倦マサラシメンコトヲ要ス

 本来尊敬されるべき官僚、警察官、教師、そして医師たちの不祥事が連続し、フラッシュ・ライトを浴びながら頭を下げるトップの姿が毎日のように報道されている。
 いっぽう不祥事を追求するマスコミは、世の不正を正す義憤のつもりだろうが、結果として世の中が良くなっているとは思えない。それは不祥事の報道が人間の信頼関係を低下させ、働く者のやる気を削いでいるからである。1人の不祥事が、同職の人たちの使命感とやる気を失わせている。
 日本は共産主義国家がなしえなかった無階級社会である。無階級社会においては、営利を目的としない人たちの使命感に負うところが大きい。本来尊敬されるべき職業の人たちは、少なくとも他人に尽くす気概を持ってその職を選んだはずである。この人たちのやる気に依存している社会では、周囲が理屈を言いすぎると、正義ぶって叩きすぎると、彼らは職務に嫌気をさすことになり、そのことが大きな社会的損失につながるのである。
 叩かれれば、何もしない方が得だと思う。休まず、遅刻せず、何もせずの世界になる。社会は活力を失い、閉塞した暗い雰囲気が全体を覆うことになる。これが果たして良い社会と言えるのだろうか。
 正義の仮面をかぶってバッシングする側は叩くことで正義を強調するが、彼らには過ちを許すほどの度量はなく、相手が弱点をみせればバッシングを強め、謝るほどに追い打ちをかけようとする。しかも相手を許す気持ちがないので、叩きかたが陰湿である。
 また周囲は、仲裁よりも傍観者となり、評論家の「相手の気持ちを知れ」などの作られた決まり文句に、観客のように拍手を送る。
 現在、政治、財政、経済、教育、医療、このように多くの分野が危機的状態にある。そして少年犯罪を始めとした多くの奇怪な事件が相次いでいる。この歪んだ社会を是正するために多くの提言がなされているが、ますます歪みは強くなるばかりである。
 政府も対策を講じようとするが効果はみられない。歴代首相の施政方針を聞いても、野党の批判を聞いても、各省庁の文章を読んでも、美辞麗句で飾った八方美人の言葉ばかりで、混沌とした世の中を是正しようとする真摯な気持ちがみられない。誰からも批判されない玉虫色の文章ばかりで、揚げ足を取られまいとする形だけのアリバイ作りの文章である。彼らの意味不明の理念などはさておき、ここに目の醒めるようなすばらしい名文がある。
 それは明治政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」である。この文章は明治維新の大変革を前に作られたもので、新政府の基本精神が示されている。数行の文章であるが非常に適切である。この五箇条のひとつが「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」である。現代文に訳せば「文官、武官から一般の国民に至るまで、それぞれに志を遂げ、しかも嫌気を起こさせないことが肝要である」となる。
 つまり政府から庶民に至るまで心を一つにして、おのおのの志を遂げ「人生つまらない」と思わせてはいけないとしている。
 なんと的を射た言葉であろうか。世の中を良くするには、やる気を起こさせることが肝心としている。明治維新の人たちは人間の心情をよく理解していた。改革に当たって最も大切なことが「倦マサラシメン」である。これほど人間を理解した言葉はない。
 相手を批判するだけでは何も生まれない。相手を批判するより、伸ばすことで、嫌気を起こさせてはいけない。各自に希望を与え、やる気を起こさせることが大切である。一生懸命に働く者を評価し、社会に貢献する気持、さらにその使命感を満足させるような社会づくりが必要である。
 これは特に子供の教育に必要である。かつての学校では「いじめ」という言葉は存在しなかった。ガキ大将はいたが、ガキ大将は弱者の味方だった。子供は子供なりに正義を知り、陰湿な不義を恥としていた。現在の学校における「いじめ」が改善しないのは、他人を叩く陰湿な気持ちが世に蔓延しているからで、子供は親の鏡であり、親の世代が他人を許す暖かい気持ちがないから、それをまねているだけである。
 五箇条の御誓文は、民主主義のあるべき形、人間社会のあるべき姿を数行の文章で表現している。その普遍的な心を現在に生かすことが現社会に必要である。