関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの背景

 戦国時代を終焉させ、その後の日本を決定した「関ヶ原の戦い」は日本最大の合戦で、まさに「天下分け目の戦い」であるが、その詳細はあまり知られていない。それは「関ヶ原の戦い」は戦国時代の終わり頃で織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信などの戦国時代の英雄はみな死去し、しかも関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、また利害関係が複雑に絡んでいるからである。

 しかも戦いは1日で終わっているため、映画やドラマでは取り上げにくく、小説や歴史書では比較的取り上げられるが、関ヶ原の戦いに至るまでは色々な出来事が積み重なっていて複雑である。

 1598 年に豊臣秀吉が死去したが、豊臣家による天下はそままで、豊臣家が日本を支配し、それを五大老と五奉行が支えた。

  五大老とは有力な大名によって構成された権力者の代表で、以下の5名である。

・関東を支配する五大老の筆頭「徳川家康」。

・北陸地方を支配する秀吉の親友「前田利家」。

・中国地方の西部を支配する大名「毛利輝元」。

・中国地方東部を支配し、秀吉に可愛がられた「宇喜多秀家」。

・越後の大名上杉家の後継者「上杉景勝」。

 五大老の宇喜多秀家 の前に小早川隆景が五大老のひとりであったが、秀吉より先に死んでいるので省略した。五奉行とは豊臣家の中で政務を取り仕切っていた上層部で、筆頭が石田三成で、以下増田長盛浅野長政前田玄以長束正家である。

 この五大老、五奉行の中でもっとも主要な人物は、それぞれの筆頭である徳川家康石田三成である。

  豊臣秀吉の死後、まず行動を起こしたのが徳川家康であった。徳川家康はそれまで豊臣家が禁止していた各大名や家臣の「婚姻の斡旋」や「知行(領地)の授与」などを五奉行に相談なく独断で行った。もちろん亡き太閤殿下(秀吉)の決め事にそむいた行動に豊臣五奉行は怒り、特に五奉行の筆頭石田三成 は家康を非難した。

 この石田三成は、豊臣秀吉の一番の側近であったが、それゆえに失敗や罪状を秀吉に報告し秀吉の命令や処罰を伝達する役割を果たしていた。武将の失敗や失態を、釈明なく秀吉に報告し、それに対する処罰を告げ、それでいて豊臣家のトップにいた。このような役目だから仕方ないが、そのため多くの武将から嫌われていた。

 石田三成は官僚ゆえに合戦で戦うことはなく「戦わない者に、あれこれ指図されてなるものか」と戦場で戦った武断派の武将から嫌われていた。豊臣秀吉が生きている頃から、豊臣家の内部では 石田三成を中心とする官僚派(文治派)と、合戦で戦った武断派の間で対立があり、この内部対立が「関ヶ原の戦い」の原因になっている。

 豊臣秀吉の死後、家康が勝手に婚姻や知行の斡旋を行ったことが、文治派との対立を深めたが、この対立は戦いにはならなかった。それは前田利家が仲裁役として活動したからである。

前田利家

 尾張中村の百姓から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉は、死を前にして息子の豊臣秀頼の行く末が心配であった。また強大な勢力を持つ徳川家康の動きが気がかりであった。そこで北陸に大領地を持つ親友の前田利家を対抗馬として、家康と共に五大老の一人に命じている。案の定、家康は秀吉死後に態度を変え、有力大名と無許可で姻戚関係を結ぶなど、秀吉が決めたルールを無視する行動をとり親家康派を増やしていった。

 前田利家は豊臣五大老の NO.2 としての権力を持ち、その人徳から多くの武将や大名に慕われていた。そのため文治派と武断派の対立は避けられていたのである。

 豊臣秀吉の死後、加藤清正、福島正則、黒田長政ら朝鮮半島で戦っていた武断派が帰ってくると、秀吉の命令書を送っていた石田三成ら官僚派と次第に反目するようになった。徳川家康は加藤清正たちの武断派に目をかけて恩をばら撒き、石田三成らは人望の厚い前田利家を頼りに武断派の動きを牽制していた。

 前田利家は家康の勝手な振る舞いに反発して、五奉行寄りの立場として武断派の暴発を抑えていた。しかし 1599 年3月に仲裁を行っていた前田利家が死去すると、豊臣家の内部分裂は激化して「石田三成暗殺未遂事件」を引き起こすことになる。

石田三成暗殺未遂事件

 石田三成と対立していた武断派の7名が結託して石田三成を亡き者にしようと襲撃を計画したのである。その武将は福島正則加藤清正黒田長政藤堂高虎細川忠興加藤嘉明浅野幸長という戦国時代の名将だった。さらに池田輝政蜂須賀家政脇坂安治も加わることになる。

 石田三成は事前に襲撃を察知すると、襲撃前に姿を消し、ライバルである徳川家康の屋敷に逃げ込んだ。徳川家康がこの事件の仲裁をおこない、武断派の武将たちは石田三成を匿った家康に反発したが、この事件で石田三成は謹慎処分となり、石田三成は奉行職を失脚すると領地の佐和山城(滋賀県彦根市)に引きこもることになる。

 なぜ武道派の反発を受けながらも、家康が石田三成を助けたのかは不明であるが、家康がここで三成を殺せば、豊臣家が反家康でひとつにまとまると考えたのかもしれない。実際には、この仲裁に乗り出して事件を解決した家康の影響力は大きくなった。同時に豊臣家の文治派と武断派の対立は修復不可能なほどになる。

  徳川家康は失脚した石田三成の代わりに政務を指揮することになった。家康は他の五大老たちを領地へ帰還させると、秀吉が晩年を過ごした京都の伏見城へ入り、五大老の権限を家康1人で振るまった。さらに豊臣家の大阪城に入ると、徳川家康の権力はさらに強化された。もちろんが他の五大老や五奉行にとって家康の独断支配は面白いはずはなかった。

  前田利家が死去し、前田家を継いだ前田利長が豊臣五奉行の浅野長政と結託して「徳川家康暗殺計画」を計った。しかしこれが事前にもれ浅野長政は失脚し、家康は前田利長を討伐するため兵を集めた。しかし前田利家の妻・まつ(芳春院)が自ら家康の人質になることを申し出て、また前田利長が家康に服従する姿勢をとったため成敗は回避された。このことで豊臣五奉行はさらに弱体し、天下は徳川家康のものになると誰もが思い込んだ。

 

上杉景勝征伐

 1600年の正月、徳川家康は各大名に年賀の挨拶を求めた。ところがこの挨拶を上杉景勝が断り、それを伝えた上杉氏の家臣・藤田信吉を謀反の疑いで処罰したのである。

 1600年2月、徳川家康は越後領主・堀秀治と出羽領主・最上義光から、会津の上杉景勝が無断で軍備を増強し、城の防備を固めていると知らされた。さらに上杉氏の家臣で、謀反の疑いで処罰を受けた藤田信吉が会津から江戸へ「上杉景勝に謀反あり」と訴えてきた。

 徳川家康は問罪使を上杉景勝の元へ派遣すると、上杉景勝の重臣・直江兼続直江状と呼ばれる書簡を返書として送ってきた。

 この直江状の有名で、その内容は「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど、子供のようなもので釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけで、そちらは京都で茶器を集めているが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをして、こちらに違約違反を言うのはおかしい。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せるのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」

 この直江状は家康への堂々とした挑戦状であった。家康は「上杉景勝と石田三成はすでに連携していて、直江状は自分を誘い出すための挑戦状」と受け止めた。

 家康は上杉景勝の叛意は明確として会津征伐を宣言した。出陣に際しては、後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石が下された。このことは朝廷と豊臣家から「豊臣家の忠臣である家康が、謀反人の上杉景勝を討つ」という大義名分を得たことになる。
 1600年6月16日、家康は大坂城から軍勢を率いて上杉景勝征伐に出征し、同日の夕刻には京都の伏見城に入った。ところがそれ以降、江戸までの進軍はきわめて遅かった。この出兵は家康に反感をもつ石田三成の挙兵を待っていたからである。

 

石田三成

 徳川家康が出陣したため、大阪城には徳川派がいなくなった。石田三成大谷吉継を館に招いて打倒徳川の相談をした。この大谷吉継は豊臣秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わしめた名将であったが、皮膚がただれ腐っていく「ハンセン病」のため、他の人が近寄ることはなかった。石田三成はそれを気にせず、大谷吉継と家康打倒を語った。
 その後、石田三成は豊臣五奉行の増田長盛、豊臣家の重臣の小西行長、豊臣五大老の毛利家の家臣の僧侶安国寺恵瓊などと相談、徳川軍打倒の計画を立てた。
 翌月の7月、石田三成はついに「内府ちかひの条々」を各大名に公布し、徳川討伐の挙兵を宣言した。「内府ちかひの条々」とは家康への弾劾状で、「内府」とは徳川家康のことで「ちかひ」は違いの意味である。つまり徳川家康は13の間違いを犯しているということである。13の間違いとは、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行い、無実の前田家や上杉家を攻撃し、勝手に手紙をやり取りし、城の一部を無断で改修した、このような様々な家康の罪状を並べていた。

 石田三成大谷吉継とともに挙兵すると、家康が占領していた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆とともに、豊臣五大老である中国地方の大名・毛利輝元(毛利元就の孫)を総大将として軍勢を整えた。西側の大名が徳川軍に参加できないように関所を封鎖すると、大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取った。

 宣言の翌日、西軍(宇喜多秀家、小早川秀秋、小西行長、長束正家、長宗我部盛親、島津義弘、鍋島勝茂ら兵数40,000が)が、東軍が駐留する京都の伏見城を攻撃した。伏見城には徳川家の重臣・鳥居元忠が守っていたが守備軍 はわずか1800 人であった。

伏見城の戦い
 伏見城は豊臣秀吉が京都市南部に造った邸宅を兼ねた城郭で、秀吉の死去後は家康が関西における本拠として使っていた。家康は三成が挙兵すれば、真っ先に伏見城を攻略すると予測していたが、最大の決戦は別の場所でつける以上、伏見城には必要最低限の兵士しか残せない。つまり確実に負けることが解っている戦いであった。家康は家臣の鳥居元忠を総大将に内藤家長、松平近正、松平家忠といった譜代の家臣と1800人ばかりの僅かな兵を残した。
 鳥居元忠は家康が駿河の今川義元の人質だった頃から従っていた武将で、家康の戦いの中で多数の武功を立てていた。鳥居元忠との信頼関係も並大抵のものではなく、まさに家康にとって「俺のために死んでくれ」といえる人物だった。数々の権謀術数を駆使した家康でさえ、その別れの夜は、話しながら涙が止まらなかったとされている。
 7月19日の夕方に、伏見城の戦いが始まった。戦いを前に鳥居元忠に「家康のいる関東に戻った方が良い」という家臣がいたが、鳥居元忠は「主命に従って戦うまでよ」と一蹴すると、多勢に無勢の状態で半月にわたる籠城戦に挑んだ。西軍の大軍に奮闘したが、8月1日に伏見城が炎上すると鳥居元忠は自刀して果てた。

小山評定

 徳川家康は伏見城陥落を下野国・小山の陣で伏見城からの使者の報告により知った。家康は重臣たちと協議し、上杉景勝征伐に従軍していた武将達に「人質を取られ困っている者もいる。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない、道中の安全は保証する」と言った。すると猛将・福島正則が「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する」と発言、黒田長政がそれに続き、さらに織田家の旧臣だった山内一豊が「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する」と宣言した。この発言から反対意見はなくなり、石田三成に反感をもつ武断派の大名たちは家康に味方し「秀頼公に害を成す君側の奸臣・石田三成を討つため」と家康を総大将とした東軍が結成された。

 上杉討伐のため進軍中の徳川軍は大阪方面に反転したのである。ここで石田三成(豊臣)軍=西軍、徳川家康軍=東軍という、関ヶ原の戦いの2大陣営が決定した。これが有名な小山評定である。

 東軍は徳川軍と福島正則の軍勢、合わせて10万人ほどで編成された。徳川の一隊は徳川秀忠を大将に榊原康政・大久保忠隣・本多正信らが宇都宮城から中山道を進軍し、家康は息子の結城秀康に上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託した。家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。

 その後、東軍の細川忠興の妻 ・細川ガラシャ(明智光秀の娘) が、人質となっては東軍にいる夫の邪魔になってしまうと、屋敷に火を放って自ら死を選んだ。この話が伝わると東軍の結束は強まり、石田三成が人質を取ったことが逆効果になった。

 徳川軍に参加していたが、真田昌幸(真田幸村の父)は小山評定で徳川軍から離脱する。この真田昌幸の離脱が後になって、徳川軍に打撃を与えることになる。

 徳川家康は石田三成と戦うことを決めたが、もともと上杉景勝を討伐するための軍勢だったため上杉景勝がこのままいるはずがなかった。

 西軍との戦闘中に背後から上杉景勝が襲ってくる危険性があった。そのため徳川家康は、関東を中心とする各大名に協力を要請し、関ヶ原のために足場を固めようとした。関東・東北で西軍(石田三成側)と言えたのは上杉家佐竹家であった。

徳川家康の関東・東北対策

 徳川家康は東北の大名・最上家(山形)と伊達家(宮城)に上杉景勝を抑えることを、結城秀康に佐竹家(茨城)を抑えることを命じた。最上家と伊達家は上杉景勝への攻撃を命じられるが、上杉景勝は最上家が攻め込むことを察知し、最上家に対し直江兼続と前田慶次に先制攻撃を命じた。最上家は追い詰められるが、 伊達政宗が最上家の救援に向かい戦いは激化し一進一退の攻防のすえ上杉景勝を抑えることが出来た。

 慎重な家康は、佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間に160通の書状を諸大名に送った。さらに鹿島神宮・浅草観音に祈祷を命じた。これは源頼朝が平家を追討したときと同じで、家康はこの出陣を頼朝にならい武家政治を確立するための門途(かどで)とみなしていた。家康が江戸城から出陣したのは9月1日で、9月11日に清洲、9月14日には赤坂に着陣した。

 東軍の先鋒として福島正則が進軍を開始しており、江戸から東海道を通り、三河や尾張(愛知県方面)に一気に進み周囲を押さえていった。福島正則は清洲城に入ると、西軍の美濃国に侵攻し織田秀信が守る岐阜城を落とした。その後、家康は信長の嫡孫である秀信の命を助けている。関ヶ原の前哨戦として石田三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が東軍の中村一栄、有馬豊氏を奇襲し、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い)。

徳川秀忠の大遅刻

 天下分け目の関ヶ原合戦が行われ、徳川家康率いる東軍と石田三成が主導する西軍とが激突したが、この戦いに家康の三男・秀忠も家康に与えられた3万8000の兵とともに中山道を通って上方に向かいこれが徳川軍の本隊であった。しかし秀忠が遅刻し、家康に激しく叱られてしまうことになる。徳川秀忠の軍勢は9月15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかったのである。それは途中の上田城に徳川軍から離脱して西軍についた 真田昌幸真田幸村 がいたからである。

 上田城は 2000人の兵、徳川秀忠の軍勢は 38000の兵で、兵力に圧倒的な差があり、秀忠軍は楽勝と思ったが、名将真田昌幸の防戦に大苦戦となった。徳川秀忠軍の家臣は「戦わずに進むことは、あるいは落とせなかったら恥になる」と時間をとられてしまった。

 家康に味方する諸将は東海道を通って西へ向かいました。

 しかし徳川秀忠は西に向かわず、途中で小諸城に立ち寄った。小諸城というのは武田信玄の築城した城で、このときは東軍についた仙石秀久が城主となっていた。徳川秀忠はこの城を拠点に真田昌幸・幸村(信繁)父子のいる上田城を落とそうとした。大軍で包囲して攻めれば簡単に落ちるだろうとの軽い気持ちがあった。このとき秀忠22歳。しかも初陣で多くの兵を引き連れて、気持ちが大きくなってしまっていた。

上田城落城へのこだわり

 徳川秀忠が石田三成という敵を前にして、上田城の真田昌幸・幸村父子にこだわったのは、1585年の第一次上田合戦での敗北があった。このとき家康は8000の大軍を上田城に向かわせたが、たった2000の真田軍相手に苦戦し撤退を余儀なくされたのである。この屈辱を晴らしたいという思い上田城に秀忠を向かわせたされている。つまり上田合戦は秀忠の血気逸った行動ではなく、家康の命令によるものとも考えられる。

 真田昌幸は武田信玄に「わが眼」と認められ、秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれた謀将であった。その目的のためなら手段を選ばない昌幸の策略が、真田家を戦国大名として躍進させていた。

関ヶ原合戦のとき昌幸はすでに53歳。22歳の若き秀忠は昌幸の策略に見事はまってしのである。

 小諸城に入った秀忠は昌幸の嫡男・信幸と本多忠政を「降伏勧告」の使者として上田城に送った。すると昌幸はすんなりとこれを受け入れたのである。秀忠はやはり昌幸といえども3万8000もの兵の前に怖気づいたかと内心得意げだったに違いありません。しかしこれこそが昌幸の策略だった。知謀・昌幸の策略にはまったのである。

時間稼ぎが目的

真田昌幸が降伏を受け入れたのは時間稼ぎだった。昌幸はこの時すでに東西両軍の決戦城は濃尾平野になるであろうことを読んでいました。その上で、家康は城攻めよりも野戦が得意なので、秀忠軍をここで足止めして、野戦を遅らせればその間に三成は大垣城に籠り、寝返りを待つことができると考えたのです。そのため、降伏を約束した昌幸はなかなか秀忠のいる本陣にあいさつにこなかった。しびれを切らした秀忠が再び仙石秀久を使わしたところ、昌幸は今度は「西軍につく」と言いだしたのである。

 秀久は再び降伏を勧告する使者を派遣しましたが、昌幸が再びこれを受けることはなかった。こうして秀忠と昌幸は直接対決へと移行し、徳川軍は昌幸の巧みな戦略の前に多くの犠牲者を出して敗北してしまったのです。さらにこうしたやり取りにより結局、秀忠率いる徳川軍の本隊は上田城に7日間も足止めされ、関ヶ原決戦に遅刻する羽目になってしまいました。

 本隊不在ながら東軍は関ヶ原の戦いに勝利を収めることができた。しかし秀忠は家康に激しく叱られ、合戦後の論功行賞では豊臣系諸侯に没収地の大半が与えられることとなった。

 遅刻したこと以上に3万8000もの兵を率いながらわずか5000の真田軍に敗北したことへの叱責が大きかった。敗北した上に遅刻までした秀忠は、三方ヶ原で血気逸って敗北してしまった家康と同じだった。親子2代に渡って若い時に挫折と屈辱を味わうこととなったのである。

「戦わずに西へ進め」という家康の使者が大雨で遅れて伝わらなかった。徳川軍の兵力の半分をこの徳川秀忠が率いていたが、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。このことは徳川家康の大誤算となった。

 

関ヶ原の戦い

 西軍の総大将は毛利輝元であったが、名前だけの大将で、大阪城からなかなか出陣してこないため、実際の指揮は石田三成がとることになる。大垣城にて家康との戦いの作戦をたてる西軍に、薩摩の島津義弘は「家康本陣に夜襲をかけよう」と提案するが採用されなかったため、腹を立てた島津義弘は合戦参加に非協力的になる。西軍は薩摩の猛将・島津義弘を失うことになる。
 それでも先に関ヶ原にて東軍を待ち構える西軍の布陣は万全のものであった。関ヶ原に先に到着した西軍は、石田三成が笹尾山、宇喜多秀家が天満山、小早川秀秋が松尾山、そして毛利秀元が南宮山に布陣して、関ヶ原の高所の大半を抑え、東軍を囲む鶴翼の陣を布いた。後に陸軍大学校の教官、ドイツのメッケル参謀少佐は、関ヶ原の戦いにおける東軍西軍の配置を目にすると即座に「西軍の勝ち」を断言したいわれている。西軍の布陣はおよそ8万数千。東軍の兵力よりもおよそ1万も上回っていて、後に到着する東軍を包み込んで包囲攻撃できるその布陣であった。

 本来ならば東軍は圧倒的に不利であったが、徳川家康は軍師で禅僧の閑室元佶に勝利の占いを行わせると大吉であった。家康は鶴翼の西軍の多くの諸将と内通していたため、鶴翼の陣の奥深くに陣を置いた。この戦いの総兵員のうち10分の1(約2万人)が鉄砲を装備していた。日本は世界一の鉄砲保有量を誇っていたのである。

 東軍が関ヶ原に着いたのが午前5時ごろである。小雨が上がったものの、辺りには深い霧が覆い数メートル先も見えぬほどであった。しかしその中をまずは東軍が動き始める。9月15日午前8時、美濃国・関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。激突した主な武将は以下のとおりである。

    東軍・福島正則  VS 西軍・宇喜多秀家
    東軍・藤堂高虎・京極高知  VS 西軍・大谷吉継
    東軍・織田長益・古田重勝 VS 西軍・小西行長
    東軍・松平、井伊、本多忠勝  VS 西軍・島津義弘
    東軍・黒田長政、細川忠興  VS 西軍・島清興(石田三成隊先陣)

 東軍の先鋒隊は福島正則隊と決まっていたが、家康四男・松平忠吉と井伊直政が抜け駆けによって開始されたとされている。これは徳川対石田の争いである。秀吉恩顧の福島正則隊よりも徳川の自分達が先を越したいところ。井伊隊は福島隊の脇を通り過ぎ、物見の為に先にでる」と偽りながら前進し、そして宇喜多隊を見つけるやいなや発砲した。先を越されてなるものかと福島正則隊も後に続き関ヶ原の戦を幕を開けた。家康は抜け駆けを厳禁していたが、霧の中での戦いだったので偶発的な遭遇戦がきっかけとなった可能性がある。最大の激戦は東軍の福島政則と西軍の宇喜多秀家の争いで一進一退の戦闘となった。
 大将首を狙って石田三成隊に東軍が殺到する。黒田長政が石田隊の左翼を突きそこに細川忠興、加藤嘉明らも後に続いた。しかし石田隊は木柵や空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎ、鉄砲、大筒などで必死に東軍を抑えていた。黒田隊の狙撃兵が石田隊の先陣を打つと、石田隊は大砲を発射して応戦した。

 大谷吉継隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かった。兵力的には東軍側が圧倒していたが、大谷吉継は3倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返した。小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかった。

  戦場ではどちらが勝ってもおかしくない状態であったが、この時点では石田三成の有利であった。未だ参戦せずにいる毛利隊と小早川隊合わせて4万5千の兵がいっきに東軍を攻撃すれば西軍の勝利は確実であった。

 家康本隊3万は戦闘には参加せず、開戦から間もなく経ってから桃配山を降りて最前線へ陣を移した。敵味方とも押し合い、鉄砲を放ち、矢の飛び交う音が天を轟かし、大筒が地を動かし黒煙が立ち、日中であったが暗夜となり敵も味方も攻め戦った。

 開戦から2時間を過ぎると、石田三成はまだ参戦していない武将に催促の狼煙を打ち上げ、島津隊に応援要請の使いを出した。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万3,000人ほどであったが、地形的に有利なため戦局は優位に進んだ。

 しかし西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで、部隊間の連携が取れていなかった。それに対し東軍は部隊数、実動兵力数で上回り、西軍の各部隊に対し複数の軍勢が連携して同時多方面から包囲攻撃を仕掛けた。入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして攻め立てた。さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は猛攻を受けて柵の中に退却した。

 西軍主力部隊はいずれも士気が高く、その抵抗力は頑強だったので戦局を覆すほどの決定打には成らなかった。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定するはずであった。しかし島津は「使者が下馬しないのは無礼だ」という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できず(宰相殿の空弁当)、南宮山の毛利軍ら3万3,000の大軍は参戦しなかった。このことが直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となった。
小早川秀秋の裏切り
 家康は内応を約束していた小早川秀秋隊が、松尾山の山奥に布陣したまま動かないことに業を煮やし、正午過ぎに松尾山へ向かって威嚇射撃を加えるように命じた。この家康の督促射撃によって松尾山を降りた小早川隊1万5,000の大軍が東軍に寝返ったとされている。しかしこれが真相かどうか疑問がある。轟音が響き黒煙が視界を塞ぐ中で、家康が打ちかけた鉄砲を判別できたかどうかが疑問なのである。家康が打った鉄砲は小早川の寝返りを促したというより、小早川に西軍を攻めよとの合図にも受け取れる。 なお小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「反逆は武士としてあるまじき事」として小早川秀秋の命令を拒否している。

 小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と戦闘をしていた大谷吉継隊の右翼を攻撃した。大谷吉継は秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600人の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押え返した。ところがそれまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も小早川隊に呼応して東軍に寝返り大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変し、戸田勝成・平塚為広は戦死して大谷吉継も自刃した。石田三成の軍勢は裏切り行為によってざわめきが起き陣列の混乱が続いた。大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂らの寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、宇喜多隊に狙いをつけ関ヶ原中央へ向け進軍を始めた。ここに関ヶ原の戦いの勝敗はほぼ決定した。

西軍敗走
 小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、家康本隊もようやく動き出し、東軍は西軍に攻撃をかけた。宇喜多隊は小早川隊の攻撃を防いでいたが、3倍以上の東軍勢の前に壊滅した。宇喜多秀家は小早川秀秋と刺し違えようとするが、家臣に説得され敗走した。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊も壊滅し小西行長も敗走した。石田隊も東軍の総攻撃に粘り続けたが、島・蒲生・舞などの重臣が討死して壊滅し石田三成は伊吹山の方面へ逃走した。
島津勢の敵中突破退却戦
 島津隊は東軍に包囲されが敵中突破退却戦、いわゆる島津の退き口(捨て奸)を開始した。島津義弘隊1,500人が鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央突撃を図った。西軍が壊滅・逃亡する中で、反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は強行突破に成功し、更に寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破した。この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものはなくなった。島津隊を見た家康は迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いた。しかし島津隊が直前で転進して、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始した。松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を追撃するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みた。

 島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷したため後退した。この追撃戦で島津方の島津豊久・阿多盛淳が戦死。次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて負傷して退却した。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬し、徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたこと、さらに本戦の勝敗が決していたことから、家康は追撃中止を命じ深追いを避けた。島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも殿軍の後醍院宗重、木脇祐秀、川上忠兄らが奮戦し義弘は撤退に成功した。島津盛淳は義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹した。島津家は戦功があった5人に小返しの五本鑓の顕彰を与えている。

毛利勢

 西軍の壊滅を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずに撤退を開始した。浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けると、長宗我部長束安国寺隊の援護を受けて戦線を離脱して伊勢街道から大坂方面へ撤退した。殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は少なからざる損害を受けるが辛うじて退却に成功した。安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して敗走した。西軍諸隊の中でまともな形で撤退できたのは彼らだけであった。

  開戦当初は高所を取った石田三成の西軍が有利であったが、かねてから懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転し西軍は総崩れとなり東軍の完勝に終わった。

 9月18日、徳川家康は石田三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた石田三成を捕縛し、10月1日に小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。

 その後大坂に入った家康は西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に分配して、自らの領地を250万石から400万石に増やした。

 秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず、領地はそのままにしたが、豊臣氏の直轄地を論功行賞として各大名の領地に分配したため、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。

天下分け目の合戦

 関ヶ原の戦いは「石田三成と徳川家康の争い」であり、徳川軍にも豊臣家に恩のある大名が多くいた。つまり豊臣対徳川戦いではなかった。

 1603年に家康は征夷大将軍として任命され江戸に幕府を開くが、それでも豊臣秀吉の子・秀頼は家康に擦り寄る様子をみせなかった。家康が亡くなれば政権を秀頼に返すと楽観していたからである。その証拠に家康の孫娘千姫は秀頼にとついでいる。

 地方への波及
 関ヶ原での戦いは天下分け目の合戦で、東軍西軍に連動して全国各地で東軍側の大名と西軍側の大名とが交戦した。関ヶ原での戦いで東軍と西軍のどちらが勝つのか分からなかったので、関ヶ原での戦いが決着つくまで地方でも戦いが続いた。

東北地方
 関ヶ原での戦いのきっかけは徳川家康の上杉征伐であるが、家康は石田三成の挙兵により反転する際、結城秀康を主力に最上義光伊達政宗上杉景勝の監視を命じていた。

 最上義光は上杉と領地を接していたため衝突は避けられなかった。最上義光は兵力で劣っていたため、嫡子を人質とすることを条件に上杉勢に和睦を申し入れたが、しかし最上義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める姿勢を見せたため、9月9日、米沢城から直江兼続が率いる軍勢が、庄内からは志駄義秀軍が最上領に押し入ってきた。さらに小野寺義道も最上領の湯沢城を攻撃した。

 伊達政宗は徳川家康が勝利した暁には、伊達政宗の旧領7郡を加増し、百万石の領地を与えるという「百万石のお墨付き」を家康から受け取っていた。そのため伊達は上杉領の白石城を攻撃し占領するが、これを返還することを条件に上杉勢と一時的に和睦を結んだ。

 最上義光は、9月15日に伊達政宗に援軍を要請した。伊達政宗は上杉勢と最上勢を戦わせて疲弊した後に攻めれば、上杉勢を容易く退けることが出来、最上は労せずに我が物になると家臣から進言を受けるが、最上が潰滅すれば上杉景勝の脅威を受けることにつながることから、伊達政景を総大将に9月17日に援軍を出撃させた。

 9月15日に直江兼続本隊が長谷堂城攻撃を開始すると、9月21日には伊達氏援軍が最上城東方の小白川に着陣する。直江兼続は最上勢の勇戦に苦戦し長谷堂城を攻略できず膠着状態となった。しかし9月29日に関ヶ原の詳報が両軍陣営に達し、流れは一気に最上勢に傾いた。

 直江兼続はすぐさま撤退を開始し、最上軍・伊達軍はただちに直江兼続を追撃した。最上義光が先頭に立ち猛攻を仕掛けたが、この追撃戦は大混戦となり、最上義光は兜に銃弾を受けたほどであった。直江兼続勢は10月4日に米沢城に帰還したが、最上領内部に取り残された上杉勢は最上勢に敗れ降伏した。

北陸
 前田利長は上杉攻めを支援するため、7月26日に金沢を出発し、8月は山口宗永が篭る大聖寺城を包囲し3日で落城させ、青木一矩の北ノ庄城を囲んだ。しかし大谷吉継の大軍が後詰でやってくるという虚報に引っかかり急いで金沢に引き返した。
 前田利長は途中で軍勢を二手に分け、丹羽長重が篭る小松城に別働隊を送り込みむと、別働隊に丹羽長重の篭城軍が襲い掛かり、別働隊を蹴散らした丹羽長重はさらに前田利長の本隊も襲い大損害を与えた(浅井畷の戦い)。

 膠着状態になったあと丹羽長重は和睦し小松城を明け渡すことになった。辛くも金沢に戻った前田利長は大急ぎで軍を建て直すと、9月12日に再度金沢を出発したが、結局、関ヶ原には到着できなかった。この時、大聖寺城攻撃に参加していた弟の前田利政は居城である七尾城に篭ったまま動かず東軍に加わらなかった。前田利政は西軍への参加を主張しており後に領地没収の憂き目にあうことになる。

四国
 伊予でも東軍についた加藤嘉明の松前城に毛利軍が戦闘をしかけた。これに対し平安時代から続く名族である伊予守護家の当主であった河野通軌(河野通直の養子)を始め伊予に縁のある毛利家臣が三津浜に上陸し陣を敷いた。松前城に開城を要求したが、加藤家の留守居役・佃十成らに夜襲をかけられ惨敗した(三津刈屋口の戦い)。その後も毛利方が不利のまま関ヶ原での西軍敗北を受けて、毛利軍は撤退した。関ヶ原の戦いに乗じた河野氏の再興はならなかった。

 阿波の蜂須賀領、讃岐の生駒領は父が西軍、子は東軍になったが、父の西軍参加は消極的なものであった。そのための領地は毛利家に占領される。このように戦国時代より領土を拡張していった毛利氏は関ヶ原の戦いの前後の政変に於いて、豊臣政権の名において四国に対する各方面での攻略を行ったが、関ヶ原の本戦で西軍が一日にして敗北すると兵を収めその反徳川行動から所領の多くを失うこになる。
阿波方面
 阿波の領主のうち赤松氏は毛利輝元の動員命令に従って西軍となった。蜂須賀家政は嫡男の至鎮を東軍として派遣していたが少数で、多くの兵力が国元の阿波に止まっていた。毛利輝元が大坂城に入城して豊臣政権から親徳川勢力を一掃すると大坂に居た蜂須賀家政は親徳川的な態度を咎められ剃髪して高野山へ追放され、家臣団は豊臣家の馬廻衆に編入されて北国へ出陣された。また毛利氏が阿波の対岸の大阪を抑えるために豊臣政権としての命令が出され、本国の阿波は関ヶ原の帰趨が決すまで毛利氏の占領下に置かれた。西軍による伏見城攻撃中の7月29日、大老の毛利輝元と奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以の著名により、毛利家家臣の佐波広忠と村上元吉・景親兄弟に蜂須賀家家臣と共に阿波を管理をするように命じられる。8月には村上兄弟に代わって毛利家家臣の椋梨景良・仁保民部少輔・三輪元徳が阿波の管理に派遣された。9月19日関ヶ原の趨勢が決し、家康と和議進捗中で毛利輝元は阿波の占領を解いて大坂からの撤退を命じ、蜂須賀家政への返還を申し入れている。阿波占領軍は9月25日、蜂須賀家の益田彦四郎に徳島城を引き渡し阿波占領は終了した。

讃岐方面
 讃岐の生駒氏に関しても阿波と似た状況にあり、生駒親正は生駒一正を東軍に付けており、岐阜城の戦いでは家康より感状を受領する程奮戦しているが、本国では蜂須賀と似た状況で、毛利氏の意向を受けた豊臣政権の圧力を受けて同じように剃髪して高野山へ追放され讃岐を占領されたが後に復権した。占領中に生駒氏の軍は西軍に編入されて田辺城攻めに使われた。このような状況は関ヶ原の戦いの結果が出るまで続いた。
伊予方面
 伊予の領主小川氏・池田氏・来島氏は毛利輝元による豊臣政権としての動員命令に従って西軍となった。大規模な戦闘に至らなかった阿波や讃岐と違い、伊予方面では毛利輝元の意を受けた伊予攻略軍が東軍の加藤嘉明と藤堂高虎の領地に対して調略を行った。加藤領に対しては軍事行動を起こし、河野家の後継者的な立場にあった宍戸景世(河野通軌に比定)が総大将格となり、他に桂元綱、伊予国人の曽根景房、因島村上氏、さらに8月に阿波方面からの村上元吉が伊予に派遣された。9月17日に三津浜に上陸した伊予攻略軍は佃十成の率いる加藤家の留守部隊に急襲されて村上元吉や曽根景房が戦死した(三津浜夜襲)。毛利家ではこの敗戦に宍道政慶と木屋元公を増派している。三津浜の戦闘で加藤軍も多くの戦死者が出ており、三津浜を引き払った伊予侵攻軍は内陸部に侵攻し久米の如来院を占領し、荏原城で蜂起した旧河野家家臣の平岡直房や正岡氏に呼応している。9月19日には如来院で戦闘が行われ、加藤家の指揮官・黒田九兵衛が戦死している。23日に三津ノ木山での戦闘があったが、関ヶ原の戦い結果を受けて伊予攻略軍は撤退した。

 毛利氏は藤堂高虎の領地に侵攻を行なわなかったが、旧西園寺氏の家臣の久枝氏や山田氏などの勢力に蜂起工作を行い、宇和郡松葉村の三瀬六兵衛が毛利氏に内通して一揆を起こし、鎮圧軍では足軽大将の力石治兵衛(力石是兵衛)が戦死するなど、一度板島へ引き上げた後に宇都宮氏の旧臣栗田宮内の働きによりようやく鎮圧された。
土佐方面
 土佐の長宗我部氏は毛利輝元による豊臣政権としての動員命令に従って西軍として行動した。
九州
 九州では主に領国に所在した黒田如水と加藤清正が西軍大名領に攻め込む形で戦いが発生した。
黒田如水
 7月に石田三成が挙兵すると孝高は徳川家康につき九州で挙兵する意思を示し、これが家康に認められると9月9日に中津城より豊前・豊後に出陣した。孝高の最初の目標は豊後国東の垣見一直の富来城と熊谷直盛の安岐城で、両領主は美濃の大垣城にいて留守を家臣が守っていた。両城の攻撃は大友義統による豊後上陸と杵築城(木付城)攻撃に対応と石垣原の戦いにより一時中断されるが、9月24日には両城とも開城・接収された。毛利高政領の本城日隈城及び支城の角牟礼城も19日以降に開城・接収されている。侵攻中の19日に孝高が藤堂高虎宛てに送った書状では如水と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるよう家康に取り成して欲しいと依頼している。

 佐賀の鍋島直茂は息子の勝茂が西軍についたが在国の直茂は9月下旬に孝高・清正につき領国を保った。小早川秀秋領の名島城は領主留守中に黒田軍が秋月まで侵攻したが、留守居役と交渉して久留米攻めに合意して東軍となり小早川領を維持した。毛利秀包領の久留米城は領主留守中に黒田・鍋島軍の攻撃を受け、10月14日に孝高により開城・接収された。中川秀成は配下の宗像・田原氏が離脱して石垣原の戦いに参加したため西軍と疑われたが黒田軍について佐賀関の戦いで大きな被害を出したものの太田一吉領の臼杵城を10月頃に開城させて東軍であることを証明した。城は最終的に黒田孝高が接収した。
毛利勝信
 毛利勝信(吉成)は毛利輝元や奉行衆の使者として8月18日に熊本城の加藤清正の下へ派遣され、西軍参加を説得した(ただし、途中で伏見城攻撃時に自軍が甚大な被害を受けた報を聞き、急遽小倉に引き返したため勝信の家臣が清正に書状を渡したもいわれる[35])。毛利勝信は子の毛利勝永(吉政)が指揮した伏見城攻撃時に多くの家臣(毛利九左衛門、毛利勘左衛門など)を失い、続く安濃津城攻撃や関ヶ原本戦時に吉政は輝元家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に編成されるなど単独の軍事編成が失われ、家中も混乱状態にあった。東軍についた黒田如水が軍勢を整えて攻撃を仕掛ける様相を呈している中で、領国同士が海峡を挟んで隣接し、西軍の盟主でもあった毛利輝元は家臣の三沢為虎・和田重信などを勝信領の門司城に派遣し、同じく主城の小倉城も輝元勢の統制下に置いて対抗した。[36]。本戦の結果により輝元も手を引き、毛利勝信領の小倉城は10月19日以前に如水により開城・接収された。
加藤清正
 加藤清正は関ヶ原の戦いの前年に発生した薩摩・島津家中の内紛である庄内の乱の際に、反乱を起こした伊集院忠真を秘かに支援していたことが家康に知られ、庄内の乱の収拾を図っていた家康の怒りを買った結果、上杉征伐への参加を認められなかった。清正と家康の疎遠化という事態を対し、西軍は毛利輝元らが書状を送って必死に西軍への参加を求めて説得工作を行った(前述の毛利勝信の派遣もその一環である)。しかし、清正は家康から上杉遠征軍に自らの家臣や小姓を随行させる許可を得て、万が一の際に家康との連絡を取る態勢を整えていた。そして、家康は小山評定の直後に随行していた清正の家臣に書状を託して帰国させ、家康が尾張に到着するまでは勝手な軍事行動を控えるように指示して実質東軍への参戦を認めた。この家臣が帰国して家康の書状を清正に渡したのは8月後半と推定されているが、その間にも清正は黒田如水や松井康之(細川忠興重臣・杵築城守将)と連絡を取り協力を約していた[35]。肥後では宇土城の小西行長と人吉城の相良頼房が西軍として出兵中であり、8月12日付け書状により家康より加藤清正は肥後と筑前は切り取り次第であることを認められた[34](ただし、この使者が清正の許に到着したのは9月10日のことである[35])。領国の熊本城を9月15日に進発した加藤清正は、当初は大友義統に攻められた豊後・杵築城の救援に駆けつける予定であったが、この日に発生した石垣原合戦で大友軍は壊滅、黒田如水からの書状で事情を知った清正は17日に豊後入りを取りやめてそのまま兵を小西領に向けて方向を転じた。19日より宇土城へ攻め寄せて21日には城下を焼き払った。小西行長の本城宇土城は城代の小西行景が南条元琢・内藤如安と共に堅守して加藤軍を苦しめると共に島津に援軍を要請し、島津義久は島津忠長・新納忠元らを肥後に派遣し、肥後水俣城に籠もり、芦北を攻めるなど加藤軍と戦った。本戦の結果を受けて10月20日に小西行景が開城に応じて自刃すると島津勢も薩摩へ帰還した[37]。なお、先立つ10月17日に清正家臣の吉村左近は小西領八代城を接収しており、宇土城も清正により11月には占領統治が開始されている。
立花宗茂
 立花宗茂は、当初西軍に属した後に岐阜城陥落の報を契機に大津城に籠城して東軍となった京極高次を毛利勢と共に攻撃して開城させ、関ヶ原本戦には参加できなかった。本戦後、大坂城経由で海路領国の柳川城へ10月初めに帰城すると、黒田・加藤・鍋島の攻撃を受ける。10月20日には柳川北方で鍋島勢と衝突し(江上合戦・八院の戦い・柳川合戦)立花了均(鎮実)・三太夫統次・新田鎮実らの重臣を失い、宿老の小野鎮幸も重傷を負うなどの大打撃を受けた。家康により身上安堵の朱印状を受領した後に、加藤清正と25日に和睦が成立した。柳川城は清正家臣の加藤正次が受領した[38]。この後、孝高と清正は加藤・黒田・鍋島・立花からなる九州連合軍を編成して島津攻めの準備に掛かる一方、宗茂を仲介として和平交渉を行っている。11月になると家康は薩摩攻めの中止を指示し、企画されていた徳川秀忠による島津攻めは計画のみに終わった。なお、佐土原の島津豊久は本戦で戦死したが、領国は薩摩の庇護を受けて維持した[34]。
その他諸将
 その他、伊東祐兵は病のために大坂に滞在していたものの、早くから家康に通じて領国の兵が東軍として戦ったために所領を安堵された。相良頼房・秋月元種・高橋元種は東軍に内応して大垣城を占拠したことで現状維持したが、高橋元種の支城であった宮崎城は伊東祐兵に占領された。
関東
 常陸の大名の佐竹義宣は石田三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を挟撃するという密約を結んでいた。だが父・佐竹義重や弟で蘆名氏を継いだ蘆名盛重、重臣筆頭である佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し、義宣の西軍加担に強硬に反対した。隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた義重の発言は当主である義宣も無視できず、自身の三成との親交と板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。すなわち配下の武将を中山道進軍中の秀忠隊に派遣し、従軍させたのである。配下の多賀谷重経や、小勢力の山川朝信、相馬義胤、岩城貞隆は景勝に通じていたが、これには宇都宮氏一族で結城秀康の家督相続によって当主の座を追われて浪人となった結城朝勝(佐竹義重の妹が生母)の動きが背後にあった。
伊勢
 関ヶ原に進出途上だった毛利勢らが、道中にあった安濃津城など伊勢の諸城を攻め立てた。安濃津城の富田信高は降伏・出家、松坂城の古田重勝は和睦で時間稼ぎしつつ持ちこたえた。桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟は当初中立を宣言していたが西軍の圧力に押されて西軍に加担した。その後西軍は福島正頼(正則の弟)が籠もる長島城を攻略しようとしたが、東軍が清洲城に集結したとの報に接し美濃方面へ転進している。
伊賀
 安濃津城攻略向け進軍してきた西軍は3万の兵で伊賀上野城を攻める(上野城の戦い)が、筒井玄蕃は高野山へ逃亡・謹慎し、城を交戦せずに明け渡し、新庄直頼が入った。会津征伐に出陣中の城主筒井定次は、徳川家康に許しを得て伊賀国に引き返し、伊賀衆と共に上野城を攻撃する。激戦の末新庄親子は降伏し 、退却した。上野城を奪還した定次は関ヶ原へ引き返し、石田三成らと交戦した。


合戦後の動き
大垣・佐和山落城
 関ヶ原で東軍の大勝利で終わった日、家康は首実検の後、大谷吉継の陣があった山中村へ陣を移し休養を取った。翌9月16日には裏切り組である小早川脇坂朽木赤座小川に石田三成の本拠である佐和山城の攻略を命じ、これに近江方面の地理に明るい田中吉政、軍監として井伊直政が加わり、2万を超える大軍で進軍した。

 徳川家康は平田山に陣を構え、佐和山城には石田三成の兄・石田正澄を主将に父の正継や三成嫡男・重家、援兵である長谷川守知ら2,800の兵が守備していた。6倍以上もの兵力の差に加え、御家安泰のために軍功を挙げねばならない小早川秀秋らの攻撃を奮戦で退けた。

 石田正澄は家康の旧臣清幽を使者にして降伏交渉に入り、石田正澄の自刃、開城とひきかえに城兵と婦女子を助命するという条件でまとまった。しかし翌17日に長谷川守知が寝返って東軍の兵を引き入れ、三の丸が陥落すると翌18日早朝に田中吉政隊が天守に攻め入り落城した。石田正澄ら三成の一族は自刃して滅んだ。清幽は家康に違約を激しく詰問し、石田三成の三男佐吉をはじめとした生き残った者を助命させた。

 赤松則英は逃亡後、福島正則を頼って投降したが切腹を命じられた。重家は脱出して京都妙心寺に入り、後に助命されて同寺へ出家させられた。
 関ヶ原の直前まで西軍の前線司令部であった大垣城には、福原長堯を始め垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子などが守備に就いていた。これに対し東軍は松平康長、堀尾忠氏、中村一忠、水野勝成、津軽為信らが包囲し対陣していた。

 関ヶ原が西軍の敗北に終わると、城内には動揺が広まったが、行動に出たのは三の丸を守備していた肥後人吉城主・相良頼房であった。会津征伐に従軍中、三成に東下を阻止された相良頼房は、長堯の指揮下に入り、同じ九州の大名である秋月種長・高橋元種と共に三の丸を守備していた。西軍敗北の報を受け、相良頼房はかねてより音信を取っていた井伊直政を通じ、家康への内応を密かに連絡した。連絡を受けた直政は家康に報告、家康は直ちに大垣城開城を頼房らに命じるが、長堯ら本丸・二の丸に陣取る大名の戦意は高かった。

 このため頼房・種長・元種の三将は、9月17日、軍議と偽って籠城中の諸将を呼び出し、現れた垣見・熊谷・木村父子を暗殺し二の丸を制圧した。これを知った長堯は本丸で頼房らを迎撃し奮闘したが包囲軍にの西尾光教の説得によって城を明け渡して伊勢朝熊山へ蟄居した。家康は長堯を許さず切腹を命じ自刃した。内応した三将は領地を安堵されている。
 伊勢方面では西軍の多くの将が退却していた。9月16日には伊勢亀山城が開城し、城主であった岡本良勝は自刃を命じられた。嫡男・重義も近江水口で自刃した。桑名城も同日に開城、東軍に加担するつもりであったが西軍の圧力で止む無く西軍へ加担した氏家行広・行継兄弟は、山岡道阿弥に城を明け渡し改易された。長島城を包囲していた原長頼は逃走したが捕縛された。美濃駒野城に籠城していた池田秀氏や、伊賀上野城を占拠していた新庄直頼・新庄直定は城を放棄して退却している。

 鍋島勝茂は父・鍋島直茂の命で伊勢・美濃国境付近で傍観していたが、西軍敗走の報に接するや直ちに大坂へ退却、その後、伏見城に赴き家康に謝罪している。志摩鳥羽城を巡り嫡男・九鬼守隆と合戦した九鬼嘉隆は伊勢答志島へ逃走した。守隆は父の助命を家康に懇願、家康は拒否したが加増の内示を受けていた伊勢南部五郡を返上して父の助命嘆願を行った守隆に免じ助命を許した。しかし助命の報が届く直前に嘉隆は自刃する。嘉隆と共に行動した堀内氏善は紀伊新宮城に籠城したが、城を捨てて逃走している。
論功行賞と三成の処刑
 家康は西軍の首謀者で、敗戦後に逃亡して行方不明となっている石田三成や宇喜多秀家、島津義弘らの捕縛を厳命し、その一方で大坂城の無血開城を行うべく福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との開城交渉を命じた。家康は9月20日に京極高次の居城である大津城に入城してしばらく留まった。

 北陸方面の東軍総大将であった前田利長が、西軍に属した丹羽長重と青木一矩の嫡男・青木俊矩を連れて合流し、家康は両名の懇願を排し改易処分とした。また家康が大津城に入城した同日に、中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流している。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒し、しばらく目通りを許さなかったが、榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶った。
 9月19日、小西行長が竹中重門の兵に捕らえられ、草津に滞在中の家康本陣に護送された。続いて石田三成が9月21日、近江伊香郡古橋村(高時村)で旧友の田中吉政の兵に逮捕された。古橋村は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていた。しかし三成は発覚したことを知ると、自ら田中吉政の兵に身分を明かして捕縛されている。捕縛後9月22日に大津へ送られ東軍諸将と再会した。

 福島正則は石田三成に罵詈雑言を浴びせたが、黒田長政や浅野幸長は石田三成に労りの声を掛けている。また小早川秀秋は石田三成に裏切りを激しく詰られた。

 9月23日、京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送された。この三名は大坂へ護送された。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城へ戻っていたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させている。

 また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かった。途中で父と合流して田辺城の戦いに加わった。重勝は徹底抗戦の構えを見せたが、井伊直政と山岡景友の説得により開城し城下の寺へ謹慎した。
 家康は9月27日に大坂城に入城。豊臣秀頼や淀殿と会見した後、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始した。
 10月15日以降、論功行賞が順次発表された。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康の67万石を筆頭に、豊臣恩顧の諸大名は軒並み高禄での加増となったが、いずれも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められた。
 豊臣氏の蔵入地が廃止され、それぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに事実上減封となった。一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地とした。

 豊臣恩顧の大名が家康の論功行賞によって加増された事は、彼らが豊臣家の直臣ではない事を意味した。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転するが、豊臣家は特別の地位を保持して、徳川の支配下には編入されていなかった。
 10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の3名及び伊勢で捕らえられた原長頼は京都六条河原において斬首された。首は三条大橋に晒された。10月3日には長束正家が自刃し三条大橋に首を晒された。福知山城を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家して助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃した。この他赤松則英、垣屋恒総、石川頼明、斎村政広などがこの10月に自刃を命じられている。家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、増田長盛は死一等を減じられ武蔵岩槻に配流。前田玄以は所領の丹波亀山を安堵され両極端な処分が下された。一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は家康から捕縛を厳命されていたが薩摩へ逃亡した。


大坂城開城と毛利氏の処分
 石田三成と安国寺恵瓊より西軍の総大将に就任した毛利輝元は、関ヶ原の敗北後も豊臣秀頼を擁して大坂城にいた。立花宗茂は大坂城に籠城して徹底抗戦を主張し、秀頼の命と称して篭城抗戦が行われる可能性が残された。しかし家康は大野治長を大坂城に遣わし「秀頼と淀殿は今回の戦に関係なし」と説得した。

 また吉川広家が「毛利輝元の西軍総大将は本人の関知していないところ」と家康を説得し、家康はその説明に応じ毛利輝元は福島正則と黒田長政の開城要求に応じる。福島・黒田に加えて家康家臣の本多忠勝と井伊直政が、家康に領地安堵の意向を保障する起請文を毛利輝元に送り、それと引換えに毛利輝元は9月24日に大坂城西の丸を退去し、27日に家康が大坂城に入城して、秀頼に拝謁し西の丸を取り戻し、徳川秀忠を二の丸に入れた。

 しかし10月2日、家康は黒田長政を通じ吉川広家に対し、輝元が積極的に西軍総大将として活動した書文を証拠に挙げて吉川広家の説明は事実ではなかったとした。そのため所領安堵は取り消され「毛利氏は改易し領地は全て没収」と通告した。吉川広家には律儀さを褒め、律儀な吉川広家に周防国と長門国を与えて西国を抑えることを同時に伝えた。

 毛利氏安泰のための内応が水泡に帰した吉川広家は、謀反人の宿老であったが、その律儀さゆえに吉川広家のみは破格の扱いを受けるという形になった。しかし「毛利輝元の西軍への関与は知っていたが、なるべく動かないようにしたので免責してほしい」などの前言を翻しての交渉はできなくなった。そのため自分自身への周防・長門(山口)を毛利輝元に与えるよう嘆願し、本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい、今後輝元が少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出すという起請文まで提出した。家康としても九州・四国情勢に不確定要素があるため、毛利を完全に追い詰めることは得策ではないことから吉川広家の嘆願を受け入れ、毛利氏本家改易決定を撤回し周防・長門36万石余り(山口)への減封する決定を下した。さらに本拠地を毛利氏が申請した周防山口ではなく、長門の萩にするよう命じた。毛利輝元は出家し家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居した。

 毛利領が現在の山口県、広島県、島根県(120万石)から山口県(36万石)に減らされたことから、毛利本家は残された毛利領から3万石(岩国領)を吉川広家に割き与えた。しかし吉川広家の功績を知る幕府は、吉川氏を諸侯並みの待遇とし当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えた。


島津氏の処分
 関ヶ原本戦において、敵中突破を敢行した島津義弘は、堺より立花宗茂と共に海路を逃走して鹿児島へたどり着いた。島津義弘は桜島で謹慎したが、当主である兄・島津義久らは家康の攻撃を予測して、防衛体制を強化し臨戦態勢をとった。家康は島津征伐の準備を進め、島津氏を武力で討伐する方針を固めていた。

 九州では関ヶ原の戦いが終っても戦闘が繰り広げられていた。10月6日には黒田如水が豊前小倉城を攻撃して毛利勝信を降伏させた。加藤清正は小西行長の居城である宇土城を攻撃していたが、西軍敗戦の報が届いたことで10月12日に城将・小西行景が自刃し開城した。

 薩摩から肥後へ攻め入った島津の軍勢は、加藤清正家臣の加藤重次が守る佐敷城に阻まれ攻め落とせないまま撤退した。肥前佐賀の鍋島直茂と勝茂の父子は家康に西軍加担を謝罪した際に、本領安堵の条件として筑後平定を命じられ、直茂父子は帰国後直ちに筑後平定に掛かった。まず小早川秀包の久留米城を開城させ、続いて立花宗茂の籠る柳河城を包囲した。鍋島軍と立花軍の間で激戦が繰り広げられたが、包囲軍に加わった如水・清正の説得によって宗茂は開城し降伏する。
 宗茂降伏後、家康は直ちに島津義久討伐を九州の全大名に命じ、九州の全大名が出陣して肥後水俣に進軍した。島津義久はここで最終決戦を行おうと兵を総動員して北上させ、薩摩・肥後国境に軍を進めた。島津軍の指揮は当主・島津義久みずからが執っり、九州連合軍黒田、立花、鍋島、加藤と対峙した。しかし、11月22日に島津義弘が家康に謝罪の使者を送ったため島津征伐は中止となり、九州連合軍は撤退、以降家康と島津氏の間で交渉が行われた。島津義弘は関ヶ原の退却戦において傷を負わせた井伊直政に仲介を依頼し、直政はこの仲介要請を受諾し、以降徳川方の窓口として、島津義久、島津忠恒と戦後交渉をした。家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとして交渉は長期化した。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり積極的な加担ではないと主張した。
 その後2年にわたり交渉は続けられたが、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、1602年(慶長7年)3月に薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定された。決定後義久の名代として、忠恒が12月に上洛し謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入った。このように粘り強い外交により、島津家は減地されることなく本領安堵を得ることができた。薩摩という、大坂から離れている地理的な利点は大きかったが、早い段階で家康に全面的な降伏をした毛利氏、上杉氏が大幅に減封されたことと比較すると、対照的な結果となった。
 なお薩摩に匿われていた宇喜多秀家は家康に引き渡され、前田利長と忠恒による助命嘆願により死罪を免れて1606年八丈島に流罪となった。


上杉氏・佐竹氏の処分
 10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪した。まだ処分が決められていないのは関ヶ原の導火線となった上杉景勝と、態度を曖昧した佐竹義宣の2人になった。
 上杉景勝は最上軍と長谷堂城で激戦を繰り広げたが、9月30日に西軍敗走の一報で直ちに撤退した。勢いづいた最上義光は庄内へ攻撃を開始、伊達政宗も侵攻を開始した。上杉景勝は防戦しながら今後の対応を協議した。この中で直江兼続らは徳川との徹底抗戦を主張するが、本庄繁長や千坂景親らは和睦を主張した。最終的に和睦が決定され、直江兼続の「江戸へ南下するべし」との意見は退けられた。交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と和睦を主張した本庄繁長が任命され、東軍の上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼し、彼らの取り成しにより領地没収を予定していた家康態度を軟化させていった。
 1601年7月1日、千坂・本庄両名の報告から和睦が可能となったことを受け景勝は兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後、結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問し謝罪した。上杉氏への処分は1ヶ月後に言い渡され、陸奥会津120万石から75%減の出羽米沢30万石へ減封となった。

 上杉景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」とだけ述べ、11月28日に米沢へ移動した。
 佐竹義宣は石田三成との親交から西軍への加担を決め、上杉景勝と密約を結び、上杉領内に入った徳川軍を挟撃することを考えていた。このため上杉征伐では動かずにいた。しかし佐竹家中では父・佐竹義重、弟・蘆名義広、家臣筆頭である佐竹義久が東軍徳川方への加担を主張していた。特に父・佐竹義重は東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない佐竹義宣は、佐竹義久を中山道進軍中の徳川秀忠軍へ兵300と共に派遣する曖昧な態度を取った。しかし家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一や水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置し、徳川秀忠も佐竹義久の派遣部隊に対して丁重に謝絶している。

 西軍敗北後、父・佐竹義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし佐竹義宣は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過した。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは佐竹義宣のみとなった。

 佐竹義宣は謝罪すらせずに動かなかった。しかし義重の説得により1602年4月に上洛しようやく家康に謝罪した。しかし家康は佐竹義宣の観望について、上杉景勝より憎むべき行為として厳しく非難した。死一等は許されたが常陸一国など佐竹氏勢力の54万石は没収され、出羽久保田に20万石格での減転封となった。佐竹義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動した。

 

織田氏の処分
 織田信忠の遺児で幼名三法師とよばれていた織田秀信は改易となり岐阜城を追われ高野山に追放となった。おなじく織田秀雄も改易され江戸に居住することを命じられたが夭逝した。織田信雄も改易となったが後に許されて大和の大名となった。
 佐竹氏の減転封が決定され、関ヶ原における論功行賞と西軍諸大名への処罰は終った。1603年、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開き、西軍に加担して改易されていた立花宗茂丹羽長重滝川雄利の3名が大名に復帰している。その後相馬義胤など数名が大名に復帰するなど大名家は少しずつ復帰していった。西軍に加担した大名の中には明治維新まで存続したものも多く、島津氏の薩摩藩毛利氏の長州藩は倒幕に活躍した。しかし領地を没収された西軍の大名及びその家臣の多くは浪人となった。幕府旗本や諸藩の藩士として天寿を全うする者もいたが、長宗我部盛親や毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(真田昌幸二男)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)などは、10数年後の大坂の役で豊臣方の浪人衆として幕府軍と戦い、戦死することになる。

関ヶ原の戦いに関する論点
 大垣城に篭っていた西軍の石田三成が関ヶ原に出たのは、「大垣を無視して佐和山城をおとして大坂へ向かう」という流言を流した家康に石田三成がおびき出されたとされている。しかしもし家康がこの流言を流したのならば、部隊が最も脆弱になる行軍中を襲撃するはずで、家康がこの攻撃をしかけなかったのは理解できない。石田三成は関ヶ原の合戦前に豊臣秀頼の出陣を再三大坂に求め、これは西軍の士気を引き締めるためであったが、家康が大坂へ向かうのなら三成にとっては好都合で、大坂城付近での後詰決戦を行えば良いはずである。
 これに対して河川の氾濫により水害に見舞われることの多い大垣城を家康が水攻めにし、西軍の首脳と関ヶ原付近に布陣していた毛利、小早川らとの連絡が断たれるのを恐れたためとの説がある。この説は関ヶ原、松尾山に施されていた築城工事が新城と言えるほど大規模なものであった事を前提としたもので、石田三成の戦略を次のように推定している。
 関ヶ原の松尾山から笹尾山ラインに野戦築城を施し東軍の進撃を阻止する。松尾山の城砦には西軍主力となる毛利輝元3万人を配置する。東軍が大坂へ向かうために大垣城を無視して関ヶ原に進撃すれば、大垣城の石田三成・宇喜多秀家らが東軍を追撃しライン上で東西から挟撃する。
    東軍が大垣城を攻めればラインに布陣する大谷吉継、毛利輝元らが大垣城を攻めている東軍を西から攻撃し、大垣城の城方と挟撃する。この戦略によればどちらに転んでも西軍は東軍を挟撃する事が出来る。しかし関ヶ原西方の松尾山から笹尾山のラインの要である松尾山城砦に去就が明らかとは言えない小早川秀秋が居座ってしまっていた。また大垣城が水攻めに脆弱で、水攻めが行われれば決戦で城から討って出ることが出来なくなってしまう。そのため三成らが関ヶ原へ潜行したとされるのである。