豊臣秀吉

 農民出身でありながら織田信長の後を継いで天下統一を果たしたのは信長の家臣・豊臣秀吉であった。秀吉は人心を取り込むのが上手で、まさに成り上がりの人生を送った。

 織田信長に「さる」と呼ばれながら仕えたが、秀吉を猿と呼んだのは織田信長だけでなく、秀吉が関白になった時の落書には「木の下のさる関白」と書かれているくらいである。また無類の女好きで、それがまたご愛嬌といえるほどであった。

 人間は生まれた環境によって人生が決まっていると思いがちである。しかし厳しい身分制度の時代に、豊臣秀吉は「自分の人生を変えることができる」ということを教えてくれた。放浪者から関白に上りつめたのは、本人の努力や運もあっただろうが、秀吉の出世は武勇があると言う訳ではなく、「人」を動かして「人望」と「智略」に長けていて、それがまさに痛快であるゆえに人気が高いのであろう。

 自分の努力と才覚で立身出世をして、秀吉は関白まで登りつめたが、この姿は高度成長期の日本とあいまって国民の圧倒的支持を得ている。あの田中角栄も「今太閤」として称されていたように、卑しい身分の秀吉は人脈をつくり、主人を選び、選んだ主人にとことん忠誠を尽くし、時を待ち天下人となった。豊臣秀吉に学ぶべきことは多い。

秀吉の出生

 秀吉の出生について聞かれると、誰もが答えに窮するであろう。それは秀吉の生まれについて、本当のことは分かっていないからである。
 1537年、秀吉は尾張国中村(名古屋市中村区)で木下弥右衛門となか(大政所)の子として生まれているが、「太閤素性記」によると父の木下弥右衛門は足軽または農民とされているが、それ以下の身分だったかもしれない。いずれにせよ秀吉は最下層の出身で、それゆえに侍にあこがれ、低い身分ゆえに周囲から嫉妬をうけず、そのことが出世を助けることになった。

 幼名は「日吉丸」であるが、これは「絵本太閤記」によるもので、本当かどうか疑問視されている。秀吉はのちに多くの伝記を書かせているが、各伝記によって素性は異なり、若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていたことから、秀吉は「木こり」出身の「端柴売り」で、そのため羽柴(端柴)に改姓したとの説がある。

 本能寺の変を記した惟任退治記には「秀吉の出生、これ貴にあらず」と書かれているが、関白任官記では「父・木下弥右衛門は萩の中納言で、大政所が宮仕えをした後に生まれた」と書かれ、天皇の落し子を暗示させている。

 一般に広く流布しているのは「父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚するが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、15才の時に家を出て侍になるために遠江国に行った。あるいは7歳で実父と死別して8歳で光明寺に入るが、すぐに寺を飛び出して15歳の時に針売りをして放浪していた」となっている。父親の姓・木下についても、妻・おねの母方の姓で、それまでは名字を持つことすらできない低い身分だったとされている。さらに秀吉の出自について、与助という名のドジョウすくいだったとする説もあり、真相はまったく不明である。


蜂須賀小六
 秀吉は木下藤吉郎と名乗り、15歳時に今川氏の・家臣の遠江(静岡県西部)の小領主・松下之綱に仕え、今川家の陪々臣(家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎は松下之綱にある程度目をかけられ、仕事をうまくやりこなしたが、そのために同僚たちから妬まれ、やがて嫌がらせを受けまもなく松下家を出てしまう。真相は不明であるが、いずれにしても冴えない日々を送っていた。後に出世した秀吉は、かつての主人だった松下之綱を大名の身分に取り立てている。秀吉を目にかけた松下之綱も、まさかそのような形で恩が返ってくるとは予想もしていなかっただろう。

 若き日の秀吉が、放浪しながら宿もなく矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、夜盗の一団が通りかかり、その首領の蜂須賀小六に気に入られて子分になったという有名な逸話がある。しかし矢作川の橋が掛けられたのは江戸時代なので、作り話であるが秀吉が蜂須賀小六の世話になっていたことは事実であり、蜂須賀小六の紹介で織田家に仕官したと思われる。

 蜂須賀小六は美濃と尾張の国境付近で水運業を営んでいる国人で、村落を襲って盗んだり、落武者などの刀・鎧をねらう野盗の首領であった。最初は斎藤道三に仕えていたが、次いで織織田氏の傘下に入った。
 蜂須賀小六は秀吉よりも10歳年上であるが、秀吉に比較的早くから仕え人生を捧げた男である。美濃斎藤攻めの墨俣一夜城の築城などで活躍し、小六は秀吉にとって古参の家臣であるが、黒田官兵衛や竹中半兵衛と比べると活躍度は低い。しかし秀吉は蜂須賀氏を非常に大切にして、秀吉が四国を平定すると長年の労をねぎらい阿波一国を与えた。小六はこれを辞退するが、子の蜂須賀家政が受けている。


織田信長に仕官
 蜂須賀小六は、母親の実家近くの生駒家に出入りしていた。生駒家は藁の灰を売る豪商で、藁灰はただの藁灰ではなく灰汁媒染つまり染色に使うもので、安定供給するのが難しかった。生駒家は一大消費地である京都をはじめ、おそらく灰汁媒染を日本の各地に出荷していた。
 この生駒家に吉乃(きつの)という出戻り娘がいて、この吉乃に惚れこんだ年下の青年がいた。その青年とは織田信長のことで吉乃の間に3人の子供(信忠・信雄・徳姫)が生まれている。信長は吉乃のもとにいつも通いつめていた。

 さらに生駒家に居候している奇妙な人物がいた。下働きの禿げた鼠のような顔の小男で「おれの得意なことは早メシ大食いだ」などと笑い話をしたり、ワイ談をやって言葉たくみに吉乃にとり入り、その口添えによって信長の草履取りに取り立てられたのが秀吉である。

 1554年頃から秀吉は織田信長に小者として仕える。 小者とは信長の身辺の雑用をこなす役目である。信長の使い走りや雑用係として仕えていたが、馬の世話を命じられると、来る日も来る日も、暇さえあれば馬の体を撫で続け、そのため馬の体が鮮やかになり、これが信長の目に止まり草履取りを命じられる。

 有名な逸話として、ある冬の寒い日のこと、信長が草履をはくと暖かかった。信長は秀吉が尻に敷いていたと激怒するが、秀吉は草履をふところに入れて温めておいたのである。信長は秀吉のこのような心使い気に入り台所奉行を命じる。

 秀吉は清洲城の台所奉行を率先して引き受け、倹約の上薪の費用を減らすなど、大きな成果を挙げ次第に頭角を現した。

 信長は大名でありながら、若い頃から町人たちと親しく付き合うなど、身分によって人を差別しない性格だった。そのため低い身分の兵士たちにも人気があった。信長は出自にこだわらず、能力のある者をそれにふさわしい身分に取り立てていったので、低い階層の出身であった秀吉でも、信長の元であればいくらでも出世することができた。秀吉自身も出世意欲は旺盛で、自から積極的に様々な仕事を与えてくれるようにと信長に申し入れた。そして実際に任せてみると、いつも抜群の功績を上げることから信長は秀吉を気に入って短期間で身分を引き上げていった。

 その後、秀吉は戦闘にも参加するようになり、足軽組頭という下級指揮官の身分に出世した。当時は戦乱の時代であり内政官よりも武官の方がより出世を望める状況にあった。そのため秀吉は自ら信長に申し出て兵士たちを指揮して戦闘に出られる身分にしてもらったのである。秀吉は体が小さく、腕力もさほど強くなかったため、戦場で槍や刀を振るって活躍するのは難しいため、主に作戦能力や調略の面で信長の覇道に貢献していく。
 1561年8月、秀吉は浅野長勝の養女・おねと結婚する。おねの母はこの結婚に反対したが、おねはその反対を押し切って嫁いだ。当時としては珍しい恋愛結婚だった。おねは賢く能力のある女性で、この結婚は秀吉の出世をおおいに助けていくことになる。この時の秀吉はまだ貧しく、結婚式は藁と薄縁を敷いた質素なものであった。浅野長勝も秀吉と同じ足軽組頭で同じ長屋で暮らしていたのでこの結婚式に出ている。

 1564年、秀吉は濃国の斎藤龍興との戦で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢基康に誘降工作を行い成功させている。最初に秀吉の名が記された史料は、1565年11月2日付けの手紙で「木下藤吉郎秀吉」と書かれている。このことから、その時点で秀吉は信長の部将の一人として認められていたことがわかる。

 織田家は新興の武家らしく発展性に富んだ家柄だったので、秀吉のように素性の怪しい者にとっても居心地がよかったのでる。尾張は商業活動が盛んな地域で、人の出入が激しく、そのような土地柄も居心地に影響していたと思われる。

美濃攻略戦

 尾張を統一した信長は隣国の美濃(岐阜県)の攻略に取りかかった。1561年に美濃の当主・斎藤義龍が急死すると、その後を息子の龍興が継いでいた。この龍興は惰弱な人物で、家臣たちからの人望が薄く、信長にとっては美濃を奪い取る絶好の機会となっていた。信長は美濃に攻め込んで城を奪取するのと合わせて、工作をしかけて各地の城主たちを寝返えらせた。この時に秀吉は信長から工作を任されており、松倉城や鵜沼城などの美濃を拠点にした城主たちを織田方に寝返えらせている。秀吉は「人たらし」と呼ばれるほど人との交際や交渉に長けており、その才覚を活かして活躍した。それほど秀吉は相手陣営の切り崩しに長けていた。またこの頃から「木下秀吉」という名を用いており、松倉城主あてに「木下秀吉」の名で領地の安堵を約束する書状を送っている。
 信長から軍を預けられて城の攻略に向かったこともあり、美濃攻略戦の過程で、秀吉は部隊長にまでのし上がった。雑用係だった秀吉にとって異常ほどの出世だった。

墨俣一夜城
 秀吉の出世を決定するものとして、1566年の墨俣一夜城の話がある。美濃は元々は室町幕府の重臣・土岐氏が治める国であったが、まさに下克上の時代で、斎藤道三は土岐氏を追い出して美濃藩主になった。斎藤道三は息子の義龍に家督を譲るが、義龍は道三の実子ではなく土岐氏の血を受けついていた。そのため道三は義龍を疎んじ、家督を譲られた義龍も道三を親として認めなかった。斎藤道三と義龍が争いを起こし義龍が勝つが、道三は義理の息子・信長(濃姫の夫)に「美濃を信長に譲る」という遺言を書いていた。信長はこの大義名分を得て援軍を送るが美濃の勢力は強く攻め落とすことはできなかった。

 美濃は交通の要衝で、また作物が豊富な国だったので美濃の名前もそこから来ている。この頃の大名は国人たちと完全な主従関係にはなく、契約を交わしているにすぎなかった。道三が亡くなってからも、義龍は元の主君・土岐氏の血を引くと信じられていたので国人たちの結束は強かった。信長が義龍の代になっても美濃を攻めきれなかったのは、義龍の力よりも美濃の国人の力であった。しかし義龍が若くして亡くなり、息子の龍興の時代になると徐々に国人との信頼が揺らいでいった。
 墨俣は稲葉山(金華山)のふもとを流れる川の三角州にあり交通の要所であった。稲葉山城(岐阜城)のような山城では、家臣は平時はふもとに住み、戦時の篭城に備えて城に食料をためていた。篭城は援軍があって初めて篭城できるが、援軍がいない時は攻め手に有利になる。しかし攻め手側も野営では、敵の攻撃を恐れて兵の消耗が激しく、また食料がなくなれば引き上げる他なかった。しかし墨俣に城があれば、見張りを除き兵は寝ることが出来き、墨俣は川の脇にあるので稲葉城への補給を断つことが出来た。
 墨俣は長良川と揖斐川(いびがわ)とが木曽川に合流する地域にあり、東美濃を制した信長は残る西美濃を攻略するために墨俣の地に城を築くことにするが、これまでに何度も築城を試みるも、途中で斎藤勢にはばまれるという屈辱を味わっていた。墨俣に城を築けば川は重要な補給路になり、夜の闇にまぎれて船で墨俣に補給が可能で、しかも稲葉城への心理的な影響が大きかった。目の前に城を作られれば、美濃が滅びる不安を引き起こすことができた。この頃の戦は「士気をなくした方が負け」で、1割の兵が死んだら大敗といわれていた。
 墨俣は織田氏と斎藤氏の勢力の狭間にあり、ここに城を築くのはかなりの困難を伴った。織田信長は重臣・柴田勝家たちに命じて何度も墨俣に城を作らせたが、斎藤方の妨害を受けてすべて失敗に終わっていた。

 すると足軽頭の秀吉が築城に名乗りを挙げた。墨俣城は一夜城と呼ばれているが、上流は良質の木曾杉の産地であった。築城は秀吉が上流からいかだを組んで木材を運んだのである。

 美濃の野伏たちを束ねる川並衆の頭領・蜂須賀小六に協力を求めた。野伏は傭兵稼業を行う荒くれ者たちで、戦闘が起こる度にどこかに雇われて、織田方についたり斎藤方についたりして戦っていた。また戦場に遺棄された武器や物資を拾って売り払うといった、追い剥ぎのような稼ぎ方をしていた。
 秀吉は放浪時代に蜂須賀小六に世話になったことがあり、その縁を活用したのである。蜂須賀小六の案内で敵国に侵入して木材を切ると、築城の建材をその場で組みたて、それを解体してから、川で現地に運び込んだのである。一から新築するよりも、既に組んだものを再度組み上げる方が工期を大幅に短縮できるわけで、そのような工夫と知恵を用いて敵前での建築という困難な仕事を達成した。

 木曽川の海側は尾張(愛知県)、対岸は美濃(岐阜県)だった。この墨俣の一夜城は木曽川上流の森の中で木を伐採して組み立て、それを上流の川から流し、墨俣で再度組み立てて完成させてから城と川の間の木を伐採した。また秀吉は先に城壁を作り上げて、築城中の墨俣城に防御力をもたせ、後から内部の居住区を作った。斎藤方の妨害を跳ね除いて築城を成功させた。

 稲葉城から見ると、墨俣城はあたかも一夜で出来たように見えた。小さな城であったが、その戦略的価値は大きかった。

 秀吉はそれまで誰にもできなかった築城を短期間で完成させ、秀吉の名は織田家やその家臣の間に知れ渡り、この非凡な才能が信長の歓心を買い、信長から墨俣城主に任じられ、蜂須賀小六を家臣に加えることになる。この成功によって信長から一目おかれ、家臣の中でも際立って目立つ存在となってゆく。
 墨俣城の築城は川の上流の地理に詳しく機動力のある蜂須賀小六がいたから可能であった。この墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走った。美濃の国人たちは斎藤義龍と完全な主従の関係ではなかったので信長に傾くのは当然であった。国人は自分の領土を安堵してくれれば大名が誰でも良かったのである。

竹中半兵衛

 竹中半兵衛はその頭脳でもって斎藤家に仕え、織田家との戦いを勝利に導くこともあった。性格的に真面目で有能な家臣だったが、義龍に嫉まれ諫言しても聞き入れてくれないことが多かった。稲葉山城(岐阜城)は難攻不落の城だった。そこで竹中半兵衛は稲葉山城を占拠するという荒業で龍興の目を覚まさせようとした。半兵衛は「城内の弟が病気になったと聞き、良い医者を連れてきた」とウソをついて、城内にわずかな手勢で入り、龍興を殺さずに逃がした。半兵衛は下克上が目的ではなく、諫言として城を乗っ取っただけなので、後に自ら龍興に詫びを入れて城を返している。しかし龍興は半兵衛を解雇し放り出してしまった。以後、半兵衛は美濃から離れた領地にこもって隠遁生活に入ったが、その後、秀吉は信長に願い出て、いわゆる「三顧の礼」で竹中半兵衛を自分の与力として迎えたのである。

 与力とは信長の直属の家臣でありながら、他の武将の指揮下に入る者である。つまり信長は秀吉をリーダーのひとりとして認め、他の武将たちを秀吉の命令に従わせるほどに重視していたことになる。竹中半兵衛は斎藤氏から離れてこもっていたが、その軍略の才を見込んで秀吉が織田家に加わるようにと勧誘したのである。また、この頃には弟の秀長も家臣に加わり、秀吉の元で働く人材も充実してきた。

 竹中半兵衛が秀吉の軍師となったため、美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄安藤守就氏家卜全の3人もともに信長側についた。美濃三人衆が団結すれば斎藤家も逆らえないほどの力を持っていた。そこで今が攻め時と織田信長は稲葉山城を攻めた。

大沢次郎左衛門

 大沢次郎左衛門は斎藤家の家臣で、妻は斎藤道三の娘であった。1566年12月に、秀吉の調停によって織田信長に寝返り、翌年1月5日に秀吉とともに清須へ行くが、織田信長は「この大沢なる者は武勇に優れた者であるが、心変わりしやすい者で、味方として信じることはできない。今夜、腹を切らせよ」と命じた。秀吉は「降参してくる者に腹を切らせては、今後降参してくる者はいなくなります。ここは一つお許しになった方が」と申し上げたが、信長は聞き入れなかった。

 秀吉は大沢の前へ行き「これこれの事情で何とも申し訳ないが、ここにいてはあなたの身に危険が起きる。どうか逃げて下さい。ご不審なら、私を一緒に連れていって下さい」と刀や脇差しを左衛門の前に投げ出し無腰になって語った。大沢は秀吉の誠意に打たれ、今までの礼を厚く述べ無事に脱出した。この件を後に伝え聞き、秀吉の配下になりたいと思う者が多くなった。

 秀吉は信長の忠実な部下として知られているが、その秀吉は後に信長を次のように評している。「信長公は勇将ではあるが、良将ではない。信長公に一度背いた者は、その者への怒りがいつまでも収まらず、その一族縁者はみな処刑しようとする。だから降伏する者からも敵討ちは絶えることはない。これは器量が狭く、人間が小さいからである。人からは恐れられても、大衆からは愛されない」。このことは秀吉の人柄を表している。

 

織田政権下での台頭

 1567年に美濃の斎藤氏が滅亡すると、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との戦いが始まった。信長の天下布武が実践された最初の戦いで、秀吉は六角氏の近江箕作城の攻略戦で活躍し、さらに観音寺城の戦いで六角氏を負かすと、同年、信長の上洛に際して秀吉は明智光秀、丹羽長秀とともに京都の政務を任された。
 1569年、毛利元就が九州の大友氏と交戦すると、出雲奪還を目指した尼子氏の残党が挙兵し、尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に山名氏の背後を突くように出兵を要請したため、信長は木下秀吉を大将に軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18の城を落城させ、激しい攻撃を受けた山名祐豊は此隅山城から堺に亡命した。山名祐豊は同年、一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

金ヶ崎の退き口

 1570年、信長は越前の朝倉義景討伐のため侵攻を進めたが、金ヶ崎付近で盟友の浅井長政の裏切りにより、織田軍は浅井と朝倉軍から挟み撃ちという絶体絶命の危機を迎えた。織田信長は即座に退却を決め、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿(しんがり)を務めた。殿(しんがり)とは撤退するときに最後尾になって、追手を振り切り足止めをする部隊のことで、殿は大将の命を預かる最も重要な役目だった。このことから信長は秀吉や光秀を信頼し高く評価していたことが分かる。

 軍勢を整えなおした信長は、朝倉氏に加勢した浅井長政への報復戦に打って出た。浅井長政の城・小谷城は難攻不落とされ、信長は城攻めを諦め、城から浅井勢を引きずりだして野戦で勝負することになる。
 信長は横山城という城を包囲した。この横山城は近江を南北に結ぶ重要な場所にあり、ここを信長に抑えられると、浅井氏の勢力は分断されることになる。この横山城を見捨てることのできない浅井長政は、横山城の側を流れる姉川に陣を敷いた。

姉川の戦い

 浅井長政の軍勢は朝倉の軍が加わり1万5000人、対する織田の軍勢は援軍の徳川軍を加え2万人であった。この両軍は姉川を挟んでにらみあった。徳川軍は朝倉軍と対峙したが、徳川軍は兵士の数では不利であったが、徳川軍には大久保忠世、本多忠勝、榊原康政という屈強な武士がそろっていた。浅井軍は自分たちの横山城を取り返すという意気込みから織田信長の軍より強かった。織田の軍は13段の構えをとったが、11段まで崩されてしまい、一時は姉川から1キロも退却した。

 その時、少ない兵で朝倉を追い込んでだ徳川の軍勢1000人ほどが。信長を攻める浅井軍の右翼から突入し、さらに横山城の包囲についていた兵も信長の危機を聞きつけ左翼から突入した。徳川家康に助けられた織田信長は姉川の戦いに勝利したが、この激戦は9時間続き、姉川は血で赤く染まった。織田信長はその後、横山城を完全に攻め落とし秀吉を城主にした。その後の小谷城の戦いでは、秀吉は3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落し浅井・朝倉との戦いに完勝した。


織田政権下での秀吉の台頭
 1573年、浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井氏の旧領に封ぜられ、今浜の地を長浜と改め長浜城の城主となった。この頃、木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)。改名したのは「織田家の有力家臣・丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらった」とする説が一般的である。秀吉は長浜の統治政策として、農民の年貢や諸役を免除した。そのため近在の百姓が長浜に集まり、さらに近江の商人が集まり、秀吉は旧浅井家臣や石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。

中国地方攻略

 1575年、長篠の戦いに従軍し、鉄砲隊の戦略が武田の軍勢を打ち破り、鉄砲隊の重要性が認識された。翌年には北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。

 1577年、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家とぶつかり無断で帰還した。その後、勝家は手取川の戦いで謙信に敗れている。信長は柴田勝家の命令に逆らった秀吉に激怒し、秀吉も切腹を覚悟したが許されれている。

 織田信忠による松永久秀討伐に従軍して功績を挙げ(信貴山城の戦い)、その後、信長は中国地方攻略を命じ、播磨国に進攻すると播磨守護赤松氏の勢力である赤松則房・別所長治・小寺政職らを従えた。さらに以前から交流のあった小寺孝高(黒田長政)より姫路城を譲り受け、姫路城を中国攻めの拠点とした。播磨の一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。

 1579年には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名・宇喜多直家を服属させたが、摂津国の荒木村重が反旗を翻し(有岡城の戦い)、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされている。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許されている。
 1580年、秀吉は織田家に反旗を翻した播磨の三木城主・別所長治を攻撃し、竹中重治や古田重則などの家臣を失うが、2年に渡る兵糧攻めでこれを破り、同年、播磨から北上し但馬国にも侵攻して、最後まで抵抗した山名祐豊が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田の勢力圏とした。

 山名氏政を勢力に取り込むと、但馬の国人の反乱も沈静化し、自らは播磨経営に専念するために、弟の羽柴秀長を有子山城主に置き但馬国の統治を任せた。羽柴秀長による但馬経営は順調におこなわれたが、秀長は有子山城があまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。

 1581年、因幡山名家の家臣団が、但馬守護の山名豊国を追放し、毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城に立て籠もり反旗を翻したが、秀吉は現地の商人から兵糧をすべて買い取り兵糧攻めにして落城させた(鳥取城の戦い)。

 

高松城の水攻め

 その後も中国西地区を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置くと、備中に侵攻し3万の兵で、毛利方の清水宗治が守る備中高松城(岡山県)を水攻めに追い込んだ。勇将として名高い清水宗治は毛利方の小早川隆景に属しており、高松城は毛利方、信長方にとって重要な戦略拠点であった。秀吉は「こちらに味方すれば、備中、備後の2国を与える」と調略によって城を奪おうとしたが、清水宗治が寝返ることはなかった。

 高松城は低湿地帯で水田の中にあった。背後には山々が重なり、西南には足守川が流れている。秀吉は力ずくで城を攻めることを諦めると、城を水没させる作戦をとった。秀吉は土地の農民を徴収し、銭をばら撒き昼夜を問わず城の周りに土塁を積み上げ、3.3キロにわたる大堤防を築いた。大堤防が完成するとせき止めていた足守川の水を一気に流し、たちまち高松城は浮島になった。毛利方は高松城の危機を救うために駆けつけるが、浮島になった高松城を遠くから見守ることしかできなかった。

 このようにして中国攻めでは三木の干殺し鳥取城の飢え殺し高松城の水攻めといった、時間はかかるが敵を確実に下して味方の勢力を温存した。秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾なく発揮された。秀吉は通常の武士では考えつかない策を次々と実行していき、これらが能力第一主義の信長から高く評価された。

 1582年の高松城攻めの頃には羽柴秀吉と名乗り姫路城主として立派な大名となっていた。しかしその毛利攻めの総仕上げとして、毛利軍を打ち破るため信長を招いたことが仇となった。毛利攻めとして秀吉は勝つ自信があったが、総仕上げを信長に譲ろうとしたのである。

 

本能寺の変
 1582年6月1日深夜、織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により殺される凶事が発生した(本能寺の変)。明智光秀は織田信長の暗殺を毛利側に伝えようとした使者が秀吉側に捕まり、秀吉はこの事件を知ると愕然とした。毛利家が信長の死を知るのは時間の問題であった。毛利側に知られる前に手を打たなければ挟み撃ちになってしまう。時間がなかった。毛利側に知られる前に「清水宗治の切腹」を条件に毛利輝元と和解し、切腹を見届けると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返した。世に言う「中国大返し(おおがえし)」である。ピンチはチャンスである。信長を殺した明智光秀を他の家臣よりも早く討つことで、信長亡き後の地位を高め、天下を我が手にしようとした。

 羽柴秀吉は即座に「弔い合戦」の大義名分を掲げ、神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを味方につけ、6月13日に京都の山崎で明智光秀と戦いに臨んだ。兵力で劣る明智光秀は敗北し、秀吉は主君・信長の仇討ちを果たした(山崎の戦い)。敗れた光秀は逃げる途中で落武者狩りの手にかかって討たれた。

 この山崎の合戦で天王山を先に制した秀吉が勝ったことから、物事の正念場を「天下分け目の天王山」と表現するようになった。また秀吉は本能寺の変から、わずか10日余りで明智光秀を倒し、近畿地方の秩序を取り戻したため信長の後継者として注目されることになった。 また明智光秀のあまりにも短い天下を「三日天下」という。

  本能寺の変の時に、京都から遠く離れたところにいた柴田勝家・滝川一益ら先輩格の武将は、織田信長の仇討ちで遅れをとることになった。羽柴秀吉の台頭を抑えようとする柴田勝家は、6月27日、清須城で会議を開き信長の正統な後継者を決めようとした。

 

清洲会議

 1582年、明智光秀の謀反で織田信長が命を落とした「本能寺の変」から僅か25日後、織田家の後継者を決める清洲会議がはじまった。清洲城に集まった織田家の家臣は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人で、清洲会議は織田陣営の将来を左右する重要な会議であった。織田信長の嫡男・織田信忠は能寺の変で明智光秀に討たれており、秀吉はその後に明智光秀を征伐し京都の支配権を掌握していた。まず織田信長の後継者として、次男の織田信雄か三男の織田信孝から家督相続者が選ばれるはずだった。

 本来ならば次男の織田信雄となるはずだったが、信雄は武将としての資質に欠けると評判だった。一方、三男の信孝は四国方面軍の司令官で家臣からの信頼も厚く、さらには光秀討伐にも参加していた。また柴田勝家は信孝の後見人でもあったため、柴田勝家は後継者として信孝を擁立しようとしていた。信孝が後継者になった暁には後ろ盾となって織田家を引っ張っていくつもりだった。実際に家臣たちの中でも信孝が家督を継ぐべきという見方が大勢を占めていた。勝家は例え秀吉が裏で何を画策しようとも自分に勝機があると思っていた。

 発起人の織田家筆頭家老の柴田勝家は、信長の三男・織田信孝を推した。しかしこれに対し秀吉は予想に反し長男・織田信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)を推した。次男の織田信雄は後継者として資質に欠けており、また三男の織田信孝と仲が悪かったので問題外で、3歳になったばかりの三法師という思わぬ候補者をあげたのである。

 柴田勝家は親代わりでもある聡明な三男の織田信孝を推し三法師に反対するが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉の「長子相続の筋目論」を支持したことで三法師が支持された。さらに三法師の後見人を三男・織田信孝にするという妥協案を秀吉が示したため、柴田勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなった。明智光秀討伐の功績があった秀吉が、この会議で主導権を握り、三法師が織田家を相続することになった。

 数え年でわずか3歳の三法師は安土城を相続したが、安土城は焼失していたため復旧工事が終わるまで、美濃を相続した三男・信孝の居城・岐阜城に預けられた。

 清須会議では後継者だけでなく、信長の領分割領地も行われた。秀吉は山城と丹波を新たな領地にした代わりに自分が治めていた北近江と居城・長浜城を柴田勝家に譲った。長浜城は越前と京の間にあり、勝家にとって悪い話ではなかった。さらに後に勝家は信長の妹・お市の方と結婚したが、この結婚は秀吉が仲介したのである。さすがに秀吉は人をたらし込むことに長けていた。

 織田信雄(次男)は伊勢に尾張を加え、三男・織田信孝は美濃国、信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。

 秀吉は明智光秀の旧領を得て増領して28万石となった。これにより領地においても羽柴秀吉は柴田勝家を凌ぐようになったが、織田家の当主は当時3歳の三法師(織田秀信)であり、秀吉はあくまで並み居る織田家重臣の1人にすぎなかった。さらに秀吉は柴田勝家とお市の方の再婚を斡旋して柴田勝家の機嫌をとった。

 しかし秀吉は明智光秀が山崎の戦いで使用した山崎城と男山城を改築し、山崎と丹波で検地を実施し織田家の諸大名と誼を結び、京都奉行に浅野長政(秀吉の正室・ねねの妹)・杉原家次(秀吉の正室・ねねの叔父)を据えるなど勢力固めに奔走した。

 そのため筆頭家老の柴田勝家は、1582年10月に滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。

 

信長の葬儀

 清洲会議で秀吉に煮え湯を飲まされた勝家は、お市の方を伴って越前に帰り上杉軍に備えた。信長の遺志を受け継ぎ織田家を守ることが勝家の信念だった。これに対して羽柴秀吉は、10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として信長の葬儀を行った。この信長の大規模な葬儀によって、柴田勝家は秀吉が自らの政権を樹立する事に気づき、秀吉に強い警戒心と敵意を抱いた。

 柴田勝家は他国の武将との連携を模索した。毛利輝元に打診して色よい返事を貰うが、それは形だけであった。また徳川家康にも接触するが、やはり力を貸しては貰えなかった。東西の有力大名の協力を得られなかった柴田勝家は徐々に追い込まれていった。そのうち冬になり越前は雪深くなった。

 織田信孝は周囲で何が起きているのか理解出来ず、秀吉と勝家の間を仲裁しようとしたが、後に秀吉と信孝は対立することになる。

 10月28日、羽柴秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議を反故にして、三法師が成人するまで織田信雄(次男)を織田家の当主として擁立して主従関係を結んだ。

 越前・北の庄城は冬の間、深い雪のため柴田勝家は雪で動けなかった。12月、秀吉はこれを好機ととらえ、柴田勝家に味方する近江、伊勢の武将を攻めて有利な状況をつくりあげようとした。12月9日、羽柴秀吉は諸大名に動員令をかけ5万の大軍を率いて堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。柴田勝豊は勝家と不仲な上に病床に臥していたため、すんなり秀吉に丸め込まれ降伏して秀吉は長浜城を容易に獲得した。

 秀吉は織田信孝(三男)が三法師を安土に戻さないことを大義名分に、勝家側の織田信孝を打倒すべく兵を挙げた。秀吉は12月16日には美濃に侵攻し、織田信雄軍と合流して、織田信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏させた。岐阜城に孤立した織田信孝は挙兵するが秀吉に敗北し、三法師を秀吉に引き渡たし和議を結んだ。三法師は岐阜城から仮館の安土城に移され、秀吉は実権を握り、天下統一は秀吉の手により成し遂げられようとした。

 1583年1月、反秀吉派の伊勢の滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城、関城、伊勢亀山城を攻め破った。これに対して秀吉は北伊勢に侵攻すると、滝川一益の居城・桑名城を攻撃した。しかし桑名城は堅固であり、滝川一益の抵抗にあって後退を余儀なくされた。また秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。

 伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であったものの優勢であった。しかし伊勢亀山城は蒲生氏郷や細川忠興・山内一豊らの攻撃で遂に力尽き降伏した。

 

賤ヶ岳の戦い

 伊勢の滝川一益の挙兵に呼応して、2月28日、柴田勝家は前田利長を先手として出陣させ、雪解けを待ち3月9日に自ら3万の大軍を率いて出陣した。3月11日に琵琶湖と余呉湖を分ける標高421mの賤ヶ岳で両軍は対峙した。秀吉軍5万、勝家軍はその半分だったが勝家軍には前田利家や佐久間盛政などの精鋭武将が陣を構えていた。山の戦いに長けていた勝家は尾根伝いに陣を敷き、山の間の細い道で挟み撃ちにする作戦をとった。

 兵力に勝る秀吉は平地での決戦に備え、勝家に対抗するため3段階で防御できる陣を敷いた。守りの固さに痺れを切らした勝家軍が飛び込んできたときに、砦の柵で食い止め撃破しようとした。しかし勝家は秀吉のこの作戦を読んでいて動かなかった。両者のにらみ合いが約1か月続くと、織田信孝が岐阜で再び反旗を翻し挙兵した。

 ここで羽柴秀吉は「滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃」に囲まれることになった。秀吉はまず織田信孝を打つため、4月17日美濃に向けて出陣した。ようやく勝家側の織田信孝と滝川一益が、秀吉を挟み撃ちにするべく兵を挙げた。
 秀吉はそれらを牽制するため2万の兵を率いて賤ヶ岳を離れた。そのとき勝家は秀吉側から寝返った武将から、秀吉が不在であること、また砦の守りが弱いことを知った。好機と判断したのが猛将・佐久間盛政である。4月20日早朝、柴田勝家の重臣で鬼玄蕃と呼ばれた猛将・佐久間盛政ら奇襲部隊が余呉湖畔を大回りして秀吉の留守部隊に横から奇襲を掛けた。すると予想通り守りが弱く、奇襲は成功し前線と本陣を分断することができた。秀吉側の中川清秀が討たれ中川隊は総崩れとなった。勢いに乗った佐久間隊は岩崎山に陣取っていた高山右近の部隊にも攻撃をしかけた。これをみた柴田勝家は攻撃を中止して戻るよう命じるが、佐久間盛政はこれを無視して敵陣深くまで侵攻して行った。

 その頃秀吉は、岐阜の信孝軍をめざし進軍し大垣まで来ていた。ところが大雨により揖斐川が氾濫したため、そこから先に進めることが出来ず足止めを食っていた。ここで秀吉は大垣城で事態を静観し、柴田軍が動き大岩山を占領したと報告を受けると、ただちに軍を引き返して賤ヶ岳へ向けて疾走した。

 大垣城から50キロの行程を6時間ほどで引き返し反撃した(美濃大返し)。賤ヶ岳へ向かう街道の家々に命じ、松明を焚かせ握り飯を用意させた。兵士たちは握り飯を食べながら街道を駆け抜けていった。50キロの道のりをわずか5時間で走破し、まさに中国大返しの再現であった。

 佐久間盛政の眼前には信じられない光景があった。岐阜にいるはずの羽柴秀吉が、軍勢を整えて賤ヶ岳に戻ってきたのだった。秀吉が岐阜に向かったのは柴田軍を誘い出すための計略で、柴田軍が動けばすぐに引き返す作戦だった。動揺した佐久間隊に秀吉軍が襲い掛かり、佐久間隊は危機的な状況に陥るが、柴田勝政が救援に向かい秀吉軍と激闘を展開した。佐久間盛政は秀吉の軍勢が戻ってくるのは早くても明日以降で、それまでに賤ヶ岳を制圧して有利な状況をつくろうとしていた。しかし兵力で上回る秀吉軍の攻撃に柴田軍は次第に疲弊していく。

 劣勢に立った柴田軍にさらに追い討ちをかける事態が発生した。味方の前田利家隊が突如戦線から離脱したのである。さらに金森長近、不破勝光も離脱し、これをみた柴田軍の兵士に動揺が走り脱走が相次いだ。前田利家といえば後の豊臣政権の重鎮で、権力をきわめた秀吉に対し唯一ものが言える人物だった。ところがこの時の前田利家は柴田勝家の部下だったので勝家に協力していたのである。しかも前田利家は秀吉の古き良き友であり、足軽の時から苦楽を共にし、本人だけではなく妻同士も仲がよかった。そのような立場に前田利家は苦悩し、合戦のさなかに戦いを放棄し、勝家を裏切ったのである。これにより戦局は秀吉有利に動いた。

 ついに柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北の庄城に退却した。柴田勝家は城に火を放ち妻のお市の方とともに自刃して果てた。佐久間盛政は越前で捕らえられ、秀吉のもとに引き出された。佐久間盛政の武勇を惜しんだ秀吉は自分の家臣になるように説得するが、盛政はこれを拒否して山城国槙島で斬首となった。

 秀吉はさらに加賀国と能登国をも平定し、両国を前田利家に与えると、5月2日には織田信孝を兄・織田信雄の命令で切腹させた。伊勢で挙兵した滝川一益も健闘したが降伏開城し、5月末には賤ヶ岳の戦いは完全に終結した。

 

賤ヶ岳の七本槍

 賤ヶ岳の戦いで秀吉方で特に活躍した7人の武将は後世に賤ヶ岳の七本槍とよばれている。7人とは福島正則、加藤清正、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明である。有力な家臣を持たなかった秀吉が、自分の子飼いの武将を過大に喧伝したといえる。7人というのは語呂合わせで、一柳家記には先懸之衆として七本槍以外に桜井佐吉、石川兵助一光、石田三成、大谷吉継、一柳直盛を含めた羽柴方の14人の若手武将が武功を挙げたとしている。

 この14人は実際に感謝状を得て数千石の禄を得ており、豊臣政権において大きな勢力を持った。しかし福島正則は「脇坂と同列にされるのは迷惑だ」と語っており、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったとされており、当時から「七本槍」は虚名に近いとされている。

お市の方と三姉妹

 賤ヶ岳の戦いは、柴田勝家の敗北で幕を下ろしたが、勝家が25歳年下の織田信長の妹・お市の方と結婚したのはその1年前であった。多忙だった勝家との生活に夫婦らしいことはなかったと想像できる。柴田勝家は敗北して北ノ庄城へ帰えると、お市の方に逃げるよう勧めたが、お市の方は「二度も逃げたくない」と言って、勝家と自害の道を選んだ。お市の方は一度浅井家に嫁いだが、信長によって浅井が滅ぼされた後、織田へと戻り、その後、柴田勝家に嫁いでいた。2度に渡って嫁いだ家が滅ぼされ、最後には自害、戦国時代とはいえ過酷な運命だった。
 柴田勝家の辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」(夏の夜のように短くはかない私の名を、のちの夜までも伝えてくれよ、山ほととぎす)で、お市の方の辞世の句は「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそう ほととぎすかな(夏の夜のほととぎすの鳴き声が、別れの悲しさをさそっているように聞こえる)で、二人ともホトトギスを用いている。お市が自害を選んだ理由は不明であるが、秀吉の女癖の悪さをお市が知っており、戦国時代ならではの滅びの美学だったのかもしれない。壮絶な死を遂げた勝家とお市の方は、福井市にある柴田家の菩提寺・西光寺で静かに眠っている。
 お市の方の娘である三姉妹は秀吉側に降り、後に長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生み、 次女・初は若狭国主となった京極高次の正室となり、三女・江は徳川家康の三男・秀忠の正室となり三代将軍家光と忠長兄弟を生み、後水尾天皇の中宮となって女帝・明正天皇の母となった和子を生むことになる。

 

その後の勢力

 秀吉はこの合戦の勝利によって、自らの足場を完全に固めた。以後、信長のやり残した天下統一という目標に向かって驀進してゆく。 しかし戦いは名目上、織田信雄と織田信孝両陣営によって行われ、当主となった三法師は戦いに関与してはいない。幼君で直臣のいない三法師が、その後「織田家当主」でありながら衰退していった。
 勝利者となった織田信雄は、滝川一益の領した伊勢長島を接収して勢力は増大したが、羽柴秀吉を無下に出来ず、織田家の政治を秀吉に徐々に移譲することになる。羽柴秀吉はこの戦いで中心的役割を果たし、表面上織田信雄を立てたが、多くの権力を手にすることになる。

 柴田勝家は脱落し、丹羽長秀、池田恒興も秀吉に従うことになった。さらに秀吉は前田利家や堀秀政などの織田家の家臣も懐柔し、結果的にのちの豊臣政権を誕生させることになる。羽柴秀吉は滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃の包囲網を破ったが、次に残された毛利輝元と徳川家康であった。

 

徳川家康との対立と朝廷への接近

 1583年、秀吉は大坂・本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築いた。信長が築城した安土城を手本にして、水陸交通の要所であった石山本願寺の跡地に大坂城を築城し天下統一への意思を示した。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、大阪城のあまりの豪華さに驚き「三国無双の城である」と讃えた。
 翌年、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発して対立した。3月6日、信雄は秀吉に内通したとして重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき織田信長の盟友で、東国において一大勢力となった徳川家康が織田信雄に加担し、さらに長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。
 徳川家康らの反秀吉勢力に対し、秀吉は調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけ、さらに美濃の池田恒興(勝入斎)に尾張国と三河国を恩賞に与え味方につけた。そして3月13日、池田恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、初戦は秀吉方が優勢であった。

 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を羽黒の戦いで破り、さらに小牧に堅陣を敷いて秀吉と対峙した。秀吉は雑賀衆に備えて大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣すると、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し、両軍は長期間対峙することになり、戦線は膠着状態になった(小牧の戦い)。このとき羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であった。
 このような中、各戦で敗れ雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将にして、4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし奇襲にもかかわらず、行軍が鈍足だったために家康の張った歩哨網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。
 秀吉は兵力では圧倒的に優位であったが、相次ぐ戦況悪化から秀吉自らが攻略に乗り出すことになった。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など信雄方の美濃の諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようとした。

 また織田信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒され、11月11日、織田信雄は家康に無断で秀吉と単独和睦をした。織田信雄が講和したことで、織田家再興の戦いの大義を失った家康は三河に撤退することになった。

 やがて秀吉は家康に自分への臣従を求め、自分の妹を家康の新たな正室として差し出し、母を人質として送った。こうした秀吉の容赦のない攻勢に対して、さすがの家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとった。家康は次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(人質)として差し出し講和した。
 天下統一を目指して大名を次々と従えた秀吉であったが、元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁たる征夷大将軍に就任することは不可能だった。そのため秀吉は皇室との縁を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令しようとした。
 徳川との戦いの最中の10月15日、秀吉は従五位下左近衛権少将に任官された。 秀吉は官職でも主家の織田家を凌駕することになり、信雄との和議後は自ら「羽柴」の苗字を使用しなくなった。

 

関白任官と紀伊・四国・越中攻略
 1584年11月21日、秀吉は従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。秀吉はかねてから朝廷で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、1585年、秀吉は近衛前久の猶子となって朝廷から関白に任じられた。翌年には朝廷から新たに豊臣の姓を賜り太政大臣に就任した。

 なお秀吉のことを後に太閤と呼ぶが、これは関白の前任者を意味している。秀吉は関白や太政大臣となったことで、自分が朝廷から全国の支配権を委ねられたと見なした。また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前で秀吉自身への忠誠を誓わせた。

 また紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破り、藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させ紀伊国を平定した(紀州征伐)。四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将に黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず降伏した。長宗我部元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。四国の長宗我部元親を降伏させると、諸国の大名に交戦停止を命じ、これに違反したとして九州の島津義久を降伏させた。1590年、秀吉は小田原の北条氏政(うじまさ)を滅ぼし、伊達政宗らの東北の諸大名を降伏させ天下統一の事業を完成させた。

  また越中国の佐々成政を討伐し、成政は戦わずに剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介があったため、秀吉は成政を許して越中新川郡を与えた。このようにして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定された。


関白辞令の宣旨
 
この年に追放した者を匿うことのないよう警告としている。「追放した者を隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている。
 1586年9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任し、ここに本格的な豊臣政権を確立した。

 同年、天正地震の影響もあり、徳川家康に対しては融和策に転じ妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

秀吉の経済力

 秀吉も信長同様に豊富な経済力を誇っていた。その基盤は畿内を中心とした約200万石の直轄領であった。京都や大坂・堺・伏見・長崎などの重要都市、さらに佐渡・石見・生野などの鉱山を支配して、天正大判などの貨幣を鋳造した。ただしこれらの貨幣は主に贈答用に使用され、貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからである。信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に命じ、一里塚を築き、信長が進めてきた政策を完成させた。


九州平定とバテレン追放令
 九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきた。1585年、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷の権威を以て停戦命令を発したが島津氏はこれを無視したため、秀吉は九州に攻め入ることになる。1586年には豊後戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監として長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍が島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により長宗我部信親や十河存保が討ち取られ大敗した(戸次川の戦い)。
 だが翌年には弟の秀長と軍監・黒田孝高が20万の大軍を率いて九州に侵攻し、島津軍を圧倒して降伏させ九州を制覇した。また備後国へ亡命していた足利義昭のもとを訪れ、義昭は京都に帰り将軍職を辞して出家した。このようにして秀吉は西日本の全域を服属させた。
 九州平定すると、秀吉は住民が強制的にキリスト教へ改宗させられて、神社仏閣が破壊されていることを知った。さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買していることを知り、秀吉はイエズス会のガスパール・コエリョを呼び出しバテレン追放令を発布した。しかしこの段階では事実上キリシタンは黙認されていた。

朝臣としての聚楽第
 同年10月1日には京都にある北野天満宮において千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけたため、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、秀吉も参加して黄金の茶室も披露された。
 1587年、平安京大内裏跡(内野)に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽第」と名付けた。 1588年4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応を行い、徳川家康や織田信雄ら有力大名に秀吉への忠誠を誓わせた。また同年には毛利輝元が上洛し臣従した。さらに、刀狩令や海賊停止令を発布して全国的に施行した。

小田原征伐天下統一
 1589年、側室の淀殿との間に鶴松が産まれると、鶴松を後継者に指名する。同年、北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の家臣・鈴木重則の名胡桃城を奪取したことをきっかけに、秀吉は関東へ遠征して北条氏の本拠・小田原城を包囲した。

 北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略され、本城である小田原城は3か月に渡わたり篭城したが、秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として遣わし、北条氏の父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。 これによって秀吉の天下統一事業がほぼ完成した。

 北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼさず、従属・臣従とした。北条氏の領地を得た徳川家康は石高250万石を有し、秀吉の222万石より多い石高を持つことになった。

 1591年、弟の豊臣秀長、鶴松が相次いで病死したため、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、秀吉は前関白の尊称である太閤と呼ばれるようになる。ただし秀吉は全権を秀次に譲らず、実権を握ったまま二元政を敷いた。

 同年、茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹し、その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。

 また同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした(九戸政実の乱)。南部信直の救援依頼を受けて、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍勢となり、降伏した九戸政実・実親は一族とともに斬首され、九戸氏は滅亡して乱は終結した。

 またこの年には、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のため、或いは戦乱のために洛中と洛外の境を明らかにするためであった。

 

秀次切腹事件
 1593年8月3日に側室の淀殿が秀頼(お拾)を産むと、秀吉は新築したばかりの伏見城に母子をともなって移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に関白・豊臣秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にいて仲を取り持つつもりでいた。

 秀吉は日本を5つに分け、その4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲るつもりでいた。 また将来は前田利家を仲人に秀次の娘と秀頼を結婚させ両人に天下を継がせようとしていた。ところが秀頼の誕生によって、秀次は「関白の座を追われるのではないか」と不安感で耗弱し情緒不安定となった。
 1595年6月、突然関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がった。石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白の5人が聚楽第訪れ、秀次に謀反の疑いがあるとの五箇条の詰問状を示し、清洲城に蟄居を促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った。さらに使者が訪れて伏見城に出頭するよう促され、秀次は伏見城に参上するが、登城すら許されず城下の屋敷に留め置かれ、その夜に剃髪を命じられ、高野山青巌寺に流罪・蟄居の身となった。

 7月15日、秀次の元に上使の福島正則・池田秀雄・福原長堯が訪れ賜死の命令が下されたことを伝えた。同日、秀次は切腹し小姓や家臣らが殉死した。8月2日、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女ら29名が処刑された。遺体は一ヶ所に埋葬されそこに建てられた塚は「畜生塚」とされている。

 秀次の切腹は、秀頼の誕生により秀次を疎ましく思ったこと。つまり秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、秀次を除いたという説明が従来からなされている。 しかし秀吉と秀次の間に統治権の対立や謀反があったかどうか、また切腹の真相を記した文書が存在しないため本当の原因は不明なのである。 
 また秀次は天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら、「殺生関白」と呼ばれるほど素行に問題があったとされている。秀次の辻斬り乱行、秀次が自ら罪人の首を撥ね、妊婦の腹を裂いて中の子を見て楽しんだ等の悪行が複数の残されている。

 秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は関白としてあるまじき行動が多かったことが身を滅ぼしたのであろう。秀次の暴虐を強調することは、秀次一族の誅殺を正当化することでもあり、これらの多くの逸話は創作か誇張で殺生関白の史実を疑問視しする見方もある。

 その他、秀次失脚の原因として、秀次には侍医がいたにもかかわらず、病の際に天皇の主治医をよびよせたことが、関白の地位の乱用した越権行為と判断され失脚、切腹につながったと指摘する説もある(天脈拝診怠業事件)。

サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑
 1596年10月に土佐にスペインの貨物船サン=フェリペ号事件が荷物を満載したまま遭難し土佐の浦戸に漂着した。救助した船員たちを秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたると驚くべき事実があきらかになる。
 サン・フェリーペ号の水先案内人が増田長盛に世界地図を見せ「スペイン国王は、まず宣教師を派遣しキリシタンが増えると、次は軍隊を送り信者に内応させて、その伝道地の国土を征服する。こうして世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのである。秀吉は「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ、フィリピンを武力制圧し、同じように日本を制圧するため測量に来た。このことを都にいる三名のポルトガル人のほか数名から聞いた」という内容の書状を書いており、同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。

 翌年、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令を挑発しているとして、京都奉行の石田三成に命じて京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。石田三成はイエズス会関係者を除外にしようとしたが果たせず、2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。イエスズ会は26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたる宣伝して、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ侵攻による団結心をたかめようとしたのである。

朝鮮侵略

  大航海時代の幕開けと共に、アジアの国々はキリスト教を尖兵にしてしてスペイン、ポルトガルが植民地化していた。このように当時ヨーロッパの国々で何が起来ていたのか、アジアの国々がヨーロッパの国々に植民地化されたことははあまり言われていない。

 宣教師たちはキリシタン大名を使い、布教を強力に推し進め、その土地の神社仏閣を破壊し、先祖のお墓を壊して地元の住民との争いが耐えなかった。
 天草四郎で有名な島原へ行ってもキリスト教会はない。キリシタンは少数派で、キリシタンは先祖代々の墓を壊した。このキリシタンの行いに一度はキリスト教の布教を許した大村純忠も、地元住民と隔離するために、誰も住んでいない山に囲まれた場所を港に提供している。それが長崎で、その後南蛮貿易によって大きく発展するが、そのキリシタンが猛威をふるっている時に登場したのが秀吉であった。
 宣教師やキリシタンの行いに激怒し、イエズス会の領土となっていた長崎を取り上げ、全面対決の姿勢を示した。つまり秀吉は神国日本を異人の手から救おうとしたのである。ちょうどその当時、遠いヨーロッパでスペインの無敵艦隊が当時の新興国のイギリスから壊滅的な打撃をうけ一挙に制海権を失ってしまう。そのために日本侵攻ができなくなり、宣教師は後ろ盾を失い秀吉に対抗できなくなる。秀吉が考えたのが日本の安全保障だった。そのために朝鮮半島がこのままではまた日本の安全が脅かされると思ったのである。このように秀吉は日本の安全保障を考えた国際人であった。

 

文禄の役
 1591年8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めた。1592年3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を総大将とする16万の軍勢を朝鮮に出兵させた。日本軍は朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵が抵抗し明の援軍が到着したことから戦況は膠着状態となり、1593年に明と講和の交渉が開始された。

慶長の役
 1596年、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は「全羅道をことごとく成敗し、忠清道・京畿道にも侵攻する。その後は拠点となる城郭を建設し、城主を定めその他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令した。

 1597年、小早川秀秋を総大将に14万人の軍を朝鮮へ再度出兵させ、漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させ進撃を開始した。2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出すると、日本軍は作戦通り文禄の役の際に築かれた城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いた。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け大破する(第1次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を城郭群に残して防備を固めると、7万余の将兵を本土に帰還させ、慶長の役の作戦目標は完了した。

 秀吉は1599年にも大規模な軍事行動を計画し、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように諸将に命じたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されなかった。

最期
 1598年3月15日、秀吉は醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営し各地から700本の桜を集めて植えさせ、秀頼や奥方たちと1日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。洛中の屋敷として御所近くに京都新城をつくったが、参内の宿所として使用したが移居することはなかった。

 5月に入り秀吉は病に伏すようになり、日を追う毎に病状は悪化した。5月15日には「太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚」という11箇条からなる遺言書を五大老と五奉行に書いた。これを受けた彼らは起請文を書き血判を付けて返答した。なお五大老とは徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元で、五奉行は石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以のことである。

 秀吉は自分を八幡神として神格化し、遺体を焼かずに埋葬することを遺言し、自分の死が近いことを悟った秀吉は、7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び、家康に秀頼の後見人になるように依頼した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を書いた。秀吉の病は「甲斐善光寺から京都方広寺へ移された信濃善光寺の本尊の阿弥陀三尊の祟り」と噂され、三尊像は8月17日に信濃へ向けて京都を出発したが、翌18日に秀吉はその生涯を終えた。死因については不明である。
 秀吉の死は秘密にされたが、秀吉の死は民衆の間に広まった。秀吉の遺骸はしばらく伏見城に置かれ、高野山に八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築された。翌年4月13日に伏見城から遺骸が運ばれ高野山に埋葬され、4月18日に遷宮の儀が行われ、朝廷から豊国大明神の神号が与えた。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」に由来するが、豊臣の姓をも意識したものでもある。神として祀られたため葬儀は行われていない。

 

死後

   豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制がつくられ、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。当時の日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮の連合軍と第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いな どで勝利したが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び全軍が朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知 るところとなった。朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍や民に大きな被害をもたらし、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し滅亡する 一因となった。日本でも征服軍の中心であった西国の大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。

秀吉の容貌

   秀吉が猿と呼ばれたことは有名で、「太閤素生記」では秀吉の幼名を「猿」と書いてある。また松下之綱は「猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげに猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。

 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉の顔は小さく、色黒で猿に似ている」と書き、ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語っている。

 秀吉は指が1本多い多指症だった。右手の親指が1本多いため、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた。現在では多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になってもその事実を隠すことがなかった。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせている。
 身長は小柄で、身長は150cm以下から160cm余まで諸説ある。髭は薄かったため、付け髭をしていた。当時の武将は髭を蓄えるのが習慣で、髭の薄い者は付け髭をするのが普通であった。

秀吉の女たらし

 戦国時代の多くの武士は男色を好み、麗しい美少年を側に置いていた。男色に関する逸話は織田信長や武田信玄など多くの戦国大名に残されている。
 しかし秀吉については、女性に関する話ならたくさんあるが、男色の話は全くがない。儒医・江村専斎の「老人談話」によると、美少年の小姓が目に留まった秀吉は少年に「お前に姉か妹はおらんのか」と尋ねる。このことからも女性好みで、男色には興味がなかったことがわかる。秀吉は男色を好むような武士階級ではなく、農民出身だったからとの説がある。

 織田信長が秀吉に書いた書状が残されている。この手紙は秀吉に宛てたものではなく、その妻・おねに宛てたものである。秀吉が信長配下として頭角をあらわしてきた頃、おねは信長のいる安土城を訪ね信長に会見した。その際、秀吉の女癖の悪さを訴えたらしく、それを受けての信長の返事である。

 信長がおねに宛てに書いたのは「この度は訪ねてくれて嬉しく、土産もありがたい。そのほうは前に会ったときより大変美しくなった。秀吉がいろいろ不満を申すとのことだが言語道断である。あの剥げ鼠(秀吉)には、どこを探してもそのほうのような女性は見つかるまい。これからは明るく振舞い、やきもちなど焼かずに世話をしてやりなさい」という内容である。おねを気遣った信長の優しい言葉で、しかも「この手紙を秀吉に見せなさい」と言い、さらに信長の公式文書を示す「天下布武」の朱印まで押してあった。この手紙をおねに渡されて読み終えた秀吉はどのような表情をしたのか。いずれにしても私たちの抱く信長のイメージが一変するような書状である。

 秀吉は他の大名と同様に側室を置いたが、正室のねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じて少なかった。秀吉との間に子供が出来なかった側室たちは、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁して再婚してから子供が出来た者が多い。そのため秀吉の子とされる秀頼は、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説がある。これについては秀頼だけでなく鶴松の時も同じ噂があった。
 秀吉は子宝に恵まれなかったが、長浜城主時代に一男一女を授かっていた。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸(秀勝)である。長浜で毎年4月に曳山祭がおこなわれるが、これは男子が生まれたことで喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が山車を作り、この山車を曳き回したことが長浜八幡宮の祭礼の始まりと伝えられている。石松丸(秀勝)は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝と同じ名を与えている。

 秀吉は若いころから織田信長の妹、美人の誉れ高いお市の方に恋いこがれ、お市は秀吉を嫌い柴田勝家と再婚し滅びの道を選択したとされているが、このことを示す資料はない。
 秀吉は女性大好きかつお姫さま好みで、高貴な家の出身者に執着したことである。これは信長や徳川家康には見られず、多くの妻妾をもつがその大半は名もない家の娘で、子連れの未亡人も多くいた。
 秀吉はなにが何でもお姫さま好みで、名前が明らかな愛妾をあげてみると、淀どの(お市の方の娘)、三の丸どの(信長の娘)、姫路どの(信長の弟の信包(のぶかね)の娘)、松の丸どの(京極高吉の娘)、三条どの(蒲生氏郷(がもう・うじさと)の姉妹)、加賀どの(前田利家の娘)となる。有名であるこは、それだけ寵愛の度が深かったのである。しかもそこにはそして絶対の主人であった織田家の関連の女性が3人も含まれている。秀吉にしてみれば、織田家のお姫さまを追い求めても、お市という特定の女性である必要はなかったのであり、そののズレがが歴史研究と歴史小説の違いになる。