豊臣秀吉

 織田信長の後を継いで天下統一を果たしたのは信長の家臣・豊臣秀吉である。秀吉は人心を取り込むのが上手で、織田信長に「さる」と呼ばれながら仕えていた。秀吉を猿と呼んだのは織田信長だけではなく、関白になった時の落書には「木の下のさる関白」と書かれている。また無類の女好きで、それがまたご愛嬌といえるほどであった。

 人間は生まれた環境によって人生が決まってしまうと思いがちであるが、厳しい身分制度の時代に「人生は変えることができる」ということを教えてくれたのが豊臣秀吉である。もちろん本人の努力や運もあっただろうが、日本史上最も人気のある人物である。

秀吉の出自

 秀吉の出生について聞かれると、誰もが答えに窮するであろう。秀吉の生まれについて、本当のところは分かっていないからである。
 1537年、秀吉は尾張中村(名古屋市中村区)で木下弥右衛門なか(大政所)の子として生まれているが、「太閤素性記」によると父の木下弥右衛門は足軽または農民とされているが、それ以下の身分だったかもしれない。いずれにせよ秀吉は最下層の出身で、それゆえに侍にあこがれ、低い身分ゆえに周囲から嫉妬をうけず、そのことが出世を助けることになった。

 幼名は「日吉丸」であるが、これは「絵本太閤記」によるもので本当かどうか疑問視されている。秀吉はのちに多くの伝記を書かせているが、各伝記によって素性は異なり、若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていたことから、秀吉は「木こり」出身で「端柴売り」、そのため羽柴(端柴)に改姓したとの説がある。

 本能寺の変を記した惟任退治記には「秀吉の出生、これ貴にあらず」と書かれているが、関白任官記では「父・木下弥右衛門は萩の中納言で、大政所が宮仕えをした後に生まれた」と書かれ天皇の落し子であることをほのめかしている。

 一般に広く流布しているのは、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚するが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、家を出て侍になるために遠江国に行った。あるいは7歳で実父と死別して8歳で光明寺に入るが、すぐに飛び出して15歳の時に針売りをして放浪していたとなっている。父親の姓・木下についても、妻・おねの母方の姓で、それまでは名字を持つことすらできない低い身分だったとする説がある。さらに秀吉の出自について、与助という名のドジョウすくいだったとする説もあり真相はまったく不明である。


蜂須賀小六
 秀吉は木下藤吉郎と名乗り、15歳時に今川氏の・家臣の頭陀寺城主・松下之綱に仕え、今川家の陪々臣(家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎は松下之綱にある程度目をかけられたが、ながくは使えずまもなく出てしまう。

 若き日の秀吉は、放浪しながら宿もなく矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、夜盗の一団が通りかかり、その首領の蜂須賀小六に気に入られて子分になるという有名な逸話がある。

 しかし矢作川の橋が掛けられたのは江戸時代なので作り話であるが、秀吉が蜂須賀小六の世話になっていたことは事実であり、蜂須賀小六の紹介で織田家に仕官したと思われる。蜂須賀小六は美濃と尾張の国境付近で水運業を営んでいる国人で、村落を襲って盗んだり、落武者などの刀・鎧をねらう野盗の首領であった。最初は斎藤道三に仕えていたが、次いで織織田氏の傘下に入っていった。
 比較的早くに秀吉に仕え、蜂須賀小六は秀吉よりも10歳年上であるが秀吉に人生を捧げた男である。美濃斎藤攻めの墨俣一夜城の築城などで活躍している。秀吉にとって小六は古参の家臣であるが、黒田官兵衛や竹中半兵衛と比べると活躍度は低い。しかし秀吉は蜂須賀氏を非常に大切にして、秀吉が四国を平定すると長年の労をねぎらい阿波一国を与えられた。しかし小六はこれを辞退するが、子の蜂須賀家政が受けることになる。


織田信長に仕官
 蜂須賀小六は、母親の実家近くの生駒家に出入りしていた。生駒家は藁の灰を売る豪商で、藁灰はただの藁灰ではなく灰汁媒染つまり染色に使うもので、安定供給するのが大変だった。生駒家は一大消費地である京都をはじめ、おそらく日本の各地に出していたと思われる。
 この生駒家に吉乃(きつの)という出戻り娘がいて、この吉乃に惚れこんだ年下の青年がいた。青年とは織田信長のことで吉乃の間には3人の子供(信忠・信雄・徳姫)が生まれている。信長は吉乃のもとにいつも通いつめていた。

 さらに生駒家に居候していた奇妙な人物がいた。下働きの禿げた鼠のような顔の小男で「おれの得意なことは早メシ大食いだ」などの笑い話をしたり、ワイ談をやって言葉たくみに吉乃にとり入り、その口添えによって信長の草履取りに取り立てられたのが秀吉である。

 1554年頃から秀吉は織田信長に小者として仕える。 はじめは信長の使い走りや雑用係として仕えていたが、馬の世話を命じられると、来る日も来る日も、暇さえあれば馬の体を撫で続け、そのため馬の体が鮮やかになり、これが信長の目に止まり、草履取りを命じられる。

 有名な逸話として、ある寒い日のこと、信長が草履をはくと暖かかった。信長は秀吉が尻に敷いていたと激怒するが、秀吉は草履をふところに入れて温めておいたのである。信長は秀吉のこのような心使いが気に入り、台所奉行を命じる。

 秀吉は清洲城の台所奉行を率先して引き受け、倹約の上薪の費用を減らすなど、大きな成果を挙げ次第に頭角を現した。

 足軽組頭に出世した1561年8月、浅野長勝の養女の娘・おねと結婚する。おねの母はこの結婚に反対したが、おねはその反対を押し切って嫁いだ。結婚式は藁と薄縁を敷いた質素なものであった。浅野長勝も秀吉と同じ足軽組頭で、同じ長屋で暮らしていた。

 1564年、秀吉は濃国の斎藤龍興との戦で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢基康に誘降工作を行い成功させている。秀吉の名が記された最初の史料は、1565年11月2日付けの手紙で「木下藤吉郎秀吉」と書かれている。このことから、その時点で秀吉は信長の部将の一人として認められていたことがわかる。

 

墨俣一夜城
 秀吉の出世を決定するものとして、1566年の墨俣一夜城の話がある。美濃は元々は室町幕府の重臣土岐氏が治める国であったが、まさに下克上の時代である。斎藤道三は土岐氏を追い出し、自分が美濃藩主になった。斎藤道三は息子の義龍に家督を譲るが、義龍は道三の実子ではなく土岐氏の血を受けづいていた。そのため道三は義龍を疎んじ、家督を譲られた義龍も道三を親として認めなかった。斎藤道三と義龍が争いを起こし義龍が勝つが、道三は義理の息子信長(濃姫の夫)に「美濃を信長に譲る」という遺言を書いた。信長は大義名分を得て援軍を送るが美濃の勢力は強く、攻め落とすことはできなかった。

 美濃は交通の要衝で、作物が豊富な国なので美濃の名前もそこから来ている。この頃の大名は国人たちと完全な主従関係ではなく、契約を交わしているにすぎなかった。道三が亡くなってからも、義龍は元の主君の土岐氏の血を引くと信じられていたので国人たちの結束は強かった。信長が義龍の代になっても美濃を攻めきれなかったのは義龍の力よりも美濃の国人の力であった。しかし義龍が若くして亡くなり、息子の龍興の時代になると徐々に国人との信頼が揺らいでいった。
 墨俣は稲葉山(金華山)のふもとを流れる川の三角州にあり交通の要所であった。稲葉山城(岐阜城)のような山城では、家臣は平時はふもとに住み、戦時の篭城に備えて城に食料をためていた。篭城は援軍があって初めて篭城できるが、援軍がいない時は攻め手に有利になる。しかし攻め手側も野営では敵の攻撃を恐れて兵の消耗が激しく、また食料がなくなればは引き上げる他はなかった。しかし墨俣に信長の城があれば、見張りを除き兵は寝ることが出来き、川の脇にあるので稲葉城への補給を断つことも出来た。
 墨俣は長良川と揖斐川(いびがわ)とが木曽川に合流する地域で、これまでに何度も築城を試みるも、途中で斎藤勢にはばまれるという屈辱を味わっていた。墨俣に城を築けば川は重要な補給路になり、夜の闇にまぎれて船での補給が可能で、しかも稲葉城への心理的な影響も大きかった。目の前に城を作られれば、美濃が滅びる不安を引き起こすことができた。この頃の戦は「士気をなくした方が負け」で、1割の兵が死んだら大敗といわれていた。
 そこで織田信長は柴田勝家らに命じて何度も墨俣に城を作らせたがすべて失敗に終わった。そこで足軽頭の秀吉が築城に名乗りを挙げた。墨俣城は一夜城と呼ばれているが、築城は上流からいかだを組んで木材を運んだのである。上流は良質の木曾杉の産地であった。蜂須賀小六の案内で敵国に侵入して木材を切ることが出来た。

 木曽川の海側は尾張(愛知県)、対岸は美濃(岐阜県)だった。この墨俣の一夜城は木曽川上流の森の中で木を伐採して組み立て、それを上流の川から流し、墨俣で再度組み立てて完成させてから城との間の木を伐採した。稲葉城から見ると、あたかも一夜で出来たように見えた。小さな城であったが、その戦略的価値は大きかった。

 秀吉はそれまで誰にもできなかった築城を短期間で完成させ、秀吉の名は織田家やその家臣の間に知れ渡り、この非凡な才能が信長の歓心を買い常識破りの出世の道を歩むことになる。
 墨俣城は川の上流の地理に詳しく機動力のある蜂須賀小六がいたから可能であった。この墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走った。美濃の国人たちは斎藤義龍と完全な主従の関係ではなかったので信長に傾くのは当然であった。国人は自分の領土を安堵してくれれば大名が誰でも良かったのである。

竹中半兵衛

 竹中半兵衛はその頭脳でもって斎藤家に仕え、織田家との戦いを勝利に導いたこともあった。性格的に真面目で実に有能な家臣だったが、義龍に嫉まれ諫言しても聞き入れてくれないことが多かった。稲葉山城(岐阜城)は難攻不落の城だった。そこで竹中半兵衛は稲葉山城を占拠するという荒業で龍興の目を覚まさせようとした。半兵衛は「城内の弟が病気になったと聞いたので、良い医者を連れてきた」とウソをついて、城内にわずかな手勢で入り、龍興を殺さずに逃がした。半兵衛は下克上が目的ではなく、諫言として城を乗っ取っただけなので、後に自ら龍興に詫びを入れて城を返しているた。しかし龍興は半兵衛を解雇し放り出してしまったのである。半兵衛は、美濃から離れて隠遁生活に入ったが。その後、秀吉がいわゆる「三顧の礼」で半兵衛を家臣にした。

 半兵衛が秀吉の軍師となったため、美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄安藤守就氏家卜全の3人とも信長側についた。美濃三人衆が団結すれば斎藤家も逆らえないほどの力を持っていた。そこで今が攻め時と織田信長は稲葉山城を攻めた。

大沢次郎左衛門

 大沢次郎左衛門は斎藤氏の家臣で、妻は斎藤道三の娘であった。1566年12月に、木下秀吉の調停によって織田信長に寝返り、翌年1月5日に秀吉とともに清須へ行くも、織田信長は「この大沢なる者は武勇に秀でた者であるが、心変わりしやすい者で、味方として信じるのはどうか。今夜腹を切らせよ」と言った。秀吉は「降参してくる者に腹を切らせては、今後降参してくる者はいなくなります。ここは一つお許しになった方が」と申し上げたが、信長は聞き入れなかった。秀吉は大沢の前へ行き「これこれの事情で何とも申し訳ないが、ここにいてはあなたの身に危険が起きる。どうか逃げて下さい。ご不審なら、私を一緒に連れていって下さい」と刀や脇差しを左衛門の前に投げ出して無腰になって語った。大沢は秀吉の誠意に打たれ、今までの礼を厚く述べ、無事に脱出した。この1件を後に伝え聞き、秀吉の配下になりたいと思う者が多くなった。

 秀吉は信長の忠実な部下として知られているが、その秀吉が後に信長を次のように評している。「信長公は勇将ではあるが、良将ではない。信長公に一度背いた者は、その者への怒りがいつまでも収まらず、その一族縁者はみな処刑しようとする。だから降伏する者も殺し、敵討ちは絶えることはない。これは器量が狭く、人間が小さいからである。人からは恐れられても、大衆から愛されはしない」。このことは秀吉の人柄を表している。

 

織田政権下での台頭

 1567年に斎藤氏が滅亡すると、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との戦いが始まった。信長の天下布武が実践された最初の戦いで、秀吉は六角氏の近江箕作城の攻略戦で活躍し、さらに観音寺城の戦いで六角は敗れ、同年、信長の上洛に際して秀吉は明智光秀、丹羽長秀とともに京都の政務を任された。
 1569年、毛利元就が九州の大友氏と交戦すると、出雲奪還を目指した尼子氏の残党が挙兵し、尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して毛利元就は織田信長に山名氏の背後を突くように出兵を要請したため、信長は木下秀吉を大将に軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18の城を落城させ、激しい攻撃を受けた山名祐豊は此隅山城から堺に亡命した。山名祐豊は同年、一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

金ヶ崎の退き口

 1570年、信長は越前の朝倉義景討伐のため侵攻を進めたが、金ヶ崎付近で盟友の浅井長政の裏切りにより織田軍は、浅井と朝倉軍から挟み撃ちという絶体絶命の危機にあった。織田信長は即座に退却を決め、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿(しんがり)を務めた(金ヶ崎の退き口)。殿(しんがり)とは撤退するときに最後尾になって、追手を振り切ったり、足止めをする部隊のことで、殿は大将の命を預かる最も重要な役目だった。このことから信長は秀吉や光秀を信頼し、高く評価していたことがわかる。

 軍勢を整えなおした信長は、朝倉氏に加勢した浅井長政への報復戦に打って出た。浅井長政の城・小谷城は難攻不落といわれ、信長は城攻めを諦め、城から浅井勢を引きずりだして野戦で勝負することになる。
 信長は横山城という城を包囲した。この横山城は近江を南北に結ぶ重要な場所にあり、ここを信長に抑えられると、浅井氏の勢力は分断されることになる。この横山城を見捨てることができない浅井長政は、横山城の側を流れる姉川に陣を敷いた。

姉川の戦い

 浅井長政の軍勢は朝倉の軍が加わり1万5000人、対する織田の軍勢は援軍の徳川軍を加え2万人であった。この両軍は姉川を挟んでにらみあった。徳川軍は朝倉軍と対峙したが、徳川軍は兵士の数では不利であったが、徳川軍には大久保忠世、本多忠勝、榊原康政らといった屈強な武士がそろっていた。

 浅井軍は自分たちの城を取り返すという意気込みから、織田信長の軍より強かった。織田の軍は13段の構えをとったが、11段まで崩されてしまい、一時は姉川から1キロも退却た。

 その時、少ない兵で朝倉を追い込んでだ徳川の軍勢1000ほどが。信長を責める浅井軍の右翼から突入し、さらに横山城の包囲についていた兵も信長のピンチを聞きつけ左翼から突入した。徳川家康に助けられた織田信長は、姉川の戦いに勝利したが、この激戦は9時間続き、姉川は血で赤く染まった。織田信長はその後、横山城を完全に攻め落とし秀吉を城主にした。その後の小谷城の戦いでは、秀吉は3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落し浅井・朝倉との戦いに完勝した。


織田政権下での秀吉の台頭
 1573年、浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井氏の旧領に封ぜられ、今浜の地を長浜と改め、長浜城の城主となった。この頃、木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)。改名したのは「織田家の有力家臣・丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらった」とする説が一般的である。

 秀吉は長浜の統治政策として、農民の年貢や諸役を免除した。そのため近在の百姓が長浜に集まり、さらに近江の商人が集まり、秀吉は旧浅井家臣や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。

中国地方攻略

 1575年、長篠の戦いに従軍し、鉄砲隊の戦略が武田の軍勢を打ち破り、鉄砲隊の重要性が認識された。翌年には北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。

 1577年、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをして無断で帰還した。その後、勝家は謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は柴田勝家の命令に逆らった秀吉に激怒し、秀吉も切腹を覚悟したが許されれている。

 織田信忠の松永久秀討伐に従軍して功績を挙げ(信貴山城の戦い)、その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ、播磨国に進攻すると播磨守護赤松氏の勢力である赤松則房別所長治小寺政職らを従えた。さらに以前から交流のあった小寺孝高(黒田長政)より姫路城を譲り受け、姫路城を中国攻めの拠点とした。播磨の一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼす。

 1579年には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名・宇喜多直家を服属させたが、摂津国の荒木村重が反旗を翻し(有岡城の戦い)、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許されている。
 1580年、秀吉は織田家に反旗を翻した播磨の三木城主・別所長治を攻撃し、竹中重治や古田重則などの家臣を失うが、2年に渡る兵糧攻めでこれを破り、同年、播磨から北上し但馬国にも侵攻して、最後まで抵抗した山名祐豊が篭もる有子山城を攻め落とし但馬国を織田の勢力圏とした。

 山名氏政を勢力に取り込むと、但馬の国人の反乱も沈静化し、自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主に置き、但馬国の統治を任せた。羽柴秀長による但馬経営は順調におこなわれたが、秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。

 1581年、因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護)を追放し、毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城に立て籠もり反旗を翻したが、秀吉は現地の商人から兵糧をすべて買い取り兵糧攻めにして落城させた(鳥取城の戦い)。

高松城の水攻め

 その後も中国西地区を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置くと、備中に侵攻し3の兵で、毛利方の清水宗治が守る備中高松城(岡山県)を水攻めに追い込んだ。勇将として名高い清水宗治で攻めるには困難であった。清水宗治は毛利方の小早川隆景に属しており、高山城は毛利方、信長方にとって重要な戦略拠点であった。秀吉は「こちらに味方すれば、備中、備後の2国を与えると」調略によって城を奪おうとした。しかし清水宗治が寝返ることはなかった。

 秀吉は高松城が低湿地帯で、水田の中にあった。背後には山々が重なり、西南には足守川が流れていた。力ずくで城を攻めることを諦めると、城を水没させる作戦をとった。秀吉は土地の農民を徴収し、銭をばら撒き昼夜を問わず城の周りに土塁を積み上げ、3.3キロにわたる大堤防を築いた。大堤防が完成するとせき止めていた足守川の水を一気に流し、たちまち高松城は浮島になった。毛利方は高松城の危機を救うために駆けつけるが、浮島になった高松城を遠くから見守ることしかできなかった。

 このようにして中国攻めでは三木の干殺し鳥取城の飢え殺し高松城の水攻めといった、時間はかかるが敵を確実に下して味方の勢力を温存した。秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾なく発揮された。秀吉は通常の武士では考えもつかない策を次々と実行していき、これらが能力主義を第一とする信長から高く評価された。

 1582年の高松城攻めの頃には羽柴秀吉と名乗り姫路城主として立派な大名となっていた。しかしその毛利攻めの総仕上げとして毛利軍と打ち破るため信長を招いたことが仇となった。毛利攻めとして秀吉は勝つ自信があったが、総仕上げを信長に譲ろうとしたのである。

 

本能寺の変
 1582年6月1日深夜、織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により殺されるという凶事が発生した(本能寺の変)。秀吉はこの事件を知ると愕然としたが、毛利家が信長の死を知る前に「清水宗治の切腹」を条件に毛利輝元と和解し、京都まで常識破りの速さで軍を引き返した。世に言う「中国大返し(おおがえし)」である。ピンチはチャンスでもある。信長の敵である明智光秀を他の家臣よりも早く討つことで、信長亡き後の自分の地位を高め天下を我が手にしようとした。

 羽柴秀吉は、即座に「弔い合戦」の大義名分を掲げ、神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らの支援を受け、6月13日に京都の山崎で明智光秀と戦いに臨んだ。兵力で劣る光秀は敗北し、秀吉は主君・信長の仇討ちを果たした(山崎の戦い)。敗れた光秀は逃げる途中で落武者狩りの手にかかって討たれた。

 ちなみに山崎の合戦で天王山を先に支配した秀吉が勝ったことから、物事の正念場を「天下分け目の天王山」と表現するようになった。また秀吉は本能寺の変から、わずか10日余りで明智光秀を倒し、近畿地方の秩序を取り戻したため信長の後継者として注目された。 また明智光秀のあまりにも短い天下を「三日天下」という。

  本能寺の変の時に、京都から遠く離れたところにいた柴田勝家・滝川一益ら先輩格の武将は、織田信長の仇討ち遅れをとることになった。羽柴秀吉の台頭を抑えようとする柴田勝家は、6月27日、清須城で会議を開き信長の正統な後継者を決めようとした。

 

清洲会議

 織田家の後継者を決める清洲会議がはじまった。清洲城に集まった家臣は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人であった。織田信長の嫡男・織田信忠は、能寺の変で明智光秀に討たれており、秀吉はその後に明智光秀を征伐し京都の支配権を掌握していた。

 織田信長の後継者として織田信雄(次男)・神戸信孝(三男)・三法師(長男・織田信忠の3歳の嫡子)が残っており、この三人の中から家督相続者が選ばれることになった。

 筆頭家老の柴田勝家は信長の三男織田信孝を推した。これに対し秀吉は長男・織田信忠の嫡男・三法師後の織田秀信)を推した。柴田勝家はこれに反対するが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉の「長子相続の筋目論」を支持したことで三法師案が支持され、さらに三法師の後見人を三男織田信孝にするという妥協案を秀吉が示したため、柴田勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなった。3歳の三法師が信長の後継者となった。

 清須会議では後継者だけでなく信長の遺領分割領地も行われた。織田信雄(次男)には伊勢に尾張国を加え、三男織田信孝には美濃国、信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。

 秀吉は明智光秀の旧領であったを増領し28万石の加増となった。これにより領地においても羽柴秀吉は柴田勝家に勝るようになった。織田家の当主は当時3歳の三法師(織田秀信)であり、秀吉はあくまで並み居る織田家重臣の1人にすぎなかった。さらに秀吉は柴田勝家とお市の方の再婚を斡旋した。

 しかし秀吉は明智光秀が山崎の戦いで使用した山崎城、男山城を改築し、山崎と丹波で検地を実施し、織田家の諸大名と誼を結び、さらに京都奉行に浅野長政(秀吉の正室・ねねの妹)・杉原家次(秀吉の正室・ねねの叔父)を据えるなど勢力固めに奔走した。

 筆頭家老の柴田勝家は、1582年10月に滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。

信長の葬儀

 これに対して羽柴秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として信長の葬儀を行った。この信長の大規模な葬儀によって、柴田勝家は秀吉が自らの政権樹立をする事に気づき、秀吉に強い警戒と敵意を抱いた。織田信孝は周囲で何が起きているのか理解出来ず、秀吉と勝家の間を仲裁しようとした。

 10月28日、羽柴秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議を反故にして、三法師が成人するまで織田信雄(次男)を織田家の当主として擁立し主従関係を結んだ。

 12月、越前の柴田勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、織田信孝が三法師を安土に戻さないことを大義名分に織田信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、羽柴秀吉は諸大名に動員令をかけ5万の大軍を率いて堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。柴田勝豊は勝家と不仲な上に病床に臥していたため秀吉に応じて降伏し、秀吉は長浜城を獲得した。

 秀吉は、12月16日には美濃に侵攻し織田信雄軍と合流して、織田信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏させた。岐阜城に孤立した織田信孝は三法師を秀吉に引き渡し和議を結んだ。

 1583年1月、反秀吉派の伊勢の滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城、関城、伊勢亀山城を破った。これに対して秀吉は北伊勢に侵攻し滝川一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと滝川一益の抵抗にあって後退を余儀なくされた。また秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興・山内一豊らの攻撃で遂に力尽き降伏した。伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であったが、優勢であった。

 

賤ヶ岳の戦い

 伊勢の滝川一益に呼応して、2月28日、柴田勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らが3万の大軍を率いて出陣した。羽柴秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せ、近江国に戻り3月11日には柴田勢と対峙した。

 この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が柴田勝家に寝返えり、さらに4月16日、織田信孝が岐阜で再び挙兵した。ここで羽柴秀吉は、「滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃」に囲まれることになった。秀吉は織田信孝を打つため、4月17日美濃に向けて出陣した。

 秀吉が織田信孝を討伐のために美濃に赴いた隙を突いて、4月20日早朝、柴田勝家の重臣・佐久間盛政が秀吉側に奇襲をかけて成功した。しかし佐久間盛政は柴田勝家の命令に逆らいこの砦から動かなかった。これを耳にした秀吉は大垣城からとって返し、大垣城から50キロの行程を6時間ほどで引き返し反撃した(美濃大返し)。また前田利家らの裏切りもあって柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は本拠地である越前国北ノ庄に撤退した。

 前田利家といえば後の豊臣政権の重鎮で、権力をきわめた秀吉に対し唯一ものが言える人物だった。ところがこの時は利家は柴田勝家の部下だったので、勝家に協力していた。しかし利家は秀吉の友でもあり、軽輩の時分から苦楽を共にし、本人だけではなく、妻同士も仲がよかった。そのような自分の立場に苦悩し、利家は合戦のさなかに戦いを放棄し、勝家を裏切ったのである。これにより戦局は秀吉有利に大きく動きました。

 秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えると5月2日には、織田信孝が兄織田信雄の命で切腹、伊勢で挙兵した滝川一益も健闘したが降伏開城し、5月末には賤ヶ岳の戦いは完全に終結した。

 

賤ヶ岳の七本槍

 賤ヶ岳の戦いで秀吉方で特に活躍した7人の武将は後世に賤ヶ岳の七本槍とよばれた。7人とは福島正則、加藤清正、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明である。譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が、自分の子飼いの武将を過大に喧伝したといえるが、7人というのは語呂合わせで、一柳家記には先懸之衆として七本槍以外に桜井佐吉、石川兵助一光、石田三成、大谷吉継、一柳直盛を含めた羽柴方の14人の若手武将が武功を挙げたと記録されている。

 この14人は実際に感状を得て、数千石の禄を得ており、豊臣政権において大きな勢力を持つに至った。福島正則が「脇坂と同列にされるのは迷惑だ」と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いものとされている。

お市の方と三姉妹

 賤ヶ岳の戦いは、柴田勝家の敗北で幕を下ろしたが、勝家が25歳年下の織田信長の妹・お市の方と結婚したのはその1年前であった。多忙だった勝家との生活に夫婦らしいことはなかったであろう。勝家は北ノ庄城へ帰ってからお市に逃げるよう勧めたが、お市の方は「二度も逃げたくない」といって拒否して、勝家と自害の道を選んだのである。お市の方は一度浅井家に嫁いだが、信長によって浅井が滅ぼされた後、織田へと戻り、その後勝家に嫁していた。2度に渡って嫁いだ家が滅ぼされ、最後には自害。戦国時代ということを考えても過酷な運命でした。
 柴田勝家の辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」(夏の夜のように短くはかない私の名を、のちの夜までも伝えてくれよ、山ほととぎす)で、お市の方の辞世の句は「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそう ほととぎすかな(夏の夜のほととぎすの鳴き声が、別れの悲しさをさそっているように聞こえる)で、二人ともホトトギスを用いている。お市が自害を選んだ理由は不明であるが、秀吉の女癖の悪さがお市の耳に届いていた可能性もある。戦国ならではの滅びの美学だったのかもしれない。
 お市の方の娘である三姉妹は秀吉側に降り、後に長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生み、 次女・初は若狭国主となった京極高次の正室、三女・江は徳川家康の三男・秀忠の正室となり家光・忠長兄弟、後水尾天皇の中宮となって女帝・明正天皇の母となった和子を生むことになった。

 

その後の勢力

 秀吉はこの合戦の勝利によって、自らの足場を完全に固めた。以後、信長のやり残した天下統一という目標に向かって驀進してゆく。 しかし戦いは名目上、上織田信雄、織田信孝両陣営によって行われ、当主となった三法師は戦いに関与してはいない。幼君で直臣のいない三法師が、その後「織田家当主」としての権力を衰退させたのは言うまでもない。
 勝利者となった織田信雄は、滝川一益の領した伊勢長島を接収して勢力は増大したが、羽柴秀吉を無下に出来ず、織田家中枢の政治を秀吉に徐々に移譲することになる。羽柴秀吉はこの戦いで中心的役割を果たし、表面上織田信雄を盛り立てたが、多くの大権を手にすることが出来た。

 柴田勝家は脱落し、丹羽長秀、池田恒興も秀吉の行動に従うことになった。さらに秀吉は前田利家や堀秀政などの織田秀信に属していた織田家家臣も懐柔し、結果的にのちの豊臣政権を誕生させることになる。

  羽柴秀吉は滝川一益の伊勢、柴田勝家の近江、織田信孝の美濃の包囲網を破ったが、残された毛利輝元や徳川家康などの交渉は羽柴秀吉に任されることになった。

 

徳川家康との対立と朝廷への接近

 1583年、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築く。秀吉は信長が築城した安土城を手本にして、水陸交通の要所であった大坂の石山本願寺の跡地に大坂城を築城し、天下統一への意思を示した。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、大阪城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。
 1584年、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し対立した。3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき信長の盟友で、東国における一大勢力となった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。
 これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)をも尾張国と三河国を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、池田恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。

 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破り(羽黒の戦い)、さらに小牧に堅陣を敷き秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し、両軍は長期間対峙し合うことになり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。
 そのような中、各敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将にして4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし奇襲にもかかわらず、行軍は鈍足だったために家康の張った歩哨網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。
 秀吉は兵力では圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で、秀吉自らが攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。

 また織田信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒され、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独和睦をした。信雄が講和したことで、織田家再興の戦いの大義を失った家康は三河に撤退することになった。

 やがて秀吉は家康に自分への臣従を求め、自分の妹を家康の新たな正室として差し出し、母を人質として送った。こうした秀吉の容赦のない攻勢に対して、家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとった。家康は次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子(人質)として差し出し講和した。
 天下統一を目指して大名を次々と従えた秀吉であったが、元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁たる征夷大将軍に就任することは不可能だった。そのため秀吉は皇室との縁を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令しようと考えた。
 徳川との戦いの最中の10月15日、秀吉は従五位下左近衛権少将に叙位任官された。 秀吉は官職でも順次主家の織田家を凌駕することになり、信雄との和議後は自ら「羽柴」の苗字を使用しなくなった。

 

関白任官と紀伊・四国・越中攻略
 1584年11月21日、従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。かねてから朝廷で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久の猶子となって1585年、秀吉は朝廷から関白に任じられた。翌年には朝廷から新たに豊臣の姓を賜り太政大臣に就任した。なお秀吉のことを後に太閤と呼ぶが、これは関白の前任者を意味している。秀吉は関白や太政大臣となったことで、自分が朝廷から全国の支配権を委ねられたと見なした。また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前で秀吉自身への忠誠を誓わせた。

 また紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破り、藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させ紀伊国を平定した(紀州征伐)。四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たずに降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。四国の長宗我部元親を降伏させると、諸国の大名に交戦停止を命じた、これに違反したとして1587年に九州の島津義久を降伏させた。1590年、秀吉は小田原の北条氏政(うじまさ)を滅ぼし、伊達政宗らの東北の諸大名を降伏させ天下統一の事業を完成させた。

  また越中国の佐々成政を討伐し、成政は戦わずに剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介があったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを与えた。このようにして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定された。


関白辞令の宣旨
 
この年に追放した者を匿うことのないよう警告としている。「追放した者を隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている。
 1586年9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任し、ここに豊臣政権を確立した。同年、天正地震の影響もあり、徳川家康に対しては融和策に転じ妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

秀吉の経済力

 秀吉も信長同様に豊富な経済力を誇っていた。その基盤は畿内を中心とした約200万石の直轄領であった。京都や大坂・堺・伏見・長崎などの重要都市、さらに佐渡・石見・生野などの鉱山を支配して、天正大判などの貨幣を鋳造した。ただしこれらの貨幣は主に贈答用に使用され、貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからである。信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に命じ、一里塚を築き、信長が進めてきた政策を完成させた。


九州平定とバテレン追放令
 九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきた。1585年、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷の権威を以て停戦命令を発したが島津氏はこれを無視したため、秀吉は九州に攻め入ることになる。1586年には豊後戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監として長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍が島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により長宗我部信親や十河存保が討ち取られ大敗した(戸次川の戦い)。
 だが翌年には弟の秀長と軍監・黒田孝高が20万の大軍を率いて九州に侵攻し、島津軍を圧倒して降伏させ九州を制覇した。また備後国へ亡命していた足利義昭のもとを訪れ、義昭は京都に帰り将軍職を辞して出家した。このようにして秀吉は西日本の全域を服属させた。
 九州平定すると、秀吉は住民が強制的にキリスト教へ改宗させられ、神社仏閣を破壊していることを知った。さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたことを知り、秀吉はイエズス会のガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めバテレン追放令を発布した。しかしこの段階では事実上キリシタンは黙認されていた。

朝臣としての聚楽第
 同年10月1日には京都にある北野天満宮の境内において千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、秀吉も参加して行われ、黄金の茶室も披露された。
 1587年、平安京大内裏跡(内野)に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽第」と名付けた。 1588年4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応を行い、徳川家康や織田信雄ら有力大名に秀吉への忠誠を誓わせた。また同年には毛利輝元が上洛し臣従した。さらに、刀狩令や海賊停止令を発布して全国的に施行した。

小田原征伐天下統一
 1589年、側室の淀殿との間に鶴松が産まれると、鶴松を後継者に指名する。同年、北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則の名胡桃城を奪取したことをきっかけに、秀吉は関東へ遠征して北条氏の本拠小田原城を包囲した。

 北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略され、本城である小田原城は3か月の篭城したが、秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として遣わし、北条氏の父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。 これによって秀吉の天下統一事業がほぼ完成された。

 北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼさず、従属・臣従させた。北条氏の領地を得た徳川家康は石高250万石を有し、秀吉の222万石より多い石高を有することになった。

 1591年、弟の豊臣秀長、鶴松が相次いで病死したため、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、秀吉は前関白の尊称である太閤と呼ばれるようになる。ただし秀吉は全権を秀次に譲らず、実権を握ったまま二元政を敷いた。

 同年、茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹し、その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。

 また同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした(九戸政実の乱)。南部信直の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍勢となり、降伏した九戸政実・実親は、豊臣秀次は一族とともに斬首され、九戸氏は滅亡して乱は終結した。

 またこの年には、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のため、或いは戦乱のために洛中と洛外の境を明らかにするためであった。


秀次切腹事件
 1593年8月3日に側室の淀殿が秀頼(お拾)を産んだ。秀吉は新築されたばかりの伏見城に母子をともなって移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にあって仲を取り持つつもりであった。山科言経の「言経卿記」によると秀吉は日本を5つに分け、その4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲るつもりでいた。 また将来は前田利家を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させ両人に天下を受け継がせようとした。ところが秀頼の誕生によって秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し情緒不安定となった。
 1595年6月、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白の5人が聚楽第訪れ、秀次に謀反の疑いにより五箇条の詰問状を示して清洲城に蟄居することを促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った。さらに使者が訪れて伏見に出頭するよう促され、秀次は伏見城へ行くが謁見は許されず、その夜に剃髪を命じられ高野山青巌寺に流罪・蟄居する身となった。

 7月15日、秀次の許へ上使の福島正則・池田秀雄・福原長堯が訪れ賜死の命令が下されたことを伝えた。同日、秀次は切腹し、小姓や家臣らが殉死した。8月2日、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女ら29名が処刑された。

 秀次の切腹は秀頼の誕生により秀次を疎ましく思った秀吉が、秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、これを除いたという説明がなされている。 しかし秀吉と秀次の確執については統治権の対立説などがあり、謀反が事実であったのかどうか、切腹の真相を記した文書が存在しないため不明な部分がある。 
 また天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら、秀次は「殺生関白」と呼ばれるなど素行に問題があったとする説は当時からあった。秀次の辻斬り乱行、秀次が自ら罪人の首を撥ね、妊婦の腹を裂いて中の子を見て楽しんだ等の悪行という複数の記述が残っている。

 秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は関白としてあるまじき行動が多かったことが身を滅ぼしたとされている。秀次の暴虐を強調することは秀次一族の誅殺を正当化する側面もあり多くの逸話は創作か誇張で、殺生関白の史実性を疑問視しする考えもある。秀次失脚の原因として、秀次には侍医がいたにもかかわらず、後陽成天皇の病の際に天皇の主治医をよびよせたことが、関白の地位の乱用した越権行為と判断され失脚、切腹につながったと指摘する説もある(天脈拝診怠業事件)。

サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑
 1596年10月に土佐国にスペイン船が漂着し、サン=フェリペ号事件が起きる。奉行・増田長盛は「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため測量に来た。このことを都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を受けている。同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。

 1597年、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に挑発的であるとして、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。石田三成はイエズス会関係者を除外しようとしたが果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。

 

文禄の役
 1591年8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めた。1592年3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵させた。日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵が抵抗し明の援軍が到着したことから戦況は膠着状態となり、1593年に明と講和の交渉が開始された。

慶長の役
 1596年、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は「全羅道をことごとく成敗し、忠清道・京畿道にも侵攻する。その後は拠点となる城郭を建設し、城主を定めその他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令した。

 1597年、小早川秀秋を元帥に14万人の軍を朝鮮へ再度出兵させ、漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始した。2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出すると、日本軍は作戦通り文禄の役の際に築かれた城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いた。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受け大破する(第1次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を城郭群に残して防備を固めると、7万余の将兵を本土に帰還させ、慶長の役の作戦目標は完了した。秀吉は1599年にも大規模な軍事行動を計画し、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように諸将に命じたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されなかった。

最期
 1598年3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ庭園を造営し、各地から700本の桜を集めて植えさせ、秀頼や奥方たちと1日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。洛中の屋敷として御所近くに京都新城をつくったが、参内の宿所として使用したが移居することはなかった。

 5月にはいり秀吉は病に伏すようになり、日を追う毎に病状は悪化した。5月15日には「太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚」という11箇条からなる遺言書を五大老と五奉行に書いた。これを受けた彼らは起請文を書き血判を付けて返答した。なお五大老とは徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元で、五奉行は石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以である。

 秀吉は自分を八幡神として神格化し、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言し、自分の死が近いことを悟った秀吉は、7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び、家康に秀頼の後見人になるように依頼した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を書いた。秀吉の病は「甲斐善光寺から京都方広寺へ移された信濃善光寺の本尊の阿弥陀三尊の祟り」と噂され、三尊像は8月17日に信濃へ向けて京都を出発したが、翌18日に秀吉はその生涯を終えた。死因については不明である。
 秀吉の死は秘密にされたが、秀吉の死は民衆の間に広まった。秀吉の遺骸はしばらく伏見城に置かれ、高野山に八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築された。翌年4月13日に伏見城から遺骸が運ばれ高野山に埋葬された。 4月18日に遷宮の儀が行われ、朝廷から豊国大明神の神号が与えた。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」に由来するが、豊臣の姓をも意識したものでもある。神として祀られたため葬儀は行われていない。

 

死後

   豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制がつくられ、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。当時の日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮の連合軍と第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いな どで勝利したが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び全軍が朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知 るところとなった。朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍や民に大きな被害をもたらし、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し、滅亡する 一因となった。日本でも征服軍の中心であった西国の大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。

秀吉の容貌

   秀吉が猿と呼ばれたことは有名で、「太閤素生記」では秀吉の幼名を「猿」と書いてある。また松下之綱は「猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげに猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。

 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉の顔は小さく、色黒で猿に似ている」と書き、ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語っている。

 秀吉は指が1本多い多指症だった。右手の親指が1本多いため、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた。現在では多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になってもその事実を隠すことがなかった。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせている。
 身長は小柄で、身長は150cm以下から160cm余まで諸説ある。髭は薄かったため、付け髭をしていた。当時の武将は髭を蓄えるのが習慣で、髭の薄い者は付け髭をするのが普通であった。

秀吉の女たらし

 戦国時代の多くの武士は男色をたしなみ、麗しい美少年を側に置いていた。男色に関する逸話は織田信長や武田信玄など多くの戦国大名に残されている。
 しかし秀吉については、女性に関する話ならいくらでもあるが、まったく男色の話がない。加藤清正に仕えた儒医・江村専斎の「老人談話」に、美少年の小姓が目に留まった秀吉が少年に「お前に姉か妹はおらんのか」と尋ねる。このことからも女性好みで、男色には興味がなかったことがわかる。秀吉は男色をたしなむような武士階級ではなく、農民出身だったからとの説がある。

 織田信長が秀吉に書いた書状が残されている。といっても秀吉に宛てたものではなく、その妻・おねに宛てたものである。秀吉が信長配下として頭角をあらわしてきた頃、おねは信長のいる安土城を訪ね、信長に会見した。その際、秀吉の女癖の悪さを訴えたらしく、それを受けての信長の返事である。

 信長がおねに宛てに書いたのは「この度は訪ねてくれて嬉しく、土産もありがとう。そのほうは前に会ったときより大変美しくなった。秀吉がいろいろ不満を申すとのことだが、言語道断だ。あの剥げ鼠(秀吉)には、どこを探してもそのほうのような女性は見つかるまい。これからは明るく振舞い、やきもちなど焼かずに世話をしてやりなさい」との内容だった。おねを気遣った信長の優しい言葉で、しかも「この手紙を秀吉に見せなさい」と言い、さらに信長の公式文書を示す「天下布武」の朱印まで押してあったのである。この手紙をおねに渡されて読み終えた秀吉はどのような表情をしたか。なんにしても私たちの抱く信長のイメージが一変するような書状である。

 秀吉は他の大名と同様に側室を置いたが、正室のねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じて少なかった。秀吉との間に子供が出来なかった側室たちは、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁して再婚してから子供が出来た者が幾人かいる。そのため秀吉の子とされる秀頼は、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説がある。これについては秀頼だけでなく、鶴松の時も同じ噂があった。
 秀吉は子宝に恵まれなかったが、長浜城主時代に一男一女を授かっていた。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸(秀勝)である。長浜で毎年4月に曳山祭がおこなわれるが、これは男子が生まれたことで喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が山車を作り、これを曳き回したことが長浜八幡宮の祭礼の始まりと伝えられている。石松丸(秀勝)は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝と同じ名を与えている。