元禄時代

元禄時代
 1680年、4代将軍徳川家綱が後継者のないまま死去すると、3代将軍家光の4男の徳川綱吉が5代将軍となった。徳川綱吉は将軍就任に功績のあった堀田正俊を大老としたが、堀田が暗殺されたため側用人の柳沢吉保を通じて政治を行った。徳川綱吉が政治を行った頃を元禄時代という。
 徳川綱吉が将軍に就任した頃は、江戸をはじめとして全国には「戦国の遺風」がまだ残されており、至るところで血なまぐさい事件が起きていた。殺伐とした暗い世情を一掃して道徳心を向上させため、綱吉は家綱の頃からの文治政治を一層強め、朱子学による道徳心を広めようとした。

 徳川綱吉は武士に染み付いた戦国時代の考え方を改めるため、1683年、武家諸法度を改定して「弓馬の道」を「忠孝の道」に改めた。それまでの武家諸法度では弓馬、すなわち武芸に励むことが武士の心得とされていたが、綱吉はこれを忠孝の道、すなわち人として生きる道や道徳に励むことが武士にとって大切としたのである。

 この武士の意識変革だけでなく庶民にも「忠孝の道」を求め、武士に対する武家諸法度のように法令を用いて庶民に道徳心を身につけさせようとした。

 1685年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出され、それ以降、約20年間に渡って次々と新しい法令が追加された。世にいう「生類憐みの令」である。

生類憐みの令

 この生類憐みの令は、その名前の法令が出されたのではなく、約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令を総称している。生類憐みの令は「人間よりも犬を大切にする」法令で、違反した者は厳しく罰っせられ、多数の死者を含む数十万人の罪人を出したとされ、それゆえに綱吉は「犬公方」という別名で、現代でも暗君とされている。

 生類憐みの令がでたのは、綱吉に男子に恵まれず、母親の桂昌院が薦める僧侶が「綱吉さまは前世で殺傷したから子供ができない。動物を大事にすれば子供ができる」と言い、これが極端な動物愛護の精神を強制する令の根拠とされている。しかも綱吉が戌年生まれであったために特に犬を大事にし、小動物の殺生までもが厳しく禁止の対象とした。この極端な法令には幕府からも批判があり、水戸黄門でおなじみの徳川光圀は綱吉をいさめる為に犬の毛皮を送りつけたとされている。

 しかし「生類憐みの令」の種類は広く犬に関するものは33件しかない。法令の底辺にあるのは「動物愛護から人命尊重」への綱吉の思いがあったからである。

 牛や馬は年老いたり病気になると用をなさないものとして撲殺され、死んだ牛馬を食べた野犬が人々に噛み付くなどして人々に伝染することが多かった。このような状態だったので、野犬化する前に保護するのが犬に関する法令であった。牛馬が病気になれば療養させ、捨て子は禁止され、人が旅籠で病気になっても面倒をみることを義務付けていた。

 生類憐みの令によって数十万人の罪人を出したというのは嘘で、処罰されたのは約20年間で69件で、その3分の2が武士による。さらに死罪になったのは13件で、流罪も12件である。犬公方と呼ばれた徳川綱吉は愚者のイメージが強いが、それまで戦国の気風を残していた社会では「人殺しは当たり前」だった。しかし「生類憐みの令」が出たことで、その意識が劇的に変化したのである。本当の意味で平和主義への転換を達成した
 このように「生類憐みの令」は多くの人々から誤解されているが、江戸時代の社会は戦国の遺風の影響で殺伐としていた。病気などで苦しむ人々がいても誰も目を向けず、また動物も役に立たなければ捨てられていた。そのような風習が生類憐みの令によって一掃されたのである。

 生類憐みの令を刑罰として考える場合、織田信長の領地における「一銭斬り」が参考になる。これは一銭であっても盗めば首が飛ぶという法令で、そのため信長の領地では夜道を女性が一人で歩けるほど安全になった。信長の無茶な法令に比べれば、生類憐みの令の方がよほど人道的というべきであるが、あまりに極端すぎたのである。
 江戸時代の落語の世界は「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったとされているが、江戸時代の初期は全く逆であった。この綱吉の出した法令がそれを180度転換し、生命を大切にするとともに相手の立場を尊重する道徳心をもたらし、私たちが当たり前のように備えている助け合いの精神を現代まで続けさせているのである。

 生類憐みの令は戦国の遺風をなくすための療法であったが、最初の頃はその「生類憐みの令」の慈愛に満ちた政策は正しかったが、あまりに極端に施行されたことが間違っていた。人命よりは犬を優先させ、魚、鳥、蚊、ハエの生命をも優先させたことである。

 綱吉の功績は生類憐みの令だけではない。綱吉による「悪政」と一般的に考えられている他の事項についても振り返ってみると、綱吉とともに悪人とされるのが柳沢吉保であった。

綱吉の政策

 柳沢吉保の業務は老中からの意見をまとめて綱吉に報告し、意見をうかがうことであった。柳沢吉保のような側用人を置くシステムは綱吉が考え出したもので、家康の独断による江戸初期の時代、つまり2代将軍の徳川秀忠以後、意見をまとめた老中が将軍に決裁を依頼し、将軍が承認するという形式が続いていた。

 柳沢吉保が私腹を肥やしたというが、天下が平穏に治まった頃には家柄や身分で政治を行っても大きな問題にはならないであろう。世の中が変革を必要としているときは、その道に詳しい者でないと政治を任せられない。たとえ身分が低くても優秀であれば登用すべきであるが、平和時の身分秩序を基本とした合議制では無理なことであった。

 そこで綱吉は大老の堀田正俊が暗殺されると、老中の上に側用人を置いて、ワンクッションとして将軍の意見が通るにシステムに一新したのである。このようなシステムを考案した徳川綱吉は有能な政治家といえる。
 徳川綱吉には少なくとも2つの改革が必要だった。一つは生類憐みの令による武士や庶民の意識の変革で、もう一つは「幕府財政の改革」であった。それまで大量に発掘されていた鉱山の金銀が急激に減り始め、さらに度重なる火災による江戸城や市街の復興に、東大寺大仏殿の再建に象徴される寺社の造営など、支出の増大は幕府財政の悪化をもたらした。

 このような非常事態に、綱吉は経済に詳しかった勘定吟味役の荻原重秀を抜擢して、彼に経済対策を一任した。荻原重秀は綱吉の期待に応え、同じ一両でも金の含有率を従来の84%から57%に落とすことで貨幣の量を増やし、従来の小判と同じ一両と引き換えた。含有の金の量の差がそのまま幕府の収入につながる一石二鳥の策で乗り切った。なおこの時に発行された小判を元禄小判という。ところで一般的な歴史教科書には「元禄小判の発行によって貨幣価値が下がり、物価が上昇してインフレになり、庶民の生活に大きな打撃を与えた」と書かれているが、庶民のダメージは小さかったのである。
 江戸時代の初期には新田開発や都市機能の整備といった多くのインフラが必要で、そのため農民からの年貢が利用され、当時は「七公三民」の厳しい税率になっていた。しかし綱吉の治世の頃までにはインフラが一段落し減税となり、人々の暮らしに余裕が生まれ、その中から人々の多くが「遊び」を求めるようになり、そのニーズに応える形で様々な文化が生まれ、それが元禄文化である。

 生活の余裕はそれまでの自給自足から消費経済へ、さらには貨幣経済の暮らしへと変化していき好景気をもたらし、結果として都市の人口が急増した。それに見合うだけの物資がそろわず、供給が追いつかなかったために物価が上昇してインフレが発生したのである。
 つまりインフレの真の原因は景気の向上による物資の供給不足であり、元禄小判とは関係はない。またインフレで物価が上昇しても、景気が良ければ賃金が一緒に上がるので、全体の金回りが良くなり、生活の余裕が生まれ、元禄文化が栄えたのである。
 元禄小判の発行は世の好景気をもたらし、幕府の収入を増やしたが、貨幣の価値が下がったことに対して「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げているのはケシカラン」という批判が幕閣の中で起きた。これに対し荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫であろうと一両の価値に変わりはない」と反論したが、荻原重秀の考えは、瓦礫を紙切れに換えれば私たちが使用している紙幣と全く同じことになる。「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちしている政府の信用である」という思想は20世紀のイギリスの経済学者ケインズが世界中に広めたが、それより200年以上も前に荻原重秀が実践していたのであう。この先見性に対しては脱帽するばかりである。
 このように綱吉が次々と打ち出した政策は人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改め、景気を良くして元禄文化の全盛をもたらした。ところが綱吉の晩年になると、綱吉にとって酷な事件が立て続けに起きたのである。
 それは大火事や天災の連続であった。1698年9月に大火事が発生すると、その5年後には関東を中心にマグニチュード8.1の大地震が起きた。この大地震は元禄大地震と呼ばれ、4年後には元禄大地震を上回るマグニチュード8.6と推定される大地震が発生し、その49日後の1707年11月23日には富士山が大噴火を起こしたのである。富士山の噴火によって周辺地域は壊滅的な打撃を受け、また大量の火山灰が降り積もったことで江戸も大きな被害を受けた。その大地震は宝永大地震(ほうえい)、富士山の大噴火は宝永大噴火と呼ばれている。
 このように立て続けに起きた大火事や天災は、元禄文化の残像を吹き飛ばし、庶民のやり場のない怒りや悲しみを時の為政者である綱吉にぶつけるようになった。また綱吉自身もショックが大きかったのか、1年後に64歳でこの世を去った。

 

 元禄文化
 江戸時代前期の文化のことを元禄文化という。江戸時代になって平和な世の中が実現し人口が急増し、幕府や藩は新田開発や都市建設などに追われ、そのため農民から七公三民の高額な年貢を集めた。しかし公共事業が元禄時代までに一段落すると、年を追うごとに年貢率は低下した。年貢率の低下は生活の余裕をもたらし、それまで食べるのに精一杯だった人々は、暮らしの中に遊びを求めるようになった。人々が遊びを求めれば、貨幣の動きが活発になり経済が発展した。経済の発展は遊びのさらなる進展をもたらし、武士や有力町民のみならず、一般庶民の間で高水準の多彩な文化をもたらすことになった。
 元禄時代を中心に栄えたことから、この時代の文化は元禄文化と呼ばれている。その特色は現世を「浮き世」、すなわち人間社会の現実を肯定的にとらえ実利を重んじる町人の思いが込められ、同時に、この時代に奨励された儒学と政治との結びつきや実証主義による古典研究や自然科学の学問の発達など様々な側面が見られる。簡単に言えば、元禄文化は上方(大阪・京都)の町人が中心の文化で、文学では松尾芭蕉近松門左衛門が有名で歌舞伎では現在でも有名な市川団十郎坂田藤十郎が人気であった。

 

学問の潮流

 江戸時代は平和が長く続いたために学問が非常に栄えた。幕府は儒学の一派である朱子学を重視した。朱子学は「目下は目上を敬うべき」といった道徳論なので、幕府が既成秩序を維持する上で有用な道具だったからだ。上下の身分秩序を重視して礼節を尊朱子学が封建社会の維持に最適と考えられ、朱子学のルーツである儒学が元禄時代の頃までに盛んとなった。

 歴代将軍の中でも特に学問を好んだ5代将軍の徳川綱吉は、1690年に湯島聖堂を建て林羅山の孫にあたる林鳳岡(うこう)を大学頭(だいがくのかみ)に任じた。このような幕府の姿勢は諸大名にも反映され、多くの藩主が綱吉にならって儒者を顧問に学問に励み藩政の向上を目指した。岡山の池田光政会津の保科正之加賀の前田綱紀水戸の徳川光圀が有名で、徳川光圀はテレビ時代劇「水戸黄門」のモデルとなっている。

朱子学
 朱子学は藤原惺窩(せいか)によって広まったが、京都に在住したことから惺窩の一派は京学と呼ばれ、林羅山のほかにも綱吉の侍講(じこう)として儒学を教えた木下順庵(じゅんあん)、正徳の治でその名を知られた新井白石などが有名である。このほかの朱子学派としては、戦国時代に活躍した南村梅軒(ばいけん)を祖とする南学があり、土佐の谷時中(たにじちゅう)に受け継がれた後には野中兼山(けんざん)や山崎闇斎(あんさい)らが出た。
 闇斎は僧侶から儒者となり、我が国古来の神道を朱子学的に解釈した垂加神道を説き、大義名分から皇室を尊敬することを教え、後の尊王論の基礎となった。朱子学以外の儒学としては、中国の明の王陽明を始祖とする陽明学を中江藤樹(とうじゅ)や熊沢蕃山(きまざわばんざん)らが学び、本当の知は実践を伴わなければならないという知行合一(ちこうごういつ)による実践主義を重視した。理論に偏りがちな朱子学を批判したことやその革新的な内容が幕府に警戒された。なお、山崎闇斎は保科正之に、熊沢蕃山は池田光政にそれぞれ招かれて学問を教えている。朱子学や陽明学はそれぞれ中国の宋や明の時代の学問でしたが、これらに飽き足らずに孔子や孟子の原点にまで直接立ち返ろうとした古学派がいた。

 儒学の中にもいくつもの潮流があった。例えば「陽明学」は、儒学の一派でありながら既成秩序を否定する傾向が強く、幕府に対する反骨精神を涵養する特徴があった。例えば、大阪で圧政に苦しむ庶民のために武装蜂起した大塩平八郎(1837年)は、幕臣でありながら陽明学者でもあった。しかし幕府は、儒学の一派であるという理由で、あまりこの学問を弾圧出来なかった。なお幕府が安心して擁護できたはずの「朱子学」も、水戸藩などで過激化し、いわゆる「尊王思想」が誕生した。なぜなら朱子学をとことんまで追求すると「天皇と朝廷は幕府よりも偉いはずなのに、幕府が朝廷をないがしろにするのはおかしい」という結論になるからである。この思想が「朝廷のために幕府を倒すべし」という尊王倒幕運動に発展するのであるが道理からいって当然のことであった。

古学派
 古学派のうち、山鹿素行(やまがそこう)は古代の聖賢に立ち戻ることを主張して、礼に基づく武士道を確立するとともに朱子学を激しく批判しました。また伊藤仁斎(じんさい)・伊藤東涯(とうがい)の父子は京都で古義堂を開いて、仁を理想とする古義学を唱えた。

 荻生徂徠(おぎゅうそらい)は徳川綱吉の側近であった柳沢吉保に仕え、晩年には8代将軍の徳川吉宗にも仕えた。徂徠は古代中国の古典を読み解く方法論である古文辞学を確立したほか、知行地(ちぎょうち)における武士の土着などの統治の具体策である経世論を説いた。また徂徠の門人であった太宰春台は徂徠の経世論を発展させ経済録を刊行して、武士も商業を行い藩が専売制度を行って利益をあげる必要性を主張した。
 なお朱子学を批判し幕府の怒りを買った山鹿素行は赤穂藩に流され、藩士たちに学問を教えた。赤穂藩の門下生には若き日の大石内蔵助がおり、大石が後に主君の敵として他の元家臣らとともに吉良上野介を討ち果たすと、荻生徂徠はその裁定に悩む幕府に大石らの切腹を主張し最終的に認めさせた。
 江戸時代には我が国の歴史に対する編纂も進められた。幕府は林家(りんけ)に命じて、年代を追って出来事を記述していく編年体で本朝通鑑(ほんちょうつがん)をまとめた。
 水戸藩の徳川光圀は藩の総力を挙げて、人物や国ごとの業績を中心に記述していく紀伝体の大日本史の編纂を始めました。大日本史における全体的な内容は朱子学に基づく大義名分論が主流であり、後には水戸学と呼ばれた尊王思想に発展し、幕末の思想に大きな影響を与えた。
  このほか山鹿素行は中朝事実を著して、儒学の流行による中華思想を批判し、日本人にとっては日本こそが中華であるという立場を明らかにした。また、新井白石は古代史を研究して古史通や読史余論を著した。ちなみに大日本史は全397巻にのぼる大作であり、着手から250年の歳月をかけて明治39(1906)年にようやく完成した。また中朝事実は明治の軍人であった乃木希典が、明治天皇に殉死する直前に、若き日の裕仁親王(昭和天皇)に献上している。
国文学

 この時代はいわゆる国文学の研究も盛んになった。戸田茂睡はそれまでの和歌に使用できない言葉があることを批判し、自由な表現を認めるべきとして和歌の革新を唱えました。茂睡の説は万葉集などの研究を続けた僧の契沖(けいちゅう)によって正しさが認められ、契沖は従来までの和歌の道徳的な解釈を批判して万葉代匠記(まんようだいしょうき)を著した。また、北村季吟(きぎん)は源氏物語や枕草子などを研究して、源氏物語湖月抄(こげつしょう)や枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)などの注釈書を著した。これらの古典研究はやがて古代精神への探究へと進化して、後には国学という新しい学問の基礎となった。

自然科学
 江戸時代には様々な産業が発達したが、この当時の実証的な研究態度は自然科学などの諸科学の発達をも促した。天文学や暦学では渋川晴海が、それまでの暦(こよみ)の誤差を観測によって修正し、我が国独自の貞享暦(じょうきょうれき)をつくり、この功績によって渋川は幕府の天文方に任じられている。
 江戸時代初期には様々な治山・治水や都市整備などの事業が行われ、その際に精密な測量が必要だったことや、あるいは商業取引の際に重要だったことから和算(わさん)が発達した。関孝和(せきたかかず)は筆算代数式(ひっさんだいすうしき)とその計算法や円周率の計算などで優れた業績を残している。
 薬草の研究から始まった本草学は貝原益軒(えきけん)が大和本草を、稲生若水が庶物類纂(しょぶつるいさん)を著した。なお本草とは薬効のある植物や動物・鉱物のことである。本草学は農業や医療の改善にも貢献し、宮崎安貞は農業全書のような農書の普及をもたらしました。
 また地理学の分野では西川如見(じょけん)が華夷通商考(かいつうしょうこう)を著して海外事情を紹介したほか、新井白石が我が国に潜入して捕えられたイタリア人宣教師のシドッチを尋問した内容をまとめた西洋紀聞を著した。

文学
 元禄時代の文学は、京都や大坂などの上方の町人文芸が中心となった。小説では井原西鶴が町人社会の風俗や世相を背景に、恋愛や金銭などに執着する人間の生活を描いた浮世草子を著し、好色一代男や世間胸算用などの作品を残した。
 俳諧では西山宗因(そういん)による奇抜な趣向をねらった談林俳諧に対して、伊賀出身の松尾芭蕉が格調高い芸術による蕉風俳諧(しょうふうはいかい)を確立した。芭蕉は全国を旅しながら俳諧を広め、奥の細道などの紀行文を残した。
 武士出身の近松門左衛門は国性爺合戦(こくせんやかっせん)などの歴史的な事柄を扱った時代物や、曽根崎心中などの当時の世相に題材をとった世話物を人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本として書き上げた。近松の作品は義理と人情の板挟みに苦しむ人々の姿を美しく描いたもので、大坂の竹本義太夫らによって語られ、義太夫節として広く知れ渡った。

歌舞伎
 出雲阿国によって広まった歌舞伎は、当初は女性や若者によって演じられましたが、やがて風俗を乱すとして禁止され、以後は男優だけで演じる野郎歌舞伎(やろう)に変化して、元禄時代には常設の劇場が設けられるようになった。
 当時の有名な歌舞伎役者としては、江戸の市川団十郎が荒事(あらごと)と呼ばれた勇壮で力強い演技で人気を集め、上方では和事と呼ばれた恋愛劇で若い色男を演じた坂田藤十郎や女形(おやま)の芳沢(よしざわ)あやめらがいる。

絵画
 美術面では上方の有力な町人を中心に洗練された作品が生まれた。絵画では大和絵の流れをくむ土佐派の土佐光起(みつおき)が朝廷の絵師となり、また土佐派から分かれた住吉如慶(じょけい)は住吉派を興して、子の住吉具慶は幕府の御用絵師となった。
 京都の尾形光琳は俵屋宗達の画法を取り入れて、紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)や燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)などの大胆な構図できらびやかな装飾画を大成し琳派を興した。 絵画で有名な尾形光琳は八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)などの優れた作品を残しているが、その弟である尾形乾山(けんざん)も、装飾的で高雅な陶器や蒔絵を残した。光琳との合作である寿老図六角皿(じゅろうずろっかくざら)が有名である。

浮世絵
 江戸では菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が美人や役者・相撲など都市の風俗を描いた浮世絵の版画を始め、大量に印刷できることから安価で入手できる浮世絵は庶民の人気を集めました。見返り美人図は菱川師宣の作品である。

工芸
 工芸では京都の野々村仁清が酒井田柿右衛門の技法を受け継いだ色絵を完成させ、京焼の祖となり作品としては色絵藤花紋茶壺(いろえふじはなもんちゃつぼ)や色絵吉野山図茶壺(いろえよしのやまずちゃつぼ)などが有名である。
 染物では宮崎友禅(みやざきゆうぜん)が始めた花鳥山水を模様とする友禅染が、衣服の華やかさを競った町人の間で流行しました。
また彫刻では、僧の円空が全国を行脚して、円空仏と呼ばれた独特の作風を持った仏像を残した。