豊臣秀吉

 貧しい農民出身でありながら織田信長の後を継いで天下統一を果たしたのは信長の家臣・豊臣秀吉(木下藤吉郎)であった。秀吉は人心を取り込むのが上手で、まさに成り上がりの人生を送った。

 織田信長に「さる」と呼ばれながら仕えたが、秀吉を猿と呼んだのは織田信長だけでなく、秀吉が関白になった時の落書には「木の下のさる関白」と書かれているくらいである。また無類の女好きで、それがまたご愛嬌といえるほどであった。

 人間は生まれた環境によって人生が決まっていると思いがちである。しかし厳しい身分制度の時代に、豊臣秀吉は「自分の人生を変えることができる」ということを教えてくれた。放浪者から関白に上りつめたのは、本人の努力や運もあっただろうが、秀吉の出世は武勇があると言う訳ではなく、「人」を動かす「人望」と「智略」に長けていて、それがまさに痛快であるゆえに人気が高いのである。

 秀吉は出世するたびに何度も名前を変え、ついには天下人にまでなった。日本史史上最大の出世頭でさながら出世魚と呼ばれるように、成長するごとに呼び名が変わった。戦国時代には秀吉のように低い身分から大名にまで出世した人物は他にもいるが、天下人になったのは秀吉ひとりである。織田信長や徳川家康は生まれながらに大名で領地をもっていた。そのような基盤を持たない秀吉が天下人になれたのは、信長によって引き立てられたことが大きかった。
  信長についていくことで、その勢力の拡大に伴い、身分を上昇させていくことができた。その信長の勢力の拡大に、秀吉は力を尽くして大いに貢献し、この二人は理想的な関係にあったと思われる。さすがに信長も、秀吉が将来関白となり、朝廷から豊臣の姓を賜るほどまでに出世するとは予想していなかったであろう。いやむしろ秀吉は信長もとは別の方法で天下人となった。信長は「天下布武」のため、寺院や朝廷を利用はしても、それを超える存在になろうとした。秀吉は朝廷を利用して関白となり、天皇の命令として天下人になったのである。信長は征夷大将軍などの位は必要としなかった。しかし秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康に負けているので征夷大将軍の資格はなかった。そこで利用したのが天皇を補佐する関白の地位であった。天皇の命令で秀吉が責任をもってこの国を治めるとしたのである。

 自分の努力と才覚で立身出世をして、秀吉は関白まで登りつめたが、この姿は高度成長期の日本とあいまって国民の圧倒的支持を得ている。あの田中角栄を「今太閤」と称したように、卑しい身分の秀吉は人脈をつくり、主人を選び、選んだ信長にとことん忠誠を尽くし、時を待ち天下人となった。豊臣秀吉に学ぶべきことは多い。

 

秀吉の出生

 秀吉の出生について聞かれると、誰もが答えに窮してしまう。それは秀吉の生まれについて、本当のことは分かっていないからである。
 1537年、秀吉は尾張中村(名古屋市中村区)で木下弥右衛門となか(大政所)の子として誕生するが、「太閤素性記」によると父の木下弥右衛門は足軽または農民とされているが、あるいはそれ以下の身分だった可能性が高い。いずれにせよ秀吉は最下層の出身で、それゆえに侍にあこがれ、低い身分ゆえに周囲から嫉妬も受けず出世することになった。

 幼名は「日吉丸」であるが、これは「絵本太閤記」によるもので、本当かどうか疑問視されている。秀吉はのちに多くの伝記を書かせているが、数種類ある各伝記によって素性は異なり、若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていたことから、秀吉は「木こりで端柴売り」で、そのため羽柴(端柴)に改姓したとの説がある。

 本能寺の変を記した惟任退治記には「秀吉の出生、これ貴にあらず」と書かれているが、関白任官記では「父・木下弥右衛門は萩の中納言で、大政所が宮仕えをした後に生まれた」と書かれ、天皇の落し子を暗示させている。

 一般に広く流布しているのは「父・木下弥右衛門の死後、母・なか(大政所)は竹阿弥と再婚したが、秀吉は束縛を嫌い竹阿弥と折り合い悪く、15才の時に家を出て侍になるために遠江国に行った。あるいは7歳で実父と死別して8歳で光明寺に入るが、学問などはせずに一日中竹木で槍術や剣術のまねごとをし、これを見兼ねた寺の僧が寺から追い出し、15歳の時に針売りをして放浪していた」となっている。父親の姓・木下についても、妻・おねの母方の姓で、それまでは名字を持つことすらできない低い身分だった。さらに秀吉の出自について、与助という名のドジョウすくいだったとする説もあり、真相はまったく不明である。

 いずれにせよ親には見捨てられ、自分だけの力で苦労して生き抜いたことが良くわかる。15歳前後より東海地方で士官先を探すが、元々貧しいので旅費(生活費)がなく、針を売り歩きながらの放浪生活だった。針は重くなく、たくさん持ち運びができ、腐る事もないので効率のよい商売だった。
 織田信長や徳川家康などとは大違いで、自分一人で解決しなくてはならない環境下であり、自然に商売人の心構えを身に付け、話術・好かれる術を身に着けたのだろう。実力もない若造が、様々な実力者の協力を得て、織田家の中で出世して行けたのも納得が行く。たいていの人物であれば、農民から武家の家臣になり、家禄を得て生活が楽になっただけで満足してしまうが、それに満足せず「もっと」偉くなりたいと言う出世欲の凄まじさを感じる。
 秀吉の天下人になるまでの過程を見れば、多くの人たちは素晴らしいと感じるだろうが、豊臣秀吉は単に大出世したのではなく「苦労して出世した」ことがわかる。(下図:名古屋市中村区にある秀吉誕生の地)

蜂須賀小六
 若き日の秀吉(日吉丸)は木綿布子をぬう大針を安く買いこみ、これを行くさきざきで売り、飯代や草鞋銭にあてた。放浪しながら宿もなく夜は矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、夜盗の一団が通りかかり、その首領が蜂須賀小六であった。
 数頭の馬蹄の音に目をさますと、野武士めいた身ごしらえの男たちが日吉丸の頭のそばを馬で通り過ぎていった。寝ていた日吉丸は野盗のかしら蜂須賀小六に蹴とばされ、怒った日吉丸は小六の槍をつかんで、「無礼者」と怒鳴った。
   大きな声に驚いた小六は「こんなところに、山猿がおる」と笑った。「おもしろそうなやつ。だが、猿め、三日のうちにわしの刀を盗むことができたら、使うてやろう」といった。
 日吉丸は、三日目の雨の夜、軒先にかさを立てかけておき、いかにもしのび寄ってたたずんでいるかのようにみせて相手をゆだんさせ、そのすきをねらって刀を盗んだ。
 蜂須賀小六はその才知に舌を巻き、その後、小六が羽秀吉(日吉丸)の部下になる。この逸話の矢作川に橋が掛けられたのは江戸時代なので、これは作り話であるが、秀吉が蜂須賀小六の世話になっていたことは事実であり、蜂須賀小六の紹介で織田家に仕官したと思われる。
 蜂須賀小六は美濃と尾張の国境付近で水運業を営んでいた棟梁で「川並衆」と呼ばれる約2000人を率いていた。村落を襲って盗んだり、落武者狩りで刀・鎧をねらう野盗の首領であった。最初は斎藤道三に仕えていたが、次いで織田氏に協力するなど、固定の勢力に属さない木曽川流域に住む一種の独立勢力であった。
 その当時、大きな川は国境や領地の境になる場合が多く、その河川敷はどの勢力からも支配されない地帯になることがあった。そのため村を出た農民や罪を犯して逃亡している者などの「ならずもの」が河川敷に集まることが多かった。木曽川もそのような烏合の衆が集まり、普段は水運・舟渡しなどを行って生活費を稼いでいた。そのため自衛手段として集団で武装して戦闘もおこない「川並衆」として戦が起これば、金で雇われて戦に参加する「傭兵集団」の側面を持ち合わせていた。
 蜂須賀小六は秀吉よりも10歳年上であるが、秀吉に比較的早くから仕え人生を捧げた。美濃斎藤攻めの墨俣一夜城の築城などで活躍し、小六は秀吉にとって古参の家臣で、黒田官兵衛や竹中半兵衛と比べると活躍度は低いが、秀吉は蜂須賀氏を非常に大切にして、秀吉が四国を平定すると長年の労をねぎらい阿波一国を与えた。小六はこれを辞退するが、子の蜂須賀家政が阿波一国を受けている。
 
松下之綱
 日吉丸は木下藤吉郎と名乗り、15歳の時に今川氏の家臣・遠江(静岡県西部)の小領主・松下之綱に仕え、今川家の陪々臣(家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎は松下之綱にある程度目をかけられ、文字・武芸・学問・兵法などを学んだとされている。
 北条氏康が2万5千余騎を率いて富士川へ出陣し、今川も3万を以て迎えて相対した。やがて戦端は開かれ北条軍の先陣伊東日向の守祐国が5千余人を率いて川を渡ろうとした際、今川勢の将・朝比奈泰能が伏兵を以て迎撃しこれを破った。
 この時、藤吉郎は主・松下之綱に従って今川軍にいた。藤吉郎は糧食係であったが、ひそかに戦線に出で様子を伺うと敵将の日向守が傷手を負い追われていた。
 藤吉郎は躍り出て大声で「勝負」と呼び。日向守と渡り合った。藤吉郎はしょせん勝てないと馬の横腹目がけて槍を突き出すと馬は驚き日向守は川へ落馬した。藤吉郎は躍り込んで首を落とし、今川勢大勝の因をなした。これが藤吉郎の初陣の功名である。この初陣の真実性は不明であるが、正式な家臣と言うより、素質を見込まれた若き書生的な存在だったのだろう。
 ある時、蔵から物が良くなくなることから、試しに藤吉郎に蔵番をさせてみると、藤吉郎は「犬」と一緒に番に立ったので、蔵から物が無くなることがなくなったとされている。
 仕事をうまくこなしたが、人より優れているため妬まれ、木下藤吉郎は松下之綱の同僚を敵に回した。松下之綱は惜しみながらも木下藤吉郎に路銀(約3万円)を渡して、出て行くようにと追放した。
 この真相は不明であるが、いずれにしても冴えない日々を送っていたのであろう。後に出世した秀吉は、かつての主人だった松下之綱を大名の身分に取り立てている。秀吉を目にかけた松下之綱も、まさかそのような形で恩が返ってくるとは予想もしていなかっただろう。(下図:富士川の戦い。藤吉郎の初陣(左))

織田信長に仕官
 蜂須賀小六は、母親の実家近くの生駒家に出入りしていた。生駒家は藁の灰を売る豪商で、藁灰はただの藁灰ではなく、染色に使う灰汁媒染を使用しており、安定供給が難しかった。生駒家は一大消費地である京都をはじめ、灰汁媒染を日本の各地に出荷していた。
 この生駒家に吉乃(きつの)という出戻り娘がいて、この吉乃に惚れこんだ年下の青年がいた。その青年とは織田信長のことで、信長は吉乃のもとにいつも通いつめ、吉乃の間に3人の子供(信忠・信雄・徳姫)を得ている。

 さらに信長は生駒家に居候している奇妙な人物に気付いていた。下働きの禿げた鼠のような顔の小男で「おれの得意なことは早メシ大食い」などと笑い話をしたり、ワイ談で言葉たくみに吉乃にとり入り、その口添えによって信長に取り立てられた。これのが秀吉である。

 気性が激しく、一歩間違えれば斬られてもおかしくない織田信長に仕官を許してもらったのだから、それだけ藤吉郎にも才覚があったのだろう。

 1554年頃から秀吉は織田信長に小者として仕えた。 小者とは信長の身辺の雑用をする役目で、信長の使い走りや雑用係として仕えていた。馬の世話を命じられると、来る日も来る日も、暇さえあれば馬の体を撫で続け、そのため馬の体が鮮やかになり、これが信長の目に止まり草履取りを命じられる。

 有名な逸話として、ある冬の寒い日の夜のこと、信長が女部屋からの帰りに草履を履こうとすると温かくなっていた。信長は秀吉が尻に敷いていたとして「不届者め」と激怒し、秀吉を杖で打つが、秀吉は頑として「腰掛けてはおりません、寒い夜なので懐で草履を温めておりました」。藤吉郎が服を開くと、腹には草履の跡が残っていた。信長は秀吉のこのような心使いが気に入り台所奉行に命じた。

 秀吉は清洲城の台所奉行を率先して引き受け、薪奉行として倹約の上薪の費用を減らし、清洲城の石垣普請などで信長の関心を引くようになり、次第に織田家中で頭角を現していった。

 信長は大名でありながら、若い頃から町人たちと親しく付き合うなど、身分によって人を差別しない性格だった。そのため低い身分の兵士たちから人気があった。信長は能力のある者をそれにふさわしい身分に取り立てたので、低い階層の出身であった秀吉も、信長の元であればいくらでも出世することができた。

 秀吉自身も出世意欲は旺盛で、自から積極的に様々な仕事を与えてくれるように信長に申し入れた。そして実際に任せてみると、いつも抜群の功績を上げることから信長は秀吉を気に入って短期間で身分を引き上げていった。

 その後、秀吉は戦闘にも参加するようになり、足軽組頭という下級指揮官の身分に出世した。当時は戦乱の時代であり内政官よりも武官の方がより出世を望めた。そのため秀吉は自ら信長に申し出て兵士たちを指揮して戦闘に出られる身分にしてもらった。秀吉は体が小さく、腕力もさほど強くなかった。戦場で槍や刀を振るって活躍するのは難しかったため、主に作戦能力や調略の面で信長の覇道に貢献していく。

 

おね(北政所)との結婚
 1561年8月、秀吉は浅野長勝の養女・おね(北政所)と結婚する。おねは杉原定利の娘(次女)で、生まれてすぐに浅野長勝の養女となり浅野家の娘となった。母・朝日殿はこの結婚に反対したが、おねはその反対を押し切って嫁いだ。当時としては珍しい恋愛結婚だった。おねは賢い女性で、この結婚は秀吉の出世をおおいに助けていくことになる。おねは秀吉より身分が上だったので、おねには頭が上がらなかった。

 この時の秀吉はまだ貧しく、結婚式は藁と薄縁を敷いた質素なものであった。浅野長勝も秀吉と同じ足軽組頭で同じ長屋で暮らしていたのでこの結婚式に出ている。

 当時の足軽大将1名には足軽組頭が数名ついて、足軽組頭は30名前後の足軽を統率したので、足軽組頭は「軍曹」のような地位である。誰でも足軽組頭になれると言う訳ではなかったので、合戦で手柄を立てて足軽組頭になっていたと推測できる。

 1564年、秀吉は濃国の斎藤龍興との戦で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢基康に誘降工作を行い成功させている。最初に秀吉の名が記された史料は、1565年11月2日付けの手紙で「木下藤吉郎秀吉」と書かれている。このことから、その時点で秀吉は信長の部将の一人として認められていたことがわかる。

 織田家は新興の武家らしく発展性に富んだ家柄だったので、秀吉のように素性の怪しい者にとっても居心地がよかった。尾張は商業活動が盛んな地域で、人の出入が激しく、そのような土地柄も居心地に影響していたと思われる。姑のなか(大政所)とは結婚当初から同じ家に住み、実の母娘のように仲が良かった。前田利家の正室・まつ とは、ほぼ同年代で、木下藤吉郎とおね の結婚前後から親しい付き合いをしていた。(下:有馬温泉にある北政所ねねの像)

美濃攻略戦

 尾張を統一した信長は隣国の美濃(岐阜)の攻略に取りかかった。1561年に美濃の当主・斎藤義龍が急死すると、その後を息子の龍興が継いだ。この龍興は暗愚な人物で、家臣からの人望が薄く、信長にとっては美濃を奪い取る絶好の機会となった。信長は美濃に攻め込んで城を奪取するため、工作をしかけ各地の城主たちを寝返えりせていた。この時に秀吉は信長から工作を任されており、松倉城や鵜沼城などの美濃を拠点にした豪族たちを織田方に寝返えりさせている。秀吉は「人たらし」と呼ばれるほど交際や交渉に長けており、その才覚を活かして活躍した。秀吉は相手陣営の切り崩しに活躍した。

 美濃の複数の豪族たちを織田方に寝返えりさせることは、力で潰さなくとも敵の勢力を減少させ、味方の勢力が増えていくことになる。各地の豪族は自身の領地を持ち、自前の収入で家臣や兵員を養っていたので、勢力をまるごと寝返えりさせることは大きな功績であった。

 この頃から秀吉は「木下秀吉」という名を用いており、松倉城主あてに「木下秀吉」の名で領地の安堵を約束する書状を送っている。
 信長から軍を預けられ城の攻略に向かい、この美濃攻略戦で秀吉は部隊長にまでのし上がった。雑用係だった秀吉にとって異常なほどの出世だった。

 

墨俣一夜城
 秀吉の出世を決定するものとして、1566年の墨俣一夜城の話がある。美濃は元々は室町幕府の重臣・土岐氏が治める国であったが、まさに下克上の時代で、斎藤道三は土岐氏を追い出して美濃藩主になった。

 斎藤道三は息子の義龍に家督を譲るが、義龍は道三の実子ではなく土岐氏の血を受けついていた。そのため道三は義龍を疎んじ、家督を譲られた義龍も道三を親として認めなかった。斎藤道三と義龍が争いを起こし義龍が勝つが、道三は義理の息子・信長(濃姫の夫)に「美濃を信長に譲る」という遺言を書いていた。信長はこの大義名分を得て援軍を送るが、美濃の勢力は強く攻め落とすことはできなかった。

 美濃は作物が豊富な国だったので、美濃の名前もそこからきている。また美濃は交通の要衝でもあった。この頃の大名は国人(豪族)たちと完全な主従関係にはなく、契約を交わしているにすぎなかった。道三が亡くなってからも、義龍は元の主君・土岐氏の血を引くと信じられ国人たちの結束は強かった。信長が義龍の代になっても美濃を攻めきれなかったのは、義龍の力よりも美濃の国人の力であった。しかし義龍が若くして亡くなり、息子の龍興の時代になると徐々に国人との信頼が揺らいでいった。
 墨俣は稲葉山(金華山)のふもとを流れる長良川西岸ににあり交通の要所であった。稲葉山城(岐阜城)のような山城では、家臣は平時はふもとに住み、戦時の篭城に備えて城に食料を備蓄していた。篭城は援軍があって初めて篭城できるが、援軍がいない時は攻め手に有利になる。しかし攻め手側も、野営では敵の攻撃を恐れて兵の消耗が激しく、また食料がなくなれば引き上げる他はなかった。しかし墨俣に城があれば、見張りを除き兵は寝ることが出来き、墨俣は川の脇にあるので稲葉城への補給を断つことが出来た。
 墨俣は長良川と揖斐川(いびがわ)とが木曽川に合流する地域にあり、東美濃を制した信長は美濃を攻略するために墨俣の地に城を築こうとするが、これまでに何度も築城を試みるも、途中で斎藤勢にはばまれる屈辱を味わっていた。墨俣に城を築けば川は重要な補給路になり、夜の闇にまぎれて船で墨俣に補給が可能で、しかも稲葉城への心理的圧迫が大きかった。目の前に城を作られれば、美濃が滅びる不安を引き起こすことができた。この頃の戦いは「士気をなくした方が負け」で、1割の兵が死んだら大敗といわれていた。
 墨俣は織田氏と斎藤氏の勢力の狭間にあり、ここに城を築くのはかなり困難であった。織田信長は重臣・柴田勝家に命じて何度も墨俣に城を作らせたが、斎藤方の妨害を受けてすべて失敗に終わっていた。

 すると足軽頭の秀吉が築城に名乗りを挙げた。墨俣城は一夜城と呼ばれるが、上流には良質の木曾杉の産地があった。築城は秀吉が上流からいかだを組んで木材を運んだのである。

 秀吉は美濃の野武士たちを束ねる頭領・蜂須賀小六に協力を求めた。野武士は傭兵稼業を行う荒くれ者たちで、戦闘が起こる度に織田方についたり斎藤方についたりして戦った。また戦場に遺棄された武器や物資を拾って売り払うという追い剥ぎのような稼ぎ方をしていた。
 秀吉は放浪時代に蜂須賀小六に世話になったことがあり、その縁を活用したのである。蜂須賀小六の案内で敵国に侵入して木材を切ると、築城の建材をその場で組みたて、それを解体して川で墨俣に運び込んだのである。一から新築するよりも、既に組み終えた木材を再度組み上げる方が工期を大幅に短縮でき、このような工夫と知恵を用いて敵前での建築という困難な仕事を達成した。

 木曽川の海側は尾張(愛知県)、対岸は美濃(岐阜県)だった。この墨俣の一夜城は木曽川上流の森の中で木を伐採して組み立て、それを上流の川から流し、墨俣で再度組み立てて完成させてから城と川の間の木を伐採した。さらに秀吉は先に城壁を作り上げて、築城中の墨俣城に防御力をもたせ、その後から内部の居住区を作った。斎藤方の妨害を跳ねのけて築城を成功させたのである。

 稲葉城から見ると、墨俣城はあたかも一夜で出来たように見えた。小さな城であったが、その戦略的価値は大きかった。

 秀吉はそれまで誰にもできなかった築城を短期間で完成させ、秀吉の名は織田家や家臣の間に知れ渡り、この非凡な才能が信長の歓心を買い、信長から墨俣城主に任じられ、蜂須賀小六を家臣に加えることになる。この成功によって信長から一目おかれ、家臣の中でも際立って目立つ存在となってゆく。
 墨俣城の築城は川の上流の地理に詳しく機動力のある蜂須賀小六がいたので可能であった。この墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走り、斎藤義龍と完全な主従の関係ではなかった美濃の国人たちが信長方に傾くのは当然であった。国人は自分の領土を安堵してくれれば大名は誰でも良かったのである。木下藤吉郎と蜂須賀小六はお互いを知る間柄であった。その為、木下藤吉郎の巧みな話術により、蜂須賀小六の協力を得る事ができたのである。土木工事・利水工事にも強く操船や山岳戦も得意な川並衆2000人を味方にしたことは、木下藤吉郎は数万石の大名と同等の戦力を有していたのと変わらないことになる。

 秀吉が墨俣城の守将となった後、蜂須賀小六は秀吉の与力となり、斎藤氏を調略する案内役として活動した。 

竹中半兵衛

 竹中半兵衛はその頭脳でもって美濃の斎藤家に仕え、織田家との戦いで勝利に導くことが多かった。真面目な性格で有能な家臣であったが、新たな藩主・斎藤義龍に嫉まれ諫言しても聞き入れてくれなかった。

 竹中家は室町時代は美濃守護の土岐氏の家臣であったが、斎藤道三が当主になると道三に仕えた。斎藤道三は当主・土岐頼芸の妾・深芳野(みよしの)を譲られ娶ったが、道三の子・義龍(龍興の父)が10歳を過ぎると「自分の父親は、道三ではなく土岐頼芸なのではないか」との疑念が生じた。この疑念は成長するにつれ大きくなり、道三もそのことに気付いていた。龍義龍は優秀な武将で父・道三を死に追いやったが、その義龍も5年後に死去した。まだ14歳だった斎藤龍興が家督を継いだが、龍興は愚将で政務に無関心だった。竹中半兵衛は義龍に諫言するが聞き入れてもらえず遠ざけられた。

 稲葉山城(岐阜城)は難攻不落の城だったが、竹中半兵衛は稲葉山城を占拠するという荒業で龍興の目を覚まさせようとした。半兵衛は舅の安藤守就と作戦を練り「城内の弟が病気になったと聞き、良い医者を連れてきた」とウソをついて、城内にわずかな手勢で入り、城を乗っ取ると藩主・龍興を殺さずに逃がした。これを聞いた信長は「城をよこせば美濃の半分をやる」と誘ったが、竹中半兵衛はこれを断っている。

 竹中半兵衛にとっては、下克上が目的ではなく、諫言として城を乗っ取っただけなので、後に龍興に詫びを入れて城を返している。半兵衛は領土欲のない野心の薄い人物だったが、龍興は半兵衛を解雇すると稲葉山城から追い出してしまった。以後、半兵衛は美濃から離れ浅井長政の客分となり、1年後には旧領に戻って隠遁生活に入った。その後、秀吉は信長に願い出て、いわゆる「三顧の礼」で竹中半兵衛を自分の与力として迎えたのである。

 与力とは信長の家臣でありながら、他の武将の指揮下に入る者である。つまり信長は竹中半兵衛を家臣と認め、秀吉の命令に従わせるようになる。竹中半兵衛はその軍略の才を見込まれ、斎藤氏から離れて秀吉を支えるようになったのである。秀吉は自分の郎党をほとんど持たない身分だったので、有能な竹中半兵衛の取り込みは重大だった。また竹中半兵衛が秀吉の配下に入ったことは、秀吉のほうが信長より人望があったことを暗示させている。またこの頃には弟の秀長も配下に加わり、秀吉の元で働く人材も充実してきた。

 竹中半兵衛が秀吉の軍師となったため、美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄安藤守就氏家卜全の3人も信長側についた。美濃三人衆が団結すれば斎藤家も逆らえないほどの力を持っていた。そこで今が攻め時と織田信長は稲葉山城を攻めた。

 

大沢次郎左衛門

 大沢次郎左衛門は斎藤家の家臣で、妻は斎藤道三の娘であった。1566年12月に、秀吉の調停によって織田信長に寝返り、翌年1月5日に秀吉とともに清須へ行くが、織田信長は「この大沢なる者は武勇に優れているが、心変わりしやすい者で、味方として信じることはできない。今夜、腹を切らせよ」と秀吉に命じた。信長は優秀な大沢の変心を恐れたのである。秀吉は「降参してくる者に腹を切らせては、今後降参してくる者はいなくなります。ここは一つお許しになった方が」と何度も申し上げたが、信長は聞き入れなかった。

 秀吉は大沢の前へ行き「これこれの事情で何とも申し訳ないが、ここにいてはあなたの身に危険が起きる。どうか逃げて下さい。ご不審なら、私を一緒に連れていって下さい」と刀や脇差しを左衛門の前に投げ出して語った。大沢は秀吉の誠意に打たれ、今までの礼を厚く述べて無事に脱出した。その後の大沢の活躍は史料にはないが、この件を後に伝え聞き、秀吉の配下になりたいと思う者が多くなった。

 秀吉は信長の忠実な部下として知られているが、その秀吉は後に信長を次のように評している。「信長公は勇将ではあるが良将ではない。信長公に一度背いた者は、その者への怒りがいつまでも収まらず、その一族縁者はみな処刑しようとする。だから降伏する者からも敵討ちは絶えることはない。これは器量が狭く、人間が小さいからである。人からは恐れられても、大衆からは愛されない」。このことは秀吉の人柄を表している。

 

織田政権下での台頭

 美濃三人衆と呼ばれる有力な武将たちが臣従したのを機に、大軍を率いて斉藤氏の本拠である稲葉山城を包囲し、城主の斎藤龍興を追放し、信長は美濃一国をその手中に収めた。

 1567年に美濃の斎藤氏が滅亡すると、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との戦いが始まった。信長の天下布武が実践された最初の戦いで、秀吉は六角氏の近江箕作城の攻略戦で活躍し、さらに観音寺城の戦いで六角氏を負かすと、同年、信長の上洛に際して秀吉は明智光秀、丹羽長秀とともに京都の政務を任された。

 この頃には内政・調略だけでなく、軍の指揮官としての能力も信長から認められ、信長にすれば万能型の秀吉は使い勝手のよい家臣であった。同じように扱われた人物に明智光秀がいる。この二人はともに信長に仕えた武将であったが、いずれも信長から高く評価され、家臣団の中でも高い立場を得ていく。
 1569年、毛利元就が九州の大友氏と交戦すると、出雲奪還を目指した尼子氏の残党が挙兵し、尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に山名氏の背後を突くように出兵を要請したため、信長は秀吉を大将に兵2万を派遣した。秀吉はわずか10日間で18の城を落城させ、激しい攻撃を受けた山名祐豊は此隅山城から堺に亡命した。山名祐豊は同年、一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。こうして織田家の傘下に入った山名氏は、尼子残党に協力する形で毛利家と戦うことになる。

 

金ヶ崎の退き口

 1570年、信長は越前の朝倉義景討伐のため侵攻を進めたが、金ヶ崎付近で盟友の浅井長政の裏切りにより、織田軍は浅井と朝倉軍から挟み撃ちという絶体絶命の危機を迎えた。織田信長は即座に退却を決め、少数の護衛とともに戦場から逃走し、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿(しんがり)を務めた。殿(しんがり)とは撤退するときに最後尾になって、追手を振り切り、足止めをする部隊のことで、殿(しんがり)は大将の命を預かる最も重要な役目だった。このことから信長は秀吉や光秀を信頼し高く評価していたことが分かる。

 秀吉は苦戦を強いられながらも朝倉軍の攻撃をしのぎ、京に戻った信長の元に帰還した。信長はこの秀吉の働きを褒めたたえ、黄金数十枚の褒美を与えている。こうして秀吉は織田軍の危機を救い、信長からの信頼を更に厚くした。

 軍勢を整えなおした信長は、朝倉氏に加勢した浅井長政への報復戦に打って出た。浅井長政の城・小谷城は難攻不落とされ、信長は城攻めを諦め、城から浅井勢を引きずりだして野戦で勝負することになる。
 信長はまず横山城を包囲した。この横山城は近江を南北に結ぶ重要な場所にあり、ここを信長に抑えられると、浅井氏の勢力は分断されることになる。この横山城を見捨てることのできない浅井長政は、横山城の側を流れる姉川に陣を敷いた。

 

姉川の戦い

 浅井長政の軍勢は朝倉の軍が加わり1万5000人、対する織田の軍勢は援軍の徳川家康軍を加え2万人であった。この両軍は姉川を挟んでにらみあった。徳川軍は朝倉軍と対峙したが、徳川軍は兵士の数では不利であったが、徳川軍には大久保忠世、本多忠勝、榊原康政という屈強な武士がそろっていた。浅井軍は自分たちの横山城を取り返すという意気込みから織田信長の軍より強かった。織田の軍は13段の構えをとったが、11段まで崩されてしまい、一時は姉川から1キロも後退した。

 その時、少ない兵で朝倉を追い込んでだ徳川の軍勢1000人ほどが、信長を攻める浅井軍の右翼から突入し、さらに横山城を包囲していた兵も信長の危機を救うため左翼から突入した。徳川家康らに助けられた織田信長は姉川の戦いに勝利したが、この激戦は9時間続き、姉川は血で赤く染まった。織田信長はその後、横山城を完全に攻め落とし秀吉を城主にした。

 その後の小谷城の戦いでは、秀吉は3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落し、浅井・朝倉との戦いに完勝した。1573年、浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井氏の旧領を与えられ、今浜の地を長浜と改め長浜城城主となった。この頃、秀吉は木下から羽柴に名を改めている(羽柴秀吉)。改名したのは「織田家の有力家臣・丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらった」とする説が一般的である。秀吉は長浜の統治政策として、農民の年貢や諸役を免除した。そのため近在の百姓が長浜に集まり、さらに近江の商人が集まり、秀吉は旧浅井家臣や石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。

中国地方攻略

 1575年、長篠の戦いに従軍し、鉄砲隊が武田の騎馬隊を打ち破り、鉄砲隊の重要性が認識された。翌年には北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させている。

 1577年、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家とぶつかり無断で帰還した。その後、勝家は手取川の戦いで上杉謙信に大敗しているが、秀吉の戦線離脱は信長への叛逆と同様のことである。信長は柴田勝家の命令に逆らった秀吉に激怒し、秀吉も切腹を覚悟した。
 秀吉は長浜城に戻ると、お祭りのようにドンチャン騒ぎをして金銭を惜しげもなくばらまいた。もし秀吉が信長への反乱を企てていたのならば、兵糧武器を買い集め、決戦に備えて軍資金を貯えねばならない。ところが逆に金銭をばらまくことで、自分に謀反の気持ちがないことを示したのである。このことによって秀吉の謀反の容疑は見事に晴れた。
 ちょうどそのとき、大和信貴山城で反乱を起こした松永久秀の討伐命令が下り、織田信忠による松永久秀討伐に従軍して功績を挙げた(信貴山城の戦い)。越前を平定した信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的にも、経済的にも西国の平定となった

 秀吉はその中国地方・毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦の指揮官に命じられた。中国の毛利氏は数万の兵を動員できる大勢力で、この攻略の担当者となったことは秀吉にとって大変名誉なことだった。中国地方のいくさは信長が本能寺の変で自刀まで足かけ6年におよんだ。

 秀吉はまず播磨(兵庫県西部)の調略に取りかかり、現地の豪族・小寺氏の家老であった黒田官兵衛と出会っている。黒田官兵衛から姫路城を譲り受け、そこを拠点に山陰・山陽の各地域を攻略してゆく。

 播磨の一部の勢力は秀吉に従わなかったが、播磨守護赤松氏の勢力である赤松則房・別所長治・小寺政職らを従え、上月城の戦いでに望んだ。

 豊臣秀吉は出自に謎が多いこともあり得体の知れない人物だった。その性格には異常な残虐性すら感じられた。秀吉の残酷な性格について、数々の合戦において残酷な行為がみられる。上月(こうづき)城の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦いを取り上げてみよう。

 

上月城の戦い
 中国においては毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は北陸戦線から勝手に離脱して謹慎していた羽柴秀吉を指揮官に命じて中国攻めを開始した。命を受けた秀吉は播磨に向けて出発し、上月城の戦いは小城でありながら織田信長と毛利輝元との全面戦争の初戦となった。
 秀吉の軍勢は上月城近くの福原城(朝来市)、ついで竹田城(朝来市)を陥落させ、秀吉の弟・秀長を竹田城に入れ、赤松政範が籠る上月城(兵庫県佐用町)へと兵を進めた。赤松政範は毛利氏に味方し、毛利方の備前の宇喜多直家との連携を強化していた。秀吉は上月城に兵を進めて城の周囲に3重の垣を設け攻守に備えた。これにより赤松政範を救援するために派遣された宇喜多勢と秀吉の軍勢が交戦して宇喜多勢は散々に打ち負かされ、敗走中に自兵の首619が取られている。
 秀吉は上月城を包囲し、上月城の水源を絶った。水がなければ籠城はできない。城兵は上月城の城主・赤松政範の首を取って秀吉のもとに持参し「これで残党の命を救って欲しい」と懇願した。上月城の家臣が城主の首を切り、それを秀吉のもとに持参したのである。敗戦間近と見た上月城内の武将らは城主の首を差し出すまでに追い詰められていた。その条件は城内の者の命を救って欲しいというものであった。彼らは生き残るために、いちるいの望みを託したのである。
 しかし秀吉は上月城主の首を安土城の信長に進上すると約束すると、秀吉は城兵たちの命乞いを受け入れず、逃げられないように柵を巡らし、次々と城兵の首をはねた。

 当時、戦いが起こると城は周囲の非戦闘員が逃げ込む場になっていた。秀吉は容赦なく女・子供を串刺にして見せしめにした。秀吉も武将として成果を挙げない以上、厳しい立場に追い込まれたのかもしれないが、あまりに残酷であった。秀吉の苛烈な性格が浮かび上がってくる。 
 それまでの秀吉は軍功を挙げたことから、高い評価を得たのである。かつて低い身分だった秀吉にとって、信長から目をかけられることが、もっとも重要なことだったが、秀吉の残虐性が次に続く三木城攻めでも現れる。

 この上月城は、織田信長から尼子勝久を擁する軍師・山中鹿之助が拝領したが、宿敵・毛利勢である吉川元春らの大軍30000に包囲され、上月城は後に降伏している。

 

三木合戦
 1578年3月から始まった三木合戦は「三木の干殺し」と称され、長期にわたる兵糧攻めで知られている。秀吉が中国計略を進める上で、最も期待した武将が別所長治であった。

 別所氏は播磨国守護・赤松氏の流れを汲む名族で三木城に本拠を置いていた。この三木城主・別所長治は三好家と争っていたこともあり、早くから信長に付くことを約束していたが、反旗を翻して毛利方に寝返ったのである。
 別所氏が寝返った理由について、別所氏が百姓上がりの秀吉を愚弄していたという説である。別所長治は村上天皇の苗裔・赤松円心の末裔である。これに対して、侍の真似をする秀吉が無礼でならなかった。つまり別所氏は名門意識から秀吉を見下していたのである。毛利家を滅ぼしたあと、秀吉が播州一国を支配することは明らかで、謀を知りながら、その謀に乗るのは智将ではないとした。さらに足利義昭や毛利輝元から寝返りの熱心な引き入れがあった。

 当初、別所方は優勢に戦いを進めた。三木城は簡単に攻め落とせるような城ではなかった。城の北側には美嚢川(みのうがわ)という天然の水堀があり、城自体も丘の上に建てられていたため、下手に攻めれば上から鉄砲や矢が雨のように降ってくる。さらには東播磨などから集まってきた7500の兵が城を守っており、力攻めをしたところで返り討ちに遭うことになる。

 ここで秀吉は三木城の周囲に付城を築くと、毛利方の兵糧ルートを完全に遮断した。こうして「三木の干殺し」と称された、生き地獄のような兵糧攻めが展開される。
  三木城近くの神吉城など周辺の支城を攻め落とし、三木城への補給路を断つ作戦にでた。橋の上には見張りを置き、辻々には城戸を設け、秀吉の近習(きんじゅ)が交代で見張りをした。
 人の出入りは厳しく規制され、付城の守将が発行する通行手形がなければ、一切通過を認めないという徹底ぶりであった。夜は篝火(かがりび)を煌々と焚き、まるで昼間のようであった。もし警備に油断する者があれば上下を問わず処罰し、重い場合は磔という決まりが定められた。

 羽柴軍は「別所長治に味方したものは兵士だろうが百姓だろうが構わず皆殺しにする」という噂を流し、百姓たちまでが三木城内に駆け込ませた。この兵糧攻めを主導したのが竹中半兵衛であった。「戦わずして勝つ」を地で行くような戦法だった。

 三木城の周囲はアリの入り込む隙間もないほどに厳重な封鎖がされ、当然一粒の米も入らなかった。兵糧は見る見る減ってゆき、兵糧がなければ戦う気力が喪失し、城内の兵卒の士気が上がらない。時間の進行とともに、三木城には飢餓をめぐる惨劇が見られるようになった。城内の食糧が底を尽くし、餓死者は数千人に及んだ。はじめ兵卒は糠(ぬか)や飼葉(馬の餌)を食べていたが、それが尽きると牛、馬、鶏、犬を食べるようになった。当時、あまり口にしなかった肉食類にも手が及んだのである。もはや贅沢など言っていられなかった。
 糠や飼葉、肉で飢えを凌げなくなると、ついには人を刺し殺し、その肉を食らった。死肉はまずいので、衰弱した兵を殺したとされている。その空腹感は想像を絶するものであった。「本朝(日本)では前代未聞のこと」と記録されており、城内の厳しい兵糧事情を物語っている。

 1580年1月、秀吉は三木城内の別所長治、吉親、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命すると伝えた。別所一族の切腹は実に凄惨なものであった。

 別所長治は3歳の子息を膝の上で刺し殺し、女房も自らの手で殺害した。別所友之も同じような手順を踏んだ。別所長治は改めて城兵の助命嘆願を願うと腹をかき切った。介錯は三宅治職が務め、腹は十文字に引き裂かれ、別所友之以下、その女房、吉親の女房らも自ら命を断った。

 

鳥取城攻め

 因幡平定は以前から始まっており、城主である山名豊国は降伏していた。しかし、降伏を潔しとしなかった山名豊国は密かに吉川元春と通じて毛利氏に援軍を依頼していた。そこで派遣されたのが、石見吉川家の当主で吉川経安の子・経家である。
 1581年、因幡山名家の家臣団が、但馬守護の山名豊国を追放し、毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城に立て籠もり反旗を翻した。山名豊国は急に秀吉に投降し、その軍門に降った。投降したのは毛利方が豊国を暗愚とみなし追放したからである。秀吉は降伏した山名豊国などを引き連れ、鳥取城攻略に乗り出した。

 取った作戦は兵糧攻めであったが、その準備には余念がなかった。秀吉は経済感覚をいかんなく発揮し、攻め込む前に味方の領地に住む米商人を抱きこみ鳥取に行かせ「上方ではひでりで米の成りが悪い、いくらでも買うぞ」と言わせ、鳥取の農民の米を高値で買い取った。あまりに条件が良いので城に備蓄していた米の大部分も売られてしまった。もともと鳥取城は兵糧が乏しかったので、これにより窮地に陥った。さらに秀吉は食糧の浪費を促すため農民を城内に追い込んだのである。

 秀吉は鳥取城を兵糧攻めにすると決めると、鳥取城の西北に付城として丸山・雁金の二つの城を築いき、さらに城を大軍で遠巻きにし、要所要所に臨時の要塞を造って城から撃って出られないようにした。城の構築は秀吉の得意とするとこであり、三木城の戦いでも効果を発揮した作戦である。しかも築城は群を抜く速さであった。築城して鳥取城を完全に包囲し、アリの這い出る隙間もなかった。自分の兵が飽きないように上方から商人や遊女を呼び寄せる余裕があった。
 秀吉の兵糧攻めにより徐々に鳥取城の食糧が尽きていった。それは阿鼻叫喚(あびきょうかん)ともいえた。  因幡国鳥取郡の一郡の農民男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の百姓は長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは5日に1度か3日に1度鐘をつくと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り稲の根っこを食糧とした。
 百姓たちはすぐに飢え死にしたが、それは非戦闘員に食糧が回らなかったからである。籠城が始まってからさほど経過していない頃には、雑兵が城柵近くの葉などを食べつくした。このことは城内の食糧が尽きていたことを示している。
 時間の経過とともに惨劇はさらに深まった。草の葉も尽き果て、牛馬を食らっていたが、露や霜に打たれて餓死する者は数限りなかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだ。この哀れなる様子は目も当てられなかった。これは三木城と同じであった。しかし悲劇はこれだけに止まらなかった。ついにカニバリズム(人肉を食うこと)が行われたのである。
    秀吉軍が鉄砲で城内の者を打ち倒すと、虫の息になった者に人が集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。人肉の中でも、とりわけ頭は味がよいらしく首はあちらこちらで奪い取られた。食糧不足が極限に達し、人の理性は完全に失われた。しかも死んだ人間の肉はまずかったようで、虫の息であっても生きた人間が食した。惨劇はここに極まった。人が人を食らうことを知った秀吉は、どのような気持ちであったのか知る由もない。

 この篭城は実に2年に及び、長引く包囲戦で軍師・竹中半兵衛重治は陣中で病死した。黒田官兵衛は荒木村重の説得に赴いて有岡城で牢獄に捕われたが、荒木村重が有岡城を抜け出して毛利輝元へ援軍を求めに行くと、有岡城の兵士が織田信長に内応し有岡城は陥落した。
 毛利輝元の援軍も宇喜多直家の圧迫を受けて帰陣し、毛利の援助も絶たれた。1579年12月には有岡城の荒木村重に同調して毛利方へと寝返った御着城の小寺政職が、有岡城が落ちたと知ると御着城を捨て毛利輝元を頼って逃亡した。
 このような事態を受けて、同年10月25日、城主の吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹した。2年に渡る兵糧攻めで鳥取城を破り、同年、播磨から北上し但馬国にも侵攻して、最後まで抵抗した山名祐豊が篭もる有子山城を攻め落とし但馬国を織田の勢力圏とし、山名氏政の勢力を取り込むと但馬の国人の反乱も沈静化し、秀吉は自らは播磨経営に専念するために、弟の羽柴秀長を有子山城主に置き但馬国の統治を任せた。

 

高松城の水攻め

 その後も中国西地区を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置くと、備中に侵攻し3万の兵で、毛利方の清水宗治が守る備中高松城(岡山県)を水攻めに追い込んだ。勇将として名高い清水宗治は毛利方の小早川隆景に属しており、高松城は毛利方、信長方にとって重要な戦略拠点であった。

 秀吉は「こちらに味方すれば、備中、備後の2国を与える」と調略によって城を奪おうとしたが、清水宗治が寝返ることはなかった。

 高松城は低湿地帯で水田の中にあった。背後には山々が重なり、西南には足守川が流れている。秀吉は力ずくで城を攻めることを諦めると、城を水没させる作戦をとった。秀吉は土地の農民を徴収し、銭をばら撒き昼夜を問わず城の周りに土塁を積み上げ、3.3キロにわたる大堤防を築いた。

 大堤防が完成するとせき止めていた足守川の水を一気に流すと、たちまち高松城は浮島になった。毛利方が高松城の危機を救うために駆けつけるが、浮島になった高松城を遠くから見守ることしかできなかった。高松城は落城寸前になるが、毛利軍は小早川隆景や吉川元春といった重臣たちが4万の大軍を率いて援軍にやってきており、3万の軍を率いる秀吉にとっては油断のならない状況だった。

 このようにして中国攻めでは三木の干殺し鳥取城の飢え殺し高松城の水攻めといった、時間はかかるが敵を確実に下して味方の勢力を温存し、秀吉の兵糧攻めの戦術が遺憾なく発揮された。秀吉は通常の武士では考えつかない策を次々と実行していき、これらが能力第一主義の信長から高く評価された。

 しかしその毛利攻めの総仕上げとして、毛利軍を打ち破るため信長を招いたことが仇となった。毛利攻めとして秀吉は勝つ自信があったが、総仕上げを信長に譲ろうとしたのである。信長は自ら大軍を率いて中国地方に出陣することを決意するが、明智光秀にも動員令を出し中国地方に向かうことになる。

本能寺の変
 1582年6月1日深夜、織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により殺される凶事が発生した(本能寺の変)。明智光秀は織田信長の暗殺を毛利側に伝えようとしたが、秀吉側に使者が捕まり、秀吉はこの事件を知り愕然とした。

 毛利家が信長の死を知るのは時間の問題であった。毛利側に知られる前に手を打たなければ挟み撃ちになってしまう、時間がなかった。すぐに「清水宗治の切腹」を条件に一日で毛利輝元と和解し、清水宗治の切腹を見届けると京都まで常識破りの速さで軍を引き返した。

 秀吉が信長横死を知ってから清水宗治の切腹までわずか1日足らずである。和睦締結までのあまりの短さから、秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊に信長の死を知らせず、恵瓊に積極的に和睦に協力させたとされている。秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊に対し、秀吉に内通している毛利家重臣の名を連ねた連判状を見せ、毛利の最終決戦前後に、秀吉に内通をする者が毛利側に続出することを示し、今のうちに領地を割譲して和睦するようにと持ちかけた。

 また秀吉の中国大返しの際、毛利氏が信長の死を知って追撃する可能性があったが、小早川隆景が「約束を守るのが武士」と反対したため毛利勢は追撃をしなかった。これについても何らかの密約があったと思われる。

 ちなみに本能寺の変から山崎の合戦までの常識破りの速さは以下の通りである。
 6月2日早朝 本能寺の変により信長横死
 6月3日夜   秀吉本能寺の変を知る
 6月4日    高松城主清水宗治ら切腹 
 6月6日    秀吉陣を払い退却
 6月7日    秀吉姫路城に帰城
 6月8日    秀吉姫路城を出発
 6月13日   摂津・山城国境の山崎で明智軍と決戦。敗走途中で明智光秀死す。

 備中高松城から山崎までは235kmである。ちなみに四国八十八箇所巡りのお遍路さんは40日から50日で1200km、つまり1日で24から30km歩くことになる。1日で70kmというのはその倍以上の距離である。武装集団がその速さを持続して、食糧などを運びながら山道を含む道を進むことが出来るとは思えないが、暴風雨の中で武具をつけ、武器を持ち、食糧を持って2万人以上の集団がこれだけの距離を進めたのである。

 これだけ動いたら体力を消耗するだけと思うが、これが世に言う中国大返し(おおがえし)である。ピンチはチャンスであった。秀吉は信長を殺した明智光秀を他の家臣よりも早く討つことで、信長亡き後の地位を高め天下を我が手にしようとした。

 羽柴秀吉は即座に「弔い合戦」の大義名分を掲げ、各地に散らばる信長家臣の大名たちと連絡をつけ、神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを味方につけて、6月13日に京都の山崎で明智光秀との戦いに臨んだ。丹羽長秀は信孝とともに四国征伐の準備中で京に近い大坂・堺にいたため、光秀を討つのに最も有利な位置にいた。しかし長秀らと別行動をとっていた四国派遣軍が信長の死を知ると、混乱のうちに四散して兵力が激減、大規模な軍事行動ができない長秀はやむをえず秀吉軍の到着を待つことになった。

 明智光秀は信長を討つ前に、事前の工作をしていなかった。そのため縁戚関係にあたる細川藤孝や中川清秀・高山右近などにも味方につかず孤立した。兵力4万対1万6千と劣る明智光秀は山崎の戦いで敗北し、秀吉は主君・信長の仇討ちを果たした。明智光秀は敗れて逃げる途中で落武者狩りの手にかかって討たれた。光秀は秀吉は信長の仇討ちという正義があったが、明智光秀側には正義がなかったのである。

 この山崎の合戦で天王山を先に制した秀吉が勝ったことから、物事の正念場を「天下分け目の天王山」と表現するようになった。また秀吉は本能寺の変から、わずか10日余りで明智光秀を倒し、近畿地方の秩序を取り戻したため、信長の後継者として注目されることになった。 さらに明智光秀のあまりにも短い天下を「三日天下」といった。信長を殺害し秀吉に討たれた明智光秀は、秀吉が天下を取るのを助けたような形になり、数百年経った今でも裏切り者、不忠者の代名詞として語られる存在になっている。

  本能寺の変の時に、京都から遠く離れたところにいた柴田勝家・滝川一益ら先輩格の武将は、織田信長の仇討ちで遅れをとることになった。柴田勝家は越中・魚津城で上杉勢と交戦中であったが、6月3日に魚津城を陥落させ、事件を知って6日の夜から全軍撤退して北ノ庄城へ戻るが、上杉側も本能寺の変を知って失地回復のために越中・能登の国衆を扇動したため、すぐに京都に向かうことができなかった。羽柴秀吉の台頭を抑えようとする柴田勝家は、6月27日、清須城で会議を開き、信長の正統な後継者を決めようとした。

 

清洲会議

 1582年6月末、明智光秀の謀反で織田信長が命を落とした「本能寺の変」から僅か25日後、織田家の後継者を決める清洲会議がはじまった。

 織田家の重臣達は織田信長が最初に居城とした清洲城(名古屋)に集まった。織田家の重臣とは柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人で、清洲会議は織田陣営の将来を左右する重要な会議であった。織田家の重臣として滝川一益 がいたが、滝川一益は関東の大名・北条家との戦いで敗戦したばかりで、敗走中であったために参加できずにいた。
 清洲会議ではまず「織田家の後継者を誰にするか」が話し合われた。織田信長の嫡男・織田信忠は能寺の変で明智光秀に討たれており、秀吉はその後に明智光秀を征伐して京都の支配権を掌握していた。

 まず織田信長の後継者として、次男の織田信雄か、三男の織田信孝から家督相続者が選ばれるはずだった。本来ならば次男の織田信雄となるはずだが、信雄は伊賀軍を攻撃して大敗したため武将としての資質に欠けるとされ、普段から無能と評判だったので支持する者はいなかった。

 一方、三男の織田信孝は四国方面軍の司令官で家臣からの信頼も厚く、さらには光秀討伐(天王山の戦い)にも参加していた。また柴田勝家が信孝の後見人であったため、柴田勝家は後継者として信孝を擁立しようとした。

 柴田勝家は織田信孝が後継者になった暁には後ろ盾となって織田家を引っ張っていくつもりだった。実際に家臣たちの中でも信孝が家督を継ぐべきとする意見が大勢を占めていた。清洲会議の発起人である筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推し、柴田勝家はたとえ秀吉が裏で何を画策しても自分に勝算があると思っていた。

 しかしこれに対し羽柴秀吉は予想に反し長男・織田信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)を推した。次男の織田信雄は後継者として資質に欠けており、また三男の織田信孝と仲が悪かったので問題外で、3歳になったばかりの信長の孫の三法師という思わぬ候補者をあげたのである。

 三法師は織田家の跡継ぎ・織田信忠の嫡男なのだから、こちらも筋は通っていた。加えて織田信雄(北畠家)や織田信孝(神戸家)はそれぞれ他の大名に養子に出されていたため筋違いと主張したのである。

 柴田勝家は親代わりでもある聡明な三男の織田信孝を推し、羽柴秀吉の主張は平行線を辿るが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉の「長子相続の筋目論」を支持したことで、まだ幼い3歳の三法師が織田信長の後継者となった。

 織田信長の仇討ちを成し遂げたのは秀吉で、柴田勝家は仇討ちに際して何もしていなかった。明智光秀討伐の功績があった秀吉が、この会議で主導権を握ることになった。

 羽柴秀吉は三法師を後継者にして、自分の好きなように織田家を動かしたいとの算段があった。さらに三法師の後見人を三男・織田信孝にするという妥協案を示したため、柴田勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなった。

 数え年でわずか3歳の三法師が安土城を相続したが、織田信長の居城であった「安土城」は本能寺の変の直後に焼失していたので、復旧工事が終わるまで美濃を相続した三男・信孝の居城・岐阜城に預けられた。秀吉は三法師を織田家の当主とすることで織田家を無力化し、その間に織田家の勢力を自分のものにしてしまうつもりだった。秀吉は信長には恩があったが、その子孫たちにまで仕える気はなかった。

 清須会議では後継者だけでなく、信長の領地分割も行われた。秀吉は山城と丹波を新たな領地にした代わりに、自分が治めていた北近江と居城・長浜城を柴田勝家に譲った。長浜城は越前と京の間にあり、柴田勝家にとって悪い話ではなかった。さらに勝家は信長の妹・お市の方と結婚したが、この結婚は秀吉が仲介したのである。さすがに秀吉は人をたらしに長けていた。

 織田信雄(次男)はそれまでの伊勢の領地に尾張を加え、三男・織田信孝は美濃国を領土とし、信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。

 秀吉は姫路や京都などの領地を得て28万石に増領して、これにより領地においても羽柴秀吉は柴田勝家を凌ぐようになったが、織田家の当主は当時3歳の三法師(織田秀信)であり、秀吉はあくまで並み居る織田家重臣の1人にすぎなかった。さらに秀吉は柴田勝家とお市の方の婚姻を斡旋して柴田勝家の機嫌をとり、清洲会議で秀吉に煮え湯を飲まされた勝家は、お市の方を伴って越前に帰り上杉軍に備えた。信長の遺志を受け継ぎ、織田家を守ることが勝家の信念だった。

 秀吉は明智光秀が山崎の戦いで用した山崎城と男山城を改築して、山崎と丹波で検地を行い、織田家の諸大名とのよしみを結び京都奉行に浅野長政(秀吉の正室・ねねの妹の夫)・杉原家次(ねねの叔父)を据えるなど水面下で勢力固めに奔走した。

 この秀吉の動きに柴田勝家は反発し、さらに跡継ぎ候補であった三男の織田信孝は跡継ぎになれないことに不満を持っていた。織田信孝は清洲会議で後援してくれた柴田勝家と密接に連絡を取り合い、三法師を擁護しつつ羽柴秀吉との対立を深めてゆく。そのため筆頭家老・柴田勝家は、1582年10月に滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。

 もちろんこの動きを羽柴秀吉は予想していた。秀吉側も各地の織田家の武将に協力を要請し、味方を増やす活動を始めていた。こうして各地の武将や大名が、羽柴秀吉と柴田勝家のどちらかの陣営につくことになる。織田信長の次男・織田信雄は、織田信孝が柴田勝家と協力したため、それに対抗して羽柴秀吉に協力した。これは秀吉にとって「信長の次男を擁護する」という大きな大義名分となった。

 

各地の混乱

 本能寺の変の混乱により、武田家の領地であった信濃や甲斐では武田家の残党や農民による蜂起が発生し軍事的な空白地帯となった。そのため地元の勢力が次々と独立を開始、後に 真田幸村などを輩出する「真田家」もこの時期に台頭している。さらに織田家の同盟者である徳川家康がこの地に進出し、関東の大名家「北条家」も進出したため甲斐信濃は戦乱に突入した。

 織田信長によって滅ぼされた伊賀の生き残りが蜂起し、そのまま戦乱に入った。本能寺の変の際に秀吉と講和した中国地方の「毛利家」と、本能寺の変の直前まで柴田勝家と戦っていた越後の「上杉家」は秀吉寄りの陣営となり、大和地方(奈良)の大名「筒井家」も羽柴秀吉の配下となった。

 逆に四国を統一したばかりの大名「長宗我部家」や、織田家と敵対していた紀伊半島南部の勢力「雑賀衆」は、柴田勝家の要請に応じて秀吉と対立し各勢力は徐々に二分された。

 

信長の葬儀

 本能寺の変から5ヶ月後、羽柴秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主にして信長の葬儀を行った。秀吉が敢えて信長の葬儀を行う大義名分があるとすれば、養子の秀勝が信長の実子だということである。

 葬儀開催の名目に羽柴秀勝を掲げ、この葬儀には秀吉と対立していた三男の織田信孝や柴田勝家は勿論のこと、信長の次男・織田信雄も顔を出していない。清洲会議で織田家の後継者に決まり列席するはずの三法師も葬儀に出ていない。つまり織田家の主だった人々は、この葬儀には出ていないのである。

 そもそも清洲会議の前後に、信長の葬儀は既に行われていた。秀吉は信長の菩提寺を大徳寺塔頭の総見院としたが、織田家からすれば信長の菩提寺は既に存在していた。岐阜の崇福寺は信長が菩提寺としていた寺で、信長の死の4日後には信長の側室から信長の位牌所である旨の書状を得ており、現在も崇福寺にある信長の墓は大徳寺の葬儀の前に建てられている。また清洲にも信雄が建てた総見寺があり、安土城内には信長が建てた摠見寺もあった。いずれにせよ大徳寺の葬儀は、もはや信長の死を悼む会でも、勝家を出し抜くためでもなく、秀吉の天下取りの野望を日本中に宣言するためのものだった。

 まず羽柴秀吉は9月、織田信長の死から百日目の「百日忌法会」を大徳寺で執り行い、11月に京都で大々的に「信長の葬儀」を実施した。それは17日間に渡って行われ、信長の棺は黄金と宝石で彩られた非常に豪華なものだった。棺の中には、遺体の代わりに信長の沈香の木像が入れられていた。葬儀の列は三千人が出席し、警護は三万人の兵によって行われ、お経をあげる僧侶は数知れず、もちろん見物人も膨大な数だった。

 輿の轅(ながえ)を持ったのは池田輝政と秀勝で、信長の位牌と遺品である不動国行の太刀を秀吉が持った。これは信長の武威を受け継ぐ者は秀吉であると宣言するもので、特に羽柴秀吉が、喪主が持つべき信長の位牌を持った事により、秀吉の中には織田家への遠慮など微塵のなく織田家に対する訣別宣言とも受け取れた。

 ついに秀吉は自分の野望を露わにしたのである。これまで秀吉は山崎の合戦では信孝を総大将に据え、三法師の後見人に信雄を据えるなど、表面上は織田家の人々を立てるそぶりを見せていたが、ここへ来てついに自分の野望を露わにした。
 またこの時期、秀吉は朝廷工作を行い、新しい官位・朝廷が任命する公式の名誉職も得ている。これらは京都を領地にしていた秀吉の朝廷工作の大きな優位によるものだった。これらの効果があったせいか、あるいは冬が間近だったため、11月末に柴田勝家は前田利家を使者として羽柴秀吉との講和を行っている。
 柴田勝家はこの信長の大規模な葬儀によって、秀吉が自らの政権を樹立することに強い警戒心と敵意を抱いていた。柴田勝家は他国の武将との連携を模索し、毛利輝元に打診して色よい返事を貰うが、それは形だけであった。また徳川家康にも接触するが、やはり力を貸しては貰えなかった。東西の有力大名の協力を得られなかった柴田勝家は徐々に追い込まれていった。そのうち冬になり越前は雪深くなった。

 織田信孝は周囲で何が起きているのか理解出来ず、秀吉と勝家の間を仲裁しようとしたが、後に秀吉と信孝は対立することになる。(下:大徳寺)

柴田勝家との対立

 10月28日、羽柴秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議を反故にして、三法師が成人するまで織田信雄(次男)を織田家の当主として擁立して主従関係を結んだ。

 越前・北の庄では冬の間、深い雪のため柴田勝家は動けなかった。本能寺の変から6ヶ月後の12月、秀吉はこれを好機ととらえ、柴田勝家に味方する近江(琵琶湖周辺)、伊勢の武将を攻めて有利な状況をつくりあげた。

 12月9日、羽柴秀吉は諸大名に動員令をかけ5万の大軍を率いて堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。秀吉は岐阜城へ向かう途中、勝家に取られた長浜城をたった一日で無血開城している。
 長浜城は秀吉が念入りに造った城である。普通なら簡単に落ちる城ではない。それがたった一日で開城したのは秀吉得意の謀略にあった。つまり柴田勝家から長浜城を預かっていた柴田勝豊が秀吉に寝返ったのである。長い間子供に恵まれなかった柴田勝家には何人もの養子がいた。その中で跡継ぎとされていたのが甥の柴田勝豊だった。さらに養子の中には武勇で知られる佐久間盛政の弟・柴田勝政がいた。柴田勝家は盛政・勝政兄弟をかわいがったが勝豊と勝政兄弟は仲が悪かった。加えて勝豊と勝家の関係を悪化させたのが権六(柴田勝敏)という名の元服前の子供だった。
 子供に恵まれないからと養子を迎えたところ、後に実子が生まれて養子が疎ましくなることはよくある話で、もちろん権六が柴田勝家の実子である確証はないが、実子でもなくても盛政・勝政兄弟に劣る勝豊を柴田勝家は疎ましく思っていた。

 勝豊に長浜城を任せたが、柴田勝家との関係は実際には良好と言えるものではなかった。秀吉はこのような柴田勝家の情報を得ており、それを最も効果的な方法で利用したのである。つまり勝豊に「あなたは柴田陣営にいてもろくなことがない。長浜城を返してくれれば今後優遇する」といって「裏切り」を誘導したのである。

 柴田勝豊は柴田勝家と不仲な上に病床に臥していたため、すんなり秀吉に丸め込まれ降伏して、秀吉は長浜城を容易に獲得した。この長浜城はかつて秀吉が本拠地としていた城である。これにより近江の地は羽柴秀吉が制圧することになった。

 

織田信孝

 この動きを受けて危機を感じたのは三男の織田信孝であった。織田信孝は兵を集め岐阜城で挙兵して守りを固めた。秀吉は織田信孝(三男)が三法師を安土に戻さないことを大義名分に、柴田勝家側の織田信孝を打倒すべく兵を挙げた。

 岐阜城を攻める大義名分は「約定違反」である。信孝に「違反した」と言いがかりをつけたのは、清洲会議で決めた「三法師をいずれ安土城を再建して移す」という約束だった。何年も放っていたのならばともかく、秀吉が「約定違反」を突きつけたのは、清洲会議からわずか5カ月後のことで、明らかに言いがかりであった。秀吉が賢いのは、この「言いがかり」を次男の信雄を正面に立てて行ったことである。

 つまり次男の信雄が三男の信孝に対して、この前、清洲会議で決めたことを速やかに履行しないのは約定違反と言わせて、秀吉は信雄の命を受けるというかたちで岐阜城を攻めたのである。このとき長浜城に柴田勝家がいれば、当然このようなことは許さなかった。織田家中の立場でも、武勇では勝家の方が秀吉より上であった。しかしその場にいなければ何もできなかった。

 秀吉は12月16日に美濃に侵攻し、南からの次男の織田信雄軍と合流して、織田信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏させた。岐阜城は多勢に無勢で織田信孝は降伏せざるを得なくなり、切り札だった三法師も秀吉に奪われてしまった。

 織田信孝は信長の三男だったので、降伏した後に処刑はされず、美濃の領地や城もそのままだった。織田家の跡継ぎ「三法師」を秀吉に取られたが、秀吉はそれだけでは満足せず、信孝の母と娘を人質に取っている。織田信孝の立場は大きく低下し、秀吉は味方になっている「織田信雄」を 三法師 の後見人に指名し、織田家の跡継ぎ三法師と信長の次男・織田信雄を保護する事で、その立場を盤石なものとした。そのため美濃にいた武将や有力者の多くが織田信孝から離れ秀吉側についた。秀吉は実権を握り天下統一は秀吉の手により成し遂げられようとした。

 秀吉が12月に動いたのは「雪」であった。柴田勝家が本拠地としていた北陸地方は雪国で、秀吉が部隊を動かしても柴田勝家は積雪によって軍勢を動かす事が出来なかったからである。秀吉は戦略的に重要な近江を領土とし、柴田勝家に大きく差をつける事になった。

 

反秀吉派の動き

 秀吉の計画はこの後もよどみなく続いた。滝川一益は本能寺の変が起きた時、関東で北条軍に攻め込まれ、命からがら旧領の伊勢に逃げ帰っていた。清洲会議には間に合わなかったが、この頃までには旧領の伊勢で着々と失地回復を進めていた。秀吉にとって、武勇にも知略にも長けた滝川一益の復活は目障りだった。拠点が近畿にあるのも何かと厄介だった。

 そこで年が明けるとすぐに準備に取りかかり、2月には大軍を率いて亀山方面から北伊勢に侵入し、滝川一益討伐に向かった。

 1583年1月、柴田勝家支持を表明している伊勢の滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城、関城、伊勢亀山城を次々に攻め破ったが、2月に入ると羽柴秀吉も反撃を開始した。伊勢に進軍して取られた城を奪還し、さらに滝川一益の居城・桑名城を攻撃した。

 しかし桑名城は堅固であり、滝川一益の抵抗にあって後退を余儀なくされた。また秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退している。伊勢戦線では反秀吉勢力は寡兵であったが優勢であった。しかし滝川一益の軍勢は徐々に不利になり、伊勢亀山城は蒲生氏郷や細川忠興・山内一豊らの攻撃で遂に降伏した。

 この動きを受けて柴田勝家は雪が解けないうちから出陣準備を開始し、2月半ばに雪解けを待たずに北陸から京都方面に向って進軍を開始した。これを見て一度は降伏した 織田信孝も美濃で再び挙兵し、いよいよ両者が対決の時を迎えた。

 

賤ヶ岳の戦い

 伊勢の滝川一益の挙兵に呼応して、2月28日、柴田勝家は前田利長を先手として出陣させ、雪解けを待ち3月9日に自ら3万の大軍を率いて出陣した。3月11日に琵琶湖と余呉湖を分ける標高421mの賤ヶ岳で両軍は対峙した。

 秀吉軍5万、柴田勝家軍はその半分だったが、勝家軍には前田利家や佐久間盛政などの精鋭武将が陣を構えていた。山の戦いに長けていた勝家は尾根伝いに陣を敷き、山間の細い道で挟み撃ちにする作戦をとった。

 兵力に勝る秀吉は平地での決戦に備え、勝家に対抗するため3段構えで防御できる陣を敷いた。守りの固さに痺れを切らした勝家軍が飛び込んできたときに、砦の柵で食い止め撃破しようとした。しかし勝家は秀吉のこの作戦を読んでいて動かなかった。両者のにらみ合いから1か月後、織田信孝が岐阜で再び秀吉に反旗を翻し挙兵した。

 ここで羽柴秀吉は「滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃」に囲まれることになった。秀吉はまず織田信孝を打つため、4月17日美濃に向けて出陣した。ようやく勝家側の織田信孝と滝川一益が、秀吉を挟み撃ちにするべく兵を挙げた。

 もちろん秀吉は信孝の母と娘を人質に取っていたので、信孝は躊躇したが、それでも挙兵に踏み切ったのは、秀吉に対する怒りと、まさか主家の先代当主の妻と孫を殺すようなことはしないとの読みがあった。ところが秀吉はこの2人を盟約違反として無残にも「磔」という方法で処刑した。

 この出来事は信孝はもちろん、柴田勝家にも大きな衝撃を与えた。怒り心頭に達した信孝と勝家、そして滝川一益の3人に囲まれた秀吉は、それぞれを個別に撃破しようとして、まず秀吉は美濃に進軍するため2万の兵を率いて賤ヶ岳を離れた。

 そのとき勝家は秀吉側から寝返った武将から、秀吉が不在であること、また砦の守りが弱いことを知った。好機と判断したのが猛将・佐久間盛政である。4月20日早朝、柴田勝家の重臣で鬼玄蕃と呼ばれた佐久間盛政らの奇襲部隊が余呉湖畔を大回りして秀吉の留守部隊を横から奇襲を掛けた。

 すると予想通り守りが弱く、奇襲は成功し、前線と本陣を分断することができた。秀吉側の中川清秀が討たれて中川隊は総崩れとなった。勢いに乗った佐久間盛政は岩崎山に陣取っていた高山右近の部隊にも攻撃をしかけた。これをみた柴田勝家は攻撃を中止して戻るように命じたが、佐久間盛政はこれを無視して敵陣深くまで侵攻して行った。

 その頃秀吉は、岐阜の信孝軍をめざし大垣まで来ていた。ところが大雨により揖斐川が氾濫したため、そこから先に進めることが出来ず足止めを食っていた。ここで秀吉は柴田軍が中川清秀の守る大岩山を占領したとの報告を受けると、ただちに軍を引き返して賤ヶ岳へ向けて疾走した。揖斐川での足止めが秀吉に味方した。

 秀吉は大垣城から50キロの行程を6時間ほどで引き返し反撃したのである(美濃大返し)。賤ヶ岳へ向かう街道の家々に命じ、松明を焚かせ握り飯を用意させた。兵士たちは握り飯を食べながら街道を駆け抜けていった。50キロの道のりをわずか5時間で走破し、まさに中国大返しの再現であった。

 ちろん騎馬武者だけなら十分に可能な時間であるが、秀吉軍は鉄砲隊が中心の編成なので足軽がいなければ戦いにならない。52キロを徒歩で行くには、早くても10時間はかかる。しかも行程は山道である。

 佐久間盛政の眼前には信じられない光景があった。岐阜にいるはずの羽柴秀吉が、軍勢を整えて賤ヶ岳に戻ってきたのだった。大垣から秀吉が岐阜に向かったのは柴田軍を誘い出すための計略で、柴田軍が動けばすぐに引き返す作戦だった。

 動揺した佐久間隊に秀吉軍が襲い掛かり、佐久間盛政は危機的な状況に陥るが、柴田勝政が救援に向かい秀吉軍と激闘を展開した。佐久間盛政は秀吉の軍勢が戻ってくるのは早くても明日以降で、それまでに賤ヶ岳を制圧して有利な状況をつくろうとしていた。しかし兵力で上回る秀吉軍の攻撃に柴田軍は次第に疲弊していく。ここで活躍したのが福島正則と「賤ヶ岳の七本鑓」である。

 始めは互角に戦況が展開していたが、勝豊の後備に控えていた前田利家が突然撤退を始めた。このことが劣勢に立った柴田軍をさらに追い討ちをかけた。また金森長近、不破勝光らも離脱し、これをみた柴田軍の兵士は動揺し雪崩を打って撤退していった。

 前田利家といえば後の豊臣政権の重鎮で、権力をきわめた秀吉に対して唯一ものが言える人物である。ところがこの時の前田利家は柴田勝家の部下だったので勝家に協力していたのである。

 前田利家は秀吉の古き良き友であり、足軽の時から苦楽を共にし、本人だけではなく妻同士も仲がよかった。そのような立場に前田利家は苦悩し、合戦のさなかに戦いを放棄し、勝家を裏切ったのである。これにより戦局は秀吉有利に動いた。秀吉は戦後、前田利家を配下に加えて加賀と能登の国を与えている。事前に寝返りの約束があったかどうかは分からないが、こうして柴田勝家を倒した秀吉は織田家筆頭の立場を獲得した。
 柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北の庄城に退却した。柴田勝家は城に火を放ち妻のお市の方と自刃して果てた。佐久間盛政は越前で捕らえられ、秀吉のもとに引き出された。佐久間盛政の武勇を惜しんで秀吉は自分の家臣になるように説得するが、盛政はこれを拒否して山城国槙島で斬首された。

 秀吉は加賀国と能登国を平定し、両国を前田利家に与えると、5月2日に織田信孝を兄・織田信雄の命令で切腹させた。伊勢で挙兵した滝川一益も健闘したが降伏開城し、5月末には賤ヶ岳の戦いは完全に終結した。

 この戦いで柴田勝義が負けたのは前田利家隊が突然裏切ったからであるが、なぜかあまり指摘されていない。

 

賤ヶ岳の七本槍

 賤ヶ岳の戦いで秀吉方で特に活躍した7人の武将は後世に賤ヶ岳の七本槍とよばれている。7人とは福島正則、加藤清正、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明である。有力な家臣を持たない秀吉が、自分の子飼いの武将を過大に喧伝したといえる。7人というのは語呂合わせで、一柳家記には先懸之衆として七本槍以外に桜井佐吉、石川兵助一光、石田三成、大谷吉継、一柳直盛を含めた羽柴方の14人の若手武将が武功を挙げたとしている。

 この14人は実際に感謝状をもらい数千石の禄を得ており、豊臣政権において大きな勢力となった。しかし福島正則は「脇坂と同列にされるのは迷惑だ」と語っており、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌った。当時から「七本槍」は語呂合わせで虚名に近いとされている。

お市の方と三姉妹

 賤ヶ岳の戦いは柴田勝家の敗北となったが、勝家が25歳年下のお市の方と結婚したのはその1年前であった。短い結婚生活で、勝家は多忙だったことから夫婦らしい生活は少なかったと想像される。

 柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで敗北して北ノ庄城へ戻ると、お市の方に逃げるように勧めた。しかしお市の方は「二度も逃げたくない」と言って、勝家と自害の道を選んだ。

 お市の方はかつて浅井家に嫁いだが、信長によって浅井長政が滅ぼされた後、織田家へ戻り、その後、柴田勝家に嫁いでいった。2度に渡って嫁いだ家が滅ぼされ、最後には自害を選んだ。戦国時代とはいえ過酷な運命だった。
 柴田勝家の辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」(夏の夜のように短くはかない私の名を、のちの夜までも伝えてくれよ、山ほととぎす)でである。

 お市の方の辞世の句は「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそう ほととぎすかな(夏の夜のほととぎすの鳴き声が、別れの悲しさをさそっているように聞こえる)で、二人ともホトトギスを用いている。

 お市の方が自害を選んだ理由は不明であるが、秀吉の女癖の悪さをお市の方は知っており、秀吉を嫌い、滅びの美学を選んだと言える。壮絶な死を遂げた勝家とお市の方は、福井市にある柴田家の菩提寺・西光寺で静かに眠っている。
 お市の方の娘である三姉妹は秀吉側に下り、後に長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生み、 次女・初は若狭国主となった京極高次の正室となり、三女・江は徳川家康の三男・秀忠の正室となり三代将軍家光と忠長兄弟を生み、後水尾天皇の中宮となって女帝・明正天皇の母となった和子を生むことになる。

 

その後の勢力

 秀吉はこの合戦の勝利によって、自らの足場を完全に固めた。以後、信長のやり残した天下統一という目標に向かって邁進してゆく。 この戦いは名目上、織田信雄と織田信孝によるもので、当主となった三法師は戦いに関与してはいない。幼君で直臣のいない三法師が、その後「織田家当主」でありながら衰退して行くことになる。
 勝利者となった次男の織田信雄は、滝川一益の領した伊勢長島を接収して勢力を増大させるが、羽柴秀吉を無下に出来ず、織田家の政治を秀吉に徐々に移譲することになる。羽柴秀吉はこの戦いで中心的役割を果たし、表面上織田信雄を立てたが、多くの権力を手にすることになった。

 しかし信長の次男の織田信雄は秀吉の動きに反発するようになった。織田信雄は初め、秀吉から三法師の後見人に推薦され、秀吉に味方していたが、やがて秀吉に利用されているだけだと気付いたのである。

 柴田勝家は脱落し、丹羽長秀、池田恒興も秀吉に従うことになった。さらに秀吉は前田利家や堀秀政などの織田家の家臣を懐柔し、結果的に後の豊臣政権を誕生させることになる。羽柴秀吉は滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃の包囲網を破ったが、次に残されたのは毛利輝元と徳川家康となった。

 

徳川家康との対立と朝廷への接近

 1583年、秀吉は大坂・本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築いた。信長が築城した安土城を手本にして、水陸交通の要所であった石山本願寺の跡地に大坂城を築城し天下統一への意思を示した。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、大阪城のあまりの豪華さに驚き「三国無双の城」と讃えた。
 翌年、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るようにと命令され、これを契機に秀吉に反発した。同年3月6日、信雄は秀吉に内通したとして3人の重臣である浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。

 羽柴秀吉はすぐに「家老をみだりに成敗するのは不届き千万」と織田信雄を非難して合戦の準備を進めた。このとき織田信長の盟友で、東国において一大勢力となった徳川家康が織田信雄に加担し、さらに四国の長宗我部元親や紀伊・雑賀衆らも反秀吉として決起した。

 徳川家康は織田信雄軍と合流し、その兵力は約 15000 人。これを聞いた羽柴秀吉もすぐに出陣しようとすたが、雑賀衆が大阪方面に進軍を開始したので、この迎撃に追われ、秀吉軍の本隊の出陣は遅れることになる。
 徳川家康らの反秀吉勢力に対し、秀吉は調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけ、さらに美濃の池田恒興に尾張国と三河国に恩賞を与え味方につけた。さらに3月13日には、池田恒興は尾張犬山城を守る信雄の武将・中山雄忠を攻略した。また伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、初戦は秀吉方が優勢であった。

 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を羽黒の戦いで破り、さらに小牧に堅陣を敷いて秀吉と対峙した。秀吉は雑賀衆に備えて大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣すると、3月27日には犬山城に入った。

 秀吉軍も堅固な陣地を構築し、両軍は長期間対峙し膠着状態になった(小牧の戦い)。このとき羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であった。
 このような中、各戦で敗れ雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将にして、4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし奇襲にもかかわらず、行軍が鈍足だったために家康の歩哨網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。
 秀吉は兵力では圧倒的に優位であったが、相次ぐ戦況悪化から秀吉自らが攻略に乗り出すことになった。秀吉は加賀野井城など織田信雄の美濃の諸城を次々と攻略して、信雄・家康を尾張に封じ込めようとした。

 また織田信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒され、11月11日、織田信雄は家康に無断で秀吉と単独和睦をした。織田信雄が講和したことで、家康は織田家再興の戦いの大義を失い三河に撤退した。

 やがて秀吉は家康に自分への臣従を求め、自分の妹を家康の新たな正室として差し出し、また母を人質として送った。こうした秀吉の巧みな外交交渉で、さすがの家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとった。家康は次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(人質)として差し出し講和している。
 天下統一を目指して大名を次々と従えた秀吉であったが、元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁たる征夷大将軍になることは不可能だった。そのため秀吉は皇室との縁を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令をかけようとした。

 朝廷との関係を重視し、徳川との戦いの最中、秀吉は従五位下左近衛権少将に任官された。 秀吉は官職でも主家の織田家を超え、信雄との和議後は自ら「羽柴」の苗字を使用しなくなった。

 1585年は関白に就任すると、自らの養女を天皇の女御(皇后)にするなどして天皇の外戚(皇后の親族)の地位を得た。秀吉は朝廷や天皇といった昔からの権威を背景に他の戦国大名よりも優位に立とうとした。

関白任官
 1584年11月21日、秀吉は従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。秀吉はかねてから朝廷で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、1585年、秀吉は近衛前久の猶子となって朝廷から関白に任じられた。

 翌年には朝廷から新たに豊臣の姓を賜り太政大臣に就任した。関白とは天皇の後見役ともいうべき官職で、本来、「摂関家」と呼ばれる近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家のみが就くことができた。秀吉は近衛家の猶子となって「藤原秀吉」として関白に任じられたが、直後の豊臣姓下賜により新たな「摂関家」として豊臣家を立ち上げることに成功した。つまり武士ではなく公家になったのである。

 同年、天正大地震の影響もあり、徳川家康に対しては融和策に転じ、妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下として家康に上洛を促した。秀吉にとっては大政所は大切な母であり、頭の上がらないほどの立場にあった。このため家康もこれに従わざるをえず上洛して秀吉への臣従を誓った。秀吉は、豊臣家が織田・徳川ら他の大名たちとは「格が違う」ことを明らかにしたのである。

 なお秀吉のことを後に太閤と呼ぶが、これは関白の前任者であることを意味している。秀吉は関白や太政大臣となったことで、自分が朝廷から全国の支配権を委ねられたとしたのである。また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前で秀吉自身への忠誠を誓わせた。

 さらに紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破り、藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させ紀伊国を平定した(紀州征伐)。四国を統一していた長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将に黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んで平定した。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には長宗我部元親の抵抗も歯が立たず降伏し、長宗我部元親は土佐一国のみを安堵を許された(四国攻め・四国平定)。四国の長宗我部元親が降伏するると、諸国の大名に交戦停止を命じ、これに違反したとして九州の島津義久を攻めた。

 

九州平定とバテレン追放令
 九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきた。1585年、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷の権威を以て停戦命令を発した。

 しかし島津氏がこれを無視したため、秀吉は九州に攻め入ることになる。1586年には豊後戸次川(大野川)において、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍が島津家久と戦ったが、仙石秀久の失策により長宗我部信親や十河存保が討ち取られ大敗した(戸次川の戦い)。
 だが翌年には弟の秀長と軍監・黒田孝高が20万の大軍を率いて九州に侵攻し、島津軍を圧倒して降伏させ九州を制覇した。また備後国へ亡命していた足利義昭のもとを訪れると、義昭は京都に帰り将軍職を辞して出家した。このようにして秀吉は西日本の全域を服属させた。
 1587年、九州を平定すると秀吉は、住民が強制的にキリスト教へ改宗させられ、神社仏閣が破壊されていることを知った。さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買していることを知り、長崎のキリシタン大名大村純忠が、長崎をイエズス会に寄進したことに危機感を募らせた。すなわち秀吉はキリシタンが領民だけでなく大名にまで広がっており、一向一揆のように結集して刃向うことを懸念したのである。

 さらには宣教師ガスパル・コエリョが、秀吉に対して挑発的な態度を取った。コエリョは大砲を積んだ大船を博多で秀吉に見せつけ、外洋船を建造する技術に習熟していない秀吉にすれば、それは脅威以外の何物でもなかった。コエリョはキリシタン大名に秀吉への敵対を求め、さらにフィリピンに援軍を求めている。

 またコエリョはローマ宛ての書簡に「もしもフェリペ国王陛下の援助で、日本66ヶ国すべてが改宗するに至れば、国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、容易に中国征服することができるであろう」と、日本人を明国征服の尖兵にすることをほのめかしている。

 同年6月19日、九州平定を終えた秀吉は、筑前箱崎において「伴天連(バテレン)追放令」を出した。具体的には「神国たる日本でキリスト教を布教することはふさわしくないことで、領民を集団で信徒にすることや神社仏閣の打ちこわしの禁止、宣教師の20日以内の国外退去」を求めた。バテレン追放令はキリスト教宣教師に国外退去を命じたもので、これは南蛮貿易を妨げるものでなく布教に関わらない外国人の渡来は規制しないとした。

 つまりこの段階ではキリスト教自体を弾圧したのではなく、そのため高山右近、蒲生氏郷、黒田官兵衛などのキリシタン大名は弾圧されず、細川ガラシャのようなキリシタンも迫害されずにいた。なおバテレン(伴天連)とはポルトガル語で「神父」を意味する言葉である。

 

秀吉の経済力

 秀吉は信長以上に豊富な経済力を誇り、黄金太閤と呼ばれていた。秀吉は数十万という大軍を動員したが、食糧、武器だけでも莫大な経費がかかった。もちろんその経済基盤は畿内を中心とした約220万石の直轄領であったが、徳川将軍家400万石に比べると少ない。しかし京都や大坂・堺・伏見などの領地に加え、長崎などの重要都市や佐渡・石見・生野などの鉱山を支配したのである。銀山などからの収益、豪商による南蛮貿易の利益を吸い上げていた。

 秀吉は天下を統一した後、その権力を誇示するために、莫大な富を利用して豪壮華麗な城を建て、民衆を集めて豪華絢爛な茶会を開いた。

 天正大判などの貨幣を鋳造したが、この貨幣は主に贈答用に使用され、貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからである。

 信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に命じ、一里塚を築き、信長が進めてきた政策を完成させた。
 同年10月1日には京都にある北野天満宮において千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけたため、当日は京都だけではなく各地からも大勢の庶民が参加し、秀吉は黄金の茶室を披露し人々を驚かさせた。
 関白となり天下人が目前に迫った豊臣秀吉は、政庁・邸宅・城郭の機能を兼ね備えた聚楽第を建て、大坂から移り住んだ。聚楽第は京都御所の西側で二条城の北側に位置していた。周辺地域には秀吉麾下の大名屋敷を配置し、聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされた。また大名屋敷のほかに側近である千利休の屋敷もあった。

 1588年4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応を行い、徳川家康や織田信雄ら有力大名に秀吉への忠誠を誓わせ、同年には毛利輝元が上洛して臣従した。さら刀狩令や海賊停止令を発布して全国的に施行した。1591年12月に秀吉が関白職を甥(姉の子)豊臣秀次に譲ったあと、聚楽第は秀次の邸宅となった。

小田原征伐天下統一
 1589年、側室の淀殿との間に鶴松が産まれると、秀吉は鶴松を後継者に指名した。同年、北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の名胡桃城を奪取した。この奪取は秀吉が調停した内容を北条氏が破り、秀吉は面子をつぶにされたことになった。秀吉は北条征伐の軍令を諸将に発し、最後まで豊臣政権に反抗していた北条氏の本拠地・小田原城を包囲した。秀吉の北条氏攻伐は全国統一の仕上げとなった。

 小田原の防衛は外殻の「総構え」が、城下町全体を空堀と土塁で取り囲んでおり、総延長は9㎞にもおよんでいた。つまり小田原城下をすっぽり防衛線で覆っていた。小田原の南西部は箱根連山につらなる山地で、東部は大磯丘陵につながり、中央部には酒匂川が南北に貫き、南部は相模湾に面していた。城内には広大な耕作地があり、籠城戦でも長期間対処出来る巨大な要塞であった。

 1561年には越後の上杉謙信が10万を越える兵で小田原城を囲んだが、謙信は1ヶ月で引き上げている。それは甲斐の武田信玄が上杉謙信の背後を襲おうとしたことと上杉謙信の兵糧不足であった。北条氏は今回もそのようになるとたかをくくっていた。

 北条氏政は徳川とは姻戚関係にあり、東北の伊達政宗は独立色が強く、秀吉の出した命令を破っており、北条が誘へば乗ってくる可能性があった。北条氏政は徳川、東北の伊達と3国連合を組めば、秀吉の包囲を破れると確信していた。

 しかし秀吉は米20万石を海路から急送して駿河・清水に送り、さらに金10000枚(慶長小判にして10万両)で東海道一帯の米を買い前線に送り出した。それは総計50万石から60万石で、20万人の将士が1年以上食べてゆける量であった。秀吉は労働形態を考案し、城攻めで商業を巧にしかも大規模に利用した。

 秀吉は関白であったことから、朝廷の権威を背にした命令に、諸将は次々と加わり20万の大軍となった。北条氏の支城は豊臣軍に攻略され、小田原城は3か月に渡わたり篭城した。頼りの家康は深慮にて豊臣軍についた
 小田原本城の戦いは、戦いらしいことはほとんどなかったが、秀吉らしい話として石垣城(一夜城)がある。この城は小田原城の西3kmの標高257mの笠懸山の山頂に建てられた。石垣城は本丸、西の丸、曲輪3棟からなる本格的城郭で、関東地区で初めての石垣を持った。この一夜城と異名を持つ石垣城は延べ4万人もの人足を使い80日間で完成させたが、完成の前日の夜に城の周囲の樹木を取り払い、突然城ができたように見せて北条側を大いに動揺させた。この石垣城は秀吉が長期戦を戦い抜く覚悟を北条側にはっきり示し、そのため雪崩を打って城内の雰囲気が開城に傾き落城が早まった。

 北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するかどうかで会議が長く紛糾したため、北条氏の会議を「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として「小田原評定」という言葉が使われるようになった。

 6月5日、伊達政宗が豊臣秀吉のもとへ参陣した。豊臣秀吉が北条氏を攻めるにあたり、伊達政宗にも参戦を呼びかけたが、秀吉の息のかかった芦名氏を摺上原(すりあげはら)の戦いで滅ぼし、東北の大部分を手に入れ参戦を拒み続けていた。しかし天下の情勢が秀吉へと傾く中、政宗はやっと重い腰を上げ小田原攻めに参戦する決意をした。大幅に遅れての参戦、会いにいったその場で首をはねられるしれない。
  怒り心頭だった秀吉は、政宗を根山中の蛇骨川の谷底の温泉場に閉じ込め、自分への面会を許さずにいた。しかし小田原の陣中に、千利休が来ている事を知った政宗は、「お茶の稽古をつけてくれないか」と申し出た。「生きるか死ぬかの瀬戸際に、お茶の稽古だと」秀吉は政宗に会いたくなって謁見を許した。
 秀吉との面会は小田原城を見下ろす石垣山の上で行われた。秀吉のもとへ向かう途中、政宗は小田原城に目をやると、小田原城を20万の軍勢が囲み、海には毛利と九鬼の水軍がひしめき合っていた。
 伊達政宗は白い陣羽織をはおり髪を短くかりあげ死装束で現れた。「この命、いかようにも」と死を覚悟した。政宗が秀吉の前へ進むと、秀吉は床几にすわり左右には徳川家康・前田利家がいた。政宗の死装束を見て満足した秀吉は「こっちへ来い」と、そばへと呼びつけた。政宗は機会があれば秀吉を殺そうと脇差を隠し持っていたが、もはやその思いは消え脇差を遠くへと投げ捨て秀吉のそばへと進み寄った。
 秀吉は持っていた杖で、政宗の首のあたりを突きながら「もうちょっと遅かったら、この首は危なかった」といった。秀吉55歳、政宗24歳であった。政宗は「もう10年早く生まれていれば」と後に言ったとされている。

 これから1ヶ月後、秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として遣わし、小田原城は喧々諤々の評定の末に無血開城となった。

 北条氏の父子・北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。 これによって秀吉の天下統一事業がほぼ完成した。 

 北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかも巧みな外交交渉で徳川家康・毛利氏を配下とし、北条氏を滅ぼすと奥州(東北地方)の伊達氏も配下に加えた。

  また越中国の佐々成政を討伐し、成政は戦わずに剃髪して秀吉に降伏したため、秀吉は許して越中新川郡を与えた。このようにして秀吉は紀伊・四国をも平定した。またこの年に追放した者を匿うことのないように命じ「追放した者を隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」とした。

豊臣秀長、鶴松の死

 1591年、最も信頼していた3歳下の弟・豊臣秀長が病死、次に世継ぎと決めていた鶴松が病死した。この頃から、秀吉は老化による耄碌と暴走が見えてくる。

 豊臣秀長は秀吉の実の弟で、秀吉とねねが結婚した後に、秀吉に従った最も信頼できる身内だった。秀吉が十代半ばで家を飛び出したため、秀長は秀吉がねねと結婚するまで百姓だった。秀吉が出世したため秀長が配下についたが、秀長はなかなかの知恵者で、兄・秀吉の戦闘作戦には常に傍らで秀吉を補佐し、その的確な助言には定評があった。秀長は温厚な人柄で、兄・秀吉を助けることに徹し、兄を立てて豊臣秀吉の天下統一に貢献した。また調整役としても各大名から頼りにされた。

 豊臣秀長が病死したため、秀吉は甥の秀次を家督相続の養子にして関白職を譲ると、秀吉は前関白の尊称である太閤と呼ばれるようになる。ただし秀吉は全権を秀次に譲らず、実権を握ったまま二元政を敷いた。

 同年、秀吉は茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子らの助命嘆願を受け入れず、千利休は武士ではないのに切腹を命じられ、その首は一条戻橋に晒された。この事件の原因には諸説があるが、もし秀長が生きていれば千利休の切腹はなかったとされている。

 また同年には東北で後継者争いのもつれから南部氏一族の九戸政実が反乱を起こした(九戸政実の乱)。南部信直の依頼を受けて、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら派遣した。東北の諸大名もこれに加わり6万の軍勢となった。この大軍勢に九戸政実・実親は降伏し、一族とともに斬首され九戸氏は滅亡した。

 また同年、京都の周囲を囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のため、洛中と洛外の境を明らかにするためであった。さらに同年、鶴松が死去するという大事件が起きた。

 豊臣秀長の死により、秀吉の暴走を止めることができる人物はいなくなり、豊臣政権に暗雲が立ち込めることになる。豊臣秀吉は朝鮮出兵を行い、豊臣秀次の切腹など滅びの道を歩み始めることになる。

 

豊臣秀頼が誕生

 天下人へのぼりつめた秀吉の唯一の気がかりは後継者問題だった。1591年の正月に秀吉の弟の豊臣秀長が、8月には秀吉の嫡男・鶴松が相次いでこの世を去り、秀吉は自分の後継者を失うことになった。

 これをきっかけに秀吉の後継者として豊臣秀次が異例の速さで出世してゆく。同年11月には秀吉の養子となって権大納言に、12月には聚楽第に入って関白に就任して内大臣に任じられた。しかし秀吉は全権を秀次に譲ったわけではなく、秀吉は「唐入り」に専念する代わりに秀次に内政を行わせ二元政治にしようとした。

 しかし1593年8月29日、秀吉の側室であった茶々(淀殿)との間に実子である豊臣秀頼が誕生した。秀吉は秀頼を大層可愛いがり、秀頼と秀次の娘を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へと政権継承を模索した。

 当時から秀頼が豊臣秀吉の実子だったことに疑問があった。正室・おね(北政所)はもちろんのこと、大阪城には京極竜子、甲斐姫、摩阿姫(前田利家の娘)、織田信長の6娘・三の丸殿など16人の側室がいたが、豊臣秀吉の子供は娘も含めて1人もいなかった。なぜ淀殿との間にだけ2人の子が生まれたのか。

 本当の父親として有名なのは大野治長である。大野治長の母(大蔵卿局)は茶々(淀殿)の乳母で、茶々を小さいときから世話をしており大野治長は乳兄弟であった。淀殿が治長と密通して秀頼が生まれた可能性が高い。

 秀頼が生まれたときには従兄の秀次を後継者に決めていたが、秀吉は秀頼の方が血筋がいいとした可能性がある。淀殿は織田信長の妹・お市の方の娘なので、たとえ自分の血が入っていなくても織田信長の血を継ぐ秀頼が後継者になれば、全国の大名がひれ伏すと考えたのかもしれない。秀頼は成長し身長6尺5寸(197㎝)、体重43貫(161㎏)という巨漢になった。小男だった秀吉の面影はどこにもない。

 

秀次切腹事件
 秀吉の歯車は少しずつ狂い始め、秀次の運命もあらぬ方向に変わってしまう。1593年8月3日に側室の淀殿が秀頼(お拾)を産むと、秀吉は新築したばかりの伏見城に母子とともに移り住んだ。

 当初、秀吉は聚楽第に関白・豊臣秀次を置き、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にて仲を取り持つつもりでいた。日本を5つに分け、その4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲るつもりでいた。 また将来は前田利家を仲人に秀次の娘と秀頼を結婚させて両人に天下を継がせようとした。

 ところが秀頼の誕生によって、秀次は「関白の座を追われるのではないか」との不安感で情緒不安定となり耗弱した。豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵も休戦が成立し、世の中が落ち着きを取り戻してきたころである。
 1595年6月、突然関白・豊臣秀次に謀反の疑いがかけられた。秀次は「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てている」という噂があるとされ、さらに女人禁制の比叡山に女性を連れて上った。殺生禁断の聖地・比叡山で鹿狩りを行った。北野天神に参詣した際、座頭と喧嘩をして座頭をなぶり殺した。鉄砲や弓の稽古で田畑にいる農民を標的にして殺害した。試し斬りと称して罪人や一般人などを鬼畜のごとく斬り殺した、として5つの罪状が挙げられた。

 石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白の5人が聚楽第を訪れ、秀次に謀反の疑いがあるとの五箇条の詰問状を示し、清洲城に蟄居を促したが、秀次は出頭せず逆心無きことを誓紙に誓った。さらに使者が訪れて伏見城に出頭するよう促され、秀次は伏見城に参上するが、登城すら許されず城下の屋敷に留め置かれ、その夜に剃髪を命じられ、高野山青巌寺に流罪・蟄居の身となった。

 7月15日、秀次の元に上使の福島正則・池田秀雄・福原長堯が訪れ、賜死の命令が下されたことを伝えた。同日、秀次は切腹し小姓や家臣らが殉死した。8月2日、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女ら29名が処刑された。遺体は一ヶ所に埋葬され、そこに建てられた塚は「畜生塚」とよばれた。

 秀次の切腹は、秀頼の誕生により秀次を疎ましく思ったからで、つまり秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、秀次を除くためとの説明が従来からなされている。 しかし秀吉と秀次の間に統治権の対立や謀反があったかどうか、また切腹の真相を記した文書が存在しないため本当の理由は不明である。 
 また秀次は天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら「殺生関白」と呼ばれるほど素行に問題があった。秀次には悪善両極端な顔があり、それが秀頼誕生で自暴自棄に陥り、浮気疑惑のある側室が妊娠すると腹を裂いて胎児の顔を確認したほか、殺生を禁じた比叡山でシカ狩りをするなど数々の悪行が複数残されている。

 秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は関白としてあるまじき行動が多かったことが身を滅ぼしたのであろう。秀次の暴虐を強調することは、秀次一族の誅殺を正当化することで、これらの多くの逸話は創作か誇張で殺生関白の史実を疑問視する見方がある。

 その他、秀次失脚の原因として、秀次には侍医がいたにもかかわらず、病の際に天皇の主治医を呼び寄せたことが、関白の地位を乱用する越権行為とされ失脚、切腹につながったと指摘する説もある(天脈拝診怠業事件)。

 

39人の公開処刑
 秀次に続いて一族39人の公開処刑が執行された。この処刑は非情な太閤秀吉を全国に知らしめることになった。特に秀次の子を子犬のように首根っこを摑んでつるし上げ、槍で突き刺す方法は、将来、秀頼の対抗馬になり得る芽を事前に摘みとるためではあるが、あまりに残酷であった。

 36人の中には秀次の顔を見ることもなく、この場を迎えた女人もいた。11番目に処刑された出羽(山形)の大名・最上義光(よしあき)の三女、於伊万(おいま)で駒姫とも呼ばれていた。秀次が東北に遠征中に駒姫を見そめ、側室として差し出すよう最上義光に迫ったが、駒姫はまだ10歳であった。最上義光は「成長するのを待ってほしい」と説得してその場を収めたが、4年後、東北一の美女と噂されるほどに成長した駒姫は約束通り秀次の側室として7月に上洛した。長旅の疲れを癒している最中に出くわしたのが秀次の切腹事件だった。

 父・最上義光の必死の助命嘆願を処刑の直前に聞いた淀君はこの声を無視できず、秀吉を説得して駒姫を鎌倉で尼にしようと刑場に早馬を仕立てたが間に合わなかった。この理不尽な処刑に最上義光はしばらくは食事ものどを通らず、嘆き悲しむ日々を送った。駒姫の母・大崎は駒姫の後を追うように亡くなっている。

 39人の血は暮れゆく西日で紅色に染まり、カラスの鳴き声が響き渡った。39人の遺体が投げ込まれた穴はすぐに埋められると、土と石を四角錐(すい)に盛った塚が築かれ、その上に秀次の首を収めた石櫃が乗った。よほど秀次を極悪人にしたかったのだろう。石櫃には「悪逆塚」の文字が刻まれた。
 当時、秀吉は50代の後半である。全盛時の気力はなく、無意識に失禁するほど老衰に悩まされ、正確な判断力を失っていた。あの秀吉の軍師・黒田官兵衛までもしだいに疎遠になっていた。
 秀吉は聚楽第を破壊し、秀次の足跡をこの世から消し去った。秀吉の死から2年後の1600年に関ヶ原の戦いがおきたが、秀次事件に巻き込まれて最愛の姫を亡くした出羽国の大名・最上義光は徳川方に属し豊臣方の上杉軍撃退で功を挙げた。また秀次一族の処遇に不満を持っていた東北の伊達政宗も徳川方に付いている。
 秀次一族の死去は老いた秀吉が豊臣家繁栄のためにとった非情な処刑であったが、関ヶ原の戦いに敗れた豊臣家が急速に衰えていく要因になった。

 弟・豊臣秀長が亡くなってからは、異常な行動が目立ち始め、「聚楽第の落書き事件」では罪のない町民など60名を斬首している。
 千利休の切腹、関白・豊臣秀次の一族大虐殺、朝鮮半島での残虐行為などかつての豊臣秀吉の面影は消えていった。

南蛮貿易
  日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペインの商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ貿易をするようになった。日本への輸入品は中国の生糸や絹織物などで中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども日本に輸入された。日本からの輸出品は銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいて、銀の生産量は世界の7割を占め、世界市場に影響を与えるほどだった。
  当時の日本人がヨーロッパ人を南蛮人と呼んだので、日本によるヨーロッパとの貿易のことを 南蛮貿易という。

キリスト教の伝来
 また戦国時代のヨーロッパ人の来航により、キリスト教が日本に伝わった。フランシスコ・ザビエル(1506年 - 1552年)は日本への渡航と布教を決意して、1549年に鹿児島に上陸して島津氏に布教の許可を得た。その後、各地を布教し、周防(山口県)の大内氏から保護を受け、また豊後の大友宗麟の保護を受けそれぞれの地で布教した。
  当時の日本では、キリスト教徒のことを キリシタンと呼んでいた。そのあと他の宣教師も、たとえばルイス・フロイスなどの宣教師が次々と日本にやってきた。宣教師は貿易の世話もしたので、戦国大名たちの中にはキリスト教を保護する者が、西日本、特に九州に多くいた。キリスト教の信者になった大名のことを キリシタン大名というが、キリシタン大名なった戦国大名には、有馬晴信、松浦隆信(たかのぶ)、宗義智(そうよしとも)、大村純忠(すみただ)、黒田長政、大友宗麟(おおともそうりん)、小西行長、高山右近などがいた。
 九州のキリシタン大名の大村・大友・有馬を中心に、日本からローマ教皇のもとへ少年使節が4人送られた。(天正遣欧少年使節)この使節は1590年に帰国したが、帰国時にはすでに日本ではキリスト教が禁止されていた。キリスト教は平等を説き、病院や孤児院なども建てたので、民衆の心をつかみキリスト教は広がっていった。17世紀の初め頃には、日本国内でのキリスト教の信者の数が30万人をこえるほどになった。

 

サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑
 1596年10月、土佐にスペイン船サン=フェリペ号事件が荷物を満載したまま遭難して土佐の浦戸に漂着した。救助した船員たちを秀吉の五奉行である増田長盛が取り調べると驚くべき事実があきらかになった。
 サン・フェリーペ号は海賊船で、水先案内人が増田長盛に世界地図を見せ「スペイン国王は、まず宣教師を派遣しキリシタンが増えると、次は軍隊を送り込んで信者に内応させて、その伝道地の国土を征服する。このようにして世界中にわたって領土を占領できた」と証言したのである。

 「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ、フィリピンを武力制圧し、同じように日本を制圧するため測量に来たと述べ、このことを都にいる三名のポルトガル人のほか数名からも聞いた」との書状を増田長盛は秀吉に書き、同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。

 翌年、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)が活発な宣教活動で禁教令を挑発しているとして、京都奉行の石田三成に命じて京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑を命じた。石田三成はイエズス会の日本人信者を除外しようとしたが果たせず、2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の計26人が処刑された。イエスズ会は26名の信者を、キリストの十字架になぞらえ、間違いなく天国に行くことができると宣伝して、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけた。

  歴史の教科書には宣教師らが渡来してきたのは我が国を占領するためとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会や我が国に来た宣教師などの記録を読めば、宣教師はキリスト教を広めることが目的ではく、我が国を占領するためだったことが容易に理解できる。

 大航海時代の幕開けと共に、アジアの国々に宣教師を送りキリスタンを尖兵として、スペイン、ポルトガルが植民地としていた。このように当時ヨーロッパの国々で何が起きていたのか、アジアの国々がヨーロッパの国々に植民地化されたいたことは説明されていない。

 宣教師たちはキリシタン大名を使い、布教を強力に推し進め、その土地の神社仏閣を破壊し、先祖のお墓を壊したため地元の住民との争いが耐えなかった。スペイン国王には宣教師に異教徒の全ての領土と富を奪い、その住民を終身奴隷にするつもりであった。宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれ、情報を収集するとともに、後に軍隊を派遣して侵略するための環境を整える使命を帯びていた。
 天草四郎で有名な島原へ行ってもキリスト教会はない。キリシタンは少数派で、キリシタンは先祖代々の墓を壊した。このキリシタンの行いに一度はキリスト教の布教を許した大村純忠も、地元住民と隔離するために、誰も住んでいない山に囲まれた場所を港として提供している。

 それが長崎で、その後南蛮貿易によって大きく発展するが、キリシタンが猛威をふるっている時に登場したのが秀吉であった。このように宣教師たちは我が国の小西行長や松浦鎮信らキリシタン大名の軍事支援があれば中国を征服することは容易としていた。宣教師がキリシタン大名に出兵を要請した場合、出兵してくれる確信があった。もしキリシタン大名の協力を得て中国がスペインの領土となり、さらに朝鮮半島までスペインの支配が及んだら、次に日本が襲われることになる。
 宣教師やキリシタンの行いに激怒した秀吉は、キリシタンの領土となっていた長崎を取り上げ、全面対決の姿勢を示した。つまり秀吉は神国日本を異人の手から救おうとしたのである。ちょうどその頃、遠いヨーロッパではスペインの無敵艦隊が新興国のイギリスから壊滅的な打撃をうけ一挙に制海権を失った。そのために日本侵攻ができなくなり、宣教師は後ろ盾を失い秀吉に対抗できなかった。秀吉が考えたのが日本の安全保障で、そのために朝鮮半島がこのままでは日本の安全が脅かされると考えたのである。このように秀吉は日本の安全保障を考えた国際人であった。

文禄・慶長の役

 織田信長が「本能寺の変」によって非業の死を遂げ、後を引き継いだ豊臣秀吉はついに天下統一を果たしたが、秀次切腹などの暴挙ぶりが目立っため、朝鮮出兵は秀吉の高齢による最大の黒歴史といわれてきた。恩賞として家臣に与える土地が不足していたためともされているが、この朝鮮出兵の目的は果たして何だったのか。単に明国を征服して王になりたかった野心だったなら無謀だったかもしれないが、欧州各国が明国を征服して次に日本を制服するのを防ぐための出兵だったならば正当性はあるだろう。また秀吉の主君だった織田信長は「貿易の重要性」を早くから認識しており、対明貿易の復活に向け、朝鮮にその仲介を依頼する交渉を続けていた。それがしだいに「武力侵攻」へと意識が変化し、信長でさえ将来は明国に侵攻すると口にしていた。
 信長は周囲のキリスト教宣教師たちから話を聞き、世界の事情、特にアジアの情勢には精通していた。信長から天下統一を受け継いだ秀吉が「信長が語っていた明国征服の話」を思い出したのかもしれない。

 この文禄・慶長の役、いわゆる「朝鮮出兵」は秀吉の錯乱や妄想と解釈れているが、実際は周到な準備のうえで実行した壮大かつ本気の構想だった。1591年8月、秀吉は来春に「唐入り」の決行を布告し、全国の大名を大量動員して肥前国に出兵の拠点となる名護屋城を築き始めた。

 ここで注意すべきは秀吉が命じたのはあくまでも「唐入り」であって、朝鮮は単なる通過点に過ぎなかったことである。朝鮮にとっては「侵略」であるが、秀吉にとっては「唐入り」が目的であり、唐入りが叶わなかった意味では朝鮮侵略は失敗であった。

 

文禄の役
 1592年3月、明の征服を目指して宇喜多秀家を総大将とした16万の軍勢を朝鮮に出兵させた。初戦では日本軍は朝鮮軍を撃破し、わずか1カ月足らずで首都の漢城(ソウル)を落とし、さらに2カ月後には小西行長が「平壌」(ピョンヤン)まで進撃、加藤清正は現在の北朝鮮の最北部まで侵入して朝鮮全域を席巻した。

 しかし各地で朝鮮の義兵(義勇軍)が組織されゲリラ戦を展開し、明の援軍が押し寄せると戦況は膠着状態となった。朝鮮半島は山岳地帯で玄界灘から続く長い補給路を維持するのに苦労したことが日本の勢いが続かなかった大きな要因となり、1593年に明との講和交渉が開始された。

 この和睦交渉を担当した小西行長は「明国は日本に降伏する」と秀吉に嘘を述べ、明国には「日本は明国に降伏する」と嘘を伝えた。そのため明国は秀吉に「秀吉を日本の国王にしてあげる」と使いを出したのである。日本と明の双方の講和担当者が穏便に講和を締結するための偽りの報告であったが、このことに秀吉は激怒し小西行長は危うく処刑されかけた。

 こうして日本と明国との間にわだかまりが残る中、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が行われた。

 

慶長の役
 1596年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見すると、自分の要求が全く受け入れられていないのを知って激怒し、使者を追い返して朝鮮へ再度出兵を決定した。秀吉は「全羅道をことごとく成敗し、忠清道・京畿道にも侵攻する。その後は拠点となる城郭を建設し、城主を定めその他の諸将は帰国させる」との号令を出した。

 1597年、小早川秀秋を総大将に14万人の軍を朝鮮へ再出兵させ、漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させ進撃を開始した。2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧し、京畿道に進出すると、日本軍は作戦通り文禄の役の際に築いた城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築き奮戦した。

 このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け大破した(第1次蔚山城の戦い)。しかし城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を城郭群に残して防備を固め、7万余人の兵を本土に帰還させ、慶長の役の作戦目標は完了した。

 秀吉は1599年にも大規模な軍事行動を計画し、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを備蓄するように諸将に命じたが、日本軍が朝鮮に渡ってから約1年半後に秀吉が死去し、それをきっかけに朝鮮朝鮮侵略は中止された。この朝鮮出兵は日本が一方的に敵地を荒し、日本にとっては加藤清正らの前線で死闘を演じたいわゆる「武断派」と、石田三成らの後方で軍政を担当していた兵站(へいたん)官僚いわゆる「文治派」との軋轢が鮮明となり、豊臣家は家臣が分裂したまま「関ヶ原の戦い」に突入することになる。

 朝鮮・明にとっても何の益することはなく、荒廃した朝鮮半島では復興に膨大な時間を要し、明は戦いで多くの将兵を失いその後急速に国力を失い、北方の異民族により滅ぼされ「清」の時代へと移ることになる。文禄・慶長の役は遺恨だけが残る戦となった。

 

虎退治

 朝鮮出兵では「加藤清正の虎退治」が有名であるが、その発端は加藤清正の家臣が何者かに惨殺されたことである。犯人が虎と判明するや、加藤清正は自慢の槍でその虎を追い込み仕留めたと伝わっている。虎は塩漬けにされ、秀吉に献上された。秀吉は虎の肉を非常に気に入ったらしく、その後は朝鮮在陣の各大名にもっと虎を送るよう命じている。その結果、加藤清正のほかに、島津義弘、鍋島直茂、亀井茲矩、松浦鎮信、伊東祐兵ら、多くの大名が続々と虎を献上した。吉川広家は「生け捕り」にも成功している。
 明国の征服はおろか、朝鮮半島で苦戦を強いられる戦況下で、何とか恩賞にありつこうと、各大名はこうした「秀吉のご機嫌取り」に走ったのである。虎の肉は「滋養強壮」に効果があるとされ非常に珍重されていた。小便を漏らすほど老いた秀吉は虎の肉を欲しがったのである。くしくも秀吉の嫡男・秀頼が誕生したのはちょうどこの時期と重なっている。

検地と刀狩
 戦国大名も秀吉の主君である織田信長も、後の徳川家康も検地は熱心に行っているが、最初に全国規模で検地をしたのは秀吉である(太閤検地)。源平の時代から武士は農村出身で、農場の開拓者・経営者(土豪)でもあり、農民と武士の境界は曖昧だった。各地に土地を所有する土豪がいて、土豪の下には隷属する農民がいた。

 戦国大名は豪族らを武力で臣下に組み入れたが、豪族は独立した経営をしていた。この「農民の労働の成果」を大名が取るのか豪族が取るかでいつももめていた。信長・秀吉は武力を城下に集め検地を行い、各村の農地を精確に測量し、そこから取れる収穫高を決め、それに課税した。こうなると戦国大名と農民の中間にいた豪族たちはそのうま味を失った。

 各地で一揆がもち上がり、そこで一揆の武力を削ぐために刀狩が行われた。在地の豪族たちは大名の家臣になって俸禄を頂戴するか、それとも農村にいて農業に専念し、軍役奉仕を免除される代わりに租税(年貢)を収めるかの選択を迫られた。農民の武器は取り上げられ、農村に残った豪族の家は代々その地の名主(なぬし)庄屋を務めるようになった。
 検地と刀狩りの意義は兵農分離で、検地と刀狩りにより農村では農業に専念する農民のみになった。また兵農分離と同じように商工階層も都市に集住させられた。

 それ以前の商人は道中が危険だったので武器を持っていたが、武器携帯禁止令が出され武器の代わりに治安の保障が与えられた。
 国や郡に何百もの小豪族がいて、常に武力を持っているとなると物騒であった。豪族は勝手に関所を作り私税を徴収し、時には盗賊になってよそ者の商人の物品を奪った。検地刀狩が厳密に施行されると、このようなことは次第に影を潜めていった。

 代表的な例が倭寇である。九州北部海岸の住民が武装して倭寇となり、朝鮮や中国の沿海を荒らしていた。倭寇の首領たちは在地の土豪で、明の皇帝は盛んに倭寇の取締りを室町幕府に要請していたが改善しなかった。豪族たちが配下の農民とともに海に繰り出していたのである。しかし秀吉の頃になると倭寇はほとんどなくなった。他にも原因はあるだろうが、このように検地と刀狩による兵農分離は重要である。
 兵農分離により武力を持った兵士が家臣団となり大名の統制に服し、農民は農業に専念した。安心して労働できるようなると生産物は増えていった。商工階層も同様で全国の通商圏ができあがり、米以外の商品作物の栽培も増えていった。

 農民の余剰蓄積は進み、名目上の年貢は60%でも実質は30%以下であった。富裕になった農村を土台として江戸時代の元禄の頃には、新しい商人層(例えば三井高利)が出現した。
 検地刀狩は民衆の経済活動を開放したが、これは秀吉も家康も全く予期しなかった事で、検地は結果的に日本の社会独特の平等性を帯びるようになった。

 農民の家内工業や商工階層の営利活動を調べて課税する仕組みは、それまでの幕府にはなかった。政治の実権と経済は別々の階層が担っていたが、兵農分離により武士階層が消滅したわけではない。武士は食わねど高楊枝になるか、幕藩官僚になるしかなかった。

 江戸時代になると農工商が盛んになり武士は窮乏してくるが、たとえ浪人でも、世界中の封建社会の中で一番教養があったのは江戸時代の武士であり、文字通り文武両道となった。武士の生活レベルは高くはなく、日常生活の中では庶民と共存するようになる。
 他国では地主階級が社会の主力になり、地主階層が政治権力と経済力を独占した。たとえ議会があっても、他国の方が日本よりはるかに身分格差は大きかった。また中国(清王朝)では、科挙官僚が地方官に任命されると、科挙官僚は一族・近親知人・子分をひきつれて赴任し、任地で商売を始め政経分離とはならなかった。

秀吉の最期
 1598年3月15日、秀吉は醍醐寺・諸堂の再建を命じ、庭園を造営して各地から700本の桜を集めて植えさせ、豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者や、諸大名の配下の女房女中衆ら約1300人を招いて盛大な花見を催した(醍醐の花見)。

 この盛大な花見を催し、天下統一から続く不運を払拭する行動を取るが、この花見の後に豊臣秀吉は病に倒れてしまう。洛中の屋敷として御所近くに京都新城を造ったが移居することはなかった。

 5月に入り秀吉は徐々に病に伏すようになり、日を追うごとに病状は悪化した。秀吉は衰弱し、下痢や腹痛、食欲不振が見られた。頻繁に使われた漢方薬も効果はなく、失禁することも多々あった。これらの症状から大腸がんなどが推測されるが、これ以外にも栄養の偏りからくる脚気、女好きがたたっての梅毒などが原因として挙げらるが、史料がないので真相は分からない。

 5月15日には、秀吉は「太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚」という11箇条からなる遺言書を五大老と五奉行に書き、彼らはこれを受けとると起請文に血判を付けて返答した。なお五大老とは徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元で、五奉行は石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以のことである。

 自分の死が近いことを悟った秀吉は、7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び、家康に秀頼の後見人になるように再度依頼し、秀吉は自分を八幡神として神格化し、遺体を焼かずに埋葬することを遺言した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を書いた。

 秀吉の病は「信濃善光寺から京都方広寺へ移された本尊の阿弥陀三尊の祟り」と噂され、三尊像は8月17日に信濃へ向けて京都を出たが、翌18日に秀吉はその生涯を終えた。享年62。
 秀吉の死は秘密にされたが、その死はすぐに民衆の間に広まった。秀吉の遺骸はしばらくは伏見城に置かれ、高野山に八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築された。翌年4月13日に伏見城から遺骸が運ばれ高野山に埋葬され、4月18日に遷宮の儀が行われ、朝廷から豊国大明神の神号が与えられた。この名は日本の古名である「豊葦原瑞穂国」に由来するが、豊臣の姓を意識したものであった。秀吉は神として祀られたため葬儀は行われていない。

 

死後

 豊臣家の家督は嫡男豊臣秀頼が継いだが、わずか6歳だったため五大老や五奉行が豊臣秀頼を補佐する体制がつくられ、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。

 当時の日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮の連合軍と第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いなどで勝利したが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び全軍が朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされた。

 朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍、民に大きな被害をもたらし、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊して明滅亡の原因になった。日本でも征服軍の中心であった西国の大名たちは消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。

 秀吉の死因については不明であるが、秀吉の死因より死後への関心が強かった。そもそも豊臣秀吉の死というのは、新しい戦乱の幕開けであり、誰もが「次は自分が」という意気込みを持っていた。そのため豊臣秀吉の死因などは誰も興味を持たなかった。

 豊臣家は秀吉の嫡男・秀頼が後を継ぐが、豊臣氏内部では加藤清正や福島正則ら武功派と石田三成や小西行長ら文治派が対立し、豊臣家臣団は分裂してゆくことになる。

秀吉の容貌

   秀吉が猿と呼ばれたことは有名で、「太閤素生記」では秀吉の幼名を「猿」としている。また松下之綱は「猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげに猿のまなこで、とぼけた顔をしている」と記している。

 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉の顔は小さく、色黒で猿に似ている」と書き、ルイス・フロイスは「身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体は貧弱だが予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語っている。

 秀吉は指が1本多い多指症だった。右手の親指が1本多いため、信長からは「猿」と呼ばれた他に「六ツめ」とも呼ばれていた。現在では多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になってもその事実を隠すことはなかった。しかし天下人となった後は、記録からこの多指症の事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせている。

 秀吉は幼い頃からいじめられ、子供ながらに気苦労が耐えないなかで成長した。そのため人を引き寄せる話術を身につけただけでなく、出世して見返してやろうとする意欲へ繋がったのだろう。豊臣秀吉は子供ができると、自分のように捨てられ・拾われてここまで出世することを願い「すて(捨て)」「ひろ(拾い)」という幼名を子供につけている。
 

秀吉の女たらし

 戦国時代の多くの武士は男色を好み、麗しい美少年を側に置いていた。この男色に関する逸話は織田信長や武田信玄など多くの戦国大名に残されている。
 しかし秀吉については、女性に関する話はたくさんあるが、男色の話は全くない。儒医・江村専斎の「老人談話」によると、美少年の小姓が目に留まった秀吉は少年に「お前に姉か妹はおらんのか」と尋ねている。このことからも女性好みで、男色には興味がなかったことがわかる。秀吉は男色を好むような武士階級ではなく、農民出身だったからかもしれない。

 織田信長が秀吉に書いた書状が残されている。この手紙は秀吉に宛てたものではなく、その妻・寧々(ねね)に宛てたものである。秀吉が信長配下として頭角をあらわしてきた頃、寧々は信長のいる安土城を訪ね信長に会見した。その際、秀吉の女癖の悪さを訴えたらしく、それを受けての信長の返事である。

 信長が寧々宛てに書いたのは「この度は訪ねてくれて嬉しい、土産もありがたい。そのほうは前に会ったときより大変美しくなった。秀吉がいろいろ不満を申すとのことだが言語道断である。あの剥げ鼠(秀吉)は、どこを探しても寧々のような女性は見つかるまい。これからは明るく振舞い、やきもちなど焼かずに世話をしてやりなさい」という内容であった。寧々を気遣う信長の優しい言葉で、しかも「この手紙を秀吉に見せなさい」と言い、さらに公式文書を示す「天下布武」の朱印まで押してあった。この手紙を寧々に渡されて読み終えた秀吉はどのような表情をしたのか、いずれにしても私たちの抱く信長のイメージが一変するような書状である。

 秀吉が転戦のため長浜城を留守にした際には、寧々が内政上の決済を行うことがあった。また多くの側室や諸大名の人質の世話なども取り仕切り、寧々は秀吉に対しても堂々と意見した。他の大名や家臣がいる前で寧々は尾張弁丸出しで秀吉と喧嘩することがあったが、秀吉が出世する中で、地位に応じて取り澄ますことも多かった。寧々は秀吉にとって、欠かすことのできない存在だった。

 秀吉は正室・寧々との間に子供が生まれず、多くの側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じて少なかった。秀吉との間に子供が出来なかった側室たちは、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁して再婚してから子供が出来た者が多い。そのため秀吉の子とされる秀頼は淀殿が大野治長、あるいは他の者と通じて成した子とする説がある。これについては秀頼だけでなく鶴松の場合も同じである。
 秀吉は子宝に恵まれなかったが、全くできなかったわけではない。秀吉が長浜城主時代に一男一女を授かっていた。男子は山名禅高の娘・南殿と呼ばれた側室との間に生まれた子で幼名は石松丸(秀勝)である。

 長浜で毎年4月に曳山祭がおこなわれるが、これは男子誕生を領民が祝ったことが祭りの起源とされている。しかしこの男子は夭逝してしまう。石松丸(秀勝)は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝と同じ名を与えている。秀吉は天下を手中にするが、子供運だけはどうしようもなかった。

 秀吉は若いころから織田信長の妹で、美人の誉れが高いお市の方に恋いこがれたが、お市の方は秀吉を嫌い柴田勝家と再婚し滅びの道を選択したとされている。
 秀吉は女性が大好きで、かつお姫さま好みで、高貴な家の出身者を側室にした。これは信長や徳川家康には見られず、信長や徳川家康は多くの妻妾をもつがその大半は名もない家の娘や子連れの未亡人が多かった。
 秀吉はお姫さま好みで、愛妾だけでも淀どの(お市の方の娘)、三の丸どの(信長の娘)、姫路どの(信長の弟の信包(のぶかね)の娘)、松の丸どの(京極高吉の娘)、三条どの(蒲生氏郷(うじさと)の姉妹)、加賀どの(前田利家の娘)となる。

 注目したいのは、そこには絶対の主人であった織田家の関連の女性が3人も含まれていることである。秀吉にしてみれば、織田家のお姫さまを追い求めても、特定の女性である必要はなかった。ここが歴史研究と歴史小説の違いになる。

 その中でもお市の方の娘・茶々(淀殿)は有名であるが、それは多分に嫡男を産んだからであろう。

 秀吉は小谷城攻めで茶々(淀殿)の父親・浅井長政を自刃に追い込み、賎ヶ岳の戦いでは、柴田勝家とともに茶々の母・お市の方を死に追いやった。秀吉は茶々にとっては両親の仇であるが、秀吉の側室となった茶々(淀殿)は男子を生み、最初の鶴松は夭逝したが、お拾(秀頼)は順調に育った。秀吉は待ち望んでいた跡継ぎに喜び、茶々(淀殿)も秀頼を大事にした。

 秀吉は待望の男子を二度も失い、茶々(淀殿)は腹を痛めた鶴松を失っているが、秀頼は二人の悲しみを癒してくれる大事な存在になる。この秀頼が寧々と茶々の二人の秀吉の妻の立場に変化をもたらす。
 寧々は政治的観点で秀吉亡き後の「豊臣家」を静観し、秀吉が天下を取った後、徳川の世に合わせ慎ましくしていた。茶々(淀殿)は秀頼が天下人でなければならないとした。この茶々(淀殿)の態度は家康との摩擦を生み、大坂の陣を経て豊臣家を滅亡させてしまう。寧々と茶々(淀殿)は不仲ではなかったが、秀吉の妻としての寧々と秀頼の母としての茶々(淀殿)の立場の違いが豊臣家の明暗を分けてしまったのである。

(下:秀吉ゆかりの方広寺と豊国神社)