親代わりになっていた秀吉の正室・北政所が東軍支持で、北政所と対立していた側室・淀君が西軍支持であったため、東軍に寝返ったとする説がある。また秀秋の石田三成への反感が原因とする説がある。慶長の役に行われた朝鮮・蔚山の戦いで秀秋の行動を軽率として三成が秀吉に讒言し、そのため秀秋は越前へ転封となるところであった。しかし家康のとりなしによって免れ、以降秀秋は三成を憎む一方で家康に心を寄せるようになり、それが寝返りに繋がったとされている。いずれにせよ東軍からの勧誘は8月28日より以前に行われていたことが判明しており、小早川秀秋は戦闘開始前から裏切りを決定していたと考えられる。

 

西軍敗走
 小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、家康本隊はようやく動き出し、東軍は西軍に総攻撃をかけた。宇喜多隊は小早川隊の攻撃を防いでいたが、3倍以上の東軍の前に壊滅した。宇喜多秀家は小早川秀秋と刺し違えようとするが、家臣に説得され敗走した。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれ小西隊も壊滅し、小西行長は敗走した。

 石田隊も東軍の総攻撃に粘り続けたが、島清興・蒲生頼郷・若江八人衆の舞舞兵庫(前野忠康)や森九兵衛などの重臣、さらには藤堂良政が討死し、石田三成は伊吹山の方面へ逃走した。三成は西軍の大将だったので、三成の首を挙げなければ戦の始末がついたことにならず、東軍の兵は文字通り血眼になって三成を探した。

 石田三成は木こりの姿に身をやつし、死に物狂いで逃げ続けた。三成は再起を信じて逃げ、佐和山城(彦根市)を目指したことは確かである。伊吹山をこえ佐和山城の北にある法華寺三珠院に逃げ込むと、住職は三成に「まず何が欲しいか」と尋ねた。すると三成は「家康の首がほしい」と答えた。

 勝ち馬に乗らないと「敵」と見なされるので、農民は落ち武者狩りに必死だった。かつての明智光秀も褒賞に目が眩んだ農民の落ち武者狩りに遭った。


島津勢の敵中突破
 島津隊は東軍に包囲されが敵中突破を行った。いわゆる島津の退き口(捨て奸)を開始し、島津義弘隊1,500人が鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央突撃を図った。西軍が壊滅・逃亡する中で反撃の虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は強行突破を行なった。島津隊は小早川隊を突破すると、家康旗本の松平・井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破した。

 この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものがなくなった。島津隊を見た家康は迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いた。しかし島津隊は家康の直前で転進すると、家康の本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を急いだ。松平・井伊・本多の徳川諸隊が島津隊を追撃するが、島津隊は捨てみの戦法を用いて戦線離脱を試みた。

 島津隊の将兵の抵抗は凄まじく、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退した。この追撃戦で島津方の島津豊久・阿多盛淳が戦死し、追撃した松平忠吉は狙撃されて負傷した。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれて落馬し、徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え指揮官が相次いで撃たれ、さらに本戦の勝敗がすでに決っしていたことから、家康は追撃中止命令を出し深追いを避けた。

 島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも殿軍の後醍院宗重、木脇祐秀、川上忠兄らが奮戦して義弘は撤退に成功した。

 島津盛淳は秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹した。島津家は戦功があった5人に小返しの五本鑓の顕彰を与えている。

 

毛利勢

 吉川広家は毛利元就の孫で、毛利秀元も同じ孫であるが、吉川広家は秀元より18歳も年上で数々の戦を経験し毛利家の重臣であった。年上で自分よりも戦の経験が豊富で実績のある吉川広家に毛利秀元が反抗できるかどうかである。毛利秀元が動いたとしても家康に内応している吉川広家が止めたはずである。

 西軍の壊滅を目の当たりにした毛利勢は戦わずに撤退した。毛利勢は浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けるが伊勢街道から大坂方面へ撤退した。毛利秀元が動かないので長束、安国寺、長宗我部は南宮山の東の平地で東軍と対峙していため兵を動くのは難しかった。南宮山の備えに配置された東軍は池田輝政と浅野幸長、山内一豊ら1万2千をこえていた。長宗我部・長束・安国寺らは毛利勢の殿軍に当たり少なからざる損害を受けたが辛うじて退却に成功した。

 安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して敗走した。西軍諸隊の中でまともな形で撤退したのは彼らだけであった。

  開戦当初は高所を取っていた石田三成の西軍が有利であったが、かねてから家康から懐柔策を受けていた小早川秀秋の軍勢が西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転し、西軍は総崩れとなり東軍の完勝に終わった。

 9月18日、徳川家康は石田三成の居城・佐和山城を落とし、9月21日には戦場から逃亡した石田三成を捕縛し、10月1日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。

 その後大坂に入った家康は西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に分配して、家康自らの領地を250万石から400万石に増やした。

 秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬこと」として咎めず、領地をそのままにした。しかし豊臣氏の直轄地を論功行賞として各大名の領地に分配したため、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石のみの大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。

 

大坂城の毛利輝元
 毛利輝元は西軍の総大将として大坂城におり、関ヶ原の戦場には輝元の養子・秀元が吉川広家と共に布陣していた。毛利輝元が出陣していれば、吉川広家は勝手な真似はできず西軍有利になっていた。あるいは毛利輝元が出陣に秀頼を伴えば、西軍有利はゆるぎないものとなっていた。
 三成ら西軍は8月23日の合渡川の前哨戦で、やや押されぎみになっていたので、東軍の動きを観察するとして大垣城に戻っていた。東軍は8月24日には美濃赤坂に集合。家康の本営もすぐ近くの美濃岡山に定めた。しかし集まった諸将は目と鼻の先にあった西軍が籠もる大垣城攻めを始めなかった。

 これは家康親子の到着を待っていたためである、実際に早馬によってその状況を家康にもたらした際には、家康は「それでよい、構えて事を急ぐべからず」と言った。ところが大垣城に籠もる三成は、この東軍の美濃赤坂帯陣を佐和山へ向かうための準備と判断した。それは東軍が、帯陣中に関ヶ原を含む数箇所に火をつけたからだった。
 三成は東軍の動きに基づいて、8月26日に大坂にいる毛利輝元に出陣を依頼したが、この使者は大坂城に着く前に東軍によって捕らえられ輝元の耳には入らなかった。三成は輝元への出陣要請を送ると同時に、方々に使者を出して戦への態勢を整えていた。しかしいくら待っても輝元は来ないばかりか何も反応もなかった。三成は輝元への出陣要請の使者が捕らえられていたことを知らなかったのである。
 毛利輝元が来ないことから、三成は9月10日になって、再度輝元に使者を送った。今度こそ輝元は出陣要請を受けて、毛利輝元は秀頼を奉じて佐和山に向かおうとした。しかしここで城内で妙な噂を耳にした。その噂というのが「増田長盛が東軍に内通している」というものだった。輝元はこれを聞くと即座に出陣を延期し、大坂城に座したまま西軍大敗の報に触れることになった。

 「関が原の戦い」は1日で東軍の勝ちに決着したが、毛利輝元が大坂城に入った時点では輝元は「関が原の戦い」の主役という意識はなく、最終的には「秀頼をおさえていたほうが勝ち」としていた。毛利輝元はこの争いは長期戦になると予想しており、大阪城から動かないのは常識的な戦略として不思議ではなかった。

天下分け目の合戦

 太閤・豊臣秀吉の死後、わずか2年足らずで美濃の「関ヶ原」で戦いが行われたが、戦いは関ヶ原の決戦を中心に日本各地で東軍・西軍に分かれてほぼ同時期に行われた。それらの戦いには互いに関連性があり、その頂上決戦が「関ヶ原の戦い」である。まさに天下分け目の合戦であった。

 日本各地における東軍・西軍の戦いは、その優劣に関わらず徳川に味方した東軍側が勝ちを得ることになる。しかも関ヶ原の戦いは1日で決着したため、その報を受けて地方では西軍に味方した方がすぐに撤退し、東軍に味方した方が勝った。

 関ヶ原の戦いは「石田三成と徳川家康の争い」であり豊臣対徳川戦いではない。つまり関ヶ原の戦いは豊臣家を支えるのが「石田三成なのか徳川家康なのかを争った戦い」であった。しかし名目上はそうであっても、豊臣政権は統一政権の地位を失い、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる。

 1603年に徳川家康は征夷大将軍として江戸に幕府を開くが、それでも豊臣秀吉の子・秀頼は家康に擦り寄る様子をみせなかった。家康が亡くなれば政権を豊臣秀頼に返すと楽観視していたのである。その証拠に家康の孫娘・千姫が秀頼に嫁いでいる。

 

東北の関ヶ原(慶長出羽合戦)
 関ヶ原の戦いのきっかけは徳川家康の会津・上杉景勝征伐である。家康は上杉景勝征伐のため東北に向かうが、小山で石田三成の挙兵を知ると東軍は西の関西に軍勢を反転させた。しかし会津・上杉景勝が背後から反撃してくる可能性があったため、家康は結城秀康を主力に、最上義光と伊達政宗に上杉景勝の監視を命じた。

 特に最上義光(山形県山形市)は上杉景勝(福島会津地方と山形庄内地方)と領地を接していたため衝突は避けられなかった。矢面に立たされた最上義光は兵力で劣っていたため、一時上杉勢に和睦を申し入れ動かなかった。

 しかし和睦の水面下で最上義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める姿勢を見せたため、9月9日、米沢城から直江兼続が率いる軍勢が、庄内の酒田城からは志駄義秀軍が最上領に押し入り、小野寺義道も最上領の湯沢城を攻撃した。ここに上杉景勝・直江兼続・伊達政宗・最上義光という名だたる大名たちが顔を揃えた。

 伊達政宗は徳川家康が勝利した暁には、旧領7郡を加増して百万石の領地を与えるという「百万石のお墨付き」を家康から受け取っていた。そのため伊達政宗は上杉領の白石城を攻撃して占領するが、これを返還することを条件に上杉勢と一時的に和睦の密約を結んだ。三成と家康の勝敗は誰も分かず、伊達政宗はこの乱世をどのように生き残り、勢力・領地を拡大するかを考えていた。伊達政宗は三成と家康の合戦の勝敗を見極めてから動こうとしたのである。

 上杉景勝軍は反転する家康の背中を追いかけなかった。それは「背中を突くことは卑劣であり、上杉の義にふさわしくない」という理由からであった。しかし米沢・庄内から直江兼続を大将に大挙して最上領に雪崩れ込んだ。直江兼続とはあの直江状を送った人物である。当初最上側は多くの城に戦力を分散させていたため不利な戦いであったが、討ち死に覚悟で戦に臨んだ家臣がたくさんいた。

 例えば畑谷城(山形県東村山郡)では、最上義光が撤退命令を出したにもかかわらず500人程度の兵で抵抗して最後には全員自害している。畑谷城は低山に位置し、城まわりはなだらかな地形で、上杉勢20000人では相手にできるはずはなかった。

 一方、上山城(上山市)では城外の最上軍と連携して上杉軍を打ち破っている。この上山城の戦いが、次の「長谷堂城の戦い」において上杉軍の戦力低下させることになる。
 最上義光の居城・山形城が目前に迫り、直江兼続はその手前8キロにある長谷堂城の総攻撃に着手した。この長谷堂城は別名。亀ヶ崎城と呼ばれ「亀の甲羅の如き堅城」という意味があった。上杉軍は最上軍勢を踏み潰すと、士気を上げて山形城の手前にある長谷堂城の攻略を始めた。

 一方、最上義光の甥である伊達政宗は、この7月に奪った白石城(宮城県白石市)を返還して上杉家と一時和睦の密約を結んでいた。しかし長谷堂城を落とされれば山形城が危うくなるため、最上義光は伊達政宗に救援を求めた。

 伊達政宗は上杉勢と最上勢を戦わせて疲弊した後に攻めれば、上杉勢を容易く退かせることが出来るとし、最上は労せずに我が物になるとしていた。しかし最上が潰滅すれば上杉景勝の脅威を受けることになるため、伊達叔父の(留守)政景を総大将に9月17日にとりあえず援軍を出撃させた。伊達政宗の援軍は口実であり総大将の政景に「最上軍とは合流するな」と命じたらしい。政景は最上領内に陣取って上杉勢と小競り合いを繰り広げたが形だけのものであった。
 伊達政宗と最上義光は昔から決して仲が良いとはいえなかった。しかし助けを求めてきた親戚を見殺しにはできなかった。さらに側近にも別方面から上杉軍を攻めさせている。
 9月15日に直江兼続本隊が長谷堂城攻撃すし、上杉軍は一気呵成に攻め立てようとするが、最上軍は地の利を生かして頑強な抵抗を続けた。また 最上軍も城の外に出て応戦し、ぬかるんだ深田で合戦が繰り広げられた。鉄砲の応酬と長槍での押し合いで一進一退が続いたが双方ともに引き上げた。上杉軍は一筋縄では行かないと見ると、城の周囲の稲の刈りを行い挑発するが、これは失敗に終わった。

 9月21日には伊達政景の援軍が最上城東方の小白川に着陣した。直江兼続は最上勢の勇戦に苦戦し、長谷堂城を攻略できず膠着状態となった。9月29日に上杉軍は長谷堂城へ総攻撃をかけたが、逆に上泉泰綱という武将に敗退し、戦線は膠着するかに見えた。しかし同日に関ヶ原の詳報が両軍陣営に達し流れは一気に最上勢に傾いた。

 直江兼続はすぐさま撤退を開始し、最上軍・伊達軍はただちに直江兼続を追撃した。最上義光が先頭に立ち猛攻を仕掛けたが、上杉軍は直江兼続が殿軍を務め、この追撃戦は大混戦となり最上義光は兜に銃弾を受けたほどであった。直江兼続勢は10月4日に米沢城に帰還したが、最上領内部に取り残された上杉勢は最上勢に敗れ降伏した。
 最上軍は本拠地の防衛に成功したが、一度奪われた城を奪還したのみで両方とも得たものはなかった。
 関ヶ原の勝敗が、東北の戦いにおいても立場を逆転させたのである。その結果、上杉家は大幅に減封され、関ヶ原の戦の長期戦化を念頭に裏をかこうとした伊達政宗は領土拡大は望めず「百万石のお墨付き」は反故にされた。政宗にとってはやりきれない話であった。(下:長谷堂城跡)

北陸での戦い
 秀吉が亡くなった翌年、前田利家もまた寿命を迎えていた。前田利家は嫡男の利長に「跡を継ぐのだから、秀頼様をしっかりお守りし、3年の間は上方を離れずに国元(加賀)は前田利政がしっかり守れ」との遺言を残した。

 しかし関ヶ原の前年、この前田利家の嫡男・前田利長が徳川家康の暗殺を計画したことから、家康は前田利長を征伐しようとした。しかし前田利長の生母・芳春院が金沢から江戸に人質に向ったため征伐は許されている。

 前田利長は親徳川を貫くため金沢城の内堀3kmを1ヶ月で普請すると、家康側に与することになる。家康は翌年6月に上杉征伐を宣言すると、前田利長は越後口を命じられ、上杉攻めを支援するために金沢を出た。

 北陸地方の戦いは「大谷吉継対前田利長」という図式になっていた。西軍の参謀役・大谷吉継は関ヶ原の戦いの直前まで北陸地方で西軍の軍勢の指揮をとっていた。北陸の前田利長は大大名であり、大谷吉継や石田三成では対抗できないので、大谷吉継は北陸諸将へ調略をかけて味方を増やした。このとき越前(福井)の大多数の大名が西軍につき、その中には前田家と戦うことになる丹羽長重がいた。

 7月下旬、前田利長・利政兄弟は先手必勝とばかりに2万5千の大軍を擁して、丹羽長重の守る小松城(石川県小松市)を攻めたが、小松城の兵は3000名ほどの守りだったが一向に落ちなかった。小松城はかつて数十年に渡って自治を勝ち取った加賀一向一揆の人々が作った堅城であった。前田利長は小松城を攻め取れる見込みが立たなかったため標的を変え、8月1日に西軍・山口宗永が篭る大聖寺城(加賀市)を包囲して3日で落城させると、青木一矩の北ノ庄城を囲んだ。

 西軍・丹羽長重の小松城が残されたが、小松城は泥地にある要害で難攻不落とされており、前田兄弟はあえて小松城には攻撃をせずにいた。

 しかし大谷吉継の大軍が大坂から敦賀へ向かっているという虚報に引っかかった。「西軍が伏見城を落とした」という事実に絡ませて「上方は西軍が制圧した」という嘘を流され、さらには「上杉景勝が旧領・越後を攻め取り、次は加賀へ向かっている」と前田軍に精神的圧力をかけた。
 前田利長は加賀南部を攻める際に、小松城を攻め落とせずわずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していた。このため撤退途中で丹羽軍が前田軍を追撃してくる可能性があった。前田兄弟は軍勢を二つにわけ、一方は金沢城に向かい、もう一方は丹羽長重が篭る小松城を攻撃をすることになった。これは退却時に丹羽軍が攻撃して挟み撃ちになることを防ぐためであった。

 前田軍が密やかに撤退するが、小松城に残っていた丹羽長重は前田軍の金沢への撤退を知ると、軍勢を率いて小松城から出撃した。8月9日、丹羽長重の伏兵が前田軍の別働隊を待ち伏せして蹴散らすと、前田利長の本隊を襲い大損害を与えた。この浅井畷の戦いにおいて前田利長は窮地を脱することができたが、殿軍をつとめた長連龍隊は多くの被害を出した。これが北陸の関ヶ原と呼ばれた浅井畷の戦いで、この戦いは丹羽長重と前田利長の間で行われ、両家とも信長の家臣だったため二代目同士の戦いとなった。

 両軍には元々兵力の差があり、膠着状態になると丹羽長重は和睦を申し出て小松城を明け渡した。やっと金沢に戻った前田利長は大急ぎで軍を建て直すと、9月12日に再度金沢を出たが、当時の誰も主戦場が関ヶ原となることを予想しておらず、結局、前田利長は関ヶ原には間に合わなかった。家康にとっては前田利長が敵にならなかっただけでも御の字であった。この時、弟の前田利政は七尾城に篭ったまま動かず東軍に加わらなかったため、後に領地没収の憂き目にあった。また北陸における西軍の奮戦は報われず、丹羽長重を始めとした諸大名は東軍に降伏を余儀なくされ、家康によって改易された。

九州での戦い
九州での黒田如水
 関ヶ原の戦いは徳川家康と石田三成の戦いであるが、この戦いの最中、両軍諸大名の領地でも戦いがおこなわれた。

 九州でも両軍入り乱れて戦うが、九州では島津氏を始め西軍が多く大規模な戦いはおきていない。しかし九州では主に黒田官兵衛(隠居して如水)と加藤清正が東軍となり西軍大名領に攻め込んだ。官兵衛(如水)は嫡男・長政が優秀な家臣を率いて東軍として関ヶ原に出陣していたため、独自に兵士を集めることになった。

 豊前中津の城にいた官兵衛(如水)のもとに石田三成から使者がきた。使者が携えた書状は「家康の非道を非難するものと、味方してくれという懇願じみた勧誘」だった。官兵衛(如水)はこれに眼を通すと「三成殿にお味方すれば褒賞はいただけるのか」と使者に尋ねると、「それは無論のこと。こたびの戦は秀頼様より仰せつかりしものなれば、褒賞も秀頼様より賜りましょうぞ」と答えた。官兵衛(如水)は「それがしはこの九州7ヶ国ほどを賜りたい。お約束いただけるならば異論はない、お味方致す」と言った。

 九州7ヶ国とは九州全体であり馬鹿げており、三成の使者は呆れてしまうが「ともかく主にお伝え致す」と言って下がった。

 官兵衛(如水)は石田三成が嫌いだった。官兵衛(如水)は以前から三成からあれこれと秀吉に告げ口をされていた。朝鮮出兵の時、三成が「作戦会議をしたい」とやってきた時に、官兵衛(如水)は「三成めが作戦会議だと」と侮り「待たせておけ」と言って半刻ほど待たせたことがあった。それを三成が「豊臣家の軍監として侮られた。これは豊臣家を侮辱するものである」と非難して秀吉に告げた。そのために官兵衛(如水)は咎めを受けた。
 官兵衛(如水)は家来に国元にいる雑兵の人数を聞いた。兵の大部分は嫡男・長政が連れて行ったので、ほとんど残っていなかった。官兵衛(如水)は「蔵にある金銀、米など、全部引っ張り出して、出来る限り兵を雇う」とし、惜しみなく金銀を使った。騎馬武者ならば銀200匁、徒歩武者ならば銀100匁、その他の一般侍は10匁と定め、大々的に兵の募集を始めた。仕官希望者を並ばせると片っ端から採用していった。
 今は蓄えなどあっても役に立たない。どうしても人数が必要なのだ。こうして官兵衛(如水)のもとには3500余りの兵が集まった。「兵士は3500ほどだが、まだ増え続ける。1万人くらいにはなろう」と言った。「1万人集まりまるでしょうか」と母里太兵衛が問いかけると「心配はいらぬ。この調子ならまだまだ増える。これを機に九州で暴れよう」と言った。
 官兵衛(如水)は肥後の加藤清正と連絡をとると、徳川家康に挙兵の意思を示し9月9日に中津城より豊前・豊後に出陣した。出陣した人数9千人を数え、如水はこれを1万人と言いふらして出陣した。
 官兵衛(如水)は天下を狙ったとする考えがあるが、実際にはどさくさに紛れて領土を増やそうとしたのであろう。何しろ才能・功績はあったが秀吉から警戒されて微禄に甘んじていたからである。官兵衛(如水)は関ヶ原の戦いは長引くと予想し、その間に実力で「九州7ヶ国」を手に入れようとした。

 官兵衛(如水)は豊後国東の垣見一直の富来城と熊谷直盛の安岐城をせめた。両領主は美濃の大垣城にいて留守を家臣が守っていた。両城の攻撃は大友義統による攻撃により一時中断されるが、9月24日には官兵衛(如水)により両城とも開城・接収されている。毛利高政の本城・日隈城や支城の角牟礼城も開城・接収された。

 侵攻中に官兵衛(如水)が藤堂高虎に宛ての書状では、官兵衛(如水)と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるように家康に取り成して欲しいと依頼している。

 佐賀の鍋島直茂は息子の勝茂が西軍についたが、鍋島直茂は東軍につき領国を保った。小早川秀秋の名島城は領主の留守中に黒田軍が秋月まで侵攻したが、留守居役と交渉して久留米攻めに合意して東軍となった。

 毛利秀包の久留米城は黒田・鍋島軍の攻撃を受け、10月14日に官兵衛(如水)により開城・接収された。中川秀成は西軍と疑われたが黒田軍について佐賀関の戦いでは大きな被害を出しながらも、太田一吉領の臼杵城を10月に開城させて東軍であることを証明した。臼杵城は最終的に官兵衛(如水)が接収した。

 関ヶ原の戦いの始末がついて、長政が帰国し官兵衛はそれを出迎えた。その時、領地を大幅に加増された長政は「家康は自分の手を3度もとって感謝してくれた」と官兵衛(如水)にうれしそうに報告した。これを聞いた官兵衛(如水)はどちらの手を家康が取ったかをたずね、長政が「右手」と答えると、「その時左手は何をしていた」と長政に言った。左手があるのにどうして家康を刺さなかったのかという意味であった。官兵衛(如水)にすれば、息子の長政の活躍によって自分の天下統一の夢が絶たれてしまったわけで複雑な心境であった。


毛利勝信
 毛利勝信(吉成)は中国の毛利氏とは血縁はなかったが、毛利輝元の使者として8月18日に熊本城の加藤清正へ派遣され西軍参加を説得した。毛利勝信は子の毛利勝永(吉政)が指揮した伏見城攻撃で多くの家臣を失い、続く安濃津城攻撃や関ヶ原の戦いでは、毛利輝元の家臣と安国寺恵瓊の指揮下に編成され、単独の軍事編成ができず家中は混乱していた。

 東軍についた官兵衛(如水)が軍勢を整えて小倉城を攻撃するが、西軍の盟主・毛利輝元は家臣を毛利勝信の門司城に派遣し、また小倉城も毛利輝元勢の統制下に置いた。しかし関ヶ原の結果により輝元も手を引き、毛利勝信の小倉城は官兵衛(如水)により開城・接収された。


加藤清正
 加藤清正は関ヶ原の前年に発生した薩摩・島津家中の内紛に際し、反乱を起こした伊集院忠真を秘かに支援していた。このことが家康に知られ、乱の収拾を図っていた家康の怒りを買い、その結果、上杉征伐への参加を認められなかった。

 加藤清正と家康の疎遠から、毛利輝元から書状が送られ必死に西軍への参加を求めた。しかし加藤清正は家康から上杉遠征軍に自らの家臣や小姓を随行させる許可を得るなど東軍としての態勢を整えていた。

 さらに家康は小山評定の直後に清正の家臣に書状を託して帰国させ、家康が尾張に到着するまでは勝手な軍事行動を控えるように指示を出し、東軍への参戦を認めた。

 この家臣が帰国して家康の書状を清正に渡すと、加藤清正は官兵衛(如水)と連絡を取り家康への協力を約束した。肥後では宇土城の小西行長と人吉城の相良頼房が西軍として出兵しており、家康からの書状により加藤清正は肥後と筑前は切り取り次第であることを認められた。

 熊本城を9月15日に進発した加藤清正は、大友義統に攻められた豊後・杵築城の救援に駆けつけるつもりであった。しかし石垣原合戦で大友軍が壊滅したことを、官兵衛(如水)からの書状で知った清正は豊後入るを取りやめ、そのまま小西行長の本拠・宇土城に向けて兵を出した。

 19日より加藤清正は小西行長の宇土城へ攻め城下を焼き払った。小西行長の本城・宇土城は堅守で加藤軍を苦しめ、さらに宇土城は島津に援軍を要請したため、島津義久は肥後に軍勢を派遣し加藤軍と戦った。しかし関ヶ原の結果を受けて小西行景が開城して自刃すると、島津勢も薩摩へ帰還した。関ヶ原から逃げ帰った島津氏を容認すると恩を売って服従させ官兵衛(如水)らの牽制に利用した。


立花宗茂
 立花宗茂は確かな戦い、誠実な人柄で、天下人・豊臣秀吉に「忠義・武勇、鎮西」と絶賛された武将である。大名に取り立てられ順調に人生を送っていたが、関ヶ原の戦いでは波乱万丈となる。立花宗茂のもとにも家康から東軍の誘いが来るが、家康に味方すれば豊臣家を裏切る事になるとして「義に背いて生き長らえるくらいなら死んだ方がまし」と西軍に属した。

 関ヶ原の戦いの一週間前に西軍から東軍に寝返った京極高次が籠る大津城を攻めた。立花宗茂ら西軍は15000の兵であったが、大津城に籠る京極の兵は3000であったが、思いのほか抵抗が強く城を落とすのに時間がかかった。
 立花宗茂は大津城を落城させたが、大津城落城はちょうど関ヶ原の戦いの日だった。急ぎ関ヶ原へ向かうが合戦に間に合わなかった。まさか天下分け目の戦いがこんなに早く終わるとは思っていなかった。

 立花宗茂は西軍の敗北を聞いた後、総大将・毛利輝元がいる大阪城へと向かった。「まだ戦は終わってない。東軍を追撃べき」宗茂は大阪城に籠城して東軍と徹底抗戦するように主張した。しかし毛利輝元が帰国したので、仕方なく九州に帰る事になった。大坂城から海路九州の柳川城へ向かった。

 その道中で同じ西軍に属していた島津義弘と遭遇する。島津義弘は関ヶ原で凄まじい死闘を繰り広げ命からがら戦場を脱出し、宗茂たちと同じく九州を目指して逃亡中であった。

 島津氏といえばかつて宗茂の父・高橋紹運の命を奪った仇であった。「島津の連中は数も少ないし、今なら簡単に義弘を討てる」と家臣が仇討ちを勧めるが、宗茂は「寡兵と見て討ち取るなど卑怯者のする事」と家臣をたしなめ、逆に島津義弘に「昔の事は少しも恨んでいない。我々は大坂方に味方した仲間同士であり、共に力を合わせて九州へ帰えろう」と伝え、宗茂は満身創痍の島津義弘達を護衛する形で九州まで共に進んだ。

 九州へ無事たどり着いた立花宗茂は柳川城に戻って籠城した。しかし九州にいる東軍の黒田・加藤・鍋島の攻撃を受け、10月20日には柳川北方で鍋島勢と衝突し(江上合戦・八院の戦い・柳川合戦)家臣が重傷を負うなどの大打撃を受けた。東軍の黒田官兵衛衛(如水)、加藤清正は立花宗茂に降伏するように説得し、観念した宗茂はそれに従って柳川城を開城した。ちなみに島津義弘は恩義に報いる為、宗茂のもとへ援軍を送ったが間に合わなかった。

 家康により身上安堵の朱印状を受領すると、加藤清正との和睦が成立し、柳川城は清正家臣の加藤正次が受領した。そこから宗茂の貧困生活がはじまる。浪人生活を経て立花宗茂が旧領の柳川に復帰すると、宗茂は柳川に入ってすぐに家臣を呼び戻し「私が浪人となった時、お前たちは物乞いまでして私を支えてくれた。お前たちは私にとって何よりも大切でかけがえのない存在だ」といった。

 この後、黒田官兵衛(如水)と加藤清正は鍋島・立花と九州連合軍を編成して島津攻めの準備に取り掛かるが、立花宗茂は仲介として和平交渉を行っている。関ヶ原の戦いから4年後、「立花宗茂ほどの男が埋もれたままではもったいない」と、宗茂は5000石で秀忠の旗本に迎えられた。その後、徳川秀忠の軍事的指南役として大坂の陣に参加し徳川の勝利に貢献した。

 なお家康は薩摩攻めを中止させ、島津攻めは計画のみに終わった。晩年の立花宗茂は家臣達と心穏やかに過ごした。(下左:黒田官兵衛(如水)中:加藤清正 下右:立花宗茂)

関東
 常陸(茨城)の大名の佐竹義宣は石田三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を挟撃するという密約を結んでいた。だが父・佐竹義重や弟の佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し、佐竹義宣の西軍加担に強硬に反対した。

 隠居したとはいえ一代で佐竹氏を北関東の一大勢力に成長させた佐竹義重の意見を佐竹義宣は無視できず、義宣は三成との親交と板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。

 家康は次男の結城秀康を関ケ原に連れてゆかず、会津の上杉の押さえとして関東に留めた。ただし家康は秀康をないがしろにしたのではなく「上杉の押さえはお前にしか頼めぬ」と懇々と説き、自分が若い頃から愛用していた鎧をその場で秀康に譲った。傍らにいた本多正信も秀康の膝を叩き「これで徳川の御子でござる」と喜んだ。なお結城秀康は家康の次男で秀吉の養子に出されていたが、秀吉に鶴松が生まれたことから秀康は下総の結城晴朝の養子となり徳川家の跡継ぎにはなれなかった。
 関ケ原の後、結城秀康は下総結城10万石から、一躍越前67万石に大加増した。結城秀康には、その威風を慕って多くの名のある将が集まり、徳川の家臣は3人の息子の中でも結城秀康に最も将器を見出し期待したが家康の判断は異なっていた。家康は3男の秀忠を将軍にして結城秀康を秀忠に従軍させようとした。


伊勢
 関ヶ原の戦いを目前に控えていた頃の伊勢国は小大名が割拠する国であった。その伊勢の国に所領を持っていた富田信高は、小山評定で石田三成率いる西軍が挙兵したことを知ったがそのまま徳川家康率いる東軍に参加した。この富田信高は豊臣秀吉の家臣で小牧・長久手の役の活躍した左近将監一白(知信)の子であった。

 富田信高は自らの所領である伊勢の国が京都から近いことから、西軍に自領を制圧されることを恐れ、同じ伊勢国の小大名で会津征伐に参加していた分部光嘉・古田重勝・稲葉道通らとともに西軍三万の大軍を迎撃するため、一足早く東軍の本軍と別れて一路領国へと急いだ。
 途中、西軍の九鬼嘉隆に捕捉されたが、無事に領国にたどり着くことができた。しかし三成軍は三万の兵を投入することが予想され、富田信高は小大名で援軍を含めても兵は1700人程度にすぎなかった。また家康に援軍を呼ぼうとしても西軍の九鬼嘉隆に伊勢湾を封鎖され、使者を派遣する事は不可能であった。

 幸いにも富田信高は九鬼嘉隆と旧交があったので、これを利用して難を避けようと咄嗟に一計を思いついた。「私はまだ東西いずれに属するのか決めかねているので、嘉隆殿と一緒に進退したいと思う」信高がこう伝えると、九鬼嘉隆は喜び西軍につくことを勧めた。こうしてとりあえず富田信高らは虎口を脱し領国に帰還したのだが、実は正に間一髪のところだった。

安濃津城の戦い

 1600年8月23日、四面楚歌の中で富田信高が立てこもっていた安濃津城に毛利秀元・吉川広家を主力とする3万の兵が襲来した。安濃津城の戦いは血で血を洗う大激戦となり、これまで伊勢国で行われた戦いの中でも最も激しい戦いとなった。
 8月25日、西軍は愛宕山の安濃津城を攻撃し、それに対して籠城する富田信高が自ら最前線に立って奮戦した。この戦いで富田信高と共に立てこもっていた分部光嘉は毛利家の家臣・宍戸元次と一騎打ちを行い双方重傷を負うほどであった。富田信高も味方の兵が一人二人と倒れ、ついに敵軍に囲まれてしまう。

 もはやこれまでと富田信高が意を決したその時、一人の美顔の若武者が単騎で信高のもとに駆け付け、瞬く間に敵を五、六人倒し信高を救った。信高は攻め寄せる敵をあしらいつつ、その若武者に近寄ったところ、若武者は信高に「嬉しゅうございます。お討死と聞き、枕をともにしたくてここに出てまいりました。生きてお目にかかれ、嬉しくて何も申せません」信高は若武者の顔を見て仰天した。それもそのはずである。この若武者は信高の妻だった。この日の妻のめざましい働きは見る者、聞く者を驚かせた。妻は夫を助けるために自ら鎧兜を着て出陣したのである。

 妻の活躍に助けられ、信高はなんとか本丸に戻った。この時妻は毛利秀元の家臣・中川清左衛門を討ち取っている。さらに翌日には富田信高自ら兵を率いて城から打って出て敵軍に突撃し、敵兵500人を討ち取る戦果をあげた。

 しかし兵力の劣勢を覆すことができず、翌26日に富田信高は西軍に降伏した。戦いには負けたものの小大名の意地を十分に見せつけた戦いだった。城兵もよく頑張り弓や鉄炮を乱射して西軍の猛攻を持ちこたえた。力攻めの愚を悟った西軍は8月25日、高野山の木食上人らを城内に遣わして降伏開城を勧め、さすがに戦い疲れた信高はこれを受け入れた。なお信高の妻は宇喜多直家の弟・安心入道忠家の娘で年齢は20代半ばである。武芸にすぐれた夫思いの女性だったが名前は不明である。

 城を出た信高は専修寺で剃髪して高野山へと向かい、分部光嘉も安濃津城を去った。しかし関ヶ原の本戦で徳川家康が勝利したことで信高はこの戦いの功績を賞される形で加増の栄誉を受けることになった。城は西軍方に奪われたが大軍を相手によく戦った信高は戦後家康から二万石の加増を受ける。これが世に「東海の関ヶ原」とも呼ばれる安濃津城の戦いである。

 富田信高は関ヶ原の戦い後、領国の復興に力を注いだが、1608年に伊予宇和島に転封され10万石の大名となった。さらに罪を犯して逃亡していた妻の甥の子(千姫騒動)をかくまったために1613年に改易され、その後は大名に復帰する事なく1633年に病死した。
 この改易は大久保長安事件に連座したことが通説となっており、安濃津城は信高の後に入った藤堂高虎によって33万石を有する津藩の藩庁として栄えた。
伊賀
 安濃津城の攻略のため西軍は3万の兵で伊賀上野城を攻め、筒井玄蕃は高野山へ逃げて城を明け渡した。関ヶ原で東軍に与した筒井定次は徳川家康の会津征伐に従軍したが、その間に居城の伊賀上野城は西軍に与した摂津高槻城主・新庄直頼・直定父子によって攻め落とされた。しかし筒井定次は関ヶ原本戦で奮戦し、伊賀上野城を奪還したため、戦後にその功績を認められて所領を安堵された(上野城の戦い)。

四国での戦い

 信長の死後、近畿から中部・北陸一帯は秀吉の領地になっていた。東海の徳川家康は秀吉の同盟者で、中国の毛利氏も秀吉と和を結び臣従していた。
 関ヶ原以前の四国は土佐の長宗我部元親が支配し、伊予、阿波、讃岐を手中にしていた。秀吉は弟の秀長を大将として総数11万の四国征伐軍を送った。秀吉は後に九州、小田原、奥羽に征伐軍を出すがその最初が四国征伐であった。

 長宗我部は四国最強であったが秀吉軍の敵ではなく、ろくな戦いもせずに秀吉の前に降伏した。この四国征伐により長宗我部氏は土佐一国に押し込められ、阿波、讃岐、伊予は秀吉の諸将たちに与えられた。阿波には蜂須賀氏が封じられ、讃岐は仙石秀久に与えられた。

 この仙石秀久は九州征伐の際、秀吉は「俺が行くまで待て」と命じたのに、来る前に倒すとばかりに島津討伐戦いを仕掛け大敗している。仙石秀久は真冬の渡河中に島津軍に奇襲をかけられ、島津軍お得意の「釣り野伏」にかかり包囲されて殲滅された。これが最大の激戦・戸次川(へつぎがわ)で、仙石秀久は大分から讃岐国(香川)まで勝手に逃げた。この不祥事により讃岐には新たに生駒親正が入った。

伊予方面
 伊予には中小の大名が封じられ、この中には板島7万石の藤堂高虎(南部)、松前10万石の加藤嘉明(北部)がいた。藤堂高虎・加藤嘉明が東軍についたため、加藤嘉明の松前城に対し毛利軍が戦闘をしかけた。安国寺恵瓊は毛利輝元の指南役で僧籍であったが伊予にも領地を持っていた。さらに名族の伊予守護家・河野通軌などの伊予に縁のある毛利家臣が三津浜に上陸ぃ加藤嘉明と藤堂高虎に開城を要求した。

 加藤嘉明は関ヶ原・本戦に参加していたので、留守居役だった佃十成が宇和島の藤堂高虎(本人は本戦に参加)に救援を求め、夜襲して毛利軍を撃退している(三津刈屋口の戦い)。さらにその後、関ヶ原での西軍敗北を受けて毛利軍は撤退した。
阿波方面
 阿波の領主・赤松氏は毛利輝元に従って西軍となった。しかし蜂須賀家政は嫡男を東軍として少数を派遣し、多くの兵力が阿波に止まった。

 蜂須賀家政は西軍となったが、西軍参加は消極的な名目上のもので、そのため領地は毛利家に占領され、毛利輝元が大坂城に入城すると蜂須賀家政は親徳川的態度を咎められて高野山へ追放され、家臣団は馬廻衆に編入されて北国へ出陣した。

 毛利氏は阿波の対岸の大阪を抑えるために阿波を占領下に置き、蜂須賀家の家臣が阿波の管理をするようになった。しかし関ヶ原の本戦で西軍が1日で決着すると、毛利輝元は阿波の占領を解いて大坂からの撤退し、蜂須賀家政へ阿波を返還した。阿波占領軍は親子で西軍と東軍に分かれたが、毛利氏は蜂須賀家に徳島城を引き渡し毛利氏の阿波占領は終了した。

讃岐方面
 讃岐の生駒氏についても阿波と似た状況にあり、生駒親子は西軍と東軍に分かれていた。父・親正は秀吉に恩義のある秀頼の要請を無視できず西軍について丹後田辺城攻撃に参加した。嫡男の生駒一正は会津討伐に参加しそのまま東軍となった。毛利氏の敗北を受け父・親正は剃髪して高野山へ追放され、関ヶ原で活躍した一正の功で父・親正は不問に付され隠居した。このように四国では大体において毛利輝元の西軍が全権を持っており、毛利氏は関ヶ原の戦いの前に四国の各方面を攻略していたが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると兵を収め所領の多くを失うことになる。
土佐方面
 土佐の長宗我部氏は不運だった。この当時は長宗我部元親は既に亡く、その嫡男・盛親が当主になっていた。盛親は会津討伐に参加のつもりで兵6千を連れ土佐を出て大坂に上陸したが、三成が挙兵して近江に関所を設けたため東への通行を堰き止められてしまい、立往生した長宗我部軍は仕方なく西軍に加わることになった。関ヶ原では吉川広家の陣に隣接していたために動けず、西軍が敗北した後は土佐に逃げ帰った。

 家康は当初長宗我部を取り潰すことを考えていなかったが、徳川と交渉中に家臣団の意見が真っ二つに割れ、兄の親忠を自殺に追い込んだとして、これを聞いた家康は「元親の嫡男とも思えない」と激怒し、長宗我部家を取り潰すことにした。長宗我部盛親は22万石の大名から「牢人大名」と呼ばれる身に転落し京で寺子屋を始めた。大坂の陣では豊臣方として大阪城に籠ったが落城後は捕縛され斬首された。

関ヶ原の戦後の動き
佐和山落城
 関ヶ原で東軍の大勝利に終わった日、東軍が討ち取った首は3万2600余と言われ、自軍の戦死者は4000に満たなかった。多少の誇張があるとしても、討ち取った西軍方の首はかなりの数であったことは事実である。関ヶ原地内の鉄道敷設時には、史跡として残る西首塚からかなりの数の白骨が出た。

 家康は首実検が終わると、大谷吉継の陣があった山中村へ陣を移した。諸将が家康に戦勝の賀を述べた際、小早川秀秋はなかなか現れなかった。さすがに秀秋は寝返る時期が遅かったことに後ろめたさがあったのだろう。しかし家康は小早川秀秋の労を謝し、さらに佐和山攻めの先手を命じた。

 翌9月16日には西軍を裏切った小早川、脇坂、朽木、赤座、小川が石田三成の佐和山城の攻略を始め、これに近江方面の地理に明るい井伊直政が加わり2万を超える大軍で進軍した。

 石田三成は佐和山城へは戻っておらず、佐和山城では石田三成の父・石田正澄を主将に兄の木工頭正、三成の嫡男・重家などが2,800の兵で守備をしていた。しかし6倍以上もの兵力の差に加え、御家安泰のために軍功を挙げねばならない小早川秀秋らの攻撃を受け奮戦しするもしだいに戦意を喪失した。

 石田正澄は旧臣・津田清幽を使者に出し降伏の交渉に入り、石田正澄の自刃と開城をひきかえに城兵と婦女子を助命する条件でまとまった。しかし翌17日に長谷川守知が寝返って東軍の兵を引き入れ三の丸が陥落すると、翌早朝に田中吉政隊が天守に攻め入った。やがて本丸から火の手が上がり正継父子は自刃して滅んだ。石田三成腹心の家臣土田桃雲は三成の妻を刺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付け自らも切腹した。三成の岳父宇多頼忠と子の頼重も自刃し、こうして家族十数人がそれぞれ自刃あるいは刺し違えるなどして果て、哀れにも石田一族は全滅した。
 この混乱時に、女子供達は本丸横の断崖から真下の谷に次々と身を投げ、まさに本丸では地獄絵図さながらの様相を呈した。本丸の下に位置するこの谷は「女郎堕ち」と呼ばれ、以後誰も近づく者はいなかった。

 当然の事ながら石田正継・正澄父子は「謀られたか」と思ったであろう。家康は前日の正澄からの申し出を容れ、この日使者を城内に派遣したが、使者が城へ到着する前に惨劇は起きてしまった。旧臣・清幽は家康にこの違約を激しく詰問し、生き残った石田三成の三男・佐吉を助命した。

 赤松則英は逃亡後、福島正則を頼って投降したが切腹を命じられ、重家は脱出して京都妙心寺に入り、後に助命されて同寺で出家した。

大垣城落城
 関ヶ原の直前まで西軍の前線司令部であった大垣城では、福原長堯を始め垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子らが守備に就いていた。これに対し東軍は松平康長、堀尾忠氏、中村一忠、水野勝成、津軽為信らが大垣城を包囲して対陣した。

 関ヶ原が西軍の敗北に終わると、城内に動揺が広まった。まず行動に出たのは三の丸を守備していた肥後の人吉城主・相良頼房であった。相良頼房は同じ九州の大名である秋月種長・高橋元種と共に三の丸を守備していた。相良頼房はかねてより音信を取っていた井伊直政を通じて、家康への内応を密かに連絡した。連絡を受けた井伊直政は家康に報告、家康は直ちに大垣城の開城を命じるが、本丸・二の丸に陣取る大名の戦意は高かった。

 このため相良頼房・秋月種長・高橋元種の三将は、9月17日、軍議と偽って籠城中の諸将を呼び出し、現れた垣見・熊谷・木村父子を暗殺し、二の丸を制圧した。これを知った福原長堯は本丸で頼房らを迎撃しようと奮闘したが、包囲軍の説得により城を明け渡して蟄居したが、家康は福原長堯を許さず切腹を命じ、内応した三将は領地を安堵された。
 伊勢方面では西軍の多くの将が退却していた。9月16日には伊勢亀山城が開城し、城主の岡本良勝は自刃を命じられ、嫡男・重義も近江水口で自刃した。桑名城も同日に開城して西軍へ加担した氏家行広・行継兄弟は城を明け渡し改易された。

 長島城を包囲していた原長頼は逃走したが捕縛された。美濃駒野城に籠城していた池田秀氏や伊賀上野城の新庄直頼・新庄直定は城を放棄して退却した。

 鍋島勝茂は父・鍋島直茂の命で伊勢・美濃国境付近で傍観していたが、西軍敗走の報に接するや直ちに大坂へ退却し、その後、伏見城に赴き家康に謝罪している。志摩鳥羽城を巡り嫡男・九鬼守隆と合戦した九鬼嘉隆は伊勢答志島へ逃走した。九鬼守隆は父の助命を家康に懇願、家康は拒否したが加増の内示を受けていた伊勢南部五郡を返上して、父の助命嘆願をさらに行った。家康は九鬼守隆に免じて助命を許したが、助命の報が届く直前に九鬼嘉隆は自刃した。嘉隆と共に行動した堀内氏善は紀伊新宮城に籠城したが、城を捨てて逃走した。


論功行賞と三成の処刑
 家康は西軍の首謀者で、敗戦後に逃亡して行方不明となっている石田三成、宇喜多秀家、島津義弘らの捕縛を厳命し、その一方で大坂城の無血開城を行うように福島正則と黒田長政に西軍の総大将・毛利輝元との開城交渉を命じた。

 家康は9月20日に京極高次の大津城に入城してしばらく留まった。北陸方面の東軍総大将であった前田利長が、西軍に属した丹羽長重と青木一矩の嫡男・青木俊矩を連れて合流し、家康は両名の懇願を排して改易処分とした。

 家康が大津城に入城した同日に、中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流した。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒し、しばらく目通りを許さなかったが、榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶った。
 9月19日、小西行長が竹中重門の兵に捕らえられ、草津に滞在中の家康本陣に護送された。続いて石田三成が近江伊香郡古橋村(高時村)で旧友の田中吉政の兵に逮捕された。古橋村は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていた。しかし三成は匿られて発覚すればと思い、自ら身分を明かして捕縛された。捕縛後9月22日に大津へ送られ東軍諸将と再会した。

 福島正則は石田三成に罵詈雑言を浴びせたが、黒田長政や浅野幸長は石田三成に労りの声を掛けている。また小早川秀秋は石田三成に裏切りを激しく詰られた。

 9月23日、京都において安国寺恵瓊が捕らえられ大坂へ護送された。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城へ戻っていたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させている。

 また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波・福知山城攻撃に向かった。途中で父と合流して田辺城の戦いに加わり、小野木重勝は徹底抗戦の構えを見せたが、井伊直政と山岡景友の説得により開城し城下の寺へ謹慎した。
 家康は9月27日に大坂城に入城すると、豊臣秀頼や淀殿と会見した後、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始した。
 10月15日以降、論功行賞が順次発表され、宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康の67万石が筆頭となり、豊臣恩顧の東軍大名は軒並み高禄での加増となった。西軍大名はいずれも遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められた。
 豊臣氏の蔵入地が廃止され、それぞれの大名領に編入された。このことで豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに激減し事実上減封となった。一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山を領地とした。

 豊臣恩顧の東軍大名が家康の論功行賞によって加増された事は、彼らが豊臣家の直臣でない事を意味していた。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。豊臣家は特別の地位を保持し、徳川の支配下には編入されていない。
 10月1日、大坂・堺を引き回された石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の3名及び伊勢で捕らえられた原長頼は京都六条河原において斬首され、首は三条大橋に晒された。10月3日には長束正家が自刃し三条大橋に首を晒された。福知山城を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家して助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃した。この他赤松則英、垣屋恒総、石川頼明、斎村政広などがこの10月に自刃を命じられている。

 家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、増田長盛は死一等を減じられ武蔵岩槻に配流され、前田玄以は所領の丹波亀山を安堵され両極端な処分が下された。一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は家康から捕縛を厳命されていたが薩摩へ逃亡した。


大坂城開城と毛利氏の処分
 石田三成と安国寺恵瓊より西軍の総大将になった毛利輝元は、関ヶ原の敗北後も豊臣秀頼を擁して大坂城にいた。立花宗茂は大坂城に籠城して徹底抗戦を主張し、秀頼の命と称して篭城が行われる可能性があった。しかし家康は大野治長を大坂城に遣わし「秀頼と淀殿は今回の戦いには関係なし」として開城を説得した。

 また吉川広家が「毛利輝元の西軍総大将は本人の関知していないこと」と家康を説得し、家康はその説明に応じて毛利輝元は開城要求に応じた。

 家康家臣の本多忠勝と井伊直政、さらに福島・黒田が毛利の領地安堵を保障する起請文を毛利輝元に送り、それと引換えに毛利輝元は9月24日に大坂城西の丸を退去し、27日に家康が大坂城に入城した。家康は秀頼に拝謁すると西の丸を取り戻し、徳川秀忠を二の丸に入れた。

 しかし10月2日、家康は黒田長政を通じ吉川広家に対し「毛利輝元が積極的に西軍総大将として活動した書文を証拠に挙げて吉川広家の説明は事実ではなかった」とした。毛利輝元は各地で西軍として東軍を攻めていたのである。このため毛利輝元の所領安堵は取り消され「毛利氏は改易し、領地は全て没収」と通告した。家康は吉川広家の律儀さを褒め、吉川広家に周防国と長門国を与え、西国を抑えることを同時に伝えた。

 毛利氏安泰のための内応が水泡に帰した吉川広家は「毛利輝元の西軍への関与は知っていたが、なるべく動かないようにしたので免責してほしい」と前言を翻した。さらに自分自身への周防・長門(山口)を毛利輝元に与えてくれるように嘆願し「本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい。今後、毛利輝元が少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出す」というとまで言った。

 家康としても九州・四国情勢に不確定要素があるため、毛利氏を完全に追い詰めることは得策ではないとして吉川広家の嘆願を受け入れ、毛利氏本家の改易決定を撤回し周防・長門36万石余りへの減封する決定を下した。さらに本拠地を毛利氏が申請した周防山口ではなく、長門の萩にするよう命じた。毛利輝元は出家し家督を嫡男・毛利秀就に譲り隠居した。

 毛利元就が「三本の矢の教訓状」で「天下を望むな」と言っていたにも関わらず、毛利輝元は西軍の総大将となっていた。毛利家は中国地域全域を治める大大名から周防・長門の2カ国に封じ込められ、36万石の外様大名へと転落してしまうことになった。120万石から36万石へと領地が1/5に減った事で家臣たちを養うことはできず、土地を失い国を離れる者、破産して農民へ転身する者が出た。さらに江戸幕府は追い打ちをかけるように伏見城の復旧、江戸城の普請に莫大な負担を毛利家にかけた。毛利家は「徳川に背いたらこういう目に遭う」という見せしめにされたのである。

 長州藩は幕府に平身低頭の土下座外交を行い、取り潰されることなく江戸時代を生き残った。毛利家には正月になると、新年の抱負を語る恒例の儀式が行われる。
家臣:「徳川幕府追討はいかがなさいますか?」
藩主:「時期尚早である」
この儀式は幕末まで毎年行われていた。関ヶ原の敗戦こそが長州藩・毛利家の原点だった。


島津氏の処分
 関ヶ原本戦において、敵中突破を敢行した島津義弘は、堺より立花宗茂と共に海路を逃走して鹿児島へたどり着いた。島津義弘は桜島で謹慎したが、当主である兄・島津義久らは家康の攻撃を予測して、防衛体制を強化して臨戦態勢をとった。家康は島津征伐の準備を進め、島津氏を武力で討伐する方針を固めていた。

 九州では関ヶ原の戦いが終っても戦闘が繰り広げられていた。10月6日には黒田如水が豊前小倉城を攻撃して毛利勝信を降伏させ、加藤清正は小西行長の居城である宇土城を攻撃していた。しかし西軍敗戦の報が届いたことで10月12日に城将・小西行景が自刃し開城した。

 薩摩から肥後へ攻め入った島津の軍勢は、加藤清正・家臣の加藤重次が守る佐敷城に阻まれ攻め落とせないまま撤退した。肥前佐賀の鍋島直茂と勝茂の父子は家康に西軍加担を謝罪し、本領安堵の条件として筑後平定を命じられた。鍋島父子は帰国後直ちに筑後平定に掛かった。まず小早川秀包の久留米城を開城させ、続いて立花宗茂の籠る柳河城を包囲した。鍋島軍と立花軍の間で激戦が繰り広げられたが、包囲軍に加わった黒田如水・加藤清正の説得によって立花宗茂は開城し降伏した。
 立花宗茂が降伏すると、家康は直ちに島津義久討伐を九州の全大名に命じ、九州の全大名が出陣して肥後水俣に進軍した。島津義久はここで最終決戦を行うつもりで兵を総動員して薩摩・肥後国境に軍を進めた。島津軍の指揮は当主・島津義久みずからが執り、九州連合軍黒田、立花、鍋島、加藤と対峙した。

 しかし11月22日に島津義弘が家康に謝罪の使者を送ったため、島津征伐は中止となり九州連合軍は撤退し、家康と島津氏の間で交渉が行われた。島津義弘は関ヶ原の退却戦において傷を負わせた井伊直政に仲介を依頼し、井伊直政はこの仲介要請を受諾すると、島津義久、島津忠恒と戦後交渉を行った。

 家康は義弘上洛の上での謝罪を再三迫ったが、義久・忠恒は本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとして交渉は長期化した。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたためにやむなく西軍に加担したのであり積極的な加担ではないと主張した。
 2年にわたり交渉は続けられたが、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、1602年3月に薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定された。決定後義久の名代として、忠恒が12月に上洛し謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入った。

 このように粘り強い外交により、島津家は減地されることなく本領安堵を得ることができた。薩摩は大坂から離れていて地理的な利点はあったが、早い段階で家康に全面的な降伏をした毛利氏や上杉氏が大幅に減封されたこととは対照的な結果となった。
 なお薩摩に匿われていた宇喜多秀家は家康に引き渡され、前田利長と忠恒による助命嘆願により死罪を免れて1606年八丈島に流罪となった。


上杉氏・佐竹氏の処分
 10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪した。まだ処分が決められていないのは関ヶ原の導火線となった上杉景勝と、態度を曖昧にした佐竹義宣の2人になった。
 上杉景勝は最上軍と長谷堂城で激戦を繰り広げたが、9月30日に西軍敗走の一報で直ちに撤退した。勢いづいた最上義光は庄内へ攻撃を開始し、伊達政宗も侵攻を開始した。

 上杉景勝は今後の対応を協議し、直江兼続らは徳川との徹底抗戦を主張するが、本庄繁長や千坂景親らは和睦を主張した。最終的に和睦が決定され、直江兼続の「江戸へ南下するべし」との意見は退けられた。

 交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と本庄繁長が任命され、東軍の上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼し、彼らの取り成しにより領地没収を予定していた家康の態度を軟化させた。
 1601年7月1日、千坂・本庄両名の報告から和睦が可能となったことを受け、上杉景勝は直江兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後、結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問して謝罪した。上杉氏への処分は1ヶ月後に言い渡され、陸奥会津120万石から75%減の出羽米沢30万石へ減封となった。上杉景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」と述べ、11月28日に米沢へ移動した。
 佐竹義宣は石田三成との親交から西軍への加担を決め、上杉景勝と密約を結び、上杉領内に入った徳川軍を挟撃するつもりだった。このため上杉征伐では動かずにいたが、佐竹家中では父・佐竹義重、弟・蘆名義広、家臣筆頭である佐竹義久が東軍・徳川方への加担を主張していた。特に父・佐竹義重は東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない佐竹義宣は中山道進軍中の徳川秀忠軍へ兵300を派遣する曖昧な態度を取った。

 しかし家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一や水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置し、徳川秀忠も佐竹義久の派遣部隊に対しては丁重に謝絶している。

 西軍敗北後、父・佐竹義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし佐竹義宣は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過した。上杉氏、島津氏の処分が決定し、処分が済んでいないのは佐竹義宣のみとなった。

 佐竹義宣は謝罪すらせずに動かなかった。しかし佐竹義重の説得により1602年4月に上洛してようやく家康に謝罪した。しかし家康は佐竹義宣を、上杉景勝より憎むべき行為として厳しく非難し、死一等は許されたが常陸一国など佐竹氏勢力54万石は没収され、出羽・久保田20万石へ減転封となった。佐竹義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動した。

 

織田氏の処分
 織田信忠の遺児で幼名三法師とよばれていた織田秀信は岐阜城を追われ高野山に追放となった。おなじく織田秀雄も江戸に居住することを命じられたが夭逝した。織田信雄も改易となったが後に許されて大和の大名となった。
 佐竹氏の減転封が決定され、関ヶ原における論功行賞と西軍諸大名への処罰は終った。1603年、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開き、西軍に加担して改易された立花宗茂、丹羽長重、滝川雄利の3名が大名に復帰し、その後、相馬義胤など数名が大名に復帰している。

 西軍に加担した大名には明治維新まで存続したものも多く、島津氏の薩摩藩や毛利氏の長州藩は倒幕に活躍した。長宗我部盛親や毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(真田昌幸二男)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)などは、10数年後の大坂の役で豊臣方の浪人衆として幕府軍と戦い戦死することになる。

なぜ関ヶ原だったのか
 まさに日本史上最大の戦いが、岐阜県と滋賀県の県境に近い「関ヶ原」で行われた。徳川家康と石田三成による天下分け目の戦いは双方とも16万に近い兵士が関ヶ原に集まり、日本各地の大名は家康につくか三成につくかを各地で決めなければならなかった。東軍西軍共にどちらが優位とも分からず、まさに家の存亡をかけた選択であった。

 そもそも関ヶ原が東西の戦いの場になることは誰も予想していなかった。大垣城に篭っていた西軍の石田三成が、大垣城から「関ケ原」へ移動して布陣したことでこの戦いが始まるが、石田三成が関ヶ原に出たのは、家康が「大垣城を無視して、三成の佐和山をついて大坂へ向かう」という噂を流し、石田三成がおびき出されたのではないかとされている。家康は元来野戦は得意だが攻城戦は不得手といわれ、もし敵勢が大垣城に籠もれば、相応の犠牲と時間がかかりすぎたからである。

 もし膠着状態になっている間に大坂の毛利輝元が秀頼を担いで参陣するようなことになれば、東軍に参加している豊臣恩顧の武将の動向はどうなるかわからなかった。そこで家康は野戦に持ち込もうと謀り、この情報を大垣城に聞こえるように流したのである。

 しかし家康がこの流言を流したのならば、三成は部隊が最も脆弱になる家康の行軍中を襲撃するはずで、それをしなかったことは理解しにくい。

 そもそも関ケ原にはすでに多くの西軍武将が布陣しており、三成が無計画に関ケ原を戦場に選んだとは思えない。東軍は西軍の関ケ原への移動に気づくのが遅れており、噂を流して西軍を大垣城から引きずり出すのであれば、西軍の動きに注視していた家康は、関ケ原の布陣に気づいていたはずである。

 また石田三成は西軍の士気を引き締めるため、関ヶ原の本戦前に豊臣秀頼の出陣を再三大坂に求めており、家康が大坂へ向うとすれば三成にとっては好都合であり、大坂城付近で決戦を行えば良いはずであった。

 関ヶ原の松尾山から笹尾山ラインに野戦築城を施し東軍の進撃を阻止し、松尾山の城砦には西軍の主力となる毛利輝元3万人を配置し、東軍が大坂へ向かうために大垣城を無視して進撃すれば、大垣城の石田三成・宇喜多秀家らが東軍を追撃し東西から挟撃することができた。
    東軍が大垣城を攻めれば、布陣する大谷吉継、毛利輝元らが東軍を西から攻撃し大垣城と挟撃することが出来た。この戦略ではどちらに転んでも、西軍は東軍を挟撃する事が出来た。

 しかし関ヶ原西方の松尾山から笹尾山の要である松尾山城砦に小早川秀秋が居座ってしまった。関ヶ原の戦いは「関ヶ原」で行われたのは確かであるが、なぜ「関ヶ原」が戦場の場になったのかは謎である。
 もっとも南宮山の諸将の陣は大垣城の裏側に築かれていた。つまり大垣城の後詰めである。美濃赤坂の東軍からすれば、大垣城とその背後の南宮山の諸将は一体として捉えていたのである。南宮山の吉川広家、松尾山の小早川秀秋、関ケ原の脇坂安治らは事前に東軍から調略の手が伸びており、 彼らが寝返れば大垣の西軍主力を包囲することができた。

 吉川広家や小早川秀秋に調略の手が伸びているのを、三成はどの程度知っていたのだろうか。これに関係して三成が関ケ原に移動した別の説がある。すなわち去就の定まらぬ小早川秀秋を完全に西軍に取り込むために、関ケ原に布陣したというものである。もともと松尾山は城として構築し、三成は総大将である毛利輝元を迎える予定であった。しかし輝元は現われず、代わりに小早川秀秋が居座ってしまった。いずれにせよ東軍勢は同夜西軍が大垣城を出たという情報を得てからすぐに出陣の準備を行った。一番隊の先鋒は福島正則で、午前二時頃赤坂を出陣している。

 この準備を見ても三成が事前に関ケ原を戦場に想定していたことは間違いないであろうが、関ケ原でなければ違う展開になったとも予想できる。