農民の生活

農民の生活

 江戸時代の村は百姓(農民)の労働や暮らしを支える自治的組織は、行政単位として幕藩にとって重要な基盤であった。長い戦国時代が終わり、世の中が平和になり人口が急増し、それに伴って全国各地で新田開発が急速に進み、日本の人口は約2,700万人(100年前の2倍)となり、村の数も全国で6万3,000余りに増加した。

 村は農業を中心とする農村が主であったが、そのほかにも漁村や山村がは定期市な都市部のたの在郷町なぢがあった。農村は名主・組頭・百姓代の村方三役によって運営され、名主は村の長で由緒ある地主が世襲することが多く、年貢の管理や治安維持にあたった。なお名主という呼び名は主に東日本で使用され、西日本では庄屋、東北・北陸・九州地方では肝煎(きもいり)とよばれた。

 村では入会い共同利用、用水や山野の管理、治安や防災などが自主的に行わ、村では結(ゆい)という組織をつくり田植えや稲刈りなどの作業を協力で行った。

 村の運営は村法に基づいて行われ、村の秩序を乱す者には村八分となった。村八分とは火事と葬儀の以外のに関わらないことである。

 幕府や藩は村の自治組織に年貢を割り当て(村請制)、村民は五人組にされ年貢の納入、キリシタンや犯罪などで連帯責任を負っていた。村には階層があり本百姓は検地帳に登録されて田畑の耕作権を持ち年貢を負担して村政に参加した。水呑百姓は田畑を借りる小作で、本百姓に従属して名子・被官などに分かれていた。

 本百姓が負担する年貢の率は40%あるいは50%で、四公六民や五公五民と表現されるが、税率は時代によって変動した。例えば江戸幕府の初期においては七公三民(70%)という厳しい税率であったが、これは江戸の開発や各地の交通の整備などのインフラのためで、開発がひと段落すると減税になり、幕府が直轄する天領では三公七民以下にまで下げられた。

 年貢はその年の収穫に応じて決める検見法と、豊作や凶作に関係なく同じ税率の定免法があった。年貢の種類としては本百姓が田畑や屋敷に課せられた本途物成、山林などからの収益にかけられる小物成、河川の土木工事での労働である国役、街道付近の農村で宿場に人馬を差し出す伝馬役などがあった。

 農業を重視する重農主義を基本にしていた幕府にとって、本百姓の経営を安定させ、確実に年貢を納めさせることが重要であった。そのため1643年には田畑永代売買の禁令を出し、農民が土地を捨てるのを防ごうとした。しかし実際には「質入れ」のかたちで田畑は売買された。また1673年には分地制限令を出して田畑の分割相続を制限した。これは耕地の細分化によって零細化され没落するのを防ぐためであった。

 また五穀と呼ばれた(きび)・(あわ)・。さらにたばこや木綿(もめん)、菜種(なたね)などの自由な栽培を禁止する「田畑勝手作りの禁」を出した。しかし農民の間にも貨幣経済が浸透し、儲かる商品作物の栽培が盛んになり田畑勝手作りの禁は守られなかった。

 1642年の寛永の大飢饉の後、農民の暮らしに細かな指示を与える慶安の御触書が出され、幕府は農民に対して細かい規定を設けた。

 農民の暮らしは貧しいものであり、日常の食事は米を主食とすることは滅多になく、麦・粟(あわ)・稗(ひえ)などの雑穀が中心で、住居も萱(かや)や藁葺(わらぶき)の粗末な家屋に住んでいた。農民の生活はみすぼらしい服を着て、ふるぼけた家に住み、武士に支配され、苦しい生活を強いられていたという印象が強いが、このような歴史教科書に見られる江戸時代の農民の暮らしぶりは、はたしてどうであったのか。実際には大飢饉でも起こらない限り困窮することはなく、作られたイメージとされている。

農民生活の実際

 当時の人口比や米の生産から計算してみる。江戸時代の農民の人口は8割以上を占め、残り2割未満が武士や町人などである。教科書に書いてあるように、もし五公五民で農民の収穫のうち半分の5割が農民の口に入らなければ、2割に満たない武士や町人が5割の米を食べたことになる。身分の違いがあっても人間の胃袋に違いがあるはずがないので、上記の理屈はどう考えても有り得ない。もし農民が米を食えなければ、残りの米はどこへ消えたのであろうか。もちろん鎖国をしているので米の輸出はありえない。

 年貢米は幕府や藩によってカネに替えられ商人の手に渡ることもあるが、米は現代においても備蓄が難しい作物なので持て余すわけにはいかない。商人はいつかは米を売らなければならないし、幕府や藩も備蓄米をいつまでも貯められず処分しなければいけない。この当時の農民は国役や伝馬役など、農作業以外にも様々な雑務に追われていた。これらはタダで働かされるのではなく、それなりの報酬が与えられていたが、それらはカネの他に米で支払われていたのである。つまり農民は自分で収穫した米を買い戻して農民も米を食べていたのである。

 このように農民が貧しいため米を食べる機会がなかったというのは間違いで、江戸時代の農民は私たちの想像以上に豊かだったのである。これは江戸時代の年貢率は時が経つとともに下がり、三公七民以下になったが、実際には年貢率1割以下だったともされている。税率が下がったのは、江戸時代以降に検地がほとんど行われていないからであった。つまり江戸時代に新田開発や農業技術の進歩して米の収穫量が増えたが、昔の収穫高を基準にして年貢率を決めていたからである。さらに農民は商品作物を栽培してそこからの利益もあり、経済的に余裕があったのである。

 もちろん農作物は環境に左右されるため飢饉が起きた際には餓死者がでる。飢饉で低い年貢率が高くなれば不満を持った農民が一揆を起こすこともあった。

 農民の中からは二宮尊徳のような学者も多く出ており、幕末の新選組を組織した近藤勇や土方歳三も農民の出身である。近藤や土方が相当な剣の使い手になれたのは、子供の頃から武家以上に剣術に励むだけの経済力があったからである。歴史に関する研究は、真実の姿が明らかにすることで変化するが、私たちが当たり前と思っていた「貧農史観」を見直すことで新たな発見を知ることができる。

 ところで17世紀の終わりごろから世界は寒冷期に入り、ヨーロッパで植民地獲得競争や宗教戦争が激化したのは、そのことと深い関係がある。日本は鎖国のおかげで幸いにして戦争とは無縁だったが、気候の寒冷化にともなう凶作や飢饉の頻度は激しさを増し、農民一揆が次々に起こる情勢となった。幕府はこの危機に対して適切な措置を取ることが出来なかった。官僚化し硬直化した幕府の官僚たちにとって、このような事態は想定外の事項だったからである。そのため飢饉に見舞われた地域に、幕府直轄領や他の大名領から古米を供給するシステムを整備できずに被害を拡大させてしまった。
 ところで従来の通説では、江戸期の農民は、武士から残酷な搾取を受けて、いつも飢えに寸前の悲惨な生活をしていたことになっている。しかし農民は実際には収穫の2割から3割を納税すれば良く、その暮らし向きはそれほど悪くなかった。むしろ明治時代の方が貧困になっている。どうしてこのような間違った通説が流布されたのかというと、マルクス史観の影響である。マルクスの進歩史観では、社会は時代の流れとともに比例的に良くなるはずである。その論理からは江戸期の農民の方が明治の農民よりも豊かだったという結論は絶対に出せない。だから故意に歴史を捻じ曲げたというわけである。江戸期に百姓一揆や飢饉が頻発していたのは史実であるが、それは武士による極端な搾取のためではなく、気候全体が寒冷化し、さらに幕府の官僚機構が硬直化したためである。

農民の1日
 江戸時代の農民は夜明け前に起き、明るくなると畑で農作業に従事し、日が沈むころには家に帰り、夕食後しばらくは藁を編んだり農具の手入れをした。それは慶安の御触書に「早起きし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄をない、俵を編むなど、それぞれの仕事をきちんと行なうこと」と書かれており、慶安の御触書がでたということは農民がこうした理想的な農民生活を送っていなかったことを表している。
 農民の休日はお盆や正月、お祭りの日などで、毎月決まった休日はなく、農繁期(5月の田植え10月の稲刈り)は1日も休みがなく、農閑期はほとんど休みの毎日だったと思われる。

 5公5民とも4公6民ともいわれる高い税率であったが、米以外の商品作物である染料の藍や紅花、蚕のえさとなる桑、紙の原料となる楮などには無税であった。農民は稲作の合間でこのような商品作物を栽培しお金を手に入れ、より生産力を高める金肥を入手したりした。それらのお金を貯めて、伊勢神宮に参拝するお伊勢参りの資金にしたり、意外に楽しんでいた。もちろんこれは全員行くわけにはいかないので、毎年当選した一人が代表して参拝していた。副業として手工業も盛んで、18世紀には問屋商人が資金や原料を前貸しして家で問屋制家内工業として機織りなどが行われていた。
 明治に入り地租改正に反対した農民たちが、江戸時代の年貢を調べ江戸時代よりも高く設定されたのを知って一揆がおきた。このように意外に江戸時代の農民の生活は良かった可能性がある。


農民の結婚
 農民の結婚相手に求められたことは、労働力となる子供を産むことである。武士は相手の顔も知らずに結婚したが、農村では事実婚となり、共に暮らし婚前交渉で確認がとれてから結婚となった。惚れた腫れたの問題ではなかった。

 

農業の発達
 戦国時代に欧州の文化や技術が伝わり、鉱山での採掘や排水、あるいは精錬技術が向上した。このことから江戸幕府初期の日本は世界有数の金銀産出国となり、鉱山における最新の技術や優れた道具は治水や溜池用水路などの開発に利用された。
 これらの技術によって河川敷や海岸部において大規模な耕地化が可能になり、また平和な世の中となったことで人口が急増したため、全国で新田開発が積極的に行われた。日本の耕地面積は江戸時代は164万町歩であったが、100年後には297万町歩に増加した。新田開発は幕府や藩の主導で行われたが、17世紀末頃からは有力な商人などが資金を提供した町人請負新田が増えた。代表的な町人請負新田としては、現在も地名として残っている大坂の鴻池新田などがある。
 江戸時代には農業技術が改善され、農具としては耕作用の備中鍬や脱穀用の千歯扱(せんばこき)、選別用の唐箕(とうみ)や千石通し、灌漑用の踏車などが考案された。これらのうち千歯扱は後家(未亡人)が担当して扱箸(こきばし)による脱穀を不要にしたことから、別名を「後家倒し」と呼ばれた。
 肥料はそれまでの刈敷(かりしき)や下肥(しもごえ)のほかに、イワシを干して乾燥させた干鰯(ほしか)や、アブラナなどの農作物から油を搾り取った残りの油粕が用いられ、これらの新しい肥料は農家がお金を出して購入したことから金肥(きんぴ)と呼ばれた。
 この時代には農学も発達して、17世紀末に書かれた宮崎安貞の「農業全書」などが広く読まれた。作物としては米などの他に全国各地で商品作物が盛んに栽培され、農民の重要な副収入となった。桑・漆・茶・楮(こうぞ)の四木(しもく)や、麻・藍・紅花の三草が代表的な作物である。この他、それまでは輸入に頼っていた木綿が国内で栽培され、養蚕業が広がって生糸の生産が盛んとなった。特に生糸は幕末における重要な輸出品となった。

 

諸産業の発達
 農業以外の産業の発達にも著しいものがあった。漁業では地曳網などの漁法が全国に広がり、上総九十九里浜の鰯漁や肥前五島の鮪漁(まぐろ)、蝦夷松前での鰊漁などが有名であった。特にイワシは干鰯(ほしか)に加工され、農業における金肥(肥料)として各地に運ばれた。
 江戸時代の初期から土佐や紀伊を中心に網や銛を使用した捕鯨が行われ、捕れたクジラからの鯨油(げいゆ)は灯油のほか害虫の駆除に用いられた。また中期以降には土佐で鰹漁が発達した。
 蝦夷地では昆布の漁獲量が増加し、ナマコの腸を取り出して煮て乾燥させたイリコ、アワビの身を取り出して煮て乾燥させたホシアワビ、サメのヒレを乾燥させ俵につめたフカノフレ(俵物)がつくられ、俵物は清国への主要な輸出品となった。
 製塩業は播磨の赤穂を中心に土木技術を必要とする入浜塩田が発達し、生産量が増大した。都市の発達による建築資材の需要に伴って林業も発達し、江戸時代中期には蝦夷地にまで産地が広がるり、幕府や藩が管轄する山林から伐採された材木が商品化された。尾張藩の木曽檜や秋田藩の秋田杉が有名である。なお山林の保護のために植林も行われた。
 鉱山業は江戸時代の初期には佐渡金山、生野銀山・石見銀山などの金銀の生産が最盛期を迎えたが、17世紀後半になると産出量が激減し、替わって銅が採掘の中心になった。銅は幕府が管轄する足尾銅山や、大坂の町人泉屋が経営した別子銅山などで採掘され、長崎貿易における輸出品や貨幣の鋳造に用いられた。なお泉屋は現在の住友につながっている。
 この他、砂鉄を採集して、足踏み式の送風装置の炉を使用した精鉄が、中国・東北地方を中心に行われ、生産された玉鋼は商品として全国に普及し農具や工具に加工された。畿内においては手工業が発達し、河内の木綿や近江の麻、奈良の晒などが名産地となった。特に京都の西陣では、高度な技術である高機による西陣織の絹織物が有名である。なお絹織物は上野の桐生など北関東でも生産された。
 和紙の生産も楮(こうぞ)を原料とした流漉(ながしすき)の技術が普及した。紙が安価で大量に入手できるようになり、学問や文化の発達に貢献することになる。また紙の生産地の多くは藩の専売制となり班の財政を助けた。
 陶磁器では肥前有田で有田焼(伊万里焼)と呼ばれた磁器が佐賀藩の保護のもとで生産され、長崎貿易における輸出品になった。尾張の瀬戸や美濃の多治見などでも生産され、安価な陶磁器が量産された。醸造業では伏見・灘の酒や野田・銚子の醤油が有名で、この他にも全国各地で作られた商品は、それぞれの地域に由来した特産品として重宝された。