ガリバー旅行記

 1726年 にイギリスの作家スウィフトが書いたガリバー旅行記は、子供の絵本として多くの人たちに愛読されてきた。主人公のガリバーが航海中に難船し、次々と怪奇な体験をする物語である。ガリバーが巨人となる小人国はよく知られているが、しかしそれ以降の国についてはあまり知られていない。ガリバー旅行記は小人国の次に、大人国、変わり者の国、馬の国と続くのであるが、子供に読ませるにはあまりに刺激的なため、多くの絵本は小人国で留まっている。
 しかし作家スウィフトがガリバー旅行記で最も訴えたかったのは、変わり者の国、馬の国だったと思われる。今回はあまり知られていないガリバー旅行記について紹介しよう。
 変わり者の国では、無用な実験や探究に明け暮れる科学者が描かれている。家を建てるのに屋根から作るにはどうすればよいのか、太陽はいつ消えるのか、美人に課税すべきか、などと真剣に悩む学者が出てくる。学問ですべてを解決させようとする学者の馬鹿げた姿を風刺している。
  そしてもっとも辛辣なのは馬の国である。馬の国ではフイヌム(理性の生物)と呼ばれる馬が支配者で、人間の姿をしたヤフー(野蛮な生物)という動物が、家畜や野生動物のように醜悪、無恥、不潔な動物として描かれている。何が正常で何が異常なのか、人間の本質が何であるかを考えさせてくれる。主人公のガリバーは知性を持っ た珍しいヤフーとして馬たちに扱われる。そして凶暴なヤフーに困っていた馬たちは、ヤフーを雄と雌とに隔離して子供ができないようにする。馬たちはヤフーである主人公のガリバーの扱いに困まるが、ガリバーもこれを潮時に馬の国を去るのである。そしてこの小説に登場する「ヤフー」という単語は凶暴な人間、ならず者を意味する言葉となった。検索ソフトで知られているyahooはこのヤフーからとった社名である。
 ガリバー旅行記の中で、私たちに大きな問題を投げかけてくるのが、不死の人間を語った部分である。不老不死は人間の最大の望みであるが、作家スウィフトは不死の人間を次のように書いている。
 不死の人間は、生まれたときに額に赤いアザがあり、このアザがその子供が不死の人間である目印とされた。読者は「不死の人間は幸福で、周囲から羨望の眼差しを受ける」と思うだろうが、実際には逆で、死を免れた人間ほど不幸な人間はいないのである。
 不死の人間は死にはしないが、普通の人たちと同じように老化するのだった。80歳をこえると自分のことが何も出来ず、頑固、意固地になり、嫉妬と無力な欲望ばかりとなる。90歳をこえると歯と頭髪は抜け、自分が誰なのか分からなくなる。身体は不死でも痴呆は進み、肉体は衰え、最後はミイラのようになり、考えることも動くことも出来ず、ただ生きるだけの存在になる。
  このような生き方がよいはずはない。スウィフトは不老不死を願う人たちに、人間は死ぬべき存在であることを最大の皮肉を込めて書いたのである。人間だけでなく、すべての動物には決められた寿命がある。「人は自然に生まれ、そして定められた時がくれば静かに死んでゆくべきである」と作家スウィフトは悟っていたのである。300年前の昔に、スウィフトは人間の生死の問題を考え、生きることの意味、死ぬことの意味を読者に問いたのである。
 現在、我が国民の多くは安らかな死を望んでいる。しかし蘇生医学の進歩により、死んだ者を機械で生かし続けることが可能になった。このような医学の進歩の中で終末医療、延命治療、安楽死という人間の尊厳に関わる重要な問題に対しての議論がなされていない。
  医師は医学の進歩を誇るばかりで、寿命を迎えた患者の尊厳の守り方については沈黙したままである。哲学、宗教が医学の進歩に追いつかず、国民の多くが幸せな最後を望みながら、実際には不幸な死を与えている場合が多い。現在、この重要な問題に対し明確な解答を持つ者もいなければ、それを教える者もいない。
  良い医療とは常に患者本人にとってのはずである。終末医療は医師の責任回避のためでなく、家族のためでもなく、患者本人の無言の言葉を察しておこなうべきである。大部分の国民が安らかな老後、安らかな死について願うのなら、現場の医師が真摯な気持ちでそのあり方を家族に提示すべきである。 老人にとって質の高い医療とは、病気を治すことも大切だが、老人の心に接し、老人の尊厳を守ることだと思う。