くじ引き将軍

上杉禅秀の乱

 1408年に第3代将・足利義満が急死した後、第4代将軍の足利義持は管領の斯波義将らの支持があって室町幕府は安定していた。

  鎌倉府は室町幕府が関東統治のために設置した機関で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、関東管領職は上杉氏による世襲状態であった。1416年、前の関東管領であった上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏と対立し、上杉禅秀が鎌倉の御所を急襲した。この上杉禅秀と足利持氏の2人はもともと仲が悪く、急襲する前年に上杉禅秀 の家人の領地を、足利持氏が没収したことから確執が表面化していた。

 またこの頃の上杉氏は、山内、犬懸、詫間、扇谷の4家が争い、関東管 領である山内上杉氏の上杉憲基とも仲が悪かった。そこで上杉禅秀は、足利持氏の叔父である足利満隆や、甲斐守護の武田信満、相模守護の三浦高明などと手を組んで挙兵したのである。鎌倉の御所を急襲された持氏は鎌倉を脱出すると、駿河守護の今川範政の保護を求めた。そこで将軍の足利義持は持氏の支援を決定し、幕府軍を派遣して上杉禅秀は味方を次々と失い鎌倉で自害した。なお足利義満が生前可愛がっていた義持の異母弟である足利義嗣(よしつぐ)を上杉禅秀に 通じていたとして処刑した。(上杉禅秀の乱)

 

くじ引き将軍・義教の恐怖政治

 1395年、足利義満は将軍職を息子の足利義持に譲ったが、実際には義満が権力を持っていた。しかしその義満も1408年に急死しすると、義持だけの時代になった。その頃から少しずつ室町幕府の体制に揺らぎがみられるようになる。それでも第4代将軍・足利義持は管領の斯波義将らの支持があり将軍の位は低下を予感させれだけであった。足利義持は強い幕府を目指して15歳の息子の足利義量に将軍位を譲るが、この第5代将軍足利義量は生来病弱にも関わらず大変な酒飲みあった。そのため父親の義持は幕府の要職にある者を集め「義持の許可なく、義量に酒を飲まさない」と誓約書を書かせたほどであった。しかし酒の飲み過ぎのせいか、義量は19歳の若さで急死してしまう。
 第5代将軍の足利義量の頃の室町幕府は、九州地方が有力守護の支配を受け、鎌倉公方が幕府の命令に従わず、半独立状態になったりするなど常に不安定な状態が続いた。

 父親である第4代将軍義持が代わりに政務をとったが、1428年に重病になり、このままでは将軍家の血筋が絶えてしまう危機が訪れた。足利義持は義量以外に息子がいなかったた。さらに「重臣たちが納得する将軍でなければ意味が無かろう」と云って、管領たちに後継者選びを任せたのである。

 義持は後継者を指名しなかったが、それは将軍の権威が弱かったため、自分が後任の将軍を指名しても、守護などから反発を受けると予想していたからである。

 第6代将軍を誰にするかを任された重臣たちは、思案の結果、義持の弟たち、つまり義満の4人の息子の中から選ぶことになった。しかしこの4人は全員とも僧籍に入っていた。困りはてた重臣たちは、籤(クジ)引きで決めることにした。

 京都の石清水八幡宮の神前で籤を引くことになり、その結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主の義円が次期将軍に選ばれた。35歳の義円(後の義教)は10歳で僧籍に入っていた。義円は将軍になることを何度も断るが、重臣たちは「神の思し召しに、良い悪いと言うな」と云って説得した。

 足利義教は第6代将軍につくことを承諾するが、籤(くじ)によって選ばれたことを「自分は神様に選ばれた将軍である」と解釈して、就任後は強気の政治を実行した。

 まず義教は弱体した幕府権威の復興を目指しが、守護たちに政治を任さない将軍親政を復活させた。

 第6代将軍・足利義教は将軍の権力を高めようとして、義 教はまず就任の際に有力守護から「将軍を無視して勝手なことをしない」こと、と証文を取り、中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤し、その財力 で奉公を整備して将軍直属の軍事力を強化した。さらに九州地方に攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現した。

 義教はかつて 天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、それまでの将軍とは違って宗教に対する畏怖を全く持っていなかった。義教と延暦寺とはやがて内戦状態 となるが、義教が最後までぶれることなく、厳しい姿勢を崩さなかった。そのため絶望した延暦寺は、1435年に総本堂である根本中堂に火をかけて、多数の 僧が焼身自殺した。義教は宗教勢力を完全に支配下に置くことになった。

 比叡山延暦寺の焼き討ちといえば織田信長が有名であるが、それよりも100年以上も前に、武力によって延暦寺を支配した将軍がいたのである。

 鎌倉公方の足利持氏は「自分にも将軍になる権利がある」と足利義教に従わなかった。義教は将軍の命令に逆らい続けたため、義教は関東へ出兵し、1439年に持氏持氏を滅ぼした。この争いは永享の乱(えいきょう)と呼ばれている。

 1440年、足利持氏の遺児を擁して結城氏朝らが挙兵するが、義教はこれをも滅ぼした。この戦いを結城合戦という。このようにして鎌倉を支配下に置いた義教の権力は絶対的なものになり、古代の盟神探湯(くかたち)を復活させたり、些細なことで激怒して斬首などの厳しい処断を下した。「梅の枝が折れた」と庭師を殺し、「料理がまずい」と言っては料理人を殺した。気に入らない大名の首をすげ替え、所領を没収するなどわがまま放題ぶりを発揮し、身内からも恐れられた。義教の狂気・残虐性に対して守護大名たちは「万人恐怖の状態」に震え上がり、周囲は薄氷を踏む思いだった。

 義教にしてみれば幕府や将軍の権威を高めるためだったが、余りにも強引な専制政治は、必然的に守護大名の反発を招くことになる。些細なことで殺された者にとっては迷惑なことであるが、義教にとっては12年間の将軍時代は神に託された自信があった。しかしこの義教の恐怖政治は、突然その幕を閉じる。

 1441年、幕府は反旗を翻した下総の結城氏朝らの反勢力を一掃すると、播磨守護・赤松満祐が義教を二条堀川の自邸に招いて戦勝祝賀会を開くことになった。「かわいい鴨の子が、たくさん庭の池で泳いでいますので、ぜひとも」という満祐の誘いに義教は疑いもせず、わずかの手勢を連れて赤松邸に入り供宴を楽しんでいた。

 その宴の最中、突如として乱入してきた甲冑姿の数人の武者たちに取り押さえられ、有無を言わさず安積行秀が首をはねられた。刀ひと振りで首は宙を舞い、第6代将軍・足利義教はあっけない最後を迎えた。

 赤松満祐と足利義教との関係は良好だったが、赤松満祐の弟が所領を没収されると、次は自分の番と赤松満祐は猜疑心に震えていたのだった。

 義教は恐怖の独裁者だった。強権ゆえに家来や守護大名から人気はなく、首のない義教の遺体の引き取り手はなく赤松の屋敷に置き去りにされた。息子を義教の力で天皇に即位してもらった伏見宮貞成親王でさえ、日記に「自業自得の犬死」と書き、義教を嫌っていたことをわかる。

 幕府が翌日、評定を開いて次期将軍を義教の長男、義勝に決め、播磨へ戻った赤松討伐へと動き始めた。赤松勢はわずか5百人余りが城を守るだけで幕府軍2万人によって討伐された。赤松満祐は義教の首を落とした安積行秀の介錯で切腹して、一族69人も運命をともにした。

 暗殺された6代将軍・義教は恐怖政治で日本の秩序を維持しようとしたが、暗殺以降、足利将軍は有力大名の利権に利用される道具になってゆく。義教の死によって幕府や将軍の権威は大きく低下し、二度と復活することはなかった。

 さらに将軍の後継者争いに、大名同士の勢力争いが複雑にからみ、「応仁の乱」が勃発する。10年にも及ぶこの戦争によって京都が一面の焼け野原と化し、日本は実力本位の戦国時代に突入する。