情と法律

 妻が腹痛を起こし、胆石の診断で大学病院に入院となった。もちろん私の誤診であったが、妻はもともと私の診断能力を信じていないことが幸いした。近医で超音波検査を受け、手術のため某大学病院に入院、手術は無事に終わった。
 手術翌日のことである。見舞いの帰り、その日は冷たい雨が降っていた。タクシー乗り場にはすでに3人の老婆が闇夜に立っていて、私は4番目だった。そしてやっとタクシーが来たと思ったら、後ろにいた若者集団がタクシーに割り込んできた。多分、病院の職員なのであろう。彼らは電話でタクシーを呼び出していたのである。このタクシー乗り場での「呼び出し割り込み」が3回続き、ついに私の脳ミソはブチ切れた。
 タクシーに乗ろうとする若者を引きずり降ろすと、「お前ら、何のつもりだ。雨に震えるあの婆さんたちが見えないのか」。多分、血圧は200以上、相当の迫力だったのだろう。おびえた若者はタクシーを譲ってくれた。私は3人の老婆を後部座席に乗せ駅まで送ることにした。
 はたして私の行動は間違っていたのだろうか。法的には間違いであろう。もし訴えられれば、もしケンカになっていたら、私は罪人、職場はクビになっていただろう。
 確かに法律は遵守するべきもので、それによって我が国は成り立っている。しかし私は法律よりも人情のを優先すべきと思っている。もちろん法のない街や人情のない街に住みたいとは思わない。どちらも生活に大切だと思うからであるが、問題が生じた場合は人情が先で、次に法律だと思う。
 しかし最近「違法だからだめ」とする論理がはびこっている。法律の前に社会常識を考えて欲しい。法律を作る政治家は自分たちに有利な法律を作り、彼らの罰則はきわめて軽い。いっぽうパンツの隠し撮りなどは、罪は軽いのに罰則は重い。
 電車の痴漢は卑劣な犯罪であるが、軽犯罪なのに、冤罪であってもその男性は拘留され、家族から離縁され、社会的に抹殺される。いっぽうの被害者女性には金銭目当ての常習犯がいる。
 訴えるのは自由であり、警察に捕まれば、冤罪であっても犯罪者扱いである。もちろん裁判には情状酌量の余地はあるが、裁判所には、とんでもない世間知らずの裁判官がいる。裁判官がバカな判決を下しても、罷免されることはない。
 医療において、医師が瞬時の判断を間違えば、悪意がなくても訴えられ、法的罰則を受け、医師免許は剥奪され、職場から追い出される。しかし最近医学的に明らかにおかしい判決が目に付くようになった。眼科医が挿管ができずに訴えられたケース。極めて稀な手術の合併症を説明していなかったケース。入院中の病状の悪化を訴えるケース。これらは医療の不確実性を知らず、医師に求める医療水準があまりにも高すぎ、医療側に求める説明義務の範囲が広すぎ、何らかの医療行為を病状の結果と無理に結びつけ、医学的に誤った根拠を医師の過失と断じるからである。もし訴え側の常套句である、「真実を知りたい」ならば、医療事故研究所を設立させ賠償金を全額寄付させるべきである。
 いっぽう数年もかけて審議し間違った判決を下した裁判官はお咎めなしである。裁判所には簡易裁判所、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所があり、不服があれば上告することができる。この上告システムが、どうせ上級裁判所が正しい判断をするだろうと、下級裁判官は訴える側に有利な判決に偏る傾向がある。下級裁判所の判決と上級裁判所の判決が違う場合、その回数により裁判官を罷免すべきである。大体において裁判官のあの黒いマントは何なのか、威厳を黒マントで誤魔化しているのだろうが、黒は悪を象徴する色である。
 世の中、法律よりは人情である。もし批判する者がいれば、悪法でも法律、バカな裁判官はバカなだけ、と堂々としてればよい。法律よりは自分の良心に従うべきである。法律よりは恥を知ることである。あの3人の老婆もきっと私の行動に小さな声援を送ってくれたことだろう。