天皇

天皇とは

 歴代天皇は神武天皇から今上天皇まで125代である。このうち退位した天皇が再び位に就くことがあるため総数は123人になる。ただし南北朝時代に北朝(京都)で即位した天皇は数えられない。なおこれまで女性の天皇は8人10代いる(2人重祚)が、現在の皇室典範では女性は天皇にはなれない。

 天皇の名称は、中央集権国家の君主としての第40代・天武天皇からで、大宝律令で「天皇」号が法制化された。それまでは権力の頂点として「大王」(おおきみ)と呼ばれていた。大王というのは「王の中の王」という意味で、つまりヤマト王権は各地の王たちの連合政権の王たちの中の首長という意味で「大王」が生まれたのである。奈良時代から平安時代には政治・祭祀の頂点だったが摂関政治・院政・武家の台頭により政治的実権を失っていった。室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶があったが、江戸時代末に尊王論が高まり、王政復古、明治憲法下の天皇制へ繋がった。大日本帝国憲法では、天皇は神聖不可侵の国家元首であって統治権をもつと規定されていた。

 現憲法では天皇は国家元首ではなく、国民の象徴であるが、象徴には法的意味はない。しかし天皇の地位は国民の総意に基づくとされ、天皇の権能は限定され、天皇は国事行為だけを行い国政に関する権能は一切持てない。国事行為は国家意思形成に関わらない形式的・儀礼的行為に限られ、天皇は宗教的要素には介入できず公的な宗教的活動が禁止されている。皇位継承の際に行われた大嘗祭や三種の神器の継承は天皇家の私事とされている。

 在位中の天皇は今上天皇と呼ばれ、現在の天皇に対して平成天皇と呼ぶ者がいるが大きな間違いである。天皇は天皇の崩御後に贈られる追号であり崩御後に平成天皇という追号が贈られるのである。

 なお皇室典範によると、天皇の親族のうち皇后、皇太后、太皇太后、嫡男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)その配偶者(親王妃および王妃)を皇族といい、皇族の全体を総称して皇室という。

 

邪馬台国とヤマト政権
 3世紀後半から4世紀にかけ、日本は小国家の統一が進み、その最大勢力が「現在の皇室の祖先」を中心にした大和地方の豪族連合とされている。3世紀後半から大和地方を中心に巨大な古墳がつくられ、その後も大和地方と同じ形の前方後円墳が各地につくられていることからヤマト政権の支配が順次勢力を拡大したとされている。ヤマト政権は毛野・吉備・出雲・筑紫その他の各地政権と並立する地方政権であったのが、やがて関東地方から九州北部までヤマト政権の支配下に入り、7世紀末から律令体制を整えるまでに、他の諸政権との連合体から統一政権に成長したのであろう。

 ヤマト政権と邪馬台国との関係はどうだったのか。邪馬台国では3世紀に卑弥呼と壱与の二人の女王が立ったが、皇室の系譜には3世紀の頃に女帝が即位した例は見当たらない。ヤマト政権と邪馬台国は別なのか。この謎は解くカギが見当たらない。日本最初の史書「日本書紀」や「古事記」に邪馬台国の記載がないので謎は深まるばかりである。

初代天皇

「日本書紀」や「古事記」には、神武天皇は初代天皇と書かれている。しかし神武天皇初の日本史書「日本書紀」「古事記」が書かれた数百年前の、しかも文字がない時代のことなので、誰にも確かなことは分からないのである。文字がないため記録が残されていないからである。何百年も経ってから「記紀」を残した天武天皇や持統天皇の都合で創作された可能性が高い。文字がない時代に神武東征などが語り継がれているが、初代天皇が誰なのかは多くの学説があるものの、結局はわからないのである。

 神武天皇は太陽を神格化した皇室の祖神である天照大神の直系の子孫で、現代の天皇陛下は第125代目になる。戦前まで神武天皇は実在すると教育されてきた。それが敗戦後GHQの統治権により否定され、神社の弱体化がなされ、神道および軍事関係の書物がGHQによって没収され発刊禁止となった。教科書から神武天皇の名前が強制的に排除されたのである。

神武天皇

 神武天皇はそれまでの日向(宮崎県)の高千穂から大和 (奈良県)へ移ることを決意し、軍勢を率いて瀬戸内海を渡り大阪湾から上陸した。しかし長髄彦(ながすねひこ)の激しい抵抗にあい、兄を失い苦戦の末、紀伊(和歌山県)から海路で熊野(三重県)に上陸して大和を目指した。

 神武天皇は険しい山道で迷いそうになるが、神武天皇の軍勢の前に巨大なカラスが現れた。それが三本足をもつ八咫烏(やたがらす)だった。八咫烏は天照大神の使いとして大和まで道案内をした。

 大和に入った天皇の軍勢は、抵抗する豪族を次々と倒したが、再び長髄彦が天皇の前に立ちふさがった。氷雨が降り苦戦したが、どこからともなく金色に輝く一羽のトビが飛んできて天皇の弓の先に止まると、トビは稲光のように光り輝き、敵軍の目をくらました。

 苦難の末に大和を平定した神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築いて初代天皇として即位した(現在の橿原神宮は、この伝承に基づいて明治時代に創建された)。この日が十干十二支で辛酉(しんゆう)の年の1月1日とされている。ちなみに現在の建国記念の日紀元節)は、神武天皇の即位の日を現在の暦に直して2月11日とし、また八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられている。

文部省天文局の間違い?

 神武天皇は辛酉の年の1月1日に大和を平定したが、その「辛酉」とは一体いつのことなのか。日本書紀では神武天皇の即位の年を紀元前660年と定めている。建国記念の日もこの年を元に計算している。しかし紀元前660年の我が国は縄文時代の末期である。また神武天皇を始め初期の天皇はいずれも 100歳前後まで長生きしている。このようなことから現代では神武天皇は実在せず、日本建国の伝承もすべてが作り話というのが定説になりつつある。日本建国の伝承は戦後否定されたが、しかし作り話ともいえないのである。

 神武天皇が即位したのが干支(えと)の辛酉(しんゆう)の年とされているが、それまでの日本には暦がなく、暦が中国から入ってきたのは7世紀の初めである。中国の暦は、動物を表した子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12支と、世の中の大切な甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10干によって表される。このなかで辛酉(かのとり)の年に革命が起きるとされている。

 明治6年(1873年)に文部省天文局この辛酉の年を西暦紀元前660年と決めたのがそもそもの間違いだった。601年に聖徳太子が現れ、この年から逆算して初代天皇の即位の年を紀元前660年としたのである。つまり初代天皇の即位を紀元前660年にしたかったのである。しかしこの辛酉の年を、同じ辛酉の年の紀元後181年にすれば大和朝廷と天皇の現実性が出てくるのである。

 「日本の紀元を神武天皇の即位」とするのは日本書紀以来一般的なことであるが、それが何年前なのかは誰も知らず、それを制定したのは明治6年の文部省天文局の計算である。神武天皇の即位日(建国記念日)を紀元前660年にしたため、古代の歴代天皇は100歳以上の長生きになり、ありえないことからすべてが神話とされた。

 天皇が古くから日本を支配していたことを強調したかったのだろうが、神武天皇の即位を紀元後181年の辛酉の年にしていれば、日本の天皇史は史実として成り立つのである。

日本の建国

 この推論は中国の歴史書に書かれた「狗奴国」の男王卑弥弓呼(ひみくこ)がキーワードになる。魏志倭人伝では、倭国で大きな争乱が続いていると書かれているが「倭国の大乱を神武天皇が平定を示した」とするならば辻褄が合うのである。

 狗奴国(くまのこく)は、神武天皇が上陸した「熊野国」をあらわし、「卑弥弓呼」は神武天皇の別名の「彦尊」(ひこのみこと)とすれば納得がゆく。

 ここで思い出して欲しいのは、日本は文字のない国で、すべて話し言葉だったのである。当時の記載は、発音を元に漢字に当てはめただけなので、漢字の意味よりも漢字の発音を比較すべきで、もちろん偶然の一致を考慮しても、神武天皇が九州から大和に移ってきた可能性は高い。

 初代神武天皇から第8代の孝元天皇まで、宮殿は奈良盆地の南大和にあったが、第9代の開化天皇は奈良市春日の地(北大和)に宮殿を移している。またそれまでの天皇の正妃の出身地は南大和だったが、孝元天皇以降は北大和から正妃を迎え北河内(大阪北東部)出身の女性を側室にしている。 

 神武天皇の即位が181年とすれば、第8代の孝元天皇の即位は275年と計算され、倭国の女王(邪馬台国の壱与)が晋に使者を遣わしたのは266年であるから孝元天皇が即位した頃は邪馬台国は存在していたが、数年後に邪馬台国はヤマト政権に平定され、あるいはヤマト政権になったため、歴史上から姿を消したと推測される。

 邪馬台国が勢力を伸ばしていた北大和や北河内の地域はヤマト政権が支配することになり、新たに朝廷の領地となった北大和や北河内から孝元天皇が正妃や側室を迎え、第9代の開化天皇が北大和に宮殿を建てたのであろう。また邪馬台国とヤマト政権とは別の国であり、両国の争いはヤマト政権の勝利に終わり、邪馬台国が歴史上から姿を消したと思われる。

 邪馬台国は魏や晋と外交を結んでいて、いざとなれば中国大陸から援軍を呼ぶことが出来た。ヤマト政権にとって大きな脅威だったが、 中国の政権が混乱し、邪馬台国が大陸とのつながりが断たれ、そのためヤマト政権に征服されたと推測される。ヤマト政権による邪馬台国の平定は「謎の4世紀」であり不明ではあるが、長い伝統を誇る皇統にとってはふさわしいことである。

 日本書紀や古事記に記載されている神話を、空想とするには疑問がある。神武天皇による日本建国は伝承であるが、何らかの係わりがあったのではないかと思われる。八咫烏や金色のトビの伝説も、それに近い自然現象と考えられるが、全ては闇に包まれた謎である。

崇神天皇

 第10代天皇、崇神天皇になると民衆に租税を課し、戸籍の整備に着手などと具体的かつ現実的な記録が「日本書紀」に残されている。このため崇神天皇こそが最初の天皇とする見方が強い。崇神天皇が崩御されたのが「古事記」に戊寅年と記載されており、西暦318年にあたる。このことから崇神天皇は3世紀末から4世紀前半に実在した天皇だとする学者が多い。仮に初代天皇が崇神天皇だとするならば、その年代が歴史ある天皇家の発祥時期とすることができる。天皇家は余りにも歴史が長いため、初代天皇については謎が多いが、いずれにせよ崇神天皇からは史実にもとづいている。

世界の神話や伝説
 世界の民族には様々な神話や伝説があり、古代の人々の考え方を知るうえで神話や伝説は貴重な文化遺産である。もちろん琉球にもアイヌにも神話はある。

 たとえばローマ教皇はローマ・カトリックの最高権威で、世界中のカトリック教徒から尊敬されている。その初代ローマ教皇はペトロとされているが、ペトロの時代にはローマに教会は存在していない。当時のキリスト教はローマ帝国から迫害されていた。ペトロはイエスの一番弟子だったため、何百年も経ってから、ペトロこそ初代ローマ教皇に相応しいとされ初代ローマ教皇になった。

 このように我が国だけが神話を切り捨てるのもおかしな話で、いずれにしても祖先が長い時間をかけて伝えてきた神話を、次世代に残したいものである。神話は日本最古の物語と受け止めれば良いだろう。

 なお古代天皇の歴史を

黎明期 :初代天照大神から9代開化天皇まで
古墳時代:10代神武天皇から26代継体天皇まで
飛鳥時代:27代安閑天皇から37代斉明天皇まで
奈良時代:38代天智天皇から50代桓武天皇まで

と分類することもある。