くじ引き将軍

くじ引き将軍・義教の恐怖政治

 1395年、足利義満は将軍職を息子の足利義持に譲ったが、実際には義満が権力を持っていた。しかしその義満が1408年に急死しすると、足利義持の時代になり、その頃から徐々に室町幕府の体制に揺らぎるようになる。

 それでも第4代将軍・足利義持は管領の斯波義将らの支持があり将軍の勢力は低下を予感させれだけであった。足利義持は強い幕府を目指しながら15歳の息子の足利義量に将軍の位を譲ったが、この第5代将軍足利義量は生来病弱にも関わらず大変な酒飲みあった。そのため父親の義持は幕府の要職にある者を集め「義持の許可なく、義量に酒を飲まさない」と誓約書を書かせたほどである。しかし酒の飲み過ぎのせいか、義量は19歳の若さで急死してしまう。
 第5代将軍の足利義量の頃の室町幕府は、九州地方が有力守護の支配を受け、鎌倉公方が幕府の命令に従わず、半独立状態になり常に不安定な状態であった。

 父親である足利義持が第5代将軍義量の代わりに政務をとったが、1428年に義量が重病になり、このままでは将軍家の血筋が絶えてしまう危機が訪れた。足利義持は義量以外に息子がいなかったからである。さらに「重臣たちが納得する将軍でなければ意味がない」と云って、管領たちに後継者選びを任せたのであった。

 義持は後継者を指名しなかったが、それは将軍の権威が弱かったため、自分が後任の将軍を指名したとしても、守護から反発を受けると予想したからである。

 第6代将軍を誰にするかを任された重臣たちは、思案の結果、義持の弟たち、つまり義満の4人の息子の中から選ぶことになった。しかしこの4人は全員とも僧籍に入っていた。困った重臣たちは、籤(クジ)引きで将軍を決めることになった

 京都の石清水八幡宮の神前で籤を引くことになり、その結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主の義円が次期将軍に選ばれた。35歳の義円(義教)は10歳で僧籍に入っていて将軍になることを何度も断るが、重臣たちは「神の思し召しに、良い悪いと言うな」と云って説得した。

 足利義教は第6代将軍につくことを承諾するが、籤(くじ)で選ばれたことを「自分は神様に選ばれた将軍である」と解釈して、就任後は強気の政治を実行した。

 まず義教は弱体した幕府権威の復興を目指し、守護たちに政治を任さない将軍親政を復活させた。第6代将軍・足利義教は将軍の権力を高めようとして、就任の際に有力守護から「将軍を無視して勝手なことをしない」と証文を取り、中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤し、その財力で奉公を整備して将軍直属の軍事力を強化した。さらに九州地方に攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現した。

 義教はかつて 天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、それまでの将軍とは違って宗教に対する畏怖を全く持っていなかった。義教と延暦寺とはやがて内戦状態 となるが、義教が最後までぶれることなく、厳しい姿勢を崩さなかった。そのため絶望した延暦寺は、1435年に総本堂である根本中堂に火をかけて、多数の僧が焼身自殺した。義教は宗教勢力を完全に支配下に置くことになった。

 比叡山延暦寺の焼き討ちといえば織田信長が有名であるが、それよりも100年以上も前に、武力によって延暦寺を支配した将軍がいたのである。

 鎌倉公方の足利持氏は「自分にも将軍になる権利がある」と足利義教に従わなかった。義教は将軍の命令に逆らい続けたため、義教は関東へ出兵し、1439年に持氏持氏を滅ぼした。この争いは永享の乱(えいきょう)と呼ばれている。

 1440年、足利持氏の遺児を擁して結城氏朝らが挙兵するが、義教はこれをも滅ぼした。この戦いを結城合戦という。このようにして鎌倉を支配下に置いた義教の権力は絶対的なものになり、古代の盟神探湯(くかたち)を復活させ、些細なことで激怒して斬首などの厳しい処断を下した。

 「梅の枝が折れた」と庭師を殺し、「料理がまずい」と言っては料理人を殺した。気に入らない大名の首をすげ替え、所領を没収するなどわがまま放題ぶりを発揮し、身内からも恐れられた。義教の狂気・残虐性に対して守護大名たちは「万人恐怖の状態」に震え上がり周囲は薄氷を踏む思いだった。

 義教にしてみれば幕府や将軍の権威を高めるためだったが、余りにも強引な専制政治は、必然的に守護大名の反発を招くことになる。些細なことで殺された者にとっては迷惑なことであるが、義教にとっては12年間の将軍時代は神に託された自信があった。しかしこの義教の恐怖政治は、突然その幕を閉じことになる。話は前後するが、鎌倉公方と上杉禅秀の乱は重要である。

鎌倉公方(関東公方)の誕生
 室町幕府は足利尊氏が築いたが、その政治基盤はかなり脆弱だった。いわゆる南北朝問題や尊氏と弟の足利直義の間に確執があり、そこに執事の高師直(こうのもろなお)がからみ不安定だったのである。
 室町幕府は将軍が京都を離れると、有力者に天皇を奪われたり、クーデターが起きる危険があった。そのため室町幕府を関東ではなく京都にせざるをえなかった。かつて鎌倉幕府があった関東は豪族(国人、国衆)の勢力が強かったため、室町幕府は鎌倉に公方府(くぼうふ)をおいて統治させることにする。これが鎌倉公方府(鎌倉府)で、その長官を「鎌倉公方」と呼んでいた。
 初代の鎌倉公方には尊氏の次男、足利基氏が任命され、いわゆる関八州(相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野)に、甲斐と伊豆を加えた10カ国を統治させた。この鎌倉公方の名称は政庁の置かれたのが鎌倉だったからで、正確には「関東公方」と呼んだほうが理解しやすい。関東公方の座を巡って足利一族で争い、鎌倉公方、堀越公方、古河公方が乱立した。

 

上杉禅秀の乱

 1408年に第3代将軍・足利義満が急死するが、次の第4代将軍の足利義持は管領の斯波義将らの支持があって室町幕府は比較的安定していた。鎌倉公方は室町幕府が「関東統治のために設置した機関」で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、関東管領職は上杉氏による世襲状態であった。

 この頃の上杉氏は山内、犬懸、詫間、扇谷の4家が争い、鎌倉公方は関東管領である犬懸家の上杉禅秀とは特に仲が悪かった。また鎌倉公方の足利持氏は将軍の座を望んだが叶えられず、結果くじ引きで選ばれたのが、6代将軍・足利義教であった。自分が将軍になるつもりでいたので室町幕府と鎌倉公方も仲が悪かった。

 足利持氏(もちうじ)が4代目の鎌倉公方となり、犬懸家の上杉禅秀(氏憲)が関東管領に就任したが、しだいに足利持氏と上杉禅秀が対立すると足利持氏は禅秀を罷免して、山内家の上杉憲基を関東管領し、さらに上杉禅秀の家人の領地を足利持氏が没収した。これに憤慨した上杉禅秀は、1416年、足利持氏の叔父である足利満隆や、甲斐守護の武田信満、相模守護の三浦高明と手を組んで挙兵した。
 元関東管領の上杉禅秀は足利持氏に悟られぬように策を練ったため、油断していた足利持氏は禅秀の挙兵を知ると鎌倉の御所を脱出し、山を越えて海岸沿いの上杉憲基邸に逃げ、さらに駿河の今川範政を頼って脱出した。鎌倉公方不在の鎌倉は上杉禅秀の制圧下に置かれた。
 今川範政が足利持氏を擁し室町幕府に援助を求めると、将軍・足利義持が天皇から上杉禅秀討伐の御教書を発してもらい幕府軍を派遣した。そのため上杉禅秀から多くの武士が離れ大勢が逆転した。足利持氏を擁した今川範政が鎌倉に軍を進めると、上杉禅秀らは鶴岡八幡宮のの雪ノ下の坊(僧坊)に籠もり自刃した。上杉禅秀邸があった佐助ヶ谷は戦火に巻き込まれ、禅秀が建立した国清寺が焼失した。この上杉禅秀の反乱によって犬懸上杉家は没落することになる。

 なお足利義満が生前可愛がっていた義持の異母弟である足利義嗣(よしつぐ)は上杉禅秀に通じていたとして処刑された。これを上杉禅秀の乱という。

 この上杉禅秀の乱が鎮圧されると、足利持氏が鎌倉に復帰したが、翌年に関東管領の上杉憲基(のりもと)が27歳の若さで急死し、後任にはわずか10歳の憲実(のりざね)が就任したため、本来公方を補佐するべき関東管領が公方より若年というおかしな事態が発生した。そうなると足利持氏を諌める者はいなくなり、持氏は独裁的にふるまい、幕府(将軍)を軽視するようになる。京都の情勢が安定するにつれて関東も支配しようとする将軍家と、既得権を守ろうと抵抗する鎌倉公方が対立するのは当然のことであったあった。

 関東管領・上杉憲実は幕府と鎌倉府との関係改善に努めたが、足利持氏は逆に憲実を遠ざけ、暗殺の噂まで出はじめたため、上杉憲実は管領職を辞職し上野国へ下るが、これを憲実の反逆と見た持氏は討伐軍を差し向ける。憲実は持氏とその嫡男・義久の公方就任を嘆願したが、足利義教はこれを許さずふたりは最終的に自害させられ、この結果、鎌倉府は滅亡した。

 ところが2年後、義教が実子を鎌倉公方とすると、結城氏朝ら北関東の国衆が、難を逃れた持氏の次男・春王丸と三男・安王丸を奉じて挙兵し「結城合戦」が起こる。この反乱は幕府方の上杉清方(きよまさ)らによって鎮圧され、結城氏朝は討死、春王丸と安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって殺害された。
 その後、生き延びた持氏の4男・永寿王丸が足利成氏(しげうじ)として再興し鎌倉府に戻り鎌倉公方となった。鎌倉府再興したのは将軍・義教が暗殺され、中央の支配体制が弱体化したためである。

鎌倉公方、堀越公方、古河公方
 足利成氏が鎌倉公方になると上杉方に襲撃されるなど、依然として関東は緊張下にあり、さらに幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わると、勝元は鎌倉公方から関東の支配権を奪おうとした。そのような鎌倉府内外の軋轢の中、1454年に成氏は、憲実の嫡男で関東管領を継いでいた上杉憲忠(のりただ)を謀殺する。これが以後30年間におよぶ「享徳の乱」の勃発となった。
 この戦いは関東を二分して、各地で戦闘がおこなわれた。幕府は成氏を朝敵として、駿河守護・今川範忠(のりただ)を上杉氏の援軍として差し向ける。範忠が鎌倉を制圧すると、成氏はあらたに下総古河を本拠として抵抗をつづけた。そのため成氏は「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれるようになる。幕府は古河公方への対抗措置として、将軍・義政の異母兄・政知(まさとも)を正式な新・鎌倉公方とした。しかし政知は鎌倉に入れず、その手前である伊豆の堀越にとどまり、ここに御所をおいたので、「堀越公方」と呼ばれた。

 

将軍の暗殺

 1441年、室町幕府は反旗を翻した下総の結城氏朝らの反勢力を一掃すると、播磨守護・赤松満祐が義教を二条堀川の自邸に招いて戦勝祝賀会を開くことになった。「かわいい鴨の子が、たくさん庭の池で泳いでいますので、ぜひとも」という赤松満祐の誘いに義教は疑いもせず、わずかの手勢を連れて赤松邸に入り供宴を楽しんでいた。

 その宴の最中、突如として乱入してきた甲冑姿の数人の武者たちに取り押さえられ、有無を言わさず安積行秀によって義教は首をはねられた。刀ひと振りで首は宙を舞い、第6代将軍・足利義教はあっけない最後を迎えた。

 足利義教を暗殺した赤松満祐との関係は最初は良好だったが、赤松満祐の弟が所領を没収されると、次は自分の番と満祐は猜疑心に震えていたのだった。

 義教は恐怖の独裁者だった。強権ゆえに家来や守護大名から人気はなく、首のない義教の遺体の引き取り手はなく赤松の屋敷に置き去りにされた。息子を義教の力で天皇に即位してもらった伏見宮貞成親王でさえ、日記に「自業自得の犬死」と書き、義教を嫌っていたことがわかる。

 幕府が翌日、評定を開いて次期将軍を義教の長男、義勝に決め、播磨へ戻った赤松討伐へと動き始めた。赤松勢はわずか5百人余りが城を守るだけで幕府軍2万人によって討伐された。赤松満祐は義教の首を落とした安積行秀の介錯で切腹して、一族69人も運命をともにした。

 暗殺された6代将軍・義教は恐怖政治で日本の秩序を維持しようとしたが、暗殺以降、足利将軍は有力大名の利権に利用される道具になってゆく。義教の死によって幕府や将軍の権威は大きく低下し、二度と復活することはなかった。

 さらに将軍の後継者争いに、大名同士の勢力争いが複雑にからみ、「応仁の乱」が勃発する。10年にも及ぶこの戦争によって京都が一面の焼け野原と化し、日本は実力本位の戦国時代に突入する。