バッカスの神

 私は酒を好まないが、バッカスの神(酒の神)が私を愛しているのだから、愛を受け入れるのが男であると、涙心を笑顔に変えて飲んでいる。しかしこの私以上にバッカスの神に愛され続けた人物がいる。それは横山大観である。横山大観の名を知らぬ者はいないだろうが、大観の絵を観た者は少ないであろう。だが一度でも観ればその素晴らしさに驚くに違いない。
 横山大観は日本画の近代化を行い、日本で初めて「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる独特の描法を確立した。朦朧体とは師匠の岡倉天心に「空気を描く工夫はないか」と問われて考えついた描法である。大観は「絵は心で描くもの。形あるものを通して、物の背後にある霊性を表現するもの」と客観的写実性を否定した。 
岡倉天心が東京美術学校校長を失脚すると、大観はこれに抗議して助教授を辞し、新たな画風の研究を重ねた。線描を抑えた絵画を次々に発表したが、権威主義の画壇から猛烈な批判を浴び、国内での活動に行き詰まり海外で展覧会を開く。この欧米での高い評価が逆輸入され彼の画風が評価されたのである。以後、大観は日本画壇の重鎮として第1回文化勲章を受章している。
 大観は死ぬまで創作力は衰えなかったが、その源泉は「酔心」であった。若い頃は猪口2 杯で真っ赤になる下戸であったが、師の岡倉天心が酒豪であり「酒の一升くらい飲めずにどうする」と大観を叱咤し、そのため大観は飲んでは吐き、飲んでは吐きを繰り返し、いつの間にか1日一升二升三升が当たり前の生活になった。大観にとって醉心は主食であり「酒は米のジュース」と言って米を口にせず、酒と肴(野菜)だけで生きていた。
大観が飲む酒の銘柄は広島の「酔心」と決まっていた。大観は醉心の社長・山根薫と知り合い「酒づくりも、絵を描くのも同じ芸術」と言うと、山根薫は「甘口とか辛口とかいうが、うちはうま口」と言い、ふたりは意気投合して山根は一生分の酔心を約束し、大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、この約束は大観が永眠するまで続いた。
 昭和20年3月10日の大空襲で東京は焼け野原になり、酔心の東京支店も焼けてしまった。途方にくれた大観は支店が焼けても広島には本店があると、本店に電話するがつながらない。大観は東急グループの創業者で元運輸通信大臣の五島慶太を呼び出すと、大至急、広島から「酔心」を運送することを依頼した。五島は関係者に口止めして「酔心」を広島県三原市駅長から東京駅長への手荷物として優先的に運ばせた。五島は自ら大観に「酔心」を届けると「半分は差し上げるが、残り半分は手数料としていただく」と言った。大観は「手数料は酒代から天引きすると言ったはず。酒代は無料だから手数料も取れないはず」と言うと、五島は「現ナマで取れない場合は、現物でいただく」と言い返した。大観は激怒し「これがお前のやり方か。酒は嗜好品じゃない、数十年に渡って俺の命をつないできた主食だ。手数料が五割とはひどすぎる」。しかし五島も負けずに「私は不可能を可能にしたのだから、これでも安過ぎるぐらい」と言い返した。これにはさすがの大観も地団駄踏んで引き下がる他なかった。
 アルコール中毒にもならず、大病もせずに91歳の大観は寿命を全うした。岡倉天心の影響を受けた大観は「世界に誇れる日本の画家」を常に求め、国粋主義的な面を持つが、反骨の心意気を持ち合わせていた。
 大観が87歳のとき、大観が危篤状態になり、各界の重鎮たちが病床に集まり、死に水をとろうとした。その時、大観の弟子が「大観に死に水は似合わない、死に酒にしよう」と提案、お別れに酔心を口に注ぐと、大観は蘇生し生き返ったのである。側にいた医師は「酒を飲むとドキドキするから、酒は強心剤なのだ」と自信ありげにあきれていた。その翌日には病状は快方に向かい、数日後には普段の生活に戻った。
 横山大観は死ぬ間際まで酒豪だった。薬を飲む時も水ではなく酒だった。大観は昭和33年に91歳で亡くなるが、大観の脳は現在もアルコール漬けにされ東京大学医学部に眠っている。横山大観は永遠にバッカスの神に愛され続けているのである。
ちなみに私はバッカスの神に愛されていると自認しているが、妻はバッカの神に愛されていると思い込んでいる。