豊臣秀吉

 農民出身でありながら織田信長の後を継いで天下統一を果たしたのは信長の家臣・豊臣秀吉であった。秀吉は人心を取り込むのが上手で、まさに成り上がりの人生を送った。

 織田信長に「さる」と呼ばれながら仕えたが、秀吉を猿と呼んだのは織田信長だけでなく、秀吉が関白になった時の落書には「木の下のさる関白」と書かれているくらいである。また無類の女好きで、それがまたご愛嬌といえるほどであった。

 人間は生まれた環境によって人生が決まっていると思いがちである。しかし厳しい身分制度の時代に、豊臣秀吉は「自分の人生を変えることができる」ということを教えてくれた。放浪者から関白に上りつめたのは、本人の努力や運もあっただろうが、秀吉の出世は武勇があると言う訳ではなく、「人」を動かして「人望」と「智略」に長けていて、それがまさに痛快であるゆえに人気が高いのであろう。

 自分の努力と才覚で立身出世をして、秀吉は関白まで登りつめたが、この姿は高度成長期の日本とあいまって国民の圧倒的支持を得ている。あの田中角栄も「今太閤」として称されていたように、卑しい身分の秀吉は人脈をつくり、主人を選び、選んだ主人にとことん忠誠を尽くし、時を待ち天下人となった。豊臣秀吉に学ぶべきことは多い。

秀吉の出生

 秀吉の出生について聞かれると、誰もが答えに窮するであろう。それは秀吉の生まれについて、本当のことは分かっていないからである。
 1537年、秀吉は尾張国中村(名古屋市中村区)で木下弥右衛門となか(大政所)の子として生まれているが、「太閤素性記」によると父の木下弥右衛門は足軽または農民とされているが、それ以下の身分だったかもしれない。いずれにせよ秀吉は最下層の出身で、それゆえに侍にあこがれ、低い身分ゆえに周囲から嫉妬をうけず、そのことが出世を助けることになった。

 幼名は「日吉丸」であるが、これは「絵本太閤記」によるもので、本当かどうか疑問視されている。秀吉はのちに多くの伝記を書かせているが、各伝記によって素性は異なり、若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていたことから、秀吉は「木こり」出身の「端柴売り」で、そのため羽柴(端柴)に改姓したとの説がある。

 本能寺の変を記した惟任退治記には「秀吉の出生、これ貴にあらず」と書かれているが、関白任官記では「父・木下弥右衛門は萩の中納言で、大政所が宮仕えをした後に生まれた」と書かれ、天皇の落し子を暗示させている。

 一般に広く流布しているのは「父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚するが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、15才の時に家を出て侍になるために遠江国に行った。あるいは7歳で実父と死別して8歳で光明寺に入るが、すぐに寺を飛び出して15歳の時に針売りをして放浪していた」となっている。父親の姓・木下についても、妻・おねの母方の姓で、それまでは名字を持つことすらできない低い身分だったとされている。さらに秀吉の出自について、与助という名のドジョウすくいだったとする説もあり、真相はまったく不明である。


蜂須賀小六
 秀吉は木下藤吉郎と名乗り、15歳時に今川氏の・家臣の遠江(静岡県西部)の小領主・松下之綱に仕え、今川家の陪々臣(家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎は松下之綱にある程度目をかけられ、仕事をうまくやりこなしたが、そのために同僚たちから妬まれ、やがて嫌がらせを受けまもなく松下家を出てしまう。真相は不明であるが、いずれにしても冴えない日々を送っていた。後に出世した秀吉は、かつての主人だった松下之綱を大名の身分に取り立てている。秀吉を目にかけた松下之綱も、まさかそのような形で恩が返ってくるとは予想もしていなかっただろう。

 若き日の秀吉が、放浪しながら宿もなく矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、夜盗の一団が通りかかり、その首領の蜂須賀小六に気に入られて子分になったという有名な逸話がある。しかし矢作川の橋が掛けられたのは江戸時代なので、作り話であるが秀吉が蜂須賀小六の世話になっていたことは事実であり、蜂須賀小六の紹介で織田家に仕官したと思われる。

 蜂須賀小六は美濃と尾張の国境付近で水運業を営んでいる国人で、村落を襲って盗んだり、落武者などの刀・鎧をねらう野盗の首領であった。最初は斎藤道三に仕えていたが、次いで織織田氏の傘下に入った。
 蜂須賀小六は秀吉よりも10歳年上であるが、秀吉に比較的早くから仕え人生を捧げた男である。美濃斎藤攻めの墨俣一夜城の築城などで活躍し、小六は秀吉にとって古参の家臣であるが、黒田官兵衛や竹中半兵衛と比べると活躍度は低い。しかし秀吉は蜂須賀氏を非常に大切にして、秀吉が四国を平定すると長年の労をねぎらい阿波一国を与えた。小六はこれを辞退するが、子の蜂須賀家政が受けている。


織田信長に仕官
 蜂須賀小六は、母親の実家近くの生駒家に出入りしていた。生駒家は藁の灰を売る豪商で、藁灰はただの藁灰ではなく灰汁媒染つまり染色に使うもので、安定供給するのが難しかった。生駒家は一大消費地である京都をはじめ、おそらく灰汁媒染を日本の各地に出荷していた。
 この生駒家に吉乃(きつの)という出戻り娘がいて、この吉乃に惚れこんだ年下の青年がいた。その青年とは織田信長のことで吉乃の間に3人の子供(信忠・信雄・徳姫)が生まれている。信長は吉乃のもとにいつも通いつめていた。

 さらに生駒家に居候している奇妙な人物がいた。下働きの禿げた鼠のような顔の小男で「おれの得意なことは早メシ大食いだ」などと笑い話をしたり、ワイ談をやって言葉たくみに吉乃にとり入り、その口添えによって信長の草履取りに取り立てられたのが秀吉である。

 1554年頃から秀吉は織田信長に小者として仕える。 小者とは信長の身辺の雑用をこなす役目である。信長の使い走りや雑用係として仕えていたが、馬の世話を命じられると、来る日も来る日も、暇さえあれば馬の体を撫で続け、そのため馬の体が鮮やかになり、これが信長の目に止まり草履取りを命じられる。

 有名な逸話として、ある冬の寒い日のこと、信長が草履をはくと暖かかった。信長は秀吉が尻に敷いていたと激怒するが、秀吉は草履をふところに入れて温めておいたのである。信長は秀吉のこのような心使い気に入り台所奉行を命じる。

 秀吉は清洲城の台所奉行を率先して引き受け、倹約の上薪の費用を減らすなど、大きな成果を挙げ次第に頭角を現した。

 信長は大名でありながら、若い頃から町人たちと親しく付き合うなど、身分によって人を差別しない性格だった。そのため低い身分の兵士たちにも人気があった。信長は出自にこだわらず、能力のある者をそれにふさわしい身分に取り立てていったので、低い階層の出身であった秀吉でも、信長の元であればいくらでも出世することができた。秀吉自身も出世意欲は旺盛で、自から積極的に様々な仕事を与えてくれるようにと信長に申し入れた。そして実際に任せてみると、いつも抜群の功績を上げることから信長は秀吉を気に入って短期間で身分を引き上げていった。

 その後、秀吉は戦闘にも参加するようになり、足軽組頭という下級指揮官の身分に出世した。当時は戦乱の時代であり内政官よりも武官の方がより出世を望める状況にあった。そのため秀吉は自ら信長に申し出て兵士たちを指揮して戦闘に出られる身分にしてもらったのである。秀吉は体が小さく、腕力もさほど強くなかったため、戦場で槍や刀を振るって活躍するのは難しいため、主に作戦能力や調略の面で信長の覇道に貢献していく。
 1561年8月、秀吉は浅野長勝の養女・おねと結婚する。おねの母はこの結婚に反対したが、おねはその反対を押し切って嫁いだ。当時としては珍しい恋愛結婚だった。おねは賢く能力のある女性で、この結婚は秀吉の出世をおおいに助けていくことになる。この時の秀吉はまだ貧しく、結婚式は藁と薄縁を敷いた質素なものであった。浅野長勝も秀吉と同じ足軽組頭で同じ長屋で暮らしていたのでこの結婚式に出ている。

 1564年、秀吉は濃国の斎藤龍興との戦で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢基康に誘降工作を行い成功させている。最初に秀吉の名が記された史料は、1565年11月2日付けの手紙で「木下藤吉郎秀吉」と書かれている。このことから、その時点で秀吉は信長の部将の一人として認められていたことがわかる。

 織田家は新興の武家らしく発展性に富んだ家柄だったので、秀吉のように素性の怪しい者にとっても居心地がよかったのでる。尾張は商業活動が盛んな地域で、人の出入が激しく、そのような土地柄も居心地に影響していたと思われる。

 

美濃攻略戦

 尾張を統一した信長は隣国の美濃(岐阜県)の攻略に取りかかった。1561年に美濃の当主・斎藤義龍が急死すると、その後を息子の龍興が継いでいた。この龍興は惰弱な人物で、家臣たちからの人望が薄く、信長にとっては美濃を奪い取る絶好の機会となっていた。信長は美濃に攻め込んで城を奪取するのと合わせて、工作をしかけて各地の城主たちを寝返えらせた。この時に秀吉は信長から工作を任されており、松倉城や鵜沼城などの美濃を拠点にした城主たちを織田方に寝返えらせている。秀吉は「人たらし」と呼ばれるほど人との交際や交渉に長けており、その才覚を活かして活躍した。それほど秀吉は相手陣営の切り崩しに長けていた。またこの頃から「木下秀吉」という名を用いており、松倉城主あてに「木下秀吉」の名で領地の安堵を約束する書状を送っている。
 信長から軍を預けられて城の攻略に向かったこともあり、美濃攻略戦の過程で、秀吉は部隊長にまでのし上がった。雑用係だった秀吉にとって異常ほどの出世だった。

 

墨俣一夜城
 秀吉の出世を決定するものとして、1566年の墨俣一夜城の話がある。美濃は元々は室町幕府の重臣・土岐氏が治める国であったが、まさに下克上の時代で、斎藤道三は土岐氏を追い出して美濃藩主になった。斎藤道三は息子の義龍に家督を譲るが、義龍は道三の実子ではなく土岐氏の血を受けついていた。そのため道三は義龍を疎んじ、家督を譲られた義龍も道三を親として認めなかった。斎藤道三と義龍が争いを起こし義龍が勝つが、道三は義理の息子・信長(濃姫の夫)に「美濃を信長に譲る」という遺言を書いていた。信長はこの大義名分を得て援軍を送るが美濃の勢力は強く攻め落とすことはできなかった。

 美濃は交通の要衝で、また作物が豊富な国だったので美濃の名前もそこから来ている。この頃の大名は国人たちと完全な主従関係にはなく、契約を交わしているにすぎなかった。道三が亡くなってからも、義龍は元の主君・土岐氏の血を引くと信じられていたので国人たちの結束は強かった。信長が義龍の代になっても美濃を攻めきれなかったのは、義龍の力よりも美濃の国人の力であった。しかし義龍が若くして亡くなり、息子の龍興の時代になると徐々に国人との信頼が揺らいでいった。
 墨俣は稲葉山(金華山)のふもとを流れる川の三角州にあり交通の要所であった。稲葉山城(岐阜城)のような山城では、家臣は平時はふもとに住み、戦時の篭城に備えて城に食料をためていた。篭城は援軍があって初めて篭城できるが、援軍がいない時は攻め手に有利になる。しかし攻め手側も野営では、敵の攻撃を恐れて兵の消耗が激しく、また食料がなくなれば引き上げる他なかった。しかし墨俣に城があれば、見張りを除き兵は寝ることが出来き、墨俣は川の脇にあるので稲葉城への補給を断つことが出来た。
 墨俣は長良川と揖斐川(いびがわ)とが木曽川に合流する地域にあり、東美濃を制した信長は残る西美濃を攻略するために墨俣の地に城を築くことにするが、これまでに何度も築城を試みるも、途中で斎藤勢にはばまれるという屈辱を味わっていた。墨俣に城を築けば川は重要な補給路になり、夜の闇にまぎれて船で墨俣に補給が可能で、しかも稲葉城への心理的な影響が大きかった。目の前に城を作られれば、美濃が滅びる不安を引き起こすことができた。この頃の戦は「士気をなくした方が負け」で、1割の兵が死んだら大敗といわれていた。
 墨俣は織田氏と斎藤氏の勢力の狭間にあり、ここに城を築くのはかなりの困難を伴った。織田信長は重臣・柴田勝家たちに命じて何度も墨俣に城を作らせたが、斎藤方の妨害を受けてすべて失敗に終わっていた。

 すると足軽頭の秀吉が築城に名乗りを挙げた。墨俣城は一夜城と呼ばれているが、上流は良質の木曾杉の産地であった。築城は秀吉が上流からいかだを組んで木材を運んだのである。

 美濃の野伏たちを束ねる川並衆の頭領・蜂須賀小六に協力を求めた。野伏は傭兵稼業を行う荒くれ者たちで、戦闘が起こる度にどこかに雇われて、織田方についたり斎藤方についたりして戦っていた。また戦場に遺棄された武器や物資を拾って売り払うといった、追い剥ぎのような稼ぎ方をしていた。
 秀吉は放浪時代に蜂須賀小六に世話になったことがあり、その縁を活用したのである。蜂須賀小六の案内で敵国に侵入して木材を切ると、築城の建材をその場で組みたて、それを解体してから、川で現地に運び込んだのである。一から新築するよりも、既に組んだものを再度組み上げる方が工期を大幅に短縮できるわけで、そのような工夫と知恵を用いて敵前での建築という困難な仕事を達成した。

 木曽川の海側は尾張(愛知県)、対岸は美濃(岐阜県)だった。この墨俣の一夜城は木曽川上流の森の中で木を伐採して組み立て、それを上流の川から流し、墨俣で再度組み立てて完成させてから城と川の間の木を伐採した。また秀吉は先に城壁を作り上げて、築城中の墨俣城に防御力をもたせ、後から内部の居住区を作った。斎藤方の妨害を跳ね除いて築城を成功させた。

 稲葉城から見ると、墨俣城はあたかも一夜で出来たように見えた。小さな城であったが、その戦略的価値は大きかった。

 秀吉はそれまで誰にもできなかった築城を短期間で完成させ、秀吉の名は織田家やその家臣の間に知れ渡り、この非凡な才能が信長の歓心を買い、信長から墨俣城主に任じられ、蜂須賀小六を家臣に加えることになる。この成功によって信長から一目おかれ、家臣の中でも際立って目立つ存在となってゆく。
 墨俣城の築城は川の上流の地理に詳しく機動力のある蜂須賀小六がいたから可能であった。この墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走った。美濃の国人たちは斎藤義龍と完全な主従の関係ではなかったので信長に傾くのは当然であった。国人は自分の領土を安堵してくれれば大名が誰でも良かったのである。

 

竹中半兵衛

 竹中半兵衛はその頭脳でもって斎藤家に仕え、織田家との戦いを勝利に導くこともあった。性格的に真面目で有能な家臣だったが、義龍に嫉まれ諫言しても聞き入れてくれないことが多かった。稲葉山城(岐阜城)は難攻不落の城だった。そこで竹中半兵衛は稲葉山城を占拠するという荒業で龍興の目を覚まさせようとした。半兵衛は「城内の弟が病気になったと聞き、良い医者を連れてきた」とウソをついて、城内にわずかな手勢で入り、龍興を殺さずに逃がした。半兵衛は下克上が目的ではなく、諫言として城を乗っ取っただけなので、後に自ら龍興に詫びを入れて城を返している。しかし龍興は半兵衛を解雇し放り出してしまった。以後、半兵衛は美濃から離れた領地にこもって隠遁生活に入ったが、その後、秀吉は信長に願い出て、いわゆる「三顧の礼」で竹中半兵衛を自分の与力として迎えたのである。

 与力とは信長の直属の家臣でありながら、他の武将の指揮下に入る者である。つまり信長は秀吉をリーダーのひとりとして認め、他の武将たちを秀吉の命令に従わせるほどに重視していたことになる。竹中半兵衛は斎藤氏から離れてこもっていたが、その軍略の才を見込んで秀吉が織田家に加わるようにと勧誘したのである。また、この頃には弟の秀長も家臣に加わり、秀吉の元で働く人材も充実してきた。

 竹中半兵衛が秀吉の軍師となったため、美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄安藤守就氏家卜全の3人もともに信長側についた。美濃三人衆が団結すれば斎藤家も逆らえないほどの力を持っていた。そこで今が攻め時と織田信長は稲葉山城を攻めた。

 

大沢次郎左衛門

 大沢次郎左衛門は斎藤家の家臣で、妻は斎藤道三の娘であった。1566年12月に、秀吉の調停によって織田信長に寝返り、翌年1月5日に秀吉とともに清須へ行くが、織田信長は「この大沢なる者は武勇に優れた者であるが、心変わりしやすい者で、味方として信じることはできない。今夜、腹を切らせよ」と命じた。秀吉は「降参してくる者に腹を切らせては、今後降参してくる者はいなくなります。ここは一つお許しになった方が」と申し上げたが、信長は聞き入れなかった。

 秀吉は大沢の前へ行き「これこれの事情で何とも申し訳ないが、ここにいてはあなたの身に危険が起きる。どうか逃げて下さい。ご不審なら、私を一緒に連れていって下さい」と刀や脇差しを左衛門の前に投げ出し無腰になって語った。大沢は秀吉の誠意に打たれ、今までの礼を厚く述べ無事に脱出した。この件を後に伝え聞き、秀吉の配下になりたいと思う者が多くなった。

 秀吉は信長の忠実な部下として知られているが、その秀吉は後に信長を次のように評している。「信長公は勇将ではあるが、良将ではない。信長公に一度背いた者は、その者への怒りがいつまでも収まらず、その一族縁者はみな処刑しようとする。だから降伏する者からも敵討ちは絶えることはない。これは器量が狭く、人間が小さいからである。人からは恐れられても、大衆からは愛されない」。このことは秀吉の人柄を表している。

 

織田政権下での台頭

 1567年に美濃の斎藤氏が滅亡すると、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との戦いが始まった。信長の天下布武が実践された最初の戦いで、秀吉は六角氏の近江箕作城の攻略戦で活躍し、さらに観音寺城の戦いで六角氏を負かすと、同年、信長の上洛に際して秀吉は明智光秀、丹羽長秀とともに京都の政務を任された。
 1569年、毛利元就が九州の大友氏と交戦すると、出雲奪還を目指した尼子氏の残党が挙兵し、尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に山名氏の背後を突くように出兵を要請したため、信長は木下秀吉を大将に軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18の城を落城させ、激しい攻撃を受けた山名祐豊は此隅山城から堺に亡命した。山名祐豊は同年、一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

 

金ヶ崎の退き口

 1570年、信長は越前の朝倉義景討伐のため侵攻を進めたが、金ヶ崎付近で盟友の浅井長政の裏切りにより、織田軍は浅井と朝倉軍から挟み撃ちという絶体絶命の危機を迎えた。織田信長は即座に退却を決め、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿(しんがり)を務めた。殿(しんがり)とは撤退するときに最後尾になって、追手を振り切り足止めをする部隊のことで、殿は大将の命を預かる最も重要な役目だった。このことから信長は秀吉や光秀を信頼し高く評価していたことが分かる。

 軍勢を整えなおした信長は、朝倉氏に加勢した浅井長政への報復戦に打って出た。浅井長政の城・小谷城は難攻不落とされ、信長は城攻めを諦め、城から浅井勢を引きずりだして野戦で勝負することになる。
 信長は横山城という城を包囲した。この横山城は近江を南北に結ぶ重要な場所にあり、ここを信長に抑えられると、浅井氏の勢力は分断されることになる。この横山城を見捨てることのできない浅井長政は、横山城の側を流れる姉川に陣を敷いた。

 

姉川の戦い

 浅井長政の軍勢は朝倉の軍が加わり1万5000人、対する織田の軍勢は援軍の徳川軍を加え2万人であった。この両軍は姉川を挟んでにらみあった。徳川軍は朝倉軍と対峙したが、徳川軍は兵士の数では不利であったが、徳川軍には大久保忠世、本多忠勝、榊原康政という屈強な武士がそろっていた。浅井軍は自分たちの横山城を取り返すという意気込みから織田信長の軍より強かった。織田の軍は13段の構えをとったが、11段まで崩されてしまい、一時は姉川から1キロも退却した。

 その時、少ない兵で朝倉を追い込んでだ徳川の軍勢1000人ほどが。信長を攻める浅井軍の右翼から突入し、さらに横山城の包囲についていた兵も信長の危機を聞きつけ左翼から突入した。徳川家康に助けられた織田信長は姉川の戦いに勝利したが、この激戦は9時間続き、姉川は血で赤く染まった。織田信長はその後、横山城を完全に攻め落とし秀吉を城主にした。その後の小谷城の戦いでは、秀吉は3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落し浅井・朝倉との戦いに完勝した。


織田政権下での秀吉の台頭
 1573年、浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井氏の旧領に封ぜられ、今浜の地を長浜と改め長浜城の城主となった。この頃、木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)。改名したのは「織田家の有力家臣・丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらった」とする説が一般的である。秀吉は長浜の統治政策として、農民の年貢や諸役を免除した。そのため近在の百姓が長浜に集まり、さらに近江の商人が集まり、秀吉は旧浅井家臣や石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。

 

中国地方攻略

 1575年、長篠の戦いに従軍し、鉄砲隊の戦略が武田の軍勢を打ち破り、鉄砲隊の重要性が認識された。翌年には北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。

 1577年、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家とぶつかり無断で帰還した。その後、勝家は手取川の戦いで謙信に敗れている。信長は柴田勝家の命令に逆らった秀吉に激怒し、秀吉も切腹を覚悟したが許されれている。

 織田信忠による松永久秀討伐に従軍して功績を挙げ(信貴山城の戦い)、その後、信長は中国地方攻略を命じ、播磨国に進攻すると播磨守護赤松氏の勢力である赤松則房・別所長治・小寺政職らを従えた。さらに以前から交流のあった小寺孝高(黒田長政)より姫路城を譲り受け、姫路城を中国攻めの拠点とした。播磨の一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。

 

上月城の戦い

 豊臣秀吉は出自に謎が多いせいか得体の知れない人物だった。その性格には異常な残虐性すら見られた。秀吉の残酷な性格については、数々の合戦において残酷な行為がみられる。今回は上月(こうづき)城の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦いを取り上げてみよう。
 上月城の戦いとは織田信長と毛利輝元との全面戦争の緒戦だった。信長が西国方面の攻略を託したのは、頭角を現していた秀吉である。命を受けた秀吉は播磨に向けて出発した。
 秀吉は竹田城(兵庫県朝来市)に弟の秀長を入れ、いよいよ赤松七条家の一党が籠る上月城(兵庫県佐用町)へと兵を進めた。赤松七条家は毛利氏に味方していたのである。まず秀吉の軍勢は上月城近くの福原城を陥落させた。このとき毛利方の宇喜多直家は、秀吉の軍勢と交戦して、散々に打ち負かされ、敗走中に自兵の首が619も取られている。宇喜多勢を散々に打ち破った秀吉は、その余勢を駆って上月城に迫った。上月城で激しい攻撃がおこなわれた。 
 七日目に上月城の者が大将の首を切って秀吉のもとに持参し、「残党の命を救って欲しい」と懇願した。秀吉が上月城を落としたのではなく、上月城内部の者が城主を裏切って首を獲り、それを秀吉のもとに持参したのである。敗戦間近と見た上月城内の武将らは、城主を差し出すまでに追い詰められていた。城主の首を差し出した交換条件は、城内の者の命を救って欲しいというものであった。彼らが生き残るために、いちるの望みを託したことは想像に余りある。
 そかし秀吉は上月城主の首を安土城の信長に進上すると約束を反故にした。秀吉は城兵たちの命乞いを受け入れることなく、逆に逃げられないように柵を巡らすと、次々と敵兵の首をはねた。さらに見せしめとして、女、子供をそれぞれ串刺しにし、磔(はりつけ)にして晒(さら)し者にするなどしたのである。残酷であることには何ら変わりがない。城兵が大将の首を持参して降参したのに、秀吉はそれを許さなかった。残党とは兵卒のほかにも城内に逃げ込んだ女、子供も含まれている。当時、戦争が起こると、城は周囲の非戦闘員が逃げ込む場でもあった。秀吉は容赦することなく、彼らを串刺し磔にしたのである。女、子供を串刺し、磔にするという措置は、秀吉の考えに基づくものだった。秀吉の容赦のない苛烈な性格が浮かび上がってくることになろう。秀吉も武将として成果を挙げない以上、厳しい立場に追い込まれるのは当然である。 
 秀吉は昼夜を忘れ、信長のために軍功を挙げたゆえに、高い評価が与えられたのである。元の身分が低い秀吉にとっては、信長から目をかけられることが、もっとも重要なことだった。上月城の戦いで見せた秀吉の残虐性というべきもが続く三木城攻めでも姿を現すことになる。

三木合戦
 1578年3月から始まった三木合戦は「三木の干殺し」と称され、長期にわたる兵糧攻めで知られる。秀吉が中国計略を進める上で、最も頼りにした武将が別所長治である。別所氏は播磨国守護・赤松氏の流れを汲む名族で三木城に本拠を置いていた。この三木城主の別所長治が当初信長に与することを約束したが、叛旗を翻し毛利方に寝返ったのである。ここから戦国史上に例を見ない凄惨な兵糧攻め「三木の干殺し」が始まる。
 別所氏が寝返った理由について注目されるのは、別所氏が出自の卑しい秀吉を愚弄(ぐろう)していたという説である。別所長治は村上天皇の苗裔・赤松円心の末葉たる別所家に対して、侍の真似をする秀吉が誠に無礼でならなかった。毛利家を滅ぼしたあと、秀吉が播州一国を支配しようとしていることは明らかで、敵の謀を知りながら、その謀に乗るのは智将ではない。つまり、別所氏は名門意識があり、秀吉を見下していたということになる。別所氏が信長に叛旗を翻した理由の一つとして、「名門・別所氏が出自すら判然としない秀吉には従えなかった」ということが挙げられる。それは、ここに示した絵解きの説明が広く流布したものと考えられる。実際に別所氏が寝返った理由は、足利義昭や毛利輝元らが熱心に引き入れたからだった。
 当初、別所方は優勢に戦いを進めたが、それは長く続かず、たちまち劣勢に追い込まれた。秀吉は三木城の周囲に付城を築くと、毛利方の兵糧ルートを完全に遮断した。こうして「三木の干殺し」と称された、生き地獄のような兵糧攻めが展開される。
三木城付近に築城された付城は、実に堅固なもので、二重にした塀には石を投げ入れて重ねて柵を設けた。また川面には簗杭(やなぐい)を打ち込んで籠を伏せて置き、橋の上には見張りを置いている。単にそれだけではない。城戸を設けた辻々には、秀吉の近習(きんじゅ)が交代で見張りをした。
 人の出入りも厳しく規制された。付城の守将が発行する通行手形がなければ、一切通過を認めないという徹底ぶりであった。夜は篝火(かがりび)を煌々と焚き、まるで昼間のようであったといわれている。もし油断する者があれば、上下を問わず処罰し、重い場合は磔という決まりが定められた。三木城の周囲はアリの入り込む隙間のないほどの厳重な完全封鎖がされており、当然一粒の米も入らなかった。兵糧がなければ戦う気力が喪失し、城内の兵卒の士気が上がらないのも止むを得ない。時間の進行とともに、三木城には飢餓をめぐる惨劇が見られるようになる。城内の食糧が底を尽くと、餓死者が数千人に及んだという。はじめ兵卒は糠(ぬか)や飼葉(馬の餌)を食していたが、それが尽きると牛、馬、鶏、犬を食べるようになった。当時、あまり口にされなかった肉食類にも手が及んだのである。もはやぜいたくは言っていられなかった。
 糠や飼葉、肉で飢えを凌げなくなると、ついには人を刺し殺し、その肉を食らったと伝えている。さすがに死肉は食しにくいので、衰弱した兵を殺したと考えられる。その空腹感は、想像を絶するものがあった。「本朝(日本)では前代未聞のこと」と記録されており、城内の厳しい兵糧事情を端的に物語っている。1580年1月、秀吉は三木城内の長治、吉親、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命すると伝え、秀吉もこの条件を了承した。別所一族の切腹の現場は、実に凄惨なものであった。長治は3歳の子息を膝の上で刺し殺し、女房も自らの手で殺害した。友之も同じような手順を踏んだ。そして長治は改めて城兵の助命嘆願を願うと、腹をかき切った。介錯は三宅治職が務めた。腹は十文字に引き裂かれ、友之以下、その女房、吉親の女房らも自ら命を断った。

った。

鳥取城攻め

 因幡平定は以前から始まっており、城主である山名豊国は降伏していた。しかし、降伏を潔しとしなかった豊国は密かに吉川元春と通じて応援を依頼していた。そこで派遣されたのが、石見吉川家の当主で吉川経安の子・経家である。
 籠城直後、豊国はにわかに秀吉に投降し、その軍門に降った。投降の理由としては毛利方が豊国を暗愚とみなし追放したなど多くの説がある。秀吉は降伏した豊国などを引き連れ、鳥取城攻略に乗り出した。取った作戦は兵糧攻めであったが、その準備には余念がなかった。
 秀吉は鳥取城を兵糧攻めにすると決めると、鳥取城の西北に付城として丸山・雁金の二つの城を築いた。付城の構築は秀吉の十八番であり、三木城の戦いでも効果を発揮した作戦でもある。しかも築城のスピードは群を抜く速さであった。そして鳥取城を完全に包囲し、アリの這い出る隙間も与えなかったという。
 加えて秀吉は米などを通常よりも高い値段で購入し、吉川氏の先手を打った。もともと鳥取城は兵糧が乏しかったといわれているが、これにより窮地に陥ったのである。また、鳥取城には多くの農民らが入城した。それは、秀吉が城内に追い込んだといわれており食糧の浪費を促すためであった。
 秀吉の兵糧攻めは、付城の構築と同時並行で進められた。徐々に鳥取城の食糧が尽きていった。それは阿鼻叫喚(あびきょうかん)ともいえる描写を行っている。  因幡国鳥取郡の一郡の男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは五日に一度か三日に一度鐘を衝くと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした。
 鳥取一郡の男女とは大げさであるが、それほど多数の人間が入城した表現と捉えてよいであろう。百姓たちは心構えがなかったため、すぐに飢え死にしたとあるが、実際には非戦闘員に食糧が回らなかった可能性もある。雑兵が城柵近くの葉などを食していたということは、城内の食糧が尽きていたことを示している。具体的な時期は示されていないが、籠城が始まってからさほど経過していない頃と考えられる。
 時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、惨劇はさらに深まった。のちになると、草の葉なども尽き果てて、牛馬を食らっていたが、露や霜に打たれて餓死する者は際限なかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだ。この哀れなる様子は目も当てられなかった。これはすでに見てきた三木合戦と同じであった。しかし、悲劇はこれだけに止まらなかった。ついにカニバリズム(人肉を食うこと)が行われたのである。次にさらに激しい惨劇を確認しておこう。
    (秀吉軍が)鉄砲で城内の者を打ち倒すと、虫の息になった者に人が集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしく首はあっちこっちで奪い取られていた。
 食糧不足が極限に達すると、人々の理性は完全に失われた。しかし、死んだ人間の肉はまずかったようで、たとえ虫の息であっても、生きた人間が食に供されたようである。中でも「頭がうまい」というのは初耳であるが、脳みそのことであろうか。いずれにしても、惨劇がここに極まったのは、いうまでもないであろう。
 このような事態を受けて、同年10月25日、城主の吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹したのである。人が人を食らうことを知った秀吉には、どのような気持ちが生じたのであろうかもはや知る由もない。

中国攻め

  1579年には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名・宇喜多直家を服属させたが、摂津国の荒木村重が反旗を翻し(有岡城の戦い)、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされている。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許されている。
 1580年、秀吉は織田家に反旗を翻した播磨の三木城主・別所長治を攻撃し、竹中重治や古田重則などの家臣を失うが、2年に渡る兵糧攻めでこれを破り、同年、播磨から北上し但馬国にも侵攻して、最後まで抵抗した山名祐豊が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田の勢力圏とした。

 山名氏政を勢力に取り込むと、但馬の国人の反乱も沈静化し、自らは播磨経営に専念するために、弟の羽柴秀長を有子山城主に置き但馬国の統治を任せた。羽柴秀長による但馬経営は順調におこなわれたが、秀長は有子山城があまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。

 1581年、因幡山名家の家臣団が、但馬守護の山名豊国を追放し、毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城に立て籠もり反旗を翻した。ここで秀吉は彼の経済感覚をいかんなく発揮した。攻め込む前に味方の領地に住む米商人を抱きこみ鳥取に行かせ、上方ではひでりで米の成りが悪い、いくらでも買うぞと言わせ、鳥取の農民の米を高値で買い取る。あまり条件が良いので城に備蓄していた米の大部分も売られた。秀吉は見計らって攻め込み、城を大軍で遠巻きし要所要所に臨時の要塞を造って城から撃って出られないようにし、上方から商人や遊女を呼び寄せて、将兵が飽きないように配慮した。結局城将以下数人の切腹のみ、兵士の被害はほとんどなしで落城した。(鳥取城の戦い)。

 

高松城の水攻め

 その後も中国西地区を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置くと、備中に侵攻し3万の兵で、毛利方の清水宗治が守る備中高松城(岡山県)を水攻めに追い込んだ。勇将として名高い清水宗治は毛利方の小早川隆景に属しており、高松城は毛利方、信長方にとって重要な戦略拠点であった。秀吉は「こちらに味方すれば、備中、備後の2国を与える」と調略によって城を奪おうとしたが、清水宗治が寝返ることはなかった。

 高松城は低湿地帯で水田の中にあった。背後には山々が重なり、西南には足守川が流れている。秀吉は力ずくで城を攻めることを諦めると、城を水没させる作戦をとった。秀吉は土地の農民を徴収し、銭をばら撒き昼夜を問わず城の周りに土塁を積み上げ、3.3キロにわたる大堤防を築いた。大堤防が完成するとせき止めていた足守川の水を一気に流し、たちまち高松城は浮島になった。毛利方は高松城の危機を救うために駆けつけるが、浮島になった高松城を遠くから見守ることしかできなかった。

 このようにして中国攻めでは三木の干殺し鳥取城の飢え殺し高松城の水攻めといった、時間はかかるが敵を確実に下して味方の勢力を温存した。秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾なく発揮された。秀吉は通常の武士では考えつかない策を次々と実行していき、これらが能力第一主義の信長から高く評価された。

 1582年の高松城攻めの頃には羽柴秀吉と名乗り姫路城主として立派な大名となっていた。しかしその毛利攻めの総仕上げとして、毛利軍を打ち破るため信長を招いたことが仇となった。毛利攻めとして秀吉は勝つ自信があったが、総仕上げを信長に譲ろうとしたのである。

 

本能寺の変
 1582年6月1日深夜、織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により殺される凶事が発生した(本能寺の変)。明智光秀は織田信長の暗殺を毛利側に伝えようとした使者が秀吉側に捕まり、秀吉はこの事件を知ると愕然とした。毛利家が信長の死を知るのは時間の問題であった。毛利側に知られる前に手を打たなければ挟み撃ちになってしまう。時間がなかった。毛利側に知られる前に「清水宗治の切腹」を条件に毛利輝元と一日で和解し、清水宗治の切腹を見届けると京都まで常識破りの速さで軍を引き返した。

 備中高松城から山崎までは235kmである。ちなみに四国八十八箇所巡りのお遍路さんは40日から50日で1200km、つまり1日で24から30km歩くことになる。1日で70kmというのはその倍以上の距離である。その速さを持続して、武装集団が食糧などを運びながら山道を含む道を進むことができるとは思えない。暴風雨の中で武具をつけ、武器を持ち、食糧を持って2万人以上の集団がこれだけの距離を進めるのかどうか。

 これだけ動いたら体力を消耗するだけではないかと思うが、これが世に言う中国大返し(おおがえし)である。ピンチはチャンスである。秀吉は信長を殺した明智光秀を他の家臣よりも早く討つことで、信長亡き後の地位を高め、天下を我が手にしようとした。

 羽柴秀吉は即座に「弔い合戦」の大義名分を掲げ、神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを味方につけ、6月13日に京都の山崎で明智光秀と戦いに臨んだ。

 兵力で劣る明智光秀は山崎の戦いで敗北し、秀吉は主君・信長の仇討ちを果たした。敗れた光秀は逃げる途中で落武者狩りの手にかかって討たれた。この山崎の合戦で天王山を先に制した秀吉が勝ったことから、物事の正念場を「天下分け目の天王山」と表現するようになった。また秀吉は本能寺の変から、わずか10日余りで明智光秀を倒し、近畿地方の秩序を取り戻したため信長の後継者として注目されることになった。 また明智光秀のあまりにも短い天下を「三日天下」という。

  本能寺の変の時に、京都から遠く離れたところにいた柴田勝家・滝川一益ら先輩格の武将は、織田信長の仇討ちで遅れをとることになった。羽柴秀吉の台頭を抑えようとする柴田勝家は、6月27日、清須城で会議を開き信長の正統な後継者を決めようとした。

 

清洲会議

 1582年6月末、明智光秀の謀反で織田信長が命を落とした「本能寺の変」から僅か25日後、織田家の後継者を決める清洲会議がはじまった。

 織田家の重臣達は織田信長が最初に居城とした城清洲城(名古屋)に集まった。織田家の重臣とは柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人で、清洲会議は織田陣営の将来を左右する重要な会議であった。織田家の重臣には滝川一益 がいたが、滝川一益は関東の大名家「北条家」と戦って敗戦したばかりで、清洲会議には参加できなかった。
 清洲会議はまず「織田家の後継者を誰にするか」が話し合われた。織田信長の嫡男・織田信忠は能寺の変で明智光秀に討たれており、秀吉はその後に明智光秀を征伐して京都の支配権を掌握していた。

 まず織田信長の後継者として、次男の織田信雄か三男の織田信孝から家督相続者が選ばれるはずだった。本来ならば次男の織田信雄となるはずだったが、信雄は伊賀忍軍を攻撃して大敗したため武将としての資質に欠けるとされ、普段から無能と評判だったので支持する者はいなかった。

 一方、三男の織田信孝は四国方面軍の司令官で家臣からの信頼も厚く、さらには光秀討伐(天王山の戦い)にも参加していた。また柴田勝家が信孝の後見人であったため、柴田勝家は後継者として信孝を擁立しようとしていた。織田信孝が後継者になった暁には後ろ盾となって織田家を引っ張っていくつもりだった。実際に家臣たちの中でも信孝が家督を継ぐべきという意見が大勢を占めていた。清洲会議の発起人である織田家筆頭家老の柴田勝家は、信長の三男・織田信孝を推した。柴田勝家は例え秀吉が裏で何を画策しようとも自分に勝機があると思っていた。

 しかしこれに対し羽柴秀吉は予想に反し長男・織田信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)を推した。次男の織田信雄は後継者として資質に欠けており、また三男の織田信孝と仲が悪かったので問題外で、3歳になったばかりの三法師という思わぬ候補者をあげたのである。織田家の跡継ぎであった「織田信忠」の長男なのだから、こちらも筋は通っている。加えて織田信雄(北畠家)や織田信孝(神戸家)はそれぞれ他の大名家に養子に出されていたため筋違いと主張したのである。

 柴田勝家は親代わりでもある聡明な三男の織田信孝を推し、羽柴秀吉の主張は平行線を辿るが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉の「長子相続の筋目論」を支持したことでまだ幼い3歳の三法師が織田信長の後継者となった。織田信長の仇討ちを成し遂げたのは秀吉で、柴田勝家は仇討ちに際して何もしていなかった。明智光秀討伐の功績があった秀吉が、この会議で主導権を握ることになった。

 羽柴秀吉は三法師を後継者にして、自分の好きなように織田家を動かしたいとの算段もあったが、三法師の後見人を三男・織田信孝にするという妥協案を示したため、柴田勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなった。

 数え年でわずか3歳の三法師は安土城を相続したが、織田信長の居城であった「安土城」は本能寺の変のすぐ後に焼失していたので、復旧工事が終わるまで美濃を相続した三男・信孝の居城・岐阜城に預けられた。

 清須会議では後継者だけでなく、信長の領分割領地も行われた。秀吉は山城と丹波を新たな領地にした代わりに、自分が治めていた北近江と居城・長浜城を柴田勝家に譲った。長浜城は越前と京の間にあり、柴田勝家にとって悪い話ではなかった。さらに後に勝家は信長の妹・お市の方と結婚したが、この結婚は秀吉が仲介したのである。さすがに秀吉は人をたらし込むことに長けていた。

 織田信雄(次男)はそれまでの伊勢に尾張を加え、三男・織田信孝は美濃国を領土とし、信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。

 秀吉は姫路や京都などのを得て増領して28万石となり、これにより領地においても羽柴秀吉は柴田勝家を凌ぐようになったが、織田家の当主は当時3歳の三法師(織田秀信)であり、秀吉はあくまで並み居る織田家重臣の1人にすぎなかった。さらに秀吉は柴田勝家とお市の方の再婚を斡旋して柴田勝家の機嫌をとった。清洲会議で秀吉に煮え湯を飲まされた勝家は、お市の方を伴って越前に帰り上杉軍に備えた。信長の遺志を受け継ぎ織田家を守ることが勝家の信念だった。

 秀吉は明智光秀が山崎の戦いで使用した山崎城と男山城を改築し、山崎と丹波で検地を実施し、織田家の諸大名と誼を結び京都奉行に浅野長政(秀吉の正室・ねねの妹の夫)・杉原家次(秀吉の正室・ねねの叔父)を据えるなど水面下で勢力固めに奔走した。

 この秀吉の動きに柴田勝家は反発し、さらに跡継ぎ候補であった三男の織田信孝は自分が跡継ぎになれないことに不満を持った。織田信孝は清洲会議で後援してくれた柴田勝家と密接に連絡を取り合い、三法師を擁護しつつ羽柴秀吉との対立を深めてゆく。そのため筆頭家老の柴田勝家は、1582年10月に滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。

 もちろんそのような動きを羽柴秀吉も予想していた。秀吉側も各地の織田家の武将に協力を要請、味方を増やす活動を開始している。こうして各地の武将や大名家が、羽柴秀吉と柴田勝家のどちらかの陣営に近づくことになる。織田信長の次男・織田信雄は、織田信孝が柴田勝家と協力したため、それに対抗して羽柴秀吉に協力する。これは秀吉にとって「信長の次男を擁護する」という大きな大義名分となった。

 

各地の混乱

 本能寺の変の混乱により、元・武田家の領地であった信濃や甲斐(長野県周辺)では武田家残党や農民による蜂起が発生し軍事的な空白地となった。そのため地元の勢力が次々と独立を開始、後に 真田幸村 などが登場する「真田家」も、この時期に台頭している。さらに織田家の同盟者である徳川家康がこの地方に進出し、関東の大名家「北条家」も進出したため甲斐信濃は戦乱に突入した。織田信長によって滅ぼされたでも、信長の死と同時に伊賀者の生き残りが蜂起しそのまま戦乱に入る。
 本能寺の変の際に秀吉と講和した中国地方の「毛利家」と、本能寺の変の直前まで柴田勝家と戦っていた越後の「上杉家」は、秀吉寄りの陣営となる。大和地方(奈良)の大名「筒井家」も羽柴秀吉の配下となった。逆に四国を統一したばかりの大名家「長宗我部家」や、織田家と敵対していた紀伊半島南部の勢力「雑賀衆」は、柴田勝家の要請に応じて秀吉と対立し、各勢力は徐々に二分された。

 

信長の葬儀

 本能寺の変から5ヶ月後、羽柴秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主にして信長の葬儀を行った。

 まず9月、織田信長の死から百日目の「百日忌法会」を執り行い、11月に京都で大々的に「信長の葬儀」を実施した。それは7日間に渡って行われ、信長の棺は黄金と宝石で彩られた、非常に豪華なものだった。棺の中には、遺体の代わりに信長の木像が入れられていた。葬儀の列は三千人、警護は三万人の兵によって行われ、お経をあげる僧侶は数知れず、もちろん見物人も膨大な数だった。これを羽柴秀吉が執り行なった事により、秀吉は自身の立場を大きくアピールする事になった。
 またこの時期には朝廷工作を行い、新しい官位・朝廷が任命する公式の名誉職も得ている。これらは京都を領地にしていた秀吉の大きな優位さと言える。これらの効果があったのか、冬が間近だったためか、11月末に柴田勝家は前田利家を使者として羽柴秀吉との講和を行っています。
 しかし柴田勝家はこの信長の大規模な葬儀によって、秀吉が自らの政権を樹立することに強い警戒心と敵意を抱いた。柴田勝家は他国の武将との連携を模索した。毛利輝元に打診して色よい返事を貰うが、それは形だけであった。また徳川家康にも接触するが、やはり力を貸しては貰えなかった。東西の有力大名の協力を得られなかった柴田勝家は徐々に追い込まれていった。そのうち冬になり越前は雪深くなった。

 織田信孝は周囲で何が起きているのか理解出来ず、秀吉と勝家の間を仲裁しようとしたが、後に秀吉と信孝は対立することになる。

 

柴田勝家との対立

 10月28日、羽柴秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議を反故にして、三法師が成人するまで織田信雄(次男)を織田家の当主として擁立して主従関係を結んだ。

 越前・北の庄城は冬の間、深い雪のため柴田勝家は雪で動けなかった。本能寺の変から6ヶ月後の12月、秀吉はこれを好機ととらえ、柴田勝家に味方する近江(琵琶湖周辺)、伊勢の武将を攻めて有利な状況をつくりあげようとした。

 12月9日、羽柴秀吉は諸大名に動員令をかけ5万の大軍を率いて堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。秀吉は岐阜城へ向かう途中、勝家に取られた長浜城もたった一日で無血開城させている。
 長浜城は秀吉が念入りにつくった城である。普通なら簡単に落ちる城ではない。それがなぜたった一日で開城したのは秀吉得意の謀略でした。つまり勝家から長浜城を預かっていた柴田勝豊が秀吉に寝返ったのである。長い間子供に恵まれなかった柴田勝家には何人もの養子がいた。その中で跡継ぎとされていたのが甥の柴田勝豊だった。さらに養子の中には武勇で知られる佐久間盛政の弟・柴田勝政がいる。勝家は武勇に優れた盛政・勝政兄弟をかわいがったため勝豊と勝政は仲が悪かった。加えて勝豊と勝家の関係を悪化させたのが権六(柴田勝敏とも)という名の元服前の子供だった。
 子供に恵まれないからと養子を迎えたところ、後から実子が生まれて養子が疎ましくなるというのはよくある話です。もちろん権六が柴田勝家の実子である確証はないが、実子でもなく、武勇でも盛政・勝政兄弟に劣る勝豊を、柴田勝家は疎ましく思っていたのではないか。実際、長浜城を任されたとはいうものの、勝豊と勝家の関係はけっして良好と言えるものではなかった。秀吉がすごいのは、こうした勝家の家族関係の情報をきちんと得ており、それを最も効果的な方法で利用したのである。つまり勝豊に「あなたは柴田陣営にいてもろくなことがない。長浜城を返してくれれば今後優遇しますよ」といって「裏切り」を誘ったのでである。その結果、長浜城は無血開城した。

 柴田勝豊は柴田勝家と不仲な上に病床に臥していたため、すんなり秀吉に丸め込まれ降伏して秀吉は長浜城を容易に獲得した。この長浜城は以前、秀吉が自分の本拠地としていた城である。これにより近江の地は羽柴秀吉が制圧することになった。

 

織田信孝

 この動きを受けて危機を感じたのか、織田信孝は兵を集め岐阜城(旧稲葉山城)で挙兵し守りを固めた。秀吉は織田信孝(三男)が三法師を安土に戻さないことを大義名分に、勝家側の織田信孝を打倒すべく兵を挙げた。岐阜城を攻める大義名分は「約定違反」である。信孝に「違反した」と言いがかりをつけられたのは清洲会議で決めた「三法師をいずれ安土城を再建して移す」という約束だった。何年も放っておいたのならともかく、秀吉が「約定違反」を突きつけたのは、清洲会議からわずか5カ月後のことなので、明らかに言いがかりである。秀吉が賢いのは、この「言いがかり」を信雄を正面に立てて行ったことである。つまり次男の信雄が三男の信孝に対して、この前、清洲会議で決めたことを速やかに履行しないのは約定違反だと言わせて、秀吉は信雄の命を受けるというかたちで岐阜城を攻めたのである。このときもし長浜城に柴田勝家がいれば、当然このようなことは許さなかったであろう。織田家中の立場でも、武勇でも勝家の方が秀吉より上である。しかしその場にいなければ何もできない。

 秀吉は12月16日には美濃に侵攻し、南からの織田信雄軍と合流して、織田信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏させた。岐阜城は多勢に無勢で信孝は降伏せざるを得なくなり、切り札だった三法師も秀吉に奪われてしまった。織田信孝は信長の三男だったので、降伏した後に処刑はされず美濃の領地や城もそのままだった。織田家の跡継ぎ「三法師」を秀吉に取られ、その上、秀吉は三法師を奪還したことだけで満足せず、信孝の母と娘を人質に取っている。織田信孝の立場は大きく低下した。秀吉は味方になっている「織田信雄」を 三法師 の後見人として指名し、織田家の跡継ぎと信長の次男を保護下とする事で、その立場を盤石なものとした。そのため美濃にいた武将や有力者の多くが織田信孝から離れ秀吉側についた。秀吉は実権を握り、天下統一は秀吉の手により成し遂げられようとした。

 秀吉が12月に動いた理由は「雪」であった。柴田勝家が本拠地としていた北陸地方は雪国で、秀吉が部隊を動かしても柴田勝家は積雪によって軍勢を動かす事が出来なかったのである。戦略的に重要な近江を領土とし、柴田勝家に大きく差をつける事になる。

 

反秀吉派の動き

 秀吉の計画はこの後もよどみなく続いた。滝川一益は本能寺の変が起きた時、赴任間もない領地で北条軍に攻め込まれ、命からがら旧領の北伊勢に逃げ帰っていた。清洲会議には間に合わなかったが、この頃までには旧領で着々と失地回復を進めていた。秀吉にとって、武勇にも知略にも長けた一益の復活は目障りだった。拠点が近畿にあるのも何かと厄介だった。そこで年が明けるとすぐ準備に取りかかり、2月には大軍を率いて亀山方面から北伊勢に侵入し、一益討伐に向かった。

 1583年1月、勝家支持を表明している伊勢地方の滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城、関城、伊勢亀山城を次々に攻め破ったが、2月に入ると羽柴秀吉も反撃を開始、伊勢地方に進軍して取られた城を奪還し、さらに伊勢に進攻し滝川一益の居城・桑名城を攻撃した。

 しかし桑名城は堅固であり、滝川一益の抵抗にあって後退を余儀なくされた。また秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退している。伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であったものの優勢であったが、伊勢亀山城は蒲生氏郷や細川忠興・山内一豊らの攻撃で遂に降伏した。滝川一益の軍勢は徐々に戦況は不利になったが、この動きを受け柴田勝家は雪が解けないうちから出陣準備を開始し、2月半ばに雪解けを待たずして北陸から京都方面に向って進軍を開始した。これを見て一度は降伏した 織田信孝も美濃で再び挙兵し、いよいよ両者が対決の時を迎えた。

 

賤ヶ岳の戦い

 伊勢の滝川一益の挙兵に呼応して、2月28日、柴田勝家は前田利長を先手として出陣させ、雪解けを待ち3月9日に自ら3万の大軍を率いて出陣した。3月11日に琵琶湖と余呉湖を分ける標高421mの賤ヶ岳で両軍は対峙した。秀吉軍5万、勝家軍はその半分だったが勝家軍には前田利家や佐久間盛政などの精鋭武将が陣を構えていた。山の戦いに長けていた勝家は尾根伝いに陣を敷き、山の間の細い道で挟み撃ちにする作戦をとった。

 兵力に勝る秀吉は平地での決戦に備え、勝家に対抗するため3段階で防御できる陣を敷いた。守りの固さに痺れを切らした勝家軍が飛び込んできたときに、砦の柵で食い止め撃破しようとした。しかし勝家は秀吉のこの作戦を読んでいて動かなかった。両者のにらみ合いが約1か月続くと、織田信孝が岐阜で再び反旗を翻し挙兵した。

 ここで羽柴秀吉は「滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃」に囲まれることになった。秀吉はまず織田信孝を打つため、4月17日美濃に向けて出陣した。ようやく勝家側の織田信孝と滝川一益が、秀吉を挟み撃ちにするべく兵を挙げた。

 もちろん秀吉は信孝の母と娘を人質に取っているので、信孝も躊躇はあったと思うが、それでも挙兵に踏み切ったのは、秀吉に対する怒りと、まさか主家の先代当主の妻と孫を殺すようなことまではしないだろうという読みがあったからである。ところが秀吉はこの2人を盟約違反として無残にも「磔」という方法で処刑した。この出来事は信孝はもちろん、柴田勝家にも大きな衝撃を与えました。怒り心頭に発した信孝と勝家、そして滝川一益の3人に囲まれた秀吉は、それぞれを個別に撃破しようと思い、まず美濃に進軍するため2万の兵を率いて賤ヶ岳を離れた。

 そのとき勝家は秀吉側から寝返った武将から、秀吉が不在であること、また砦の守りが弱いことを知った。好機と判断したのが猛将・佐久間盛政である。4月20日早朝、柴田勝家の重臣で鬼玄蕃と呼ばれた猛将・佐久間盛政ら奇襲部隊が余呉湖畔を大回りして秀吉の留守部隊に横から奇襲を掛けた。すると予想通り守りが弱く、奇襲は成功し前線と本陣を分断することができた。秀吉側の中川清秀が討たれ中川隊は総崩れとなった。勢いに乗った佐久間隊は岩崎山に陣取っていた高山右近の部隊にも攻撃をしかけた。これをみた柴田勝家は攻撃を中止して戻るよう命じるが、佐久間盛政はこれを無視して敵陣深くまで侵攻して行った。

 その頃秀吉は、岐阜の信孝軍をめざし進軍し大垣まで来ていた。ところが大雨により揖斐川が氾濫したため、そこから先に進めることが出来ず足止めを食っていた。ここで秀吉は大垣城で事態を静観し、柴田軍が動き中川清秀の守る大岩山を占領したと報告を受けると、ただちに軍を引き返して賤ヶ岳へ向けて疾走した。

 大垣城から50キロの行程を6時間ほどで引き返し反撃した(美濃大返し)。賤ヶ岳へ向かう街道の家々に命じ、松明を焚かせ握り飯を用意させた。兵士たちは握り飯を食べながら街道を駆け抜けていった。50キロの道のりをわずか5時間で走破し、まさに中国大返しの再現であった。

 ちろん騎馬武者だけなら充分に可能な時間であるが、秀吉軍は鉄砲中心での編成なので足軽がいなければ戦いになりません。52キロを徒歩で行くには、早くても10時間はかかるでしょう。しかも行程は山道である。

 佐久間盛政の眼前には信じられない光景があった。岐阜にいるはずの羽柴秀吉が、軍勢を整えて賤ヶ岳に戻ってきたのだった。大垣から秀吉が岐阜に向かったのは柴田軍を誘い出すための計略で、柴田軍が動けばすぐに引き返す作戦だった。動揺した佐久間隊に秀吉軍が襲い掛かり、佐久間隊は危機的な状況に陥るが、柴田勝政が救援に向かい秀吉軍と激闘を展開した。佐久間盛政は秀吉の軍勢が戻ってくるのは早くても明日以降で、それまでに賤ヶ岳を制圧して有利な状況をつくろうとしていた。しかし兵力で上回る秀吉軍の攻撃に柴田軍は次第に疲弊していく。ここで活躍したのが、福島正則と「賤ヶ岳の七本鑓」である。

 この時、茂山に布陣していた柴田側の軍勢が突如として戦線を離脱した。このことが劣勢に立った柴田軍にさらに追い討ちをかけたのである。これは味方の前田利家隊が突如戦線から離脱したのだった。さらに金森長近、不破勝光も離脱し、これをみた柴田軍の兵士は動揺し脱走が相次いだのである。

 前田利家といえば後の豊臣政権の重鎮で、権力をきわめた秀吉に対し唯一ものが言える人物だった。ところがこの時の前田利家は柴田勝家の部下だったので勝家に協力していたのである。しかも前田利家は秀吉の古き良き友であり、足軽の時から苦楽を共にし、本人だけではなく妻同士も仲がよかった。そのような立場に前田利家は苦悩し、合戦のさなかに戦いを放棄し、勝家を裏切ったのである。これにより戦局は秀吉有利に動いた。

 ついに柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は北の庄城に退却した。柴田勝家は城に火を放ち妻のお市の方とともに自刃して果てた。佐久間盛政は越前で捕らえられ、秀吉のもとに引き出された。佐久間盛政の武勇を惜しんだ秀吉は自分の家臣になるように説得するが、盛政はこれを拒否して山城国槙島で斬首となった。

 秀吉はさらに加賀国と能登国をも平定し、両国を前田利家に与えると、5月2日には織田信孝を兄・織田信雄の命令で切腹させた。伊勢で挙兵した滝川一益も健闘したが降伏開城し、5月末には賤ヶ岳の戦いは完全に終結した。

 この戦いで柴田勝義が負けたのは前田利家隊が突如の裏切りだったが、なぜかあまり指摘されていない。

 

賤ヶ岳の七本槍

 賤ヶ岳の戦いで秀吉方で特に活躍した7人の武将は後世に賤ヶ岳の七本槍とよばれている。7人とは福島正則、加藤清正、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明である。有力な家臣を持たなかった秀吉が、自分の子飼いの武将を過大に喧伝したといえる。7人というのは語呂合わせで、一柳家記には先懸之衆として七本槍以外に桜井佐吉、石川兵助一光、石田三成、大谷吉継、一柳直盛を含めた羽柴方の14人の若手武将が武功を挙げたとしている。

 この14人は実際に感謝状を得て数千石の禄を得ており、豊臣政権において大きな勢力を持った。しかし福島正則は「脇坂と同列にされるのは迷惑だ」と語っており、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったとされており、当時から「七本槍」は虚名に近いとされている。

 

お市の方と三姉妹

 賤ヶ岳の戦いは、柴田勝家の敗北で幕を下ろしたが、勝家が25歳年下の織田信長の妹・お市の方と結婚したのはその1年前であった。多忙だった勝家との生活に夫婦らしいことはなかったと想像できる。柴田勝家は敗北して北ノ庄城へ帰えると、お市の方に逃げるよう勧めたが、お市の方は「二度も逃げたくない」と言って、勝家と自害の道を選んだ。お市の方は一度浅井家に嫁いだが、信長によって浅井が滅ぼされた後、織田へと戻り、その後、柴田勝家に嫁いでいた。2度に渡って嫁いだ家が滅ぼされ、最後には自害、戦国時代とはいえ過酷な運命だった。
 柴田勝家の辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」(夏の夜のように短くはかない私の名を、のちの夜までも伝えてくれよ、山ほととぎす)で、お市の方の辞世の句は「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそう ほととぎすかな(夏の夜のほととぎすの鳴き声が、別れの悲しさをさそっているように聞こえる)で、二人ともホトトギスを用いている。お市が自害を選んだ理由は不明であるが、秀吉の女癖の悪さをお市が知っており、戦国時代ならではの滅びの美学だったのかもしれない。壮絶な死を遂げた勝家とお市の方は、福井市にある柴田家の菩提寺・西光寺で静かに眠っている。
 お市の方の娘である三姉妹は秀吉側に降り、後に長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生み、 次女・初は若狭国主となった京極高次の正室となり、三女・江は徳川家康の三男・秀忠の正室となり三代将軍家光と忠長兄弟を生み、後水尾天皇の中宮となって女帝・明正天皇の母となった和子を生むことになる。

 

その後の勢力

 秀吉はこの合戦の勝利によって、自らの足場を完全に固めた。以後、信長のやり残した天下統一という目標に向かって驀進してゆく。 しかし戦いは名目上、織田信雄と織田信孝両陣営によって行われ、当主となった三法師は戦いに関与してはいない。幼君で直臣のいない三法師が、その後「織田家当主」でありながら衰退していった。
 勝利者となった織田信雄は、滝川一益の領した伊勢長島を接収して勢力は増大したが、羽柴秀吉を無下に出来ず、織田家の政治を秀吉に徐々に移譲することになる。羽柴秀吉はこの戦いで中心的役割を果たし、表面上織田信雄を立てたが、多くの権力を手にすることになる。

 柴田勝家は脱落し、丹羽長秀、池田恒興も秀吉に従うことになった。さらに秀吉は前田利家や堀秀政などの織田家の家臣も懐柔し、結果的にのちの豊臣政権を誕生させることになる。羽柴秀吉は滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃の包囲網を破ったが、次に残された毛利輝元と徳川家康であった。

 

徳川家康との対立と朝廷への接近

 1583年、秀吉は大坂・本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築いた。信長が築城した安土城を手本にして、水陸交通の要所であった石山本願寺の跡地に大坂城を築城し天下統一への意思を示した。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、大阪城のあまりの豪華さに驚き「三国無双の城である」と讃えた。
 翌年、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発して対立した。3月6日、信雄は秀吉に内通したとして3人の重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。この3人はすでに秀吉側に寝返っており、情報を流していたため、それを知った織田信雄が処罰したというのが理由であった。羽柴秀吉はすぐに「家老をみだりに成敗するのは不届き千万」と織田信雄を非難、合戦の準備を進めた。

 このとき織田信長の盟友で、東国において一大勢力となった徳川家康が織田信雄に加担し、さらに四国の長宗我部元親や紀伊・雑賀衆らも反秀吉として決起した。徳川家康は翌日には織田信雄軍と合流し、その兵力は約 15000 人。これを聞いた羽柴秀吉もすぐに出陣しようとするが、雑賀衆が大阪方面に進軍を開始したので、これの迎撃に追われ、秀吉軍の本隊の出陣は、やや遅れることになる。
 徳川家康らの反秀吉勢力に対し、秀吉は調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけ、さらに美濃の池田恒興(勝入斎)に尾張国と三河国を恩賞に与え味方につけた。そして3月13日、池田恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、初戦は秀吉方が優勢であった。

 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を羽黒の戦いで破り、さらに小牧に堅陣を敷いて秀吉と対峙した。秀吉は雑賀衆に備えて大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣すると、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し、両軍は長期間対峙することになり、戦線は膠着状態になった(小牧の戦い)。このとき羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であった。
 このような中、各戦で敗れ雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将にして、4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし奇襲にもかかわらず、行軍が鈍足だったために家康の張った歩哨網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。
 秀吉は兵力では圧倒的に優位であったが、相次ぐ戦況悪化から秀吉自らが攻略に乗り出すことになった。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など信雄方の美濃の諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようとした。

 また織田信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒され、11月11日、織田信雄は家康に無断で秀吉と単独和睦をした。織田信雄が講和したことで、織田家再興の戦いの大義を失った家康は三河に撤退することになった。

 やがて秀吉は家康に自分への臣従を求め、自分の妹を家康の新たな正室として差し出し、母を人質として送った。こうした秀吉の容赦のない攻勢に対して、さすがの家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとった。家康は次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(人質)として差し出し講和した。
 天下統一を目指して大名を次々と従えた秀吉であったが、元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁たる征夷大将軍に就任することは不可能だった。そのため秀吉は皇室との縁を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令しようとした。
 徳川との戦いの最中の10月15日、秀吉は従五位下左近衛権少将に任官された。 秀吉は官職でも主家の織田家を凌駕することになり、信雄との和議後は自ら「羽柴」の苗字を使用しなくなった。

関白任官と紀伊・四国・越中攻略
 1584年11月21日、秀吉は従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。秀吉はかねてから朝廷で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、1585年、秀吉は近衛前久の猶子となって朝廷から関白に任じられた。翌年には朝廷から新たに豊臣の姓を賜り太政大臣に就任した。関白とは天皇の後見役ともいうべき官職で、本来、「摂関家」と呼ばれる近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家のみが就くことができた。秀吉は近衛家の猶子となって「藤原秀吉」として関白に任じられたが、直後の豊臣姓下賜により新たな「摂関家」として豊臣家を立ち上げることに成功した。秀吉は、豊臣家が織田・徳川ら他の大名たちとは「格が違う」ことを明らかにしたのである。

 なお秀吉のことを後に太閤と呼ぶが、これは関白の前任者を意味している。秀吉は関白や太政大臣となったことで、自分が朝廷から全国の支配権を委ねられたと見なしたのである。また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前で秀吉自身への忠誠を誓わせた。

 また紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破り、藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させ紀伊国を平定した(紀州征伐)。四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将に黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず降伏した。長宗我部元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。四国の長宗我部元親を降伏させると、諸国の大名に交戦停止を命じ、これに違反したとして九州の島津義久を降伏させた。1590年、秀吉は小田原の北条氏政(うじまさ)を滅ぼし、伊達政宗らの東北の諸大名を降伏させ天下統一の事業を完成させた。

  また越中国の佐々成政を討伐し、成政は戦わずに剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介があったため、秀吉は成政を許して越中新川郡を与えた。このようにして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定された。
 
またこの年に追放した者を匿うことのないように命じ、「追放した者を隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている。
 1586年9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任し、ここに本格的な豊臣政権を確立した。

 同年、天正地震の影響もあり、徳川家康に対しては融和策に転じ妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

 

秀吉の経済力

 秀吉も信長同様に豊富な経済力を誇っていた。その基盤は畿内を中心とした約200万石の直轄領であった。京都や大坂・堺・伏見・長崎などの重要都市、さらに佐渡・石見・生野などの鉱山を支配して、天正大判などの貨幣を鋳造した。ただしこれらの貨幣は主に贈答用に使用され、貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからである。信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に命じ、一里塚を築き、信長が進めてきた政策を完成させた。


九州平定とバテレン追放令
 九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきた。1585年、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷の権威を以て停戦命令を発したが島津氏はこれを無視したため、秀吉は九州に攻め入ることになる。1586年には豊後戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監として長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍が島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により長宗我部信親や十河存保が討ち取られ大敗した(戸次川の戦い)。
 だが翌年には弟の秀長と軍監・黒田孝高が20万の大軍を率いて九州に侵攻し、島津軍を圧倒して降伏させ九州を制覇した。また備後国へ亡命していた足利義昭のもとを訪れ、義昭は京都に帰り将軍職を辞して出家した。このようにして秀吉は西日本の全域を服属させた。
 九州平定すると、秀吉は住民が強制的にキリスト教へ改宗させられて、神社仏閣が破壊されていることを知った。さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買していることを知り、秀吉はイエズス会のガスパール・コエリョを呼び出しバテレン追放令を発布した。しかしこの段階では事実上キリシタンは黙認されていた。

 

朝臣としての聚楽第
 同年10月1日には京都にある北野天満宮において千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけたため、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、秀吉も参加して黄金の茶室も披露された。
 関白となり天下人が目前に迫った豊臣秀吉は、政庁・邸宅・城郭の機能を兼ね備えた聚楽第を建て、大坂より移り住んだ。聚楽第は京都御所の西側で二条城の北側あたりに位置していた。周辺地域には秀吉麾下の大名屋敷を配置し、聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされた。また大名屋敷のほかに側近である千利休の屋敷もあった。

 1588年4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応を行い、徳川家康や織田信雄ら有力大名に秀吉への忠誠を誓わせた。また同年には毛利輝元が上洛し臣従した。さら刀狩令や海賊停止令を発布して全国的に施行した。

 1591年12月に秀吉が関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと、聚楽第は秀次の邸宅となった。しかし1593年8月29日、秀吉の側室であった茶々(淀殿)との間に実子である豊臣秀頼よりが誕生した。秀吉は大変に可愛いがり、秀頼と秀次の娘を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索した。秀吉は1595年7月には秀次の関白職を奪い自刃させた。秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しとなり、秀頼が秀吉の家督を継ぐ者としての地位が確定した。秀次に謀反の疑いをかけて高野山で切腹させたといわれており、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。これは聚楽第を破壊することで秀次の痕跡を地上から消す意味があったからである。こうして建築から8年、秀吉が住むことわずか4年で聚楽第の痕跡までも歴史から消されてしまった。

 

小田原征伐天下統一
 1589年、側室の淀殿との間に鶴松が産まれると、鶴松を後継者に指名する。同年、北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の家臣・鈴木重則の名胡桃城を奪取したことをきっかけに、秀吉は関東へ遠征して最後まで豊臣政権に反抗していた北条氏の本拠・小田原城を包囲した。

 北条氏の本拠地小田原城を攻囲し、秀吉の統一戦の仕上げが北条氏攻伐となった。北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略された。小田原城を攻囲の十数年前には越後の上杉謙信が小田原城を囲んだ事がある。しかし謙信は1ヶ月で引き上げています。理由は兵糧不足であった。北条氏は今回もそんなものだろうとたかをくくっていた。しかし秀吉は米20万石を海路急送して駿河清水に送り、さらに金10000枚(慶長小判にして10万両)で東海道一帯の米を買い、それも前線に送ります。総計50万石から60万石で、20万人の将士が1年以上食ってゆける量であった。本城である小田原城は3か月に渡わたり篭城したが、秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として遣わし、北条氏の父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。 これによって秀吉の天下統一事業がほぼ完成した。

 小田原城は喧々諤々の評定の末に落城しました。無血開城であった。秀吉は割普請で労働形態の新基軸を考案し、城攻めでは当時発展しつつあった商業を巧にしかも大規模に利用しています。

 北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼさず、従属・臣従とした。北条氏の領地を得た徳川家康は石高250万石を有し、秀吉の222万石より多い石高を持つことになった。

 1591年、弟の豊臣秀長、鶴松が相次いで病死したため、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、秀吉は前関白の尊称である太閤と呼ばれるようになる。ただし秀吉は全権を秀次に譲らず、実権を握ったまま二元政を敷いた。

 同年、茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹し、その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。

 また同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした(九戸政実の乱)。南部信直の救援依頼を受けて、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍勢となり、降伏した九戸政実・実親は一族とともに斬首され、九戸氏は滅亡して乱は終結した。

 またこの年には、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のため、或いは戦乱のために洛中と洛外の境を明らかにするためであった。

 

秀次切腹事件
 本能寺の変で織田信長を討った明智光秀を天王山で破った後、トントン拍子に天下人へのぼりつめた秀吉の唯一の気がかりが後継者問題だった。1593年8月3日に側室の淀殿が秀頼(お拾)を産むと、秀吉は新築したばかりの伏見城に母子をともなって移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に関白・豊臣秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にいて仲を取り持つつもりでいた。

 秀吉は日本を5つに分け、その4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲るつもりでいた。 また将来は前田利家を仲人に秀次の娘と秀頼を結婚させ両人に天下を継がせようとしていた。ところが秀頼の誕生によって、秀次は「関白の座を追われるのではないか」と不安感で耗弱し情緒不安定となった。豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵も休戦が成立し、世の中が落ち着きを取り戻してきたころである。
 1595年6月、突然関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がった。石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白の5人が聚楽第訪れ、秀次に謀反の疑いがあるとの五箇条の詰問状を示し、清洲城に蟄居を促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った。さらに使者が訪れて伏見城に出頭するよう促され、秀次は伏見城に参上するが、登城すら許されず城下の屋敷に留め置かれ、その夜に剃髪を命じられ、高野山青巌寺に流罪・蟄居の身となった。

 7月15日、秀次の元に上使の福島正則・池田秀雄・福原長堯が訪れ賜死の命令が下されたことを伝えた。同日、秀次は切腹し小姓や家臣らが殉死した。8月2日、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女ら29名が処刑された。遺体は一ヶ所に埋葬されそこに建てられた塚は「畜生塚」とされている。

 秀次の切腹は、秀頼の誕生により秀次を疎ましく思ったこと。つまり秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、秀次を除いたという説明が従来からなされている。 しかし秀吉と秀次の間に統治権の対立や謀反があったかどうか、また切腹の真相を記した文書が存在しないため本当の原因は不明なのである。 
 また秀次は天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら「殺生関白」と呼ばれるほど素行に問題があった。秀次には悪善両極端の顔があり、それが秀頼誕生で自暴自棄に陥り、浮気疑惑のある側室が妊娠すると腹を裂いて胎児の顔を確認したほか、殺生を禁じた比叡山でシカ狩りをするなど数々の悪行が複数残されている。

 秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は関白としてあるまじき行動が多かったことが身を滅ぼしたのであろう。秀次の暴虐を強調することは、秀次一族の誅殺を正当化することでもあり、これらの多くの逸話は創作か誇張で殺生関白の史実を疑問視しする見方もある。

 その他、秀次失脚の原因として、秀次には侍医がいたにもかかわらず、病の際に天皇の主治医をよびよせたことが、関白の地位の乱用した越権行為と判断され失脚、切腹につながったと指摘する説もある(天脈拝診怠業事件)。

39人の公開処刑
 秀次に続いて一族39人の公開処刑が執行された。この処刑劇は非情の太閤の存在を全国に知らしめることになった。特に秀次の子を子犬を処分するように首根っこをつかんではつるし上げて槍で突き刺す方法は、将来、秀頼の対抗馬になり得る芽を事前に摘みとりたいがための強引な手法といえた。

 36人の中には秀次の顔を見ることもなく、この場を迎えた女人もいた。11番目に処刑された出羽(山形)の大名・最上義光の三女、於伊万(おいま)(満)。駒姫とも呼ばれている。秀次が東北に遠征中に姫を見そめ、側室として差し出すよう義光に迫ったが、姫はまだ10歳。義光は「成長を待ってほしい」と説得してその場を収めた。それから4年。東北一の美女と噂されるほどに成長した姫は約束通り秀次の側室として7月に上洛し、長旅の疲れを癒している最中に出くわしたのが秀次の切腹事件だった。父、最上義光の必死の助命嘆願を処刑の直前に聞いた秀吉の側室・淀君らの声を無視できない秀吉は姫を鎌倉で尼にしようと、刑場に早馬を仕立てたが、あと一歩間に合わなかった。この理不尽な処刑に義光はしばし食事ものどを通らず、嘆き悲しむ日々を送った姫の母、大崎は姫の後を追うように亡くなっている。

 39人のの血は暮れゆく西日で紅色に染まりカラスの鳴き声が響き渡った。39人の遺体が投げ込まれた穴はすぐに埋められると土と石を四角錐(すい)に盛った塚が築かれ、その上には秀次の首を収めた石櫃が乗った。 よほど秀次を極悪非道人にしたかったのだろう。石櫃には「悪逆塚」の文字が刻まれていた。
 当時、秀吉は50代の後半である。全盛時の気力はなく無意識に失禁するほどの老衰に悩まされ正確な判断力を失っていた。あの秀吉の軍師、黒田官兵衛までもしだいに疎遠になった。
 秀吉は聚楽第を破壊し秀次の足跡をこの世から消し去ってしまった。そして秀吉の死から2年後の1600年に関ヶ原の戦いがおきた。
 秀次事件に巻き込まれて最愛の姫を亡くした出羽国の大名、最上義光(よしあき)は徳川方に属し豊臣方の上杉軍撃退の功を挙げる。また秀次一族の処遇に不満を持っていたという東北の伊達政宗も徳川方に付いている。
 秀次一族の処刑は生い先短い秀吉が豊臣家繁栄のためにとった非情な計画ともみられるが、関ヶ原の戦いに敗れた豊臣家が急速に衰えていく要因にもなっ。 

サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑
 1596年10月に土佐にスペインの貨物船サン=フェリペ号事件が荷物を満載したまま遭難し土佐の浦戸に漂着した。救助した船員たちを秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたると驚くべき事実があきらかになる。
 サン・フェリーペ号の水先案内人が増田長盛に世界地図を見せ「スペイン国王は、まず宣教師を派遣しキリシタンが増えると、次は軍隊を送り信者に内応させて、その伝道地の国土を征服する。こうして世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのである。秀吉は「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ、フィリピンを武力制圧し、同じように日本を制圧するため測量に来た。このことを都にいる三名のポルトガル人のほか数名から聞いた」という内容の書状を書いており、同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。

 翌年、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令を挑発しているとして、京都奉行の石田三成に命じて京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。石田三成はイエズス会関係者を除外にしようとしたが果たせず、2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。イエスズ会は26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたる宣伝して、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ侵攻による団結心をたかめようとしたのである。

  歴史の教科書には宣教師らが渡来してきたのはわが国を占領するためなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、宣教師はキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。大航海時代の幕開けと共に、アジアの国々はキリスト教を尖兵にしてしてスペイン、ポルトガルが植民地化していた。このように当時ヨーロッパの国々で何が起来ていたのか、アジアの国々がヨーロッパの国々に植民地化されたことははあまり言われていない。

 宣教師たちはキリシタン大名を使い、布教を強力に推し進め、その土地の神社仏閣を破壊し、先祖のお墓を壊して地元の住民との争いが耐えなかった。スペイン国王には宣教師に異教徒の全ての領土と富を奪い、その住民を終身奴隷にする権利をあたえている。宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。
 天草四郎で有名な島原へ行ってもキリスト教会はない。キリシタンは少数派で、キリシタンは先祖代々の墓を壊した。このキリシタンの行いに一度はキリスト教の布教を許した大村純忠も、地元住民と隔離するために、誰も住んでいない山に囲まれた場所を港に提供している。それが長崎で、その後南蛮貿易によって大きく発展するが、そのキリシタンが猛威をふるっている時に登場したのが秀吉であった。このように宣教師たちはわが国の小西行長や松浦鎮信らキリシタン大名の軍事支援があればシナを征服することは容易だと考えていたのであるが、そのことは宣教師がキリシタン大名に出兵を要請した場合は、彼らが出兵に協力してくれることについて確信があったということである。もしキリシタン大名の協力を得て中国がスペインの領土となり、さらに朝鮮半島までスペインの支配が及んだとしたら次に日本が襲われることになる。
 宣教師やキリシタンの行いに激怒し、イエズス会の領土となっていた長崎を取り上げ、全面対決の姿勢を示した。つまり秀吉は神国日本を異人の手から救おうとしたのである。ちょうどその当時、遠いヨーロッパでスペインの無敵艦隊が当時の新興国のイギリスから壊滅的な打撃をうけ一挙に制海権を失ってしまう。そのために日本侵攻ができなくなり、宣教師は後ろ盾を失い秀吉に対抗できなくなる。秀吉が考えたのが日本の安全保障だった。そのために朝鮮半島がこのままではまた日本の安全が脅かされると思ったのである。このように秀吉は日本の安全保障を考えた国際人であった。
南蛮貿易
このようなことをきっかけに、日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。日本への輸入品は中国の生糸や絹織物などで中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども日本に輸入された。日本からの輸出品は銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたので、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。
当時の日本人がヨーロッパ人を南蛮人と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易のことを 南蛮貿易という。

キリスト教の伝来
 また戦国時代のヨーロッパ人の来航により、キリスト教が日本に伝わった。フランシスコ・ザビエル(1506年 - 1552年) は日本への渡航と布教を決意して、1549年に鹿児島に上陸して島津氏に布教の許可を得た。その後、各地に布教のためにまわり、周防(山口県)の大内氏の保護を受け、また豊後の大友宗麟の保護を受けそれぞれの地で布教した。
当時の日本では、キリスト教徒のことを キリシタンと呼んでいた。そのあと他の宣教師も、次々と日本にやってきた。たとえばルイス・フロイスなどの宣教師である。宣教師は貿易の世話もしたので、戦国大名たちの中にはキリスト教を保護する者が、西日本を中心に、特に九州を中心に多く出た。キリスト教の信者になった大名のことを キリシタン大名という。キリシタン大名になった戦国大名には、有馬晴信、松浦隆信(たかのぶ)、宗義智(そうよしとも)、大村純忠(すみただ)、黒田長政、大友宗麟(おおともそうりん)、小西行長、高山右近などがいた。
 九州のキリシタン大名の大村・大友・有馬を中心に、日本からローマ教皇のもとへ少年使節が4人、送られた。(天正遣欧少年使節) しかし、使節は1590年に帰国したが帰国の時点では、すでに日本では豊臣秀吉によりキリスト教が禁止されていた。キリスト教は平等を説き、病院や孤児院なども建てたので民衆の心をつかみ、民衆たちにもキリスト教は広がっていった。17世紀の初め頃には、日本国内でのキリスト教の信者の数が30万人をこえるほどになっていた。

 

朝鮮侵略

 天下人のなった豊臣秀吉は、秀次切腹などの暴挙ぶりが目立つため高齢によりボケたとされている。そのため秀吉最大の黒歴史は朝鮮出兵とされているが、朝鮮出兵の目的は何だったのだろうか。欧州各国が明国を征服して次に日本を制服するのを防ぐための出兵だったのか、単に明国を征服して王になりたかった野心によるものかが分からない。

 

文禄の役
 1591年8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めた。1592年3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を総大将とする16万の軍勢を朝鮮に出兵させた。日本軍は朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵が抵抗し明の援軍が到着したことから戦況は膠着状態となり、1593年に明と講和の交渉が開始された。

 この和睦交渉を担当した小西行長は「明国は日本に降伏する」と述べ、朝鮮は「日本は明国に降伏する」と明国の朝廷に嘘を伝えた。明国は秀吉に「秀吉を日本の国王に認めてあげよう」と明国の傘元に入れてあげると使いを出したのである。このことに秀吉は激怒し、小西行長は危うく処刑されかけた。こうして日本と明国の間にわだかまりが残る中、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が行われることになる。

 

慶長の役
 1596年、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は「全羅道をことごとく成敗し、忠清道・京畿道にも侵攻する。その後は拠点となる城郭を建設し、城主を定めその他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令した。

 1597年、小早川秀秋を総大将に14万人の軍を朝鮮へ再度出兵させ、漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させ進撃を開始した。2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出すると、日本軍は作戦通り文禄の役の際に築かれた城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築き奮戦した。

 このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け大破する(第1次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を城郭群に残して防備を固め、7万余の将兵を本土に帰還させ、慶長の役の作戦目標は完了した。

 秀吉は1599年にも大規模な軍事行動を計画し、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように諸将に命じたが、日本軍が朝鮮に渡ってから約1年半後に秀吉が死去し、それをきっかけに中断された。この朝鮮出兵は日本が一方的に敵地を荒らされ、日本にとっても朝鮮・明にとっても何のプラスにもな買った。ただただ遺恨の残る戦となってしまった。

検地と刀狩
 戦国大名も秀吉の主君である織田信長も、後の徳川将軍達も検地は熱心にしている。しかし最初に全国規模で検地をしたのは秀吉である。源平の時代から武士は農村出身で、農場の開拓者・経営者であり、農民と武士の境界は曖昧だった。各地に土地を所有する土豪がいて、土豪の下には隷属する農民がいた。戦国大名は彼ら豪族を武力として臣下に組み入れたが、しかし豪族は在地では独立した経営主体であった。耕作民の労働の成果を大名が取るか豪族が取るかでいつももめていた。信長・秀吉は極力武力を城下に集め検地をした。各村の農地を精確に測量し、そこから取れる収穫高を決め、それに課税した。こうなると大名と耕作民の中間にいて利益を吸い取っていた名主豪族はそのうま味を失ってゆく。各地で一揆がもち上がり、そこで一揆の武力を削ぐために刀狩が行われた。こうして在地の豪族達は大名の家臣になって軍役奉仕を行い俸禄を頂戴するか、それとも農村に在住して農業に専念し、軍役奉仕を免除される代わりに租税(年貢)を収めるかの選択を迫られる。農村に残った名主豪族の家は代々その地の名主(なぬし)庄屋を務めた。
 検地の意義は兵農分離で、兵より農の方が重要です。検地により農村は農業に専念する耕作民のみになった。また商工階層も都市に集住させられた。ここでも兵農分離と同様な事が行われました。それ以前の商人は道中が危険だったので武器を持って旅行していた。なぜ治安が保障されたのか、それは武器携帯禁止の代わりに治安の保障が与えられたからである。豪族達の武器を取り上げ彼らを農民にしてしまったからです。
 一つの国や郡に何十何百の小豪族が番居していて、常に武力を養っているとなると、物騒です。豪族は勝手に関所を作り私税を徴収します。時には盗賊にはや代わりしてよそ者の商人の物品を直接収奪します。検地刀狩が厳密に施行されると、こういう現象は次第に影を潜めます。代表的な例が倭寇です。九州北部海岸の住民が武装して倭寇となり、朝鮮や中国の沿海を荒らしました。代々の明の皇帝は盛んに倭寇取締りを室町幕府に要請しましたが、らちはあきません。しかし秀吉の代ごろになると、倭寇はほとんど収まりました。他にも原因はありますが、検地と刀狩による兵農分離の影響は見逃せません。倭寇の首領クラスは在地土豪です。彼らが配下の農民とともに海に繰り出していたのです。
 兵農分離により兵つまり武力を持った連中は家臣団として大名の統制に服します。農民は農業に専念します。商工階層も同様です。安心して労働できるようなると余剰の生産物も増えます。こうして全国の通商圏ができあがります。米以外の商品作物の栽培も増えます。江戸時代も元禄の頃になると、農民の余剰蓄積は進み、名目上の年貢は60%でも実質は30%以下になりました。富裕になった農村を土台として新しい商人層(例えば三井高利)が出現した。
 検地刀狩は民衆の経済活動を開放しただけではない。これは秀吉も家康も全く予期しなかった事でしょうが、検地の結果日本の社会は独特の平等性を帯びるようになります。武士は都市に集住、農民は農耕に専念、職人商人も同じ。となりますと、働く方に富が集まるのは当然です。農民の家内工業や商工階層の営利活動をきちんと調査して課税する能力は幕府大名にありません。農工商は裕福になり、武士は窮乏します。つまり政治の実権と経済力の保持は別々の階層が担う事になりました。かといって武士階層が消滅したわけではありません。武士は食わねど高楊枝、で幕藩官僚に転進します。世界中の封建家臣団の中で一番教養があったのは江戸時代の武士です。文字通り文武両道です。維新時官僚はほとんど武士階層から補給されました。日本の官僚の優秀さはこの事情にもよります。また武士の物質的生活レベルはそう高くありませんから、日常生活の中では庶民と共存します。
 これを他国と比べてみましょう。イギリスでは地主が社会の主勢力になりました。彼らの代表が上下の議院です。彼ら地主階層は政治権力と経済力を独占しました。イギリスの方が日本よりはるかに身分格差はきついようです。また中国(例えば清王朝)では、科挙官僚が地方官に任命されますと、彼らは一族近親知人子分をわんさとひきつれて赴任し、任地で商売を始めました。政経不分離もいいとこです。

最期
 1598年3月15日、秀吉は醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営し各地から700本の桜を集めて植えさせ、秀頼や奥方たちと1日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。この盛大な花見を催し、天下統一から続く不運を払拭する行動を取るが、この花見の後に豊臣秀吉は病に倒れてしまうのです。洛中の屋敷として御所近くに京都新城をつくったが、参内の宿所として使用したが移居することはなかった。

 5月に入り秀吉は病に伏すようになり、日を追う毎に病状は悪化した。秀吉はどんどん衰弱し、下痢や腹痛、食欲不振の症状が見られた。頻繁に使われていた漢方薬も効果は見られず失禁することもあった。これらの症状から大腸がんなどの「がん」が大きな原因と推測される。これ以外には栄養の偏りから見られる脚気、女好きがたたり性病の梅毒などがが挙げら流が、史料がないので原因は分かっていない。

 5月15日には「太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚」という11箇条からなる遺言書を五大老と五奉行に書いた。これを受けた彼らは起請文を書き血判を付けて返答した。なお五大老とは徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元で、五奉行は石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以のことである。

 秀吉は自分を八幡神として神格化し、遺体を焼かずに埋葬することを遺言し、自分の死が近いことを悟った秀吉は、7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び、家康に秀頼の後見人になるように依頼した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を書いた。秀吉の病は「甲斐善光寺から京都方広寺へ移された信濃善光寺の本尊の阿弥陀三尊の祟り」と噂され、三尊像は8月17日に信濃へ向けて京都を出発したが、翌18日に秀吉はその生涯を終えた。
 秀吉の死は秘密にされたが、秀吉の死は民衆の間に広まった。秀吉の遺骸はしばらく伏見城に置かれ、高野山に八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築された。翌年4月13日に伏見城から遺骸が運ばれ高野山に埋葬され、4月18日に遷宮の儀が行われ、朝廷から豊国大明神の神号が与えた。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」に由来するが、豊臣の姓をも意識したものでもある。神として祀られたため葬儀は行われていない。

 

死後

 豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制がつくられ、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。当時の日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮の連合軍と第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いな どで勝利したが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び全軍が朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知 るところとなった。朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍や民に大きな被害をもたらし、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し滅亡する 一因となった。日本でも征服軍の中心であった西国の大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。

 秀吉の死因については不明であるが、秀吉の死因より今後への関心の方が強かった。そもそも豊臣秀吉の死というのは、新しい戦乱の幕開けであり誰もが「次は自分が」という意気込みを持っていた。そのため豊臣秀吉の死因などは誰も興味を持たなかったのである。

秀吉の容貌

   秀吉が猿と呼ばれたことは有名で、「太閤素生記」では秀吉の幼名を「猿」と書いてある。また松下之綱は「猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげに猿まなこで、とぼけた顔をしている」と記している。

 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉の顔は小さく、色黒で猿に似ている」と書き、ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語っている。

 秀吉は指が1本多い多指症だった。右手の親指が1本多いため、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた。現在では多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になってもその事実を隠すことがなかった。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせている。
 身長は150cm以下から160cm余まで諸説が小柄である。髭は薄かったため、付け髭をしていた。当時の武将は髭を蓄えるのが習慣で、髭の薄い者は付け髭をするのが普通であった。

 

秀吉の女たらし

 戦国時代の多くの武士は男色を好み、麗しい美少年を側に置いていた。この男色に関する逸話は織田信長や武田信玄など多くの戦国大名に残されている。
 しかし秀吉については、女性に関する話ならたくさんあるが、男色の話は全くない。儒医・江村専斎の「老人談話」によると、美少年の小姓が目に留まった秀吉は少年に「お前に姉か妹はおらんのか」と尋ねる。このことからも女性好みで、男色には興味がなかったことがわかる。秀吉は男色を好むような武士階級ではなく、農民出身だったからとの説がある。

 織田信長が秀吉に書いた書状が残されている。この手紙は秀吉に宛てたものではなく、その妻・寧々(ねね)に宛てたものである。秀吉が信長配下として頭角をあらわしてきた頃、寧々は信長のいる安土城を訪ね信長に会見した。その際、秀吉の女癖の悪さを訴えたらしく、それを受けての信長の返事である。

 信長が寧々宛てに書いたのは「この度は訪ねてくれて嬉しく、土産もありがたい。そのほうは前に会ったときより大変美しくなった。秀吉がいろいろ不満を申すとのことだが言語道断である。あの剥げ鼠(秀吉)は、どこを探しても寧々のような女性は見つかるまい。これからは明るく振舞い、やきもちなど焼かずに世話をしてやりなさい」という内容である。寧々を気遣った信長の優しい言葉で、しかも「この手紙を秀吉に見せなさい」と言い、さらに信長の公式文書を示す「天下布武」の朱印まで押してあった。この手紙を寧々に渡されて読み終えた秀吉はどのような表情をしたのか。いずれにしても私たちの抱く信長のイメージが一変するような書状である。

 秀吉が転戦のため長浜城を留守にした際には、寧々が内政上の決済を行うことがあった。また多くの側室や諸大名の人質の世話なども取り仕切り、寧々は秀吉に対しても堂々と意見した。他の大名や家臣がいる前で寧々は尾張弁丸出しで秀吉が喧嘩することもあった。秀吉が出世する中で、地位に応じて取り澄ますことも多かった。寧々は秀吉にとって、欠かすことのできない存在だった。

 秀吉は正室・寧々との間に子供が生まれず、多くの側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じて少なかった。秀吉との間に子供が出来なかった側室たちは、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁して再婚してから子供が出来た者が多い。そのため秀吉の子とされる秀頼は淀殿が大野治長、あるいは他の者と通じて成した子とする説がある。これについては秀頼だけでなく鶴松の時も同じであった。
 秀吉は子宝に恵まれなかったが、全くできなかったわけではない。秀吉が長浜城主時代に一男一女を授かっていた。男子は山名禅高の娘・南殿と呼ばれた側室の間に生まれた子で幼名は石松丸(秀勝)である。長浜で毎年4月に曳山祭がおこなわれるが、これは男子誕生を領民が祝ったことが現在の曳山祭りの起源だとされている。しかしこの男子は夭逝してしまう。石松丸(秀勝)は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝と同じ名を与えている。秀吉は天下を手中にするが、子供運だけはどうしようもなかった。

 秀吉は若いころから織田信長の妹、美人の誉れ高いお市の方に恋いこがれ、お市は秀吉を嫌い柴田勝家と再婚し滅びの道を選択したとされている。
 秀吉は女性大好きかつお姫さま好みで、高貴な家の出身者を側室にした。これは信長や徳川家康には見られず、多くの妻妾をもつがその大半は名もない家の娘で、子連れの未亡人も多くいた。
 秀吉はお姫さま好みで、名前が明らかな愛妾だけでも、淀どの(お市の方の娘)、三の丸どの(信長の娘)、姫路どの(信長の弟の信包(のぶかね)の娘)、松の丸どの(京極高吉の娘)、三条どの(蒲生氏郷(がもう・うじさと)の姉妹)、加賀どの(前田利家の娘)となる。注目したいのは、そこには絶対の主人であった織田家の関連の女性が3人も含まれていることである。秀吉にしてみれば、織田家のお姫さまを追い求めても、特定の女性である必要はなかったのであり、ここが歴史研究と歴史小説の違いになる。

 その中でもお市の方の娘・茶々(淀殿)は有名であるが、それは多分に嫡男を産んだからであろう。

 秀吉は小谷城攻めで茶々の父親・浅井長政を自刃に追い込み、賎ヶ岳の戦いでは、柴田勝家とともに茶々の母・お市の方を死に追いやった。秀吉は茶々にとっては両親の仇であるが、秀吉の側室となった茶々は男子を生み、最初の鶴松は夭逝したが、お拾(秀頼)は順調に育った。秀吉は待ち望んだ跡継ぎに喜び、茶々も秀頼を大事にした。

 秀吉は待望の男子を二度も失い、茶々は腹を痛めた鶴松を失っている。秀頼は二人の悲しみを癒してくれる大事な存在になる。この秀頼という存在が、寧々と茶々の二人の秀吉の妻の立場に変化をもたらす。
 寧々は政治的観点で秀吉亡き後の「豊臣家」をみている。秀吉が天下を取った後の徳川の世に合わせ慎ましくしなければ生き残れないと考えていた。茶々(淀殿)は秀頼が天下人でなければならないと考える。この茶々の態度は家康との摩擦を生み、大坂の陣を経て、豊臣家の滅亡に繋がってしまう。寧々と茶々(淀殿)は不仲ではなかったが、秀吉の妻としての寧々と秀頼の母としての茶々(淀殿)の立場の違いが豊臣家の明暗を分けてしまったのである。