幕藩体制

 1600年、徳川家康は天下分け目の関ヶ原の戦いで石田三成に勝利すると、豊臣家に味方した大名を処分し、豊臣家の勢力は急速に衰えた。家康は江戸に幕府を作るため自分の立場を考えた。織田信長は自らを神として天皇を超えようとした。豊臣秀吉は天皇の権威を利用して関白になった。そして家康は本拠地を江戸に移し、鎌倉幕府や室町幕府と同様に征夷大将軍になって政治を行うことにした。形式的には天皇から征夷大将軍に任命されることになるが、征夷大将軍になるには源頼朝や足利尊氏と同じ源氏(げんじ)の血を引いている必要がある。そこで家康は、自分が源氏の子孫であることを朝廷に公認させ、1603年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、実質的には日本を支配する幕藩体制を築き、ここに江戸幕府が誕生する。

 豊臣秀吉死後の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに老獪な家康は70歳を超え、残された時間が少ないことを悟り、方広寺鐘銘事件で豊臣家を追いつめ、大坂冬の陣、大坂夏の陣で豊臣秀吉の子・秀頼を倒し豊臣家を滅亡させ豊臣氏勢力を一掃した。
 しかしまだ豊臣家に従う大名もいたので、家康は徳川家による安定した天下への道を構築するため、1605年、家康は将軍になってわずか2年後に将軍の地位を子の徳川秀忠に譲った。これは徳川家が将軍職を世襲することを天下に示すためで、家康は駿府に移ったが大御所として政治の実権を握り続けた。これで徳川家に対抗する勢力はいなくなり江戸幕府は約260年以上続く長期安定政権となった。

 江戸に幕府を開いたのは、①まず豊臣秀吉が北条氏滅亡後に家康を関東移封を命じたこと。②京都の朝廷の影響で武士が公家化しないこと③関東平野の広大な広さが挙げられる。

 戦国時代から安土桃山時代を経て平和が招来されたことから、大量の武士が軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われ、経済は爆発的に発展して高度成長時代が始まった。徳川家康はこの幕藩体制を継続させるため様々な制度を導入した。

 家康が参考にしたのは源頼朝がひらいた鎌倉幕府であった。東鑑(あずまかがみ)の愛読者であった家康は、この書物から大きなヒントを得ていた。家康は頼朝と同じく東国(江戸)に拠点を置き諸国の大名を御家人のように束ねた。さらに家康は鎌倉幕府と同じ失敗を繰り返えさないように、幕府と大名との関係を「御恩と奉公」ではなく官僚的な制度によって厳しく規定した。

 

幕藩体制の確立

 江戸幕府は徹底的な政局安定策を取り、武家諸法度の制定や禁中並公家諸法度など諸大名や朝廷に対し徹底した法治体制を敷いたそのため「天下泰平」という日本語が生まれるほどの平和を日本にもたらした。徳川幕府の政策はまさに抜本的な構造改革であった。平安時代末期から日本に流れてきた民衆主体の潮流を、官僚主体に大改造するものであった。意外なことに支配階級であった武士が、最も大規模な変革を迫られた。彼らは、従来の地主ないし戦士から、官僚になることを義務付けられたからである。
 当初の幕府は強大な軍事力を持っており、その主体は将軍直属の家臣団である旗本や御家人であった。彼らは1万石未満の直参と呼ばれ、将軍に謁見を許される旗本と許されない御家人との違いがあったが、いずれも江戸に住み、石高や才能に応じて様々な役職に就いた。当時の旗本は約5,200人、御家人は約17,400人で、これらに旗本の家臣を合わせ「旗本八万騎」といわれている。徳川家康に以下の強権的な統制政策ができた最大の理由は、家康の持つ強力な軍事力にあった。徳川軍には日本全国の諸大名が束になっても勝ち目がないと思われていた。

 

大名統制
 関ヶ原の戦いで多くの大名が所領を没収され姿を消したが、さらに幕府は大名の統制を力ずくで進めた。1615年、第2代将軍の徳川秀忠が一国一城令を出し、大名の居城は1のみであとは取り壊しを命じた。もちろん例外もあり、秋田藩の佐竹氏の場合は久保田城(秋田市)、大館城、横手城の3つが認められ、仙台藩の伊達氏の場合は白石城も要害という名称で存続を認めている。

 また同年大名をはじめとする武士全般に対して「武家方諸法度」の通達を発布して必ずこれを遵守させた。武家諸法度では新たに城を築くことや城の修築を禁止し、大名間の婚姻も幕府の許可制とした。さらに幕府は隠密と呼ばれるスパイ集団を諸大名の領内に送り込みその動静を詳しく探った。また大名同士で不穏な動きを相互に監視させる厳しい統制を行った。そして大名に不穏な振る舞いが見られた場合、直ちに「お家取り潰し」を行った。これにより諸大名は勝手な振る舞いが出来なくなったのである。

 武家諸法度は将軍が代わる度に修正されるが、武家諸法度に違反した大名には、幕府は容赦なく大名を取り潰し(改易)、領地を削減(減封)、領地を別の場所に移動させた(転封)。1619年には福島正則が居城の広島城を無断で修築したことから領地を没収されている。
 1623年、徳川秀忠は嫡男の3代将軍徳川家光に将軍職を譲ると、家康にならい大御所として幕府の基礎固めをおこなった。

 徳川将軍家と主従の関係を結んだ1万石以上の者を大名とし、大名の中で家康が晩年に産ませた男子を始祖とする徳川家一門は親藩と呼ばれ、それぞれ水戸徳川家尾張徳川家紀伊徳川家御三家(ごさんけ)と称した。親藩は原則として幕府要職に就くことはなかった。それは親族による乗っ取りを防ぐためであった。
 また関ヶ原の戦い以前から徳川家に従っていた、旧来の家臣の大名は譜代とよばれ、関ヶ原の戦い以降に従った大名は外様とされた。外様大名は領地は広いが江戸から遠くに配置され政治に参加できなかった。親藩や譜代は防衛上の重要な場所に配置され、幕府の要職なる人物が多く生まれた。譜代大名は10万石以下に留まっていた。
 つまり政治に参加して権力ある者には財力を与えず、政治に参加できず権力を与えられなかった者に対しては財力を与えた。これはかつての守護大名が財力と権力とを同時に持って室町幕府に対抗した失敗を教訓にした。大名の権力と財力との分散方式である。

 さらに領地はないが江戸城内に屋敷があり、幕府から10万石相当の収入を支給される御三卿(ごさんきょう)が決められた。御三卿は8代将軍徳川吉宗の次男を初代とする田安徳川家、吉宗の4男初代とする一橋徳川家、9代将軍徳川家重の次男を初代とする清水徳川家である。また結城秀康(家康の次男)を初代とする越前松平家保科正之(2代将軍、徳川秀忠の4男)を初代とする会津松平家は御家門(ごかもん)とよばれた。

 御三家と御三卿は将軍家に男子の相続者が無い場合、将軍家を1継ぐ権利があった。実際には8代将軍の徳川吉宗は紀州家から、11代将軍の徳川家斉は一橋家から、14代将軍の徳川家茂は紀州家から、15代将軍の徳川慶喜は一橋家の出身である。このよう将軍家が断絶しないように工夫されていた。

参勤交代

 1634年、第3代将軍徳川家光は、自らの軍事指揮権を天下に示すために、全大名に対して石高に応じて一定の兵馬による軍役を課し、30万余りの兵力を率いて上洛した。翌年には「武家諸法度の寛永令」を発布して、諸大名に妻(正室)と子を人質として江戸に残し、江戸と領国を1年おきに往復する参勤交代を義務づけた。これは大名の経済力を奪う狙いがあった。また参覲交代は大名の宿を本陣と呼ぶように「軍役」を意味していた。
 参勤交代は大勢の供を連れて長い道中を移動しなければならない。そのため水陸交通の発達をうながしたが、諸大名は膨大な出費と時間と手間を要した。私的な関所を禁止し、500石以上の大船を造ることを禁止した。

 また江戸城などの修築や各地の河川などの土木工事を大名に強要し(普請役)たことから、多くの大名が経済的な負担に苦しむことになる。これは幕府が諸大名に負担を押し付け倒幕への軍備をさせないためであった。このようにして徳川家光の頃までには将軍と諸大名との主従関係が確立した。

 このようにして幕府は各藩による全国を支配する体制を築いた。これを幕藩体制という。

 

幕府と藩の行政機構
 江戸幕府は約400万石の直轄地(天領)からの年貢による収入を基本とし、江戸・京都・大坂・長崎・堺を直轄として商工業や貿易を統制して財源を確保した。その他、佐渡金山・但馬生野銀山・石見大森銀山からの収入があり、幕府はこの金銀を用いて貨幣の鋳造権を独占した。
江戸幕府の当初は、徳川家康はそのカリスマ性によってトップダウン型の独裁政治を行っていた。しかし自分の死後に、優秀な資質を持つ将軍が常に誕生するとは限らないので、それまでの上意下達の政治を続けるのは難しいと考えたた。
 日本では憲法十七条での「和の精神」に象徴されるように、何事も多数の人間の話し合いで決めるという慣習が昔から存在していた。多数決の論理が我が国でもてはやされ、独裁政治が長続きしないことを家康は分かっていた。そのため家康は将軍の下に数人の年寄(としより)を置き、彼らの合議制によって政治上の重要な決裁を行う方式を考案した。

 家光の時代には年寄が老中と名を変え、このシステムによって将軍は老中が決めたことを承認するだけとなった。このことで将軍の資質に関係なく幕政が機能するようになり、幕政の安定化が図られた。なお老中の上には臨時職として大老が置かれ、大老は重要事項の決定のみに参加した。
 老中を補佐する役職としては若年寄があり、その下に置かれた目付は旗本や御家人の監察を行い、老中の下の大目付は大名を監察した。
 老中の下には寺社奉行江戸の町奉行勘定奉行の三奉行が置かれた。これらの役職は譜代大名や旗本が担当し1ヵ月で交代する交代制であった。また重要な政務事項については評定所において役職を越えて合議された。
 地方の組織としては、京都には所司代を置き朝廷の統制や西国大名の監視を行い、大坂や駿府(静岡)には城代が置かれた。また長崎や奈良・佐渡・日光などの要地には遠国奉行が置かれ、天領には関東・飛騨・美濃などに郡代が、その他には代官が置かれた。
 大名が支配する領地はとよばれた。藩は幕府と同じような機構を持ち、幕府に忠誠を誓うことで政治や経済は独立していた。江戸時代初期の大名は領国の一部を有力な家臣に分け、その支配を認めたがやがて有力な家臣を城下町に集住させて領内全体を大名が直轄し、領内の年貢を藩士に与える俸禄制度が行われた。
 大名は藩の体制を強化したが、大名の領地は一代ごとに将軍から与えられるもので、武家諸法度に違反したり、後継の子に恵まれない大名は領地没収(改易)、領地の縮小(減封)、領地の変更(転封)などの処分を受けた。江戸時代の初期には数多くの大名が改易処分を受け大量の牢人(浪人)が発生し、浪人の存在が治安上の深刻な問題になった。

 

寺社に対する統制
 江戸時代の前から皇族や摂関家が仏教諸宗の門跡(住職)となっていた。このため幕府は門跡を朝廷の一員として統制するため寺社奉行を置いて全国の寺社と宗教を統制した。
 寺院に対しては寺院法度を発令し、本山や本寺の地位を保障し統制した(本末制度)。第4代将軍の徳川家綱(いえつな)は宗派に関係なく寺院や僧侶全体を統制するために諸宗寺院法度を出し、神社や神職を統制するために諸社禰宜神主法度を発令した。
 江戸幕府以前からキリスト教(カトリック)に対する弾圧が厳しくなっていたが、幕府はカトリックの禁止を確実にするために寺請制度を設けた。寺請制度はすべての国民が周辺の寺院の檀家となり、寺院への参詣や父祖の法要、付け届けを義務づけされ、これに応じない者はキリシタンとみなした。

 すなわち全国の寺社を幕府の統制管理下に置き、そして国民全てをその地域の寺社の所轄内に位置づけたのである。例えば、ある村に曹洞宗の寺があった場合、その地域の民衆は曹洞宗を信じなければならない。そして寺社は全ての政治活動を封じられ、その職務を葬式などの法事のみに限定されたのである。現在の日本では、何の信仰心も無いくせに「うちは先祖代々真言宗だ」などと言う人が多いが、それは家康から始まったのである。もちろん新興宗教が勃興する余地もあるにはあったが、こうした統制政策によって管理分断された宗教界は、政治権力(幕府)に対抗しうる牙を失ったのであった。

 檀家は離脱を許されず、婚姻や転居の際には檀那寺の証明書(寺請証文)が必要となった。このように全国民が信仰する宗教を幕府が把握し、カトリックの禁止を徹底させた。キリスト教は「この世には人間よりも偉大な神(キリスト)がいる。だから、キリストの正義を守るためなら人間の権力に歯向かっても構わない」という考え方をする。これこそまさに下克上の温床であった。江戸幕府がキリスト教徒を殺したのは、彼らに言わせれば当然のことだったのだ。
 1637年、領主の搾取にたまりかねた長崎の民衆は、キリスト教精神にのっとって幕府に反乱を起こした。これが島原の乱であるが、この反乱を鎮圧して幕府による思想統制はかえって軌道に乗ることになった。

 なおカトリック以外にも日蓮宗(不受不施派)も幕府によって禁止された。日蓮宗は他の宗派を認めない排他的な性格を持ち、そのため自派以外の者に施しをしなかった(不施)。さらに他の宗派からの施しがあった場合、その厚意を受けいれる考えが広がっていたが、それを認めずに他派からの施しを拒否した(不受)のが不受不施派である。これは幕府による統制を受けず、幕府の権力を認めない危険な思想になり、日蓮宗不受不施派は幕府から厳しい弾圧を受けた。
 寺請制度は現代につながる重要な側面も持っている。それは「政教分離の原則」の完全な定着である。戦国時代の宗教勢力は様々な権益を守るため、それぞれが武装して政治活動と結びついていた。そのため争いが絶えず、被害を受けた民衆からの大きな恨みを買っていた。この宗教勢力に対して焼討ちや皆殺しなどの手法で一掃したのが織田信長で、豊臣秀吉もその政策を受け継いだ。家康も政教分離を進め、江戸幕府によって「寺請制度」が完成したのである。
 寺請制度は全国民が必ず檀家であり離脱を許されない「寺院が住民を支配する制度」であるが寺院側は何もしなくても、檀家の参詣や法要、あるいは付け届けで生計が立った。つまり江戸幕府は寺院に権益を与えて統制し、宗教が政治に関わることをなくしてしたのである。このことから宗教が政治に関わることはなく、政教分離の原則が定着し、この恩恵は現代でも続いている。寺請制度によってキリシタンは完全に排除されたが、国民が必ず寺院の檀家ととなり信仰の自由は制限された。
 寺院にとっては檀家により信者数が固定され、幕府の保護を受け経済的な安定を得ることができた。また熱心な布教活動は不要になり、仏教の本来の任務に対する情熱が薄まった。この流れを受け継ぎ、日本では国民の宗教感が低下し、宗教を重んじる外国人との間での違いとなっている。
 また政教分離が強調され、古来からの風習である「神道と政治との関わり」が否定される傾向がある。つまり総理大臣などの公人が、役職名で神社に参拝したり、玉ぐし料を支出したりすることなどが憲法違反とみなされている。政教分離に至る歴史を理解することはは大切で、日本人として持つべき宗教観の希薄性、憲法との関わりが重要な課題になっている。

 

朝廷への幕府の統制
 朝廷は豊富秀吉から徳川家康の時代にかけ、時の権力者の保護を受け、天皇の後継者や譲位の時期まで決められていた。第107代の後陽成天皇は、秀吉の意向によって第1皇子の良仁親王を後継者としていたが、新たな権力者となった家康の意向により第3皇子の政仁親王が実際の後継者となった。1611年に政仁親王は第108代の後水尾天皇になったが、天皇の譲位は家康の意向によることを天下に示した。次に家康は京都の天皇や貴族に対して1615年に「禁中並公家諸法度」を制定して朝廷への統制を強めた。

 幕府は朝廷がこれに違反すると、直ちに介入して罰を与えた。この時代の朝廷は鎌倉時代に比べると衰退著しく、政治的には何の実力も持っていなかった。それでも、このような統制を加えるところに家康の用心深い性格が出ている。
 まず禁中並公家諸法度の第1条に「天皇は第1に学問を行う」と定められ、天皇が武家によって成文化され、朝廷は幕府によって押さえ込まれた。
 また摂政や関白に昇進できる家柄(摂関家)の地位を、天皇の皇子よりも上位と定めた。これは幕府は将軍の正室(本妻)を摂関家から迎え、摂関家を通じて朝廷をコントロールしようとした。

 幕府は京都所司代を通じて朝廷に指示を伝え、公家2人を幕府と朝廷との窓口に任じ、幕府の意向(命令)を朝廷に伝えた。
 朝廷の領地は幕府により1万石と定められ、天皇は禁中並公家諸法度によって行為が制限され、朝廷が与えていた大名や旗本への官位は幕府が定めることにした。南町奉行となった大岡忠相が「越前守」と名乗ったのはこのことが由来である。
 また朝廷が与えていた高僧への紫衣下賜や上人号なども規制された。これらは僧にとって最高の栄誉であり、朝廷にとっての収入源であった。幕府は紫衣の授与を規制したが、後水尾天皇は独自に十数人の僧侶に紫衣の勅許を与え、これを知った将軍徳川家光は激怒し、禁中並公家諸法度に違反したとして紫衣の没収を命じた(紫衣事件)。
 幕府の強硬なまでの態度に対し朝廷や寺院は反発した。特に大徳寺の住職・沢庵は激しく幕府に抗議したが2年後に出羽へ流罪となった。この事件によって「幕府の法度は天皇の勅許より優先する」ことになった。
 ちなみに沢庵はダイコンを漬けた「沢庵漬け」で有名で、また吉川英治の小説「宮本武蔵」でも活躍する。なお大阪市営地下鉄の谷町線のラインカラーが紫色なのは、沿線に四天王寺などの寺院が多いことから僧侶にとって最高の栄誉である紫衣の色が由来になっている。
 後水尾天皇は紫衣事件によって傷ついたが、沢庵らが流罪となった年に、さらなる事件が起きた。家光の乳母であるお福(ふく)が御所への昇殿を図ったのである。通常ならばお福のような無位無官の人間が昇殿できるはずがない。ところが幕府はお福を無理やり公家の身内にして「春日局」の称号を与え後水尾天皇へ拝謁させたのである。このような幕府の強引な手法に堪忍袋の緒が切れた後水尾天皇は幕府に無断で徳川秀忠の娘との間に生まれた7歳の興子内親王に譲位された。奈良時代以来859年ぶりの女帝となる第109代の明正天皇の誕生である。

 

高度官僚社会
 徳川家康の名言に「百姓は、知らしむべからず依らしむべし」というのがある。すなわち民衆には最低限の情報だけを与えて、権力者の支配に甘んじさせよとしたが、これは管理統制社会にとって必要不可欠の政策であった。江戸幕府は「慶安のお触書」という農民向けの道徳を公表し、つまりは農民は黙って搾取を受けよというのだった。さらに「五人組」などの密告奨励制度を創設し、反乱の芽を未然に摘もうとした。下克上がおきるのは、民衆が豊富な情報を入手して権力の悪や腐敗を知り、また権力の倒し方を学ぶからである。つまり下克上をなくすためには、民衆に情報を与えなければ良いのである。
 鎖国政策の狙いも多分そこにあった。誤解されやすいが鎖国によって日本は海外と切り離されたわけではない。清とオランダとの交易は長崎の出島を唯一の窓口としていたが継続的に行われていた。また幕府首脳部は様々な方法で海外事情について新しい情報を入手して分析していた。ただその情報を民間に還元しなかったのである。徳川幕府は、「民衆に情報を与えず反骨心を育てない」ということが大きな目的のひとつであった。つまり「愚民化政策」の一環だったのだ。

寛永文化
 江戸時代初期の文化は、桃山文化を引き継いだが、戦乱の世が終わり次第に新しい傾向が見られるようになった。この当時の文化を3代将軍徳川家光の元号から寛永文化(かんえ)という。寛永文化は桃山文化と元禄文化に挟まれた江戸時代初期の文化である。

 寛永文化の中心は京都で、中世以来の伝統を引き継ぐ町衆勢力と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、封建制を強化する江戸幕府に対抗する形で古典文芸・文化の興隆を生み出した。しかし京都は内陸都市であったため、水運ネットワークに乗る事が出来ずに経済はしだいに低迷し、代わりに上方の経済の中心となった大坂が中心となり約80年後に元禄文化が花開く事になる。

学問
 江戸幕府は公的な学問として朱子学を採用した。朱子学は人間の感情を抑制する道徳学としての性格が強く、「主君に絶対の忠誠を誓い上下の秩序を重んじる学問」で幕藩体制維持に都合がいい倫理的思想であった。

藤原惺窩(せいか)
 それまで仏儒兼学とされてきた儒学を仏教から切り離し、独立した学問として探求したのが藤原惺窩である。それゆえ惺窩を近世朱子学の祖という。京都相国寺の僧だった惺窩は朱子学の探求を抱いたが、かなわなかった。しかしその願いは朝鮮出兵の際に捕虜となった朱子学者姜沆(きょうこう)との交流という形で果たされた。のち僧籍を離れた惺窩は儒学者として朱子学の啓蒙に努めた。惺窩を祖とする京都の朱子学グループを京学派という。

林羅山

 惺窩の高弟の一人が林羅山である。羅山は道春の法号を名乗り、法体で儒学を教えた。それは儒学者はまだ僧侶として扱われていたからである。儒学が独立した学問として幕府に認知され、儒学者が他の武士同様に蓄髪俗体(ちくはつぞくたい)を許されるのは、羅山の孫信篤(のぶあつ)の時代まで待たねばならない。
 江戸時代になって林羅山が武家政治の基礎理念として再興した。林羅山は徳川家康に招かれ、林羅山の子孫は林家とよばれ幕府代々の儒者として仕えた。

 羅山は惺窩の推薦によって家康に仕え、以後、秀忠・家光・家綱の侍講(じこう)となって幕政に参与した。ただし羅山の朱子学は徳川家存続に都合の悪い放伐論や易姓革命などの危険思想を骨抜きにした日本的朱子学というべきものだった。羅山が上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に開いた家塾(弘文館)は、のちに幕府の梃子入れで官立化への道を歩んだ。

建築

 建築では家康を祀るために築かれた日光東照宮をはじめとする霊廟建築(れいびょう)が広がり、神社建築では精巧かつ豪華な権現造が用いられた。日光東照宮は幕府安泰を加護する神として徳川家康をまつっている。豪華絢爛な建造物は幕府権力の強大さを天下に見せつけるものである。家康は、当初、久能山(静岡県)の簡素な東照社に葬られていたが、3代将軍家光に日光に改葬された。天海の主張によって、山王一実(さんのういちじつ)神道によって家康の神号は東照大権現(とうしょうだいごんげん)という権現号を採用した。秀吉を豊国大明神とした先例により明神号を嫌ったためである。本殿と拝殿を石の間で結ぶ建築様式を権現造という。

 日光東照宮が幕府権力を象徴するものなら、京都では伝統的建築として数寄屋造(すきやづくり)の桂離宮修学院離宮が建てられ格調高い公家文化を象徴している。

 桂離宮は智仁親王の別荘として桂川のほとりに建てられた。この地は月の名所で、書院造に草庵風茶室を加味した数寄屋造と、それを取り巻く回遊式庭園からなる。桂川から水を引いた中央の池の周囲に、古書院・中書院・新御殿の書院群と茶屋や堂が配置されている。過剰な装飾を排除した簡素な美しさは、日光東照宮の対極にある。ブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と絶賛してから広く知られるようになった。

 修学院離宮は後水尾天皇山荘として建てられ、上皇自らが設計し造営したと伝えられる。上の茶屋と下の茶屋から成る。明治時代に離宮となり大修理されて中の茶屋が付加された。

 突き出した舞台が有名な寄棟造の清水寺本堂もこの時代の建築物である。思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りる」という文で有名である。

絵画
 絵画では狩野派から狩野探幽(たんゆう)が出て、幕府の御用絵師として活躍し、名古屋城・二条城などに多くの障壁画を描いた。大徳寺方丈襖絵(ふすまえ)などの作品を残している。また京都では上層町人出身の俵屋宗達があらわれ風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)では大胆な構図と色彩の作品を生み出した。京都の三十三間堂の風神・雷神像(彫刻)を参考にしたといわれる。広い画面の左右に天鼓(てんこ)をめぐらした白い雷神(雷神は菅原道真の怨霊であり、従来忿怒の赤い姿で表現されるのが常だった)、風袋(ふうたい)を両手に持つ緑の風神をユーモラスに描いている。非常に装飾性の強い作品である。宗達の作風は、のちの尾形光琳ら琳派の装飾画に大きな影響を与えた。狩野派に破門された久隅守景(くすみもりかげ)

は夕顔棚納涼図屏風を描いた。これは農民の親子3人が、夕顔の棚の下で夕涼みしている庶民的な題材を描いている。
 俵屋宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者として本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)がいるが、本阿弥光悦は絵画の他に蒔絵(まきえ)や楽焼(らくやき)と呼ばれた陶芸を残し舟橋蒔絵硯箱(まきえすずりばこ)が有名である。楽焼は手づくねで成形し低温で焼いた陶器である。

有田焼
 文禄・慶長の役で朝鮮から陶工が強制連行され、登窯・上絵付の技術をわが国に伝来した。有田では磁器の生産が始まり、酒井田柿右衛門が中国から赤絵の技法を学び、独自の上絵付の技法を完成させた。代表作に色絵花鳥文深鉢(いろえかちょうもんふかばち)がある。
 有田焼には古伊万里(こいまり)・柿右衛門・色鍋島(いろなべしま)の三様式がある。古伊万里が明代末期の赤絵の伝統を継承し、柿右衛門は純日本的な赤絵をつくった。色鍋島は鍋島藩の窯で独自の色彩をはなった。 
 そのほか島津氏の薩摩焼、毛利氏の萩焼、松浦氏の平戸焼などが有名である。

文学
仮名草子:江戸時代初期に書かれた教訓・娯楽・啓蒙等にわたる読み物類を総称して仮名草子(かなぞうし)という。平易な仮名文で書かれているため、この名がある。浅井了意(あさいりょうい)の「東海道名所記」、如儡子(じょらいしなる人物による「可笑記(かしょうき。おかしき)」などがある。

俳諧:室町時代に流行した連歌の発句(五七五)のみを独立させた文芸を俳諧という。松永貞徳が俳諧の式目を定め、機知に富む俳諧を詠んだ。貞徳の一派を貞門派(ていもんは)といい、高弟に北村季吟(きぎん)ら貞門七哲(しちてつ)がいる。

書道:近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)、本阿弥光悦ら三人が能書家として有名で「寛永の三筆」という。しかしその書風は三者三様であった。

茶道 :侘茶(わびちゃ)の系譜を引くのは千宗旦(そうたん)で、父は千少庵、母は利休の娘で宗旦流の祖となった。生涯仕官せず乞食宗旦と呼ばれた。仕官しなかったのは、祖父利休の非業の死が原因とされている。「乞食宗旦」と呼ばれたのは、まるで乞食が修行を行っているかのように清貧だという意味で、その茶風は利休の侘茶をさらに徹底させたものである。
 いっぽう新趣向の茶を創出した大名茶人に古田織部(ふるたおりべ、小堀遠州、片桐石州(かたぎりせきしゅう)らがいる。それぞれを祖とする流派を、織部流、遠州流、石州流という。

 そのほか、生け花(後水尾天皇・池坊専好)、禅(沢庵宗彭・一糸文守・鈴木正三)などが挙げられる。