石打の刑

 聖書は世界最大のベストセラーである。なぜ聖書が世界で最も読まれているのか、それは聖書を読めば自ずとわかるはずである。聖書にはキリスト教徒でなくても興味深い話が数多く書かれているからである。今回は、ヨハネによる福音書8章に書かれている「石打の刑」の話を紹介しよう。
 旧約聖書のモーセ律法によると、人妻の不倫は相手男性とともに死刑が決まりであった。婚約中の女性も同様で、群衆から石を投げられ殺されることになっていた。これが石打の刑である。
 物語は姦通の現場で捕らえた女性を説教中のキリストの前に連れてきたところから始まる。ユダヤの役人がキリストに次のように尋ねた。「あなたならば、この姦淫した女性をどうしますか」。これは意地の悪い質問だった。
 もしキリストが女性を許すと答えれば、キリストは旧約聖書の戒律を破ることになる。逆に死刑を認めれば、キリストが教える隣人愛に反するだけでなく、当地を支配していたローマの法秩序を無視することになった。いずれを選んでもキリストには不利な立場に追い込まれれるだけで、これはキリストを陥れるための巧妙な罠であった。
 石を手にした群衆が女性を殺そうとキリストの周囲を取り囲んでいた。キリストは、返答に窮し長い沈黙の末に次のように言った。「石を投げる資格のある者だけが石を投げなさい」。このキリストの言葉を聞いた群衆は1人また1人と石を置き、その場から立ち去ってしまった。
 日本人の不倫については、残念ながら正確な統計はない。しかし厚生省人口動態統計によると年間77万人が結婚して、25万人が離婚するとしている。そして司法統計年報は離婚の3割が異性問題が原因と指摘している。既婚者でさえこの数値である。まして婚約者の数値は推して知るべしである。マスコミは著名人の不倫を犯罪のよう報道するが、それ以前のこととして、私たちの多くは石打の刑を受けるべき罪人なのである。
 駅前には自転車が放置され、街のいたるところにはゴミが捨てられている。相手を思いやる気持ちは希薄になり、街行く人たちの人相も悪くなった。犯罪統計によると、裁判で有罪判決をうけた者は約100万人に達したそうである。
 最近の事件を振り返ると、国会議員の不正問題、警察のもみ消し不祥事、企業ぐるみの嘘つき商品、学校の先生のパンツ盗み撮り事件、このようにその犯罪性よりも人間性が、あるいは組織としての倫理性が問われる事件が相次いでいる。そして罪にはモラルが問われているのに、事件が発覚すると罪人は嘘をつき罪を逃れようとする。また運良く逮捕を免れた同類者たちは、自分たちの腐敗を隠すかのように、自分はさも聖人君子の顔をしている。
 さらにこれらの事件が非倫理的に感じられるのは、事件が密告という手段によって発覚していることである。マスコミは内部告発という言葉を使うが、これらは告発ではなく密告である。密告は他人を陥れる快楽と私的な恨みの解消が目的であるから、それは公的な正義に見せかけた私的リンチである。自分の地位を捨てる覚悟で悪を告発する潔癖例などはまれのまたまれである。
 犯人が登場すると、周囲は待ってましたとばかりにバッシングする。しかし時として、泥棒が人に説教するような、売春婦が純愛を語るような違和感を覚える。また精神的な障害を受けたと怒鳴るクレーマーが、それ以上の苦痛を与えていることもまれではない。
 マスコミは犯人を追及するが、しかし追及する者が必ずしも倫理性が高いわけではない。石を投げる資格がないのに、リンチを期待する群衆を扇動しているようにみられることがある。
 このような現象は、市民が自分に欠如している潔癖性と倫理性を他人に求め批判しはけ口を求めているのである。罪人に罪以上の罰を期待し、欲求不満の解消を計っているのである。このような市民に他人を批判する資格などあるはずはない。
 厚生労働省は全国82の特定機能病院の医療事故発生状況をまとめた。そしてこの2年間に計1万5003件の事故が発生し、死亡や重体などの重篤な状態が367件に達したと公表した。日本を代表する特定機能病院で1病院あたり年間100件の医療事故があるとしている。もはや医療事故は特定の人間レベルの問題ではない。道路があれば交通事故が起きるように、医療行為のあるところに医療事故が起きる。このような冷静な認識が必要である。医療現場をバッシングして物事を解決せるのではなく、事故を防止するための医療システムを冷静に構築すべきである。
 私たちの多くは罪人である。それゆえに相手の罪を許す心の優しさと物事を見きわめる冷静な判断が大切である。