松尾芭蕉と団塊の世代

「古池や 蛙飛びこむ水の音」から「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」に至るまで、松尾芭蕉の俳句は名句ばかりである。「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也」。これは誰もが知っている「奥の細道」の序文であるが、描かれた松尾芭蕉の肖像をみると、どう見ても70歳を過ぎた爺さんである。しかし松尾芭蕉が奥の細道の旅に出たのは満43歳のときで、この世を去ったのは48歳のときである。
 この意外な若さに驚くが、それ以上に、雑多なことで悩み続ける私たちが、芭蕉よりも老人であることに愕然とする。芭蕉よりも高齢な自分が、子供や家計のこと、会社や老後のことを心配している。ましてやエロ本や自動車の雑誌を手にしている自分が情けない。あの世で芭蕉に会えたなら、芭蕉は別種の人間を見るように「人生は欲じゃない、与えられた人生は与えられた範囲で使うもの、自然の中に生き無常を知ること」の教えさえ、言いそびれてしまうであろう。
 この芭蕉48歳にて死去の衝撃から、著名人の死亡年齢を調べてみた。「働けど 働けど 我が暮し 楽にならざり じっと手を見る」、この句を書いた石川啄木が借金まみれの極貧生活だったことは有名で、6畳一間の部屋に一家5人で生活していた。「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」、「砂山の 砂に腹這い 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日」などの名句は悲運な詩人の純な気持ちを切実に表している。
 石川啄木は母親、妻と同じ肺結核をわずらい26歳で亡くなっている。極貧と夭折という人生が啄木の文学をより際立たせているが、なぜ啄木は極貧だったのか。石川啄木は小学校の教員、新聞記者で生計を立てていたが、明治の時代とはいえ、当時の小学校の教員、新聞記者がすべて極貧だったわけではない。石川啄木が極貧だったのは女遊びが原因だった。
 石川啄木は教科書に載るような、記念館が建つような人物でありながら、遊郭のナンバーワンを指名し続けたことが極貧の原因である。啄木の死から70年後、彼が書いたローマ字の日記が公になり判明した。日記を預かっていた金田一春彦があまりに赤裸々な描写だったため、公表出来なかったのである。
 しかし写真で見る美男子の啄木に、憧れを抱きながら彼の人間らしさに触れたようで親しみがわく。文才に恵まれ、金銭的に恵まれなかった啄木が、自分の才能の優位性と悲運を自覚しながら女遊びにのめり込んでいたのである。その人間らしい弱さが好きである。女遊びをしながら、じっと手をみる啄木を想像すると思わず微笑んでしまう。そして啄木の妻が、女遊びの啄木以上に、啄木に惚れていたことも、今の恋愛観とは違った夫婦の愛情を感じるのである。
 吉田松陰は明治維新の原動力なった松下村塾をつくったが、安政の大獄に連座して27歳で処刑されている。吉田松陰はアメリカへの出国を企てたが失敗、自首して犯罪人となったが、吉田松陰は高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文など日本の基礎を築いた人たちを育てた。吉田松陰の「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし、故に、夢なき者に成功なし」。「人間はみな なにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない」まさに松陰ゆえの名言である。
 松尾芭蕉、石川啄木、吉田松陰、彼らは当然テレビもパソコンも携帯もない時代に生きた。いっぽう現在の団塊の世代も、彼らと同じ生活をしていた。団塊の世代は戦後の極貧生活を知り、学生時代は受験戦争に巻き込まれ、大学では学生運動でヘルメットをかぶり、就職したら猛烈社員となり、バブルとバブル崩壊を体験している。そして住宅ローンを抱え、リストラに怯えながら、団塊の世代もすでに年金生活である。
 昭和22年前後に生まれた団塊の世代は、芭蕉より20歳は年上である。これからどのような人生を送るのか。ゲーテのように80歳で恋をするのか、社会正義のためヘルメットをかぶり直すのか、人生の評価は自分が決めるべきであるが、せめて先輩たちに笑われないような人生を送りたいものである。