江戸時代の生活

 江戸時代は日本が海に囲まれ、外界との情報や資源がある程度自由で、経済的に豊かだったため生活資源の自給自足が完全に可能だった。この幸運に恵まれた日本は世界的に極めて珍しいのである。徳川体制はこの日本だからこそ可能だった。江戸時代のの263年間は、日本は戦争の無い平和な国家で、これも世界的に珍しいことである。人々は平和と繁栄を謳歌し、まさに最も理想的な高度官僚社会が誕生したのである。花のお江戸は100万人の人口を有する世界最大の文化都市で、この基礎を敷いた徳川家康は、まさに天才的な政治家だった

 また江戸時代は時代劇などにも取り上げられることもあり、日本の歴史の中でも親しみを感じやすい時代でもあった。今でも地方に行くと、江戸時代の暮らしぶりを残しているところもある。もちろん江戸時代と現代とは生活習慣や風習などは大きく違っていて、風呂、トイレ、医療、出産、刑罰などは今では想像もつかないであろう。しかし昭和の初期と江戸時代は生活習慣にそれほどの差はない。


江戸時代の人口
 江戸時代の人口は初期で約1500万人、後期で約3000万人とされている。もちろん正確な統計データはないし、統計から除外されていた人もいた。幕府の調査によれば、1721年の人口は約2,606万人、1804年には2,562万人、1846年には2,690万人で、明治政府が調査した1870年の記録では3,279万人となっている。
 日本で正確な調査が行われたのは、1591年の豊臣秀吉の命によるもので、朝鮮半島への出兵や検地のためで、ある程度の統計手法がもちいられていた。江戸時代になると、キリシタン排除のため「宗門人別改帳制度」ができ調査が再度行われた。これは人の数を調べることが目的ではなく、宗教宗派の分布調査が主目的であったため、ある程度の把握はできるたが、子供の数を含めないこともあり正確ではない。
 全国の人口調査を初めて行ったのは徳川吉宗である。1726年以降6年ごとに人口調査が行われ、これにより人口の推移がわかるようになった。しかし調査方法はそれぞれの藩に任せれていたので、基準に基づいた数字ではない。各藩は独立国家のようなもので、何人の武士(兵員)を抱えているかは軍事機密にあたるので、幕府に正確な人数を申告する藩はなかった。また武家屋敷に勤める奉公人の人数がわかると、武士の人数も推測できるので奉公人の数も秘密にされていた。そのため実際の人口と差があったとされているが、それでもなお定期的に調査を行ったことは画期的なもので、江戸時代の人口推計を知る上で貴重な資料となっている。

 

町人と身分制度
 幕府の直轄地である江戸京都大坂は、それぞれ政治・文化・経済の代表都市として栄えていた。秀吉による兵農分離は家康によってさらに進められ、士農工商と呼ばれる身分制度が確立した。

 武士は支配層として行政や治安の責任を負い苗字帯刀が許された。武士の特権として切捨御免があるが、切捨御免は奉行所が厳しく取り調べを行い、少しでも落ち度があれば切腹させられたので実際には滅多に起こらなかった。総人口は3200万で武士は7%にすぎず84%は農民であった。武士たちは身分制度の一番上に立つ階級なので、将軍や御三家などの大名が道を通るときには、町人たちは土下座をして通り過ぎるのを待たなければならなかった。

 城を中心に城下町には政治や軍事施設があり、武士は城の周辺に住み、商工業者の町人も増加して城下町が発達した。城下町には住む場所が定められていて、家臣団・足軽の屋敷がある武家地、有力寺院や神社が集められた寺社地、町人が住む町人地に区分された。
 町人は町屋敷を持ち、地主は町の自治に参加した。さらに家持、宅地を借りて家屋を建てる地借、家屋を借りる店借がいた。町には町奉行が監視して、町奉行の下に町年寄や町名主がいて町法(町掟)により町政をしていた。農民は農村に住まなければいけなかった。それ以外の身分としては公家や僧侶・神官があった。

 江戸時代の身分制度として「士農工商」という言葉はわかりやすいが、士農工商は明治になってから使われた言葉で、江戸時代にはこのような用語は存在したかった。現在では、教科書を含めて「士農工商」の用語は削除されている。

 これらの身分制度は固定されていたわけではなく、受け入れる人がいれば他の身分に移ることも可能であった。なお士農工商のいわゆる四民とは別に、賤民という身分があり皮革の加工を行う穢多(えた)、受刑者への業務を行う非人がいた。穢多・非人は武士の支配下にあり、職業や住む場所をきびしく制限され差別を受けた。
 もちろん同じ身分でも上下の区分(差別)があった。また江戸時代の社会を支えたものに家制度があり、家族は家長を中心に協力し、長男が単独相続するのが通常であった。

武士の仕事
 武士は戦って手柄を立てるのが本来の仕事であるが、天下泰平の江戸時代には戦はなかった。そのため江戸時代の武士の仕事は、今でいえば公務員である。幕府の仕事をしている人は国家公務員、藩の仕事をしている人は地方公務員に相当する。仕事の内容は警察の仕事から、政治を行う者、主君の身の回りの世話をする者などその内容もそれぞれで、1日の勤務時間にも1か月の勤務日数にも仕事によって幅があった。お城番は月に数日しか仕事がないが、財務会計を行う御算用者は激務だった。

 武士は空き時間に勉強し、剣術の稽古をしたが、実際には空き時間を遊んで暮らしていた。江戸時代に人形浄瑠璃、三味線、歌舞伎などが脚光を浴びたのも、時間を持て余した武士が寄与していたからである。さらに武士たちは教養を活かして小説を書き出版したりもした。「金々先生栄花夢」を描いた黄表紙作家・恋川春町は紀州徳川家付家老の家臣の次男で、「南総里見八犬伝」で知られる曲亭馬琴は旗本の屋敷で用人を勤めていた人物の5男である。江戸時代の文化は町人文化とされているが、意外に暇な武士の存在がその発展を支えていた。

 

下級武士の生活
 武士の生活は懐事情が悪かったが、商人に頭を下げるわけに行かなかった。内職が許されたのは百石以下の下級武士だけで、下級旗本も決して懐が暖かかったわけではない。そこで彼らは三味線や踊りなどの腕を磨いて、高級旗本などが催す宴会でそれらを披露して「おひねり」をいただいていた。高級武士である旗本が芸人まがいのことをしてお金を稼いでいたのである。

 江戸時代は農民ばかりが貧しい生活をしていたイメージがあるが、実は武士たちの生活も決して楽ではなかった。下級武士の生活は町人とほぼ同等か、それより低いこともあったが、武士としての誇りを持っていた。江戸の武士といえば身分が高く、それなりの優雅な生活をしていたと思われがちであるが、下級武士の生活はかなり質素であった。多くの下級武士たちは内職をして生活の足しにしていた。
 内職というと貧乏臭いが、江戸時代の武士にとってはそれは当たり前のことだった。時代劇などで下級武士に対して「このドサンピン」というセリフを吐く場面が見られるが、この「ドサンピン」という言葉は最下級武士の1年間の給料が「三両一人扶持」だったことに由来している。1両の貨幣価値は10万円程度と考えられ、一人扶持というのは米五俵のことだったので、最下級武士の給料は1年間でわずか30万円ほどの現金と五俵のお米になる。米の値段を現代の貨幣価値に換算すると、米一俵は1万5千円ほどなので、五俵だと7万5千円で、三両と合わせて37万5千円が下級武士の年収になる。現在のサラリーマンの平均年収の10分の1以下になるので、この給料で生活は不可能だったため多くの下級武士は「内職」をしていた。江戸時代は百石以下の下級武士たちは内職が許されていた。
 下級武士の内職はさまざまで、金魚、鈴虫、コオロギなどの養殖から、傘張りや提灯、凧、耳かきなどを作る仕事、朝顔やツツジの栽培などを行っていた。特に傘張りは時代劇でその場面を見かけることが多いので、武士の内職というと傘張りを思い浮かべるが、このように武士たちはさまざまな仕事をしていた。その仕事は地域によって盛んな場所があり、代々木の鈴虫やコオロギ、下青山の傘張りが有名である。明治以降の名物である「入谷の朝顔市」も、元は武士たちの朝顔栽培の内職から来ている。
 しかし武士には武士としての誇りがあるため、内職で作ったものを商人の屋敷まで売りに行くことはなかった。それらを卸問屋まで持って行って換金するのは、武家地の辻番の番人が副業として行っていた。

 武士の心情

 例えば宮本武蔵は立派な戦士になるために修行を重ねた剣豪であるが、武士が官僚になることを求められた時代には不遇な生活を送った。宮本武蔵だけでなく、武士が官僚になる前に解雇され、時代の流れに取り残された者は「浪人」となって諸国を放浪した。その多くは大阪の陣で豊臣方について戦った武士で、真田幸村や後藤又兵衛、長曾我部盛親らが悲劇の英雄となったが、彼らは死に花を咲かせたが、多くの武士は職を失い貧しい放浪の身となった。

 武士という特権階級にありながら、その生活は貧しかったが、明治初期の四民平等や徴兵令、廃刀令に反対し命をかけて武士の地位を守ろうとしたことを考えれば、金銭的な豊かさ以上に武士としての誇りを大切にしていたことがわかる。

 

庶民の生活

江戸時代の食事
 
現在も食事の内容は各家で違っているように、江戸時代も士農工商の身分によって、また同じ身分でも裕福な家と貧乏な家では大きく違っていた。大名たちは裕福で豊かな食生活を送っていたが、下級武士は一般庶民と変わらず貧しい食事をしていた。
 幕府や藩からの収入だけで食事をとることができないため、多くの武士たちが広大な大名屋敷内に自家菜園を持ち野菜を育てていた。畑でとれた野菜と古漬けのたくあんが毎日のおかずで、魚を食べられるのは月に数回程度だった。下級藩士の子であった俳人・内藤鳴雪(せいめつ)は、魚が膳に上るのは月3回と決まっていたと述べている。つまり下級の武士は米と野菜ばかり食べていた。
 江戸時代に書かれた「幕末百話」という本に、丁稚奉公の食事の様子が描かれているが、それによると「朝は365日みそ汁だけ、昼は安い日に限って魚がつくことがあり、夜は漬物だけだった」と書かれている。
 現代は夕食がもっとも豪華でるが、当時は夜になると明かりもなくすぐに就寝したので質素だった。
 落語の「味噌蔵」には商家の番頭が主人の留守中にどんちゃん騒ぎをするが、奉公している人の食事はそれほど粗末だったのである。住み込みで働く丁稚たちは、商用で外出した時などに食べるそばや寿司などが滅多にない贅沢だった。
 今も江戸時代も農民は米を作っていたが、江戸時代の農民の多くは白米を食べることができなかった。現代のように農業が高度化されていなかったので、大量に収穫はできなかった。収穫した米の大部分は年貢(税金)として出され、自家用に食べられるお米は少なかった。白いご飯は、お祭り、正月などの時以外に食べることはできなかった。農民にとっては毎日白米を食べている江戸の町人たちは羨ましく、女衒(ぜげん)で買い取られる10才にもならない少女を連れて行く際に、少女をなだめるのに使われた常套句は「白いまんまが毎日お腹いっぱい食べられるようになる」というものだった。

脚気
 江戸時代には、それまで朝夕の1日2回だった食事が3回になる。3食とも1汁1菜もしくは2菜でわずかな菜で白米を食べるのが普通であった。そのことは「江戸わずらい」と呼ばれる病気を招くことになる。江戸わずらいというのは脚気のことで、精米すると雑穀や米ぬかには含まれていたビタミンB1が不足し、心不全や抹消神経障害をきたし下肢にむくみやしびれがおきた。参勤交代で1年おきに江戸に住んだ武士たちは、体面を守るため白米を食べその結果脚気にかかる者が多かった。しかし江戸を離れて地方の雑穀混じりの食事を取ると治ることから江戸わずらいと呼ばれた。
 江戸の中期以降には新たな主食として蕎麦が流行する。そばとうどんの両方を出すお店では、東京では「そば うどん」とそばが先に書かれているが、大阪では「うどん そば」と書いてある。確かに東はそば、西はうどんというイメージがある。蕎麦の背景には脚気を予防するという実益があった。
脚気が死因となった人々
 江戸時代は脚気が死因となった人が多かった。14代将軍・徳川家茂やその正室・和宮も死因は脚気心とされている。13代将軍・家定も暗殺説もあるが脚気が悪化したためとされている。このように徳川将軍の死因として最も多かったのは脚気だった。
 江戸城では10代家治のころから白米が常食とされ、参勤交代で江戸に来る地方の武士でさえ体面を保つために白米を食べるくらいなので、将軍はなおのこと白米を食べざるを得ない状況であった。

 真っ白のごはんは江戸の人たちにとって一番のごちそうだった。農家の子どもたちにとって白米を食べられる生活は「夢」のようなものだった。脚気の原因が白米にあることは、だいぶ後になるまでわからなかった。
脚気は国家問題
 経験的にも漢方医学でも蕎麦を食べることが脚気を予防することが分かっていたが、明治になって脚気は国家的な問題になる。明治期の脚気による死亡者数は年間で最少でも6500人、最大では15085人にもなる。1873年に出された徴兵令では当時1日5合食べていた白米を、兵士になれば1日6合食べれることが目玉とされた。当時の人たちの白米に対するあこがれは大きかったが5合でも多すぎるくらいである。

 海軍では早くに米食が脚気の原因と気付き、麦飯を始めたが、陸軍は脚気の原因を細菌によるものと考え、大正2年まで白米1日6合を続けていた。そのため脚気は帝国軍人の職業病となっていた。

 1910年に鈴木梅太郎が「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告し、ビタミン不足が脚気の原因であることがわかってからも、脚気の患者は減らず、結核と並ぶ二大国民病といわれた。
 江戸の人々は初物好きで「初物を食べると七五日長生きする」といわれ、大枚をはたいて初物を食べた。特に人気があったのはカツオで、カツオが「勝つ男」に通じることからその縁起を担いで歌舞伎役者の中村歌右衛門は初ガツオ1本に3両払った。現在でいえば48万円くらいである。そのほかにもシイタケやナシ、ミカンなど江戸の初物好きは野菜や果物にもおよび、栽培までして高く売ろうと初物競争が過熱したので、幕府が初物禁止令を出したくらいであった。

服装

 江戸時代の服装は男女や身分によって違っていた。男女ともに着物を着ていたが小物などに身分による違いがあった。
 武士の妻たちは気位を高く持たなければならず、たとえ貧しい下級武士の妻であってもだらしない服装はできない。「武士の名折れ」となってしまうからである。町人たちからは奥方と呼ばれ尊敬され、正式な場では正装しなければいけなかった。小袖と呼ばれる着物の上に打掛(うちかけ)を重ね着するのが普通だった。夏場は暑いので打掛は着ない。髪はクシできちんと整え、武家小刀を帯に挟んでいた。
 江戸時代には年齢や身分に合わせて着物や髪形のしきたりがあったので、その服装を見ればどのような家の人なのかわかった。町人の妻たちは、丸髷(まるまげ)の髪型に着物を着て前掛けをするのが一般的であった。エプロンのような前掛けは着物の汚れを防ぐためで、町人の妻は着物は数枚で買うときは中古だった。古着屋で買った着物を大切に着続けるために前掛けは必需品だった。
 武士は社会の規範で、身分制度の上に立っているが、戦争もほとんどなく戦うことはなかった。日々の仕事は現代でいう「役所勤め」である。書類をつくり申請書にハンコを押す毎日だった。お城に勤めにいくときには、着物の上に裾の長い袴を着る。かなり長いズボンのようなものですので、歩きにくいしろものですが、それが礼装でした。これに上着として肩衣をつけ上下セットで「裃」(かみしも)と呼ばれます。武士という名前ではあっても戦闘をするわけではないので、こうした動きにくい服装でも構わなかったのでしょう。髪型を整えることも武士のたしなみで、ちょんまげスタイルでは頭のてっぺんをきれいに剃っていないとカッコ悪い、とされていました。不精ヒゲのようにちょんまげのまわりに短い毛が生えていては恥です。しょっちゅう頭を剃っていました。
 町人の男性たちの服装は女性と同じく質素な身なりをしていた。古着屋で購入した着物を大切に着るのが普通ですが、おしゃれとして「羽織」を上に着るのが粋(いき)であった。江戸時代265年間の間には、羽織の流行がしばしば変わり、裾の長いものがはやったり短いものがはやったり、袖の短いもの、袖のないものなど、さまざまなものが登場した。

結婚

 町人は見合いや恋愛結婚をで、現代と変わらなかったが、武士の結婚は親や主君からの命令であった。結婚前に相手に会うことも、逃げることもできなかった。武士が結婚に求めるのは世継ぎをつくり家を存続させることであった。容貌や料理にとらわれてはいけなかった。世継ぎを生むことができない嫁は離婚をつきつけられた。実際、武家の夫婦の10組に1組は離婚していた。

識字率

 江戸時代は鎖国政策などにより世界的な学問に大きく後れを取った。しかし明治の富国強兵によって瞬く間に世界に追いつき、経済力でも西欧諸国に肩を並べ、軍事力でも清やロシアに勝利するほどの力をつけた。それは日本人の勤勉で実直な努力もあるが、江戸時代から学力がきわめて高く、識字率は世界で最も高かったことが関係している。

 江戸時代、多くの子どもが学校に通い「読み書きそろばん」とう基本的な学力を身につけていた。貧しい町人の子でも文字が読めた。

 どの国でも、どの時代でも最初に教えるのは「文字」である。文章の読み書きができなければ書物を使って学習することができない。それゆえ就学率と識字率が教育の判断になる。江戸時代後期の日本では、江戸の就学率は70%~86%程度だったので識字率はそれ以上と考されている。

 ロンドンの識字率は25%にすぎず、産業革命によって世界の工場と呼ばれた最盛期でも、下層階級の子どもの多くは文字を読むことができず識字率は1割程度だった。当時のフランスは初等教育は無料であったが、それでも就学率はわずか1.4%で識字率も低かった。つまり識字率はわが国とは比べ物にならないほどに低かった。

 江戸時代の政治・行政の担い手である武士階級は、現代でいえば公務員にあたる。職務上書類は欠かせないので、武士にとって武力は江戸時代の初期までで、太平の世のなかでは学力が重視された。武士にとって学校に通うことは剣術を磨くことより重要で、江戸時代の武士たちの識字率は100%であった。

 江戸時代に日本を訪れたロシアの宣教師ニコライは手記に、国民全体に教育がいきとどき、孔子(論語)のような高度なものを知識階級は暗唱でき、身分の低い者もかなり詳しく知っていることに驚いている。江戸時代は世界で類を見ないほどに教育がいきとどき識字率においてはダントツに世界一だった。それが文明開化の時代に花開き、今日の経済力へと結びついている。

 

江戸時代の通貨

 江戸時代には金貨、銀貨、銅銭の3種種類の貨幣が使われていた。金貨は小判のことで、これは主に江戸を中心とする東日本で使われ、銀貨は大阪を中心とする西日本で使われていた。

銅貨は全国各地で使われ生活上もっとも流通してい貨幣である。貨幣の材料である金属そのものに価値があり、それによって信用がなりたっていた。現在のような紙幣は存在しなかった。

 江戸時代の265年間、物価変動はほとんどなかった。武士の給料(家禄)は代々同じ石高で、武士の給与が変動しないので庶民の収入も大きな変化はなかった。。しかし、江戸末期になると物価は上がり、賃金変動のなかった武士たちは当然のことながら困窮した。

 貨幣の価値が変われば金・銀・銅の間の価値も変化する。そのため金貨と銀貨の両替比率が変動した。金と銀、銀と銅とを交換する場所が「両替商」である。金貨ばかりでは普段の買い物ができないので銅銭にしてもらう必要があるので両替商を頼った。その交換比率は変動するが、幕府によって「相場」が決められていた。江戸は「金づかい」、大阪は「銀づかい」、と江戸時代以前からの習慣で、東日本では主に金貨が使われ、大阪などの西日本では銀貨が使われていた。江戸幕府はその習慣をそのまま生かしたので、金貨と銀貨の両方がでまわることになりました。金貨だけ、銀貨だけという国が多い中で、江戸時代のわが国の貨幣制度は特殊だった。1両の価値は一概には言えないが、1両あれば一石(2.5俵、150kg)の米が買えたと言われ。一人の人が1年間に食べる量と言われ、約7.5万円に相当していた。

 金貨の場合「1両小判」を基準に、その4分の1が「1分金」、さらにその4分の1の「1朱金」であった。銀貨は量を基準にしていたため一分銀、五匁銀など重さを表示した貨幣があった。

 江戸時代の代表的な銭貨であった寛永通宝は400億枚作られ、1枚1文の一文銭と4文の四文銭があった。4文銭1枚で串団子1本程度の価値だったされるので、現代では数十円である。時代劇の「銭形平次」で投げられていた一文銭は、5円~10円程度だった。もっともよく流通した貨幣であり、全国で400億枚もあったと言われています。また、「天保通宝」は1両の500分の1程度の価値があり、明治時代の初期でも流通していた。

江戸時代の家屋はほとんどが木造である。現代では防火壁などの材質が使われているために、ボヤが起きても大きな火事にまで発展しないが、当時の建物は木と紙でできていたためとても燃えやすかった。しかも長屋づくりで、狭い土地に密集して町ができていたために、一度火災が発生すると近隣にまで燃え広がった。
「火事とケンカは江戸の花」というが、江戸時代には火事が頻発していた。
 建物の燃えやすいことは江戸時代以前とかわりないが、時代とともに江戸の街は人口が集中し、建物が密集していたため火事が多くしかも規模も大きくなった。
 そのため消防組織も大がかりなものがつくられ、大名が務めた「大名火消」、旗本が務めた「定火消」(じょうひけし)、町人が務めた「町火消」などの異なる組織があった。

火事と火消し
 火事が起きた時に最も活躍したのは町火消である。地域の消防団と言えるもので消防が職業ではない。町奉行の配下の与力や同心が指揮する町人たちによる消防隊で、町内で活動費用を負担し合う民活組織であった。火消しに携わる人たちの手当は、はんてん、ももひきなどの衣装が支給された。消防団員として活躍するのは主に建設作業に携わる町人たちでした。建物の構造や道具の使い方を熟知した人たちです。
 「火消」という名前はあるが、実際に火を消すことはめったになかった。
 江戸時代には人口が密集しているのに対して水道設備が追い付かず、江戸の街は慢性的な水不足に悩まされていました。消そうにも水がないのが現実で、現代のようなポンプもホースもなかった。桶でくんだ水をかけるだけで、実際のところ、大火に対しては焼け石に水に過ぎませんでした。
 そのため火消の仕事は、延焼を最小限に食い止めることで、破壊活動を行った。長鳶口(ながとびぐち)と呼ばれる、草刈りの鎌を大きくしたような道具や、大のこぎりなどを使いこなせる鳶職(とびしょく)などの専門家が火消の中心となっていた。火を消すのではなく、火元を破壊したり、隣の家をつぶしたりして、火事の広がりを抑えた。
火消しの組織
 江戸時代の町火消の組織はトップが頭取(頭)で、以下、小頭、纏持ち(まといもち)、梯子持ち(はしごもち)、平人足と階級が分かれ、それぞれ半纏(はんてん)の柄で階級がわかるようになっていた。頭取と小頭は皮の羽織を着ることが許されていた。一番危ないのは纏持(まとい)ちで纏というのは、長い棒の先に丸い玉のついた飾りです。消火そのものに使うのではなく屋根の上で場所を知らせるものである。それを持つ纏持ちはとても危険な仕事です。頭取の指示で屋根に上り、消火活動が終わるまでずっと棒を振って見届けている。自分の立っている家が燃えれば命の危険にさらされる。頭取、小頭につぐ、No3の役職なのは、火事に対する勘が冴えているのと同時に、危険を顧みない勇気の持ち主である必要があったからである。
鐘の音
 火事が起きると半鐘を鳴らして知らせたが、半鐘が1回だけだと現場は遠いという合図でした。2打の場合には大火の恐れがある知らせで、連打のときには火元が近いことを知らせていた。


三都の繁栄と商業の発達
 農業や諸産業の発達は流通をうながし、全国を結ぶ流通路がつくられた。流通路の要となった江戸・大坂・京都のいわゆる三都は世界有数の大都市になった。江戸には幕府の施設や大名屋敷など多数の武士が集中し、様々な職を持つ町人が集まり、日本最大の消費都市となった。江戸の総人口は100万人になり、世界最大の都市であった。
「天下の台所」といわれた大坂は全国の物資が集散した商業都市で、堂島の米市場では世界初の商品先物取引が行われた。大坂は人口35万人で、幕府は大坂城代や大坂町奉行を置いて西日本を支配させた。
 京都は桓武天皇の平安京以来、長い都の歴史があり多くの神社や仏閣がひしめく宗教都市であった。また呉服屋や両替商などが置かれ、西陣織などの工芸も発達して人口40万人になった。幕府は京都所司代や京都町奉行を置き朝廷や寺社を監視した。
 米で俸禄を受け取っていた武士も貨幣経済の発達により貨幣が必要になり、年貢米や特産物を貨幣に替えなければならなかった。そのため各藩は大坂や江戸に蔵屋敷を設けて、藩士に蔵物の保管や販売を行わせていたが、やがて蔵物の取引を行う蔵元や代金の出納を担当する商人(掛屋)に業務を委託するようになった。幕府の米蔵は浅草の蔵前にあり、商人(札差)が旗本や御家人の俸禄米の受け取りや売却をおこなった。これらの商人はやがて大名や旗本などを相手に金融業を行い、金の力で武士の生活を左右するようになった。この蔵物に対し生産地で商人が仕入れ販売された商品を納屋物とよび全国に出荷された。また蔵元と掛屋は同じ商人が兼ねることがあった。

 堺・京都・博多・長崎・敦賀などを根拠地とした初期の豪商たちは、朱印船貿易などで巨万の富を得たが、鎖国による制限貿易で海外との交易が規制され急速に衰えていった。
 この流れの中で、江戸・大坂・京都の三都や城下町において地方からの商品の仕入れや受託を行う問屋が商業・流通の中心となった。問屋は業者ごとに仲間や組合をつくり、仲間掟と呼ばれた独自の法を定めて営業を独した。
 幕府は仲間(組合)を認めなかったが、商工業者の統制や物価の調節に有効なことから、運上や冥加などの営業税を確保するために、18世紀には公認し仲間を増やすようにした。この幕府によって公認された営業の独占権を株とよび、商人たちの仲間は株仲間とよんだ。江戸の十組問屋や大坂の二十四組問屋が株仲間として知られている。なお株仲間を積極的に公認することで商人からの税を増やし幕府財政を安定させたのが田沼意次である。
 商業の発達は貨幣経済をもたらし、徳川家康は慶長金銀を発行して流通させ、幕府に貨幣の独占権を握らせた。幕府は金座・銀座・銭座を設けて、小判などの金貨や銀貨、一文銭の寛永通宝などを発行した。これら金・銀・銭の三貨は統一貨幣で、全国に普及し商品の流通を支えた。
 しかし東日本では金貨は表面に記された数字で価値を保証する計数貨幣であったが、西日本では重量によって価値を保証する秤量貨幣である銀貨が使用され、その交換率が相場によって変動することから両替商が活躍することになる。東日本では金遣(きんつか)い、西日本では銀遣(つか)とよばれている。
 有力な両替商は公金の出納、為替、貸付などを行うようになり、幕府や藩の財政を支えた。大手の両替商としては江戸の三井家や大坂の鴻池家がある。このほか江戸時代中期以降になると財政難に苦しんだ各藩が領内のみで通用する藩札を発行したが、藩が取り潰されれば紙くず同然になった。

交通網の整備
 全国統治には交通網の整備が欠かせず、徳川家康は早くから交通網の整備を進めたが、参勤交代や経済の発展による商品の流通によって、交通網以外にも通信の手段も整られた。
 東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道は、江戸の日本橋を起点とする重要な街道で幕府の管轄下にあった。この五街道以外にも、伊勢街道・北国街道・中国街道・長崎街道などが整備され、街道には一里塚や橋・渡船場・関所などが設けられ宿場が数多くあった。
 宿場は街道が通る城下町に置かれ、それ以外は宿場町と呼ばれた。東海道には品川から大津まで53の宿場が設けられたが、これらは東海道五十三次と呼ばれ、浮世絵や和歌・俳諧の題材に取り上げられている。
 宿場には大名が宿泊する本陣、本陣の予備としての脇本陣、一般旅行者のための旅籠木賃宿が設けられた。また宿場に置かれた問屋場は人馬を常備し、幕府公用の荷物や書状などの飛脚の業務を行った。幕府の継飛脚と同じように各大名は江戸と国元との間に大名飛脚を置くようになり、また町人も町飛脚を始めるようになり、書状や小荷物を扱う飛脚問屋ができた。陸上交通では幕府や大名の通行が優先されたが、これらに用いられる人馬は宿場の町人や農民が準備した(伝馬役)。なお人馬が不足した際には村から補充された(助郷)。
 幕府は治安維持から箱根など各街道に関所を設け、江戸への武器の搬入や江戸から大名の妻子が帰国しないように厳しく見張った(入鉄砲に出女)。街道が整備され宿場町はにぎわい、やがて伊勢参りなどの庶民の旅行が盛んになった。

 

関所破りの真実
 江戸時代には「入鉄砲に出女」が厳しく制限されそれを監視するために置かれたのが関所であった。入鉄砲は飛び道具である鉄砲を江戸の町に持ち込むことを制限することである。なんらかの理由で鉄砲を持ち込むには、老中が発行する「鉄砲手形」を携帯する必要がああった。
 「出女」は、各地の大名の妻や子供が、江戸の屋敷に強制的に住まされていた。つまり各地の大名が謀反を起こさないように、家族が人質にされていた。大名たちは参勤交代で江戸の屋敷にいるときだけ妻(正室)や子供と会うことができた。そのような重要な人質である正室に逃げられないように、女性が江戸から出ていくのを関所で監視していた。
 女性が江戸を出て関所を通るためには留守居(るすい)が発行した「女手形」を携帯しなければいけなかった。留守居というのは、老中の下に置かれた役職で、大奥の取り締まりや通行手形の管理などの業務を行っていた。
 関所として特に有名なのは箱根の関所で、現在ではこの箱根の関所が復元されて観光名所となっている。江戸に出入りをする者は、必ずこの関所を通る必要があり、もし関所破りをすると磔(はりつけ)の刑にされることが「御定書」に書かれている。
 関所破りは武力で関所を突破するのではなく、関所が置かれた街道を通らずに、山道を抜けることであった。関所には犯罪人の手配書などが配布されていたので、お尋ね者が堂々と関所を通過することは困難だった。そのため関所のある街道をさけて、暗い夜に山道を抜けていった。関所が置かれるような街道は限られていて、細い山道などはたくさんあった。つまり関所破りは簡単にできたわけである。関所破りは簡単であったが、その発覚の多くは告げ口によるものだった。
 借家に住むときに紹介状がなかったり、宿に泊まるときの宿帳に不自然な部分があったり、配られている手配書にが似ているなどということがあると怪しまれたりした。しかし罪人でなければ、関所破りをしても問題にはならなかったのが事実である。
 江戸時代において関所破りは重罪とされ、八代将軍吉宗による御定書百箇条に関所破りは磔とすることが書かれている。磔は江戸時代の刑罰の中でも最も重いものである。しかし実際に関所破りで磔の刑になったのは、非常に少なく、お尋ね者の罪人でもなければ、関所破りをしても極刑になるということはなかった。江戸時代をとおして磔の刑になった人数は、わずか6人とされている。磔の条文は刑を実行よりも重罪をとすることで、関所破りの予防効果を狙ったものである。実際には関所の近くの茶屋などでは抜け道を教えてくれた。また運悪く見つかっても、「道に迷ってしまった」と言い逃れですんだ。処罰といっても藩外への追放程度で、磔になるなどということはなかった。ちなみに関所破りの罪で磔になった人物で有名なのは国定忠治である。国定忠治の場合は殺人を犯して指名手配中だったので、捕まった時点で磔の刑になるのも当然であった。
 江戸時代では田沼意次が賄賂で有名であるがが、下級役人たちも多かれ少なかれそうであった。関所も例外ではなく、役人に賄賂を渡すことで通行手形を持たなくても見逃してくれることも多かった。また関所の近くの茶屋などでそういった知恵を授けてくれることもあった。手配書が回っているお尋ね者は賄賂を支払っても無理であろうが、融通が利いたのは通行手形を持たない一般の旅人であった。
 また「出女」の関係から女性が関所を通過する際には徹底的に検査をされ、場合によっては裸にされることもあったため、手形があっても賄賂を払って通させてもらう女性も多かった。賄賂といっても露骨にやるのではなく、近くの宿屋とグルになっていて、宿屋にお金を払って保証人になってもらい、その宿屋の女中という形で通行させてもらっていた。江戸時代に賄賂のやり取りをしていたのは越後屋と悪代官だけではなかった。

 

大井川の真実

 東海道を抜けるには難所が2か所あり、1か所は箱根の峠越えで、もう1か所が大井川であった。なかでも大井川は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われたように箱根以上の難所とされていた。

 大井川には橋はなく、船の移動も禁止され川越人足による手段だけであった。一般的には江戸を守るための軍事的な理由から、幕府によって大井川には橋を掛けることが許されていなかったとされている。そのため増水により川止めが2~3日も続くことがあった。大井川を渡るためには川越人足とよばれる人たちに肩車をしてもらうか、蓮台と呼ばれる梯子のようなものに乗せてもらう以外に方法はなかった。決められた川渡し場以外の場所を、自ら歩いたり泳いで渡ったりした場合には「間通(かんどう)越し」といわれ幕府より厳罰に処せられた。
 運が悪いと川止めが2~3日が続くことがあり、「川を越してから宿を取れ、川の手前で宿を取るな」が常識になっていた。
 大井川には渡し船がなかったのは、川の勾配や川幅といった地形的な問題や水量などを考えると、当時の架橋技術では橋を架けることが困難であった。明治12年になって大井川に橋がかけられたが、その長さは900mで世界一長い木造橋だった。江戸時代の架橋技術で橋を作るのは難しかった。しかし渡し船がなかったのかという疑問がある。ここに大井川に橋なかった本当の理由が隠れている。

 大井川に橋を作ることが困難であっても、実際に渡し船は可能だった。渡し船があれば難所といわれた大井川もわたりやすい川だったはずである。そのため渡し船を認めてほしいという請願が幕府に対して何度も出されていたが、幕府はそれを認めなかった。
 大井川を挟んで、島田と金谷の両方の宿があり川越人足を束ねる組織がつくられ、業務を独占的に行うことを幕府が認めていた。川越人足は1000人程度もいたとされ、当時としては巨大産業である。
 もし幕府が渡し船を認めてしまうと、これら1000人の川越人足たちが職を失ってしまう。これだけの規模なので幕府もその既得権益を保護せざるをえなかった。多くの旅人たちが望んだ渡し船を出すための請願を、幕府が何度も握りつぶしたのは、巨大産業としての川越人足制度をなくすわけにはいかなかったのである。
 それでは川越人足を使って大井川を渡るには、どれくらいの料金がかかったのか、大井川を渡るときの料金は川の水深によって細かく分けられていた。大井川を渡るには、川渡し場の両岸に置かれた川会所に行って「川札」を購入する必要があった。この川札は、川越人足の肩車で渡る場合には1枚、もうひとり人足が必要な場合には2枚買う必要があった。また4人で担ぐ蓮台渡しの場合には4枚必要だった。要するに川越人足の人数分だけ「川札」が必要になった。この「川札」1枚の料金は川越人足の体のどの部分まで水深があるかで決まる。水深が川越人足の股の下までだと「股通」となり48文(960円)、褌(ふんどし)の帯の下までだと「帯下通」で52文(1040円)、帯の上だと「帯上通」で68文(1360円)、乳首より下の位置だと「乳通」で78文(1560円)、脇の下までだと「脇通」で94文(1880円)となっていた。そして脇よりも水深が深くなると川止めになった。水深が脇の下までの「脇通」のときに蓮台を使って大井川を渡ると、94文の川札が4枚必要になりますので合計7520円になる。
「脇通」の日に肩車で渡るとなるとお客自身もかなり濡れることになってしまうので、お金のある人は蓮台を使って優雅に優越感を感じながら渡った。

 

庶民の暮らし

(1)長屋の暮らし
標準的な造りは、間口9尺(1間半)、奥行き3間、つまり、入り口から土間の台所、そして、座れる空間(座敷)を入れても9畳(4.5坪)でした。
土間兼台所は、3尺位で、非常に合理的に食事道具などを収め、その後ろの半畳位の場所に衣類などを入れた長持ちや家財道具を置き、居間としては6畳位しかありませんでした。食事道具としては、箱膳が重宝がられ、箱の引き出しに、自分専用の茶碗や皿、箸などを入れて、家族はそれを重ねて積み上げ、空間利用しました。
また、所帯持ちですと、江戸時代後期あたりでも、子どもは4~5人居ましたので、家族としては6~7人が一般的でした。従って、わずか6畳に押し合い、ひしめき合って暮らしていました。夫婦の夜の「お楽しみ」は、屏風や衝立(ついたて)で子どもたちとは区切りをして行いました。
もっと貧しい、あるいは、独身者用としては、間口6尺(1間)、奥行き2間、土間や家財道具や仕事道具などを置く場所を除くと2畳の座敷のものもありました。
井戸やトイレは一箇所で共同使用しました。


(2)大家は家主ではない
大家は長屋の管理人であって、長屋の持ち主ではない。また、「家守(やもり)」「家主(やぬし、または、いえぬし)」とも呼ばれた。
共同トイレは、大家の権限で、近在の農家などと契約をして、汲み取りをさせ、農家としては、江戸の贅沢な食事で排泄されたものは、良質な「下肥(しもごえ)」となり、年に10樽の「たくあん漬」などと交換をして、大家は店子に分配したりしていた。
長屋の一軒を借りるには、身元保証人が必要だった。また、独身の男が嫁をもらって、一緒に暮らす時にも「大家」の承諾が必要だった。
また、旅に出る場合は、関所手形を発行してもらうにも、必ず、大家の保証が必要だった。
夫婦喧嘩や子どもの喧嘩の仲裁も大家の大事な役目の一つだった。

(3)木戸
長屋では、防犯上のこともあり、表通りに面した場所には、必ず、木戸を設置することが義務付けられていた。朝は七ツ(午前5時)に開けて、夜は五ツ(午後9時)には閉められた。
また、木戸の上部には、その長屋に住む「大工」や「たが屋」などの表札が掛けられており、宣伝すると同時に「ここに住んでいる」という証とした。

(4)冬支度
建物を広範囲に暖めるには「囲炉裏」があったが、江戸の町中では家々が密集しており、火災の危険があったので、派手に火を炊くことはできなかった。そこで、とにかくいっぱい厚着をして火鉢に手をかざしたり炬燵(こたつ)に足を入れて暖をとるのが精一杯だった。火鉢には金属製、木製、陶製があり、形によって丸火鉢、角火鉢、長火鉢、提(さ)げ火鉢などがあった。下級層の長屋住まいでは、せいぜい丸火鉢ぐらいであったが、家持ちになると木製の長火鉢が主流だった。長方形の箱型をしており、片側に「猫板」と呼ばれる板を渡してあり、湯のみ道具を置いたりし、その下は引き出しになっていた。炬燵は足元から暖まって気持ちがいいが、鉄瓶などを置けないのでやや不便だった。囲炉裏というと農家を思い出すが、江戸市中でも深川の船宿などには囲炉裏があった。薪や炭が高かったので、せいぜいチロチロと燃えるぐらいか、炭を置くくらいであった。

(5)夏支度
日本の建物は、昔から、夏向きに風通しが良いように造られている。暖かくするには厚着をしたり火を焚けば良いが、夏の暑さを取り除く方法は全くなかった。とは言うものの、道具類では「扇子(せんす)」、「団扇(うちわ)」などがあったが、耐え難いものであった。心理的効果としては、風鈴や虫の音色で少しでも涼を感じようと努力をした。夏はまた蚊やブヨなどが発生し、こちらの対処方法の方が難儀だった。「蚊遣り(かやり)」と呼ばれる香の強い木片やオガクズをくすぶらせて虫除けとしたが、当然けむたかった。蚊帳(かや)が広く使われ始めたのも江戸時代である。名産地は近江地方が多く「萌黄(もえぎ)の蚊帳」と町々を売り歩いたという。萌黄(黄色に近い緑色)だと汚れも目立たなかったので需要が多かった。麻の蚊帳もあったが高価で庶民には手が出なかった。ほかには、木綿や紙の蚊帳もあったという。しかし、長屋住まいの人々は「蚊遣り」ぐらいがせいぜいであった。「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬はいかなるところにも住まる」は兼好法師(けんこうほうし)の「徒然草(つれづれぐさ)」で有名。

(6)寝具
現代のような掛け布団は一般的にはなかった。掛け布団は上方(かみがた)では元禄時代から使われ始めたらしいが、江戸では「夜着(よぎ)」が冬用で夏は「掻巻(かいまき)」を掛けて寝た。「夜着」も「掻巻」も着物をやや大きくしたようなもので綿が入っている。「掻巻」は夏用なので綿は薄く入っている。しかし、下級層では昼間着ていた着物に、冬は何枚も重ね着をし、夏はそのまま脱いで寝るのが普通であった。敷布団にはやや綿が入っており、形は現代とあまり変わりはない。枕は「括り枕(くくりまくら)」といって、長方形の袋に蕎麦殻(そばがら)などを入れたものが一般的であったが、髪型が派手になってくると崩れるのを防ぐために、高さを加えた「箱枕」が流行するようになっていった。

(7)灯火
夜、部屋を明るくすることは非常に高くついた。もっとも一般的だったのが「行灯(あんどん)」であったが、形や大きさはさまざまであった。小皿に油を入れて灯芯を浸して点火するもので、風を防ぎ照明効果を上げるために障子紙で周りを囲った。使う灯油は、広く使われたのは菜種油であったが、当時はまだまだ高価だったため、貧しい人は、菜種油の半値くらいの「魚油」を使った。外房産の鰯(いわし)が多く出回った。しかし、臭いがきつく、何よりも煤(すす)が激しく出て、明るさもそれほどなかった。行灯よりも明るいのは「蝋燭(ろうそく)」だが、これは贅沢品であった。大型の百目(ひゃくめ)蝋燭になると、1本が200文(もん)くらいした。大工の一日の稼ぎが500文だったから、いかに高いかがわかる。武家はともかくとして、蝋燭をふんだんに使ったのは吉原ぐらいと言われている。

(8)油を売る
裏長屋の住人でも明かりなしではいられないので、油売りは町屋の隅々まで入り込み顔馴染みをつくった。背負ってきた桶から粘(ねば)りのある油を油徳利などに移した。世間話をしながら客の持ってきた容器にゆっくりと注ぐ。客も気長に最後の一滴が落ちるまで待った。お互い怠け者のようにみえるので、無駄話で時間をとることを「油を売る」と言ったのはここからきている。蝋燭は高価だったのでもっぱら店で売っていた。また、蝋燭を売り歩くかわりに、「蝋燭の流れ買い」という商売があり、燭台や提灯の中に流れて固まった燃え残りやしずくを量りで買いとって歩いた。いかに、蝋燭が貴重だったかがわかる。

(9)男の着物
男の着物は、身分によって決められていたので、人々は「身分相応」ということを幼少のころから叩き込まれた。武士は小袖(こそで)に裃(かみしも)か羽織、袴(はかま)。裃は肩衣(かたぎぬ)に袴を組み合わせたもので、正式には共裂(ともぎれ)で作ったものを着用した。商家の主人は紋付(もんつき)に小袖、絽(ろ)、郡内(ぐんない)、縮緬(ちりめん)などが許された。丁稚は麻か木綿のお仕着(しきせ=現代のツナギのようなもの)。手代や番頭になると、初めて前垂れを許された。大工や左官などの職人は、はじめのころ褌(ふんどし)に腰切り半纏だったが、やがて、紺の木綿半纏に股引(ももひき)、腹掛(はらがけ)が一般的となった。こうした衣類は時として華美になりがちであったが、身分を越えた服装をすれば処罰された。

(10)女の着物
女の着物は、小袖の着流しが一般的であった。ただし、年齢や未婚、既婚を表現する方法として、娘は振袖(ふりそで)、結婚すると留袖(とめそで)を着た。しかし、結婚していなくても十九歳の女の元服を迎えると振袖を留袖に直した。帯は結び位置自由で細帯が主流であったが、ファッションはいつの時代も流行をつくり、帯の結び方もいろいろ工夫され、「文庫結び」「一つ結び」「おたか結び」などなど10数種類の結び方で自分を表現した。着物の模様は初期のころは総模様だけであったが、やがて、七分三分の模様配置をした寛文模様とか腰高模様の享保模様などと変遷をしていった。

(11)被りもの
どこへ行くにも徒歩しかない時代。江戸の街は土埃がひどかったので、髪に付くと洗うのも一苦労。しかも、整髪用の油は結構高かったので、男も女も被りものが結構重要視された。男では、丸頭巾、角頭巾、船底(ふなぞこ)頭巾など。女は綿帽子(わたぼうし)や揚帽子(あげぼうし)、御高祖頭巾(おこそずきん=鞍馬天狗が被ったような頭巾)などが主流。手拭は一般的で、被り方や結び方で職業を表した。旅をする時は、男は深編笠。虚無僧は天蓋(てんがい)。坊主は網代笠。渡世人は三度笠など、女は市女笠や韮山笠などが有名。現代でも花嫁衣裳を着たときには揚帽子、つまりは、角隠し(つのかくし)などが伝統を受け継いでいる。

(12)履物
はじめは、やはり、草履(ぞうり)が主流。と言っても、上物(高級品)は上方(関西地方)からの「下り物(くだりもの)」であった。しかし、江戸の街は雨が降ると下水処理がされていないので道路はぬかるみだらけ。そこで、下駄が流行しはじめた。はじめは雨天時だけの使用であったが、時代が安定してくると常用品になっていった。「ぽっくり下駄」「三枚歯下駄」「草履下駄」「中折下駄(なかおりげた)」などとファッションを取り入れるようになっていった。下駄より履き心地が良いのが「雪駄(せった)」だが、台の部分が薄いから泥には弱い。江戸で下駄が流行したのは、それだけ江戸の道路整備がされていないことを意味していた。旅をする時はやはり草鞋(わらじ)。現代に残る風俗画では、武士が草履を履き、お供の小者は「はだし」で歩いているものもある。また、京や大阪には長方形の下駄はなかった。

(13)雨具
やはり一般庶民が愛用したのは茅(かや)や菅(すげ)で編んだ蓑笠(みのかさ)、合羽(かっぱ)。合羽には「丸合羽」「半合羽」「長合羽」「引き回し合羽」などがある。また、合羽には紙製のものや木綿、羅紗(らしゃ)などというのもあった。傘は古くは裂張り(きれはり)で特権階級の者が主に「日除け」として供の者にさしかけさせる大型で柄(え)の長い「差し傘」であったが、やがて、柄も短く紙を張った「番傘」が元禄以降に流行しはじめた。しかし、大阪大黒屋製の「大黒傘」がはじめで、江戸でもやっと大黒傘を真似て作られるようになっていった。とは言っても、やはり、傘は高級品の部類。古傘を買い集めて骨を差し替えたり、紙を張り直したりして再利用した。リサイクルの現代版。

(14)提灯
江戸時代は、夜間、無灯火で歩くことが禁じられていた。したがって、どこの家でも提灯の一つぐらいないといけなかった。しかし、竹ひごで紙張りという壊れやすいものであったにもかかわらず値が高かった。だから、庶民は夜はほとんど外出することはなかった。提灯屋のお得意さまはもっぱら武家と妓楼(ぎろう=ゆうかく)関係が多かった。古くは「桃燈」と書かれていて、室町時代に中国の宗に渡った禅僧が伝えたと言われている。はじめは、木枠に紙を張り一箇所に置いたりしていたが、やがて、竹ひごで籠型の枠組みを作り紙を張り取っ手をつけたものへと替わっていった。しかし、提灯には蝋燭を使用したので、蝋燭も高く、なかなかの物入りだった。形や用途によって「盆提灯」「弓張提灯」「小田原提灯」などと呼ばれた。「小田原提灯」は割合小型で、折り畳めば懐にも入ったので、旅行用としてよく使われた。

(15)携帯用品
懐中物(かいちゅうもの)・・・着物の内側や帯の間に入れる物だから、かさばらない必需品。財布、紙入れなど。財布に入れるのは金貨、銀貨、銅銭などで紙幣は存在しなかった。紙入れはそのまま鼻紙入れ。
提げ物(さげもの)・・・帯に挟んでぶら下げて歩いた。煙草入れ、小銭や薬などを入れる巾着(きんちゃく)など。武士は当然、大小の腰の物と言った。女は腰からは下げずに袂(たもと)に入れた。振袖などの場合は袂に袋物入れる、今で言うポケットを作ってあり、片方に手拭、もう片方には小物類を入れた。
手提げ物(てさげもの)・・・TVでお馴染みの大店のご隠居が妾(めかけ)の家に行く時に、巾着袋(きんちゃくぶくろ)を持ってイソイソと・・・。これは、明治以降のこと。確かに、江戸時代も巾着はあったがもっと小さくて帯からぶら下げる程度の物だった。なぜなら、刃物を腰に差した男がいたるところにいたので、とっさに身を交わすには手首などに邪魔な物がないほうがよかったから。

(16)髪の手入れ
男の髪型、つまりは「チョンマゲ」では、月代(さかやき)を剃ったり、髷(まげ)を結ったりすることは自分一人ではできず、自然と、それを職業とする者が現れた。店を構えて、何人もの職人を雇っている「髪結床(かみゆいどこ)」も多かったが、出張専門の職人もいて、得意先との契約で月給制。何軒もの得意先を持っていた。また、毎日来させた大商人の主人などもいたとか。女の髪は、遊女以外は、自分で結うのが原則。女は髪を結えるようになって「一人前」と言われた。髪に付ける油は、無臭の胡桃(くるみ)油が上等品。胡麻(ごま)油は下。伽羅(きゃら)油は最高級品であった。また、女が髪を洗うのは江戸の風習で上方ではあまり洗髪しなかったと言われている。洗髪に使われる、いわゆるシャンプーは、椋(むく)の木の皮を煎じた汁などを使用したという。

 

(1)下肥問屋
江戸の街は武家地が25%、庶民の地が15%、後の60%は農地でした。渋谷、原宿、麻布なども農地でした。
盛時には江戸の人口100万人と言われて世界一の大都市でしたが、農地が大部分だったのです。
現代では、「食い倒れ」と言うと「大阪」を指しますが、昔は、江戸が一番の「食い倒れ」でした。
こうした贅沢な庶民の排泄物は、農家の野菜作りには大変優良な下肥でした。
農家は、長屋の大家と提携して、年に数回「汲み取り」にやって来て、その代わりとして、年に「たくあん漬」10樽とかを大家に収め、大家は店子に配ったりしました。
元禄年間(1680~)頃には、下肥の争奪戦が勃発し、「下肥問屋」なる職業が成立し、下肥の値段が急騰したため、勘定奉行より「公定価格」まで提示されました。
また、大奥などのやはり優良な下肥は「葛西権四郎」なる者が一手に引き受け、堀を伝って舟で運び、農家に売買していました。

(2)古紙回収屋
紙は、当然、貴重品。
現代の「チリ紙交換」と同じように、役所や商家などで書き損じた紙は「古紙回収屋」が引き取り、また、街中を篭をしょって歩き、紙くずを拾い集めたりしました。
再生紙は、「浅草紙」と呼ばれ、トイレットペーパーになりました。
これは、今も昔も変わりませんね。

(3)古着屋
武家や大店から古着を買い取り、庶民の女性が集まりやすいように、長屋の近くに店を出すのが一般的でした。

(4)端切れ屋
これも、反物から着物を作った残りの布地を買い取り、古着屋と同じく、女性の集まりやすい長屋近くに開業。
昔は、少々の破れは布を当ててつくろいました。
良く、TVの時代劇で子どもが、何の「つぎはぎ」もない着物で遊んでいますが、とんでもないウソ。

(6)着物のリサイクル
旦那の着古し→子どもの着物に仕立て直し→おしめ→雑巾。

(6)傘の古骨買い
番傘(蛇の目傘)の壊れたものを買い取り、折れた骨は取替え、油紙も新しく張り替えて、再度、店先へ。

(7)焼き継ぎ屋
現代では、茶碗や皿などが割れると、ハイ「廃品回収」ですが、江戸時代には、立派な職業。
割れた茶碗や皿に「ふのり」と「粘土」を混ぜた「天然の接着剤」でくっつけて、火で焼けば「元通り」。

(8)たが屋
水桶などの「たが」のゆるんだ物を直す職業。

(9)らう屋
キセルの修理屋。

(10)ゲタの歯入れ屋
磨り減った下駄の歯の交換屋。

(11)古鉄買い
火事で消失した家などに使われていた「釘」を買い集め、再び、新しい「釘」にして大工などに販売。

(12)灰買い屋
家庭の灰や焼け跡から「灰」を買い取り、農家に販売。
天然のアルカリ成分なので土の再生に利用された。

(13)廃材の再利用
「ふすま」「障子」「戸」などは、全て同じ寸法。従って、取り壊した家などから、そうした物を買い取り、長屋や商家などでの取替えをした。
「柱」も数種類だけの寸法なので、古い建材ですぐに家が建てられた。

(14)風呂屋(湯屋)
江戸の街は、密集しており、一度火事が起きると広範囲に消失した。
そこで、庶民の家では「風呂」を造ってはいけない禁止令が発令された。
風呂屋を開業するには、勘定奉行所の許可が必要だった。
また、「薪」も近隣の農家から買う必要があり、高かった。
しかし、大体は町内に1軒位は湯屋があり、湯銭は8文(約100円)で蕎麦の16文の半値だったため、風呂好きな暇な大家などは朝夕の2回の風呂屋通いをした。
かの有名な大店の「三井越後屋(現:三越)」の店員でさえ湯屋通いをしました。

 

庶民の知恵

「武家地が25%、庶民の地が15%」と武家地の方が大きい。基本的に物がない時代ですから、物を生かして再利用していた。そのため江戸の街は密集しており、一度火事が起きると広範囲に消失した。そこで庶民の家では「風呂」を造ってはいけない禁止令が発令された。
  江戸時代は食文化の時代でした。食通と呼ばれる人たちが登場したのもこの時代とされています。江戸時代後期、江戸で一番とうたわれた八百善という料亭にいろんな高級品を飲食してきた食通たちがお茶漬けを注文した。お茶漬けは冷めた残飯にたくあんだけをおかずとした手軽で粗末な庶民の食べ物でした。それを宴会のシメではなく一品料理として注文するのは異例のことですから、食通達はどんなお茶漬けが来るか楽しみにしていました。しかし、半日が経過しても一向にお茶漬けが来ません。ようやく膳が並べられたのですが煎茶の入った土瓶に添えられたその季節(春)に収穫できないナスやウリの漬物を刻んでしょう油をかけた香の物以外は普通のお茶漬けでした。とりあえず食べてみて腹は満たされたのですが請求された金額は一人1両2分という高額なものでしあった。高すぎると驚く客に八百善の主人はこう説明した。
「最高のお茶漬けということなので、玉川上水まで上質な水を汲みに行かせたので、そこまでの往復運賃も含むので1両以上でも決して高くはありません」
 最高のお茶漬けを頼んでいた食通達は二の句が告げなかったそうです。江戸時代は食文化の時代でした。食通と呼ばれる人たちが登場したのもこの時代とされています。

戦乱の時代が終った恩恵なんでしょうね。
江戸時代初期の50年位で急激に人口が増えたみたいですね、2900万人位にこれも戦乱が終ったせいでしょうが、それから明治維新で3200万位とあまり増えてないようです、明治維新から現代まで凄い人口増加です。
  江戸の後期にも成ると江戸っ子器質という宵越しの金はもたないという言う様なものが、あって、払わないとは言えない見栄が有るんでしょうね、これは現代人も同じでしょうが。江戸時代後期あたりでも、子どもは4~5人居ましたので、家族としては6~7人が一般的でした。従ってわずか6畳に押し合い、ひしめき合って暮らしていました。夫婦の夜の「お楽しみ」は、屏風や衝立(ついたて)で子どもたちとは区切りをして行いました
やはり狭いですね、当たり前と言えば当たり前ですが、今の日本も狭いですが、何とかならんものでしょうか。
夏はまた蚊やブヨなどが発生し、こちらの対処方法の方が難儀だった江戸時代は現在の比ではないでしょうね。夏の暑さで身体の弱い人は死ぬ人もいると本で読んだ事が有りますが、庶民の栄養剤は甘酒と書いてましてた。金持ちはうなぎだとか。


掛け布団はなかった
  部屋を明るくすることは非常に高く、 使われたのは菜種油であったが、当時はまだ高価だったため、貧しい人は菜種油の半値くらいの「魚油」を使った。臭いがきつく、何よりも煤(すす)が激しく出て、明るさもそれほどなかった。無駄話で時間をとることを「油を売る」と言ったのはここからきている。

 男の着物は、身分によって決められていたので 男の着物は、身分によって決められていたので ファッションはいつの時代も流行をつくり。武士以外は差はないと何となく思ってましたがお聞きしないと判らないものです。ファッションいつの時代も流行があるんですね。

江戸の下駄
  舗装された生活している現代人にとっては気づかないところでが、はじめは草履(ぞうり)が主流でした。江戸の街は雨が降ると下水処理がされていないので道路はぬかるみだらけで、下駄が流行しはじめた。下駄とは下水整備が出来てない為の庶民の知恵である。
  庶民が50万人、武士は軍事上の秘密から公表はされていないが、同じく50万人位、合わせて100万人都市とされている。庶民は少ない土地に「ひしめき合って」生活していた。

世界でも一番衛生的な街
  フランスなどでは汚物は部屋の洗面器などに排泄し、窓から道路に捨てていた。そこで考えだされたのが「ハイヒール」で、少しでも靴やスカートの裾が汚れないようにした。日本では平城京や平安京などでは、川から各家庭に水路を造り水洗トイレだった。
昔から排泄物の処理は日本が一番「先進国」だったのである。江戸時代は夜間に無灯火で歩くことが禁じられていたので、家では提灯がないといけなかった。しかし竹ひごで紙張りという壊れやすいものであったにもかかわらず値が高かった。そのため庶民は夜はほとんど外出しなかった
  女性は髪を洗うのは江戸の風習で上方ではあまり洗髪しなかった。洗髪に使われるシャンプーは椋(むく)の木の皮を煎じた汁などを使用した。洗った後に一人で髪を整えるので上方の女性は洗髪はあまりしなかったのは判らない事もない。