文治政治

武断政治から文治政治へ
 江戸時代の初期、幕府は各大名に厳しい態度で臨み、大名に少しでも落ち度があれば外様、譜代、親藩の区別なしに容赦なく取り潰した。
 改易の中で最も多かったのは、跡継ぎが決まらないうちに大名が死亡してしまう場合である(無嗣断絶)。関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀秋や、徳川家康の四男の松平忠吉らが無嗣断絶で改易となっている。無嗣断絶は大名にとって深刻な問題で、大名が元気なうちに後継者を決めておくべきであるが、子がいない大名が弟を養子に決めた後に実子が生まれた場合には、お家騒動の原因となり改易の口実を幕府に与えた。

 また人間はいつ死ぬかわからないが、万が一の場合に急いで跡継ぎを決める末期養子を幕府は認めなかった。そのため多くの大名が改易され、様々な影響をもたらした。武力に優れた侍が必要な戦国時代とは違い、平和な社会で新たな召し抱えがない江戸時代は、大名の改易によって職を失った家臣の再就職は非常に困難だった。
 武士が農民や町人として再出発することは至難のことで、何よりも武士としてのプライドが許さなかった。そのため大名の改易によって誕生した数十万人の浪人は職にあぶれ失意の日々を送っていた。活路を見出そうと多くの浪人が江戸にやってきたが、厳しい現状が変わるわけではなかった。食いつめた浪人の中には、自分たちをこんな境遇に追い込んだのは政治のせいであると、幕府を深く恨み苦しい生活から盗賊などに身を落とす者もいて社会不安が増大した。

由井正雪の乱
 1651年、3代将軍の徳川家光が48歳で死去して嫡男の徳川家綱(いえつな)が4代将軍になったが、新将軍はまだ11歳と幼く、老中の松平信綱や、家綱の叔父の保科正之が政治を行っていた。新将軍はまだ少年で、これを絶好の機会として幕府を倒して浪人を救済しようと由井正雪(由比正雪)が策をねった。
 正雪は江戸を焼き討ちにして、幕府が動揺している間に江戸城を乗っ取り、同時に大坂や京都でも一揆をおこして天下を混乱に陥れようとした。しかし計画が事前に幕府に漏れて未遂に終わり、1651年7月、正雪は自害した。由井正雪の計画は失敗したが、幕府転覆という事態が起きそうだったことに、幕府に大きな衝撃を受けた。そしてこの事件をきっかけに、幕府は武力で世の中を支配する武断政治を大きく転換することになった。
 由井正雪の乱が起きたのは大名の改易で多くの浪人が発生したためと考えた幕府は、それまで認めなかった末期養子の禁を緩和して、17歳以上50歳以下の大名には認めることにした。さらに成人した家綱は、1663年に代替わりの武家諸法度を発布し、大名が死亡した後の家臣の殉死を禁止した。これは大名と家臣との関係は一代限りでなく、跡を継いだ主人に対してもこれまでどおり奉公しなければならないという、主君に忠誠を誓う朱子学の概念に由来たものであった。このような幕府の政治姿勢は、それまでの武断政治から平和的な秩序の確立を目指す文治政治へと大きく転換することになり、家綱の次の将軍の治世で大きく花開くことになる。
 家綱は全国の大名に対して領地宛行状を発給して将軍の権威を確認し、幕府の直轄領において大規模な検地を行い収入の安定を図った。また末期養子の禁の緩和によって上杉謙信ゆかりの米沢藩が改易を免れた。この際に末期養子となった上杉綱憲(つなのり)は、忠臣蔵で有名な吉良上野介の息子である。
 末期養子の禁止の緩和や殉死の禁止などの政策は、家綱の後見役であった保科正之が深くかかわっていた。2代将軍徳川秀忠の子として、家臣に預けられて育った保科正之であったが、実直な人柄や優秀さによって異母兄の3代将軍徳川家光に可愛がられ会津23万石の藩主となった。

 家綱の治世において保科正之は様々な政策を実行した。幕府が大名の重臣の子弟を人質にとって江戸に住まわせる大名証人制度を廃止し、江戸の水源不足を補うために引かれた玉川上水は、21世紀の現代でも使用されるほど完成度の高いものであった。また1657年に江戸の町を焼き尽くした明暦の大火によって、壮大な江戸城の天守閣が焼け落ちたが、天下泰平の世に天守閣は不要として再建しないことを決め、代わりに江戸の道路を広げるなど都市機能の復興に全力を挙げた。保科正之の子孫は松平氏を名乗り、会津藩主として幕府を支え、幕末には京都守護職の重責を担い、新選組を率ひきいて滅びゆく幕府を懸命に守った松平容保(まつだいらかたもり)も会津藩主である。

正徳の治
 徳川綱吉には跡継ぎの男子がおらず、兄で先に亡くなった徳川綱重(つなしげ)の子である綱豊(つなとよ)を養子にしていた。綱吉の死後に6代将軍となった綱豊は名を徳川家宣(いえのぶ)に改め、柳沢吉保を退けて朱子学者の新井白石や側用人の間部詮房(まなべあきふさ)を登用し、天災続きで停滞した政治の刷新を図った。新井白石や間部詮房は家宣亡き後に4歳で跡を継いだ7代将軍の徳川家継にもそのまま仕えた。彼らによる政治を当時の代表的な元号から正徳の治という。

 家宣が跡を継いで真っ先に行ったことは「生類憐みの令の廃止」であった。歴史教科書には「廃止によって家宣が庶民の喝采を呼んだ」と書かれていることが多いが、確かに食生活などにおける不満は高かったが、20年以上に及んだ法令で世の中の価値観が一変したことで、その役目を終えたというべきである。
 朱子学者であった新井白石は、文治政治をさらに推し進め、儒教の精神に基づく道徳論や権威に従って様々な政策を行ったが、その結果は明暗がはっきりと分かれるものであった。
 正徳の治の頃の皇室は、綱吉の治世の間に禁裏御料こそ3万石に増額されたが経済的に厳しい状態に変わりはなく、皇子や皇女の多くが出家していた。このままでは皇室の血が途絶えてしまうと思った新井白石は、それまで三家あった宮家(皇室のうち代々皇族の身分の保持を許された家系を一つ増やした。新たな宮家は当時の第113代東山天皇の子である直仁親王(なおひと)によって立てられ、閑院宮家(かんいんのみやけ)と呼ばれたが、設置から約半世紀後に皇室の直系の血が絶え、閑院宮家から第119代の光格天皇が誕生した。
 この光格天皇の血統は現代の天皇陛下から秋篠宮文仁親王殿下(あきしののみやふみひと)を通じて悠仁親王殿下(ひさひと)までつながっている。つまり新井白石が閑院宮家の創設に助力したことによって、現代にも皇室の血統が脈々と受け継がれているのである。その意味において新井白石の功績は大きいものがあった。

富士山噴火

 この時代、富士山の噴火があり、宝永の大噴火と呼ばれている。まず有史以来幾度か起こっている富士山の噴火について述べる。

 富士山が今も活動している火山(活火山)であるという事実は広く知られているが、この富士山の火山活動はこの数千年間続いて、歴史上では平安時代に活発な活動期があった。平安時代の竹取物語には富士山の火山活動の跡が刻まれている。竹取物語の最後は、かぐや姫が月へと帰る際、帝に手紙と不死の薬を残すが、悲しんだ帝は「そんなものが何になろう」と、薬と手紙を富士山で燃やすよう命じる。つまり当時の富士山が常に噴煙を上げていたことを示している。ちなみに歌集「万葉集」にも富士の噴煙を詠んだ歌が多く残されている。平安時代に起こった大きな噴火は2度。延暦の噴火(800年)と貞観の噴火(864年)である。貞観の噴火は特に大規模で火山礫や火山灰が大量に降り注ぎ、さらに大量の溶岩が流れ出て富士のふもとにあった巨大な湖に流れ込み湖を分断しました。富士五湖のうち、西湖と精進湖はこの時に形作られたものである。

江戸時代の大噴火

 その数百年後に起こったのが、1707年の江戸時代宝永の大噴火である。将軍は徳川綱吉で、綱吉の次の時代を担うことになる新井白石はこの噴火を経験しており、随筆「折たく柴の記」に「雪が降るようだったが、よく見ると白い灰であった」なとその時の様子を書き残している。

 噴火のひと月前には宝永の大地震と呼ばれる巨大地震も起こっている。震源は紀伊半島の沖あたりで、東海地方から関西地方を中心に強く揺れ、それ以外の広い地域でも揺れたと記録されている。この地震が富士山の噴火と強く関連していると言われている。そして起きたたのが富士山の噴火。宝永の大噴火である。

 富士山の噴火は1707年11月23日に起きた。火山噴火というと、まさに山の頂上からマグマが吹き上げる様子を想像しがちであるが、この噴火は富士山の東南側の斜面からで、当時の絵図をみると、まさに富士の横っ腹が破れ、煙や溶岩が噴出しているさまが見て取れる。

 噴火は巨大な音とともにはじまり、周辺の広い範囲に火山礫や火山灰などが降り注いだ。富士山から離れた江戸にも影響は及び、火山灰のせいで昼も暗く、灰除けに傘をさす人もいた。噴火はおよそ20日間でおさまったが、作物の不作はこのあと長く続き飢えに苦しむ人々が多く現れた。

 この噴火によって富士山腹にちょっと出っ張ったような新しい山ができた。これを宝永山といいます。またえぐれたような大きなくぼみが当時の火口で、これは宝永火口という。

 宝永の大噴火以後、富士山には目立った噴火活動は見られないが、近年、富士山噴火の危険性が叫ばれることが多くなっている。その具体的な被害や対策を想定する際、大いに参考となるのが宝永の大噴火の様子である。300年前とはいえ前回の噴火なので、得られるものは大きい。その意味では宝永の大噴火は、現代に活かされる火山情報である。