徳川家康

徳川家康

 徳川家康(松平元康)は戦国時代の武将で、日本史上屈指の有名人物である。織田信長、豊臣秀吉とともに東海地方に生まれた三大英雄のひとりで、織田信長は「うつけ」と呼ばれながら桶狭間で大勝利をおさめ(家康の8歳年上)、豊臣秀吉は百姓の出ながら織田信長の部将として大出世した(家康の5歳年上)。それに比べると徳川家康は地味であり人気はやや劣る面がある。

 しかし徳川家康は子どもの頃から人質になり、三河(愛知県東部)の小領主から身を起こし、織田信長と同盟を結んで勢力を伸ばし、武田信玄に苦戦した後、豊臣秀吉に臣従し、このように数多くの苦難を経験して最終的に天下を制している。家康家康は264年に渡る長期安定政権である平和な江戸時代を築いた。

 織田信長と豊臣秀吉が日本の戦乱を終焉させ、徳川家康がその仕上げとして江戸幕府を創設したが、徳川家康の人生は波乱に満ちている。まず織田信長の台頭と今川家の衰退のはざまで独立を果たし、織田信長と清洲同盟を結ぶ。すると今度は織田信長から圧迫を受け、信長から嫡男・信長に謀反の疑いを着せられ、嫡男と正妻を自らが処刑する悲劇を体験している。さらに武田信玄の猛攻を必死にしのぎ、織田信長が本能寺で自害すると、豊臣秀吉と対立しながらも臣従し、その後、日本を支配する体制を確立した。

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」という作者不明の風刺落首があるが、これは織田信長が餅をついて、ついたその餅を羽柴(豊臣)秀吉がのし、出来立ての餅を何もしなかった徳川家康が座ったまま食べたという意味で、この様子を江戸時代の歌川芳虎が描いて出版している。

 この落車は信長が苦労して乱世の世の天下統一を進め、それを受け継いだ秀吉が天下統一を完成させ、家康が何の苦労もなくそれを引き継いだ印象を持たせるが、しかしこれは家康を酷評したもので、この絵を描いた歌川芳虎と版元は処罰されている。

 家康は簡単に天下を手に入れた訳ではない。幼少時から人一倍苦労をして耐え忍んできたのである。

 家康の人生は、家康の家訓にあるように「人生は重荷を背負って遠い道を行くようなもので、急いではいけない。不自由が当たり前と思えば不満は生じない。心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出し、我慢することで、怒りは敵と思え。勝つことばかり知って、負けることを知らないことは危険で、また自分の行動には常に反省し、人の責任を攻めてはいけない。足りないほうが、やり過ぎるより優れている」と、その人生を集約している。家康はまさに戦国時代の苦労人であった。

  豊臣秀吉は下克上の申し子であるが、家康は下克上を防止して固定的な秩序を求めた。天下人となった家康は抜本的な構造改革を行い、家康が理想とした「優秀な官僚が人民を支配統制する保守的で固定的な社会」である江戸時代を築いた。秀吉も同様の考えで検地と刀狩りをおこなったが、それは「武士が民衆を支配統制する社会」を作る点では同じであったが、秀吉は一族の地位を守るために「下克上」を禁圧したが、家康は徳川家を守るための制度をつくりながら同時に平和な時代を作った。家康は応仁の乱から100年以上続いた戦乱の戦国時代、安土桃山時代に終止符を打ち、264年間続く江戸時代の礎をつくったのである。

 

徳川家康の生まれ 

 徳川家康は松平家を祖先に持ち、戦国乱世のたけなわの1543年に松平広忠の嫡男として生まれている。松平氏は家康の祖父・清康の代には勢力を伸ばして西三河を制したことがあったが、その後はふるわず衰退していた。当時の松平家は織田家と今川家に挟まれて圧迫を受ける三河国の小大名(豪族)という最悪の環境のなかで育った。
 小勢力の松平家は、東の今川義元、西の織田信秀に挟まれ、圧迫を受けながら領地を失いかねない情勢になっていた。この滅亡の危機を打開するために父の松平広忠は今川義元の支配下に入って庇護を受けることにし、今川氏について織田氏と対決していた。

 そのため家康は駿府に人質として今川氏に差し出されることになる。わずか6歳で竹千代と呼ばれていた頃である。

 幼少期の家康(竹千代)は、生家から引き離され、織田家と今川家に順繰りに人質に取られるという悲運を経験している。このように戦国時代に小勢力の小大名に生まれたばかりに家康は苦労を重ねることになる。

 

 幼年時代から初陣まで
 徳川家康は1542年に三河国の岡崎城(愛知県岡崎)で松平広忠の嫡男として生まれ、母は水野忠政の娘で正室であった。しかし3歳のころ母の実家の水野信元が尾張の織田氏と同盟したため、今川氏の庇護を受けていた父の松平広忠は母と離縁し竹千代は幼くして母と生き別れとなっている。

 また父・広忠は駿河国の今川氏に従属していたため、嫡男の家康は人質として今川氏の駿府へ送られることになる。家康の護送を三河の土豪・戸田康光に任さるが、駿府への移動中に戸田康光が裏切り、家康の身柄は奪われ尾張国の織田氏へと送られ織田氏の人質として尾張に留められることになる。

 織田信秀は、父・広忠に家康の身柄を受け取ると、織田家に従属するように要求するが、広忠は子を取られたにも関わらずこれを拒否して今川義元への従属姿勢を堅持した。家康は尾張にとどめ置かれ、この頃に織田信秀の嫡男・織田信長と知り合ったとされている。

 こうして家康の人質生活が始まるが、人質とはいえ縄で縛られて閉じ込められる生活ではなく一種の客人として扱われたのだが、それでも不自由な暮らしに違いはなかった。やがて、織田信秀の庶子が今川氏の人質になったことから、今川氏と織田氏の間で人質交換の話がまとまり、今度は今川氏のもとへ送られ、今川義元の岡崎城で今川氏の城代に監視されながら人質として10年近くの歳月を過ごすことになる。松平氏が今川氏と織田氏に挟まれた緩衝材のような小勢力だったためである。

父・松平広忠の死

 しかし今川氏の人質になってから2年後に、父・松平広忠が家臣に暗殺される事件が起きた。父の広忠の死にも関わらず、家康はそのまま駿河に置かれ、松平氏の領地と本拠・岡崎城は今川氏の代官が治めることになった。こうして松平氏はその勢力を今川氏に完全に取り込まれていった。

駿河で成長する

 今川義元は家康を駿河に置き、今川氏に属する一武将として育て、松平衆を今川軍の尖兵として用いた。このため家康は帰郷の時以外は駿河にとどめ置かれ成長していゆく。岡崎城に戻った際には代官が本丸にいて入ることができず二の丸で宿泊している。三河は今川氏の植民地扱いになり、家康が領地に戻った際には今川氏に搾り取られる家臣たちの経済的な苦境を知り、家康は質素倹約に励むようになった。この節約は一生続くことになり、家康は後に莫大な財産を子孫たちに残すことになる。

 松平氏は直ちに継承者を置き家を立て直すはずだったが、肝心の家康が人質に取られていて叶わぬことだった。松平の家臣団は今川氏に自由に使われ、戦場でたびたび苛烈な役割を背負わされた。このように家康は幼い頃から織田家、今川家に人質として預けられる厳しい幼年時代を過ごしている。まさに戦国という時代の小勢力の悲哀である。家康は時代に翻弄されるように幼少期を送ったのである。

 

元服して初陣を飾る

 1555年に家康は13才で元服(成人)し、義元から一字を拝領して松平元信と名のった。また義元の姪の築山殿(瀬名姫)と結婚し、今川氏と縁戚関係になっている。しばらくすると名を元康に変更しているが、これは勇将として名高い祖父の清康にあやかったものである。こうしてしばらくは「松平元康」の名で過ごすことになる。

 1558年には今川氏から織田氏に通じていた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻め落とし初陣を飾り、城下を焼き払うなどの戦功を立て、義元から腰刀ち旧領の一部を取り戻している。家康は16才であったが、ここから73才まで長い戦いの人生を過ごす。

  1567年に勅許を得て徳川氏に改名しているが、松平元信時代からは次郎三郎の通称で源氏を称していた。徳川家康は次に藤原氏を名乗るが、このように名前を変えるのは武士が血筋を重視していた名残である。

 

桶狭間の戦いから三河国平定
 1560年、今川義元は尾張への本格的な侵攻を開始する。駿河・遠江・三河の3ヶ国の兵を集め、2万5千という大軍を編成し5月に尾張に侵入した。この時に家康は松平衆を率いて先鋒を務めた。

 先鋒は強い武将に任される役割で、それだけ若い家康の武勇が評価されていたのであるが、同時に先鋒役は損耗が激しいため、松平衆にその負担を押し付けたともいえる。家康は今川氏の先鋒として、今川方の大高城の兵糧補給を命じられが、織田軍が大高城を包囲しており、兵糧を運ぶには包囲を突破する必要があった。そこで家康は鷲津砦と丸根砦の間を突破して、兵糧を大高城に送り込み、翌日には丸根の砦を攻め落とした。家康は大高城で義元の本隊が合流するのを待ち受けた。

 しかし大高城に入った家康に、思わぬ知らせが届く。義元の本隊が織田信長に襲撃され、義元が戦死してしまったという知らせだった。
 今川軍の2万5千に対し、織田軍は5千で5倍もの兵力差があった。このため、総大将の義元の戦死を予測したものは誰もいなかった。しかし桶狭間の義元の本隊に対し豪雨に乗じて接近した信長が2千の精兵で強襲をしかけ、義元とその側近の武将を討ち取ったのである。義元は大軍を率いていたにも関わらず、信長の一か八かの奇襲作戦に敗れたことになる。

 織田信長によって行われた奇襲戦(桶狭間の戦い)で、今川家の当主今川義元が討たれると、敗れた今川軍はすぐさま三河を離れて駿河に引き返した。家康は大高城の兵糧守備にあたっていたが、総大将の今川義元が殺されてしまい孤立状態になった。撤退するか織田軍に挑むか、家康は迷うが大高城から撤退を決意すると、松平家の菩提寺である大樹寺で自害しようとした。

 父のいない家康にとって、名前の一字をもらい、結婚相手を世話してもらっていた今川義元は支配者以上の存在だったのかもしれない。家康はうろたえてしまった。このように家康は急変事への対応にうろたえることが多い。この時は住職に諭されて考えを改めさせられ、独立した武将として歩んでいくことになる。

 岡崎城近くでしばらく様子を見ていると、今川軍が岡崎城から撤退していることを知る。家康はこれを知ると、混乱している今川軍の隙をついて懐かしい岡崎城へと帰った。岡崎城は家康が人質となってから12年ほど経っていたが、今川軍が放棄した岡崎城に入ると、松平氏の立て直しを開始し独自の軍事行動をとり今川氏からの独立を果たすことになる。

今川氏真との敵対

 岡崎城を取り戻した家康は、今川義元の後を継いだ今川氏真に対し再度の尾張侵攻を進言している。織田信長を倒して義元の仇討ちをするようにと促しますが、今川氏真は動かなかった。三河の隣国の遠江は、桶狭間の戦いで当主たちが多く戦死しており激しい動揺があった。このような情勢で、家康は今川氏からの完全な独立を図るようになる。

 1561年には東三河にある今川方の牛久保城を攻撃し離脱の意志を明らかにした。今川氏真は家康の離反に激怒するが、駿河と三河の間にある遠江の情勢が不安定なため、容易に三河に介入できなかった。家康はこの状況からは西三河の諸豪族の平定に力を注ぎ、着実に勢力を拡大していった。当時の三河は今川氏の勢力圏にあったが、義元を失った今川氏の力は急速に弱っており、家康が三河の平定に突き進む勢いを止めることはできなかった。1561年、家康は今川方の牛久保城を攻撃し、反今川の立場を明確にして今川氏との絶縁をはたした。

 今川氏の背後には、今川氏の盟友・武田信玄・北条氏康が控えていたが、関東管領上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵への対応に追われ武田・北条からの兵は来ないと判断したのである。 

 徳川家康は将軍足利義輝に早道馬を献上して室町幕府との関係を築き、幕府に領主としての地位を認めさせた。これは今川義元の後を継いだ今川氏真にとって痛恨の事態であったた。徳川家康は藤波畷の戦いに勝利すると西三河の諸城を攻略した。

 1562年には今川氏真と断交し、尾張の織田信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。松平氏と織田氏は長年に渡って西三河をめぐって争っていて、家康の独立後も小競り合いが続いていた。しかし西の織田氏と東の今川氏の双方と争い続けるのは得策でないと家康は判断し、母の兄・水野信元の仲介によって信長と和解したのである。

 この和解は尾張の清州城で会見が行われたことから、「清洲同盟」と呼ばれている。この和睦によって家康は三河の平定に集中できるようになり、信長は北の美濃の攻略に集中できるようになった。清洲同盟は相互に利益のある同盟で、互いにその目的を果たした後も堅持され、信長が死を迎える時まで同盟は継続される。家康は今川義元を討った若き織田信長につくことで西側の不安を断ちきると、地元の三河を平定し、東の今川氏をうかがうようになった。この時代の同盟は、短期間で破られることも珍しくなかったが、20年にも渡って信長との関係を守ったことで「家康は律儀である」という評判を得ることになった。また水野氏との関係が改善されたことから、この頃に母の於大が家康のところに戻ってきている。家康は独立を果たし盟友を得て母が戻っるという人生の大きな転機を迎えることになる。

改名

 翌1563年、名前を元康から家康に改名した。家康は人質生活から「三河の平定」まで何度か改名している。幼名は竹千代で、今川氏のもとで元服を迎えた時は元信で、元信は今川義元の元の字を貰ったのであるが、その後、元康に改め、信長と同盟を結んだ頃には、元の字を捨てて家康と改めている。これは今川氏との関係を絶ったこと鮮明に表現するための措置であった。さらに家名も、三河を平定した時に松平から徳川へと改め、徳川家康という名が歴史に登場したのである。家康が20代半ばの頃のことである。

 三河を統一した家康は、朝廷に三河守の官位への叙任を要請した。しかし朝廷は源氏である松平氏が三河守になった前例はないとしてこれを断わってきている。家康は公家の近衛前久(さきひさ)に相談すると、それならば「得川」を名のってはどうかと勧められた。得川氏は新田源氏の支族で一時は藤原氏を名のっていたことがあった。松平氏はかつて、この得川氏の支族である世良田氏を名のっていたので、得川氏を名のることは可能であった。得川氏になれば藤原氏の一族になり、藤原氏は三河守に就任したことがあるので家康が三河守になるのも問題はない、ということになる。前例踏襲主義の朝廷から官位をもらうにはこのような手順が必要だったのである。
 家康は「得川」をより良い意味を持つ「徳川」の文字に変え、「徳川家康」と名のりを変えました。これによって所属する氏の障害がなくなり三河守に就任する。また他の松平氏たちはそのままにして家格に差をつけ、これによって三河における徳川家康の特権的な立場を示している。軍制の改革と合わせ、このあたりの家康の家中統制のやり方は見事なもので、安定した体制構築に長けた政治家としての資質をのぞかせています。

 

三河の統一

三河の一向一揆
 三河の統一で家康は一向一揆の反抗を受けることになる。一向一揆は浄土真宗の信者集団で領主への反抗勢力となる。一向一揆はいくつかの地域や国を支配するほどに強勢になる。家康の家臣が浄土真宗の本證寺(ほんしょうじ)に侵入した無法者を捕縛した際に、守護不入という特権が侵害されたと訴えられる。守護不入とは寺院などに武家が立ち入って権限を行使できない治外法権的特権のことで、本證寺の呼びかけで一向宗の宗徒たちが応えて立ち上がり、反家康を掲げる勢力が三河に誕生する。

 これに家康の三河支配の拡大に反感を持つ豪族たちが加わり、松平氏の家中を2つに割る大規模な闘争に発展した。この時に本多正信や夏目吉信ら一向宗の信徒の家臣たちも反乱に加わり「犬のように忠実」とまで言われた三河武士たちを敵に回したことで家康は窮地に陥いる。もともと家康は一向宗の信徒であった武士団を取り込んで勢力を拡大した背景があったため、武士としての忠誠を大事にするのか、信仰する宗教を大事にするのかで家臣たちの対応が割れることになった。
一揆の鎮圧
 今川氏に味方する勢力も加わり一揆勢はさらに力を増し、一時は岡崎城にまで攻め込むほどだった。しかし1564年の決戦に勝利したことで、戦況は家康側の有利に傾き、和議を行い一揆を解体さる。家康は反抗した家臣たちに帰参を許す寛大な処置をとったため、その多くは一揆を離脱して家康の元に戻ってきた。

 こうして一揆を鎮めると家康は、一向宗の寺院に改宗を迫り、拒んだ寺院を破却して三河での一向宗の布教を禁じた。この動きによって三河の反抗勢力は撲滅し、最終的には家康が三河支配を確固たるものにする。この一向一揆は家康にとってかなり危機にみまわれたことから、家康の三大危機のひとつとされている。
 一向一揆の撃破によって西三河の勢力を固めた家康は、東三河にも進出し戸田氏などの諸豪族を取り込み、今川氏真の討伐軍を撃退して支配権を確立し、1566年までに三河の統一に成功しました。こうして家康は独立してから6年で一国の主となり、祖父の清康を超える松平氏の最大勢力を築く。この時の家康は24才であり、若くして戦国大名としての優れた手腕を持っていたことがうかがえます。
軍制の改革
 三河を統一した家康は家臣団の再編に着手する。東三河と西三河に家臣団を振り分け、東三河衆を酒井忠次に率いさせ、西三河衆を石川数正に率いさせ、両者は家臣団の筆頭として家康の活動を補佐していくことになる。家康は同時に「旗本先手役(さきてやく)」という親衛隊を編成し、これを直属の強力な軍団として育成してゆく。先手隊に所属した武将には、本多忠勝や榊原康政、井伊直政らで、後に「家康の四天王」と呼ばれる精強な指揮官たちが含まれている。

 先手役の費用はすべて家康持ちで、この直属の強大な軍団を従えることで、家康は自身の権力を強化した。土地持ちの武将たちは半ば独立勢力なので、潜在的には家康に反抗する可能性があり、直属の強力な部隊を抱えておくことは大名にとっては重要な施策でした。これは織田信長が「馬廻」という親衛隊を組織していたのをまねたもので、費用の一部は信長の援助したとの説あり、信長との関係がこの頃にはかなり深まっていた。信長は家康を自分の弟分として扱い、何かと気をつかった。信長の配慮には戦闘力が高い三河の武士団の力を借り受けたいこともあり、家康も信長を頼りにするようになり、三河武士の力をもって信長の覇権に協力くしていくことになる。

 このように家臣の反乱や一向一揆などの苦難はあったものの、東三河の土豪を抱き込み、軍勢を東へ進め敵対勢力を排除し、家康は数年後には先祖伝来の三河国を統一を果し、次はいよいよ今川氏の本丸とも言える駿河・遠江(静岡県)への侵攻が待っていた。

 

遠江今川領への侵攻
 今川氏真を攻めにあたって、家康と手を結んだのは甲斐の武田信玄であった。今川氏は今川義元亡き後は見る影もなく落ち込み、その東に大きな勢力を持つ武田信玄がついに今川領に侵攻を開始した。それに協力する形で西の徳川家康も今川氏を攻め立てることになる。今川領の分割に関して徳川家康は、大井川を境に西の遠江国を徳川領、東の駿河国を武田領とする協定を結んだ。

 武田信玄が駿河の今川領へ侵攻を始めると、家康は駿河に侵攻を開始し、今川氏真は逃げのび、今川領は武田氏と徳川氏の手に落ち、駿府城から掛川城に本拠を移した今川氏真は開城勧告に応じ大名としての今川家は消滅した。徳川家康は遠江国を支配下に置いた。

 しかし武田氏が駿河に侵攻すると、今川氏の同盟国だった北条氏と武田氏が対立し、さらに武田の家臣・秋山虎繁(信友)が信濃国から遠江国を侵攻してきたため、徳川家康と武田信玄の同盟に摩擦が生じ、家康は武田との同盟から離脱した。武田信玄は織田信長と良好な関係を持っていたので、信玄は家康へ懐柔を図るが、家康は武田信玄と手切を変えずに武田信玄と敵対関係になった。さらに同じ頃、織田信長は朝倉・浅井氏と戦うが、この戦いにも家康は全面協力することになる。

 

姉川の戦い

 1568年、織田信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと家康も信長へ援軍を派遣し浜松城を築いて岡崎から移った。かつて敵対していた今川氏真を浜松城に迎ええると、朝倉義景・浅井長政の連合軍との戦い、いわゆる「姉川の戦い」に参戦して織田信長を助けている。

 足利義昭が織田信長を管領に任命し、家康も左京大夫に任命されるが、信長が辞退したため家康も辞退した。1570年に義昭から家康に送られた御内書の宛名が「松平蔵人」になっているが、これは義昭が家康に不満を抱いていたからである。

 後年、足利義昭が信長と対立すると、義昭は家康への書を「徳川三河守」と変えて送っている。足利義昭が信長包囲網を築こうとして、家康に副将軍への就任を要請しているが、家康はこれを黙殺して織田信長との同盟関係を守った。

 

武田信玄との戦い
 信長を支援しながら、家康は相模(神奈川県)の北条氏康と連携し、東西から攻撃を行って駿河の奪還を図る。

 今川領の分割について、家康は大井川を徳川領とし東を武田領とする協定を信玄と結んでいた。しかし武田家臣・秋山虎繁が協定を破り遠江国へ侵攻したため、家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。しかし1571年に北条氏康が死去すると、その子の氏政は信玄との同盟を復活させ家康の敵となる。東からの圧迫がなくなった信玄は、駿河の支配を確立しさらに強勢になってきた。このように東海方面では家康が不利な立場に置かれ、武田信玄と完全に敵対することになる。武田信玄は北条氏との甲相同盟を回復させ、徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始した。

 この頃の武田信玄はすでに強大な力を有しており天下を意識し、その第一歩として京都を目指して兵を動かした。家康の領地は上洛の途上にあった。ここで家康が決断したのは「武田信玄との全面対立」だった。
 武田信玄と織田信長はかつては友好関係にあったが、信長と反目した将軍・義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合し、信長包囲網に武田信玄も加わり挙兵したのである。

 将軍・足利義昭は各地の大名たちに信長討伐を要請する書状を送ったが、これは家康の元にも届き、副将軍の地位を与えるかわりに信長との同盟を打ち切り、信長を攻撃するようにとの要請だった。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟を堅持する。この頃の家康は律儀で、人を裏切ったり騙すことはなかった。それゆえに情勢に応じ態度を変える義昭や信玄のような人々に与する気にはなれなかった。家康は信長が最終的な勝者になることに賭けたが、それゆえに大きな苦難にも見まわれている。 

 1572年10月、武田信玄は遠江・三河に侵攻し、武田氏と織田氏は敵対することになる。武田信玄は織田の同盟国の家康を攻め、家康は織田氏に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍は織田領の美濃国の岩村城を攻撃しため援軍は送れず、徳川軍は単独で武田軍と戦うことになる。

 遠江国に侵攻してきた武田軍と戦うため、家康は天竜川を渡って見附(磐田)に進出した。徳川軍は浜松北方の要衝・二俣城を守るため、武田軍の動向を探るために偵察に出たが、そこで武田軍と偶然遭遇して敗走する。

 信玄は徳川方の諸城を東西に分断するため、本隊と別働隊が二手に分けて侵攻してきた。そのため三河方面への防備を固められず、徳川軍の二俣城は孤立した。二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城で、この川が文字通り天然の堀を成していた。城将は中根正照、城兵の数は1200人ほどであった。一方の武田軍は2万7000人の大軍で力攻めも不可能ではなかった。
 中根正照は家康と織田信長の援軍を期待して信玄の降伏勧告を拒否した。このため武田軍の攻撃が開始したが、二俣城の攻め口は北東の大手口しかなく、その大手口は急な坂道になっていて攻め上る武田軍は次々と矢弾の餌食となった。武田軍は二俣城を攻めあぐみ、武田軍の攻撃に進展はなく12月に入った。

 信玄は力攻めでは二俣城は落せないと判断し、水の手を絶つ方法を考えた。二俣城には井戸がなく天竜川の井楼から水を汲み上げていた。そこで信玄は大量の筏をつくり天竜川の上流から流し、筏を井楼の柱に激突させて破壊した。この作戦は見事に成功し、大量の筏に激突された井楼の柱はへし折れて崩れ落ち、二俣城の水が絶たれた。
 信玄は水の手を絶った上で開城を迫った。中根正照は万一に備えて桶に雨水を貯めるなどの工夫もしていたのだが、1200人もの人数にいつまでも持つわけがなく、そのため正照は信玄に降伏・開城して浜松城に落ちていった。こうして、二俣城は信玄の手に落ちたのである。(二俣城の戦い)。

 

三方ヶ原の戦い

 ようやく織田信長から佐久間信盛と平手汎秀が率いる援軍が送られてきた。

 武田軍本隊は別働隊と合流して家康のいる浜松城へ近づいてきた。

 家康は対応を迫られるが、武田軍は徳川家康が篭る浜松城を素通りして織田領に向かった。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えたのに対し、素通りさせては面目が立たないと追撃した。

 しかしこれは武田軍の罠であった。武田信玄が家康の浜松城を無視するかのように、西へ向きを変えたのは、家康を城外の三方ヶ原の台地に誘うためであった。時間のかかる城攻めを不利とした武田信玄の作戦であったが、家康は同日夕刻、織田信長からの援軍とともに城を出て三方ヶ原に布陣する武田軍に挑んだ。

 その結果、鳥居忠広、成瀬正義などの家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し徳川・織田連合軍は惨敗した。

 武田信玄と戦う家康の決断は勇敢であるが、それはあまりに無謀だった。武田信玄を相手にするには徳川氏はあまりに小さく若すぎた。

 家康はこの戦いでこれ以上はないほどの惨敗をきし、家康自身の命も危なくなるほどだった。この種の合戦で、総大将の命が危なくなるほど押し込まれるのは滅多にないことである。

 家康は山県昌景の軍勢に追い立てられ、その恐怖のあまりに馬上で脱糞したほどである。家康は家臣に助けられ、命からがら浜松城に逃げ帰った。上図は敗戦時の情けない顔を絵師に書かせて、当時の窮状を忘れないように描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったとされている。

 武田の軍勢は浜松城まで追撃してきたが、帰城した家康は空城計を用いて武田軍の追撃を断念させた。城空城計とは門を閉ざさず、あえて門を開けておき、城内で篝火をさかんに焚き大太鼓を打たせ城内の戦意が衰えてないことを見せつけたのである。浜松城に押し寄せた武田軍はこれを不審に思い「徳川に計略あり」として城を攻めずに引き返したのである。

 武田軍は浜名湖北岸で年を越すと、三河への進軍を再開し野田城を落とし、城主・菅沼定盈が拘束された。武田軍は家康の本拠めがけて侵攻してくるはずであった。しかしここで家康の命運が尽きたと思われた時、武田軍はぴたりと攻撃の手を止めてしまうのである。それは信玄の発病であった。そして信玄はそのままこの世を去ってしまう。家康にとって強運というほかない出来事であった。

 武田軍の突然の撤退は信玄死去の疑念を抱かせ、家康は信玄の生死を確認するため武田領の駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めた。この行動で武田軍の抵抗がなかったことから家康は信玄の死を確信することになる。

 武田信玄側の奥三河の豪族・奥平貞能・貞昌親子を調略すると、奪回した長篠城に奥平軍を配し武田軍の再侵攻に備えた。
 武田信玄の西上作戦は失敗し、信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還して駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者の武田勝頼も攻勢に出て、1574年には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。また家臣の大賀弥四郎らが武田に内通していたとして捕えられ鋸挽きで処刑された。
 信長は、1575年の「鉄砲対騎馬」の戦いとして有名な長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は主要な家臣を数多く失う大敗をきたし駿河領国の動揺をまねいた。家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣城を攻略し、さらに諏訪原城を奪取して大井川沿いの補給路を封じ武田氏への優位性を強めた。家康は長篠城主の奥平貞昌の戦功に対し名刀・大般若長光を授け、翌年には長女・亀姫を正室にしている。

 天正6年、越後上杉氏で御館の乱が起き、武田勝頼は北信濃に出兵したが、上杉景勝が乱を制し武田・北条間の甲相同盟が破綻した。1579年9月、北条氏は家康と同盟を結び、やがて武田氏は滅亡し、これにより家康は信長から遠江を与えられることになる。

 

徳川家康の築山殿殺害と長男・信康を自刃

 同じころ織田信長から家康に対し、正室・築山殿と嫡男・信康の武田への内通疑惑がかけられた。織田信長は娘(徳姫)を嫡男・信康に嫁がせており、娘(徳姫)の訴えを信じ、家康は酒井忠次を使者として織田信長と談判したが、酒井忠次は信長の詰問を概ね認めたために嫡男・信康の切腹が命じられた。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先させるため正室・築山殿を殺害し信康を切腹させた。

 徳川家康の正室である築山殿は今川義元の姪だが、その血筋からか様々な、興味深い逸話を残している。意のままにならない苛立たしさや、夫・家康との意識のずれも加わり、わが子・徳川信康可愛さのあまり、正常な神経では考えられない暴挙に出たのである。そのことがわが子、家康嫡男の信康ともども、身の破滅を招くことになった。

 徳川家康は居城を浜松へ移していたが、築山殿と嫡男・信康は岡崎城に残したままだった。築山殿は、家康が今川義元の人質であった頃に迎えられた妻で、今川一族の娘であった。今川家は桶狭間の戦いで義元が討死してから急速に破滅の一途をたどり、家康は今川から離反して織田と同盟を結んでいた。
 築山殿にとっては今川家を見限り、宿敵である織田信長と急接近した家康に対してはおもしろいはずはない。さらにその信長の娘(徳姫)が息子に嫁いだのである。築山殿が徳姫を暖かく迎えるはずはなかった。感情的に嫁姑のいがみ合いではすまされぬ程の憎しみがあったのであろう。

 1567年に家康の長男・信康と織田信長の長女徳姫が結婚すると、築山殿は城外に住まいを移され、3年後にようやく築山殿は岡崎城に移った。ほぼ同時期に、徳姫は信長に夫・信康を讒訴する12ヶ条の訴状を信長に送ったのである(信長十二ヶ条)。それは「家康の妻・築山殿と長男・信康がご乱行の限りをつくし、築山殿と唐人医師減敬が密通し、武田氏に通じ、織田と徳川を滅ぼうそうと企んでいる」という内容であった。この徳姫の手紙を見た信長が「徳川家康に二人を殺せ」と命じたのである。

 しかしこの徳姫の手紙を鵜呑みにして、何も調べずに信長が殺せという命じるのは信じ難い。大久保彦左衛門が書いた「三河物語」の中では、家康の長男・信康は2度と得難いほどの若殿で、あまりに聡明だったのを信長が疎んで「殺せ」と命令したと書いてある。
 当時の家康にとって織田との同盟は最重要事項であり、信長の命令を断れる状況にはなかった。またこの三河物語は徳川家公式記録で、公式記録にお家のことを悪く書くわけはないので、その真実は不明のままである。しかし信長が信康を恐れて処刑させたという説は、武田勝頼と戦っている最中に、大事な同盟相手である家康にそのような無理難題を押し付けるとは考えにくいことである。

 実際には家康と信康の関係が悪化したことが原因だったと見るのが妥当であろう。築山殿は夫が単身赴任をして遠ざかっていた上、実家の今川氏を家康によって滅ぼされており、その関係が悪化したのであろう。築山殿の不満が信康に影響を与え、家康に謀反を起こして徳川氏を乗っ取ろうとする行動に結びついたのではないか、ともあれ家康は正室と嫡男を自らの手で粛清することになった。
 1570年に、徳川家康は岡崎城を長男・信康にまかせ浜松城へ移っていたが、この事件が起きるまでの9年間、甲斐・武田氏の最前線に位置する浜松城と裏方の役割を荷った岡崎城の役割に大きな亀裂を生んだのだろう。
 最前線の浜松城は、事が起これば功名を挙げ恩賞に預かるが、兵糧や兵の準備を担当する岡崎城の武士たちには恩賞は望めなかった。裏方に恩賞がつかないのは仕方のないことで、岡崎城の武士たちに不満がたまっていたのであろう。

 浜松城の井伊直政と岡崎城の本多重次を比べると、1575年に井伊直政は今川家から徳川家に鞍替えしたが、わずか1年後には1万石となり、7年後には4万石になり、その後も増加し続けた。しかし岡崎城の本多重次は家康の祖父の時代からの家臣であるが3千石のままである。このようにこの二つの城の武士たちの間で確執があったのは確かである。

 岡崎城の武士は禄高の加増が望めず、裏方に徹しなければならなかった。浜松城から見れば、今川の娘・築山殿を拒む者もいたはずである。また嫡男・信康には今川の血が流れていたので、それを不快に思う者もいたであろう。

 家康には岡崎と浜松の対立を解決できず、信長の命令で妻と息子を殺害したのであろう。この事件の後に岡崎城の家臣団は散り散りになり、徳川の公式記録から消え去っている。このことは徳川家を揺るがすような一大事が、岡崎城内にあったのであろう。

 8月3日、家康は武装して岡崎城にやってきた。親子二人で面談後、信康は岡崎城から大浜城へと移され、さらに西尾城、堀江城へ移されている、岡崎城の武士たちを警戒してのことなのか、家康の親心だったのかは分からないが、最後に移動した遠州・二俣城で信康は切腹する事になる。

 家康が信康を粛清した依然はっきりとしないが、信康につけていた三河衆を城から遠ざける措置を取っている。このことは信康が家康に逆らい謀反を企んでいた可能性が高い。信康に対する処置は、謀反人を処分する際に取られるものだったからである。家臣たちから切り離し、逆らえないようにしてから処断する。さらに信康の実母築山殿も処刑している事から築山殿と信康が共謀して家康に謀反を企み、これを防ぐために2人を処断したというのが事件の真相と見ることができる。

 かつて武田信玄も嫡男の義信を粛清したことがあるが、戦国の大名家では親子もまたそれぞれに家臣を持ち、独立した権力を保持しているので、親子に抗争が起こることは珍しいことではなかった。

 最後まで無実を訴えた信康、介錯人として遣わされた服部半蔵は、その場に太刀を投げ捨て介錯を拒んでいる。服部半蔵の心の内にはいったい何があったのか、さらに不可解な事は家康の重臣・石川数正である。

 石川数正は命がけで築山殿と信康を今川から取り戻し、その後は信康の後見人として常に見守っていた。この信康の事件に石川数正が顔を見せていないのである。しかしもこの信康事件について、石川数正の名は記録に登場しない。さらに6年後、石川数正は家康を裏切り、一族郎党を連れて豊臣秀吉のもとへ走るのである。

 この石川数正の裏切りは、秀吉と会ううちに魅力を感じたせいなのか、あるいは法外な報酬で秀吉から引き抜かれて豊臣家と通じたたせいなのか、多くの諸説があるが、この信康事件が石川数正の心に深い傷を負わせていたことは確かであろう。

 信康の正室・徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる築山殿にすれば、仇の娘であり、嫁の徳姫に辛くあたたのかもしれない。後世、徳川幕府が始祖、家康を神聖化するあまり、家康の長男殺害という事件の要因を築山殿に押し付けた可能性は残されている。しかし築山殿は嫉妬深い女だった。築山殿の侍女おまんを目に留めた家康が手がつけ身籠ったが、このことを知った築山殿はおまんを木に縛り付け、裸にして散々に打ち据え、そのまま放置したとされている。

 いずれにしても家康にとって築山殿は年上で、恐ろしく嫉妬深くて気の強い女性であった。この築山殿の存在が、家康の女性観に大きな影響を与えたことは否定できない。身分の高い女など懲り懲りとする教訓、トラウマに近いものが家康にあったのだろう。何しろ築山殿を除くと、家康が愛した女性は一人として上流階級の出身者はいない。下級武士や下級神職の娘や百姓の後家など、すべて下層民の出身である。天下の徳川家康の女性観を決定づけた女性、築山殿とはそのような人物だった。

 しかし家康は信康と争ったことを後悔する言葉を多く残している。

 

武田の滅亡

 長篠の戦い以降、織田氏と武田氏は大規模な抗争をせず、武田勝頼は信長との和睦を模索した。しかし信長はこれを封殺すると、1581年に降伏した高天神城を開城したにもかかわらず、家康は総攻撃をおこない高天神城を奪回した(高天神城の戦い)。高天神城は落城したが、見殺しにした武田家の威信は失墜し国人衆は動揺した。

 木曾義昌の調略をきっかけに、1582年2月、信長は家康ともに武田領への本格的な侵攻を始めた。織田軍は信濃方面から、徳川軍は駿河方面から侵攻し駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡した。家康は甲府へ着陣し、信長は甲斐の仕置を終えると帰還している(甲州征伐)。
 家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが本能寺の変直前の家康外遊であった。

 またこのころには三河一向一揆の折に出奔し、後に家康の参謀として秀吉死後の天下取りや豊臣氏滅亡などに暗躍した本多正信が徳川家に正式に帰参している。

 

本能寺の変と天正壬午の乱
 1582年、家康は駿河拝領の礼のため信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに安土城を訪ねたが、信長が家康を謀殺するとの噂もあり、本多忠勝など選り抜きの家臣団と共に行動した。
 6月2日、家康が堺を遊覧中に、信長が本能寺の変で倒された。家康の盟友と言ってもいいほどの織田信長が本能寺の変によって自刃したのである。このときの家康の供は少人数で、極めて危険な状態になり、狼狽した家康は信長の後を追おうとした。しかし本多忠勝に説得され、また服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え、伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、中国地方からの羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知った。そして時代は大きく動いてゆく。
 織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起き、さらに越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。武田領国の上野国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、武田領を治めてまだ3ヶ月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかった。武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下にあった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて畿内へ敗走した。甲斐国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死した。
 さらに追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が同盟を破り、北条氏6万の軍が武蔵・上野国境を襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃したが敗北し、尾張国まで敗走した。このため甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯になり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。
 いっぽう甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、北条氏規や北条氏照らが5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦すると南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺に本陣を置いたが、新府城(韮崎市)に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城(北杜市)に本陣を置く北条勢と対峙した。

 徳川軍と北条軍の全面対決の様相をみせたが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法により戦意を喪失した北条軍は家康に和睦を求めた。和睦の条件は上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の二女・督姫を氏直に嫁がせるというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へのし上がった。

 その後、秀吉と手を組むべきか対立すべきか、家康はいったんは対立の道を選ぶがその後、臣従することになる。

 

小牧・長久手の戦いから豊臣政権へ
 織田信長の死後、羽柴秀吉が台頭してきた。秀吉は信長の次男・織田信雄と手を結び、1583年には織田家筆頭家老であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り影響力を強めていったた。織田信雄は天正壬午の乱で家康と北条氏の間を仲裁し、賤ヶ岳の戦い後においては三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は今度は逆に家康に接近してきた。
 1584年3月、織田信雄が秀吉方に通じた家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は同月13日に尾張国へ出兵し織田信雄と合流する。当初、両軍は北伊勢方面に出兵したが、同17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は同28日に尾張小牧に着陣した。秀吉が率いる羽柴軍本隊は尾張犬山城を陥落させると、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。同9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した。
 小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移したが、家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏らに呼びかけ外交戦の様相を呈した。

 秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。戦後の和議は秀吉に優位であった。越中の佐々成政が厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが家康は承諾しなかった。1585年に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力が秀吉に服属し、さらに秀吉は7月11日に関白に叙任して豊臣政権を確立した。
 これに対して家康は武田の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有していた相模国の北条氏と同盟関係を築いたが、同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、武田遺臣の上田城主・真田昌幸が秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らを派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵した(第一次上田合戦)。
 徳川氏は勢力圏を拡大するが、徳川氏の領国では1583年から翌年にかけて地震や大雨に見舞われ、特に5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」に見舞われた。
 その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の打撃は深刻で、小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員されたため、田畑の荒廃と飢饉を招き残された老少が自ら命を絶った。徳川家康領国の荒廃からの立て直しを迫られることになる。
 家康の豊臣政権への臣従までの経緯は「家忠日記」に記されているが、このような情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質求めた。徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦は北条氏との関係に緊張を生じさせた。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が起きる。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったため、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革した。
 1586年、秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、4月23日には要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となった。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、同24日に家康は浜松を出て上洛している。
 同年10月26日、家康は大坂に到着し、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜に秀吉本人が家康に秘かに会いにきて改めて臣従を求めた。こうして家康は秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に、家康は秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせないという意思を諸侯の前で誓った。

 

豊臣家臣時代
 1586年11月5日、家康は京で正三位に叙任する。このとき多くの家康家臣も叙任した。11月11日には三河国に帰還ると、翌日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、17年間過ごした浜松城から本城を駿河国の駿府城へ移した。これは出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたためそれに備えたとされている。
 1587年8月、再び上洛し秀吉の推挙により朝廷から従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託され、秀吉の推挙により家康は駿府左大将と呼ばれた。
 家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛てに、以下の起請文でで北条氏に秀吉への恭順を促した。
「家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない。今月中に兄弟衆を京都に派遣する。豊臣家への出仕を拒否する場合娘(氏督姫)を離別させる」。

 家康の仲介で旧友の北条氏規を上洛させるなどの成果を挙げたが、北条氏直は秀吉の臣従に応じず、秀吉は北条氏討伐を開始した。家康も豊臣軍の一軍として参戦し、北条氏が滅ぼされて豊臣秀吉が天下を統一た(小田原征伐)。
 これに先立って家康は「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備と同時に、領内の実情の把握のためである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されたが、ここで得た経験が新領地の関東統治に生かされることになる。

 

関東八州に移封
 その後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領の武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部に移封された。家康の関東移封の噂は以前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心がないことを弁明していたが、結局は北条氏の旧領国に移されることになった。
 家康は北条氏の旧領である関東の6ヵ国を秀吉から与えられ、150万石から250万石へ大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これを上げるわけにもいかず、石高ほどの収入を見込めなかった。この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かの議論は古くからあるが、家康はこの命令に従い、関東に移り北条氏が本城とした小田原城ではなく江戸城を居城とした。
 関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東は現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。

 

江戸城

 1590年7月に、北条氏の本拠地である小田原城が落城すると豊臣秀吉の指示により徳川家康は関東へ転封させられる。北条氏の本拠地だった小田原城にそのまま入ればよいのだが、徳川家康は小田原城の支城にあたる江戸城に入ることになる。
 当時の江戸は舟板3・4枚を並べただけのみすぼらしい城で、また城下町も大手門の外側にかやぶきの家が100軒ある程度で、城の東側は湿地帯で萱(かや)の原っぱが広がっていたとされている。このような辺鄙な田舎町をなぜ本拠地にしなければないのか。それは豊臣秀吉がそうしろと命じたからである。
 豊臣秀吉が家康を江戸に追いやったのは、家康を少しでも遠くに置きたかったから。また関東で一北条家の残党が残っていて混乱しており、また一揆が起きることを見越していたことも予想できる。しかし江戸には東国の水運と太平洋の海運との関連が未開の江戸の展望性を示唆していた。
 最近の研究では江戸城は1583年に、北条氏の前当主である北条氏政が入城しており、小田原合戦の時には、城代だった遠山氏が1000騎で守りを固めていた。当時の北条氏は騎馬武者1人につき、旗持ち1人・鉄砲持ち1人・槍持ち2人がいたので合計5000人が江戸城にいたことになる。5000人もの兵士が入っている城が、玄関に舟板3枚なんてことあり得るだろうか。
 また北条氏の頃から江戸城を中心に岩槻(埼玉県)、関宿(千葉県)、佐倉(千葉県)の支城網が出来ていた。小田原合戦中には江戸城開城後に豊臣秀吉の休憩所をつくる計画があった。実際の江戸城は徳川家康が入城する前から、立派な城だったことが想像でき。ではなぜみすぼらしく書かれたのか、なぜ江戸時代の史料にはそのようなことが書かれているのか。
 つまいは老人の昔の苦労話と同じである。つまり「昔は貧乏だったが、みんな一所懸命仕事して心は豊かだった。それにひきかえ今の若い者は」と同じ色的な史料だったと思われる。自分たちが頑張ったことを強調するために、当時の江戸城の様子についても、初期は貧しいく、後に盛りあげられたと考えられる。
 徳川吉宗の頃の史料「岩渕夜話」については、徳川吉宗の事情が反映していたと考えられる。徳川吉宗は紀州藩主から将軍になったこともあり、これまでの将軍と異なる血筋である。徳川家康との血のつながりを主張する必要があり、その流れで徳川家康の功績も今まで以上に盛る必要があった。

 ぼろぼろの江戸城を立派にした家康のストーリーを作るために、当時の江戸城をみすぼらしい城という設定のままにしたのだと考えられる。しかしこれだけでは豊臣秀吉が徳川家康に小田原城でなく江戸城に入ることを指示した理由が分からない。まず当時の政治情勢について考えてみる。


伊達政宗の会津不法占拠問題
 小田原合戦の際に、伊達政宗が豊臣秀吉の惣無事令(戦争禁止令)を無視して、東北で大暴れしていた。摺上原(すりあげはら)の合戦で、蘆名氏を破って会津(福島県)を占拠、全国でも屈指の領地を持つに至っている。
 そこで、小田原城の開城直前に、豊臣秀吉の会津出陣の準備が同時に進行されている。その内容は、近江(滋賀県)から会津までの街道の整備と、各宿泊地に豊臣秀吉の休憩所を設置することでした。整備された街道はまず東海道の近江から江戸までの区間。また江戸から下野(栃木県)までは2つの路線が整備されている。
 鎌倉街道中道(なかつみち)支線(江戸→岩槻→関宿→小山)のルートは、とくに発展したと言われている。江戸は豊臣秀吉が会津出陣の際に通る予定の、近江(滋賀県)から東海道を通って下野(栃木県)まで向かうルートの一大中継地だった。だから豊臣秀吉は家康に対して、小田原城でなく江戸城に本拠を置くように指示したのではないか。
家康はなぜその後も江戸に?
 1591年1月。伊達政宗と蒲生氏郷との間で和議が結ばれ、東北は豊臣秀吉のもと平和な時代を迎えた。その1ヶ月後、東北の押さえとして関東に入っていた徳川家康に再転封の噂が流れる。結果として、その噂は噂にすぎないものであった。ここで徳川家康はいよいよ本格的に関東に根付いていくことになる。ここでポイントなのは、東北に攻め込む必要のない徳川家康には江戸城を本拠地にする必要はなかった。
では徳川家康はなぜ江戸城に残ったのか。
水上交通と陸上交通の基点
 江戸は北条氏の頃から次第に発展を遂げ、海上交通が盛んになっていた。とくに発展していたのが伊勢〜品川のルートであった。江戸に多いものとして「伊勢屋・稲荷に犬の糞」と歌われるように、海上交通を利用して伊勢商人が多数江戸にやってきていた。また品川は多摩川を介して中世の武蔵の中心である府中にも便利なまちであった。
 されに下野までの陸上ルートは浅草からスタートし、海上交通の基点の品川、陸上交通の基点の浅草、その2つのまちに囲まれた場所が江戸城だった。ではそんな素晴らしいまちをなぜ北条氏は本拠地にしなかったのか。
中世の関東は南北で対立
 じつは中世を通じて関東は旧利根川(当時の利根川は江戸のすぐ横に流れていました)をはさんで南北で対立していた。江戸は非常に便利なまちだったが、あまりにも南北の境界線に近く、非常に危険なまちでもあった。そのため古くは源頼朝が鎌倉を、北条氏は小田原を本拠地にしていたが北条氏が北条氏政の頃に関東地方を統一し南北対立はなくなったのである。江戸は平和なまちになっていたのです。
そのタイミングで徳川家康は関東に転封になっていた。なので迷うこと無く徳川家康は江戸を本拠地にし続けたのである。

奥州鎮圧
 1591年6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため豊臣秀次を総大将に奥州再仕置軍を編成した。 家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に協力した。

 1592年から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった。
 1595年に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛している。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった。
 1596年、秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。1597年、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力したが、このときも家康は渡海しなかった。
 1598年に秀吉が病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を定め、五大老の筆頭に家康を任命し、秀吉の死の直前には跡継ぎの秀頼の将来を託された。また8月には五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた。 しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。

 

秀吉死後
 豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになった。また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受け、そのため五大老筆頭とみなされるようになる。そこで家康は生前の豊臣秀吉が禁止していた大名家同士の婚姻を行い、婚約した娘を全て家康の養女とした。
 このこ頃より家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷に頻繁に出入りした。このような政権運営について大老・前田利家や五奉行の石田三成らの反感を買い、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣された。しかし家康は吉晴らを恫喝して追い返し、前田利家と家康は「利家が家康を、家康が利家を相互に訪問し、家康が向島へ退去する」誓書を交わし和解した。
 3月3日の前田利家が病死すると、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を襲撃する事件が起きた。石田三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城に蟄居することになり、護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。このように三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったが、同時に三成を生存させたため豊臣家家臣同士の対立が続くことになる。
 9月7日、増田・長束両奉行の要請として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り大坂で政務を執ることになる。
 9月9日、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があり、10月2日に浅野長政を徳川領の武蔵府中で蟄居させ、大野治長は下総国の結城秀康のもとに、土方雄久は常陸国・水戸の佐竹義宣のもとへ追放した。前田利長には加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出したため出兵は取りやめとなった。これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。