恋愛転覆罪

 「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」、この赤とんぼの歌詞は日本人なら誰でも知っていることだろう。問題は2番の歌詞、「十五で姐や(ねえや)は 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた」である。
 また昭和50年頃までは、「女性の賞味期限はクリスマスケーキ」と言われていた。クリスマスケーキは24日のクリスマスイブまでに売られ、25日になれば売れ残たからで、つまり24歳を過ぎた女性は焦って相手を探したものだが、現在では「40前後のアラフォーと不妊治療」が流行語になっている。しかも結婚した3組のうち1組が離婚すると、暇な厚労省が発表している。
 なぜこうなっのか。今回は、日本の恋愛感の時代推移を考察してみる。
 昭和50年頃の恋愛は、小説を読み、映画を見て、女性の神秘性を勝手に想像し、誰もが未知の世界を知りたいと思っていた。平凡パンチやプレイボーイを隠れて読み、黒電話の前で胸をときめかせ、指を震わせながら、結局親が電話に出たらどうしようと思い、電話もできなかった。恋愛は苦しく、狂おしいほどであった。下心を隠しながら、手紙、言葉、表情によって自分の愛の崇高さを相手に伝えるのに必死だった。
 未知の女性に対し、未知ゆえに心がひかれ、考えることは女性のことばかりであった。昭和の終わり頃に、ビデオが登場するが、アダルトビデオはレンタルショップで借りるほかなく、年齢制限があり、のれんをくぐる勇気が必要だった。しかもアダルトビデオといいながら未知の領域に踏み込みこんでいなかったので、女性への憧れは、むしろつのるばかりであった。
 昭和の終わり頃から恋愛至上主義の時代に入り、自由恋愛の機運が高まり、性、恋愛、結婚の一体化が崩れ、性と結婚を切り離す解放感が若者の間で浸透してきた。
 時代は変わり、平成元生まれの者はすでに28歳になり、青春時代は平成生まれの若者だけになってしまった。彼らは幼い頃から携帯電話やメールが当たり前で、好きな相手に簡単に連絡がとれるようになったが、その利便性が思春期のわくわく感を消失させている。さらに「恋愛のときめきや憧れ、ロマンや神秘性」をも消し去ったのである。
 特にこの10年ほど前から、気が狂うばかりに恋愛感が変わってしまった。変わったというよりも消滅した。それはアダルトサイトが登場し、インターネットでいきなり女性の裸体が出てきて、画像や動画がパソコン経由で家庭内に侵入してきたからである。まさに女性の神秘は消失し、裸は子供にもさらされるようになった。
 かつてのセックスは無言のタブーであり、タブーゆえに知ろうとした。しかし初めからすべてを見せつけられれば興味は削がれ、行為中の画像や動画は、男女の崇高な恋愛感を消滅させ、動物の交尾と同じレベルにした。若者は夢を奪われ、セックスに嫌悪する者も増えた。恋愛なんてこんなものと、セックスや恋愛の幻想は消え去り、男女ともにロマンチックな現実から非現実的なゲームに移動した。セックスは単なる行為になり、感覚や感情、好き嫌いの精神的な恋愛は、若者から夢を奪った。
 リアルな恋愛は、生身の男女による精神的なぶつかり合いである。そのため恋愛から人生を学ぶことも多く、嫉妬、情熱、失望、羞恥心、闘争心などあらゆる感情を恋愛は含んでいた。思いどおりにいかないのが人生であることを教えてくれたのも恋愛であった。
 若者は面倒で疲れやすいリアルな恋愛から、手軽で気楽なバーシャル恋愛へ移動したが、バーチャルはバーチャルであって、リアルな喜びや悲しみを経験することはできない。
 恋愛ゲームは疑似恋愛で、可愛い女の子をどうやって口説くのか、ただのハンティングゲームである。擬似彼女に「いってらっしゃい」、「ただいま」と挨拶され、擬似彼女は喜んだり顔を赤らめて、決して自分を裏切らない。リアルな恋愛は相手に気を使う割には、失恋の痛手に終わる場合が多い。しかしバーチャルは気を使わず、軽くリセットボタンを押せばよいのである。
 政府は出生率の低下を嘆き、的外れな対策ばかりであるが、それはこの恋愛のバーチャル化を知らないからである。かつて結婚する理由は、貧乏解消のためであった。一人より二人の方が生活費がかからなかったからである。つまり出生率の低下は、マスコミが叫ぶ貧困だけではなく、自分の趣味や時間を優先させているためで、相手に気を使う重みや子育ての努力を避けているためである。
 コンドームの出荷数が2割減少している。この事実を評論家は自慢げに「男性の草食化、女性の独立化、少子化」と分析するが、しかしコンドーム出荷数の減少は薬害エイズで若者にコンドーム装着の意識が高まった時期からであり、ネット環境が高まった時期とも一致しているのである。つまり最も大きな要因は異性を必要としない情報過多にある。PCのネット接続によるアダルトサイトの普及が、コンドームを必要としないバーシャル恋愛に走らせたのである。
 いまの若者たちはどこでもアダルトサイトを見れるので、「あの子とセックスしたいから付き合いたい」とする動機は生まれずに、当然、性欲が恋愛に直結する機会が減ってしまった。かつては、性と恋愛、そして結婚は三位一体で、切っても切れない関係にあった。「恋愛は、結婚相手を選ぶ正当な方法」で、性は結婚した者同士でのみ行われていた。そのため、セックスをしたいなら、彼女を食事にさそい、デートを重ね、結婚を告白してからとの順番があった。
 ところが性と恋愛の自由化が進み、情報化社会の進行により、性のセルフ化やコンビニ化が加速し、愛なしにひとりで気軽に性欲を処理できるようになった。この環境が若者を恋愛から遠ざけ、ひとりの世界に籠もらしてしまった。女性用のAVもあり、リアルな性が男性への嫌悪感となった。
 かつての恋愛は二人だけの秘められたものだった。男性はもてるために自分を磨き、品性を高め、相手を守る勇気を持った。女性はしとやかな大和撫子を目指した。この概念を壊したのがインターネットによる情報過多である。
 親たちは子供たちのこの感覚を知らない。親たちは「和をもって尊し」の感覚であるが、子供たちは「輪をもって尊し」で、輪から外されることを極端に恐れ、輪の中に親を入れることはない。SNSによる監視殺人事件が多発して新聞を賑わしているが、この輪の感覚を大人は知らないので的外れのコメントしか出来ない。政治家は個人情報の正義をかざしているが、もし厚労省が離婚率を嘆くなら、文科省が教育を正したいなら、携帯電話の暗証番号をなくすことである。インターネットの情報過多は国家転覆罪以上の恋愛転覆罪、人間性転覆罪に価する。
 あなたを除き、夫婦喧嘩以上に、恋愛は犬も喰わない時代になっている。