外交(鎖国)

徳川家康のスペイン外交と浦賀
 豊臣秀吉の没後、徳川家康が五大老の筆頭に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、世界最強国のスペインであった。徳川家康はスペイン領のメキシコで行われている金銀製錬法の導入しようとしたのである。そのためスペイン人を国際貿易港として浦賀湊に招致して、西洋事情に詳しいウイリアム・アダムスを外交顧問とした。家康はフィリピン(スペイン領)近海における私貿易船を止めさせるため、公貿易船の証として日本からフィリピンへ渡海する朱印状を交付することをフィリピン総督に伝えた。

 日本では古来から難破船の漂着は龍神の祟りとして積荷を没収し、その売り上げでその土地の寺社の修復に充てる習わしがあった。しかし家康はこの習わしを破り、漂着船の積荷を保証し、安心して浦賀湊に商船を派遣するようにフィリピン総督に通告したのである。つまり家康の朱印船制度は「浦賀とスペインとの外交」であった。浦賀にはウイリアム・アダムスの尽力によりスペイン商船が入港するようになった。
 メキシコの思惑からアマルガム法の導入は実現しなかったが、上総大多喜浦に漂着した司令官ジュアン・エスケラや、上総岩和田沖に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロをアダムスが建造した船で帰国させ、その返礼大使としてセバスチャン・ビスカイノが浦賀湊に入港している。
 このときのビスカイノは日本の港の測量および金銀島探検の使命を帯びていたが、金銀島の発見には至らず、そのうえ船は破船してしまう。ビスカイノは帰国のための船の建造を家康に請うたが断られ、ビスカイノは奥州の港の測量の際に伊達政宗がメキシコとの貿易を希望していたことを想い起こし、宣教師ベアト・ルイス・ソテーロを介して伊達政宗に帰国の大型帆船の建造を依頼して実現した。これが政宗船サン・ファン・バウティスタ号の遣欧となった。このときの将軍秀忠は、向井将監忠勝に政宗遣欧船の随行船として船を造船させている。この船は江戸湾で座礁してしまうが、このように秀忠が遣欧船を造船した事実や、向井将監忠勝が公儀大工を伊達政宗のもとに派遣している事実、また幕府は禁教令によりビスカイノ一行を本国に帰国させなければならなかったことから、政宗遣欧船は幕府も知っていたのである。
 1615年6月、政宗船サン・ファン・バウティスタ号がビスカイノの返礼に大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを乗せ浦賀湊に帰帆した。政宗船の2度目の太平洋横断である。この船には政宗の家臣横沢将監吉久や日本商人らが同船していたが、徳川家康が死去するとカタリーナに国外退去令が出され、彼らは元和2年8月浦賀を発航した。これがメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして浦賀湊は国際貿易港としての生命は絶たれ、スペイン人鉱夫の招聘は実現することはなかった。

 

江戸初期の外交

 ヨーロッパではスペインの勢力が拡大していたが、1581年にオランダがスペインの支配から独立し、1588年にはイギリスがスペインの無敵艦隊をアルマダの海戦で破り、オランダとイギリスがヨーロッパの新興勢力となった。

 1600年にオランダ船が豊後(大分)に漂着した際、徳川家康は航海士のヤン・ヨーステンと、イギリス人の水先案内人であるウィリアム・アダムスを江戸に招き、ふたりを外交顧問として両国との貿易を目指した。

 このように江戸時代の初期においては、家康は外国との貿易を積極的に行おうとしていた。ちなみにウィリアム・アダムスは三浦按針(みうらあんじん)、ヤン・ヨーステンは耶楊子(やようす)と呼ばれ、ヤン・ヨーステンが家康から与えられていた屋敷の場所が彼の名前から現在の八重洲となった。

 イギリスとオランダはほぼ同時期に東インド会社を設立し、東アジアに進出して東洋での貿易に乗り出した。両国はカトリック(旧教)ではなくプロテスタント(新教)で、イギリス人やオランダ人は紅毛人(こうもうじん)と呼ばれた。

 江戸幕府はオランダとイギリスに貿易の許可を与え、肥前の平戸に商館を設けて貿易を始めた。家康はスペインとの交易にも積極的で、1609年に上総(千葉)に漂着した総督ドン・ロドリゴを、翌年に船で送還する際に、京都の商人田中勝介を同行させ、スペイン領のメキシコとの通商を求めた。また仙台藩主伊達政宗は、1613年に家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をスペインに派遣してメキシコと交易を開こうとしたが果たせなかった。支倉常長の使節団は当時の年号から慶長遣欧使節(けんおうしせつ)という。また田中勝介は後に帰国し、太平洋を横断した最初の日本人となっている。

 豊臣秀吉の時代から多くの日本人が海外に進出していた。家康も秀吉の政策を引き継ぎ、海外貿易に従事する商人たちに渡航を許可(朱印状)を与えその活動を保護した。朱印状を与た船を朱印船といい、貿易は朱印船貿易とよばれた。

 当時の貿易の主な輸入品は中国産の生糸で、マカオを拠点とするポルトガル商人が生糸を長崎に持ち込んで巨利を得た。この事態を重く見た幕府は、糸割符制度を設けて糸割符仲間(京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヵ所)の商人に生糸を一括購入させて価格を抑制した。日本からの輸出品としては銀が中心で、当時、我が国の銀の輸出高は世界の3分の1に及んでいた。

 朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジアの各地で数百人から数千人の日本人が日本人町をつくった。また山田長政のようにタイの王室に重く用いられ、後に六昆(リゴール)の太守にまで出世する者も現れた。

 

鎖国までの道のり

 江戸幕府の初期は平和的な海外貿易に積極的であった。しかし時が流れるにつれて幕府は次第に貿易を厳しく統制するようになった。それはキリスト教(カトリック)による日本植民地化計画を知ったからで、幕府は始めのうちはカトリックを黙認していたが、一神教であるキリスト教の性質から仏教や儒教との対立が生じ、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して幕府に反抗する可能性があったからでる。

 カトリックによる布教がスペインやポルトガルによる日本植民地化の野望と結びついていたためで、同じキリスト教でもプロテスタントのイギリスやオランダは、自国の貿易の利益を守るためにカトリックの領土的野心を幕府に警告していた。

 1612年、幕府は直轄領にキリスト教の禁教令を出し、さらに翌年には全国に拡大し、高山右近ら信徒を国外に追放した。このようにキリスト教の迫害を始めたが、貿易は必ず儲かることから、江戸幕府が民間や大名の貿易を厳しく統制したのは、貿易の利益を独占するためであった。

 外国から輸入することは、その商品が日本で手に入らない、手に入っても非常に高価であるので、輸入品は高価でも安価でも必ず大儲けにつながった。もちろん輸出も同じである。

 当時の貿易は幕府だけではなく西国の大名も行っていた。大名がおいしい貿易を行い利益による強大な経済力と軍事力を持つことを幕府は恐れたのである。

 1616年、幕府は中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定し、1624年にはスペイン船の来航を禁止した。なおスペインはイギリスがオランダとの競争に敗れ商館から撤退した。さらに1633年には従来の朱印状の他に老中奉書という許可状を受けた奉書船以外の日本商船の海外渡航を禁止し、1635年には日本人の海外渡航や在外日本人の帰国を禁止した。またこの間に中国船の寄港を長崎に限定し、ポルトガル人を長崎の出島に移動させ日本人との接触を制限した。

 島原藩が置かれた肥前国島原(長崎県島原市)は、かつてはキリシタン大名であった有馬晴信が領有し、そのため領内には多数のキリシタンがいた。この有馬晴信は日向国延岡(宮崎県延岡)に領地替えとし、幕府直轄の天領を経て松倉氏が島原藩の藩主となった。

 藩主の松倉勝家は幕府の方針に従い、キリシタンへの厳しい弾圧を開始し、同時に農民への過酷な年貢の取り立てを行った。キリシタンから改宗しない者が雲仙岳の火口に放り込まれ、年貢を納められない農民が蓑でしばりあげ、生きたまま火を付けられる「蓑踊(みのおど)り」の拷問を加えた。

 同じくキリシタン大名だった小西行長が関ヶ原の戦いで処刑された、後に唐津藩が領有していた肥後国天草(天草諸島)においても、藩主の寺沢堅高による農民への圧政とキリシタンへの弾圧が行われ、島原や天草のキリシタンや農民たちは日々追いつめられた。

 1637年、圧政に堪えかねた島原と天草の農民やキリシタンを含む浪人たちが大規模な一揆を起こし、天草四郎(本名は益田時貞)を中心に3万人を超える勢力が島原の原城跡に立てこもった。世にいう「島原の乱」の始まりである。

 

島原の乱

 幕府は板倉勝家を島原へ派遣したが状況は好転せず、板倉勝家は翌年の元日に総攻撃をかけたが失敗した。幕府は老中の松平信綱を新たに派遣し、12万以上の軍勢で陸と海から原城を取り囲んだ。松平信綱はオランダに頼んで大砲で原城を砲撃したが、外国人の助けを借りることへの批判からすぐに中止した。しかし原城に立てこもった一揆勢にとっては、頼りにしていたキリスト教(カトリック)のポルトガルからの救援はなく、同じキリスト教(プロテスタント)のオランダの攻撃には大きな失望を与えた。

 先板倉勝家などの総攻撃で4,000人以上の死傷者を出した幕府は、一揆勢に対して兵糧攻めの作戦に出た。長引く戦いで兵糧や弾薬が尽きた一揆勢は苦境に立ったが、兵糧攻めとはいえ、持久戦が長引くと幕府の威信にかかわることになった。そこで松平信綱は、2月28日に総攻撃をかけて一揆勢を鎮圧することを決めた。

 しかしこの松平信綱の動きを察した佐賀藩の鍋島勝茂が抜け駆けをしたため、総攻撃が1日早まり、指揮系統が乱れ幕府軍は混乱して死者1,000人以上、負傷者1万人を超える被害をだした。この総攻撃により一揆勢も壊滅状態になり、天草四郎は討ち取られ、多くが殺害された。このようにして島原の乱は鎮められたが、幕府は大きなダメージを受けた。

 乱後に松倉勝家は領地を没収され、大名としては異例の斬首刑に処せられた。唐津藩主の寺沢堅高は唐津藩のうちの天草領を没収され、後に自害して寺沢家は御家断絶になった。また抜け駆けをした鍋島勝茂も罰を受けることになった。大名の斬首刑などの厳しい処罰は、それだけ幕府が島原の乱への衝撃が大きかったことで、幕府はますますキリスト教への弾圧を加えることになった。

 1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止して、カトリックを信仰する国との国交を断絶し、2年後の1641年には、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人と日本人との自由な交流も禁止し、長崎奉行の厳しい監視を続けた。

 このため日本と貿易ができたのは、同じキリスト教でもプロテスタントで、キリスト教の布教をしないと約束したオランダと、キリスト教とは無関係の中国・朝鮮・琉球のみとなった。厳しく統制された制限貿易は、国を閉ざしたように見えることから鎖国と呼ばれれた。

 幕府によるキリスト教弾圧はその後も続けられ、先述した宗門改めのほか、キリストやマリアの聖画像などを踏ませる絵踏を行い、キリシタンの密告を奨励する政策を行った。

 鎖国はその後200年以上続くが、これだけの長期間、我が国は鎖国を続けることができたのは、鎖国を行った頃の日本は、戦国時代が終わったばかりで数十万の兵士や鉄砲があったので、これだけの兵力や武器を持つ国は他にはなく、ヨーロッパ諸国といえどもそう簡単に攻めてこれなかったからである。またヨーロッパではスペインやポルトガルの国力が衰え、新たにイギリスやオランダが勢力を伸ばしたが、両国はプロテスタントを信仰しており領土的野心を持っていなかったからである。当時の日本は鉄砲を増産するなど先進的な文化を持っており、海外との結びつきがなくても自国だけで経済や文化が発展でき、島国であるがゆえに海という「天然の防壁」が日本の防衛力を高めていた。

 しかしながらもし当時の長所による利点が失われてしまえば、日本は一転して苦しい立場に追い込まれることを意味していたた。そして約200年後にそれが現実のものになる。

 

鎖国による制限貿易
 鎖国をもたらした厳しい制限貿易によって、ヨーロッパで日本との唯一の交易国となったオランダは、キリスト教の布教を避けて貿易に専念した。幕府は長崎を窓口として、オランダから中国産の生糸や砂糖、あるいは欧州産の毛織物などの貿易品を輸入し、オランダ船が入港するたびに商館長が長崎奉行に提出したオランダ風説書によって幕府が独占的に海外の情報を得ていた。

清との貿易
 中国では漢民族の明が滅んで満州民族の清が建国すると、清国の私貿易船が来航するようになり、貿易額は年々増加した。当時は貿易の代金を金銀で支払っていたため、貿易額の増加は金銀の流出をもたらした。そのため幕府はオランダや清からの輸入を制限し、清船の来航を年間70隻に限定した。またそれまで長崎領内で自由に雑居していた清国人の居住地を唐人屋敷に限定した。

朝鮮との貿易
 豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、日本と李氏朝鮮との国交は断絶していたが、徳川家康によって日朝関係は修復された。家康から日朝の交渉を任された対馬藩主の宗氏によって朝鮮使節が日本に来訪し、朝鮮との間に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれた。日朝貿易は宗氏が独占し、貿易の利潤によって宗氏は家臣と主従関係を結んだ。対馬は耕地に恵まれなかったため、日朝貿易は対馬藩にとって生命線となった。1635年、幕府は日朝貿易を監視するために京都五山の僧を対馬に派遣した。貿易は朝鮮が釜山に設置した倭館(わかん)で行われたが、金銀の流出を防ぐため、オランダや清国と同様に幕府は対馬藩の貿易額を制限した。朝鮮からの使節はその後も将軍が代わるたびに、慶賀(けいが)を名目に来日が続けられた。
琉球
 沖縄はもともと琉球王国を名乗る独立国であった。琉球はその地の利を生かして中国や日本と交易を行う貿易立国であった。しかし江戸期に入って薩摩(鹿児島県)の島津義久の侵略を受けた。島津義久の軍勢は徳川家康の承認を得ての行為であった、琉球王国を完全に占領し、尚寧王を捕虜にすると被征服民にサトウキビを作らせた。また琉球の属領であった奄美諸島を薩摩の直轄としここで得られた経済的利権が、後に薩摩藩による明治維新の原動力となる。

 幕府は、フィリッピンの西欧勢力や中国からの緩衝地域としての琉球の重要性を認めていたので、この地域を日本の政治的影響下に置くことに賛成であった。ただし日本が事実上、琉球を占領下に置いたことは、外国を刺激したくないため、対外的な秘密事項であった。

 そのため表向きは独立国として明や清には宗主国として朝貢関係を続けさせ、中国との貿易で得た物資や琉球産の黒砂糖を薩摩へ納めさせた。また琉球は徳川将軍の代替わりごとに慶賀使を、琉球王の代替わりごとに謝恩使を幕府に派遣したが、薩摩藩によって異国風の服装や髪型、旗や楽器を用い琉球人を異民族のように振る舞わせた。薩摩藩によって琉球の中国貿易は続けられ、薩摩藩の貴重な財源となり、薩摩藩は後に長崎で売却するようになった。

 琉球の人々が固有の芸能、言語、食文化、姓名を現代まで維持できたのは、江戸幕府に楯突かずに隠忍自重を耐え抜いたからである。また薩摩藩の統治が、それほど残酷でなかったためでもある。

 

 

蝦夷
 北海道に和人(日本人)が初めて足を踏み入れたのは鎌倉時代前期である。執権・北条義時から北海道を恩賞にもらった安東一族が、函館周辺に殖民したのが最初である。安東一族は松前と名を変え戦国時代を生き残り、江戸幕府の傘下に収まったのである。この当時、北海道全域にアイヌという狩猟民族が住んでいた。遺伝学的には日本人と同じ種族らしいが文字を持たず、部族ごとに狩猟採集の生活を送る人々であった。松前藩は最初はアイヌと仲良くやっていた。両者の間には、公平な交易関係が結ばれた。
 しかし江戸幕府の体制は、参勤交代などで外様大名に慢性的に出費を強制するもので、また凶作続きなどで松前藩の財政は極度に悪化した。そのため松前藩はついにアイヌを弾圧し搾取するに至ったのである。蝦夷地南部を支配していた松前氏は、徳川家康からアイヌとの交易権を保障され、蝦夷地に住むアイヌとの交易による利益を家臣に与え主従関係を成り立たせていた(商場知行制)。

 それまでの自由な取引から、松前藩の独占になり、不利益を受けた温厚なアイヌも耐え切れずに決起した。シャクシャインという有能な酋長に率いられたアイヌ軍は数千の大軍となって松前に進撃を開始した(シャクシャインの乱、1669年)。驚き慌てた松前藩は江戸や東北諸藩から援軍を呼び、激戦の末にアイヌ軍を撃退した。その後、松前藩は「和平交渉」という口実でらシャクシャインを誘い出し毒殺した。この事件がきっかけで、松前藩による搾取と侵略は激しさを増し、アイヌの人々は、抵抗して殺されるか、和人の支配を受け入れるしか選ぶ道が無くなった。その後近江(滋賀)の商人などが場所請負人として商場を請け負い、運上金が藩の財政を支えた(場所請負制)。
 アイヌは和人や商人に使われ、和人や商人は交易をごまかした。このアイヌの人々の生活事情を改善しようとしたのが田沼意次だった。