江戸期の文化と技術

江戸期の文化と技術

 物事には常にコインの裏表のような二面性を持っている。情報を著しく制限された閉鎖的社会では、画期的な発明や新たな文化は生まれにくい。幕府は文化のあらゆる面に目を光らせて思想統制を行った。幕府を批判し豊臣秀吉(海外雄飛路線)を美化するような言論や出版は禁圧された。しかし庶民はその隙間を掻い潜って様々な作品を発表した。

 例えば「仮名手本忠臣蔵」は幕府に取り潰された赤穂藩の浪人たちが、大石内蔵助良雄をリーダーとして、彼らの失職の原因を作った幕府の重臣・吉良上野介義央を私邸に襲って討ち取った事件(1703年)を題材にしている。この歌舞伎は検閲対策として大石の名前を「大星由良之介」、吉良の名前を「高師直」に変えて上演し大成功を収めた。

 忠臣蔵の中には、幕府に対する庶民の鬱憤晴らしが秘められている。これには、冷戦時代のソ連や東欧で隆盛を極めた政治ジョークに近いものを感じる。江戸時代はこうした歌舞伎や講談、そして落語などが大隆盛であった。大相撲なども人気だった。小説も「東海道中膝栗毛」や「南総里見八犬伝」などが上梓され、絵画の世界で世界に誇れる安藤広重や葛飾北斎を輩出し、俳句の世界では松尾芭蕉や小林一茶が活躍した。しかしながらこれらの文化は、すでに室町時代に完成されたものである。江戸期の文化は、それの焼き直しか発展型に過ぎない。言うまでもなく、厳しく情報を統制された社会ではそうなるのが当然のことであった。

 徳川幕府は技術の進歩にも大きな制約を加えた。民間の鉄砲は猟銃以外は全て取り上げられ、官の倉庫に封印された。これでは機械工学は育たない。国内の交通網は反乱防止のためにわざと整備されずにいた。大きな川には橋が架けられなかったので、通行人は人足に賃金を払って肩車してもらうことで川を渡った。これでは土木工学は育たない。さらに交易船にも統制が入り、国内の海路を行く交易船は、必ず帆柱を一本しか立ててはならず、竜骨を用いたり隔壁構造を設けてはいけなかった。大きなお椀を海に浮かべたような脆弱な船が危険な海路を行き来していたのだ。これは船体を脆弱小型にすることで、海外渡航を防止するのが目的であった。そのため嵐で海難する交易船が続出したが、幕府は見て見ぬ振りをした。これでは、造船技術は育たない。

 高度官僚統制社会というのは、社会の安定のために民間に不利益を強要するもで、このようにして日本は世界の進歩から取り残されてしまった。それは中国や朝鮮も同じであった。農業に国家基盤を置く安定した社会では技術革新や文化のステップアップは起こらないのであろう。それが悪いわけではない。社会にとってはその方が幸せなのかもしれない。しかし外部に強力な競争者がいる場合は、このような状況はむしろ不利に働く。当時、ヨーロッパ諸勢力はますますその野心を明らかにしていたのだから。