くじ引き将軍

くじ引き将軍

 室町幕府の初代将軍は足利尊氏で、2代将軍は嫡男の義詮(よしあきら)で、3代将軍・足利義満は将軍職を息子の足利義持に譲ったが、実際には義満が権力を振舞い室町幕府の勢力は頂点を極める。

 その足利義満が1408年に急死すると、4代将軍は足利義持の時代になり、その頃から徐々に室町幕府の体制が揺らぎ始めた。

 それでも4代将軍・足利義持は管領・斯波義将らの支持があり、将軍の勢力の低下はそれを予感させれだけであった。足利義持は強い幕府を目指し15歳の息子の足利義量(よしかず)に将軍の地位を譲ったが、この5代将軍・足利義量は生来病弱でありながら大酒飲みであった。

 そのため父・義持は幕府の家臣を集め「私の許可なく、義量に酒を飲ませてはいけない」と誓約書を書かせたほどである。しかし酒の飲み過ぎのせいか、義量は19歳の若さで病死してしまう。父・足利義持は5代将軍・足利義量の代わりに政務をとっていたが、義持には義量以外に息子がいなかったため、次の将軍家の血筋が絶えてしまうことになった。

 5代将軍の足利義量の頃の室町幕府は、九州地方は有力守護が支配し、鎌倉公方は幕府の命令に従わずに関東は独立状態にあり、幕府そのものが不安定な状態にあった。その義持も41歳の若さで病床につくと「重臣たちが納得する将軍でなければ意味がない」と云って、義持は次の将軍選びを任せたのである。

 4代代将軍・足利義持が、5代将軍次の後継者を指名しなかった。それは将軍の権威が弱かったため、自分が後任の将軍を指名しても、管領たちから反発を受けると予想したからである。

 6代将軍を誰にするかを任された重臣たちは、幸いにも賢明な判断のできる人達だった。しかし思案の末、義持の4人の弟たち、つまり3代将軍・足利義満の4人の息子の中から選ぶことになった。しかしこの4人は全員ともに僧籍に入っていた。困った重臣たちは籤(クジ)引きで将軍を決めることになった

 京都の石清水八幡宮の神前で籤を引くことになり、義持死亡の翌日に籤(クジ)が開封され、その結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主の義円が次期将軍に選ばれた。義円は

 35歳の義円(義教)は10歳で僧籍に入っていたので将軍につくことを何度も断るが、重臣たちは「神の思し召しに、良い悪いと言うな」と重ねて神託として強く要請したのである。

 足利義教は6代将軍につくことになるが、籤(くじ)で選ばれたことから偶然将軍になったのではなく「自分は神に選ばれて将軍になった」と信じた。将軍に就任するととんでもない強気の政治を実行した。当時は卜占(ぼくせん)が信じられ、神は神聖であり、籤は一種の神事であり神の意志と捉えられた。多くが神託を信じていたため、そのように考えても不思議ではなかった。

 

義教の恐怖政治

 義教は「自分が将軍になったのが神の意志ならば、土地を巡る紛争や犯罪について将軍の判断を求められたら、神の判定に頼ろう」として、は古代の盟神探湯を復活させた。盟神探湯とは「争う両者に煮えたぎる釜の中に手を入れて石を取り出させて火傷の激しい方が敗訴」とする方法であった。

 将軍継承が決まって三ヶ月後、足利義教は最初の問題に直面した。それは称光天皇が後継者を生まずに、若くして崩御したのである。足利義教は後小松川上皇と相談して、崇光上皇のひ孫にあたる皇子・彦仁王様を次の天皇にした。しかしこれは「大覚寺統と持明院統の両統から交互に天皇に出す」という約束を破るもので南朝勢力の反発を受けたが、足利義教は反発を完全に無視して強行した。これにより南朝の血筋は歴史から消えてしまった。

 6代将軍・足利義教は弱体した幕府権威の復興を目指し、守護たちに政治を任せず将軍独裁の親政を復活させた。また将軍の権力を高めようとして、有力守護から「将軍を無視して勝手なことをしない」と証文を取り、中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤し、その財力で奉公を整備して将軍直属の軍事力を強化した。さらに九州に攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現した。

 将軍・義教はかつて 天台座主として宗教界のトップに君臨していたので、それだけにそれまでの将軍とは違い宗教に対する畏怖を全く持っていなかった。

 将軍・義教と延暦寺はやがて内戦状態となるが、義教が最後までぶれることなく厳しい姿勢を崩さなかった。そのため絶望した延暦寺は、1435年に総本堂の根本中堂に火をつけ24人の僧侶が焼身自殺した。義教は宗教勢力を完全に支配下に置いたのである。

 比叡山延暦寺の焼き討ちといえば織田信長で有名であるが、それよりも140年前に、足利義教は武力によって延暦寺を砲撃したのである。

 鎌倉公方の足利持氏は「自分にも将軍になる権利がある」として足利義教に従わなかった。そのため足利義教は関東へ出兵し、1439年に足利持氏を滅ぼした。この争いは永享の乱(えいきょう)と呼ばれている。

 1440年には結城氏朝らが足利持氏の遺児を擁してが挙兵するが、義教はこれをも滅ぼした。このようにして鎌倉を支配下に置いた義教の権力は絶対的なものになり、些細なことで激怒すると斬首などの厳しい処断を下した。

 

万人恐怖

 公家が笑っただけで自分を馬鹿にされたと思い込み、所領没収にうえ蟄居を命じた。一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の民衆が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。

 猿楽においては音阿弥を重く用いる一方で、世阿弥を冷遇して佐渡へ配流した。日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。

「梅の枝が折れた」と言っては庭師を殺し「料理がまずい」と言っては料理人を殺し、酌の仕方が下手だとして侍女は殴られ尼にさせられた。またある時は「返事の仕方が悪い」と怒り、侍女は撲殺された。

 気に入らない守護大名の首をすげ替え、所領を没収するなどやりたい放題ぶりに義教は身内からも恐れられた。義教の狂気・残虐性に対して守護大名たちは「恐怖に震え上がり」周囲は薄氷を踏む思いだった。

 義教と側室・日野重子とのあいだに長男の義勝が生まれた。重子の兄・義資は、義教の怒りを買って謹慎中だったが、人々は「めでたい男子誕生で謹慎も解けるだろう」と義資のところに60人がお祝いに行った。ところが義教は「俺が処罰している者にお祝いにゆくとは、俺を馬鹿にしている」とお祝いに行った全員を処罰した。しかも義教は重子の兄・義資をも暗殺した。さらに「暗殺は義教の仕業」と密かに語った者を硫黄島へ島流しにした

 また宮中では「自由恋愛が流行っている」と聞くと、発覚次第、女は尼に、男は死罪となった。

 将軍・義教にしてみれば幕府や将軍の権威を高めるためだったが、余りにも強引な独裁政治は、必然的に守護大名の反発を招くことになる。些細なことで殺された者にとっては迷惑以外の何物でもないが、暴君・義教にとっては12年間の将軍時代は神に託されたという自信があった。しかしこの義教の恐怖政治は、突然その幕を閉じことになる。

 

将軍の暗殺

 1441年、室町幕府は反旗を翻した下総の結城氏朝らを一掃すると、播磨守護・赤松満祐が「籤引き将軍・義教」を二条堀川の自邸に招き、戦勝祝賀会を開くことになった。「かわいい鴨の子が、たくさん庭の池で泳いでいますので、ぜひとも」という赤松満祐の誘いに義教は疑いもせず、わずかの手勢を連れて赤松邸に入り供宴を楽しんだ。

 その宴の最中、突如として乱入してきた甲冑姿の数人の武者たちに義教は振り向く時間もなく押さえられ、有無を言わさず安積行秀によって義教の首ははねられた。刀ひと振りで首は宙を舞い、第6代将軍・足利義教はあっけない最後を迎えた。

 足利義教を暗殺した赤松満祐との関係は最初は良好だった。しかし赤松満祐の弟の所領を没収されると、次は自分の番と満祐は猜疑心に震えていた。

 義教は恐怖の暴君だった。強権ゆえに家来や守護大名からの人気はなく、首のない義教の遺体の引き取り手はなく、赤松の屋敷に置き去りにされた。息子を義教の力で天皇に即位してもらった伏見宮貞成親王でさえ、日記に「自業自得の犬死」と書き、義教を嫌っていたことがわかる。

 幕府は翌日、評定を開いて次期将軍を義教の長男・義勝に決め、播磨へ戻った赤松討伐へと動き始めた。赤松勢はわずか500人余りが城を守るだけで幕府軍2万人によって討伐された。赤松満祐は義教の首を落とした安積行秀の介錯で切腹し一族69人は運命をともにした。

 暗殺された6代将軍・義教は恐怖政治で日本の秩序を維持しようとしたが、この義教暗殺以降、足利将軍は有力大名の利権に利用される道具になってゆく。義教の死によって幕府や将軍の権威は大きく低下し二度と復活することはなかった。

 さらに将軍の後継者争いに、大名同士の勢力争いが複雑にからみ「応仁の乱」が勃発する。10年にも及ぶこの乱によって京都が一面の焼け野原となり、日本は実力本位の下克上の時代に突入した。

鎌倉公方(関東公方)の誕生
 室町幕府は足利尊氏が築いたが、その政治基盤はかなり脆弱だった。いわゆる南北朝問題や尊氏と弟・直義の間に確執があり、そこに執事の高師直(こうのもろなお)がからみ、室町時代の初期の政局は不安定だった。
 将軍が京都を離れると有力者に天皇を奪われ、クーデターが起きる危険があった。そのため室町幕府の中心を鎌倉ではなく京都にせざるをえなかった。かつて鎌倉幕府があった関東は豪族(国人、国衆)の勢力が強かったため、室町幕府は鎌倉に公方府(くぼうふ)をおいて統治させ地方分権とした。これが鎌倉公方府(鎌倉府)で、その長官を「鎌倉公方」と呼んだ。
 最初の鎌倉公方には尊氏の次男・足利基氏が任命され、関八州(相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野)と甲斐と伊豆を加えた10カ国を統治させた。この鎌倉公方の名称は政庁の置かれたのが鎌倉だったからで、正確には「関東公方」と呼んだほうが理解しやすい。しかし関東公方の座を巡って足利一族で争い鎌倉公方、堀越公方、古河公方が乱立した。

 

上杉禅秀の乱

 1408年に3代将軍・足利義満が急死するが、次の第4代将軍の足利義持は管領・斯波義将らの支持があって室町幕府は比較的安定していた。鎌倉公方は室町幕府が「関東統治のために設置した機関」で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、関東管領職は上杉氏による世襲であった。

 やがて上杉氏は山内、犬懸、詫間、扇谷の4家に分かれ争うことになるが、鎌倉公方は関東管領である犬懸家の上杉禅秀とは仲が悪かった。また鎌倉公方の足利持氏は将軍の座を望んだが叶えられず、結果くじ引きで選ばれた足利義教が6代将軍になった。足利持氏は自分が将軍になるつもりでいたので鎌倉公方・足利持氏は室町将軍・足利義教と仲が悪かった。

 足利持氏(もちうじ)が4代目の鎌倉公方となり、犬懸家の上杉禅秀(氏憲)が関東管領に就任したが、足利持氏と上杉禅秀が対立した。足利持氏は上杉禅秀を罷免して、山内家の上杉憲基を関東管領し、さらに上杉禅秀の領地を没収した。これに憤慨した上杉禅秀は、1416年、足利持氏の叔父の足利満隆、甲斐守護の武田信満、相模守護の三浦高明と手を組んで挙兵した。
 元関東管領の上杉禅秀は足利持氏に悟られぬように策を練り、油断していた足利持氏は上杉禅秀の挙兵を知ると、鎌倉の御所を脱出して山を越え、海岸沿いの上杉憲基邸に逃げ、さらに駿河の今川範政を頼って脱出した。鎌倉公方不在の鎌倉は関東管領・上杉禅秀の制圧下に置かれた。
 今川範政が足利持氏を擁して室町幕府に援助を求めると、将軍・足利義持が天皇から上杉禅秀討伐の御教書を発してもらい幕府軍を派遣した。そのため上杉禅秀から多くの武士が離れ大勢が逆転した。

 足利持氏を擁した今川範政が鎌倉に軍を進めると、上杉禅秀らは鶴岡八幡宮のの雪ノ下の坊(僧坊)に籠もり自刃した。上杉禅秀邸があった佐助ヶ谷は戦火に巻き込まれ、禅秀が建立した国清寺が焼失した。この上杉禅秀の反乱によって犬懸上杉家は没落することになる。

 また足利義満が生前可愛がっていた義持の異母弟である足利義嗣(よしつぐ)は上杉禅秀に通じていたとして処刑された。これらを上杉禅秀の乱といった。

 この上杉禅秀の乱が鎮圧されると、足利持氏が鎌倉に復帰したが、翌年に関東管領の上杉憲基(のりもと)が27歳の若さで急死し、後任にはわずか10歳の上杉憲実(のりざね)が就任した。本来公方を補佐するべき関東管領が公方より若年という事態となった。そうなると鎌倉公方・足利持氏を諌める者はいなくなり、足利持氏は独裁的にふるまい、幕府(将軍)を軽視するようになった。

 京都の情勢が安定するにつれて関東も支配しようとする将軍家と、既得権を守ろうと抵抗する鎌倉公方が対立するのは当然の成り行きであった。

 関東管領・上杉憲実は幕府と鎌倉府との関係改善に努めたが、足利持氏は逆に上杉憲実を遠ざけた。暗殺の噂まで出はじめたため、上杉憲実は管領職を辞職し上野国へ下るが、これを上杉憲実の反逆と見た持氏は討伐軍を差し向けた。

 上杉憲実は足利持氏と嫡男・義久の公方就任を将軍・足利義教嘆願したが、足利義教はこれを許さず、ふたりは最終的に自害させられ、この結果、鎌倉府は滅亡しることになる。

 ところが2年後、義教が実子を鎌倉公方とすると、結城氏朝ら北関東の国衆が、難を逃れた足利持氏の次男・春王丸と三男・安王丸を奉じて挙兵し「結城合戦」が起こる。この反乱は幕府方の上杉清方(きよまさ)らによって鎮圧され、結城氏朝は討死し、春王丸と安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって殺害された。
 その後、生き延びた持氏の4男・永寿王丸が足利成氏(しげうじ)として再興し鎌倉府に戻り鎌倉公方となった。鎌倉府が再興したのは将軍・義教が暗殺され、中央の支配体制が弱体化したためである。

 

鎌倉公方、堀越公方、古河公方
 足利成氏が鎌倉公方になると上杉方に襲撃され、依然として関東は緊張下にあった。さらに幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わると、細川勝元は鎌倉公方から関東の支配権を奪おうとした。このような鎌倉府内外の軋轢の中、1454年に足利成氏は、憲実の嫡男で関東管領を継いでいた上杉憲忠(のりただ)を謀殺する。これが以後30年間におよぶ「享徳の乱」の勃発となった。
 この戦いは関東を二分して、各地で戦闘がおこなわれた。幕府は足利成氏を朝敵として、駿河守護・今川範忠(のりただ)を上杉氏の援軍として差し向ける。今川範忠が鎌倉を制圧すると、足利成氏はあらたに下総古河を本拠として抵抗をつづけた。そのため成氏は「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれるようになる。幕府は古河公方への対抗措置として、将軍・義政の兄・政知(まさとも)を正式な新・鎌倉公方とした。しかし足利政知は鎌倉に入れず、その手前にある伊豆の堀越にとどまり、ここに御所をおいたので「堀越公方」と呼ばれた。