織田信長

 織田信長は群雄が割拠する戦国大名の中で、中世的旧体制を徹底的に破壊し、合理的な革命を起し、先進的な戦術と天才的な才能で戦国の覇者となった。まず桶狭間の戦いで「今川義元」を少数の兵で討ち破りその名を轟かせた。全国の大名の多くが隣国との国境をめぐる「領土争い」に明け暮れるなか、美濃(岐阜県)の大名・斎藤氏を攻略して支配すると、信長は誰よりも早く「天下布武」の旗を掲げ、武力によって次々と敵勢力を攻め滅ぼしていった。

 織田信長は安土に壮大な居城を築き、天下取りを目前にしていた。同時に「楽市楽座」や「鉄砲戦術」など次々に新しいシステムを生み出し、家臣たちを頭ごなしに恫喝して支配する恐怖の上司でありながら、何と言っても天才型の傑物で高い人気がある。

 さらに天皇より自分が上位と信じ、遂には「余は神である」と言い、自分を第六天魔王と自称した。この日本人離れした思考と行動力で、まさに戦乱の時代を駆け抜けようとしたが、天下統一を目前にして、明智光秀による「本能寺の変」で殺害された。織田信長の怒涛のごとき人生はわずか49年で終わった。

 本能寺の変は、邪馬台国、坂本龍馬の暗殺と並ぶ「日本史の3大謎」とも言われるくらいで、明智光秀の裏切りの本音は明らかではない。

 織田信長は殺害され、家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄であるが、信長には悲劇を感じさせない力強さがある。

 

織田信長の生涯

 織田信長の生涯を大雑把に区分してみると5つに大別できる。
【第一期~国内混乱期】
 13才で元服した信長は18才で家督を継ぎ、そこから桶狭間の戦い(27才)まで約10年の月日を要している。
【第二期~天下布武の旗揚げ】
 さらに7年後に岐阜城落城させ、34才で天下布武を掲げる。天下取りの土台作りにかなりの時間がかかっているのが理解できる。
【第三期~信長包囲網】
 岐阜を支配した後、京都への道筋を確保しながら、幾度も危機におそわれた。浅井・朝倉の挟撃に遭い、足利義昭、本願寺、武田、機内の諸勢力に包囲され、争いの終着点となる本願寺との和睦(1580年)まで10年もの歳月がかかっている。
【第四期~勢力の急拡大】
 明智光秀、豊臣秀吉(羽柴秀吉)、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀など有能な家臣たちに、それぞれに方面軍を組織させ、織田軍を全国へ展開させた時期である。
【第五期~人間五十年の最終章】
 まさしく電光石火で天下統一を目前にして本能寺の変で死去する。

 

戦国時代

 室町幕府は応仁の乱以降、その実権を失い、将軍家を取り巻く管領は私利私欲のために将軍を飾り物にして利用するようになった。

 このような情勢下であったが、人々は生きるために強い者に身を寄せて日々を暮らさなければならなかった。身を寄せたのは本願寺などの武装した宗教団体の場合もあれば、堺などの武装商人町の場合もあった。しかし最も多かったのが戦国大名であった。

 戦国大名とは、室町幕府の地方行政機関が、独自の武力と政治機構を持ち、幕府の統制から独立した形を持った者である。ただし戦国大名には様々な潮流があり、名も無い庶民が大名家を乗っ取った者(斉藤道三)、小さな土豪が実力で周辺勢力を併呑して巨大化した者(小田原・北条氏、毛利氏、長曾我部氏)などがいる。戦国大名は実力主義の世界で、常に領内の民衆を統治しなければならなかった。すなわち周辺との戦いに勝って、民生を充実させなければならなかった。

 朝倉氏、今川氏、武田氏、長曾我部氏などは、領内に独自の法令を発して民生の充実に努めた。また武田信玄の治水工事(信玄堤)に代表されるように、領内でのインフラ整備にも尽した。

 この戦国時代の戦いの目的は、大名にとっては領土の拡大であるが、農民が生死をかけて戦った理由については、現在の私たちに理解できない生死感や経済感があったのであろう。

 

下克上の時代

 戦国時代の特徴は完全な実力主義で、どのような名門でも能力がなければ簡単に滅ぼされた。まさに下克上の時代で、そのため斉藤道三や北条早雲のような流れ者が、美濃の土岐家や小田原の大森家を乗っ取るようになった。全国各地には大小多くの戦国大名が乱立していたが、大名たちは自分たちの領地を支配し、あわよくば隣国を征服しようと狙っていた。

 平安末期の源氏なら敵は平氏だけだが、戦国時代は周囲のすべてが敵になるので、同族であっても油断はならなかった。敵は滅ぼすか、臣従させなくてはならない。敵対していなければ同盟を結ばなければならなかった。
 戦国大名は領内の民意に気を遣っていたが、それは戦国大名が権威に頼れない実力主義だったためで、常に民衆感情に気を配らねばいけなかった。そうでなければその地位を保全できなかった。戦国大名は民意を重視し、戦いに勝ち続けなければならない。戦いに負けて領内の民衆を保護できなければ部下や民衆に見限られ滅亡に追い込まれた。

 応仁の乱から約100年間は、このような戦国大名どうしの地域的な争いが続いていた。しかしその中で天下統一の野望に燃え、その実現に挑んだ人物がいた。もちろん織田信長である。当時、天下を取りたいと思う武将は数多くいただろうが、ほとんどの場合は夢か妄想であり、若いころから途方もない野望と実行力を持ってそれを計画して実行にしたのは信長ただ一人だった。
    我々は信長が新社会の基礎を作り、秀吉が改良し、家康が総仕上げをしたことを知っている。しかし秀吉も家康も、信長の存在なくして、あの大業を成し遂げることはありえなかった。

 

地方政治

 織田信長を語る前に、まず室町時代の地方政治から説明する必要がある。室町時代の足利将軍は自分に忠実な家臣を守護(大名)に任命して、その地域を領国として独立性を持たせた。

 つまり守護は幕府から特定の国(地方)の行政を委託された御家人のことである。もちろん守護を任命するのも罷免するのも足利将軍で、将軍の気分次第で、あるいは守護の忠臣心や失態によって、守護の領土は代えられ、あるいは取り潰された。

 室町幕府にとって守護は地方(国)を治める重要な協力者で、守護は京に常在していため、国許では守護を補佐するための守護代がいた。守護代とは守護の重臣あるいは有力な国人だった。

  守護は守護代や国人を服従させ、あるいは協力させて傘下において勢力を拡大した。しかし室町時代の後半になると、足利将軍の勢力は衰え、時代は下克上の時代になった。

 下克上とは下位の者が上位の者を打倒して上下関係を逆転させることで、国人や守護代は常に守護を見定めていた。守護に統治能力がなければ、あるいは無理な要求を強いるのであれば反抗して立場を逆転させた。戦国時代の足利将軍は飾り物にすぎず、室町幕府の厳令は地方には及ばなかった。

 

父・織田信秀から信長誕生まで

 室町時代の織田家は、尾張(愛知県西部)の守護大名・斯波氏の守護代(筆頭家臣)であったが、守護をつとめていた斯波氏が没落すると、織田家は尾張で勢力を持つようになる。

 しかし信長の父・織田信秀は同じ織田家でも、尾張下四郡を支配する清洲城主(清須市)の清洲織田家の三奉行の一人で、織田本家を支える分家の家来であった。しかし織田信秀が海運の要地である商業港・津島の港を押さえると、経済力を蓄えて徐々に頭角を現し織田本家を凌ぐ勢いになった。織田信秀は17歳で父の生前に家督を継いでいるが、織田信秀は若い頃から信長より優秀だったとされている。

 織田信長は父の死後、「尾張を統一するのに8年間」も苦労を重ねたが、父の信秀は30歳の頃には尾張から美濃や三河の一部までをゆるやかではあるが統一していた。尾張の武士を動員して三河や美濃を攻め、三河では安祥城(安城市)を、美濃では大柿城(大垣市)を手中に収め、知多半島の水野信元も三河の松平(徳川)との同盟を絶って織田信秀につき、信秀は尾張統一から美濃侵攻までを早々と成し遂げていた。

 駿河の今川義元はこれを良しとせず、1542年(信長8歳時)に三河を攻め織田信秀の尾張勢と小豆坂(岡崎)で戦っているが、織田信秀が10倍の軍勢の今川義元を退けている。この頃が織田信秀の絶頂期であったが、これだけの実力がありながら尾張守護代の三奉行の一人という低い立場に変わりはなく、そのため信長も父の死後に苦労を重ねることになる。

 父・織田信秀と信長には多くの共通点が見られる。父・織田信秀は勝幡城、那古野城、末森城を築いて居城を移している。これは当時の戦国大名は生涯あるいは代々拠点城を動かさないことが多く特異な戦略であった。また経済的に勢力を増大すると室町幕府に献金して、第13代将軍・足利義輝にも拝謁している。朝廷には伊勢神宮遷宮のため材木や銭七百貫文を献上し、朝廷の内裏修理料として4000貫文を献上している。織田信秀は「尾張の虎」とよばれるほどの武将であったが、このように経済感覚は親子共々高かった。

 尾張の他勢力を牽制しつつ、三河の松平清康・美濃の斎藤道三・駿河の今川義元らと争うが信秀は病に倒れ、1551年、織田信長は父・信秀の急死により、18歳で織田家の家督を継いだ。
 当時、信長の織田家の身分は、尾張の南半分を支配する織田大和守家の家来に過ぎず、信秀が一代で大きく勢力を伸ばしたが、それを奪おうとする者が多くいた。信長はそれらの敵を打倒して、弟の信勝を含め他の織田家を滅ぼして尾張を統一したのである。

 信長が尾張を統一したのは19歳の頃で、尾張を統一までに8年の歳月を要している。この統一の翌年、今川義元の侵攻を受けることになる。

 (下左:織田信長肖像画、三寳寺。下右:狩野元秀画/長興寺の織田信長)

誕生からうつけ時代

 1534年、織田信長(幼名:吉法師)は織田信秀の嫡男(三男)として尾張の勝幡城(しょばた)で生まれ、那古野(名古屋)城で育った。嫡男といっても別腹の信広と信時の二人の兄がいたが、信長が正室(土田御前)の長男だったことから嫡男とされた。妹にはお市の方(淀君の母)がいた。

 信長は赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳首を噛み切ったため、乳母捜しに苦労したとされている。なお「生まれた時から歯が生えていた」とされているが、この説話は偉人伝ではしばしば見られることである(弁慶など)。

 幼少から少年にかけての信長は不安定な時期だった。奇行や奇抜な行動が多く、信長は12歳で元服して織田三郎信長を名乗ったが、この頃の信長は粗暴な振る舞いが多かった。この時期、信長の父・信秀はさかんに隣国の美濃・三河に遠征を繰り返しており、その戦費として膨大な金を投入していた。信秀は那古野城の経費をかえりみず、軍事に有り金をはたいていた。信長にとっては「城付きの捨て子」のような状態であった。物心がついていくなかで、この境遇が信長の精神形成に及ぼした影響の大きいことは容易に想像がつく。

 また母親の愛情が織田信長から弟・信行に移り、実母から愛されず不遇な少年時代を過ごした。この事が奇行(現代の言葉で言えば「グレている」)の要因とされている。

 入浴の際に着る浴衣を普段着にして、まげは毛先を茶道で使う茶筅(ちゃせん)のように結び、紅や黄色の派手な糸で巻き上げていた。腰を縄紐でしばり、瓢箪(ひょうたん)を八つぶら下げ、肩をだらしなくお供にもたれ掛け、平気で栗や柿を手掴みで食うなどして城下の大通りを練り歩いた。この様子を見た世間の者は信長を「尾張の大ウツケ(大ばか者)」と呆れていた。しかし信長は、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れる日々を過ごしていた。

 なお瓢箪(ひょうたん)を八つぶら下げていたが、瓢箪には古くから縁起物で魔除けとされている。豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」が好例であるように、瓢箪は作物の種の入れ物として使われ、酒や水、油の入れ物であり、外傷の消毒にも使われていた。

 織田信長は父・信秀を見て育ったため、たとえ優秀でも自分は織田家の分家にすぎず、守護・守護代などの安定した地位でないことを悟っていた。うつけは「しきたりを重んじる風潮」に反発する気持ちが強かった。この「うつけ」ぶりは、織田大和守家の支配する清洲城下に数騎で火を放ったことが信長公記に書かれている。
 このうつけであるが、これを信長特有の合理性と受け止めることもできる。浴衣の袖を切った服装は、行動しやすいための工夫であり、仲間でつるんで馴れ馴れしく町を練り歩くのは、自分の手足となる親衛隊を育成するためで、それが世間からは「うつけ」と映ったのであろう。

 実力主義の戦国時代である。家臣といえども、いつ裏切るかわからない。自分の力を強め、存在感を高めるための「うつけ」だった。あるいは周囲を油断させるための演技だったかもしれないが、むしろ信長が優秀すぎて周囲の常識と違っていたと受け止めた方が良いだろう。いずれにしても自分の敵・味方を「うつけ」によって明確に知ることができた。

 若いころの織田信長は手の付けられない「うつけ」だった。当時、上級武家の子息たちは蹴鞠などの作法を行儀をよく勉強していたが、信長が好んだ馬の教練などは、常に生死の問われる戦国武将にとってはむしろ自然だった。尾張・清須城主下4郡の守護代に過ぎなかった織田家が、特に織田信長によって勢力を拡大したのは「うつけ」であっても「うつけ」でなくても、それだけの家臣の熱い忠義と兵の士気を高める力を持っていたからである。

 また松平竹千代(徳川家康)は今川氏へ人質として護送される途中、松平家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されて、信長と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶことになる。

 

あまが池

 清洲城から5.5キロほどを真東に進むと庄内川の河畔の堤防とぶつかるのだが、この堤防の内側には「あまが池」という名の池がある。ある日、この池に恐ろしい大蛇が出るという噂が立ち大騒ぎになった。

 村人によれば大蛇の太さは一抱えもあり、赤い舌を出し、目は星のごとく輝いているとのことであった。 この噂を聞きつけた信長は村人から話を聞くと「明日、池の水を掻き出して大蛇を見つけ、退治する」と言い出したのである。

 1月下旬の寒い時期であった。信長は周辺9カ郷村の農民たちををかり集めると、池の水を汲み出させた。しかし4時間ぶっ通しで汲み上げても7分目までしか水は減らず、業を煮やした信長は脇差を口に咥え池に飛び込んだ。しばらく潜ったあとあがってきた信長は「なかなかに大蛇らしき物はおらぬ」と言うと、家来にも潜らせ大蛇を探させたが見つからなかった。信長は諦め清須へ引き上げたが、このことは好奇心が旺盛で、何でも徹底して行う信長の性格を示している。

 池の水も凍るような正月下旬の厳寒の中で、しかも信長自身が命の危険をかえりみずに池水に潜っているのだから尋常ではない。この池はこれをきっかけに「蛇池」とよばれ、現在では桜の名所として「蛇池千本桜」の名で住民に親しまれている。

 この頃から合理的主義者の信長は神仏の存在を全く認めていなかった。父が病気になった際、病気が回復すると保証した祈祷師・仏僧らを「虚偽を申し立てた」として寺院に監禁し、外から戸を締め「今や自らの生命に念を入れて偶像を拝むがよい」と言い放ち、鉄砲隊に包囲を囲ませ射撃の命令を下した。信長は生き残った仏僧を指さし「あそこにいる欺瞞者どもは、民衆を欺き己れを偽り、虚言を好み傲慢で僭越のほどはなはだしい。予は幾度も彼らを殺害し殱滅しようと思っていた。しかし民に動揺を与えぬため、民に同情して彼らを放任している」と話している。

 

 斎藤道三との同盟

 信長14歳の時、父・信秀は尾張の半分を手中に収め、隣国の三河へも手を伸ばしていた。さらにもうひとつの隣国・美濃への進攻は何度も挑戦するがうまくゆかなかった。駿河の今川義元がいずれ攻めてくることが分かっていたので、信秀は美濃の斎藤道三と同盟を結び今川家と戦うことにした。

 斉藤道三は美濃から大名・土岐氏を追い出して以降、織田家と斉藤道三はたびたび戦っていた。斉藤道三の美濃は朝倉氏の越前とも接し、しかも近江(滋賀)の六角氏は斉藤道三が乗っ取った土岐頼芸の嫁の実家だった。そこで織田家との同盟の利を悟った道三は、織田家と縁組をして同盟を結ぶ事にした。そのため斉藤道三は娘を織田家に嫁がせることにするが、これはもちろん政略結婚で、この同盟の証として、信長は斉藤道三の娘・濃姫を娶ることになった。

 斎藤道三は油売りの商人から美濃国の守護・土岐氏に取り入って国を乗っ取った下剋上の代名詞といえる人物である。美濃のマムシと恐れられた道三は、うつけと評判の娘婿の器量を見ておこうと、濃尾国境の木曽川に近い富田の聖徳寺で信長と会うことにした。

 会見前に斉藤道三は信長の通り道の民家に潜 み、「うつけ」の様子を前もって見ておこうとした。すると織田の軍勢はまるで戦に行くかのように長柄の槍や鉄砲隊を道三に見せつて武装し整然と行軍してきた。しかしやがて見えてきた信長の風貌にはあきれてしまった。信長はいつものように、半身の着物をはだけ、腰に瓢箪をぶらさげ、馬に跨っていたのだった。斎藤道三は「あの軍勢、あの武装にはいささか目を覚ましたが、うつけ殿は、やはりうつけよ。わざわざ会見するほどでもない」と失望した。
 斎藤道三は会見場の正徳寺に入ると「あのうつけに会うのに正装ではなく平服でよい。うつけ殿が参られたら、ちと待たせておけ」と言った。そこで信長の到着を聞いたが、すぐには会見場には行かなかった。
「失敬、これはお待たせ致した」と、道三が会見の間に入り信長を見ると、そこには正装した凛々しい信長の姿があった。道三は信長の正装にド肝を抜かれるが、信長は毅然とした顔つきであった。
 斎藤道三の側近・堀田道空が、「山城(道三)殿でござる」と促すと「で、あるか」と、信長は尊大な態度で答え会見が始まった。斎藤道三はすぐに織田信長の器量を見抜き「わしの息子たちは、将来あの信長の配下になるだろう」と述べた。

 1561年に斎藤道三は息子の義龍に長良川で討たれるが、死の前日には美濃国を譲渡する内容の手紙を織田信長に送っている。

 

平手政秀

 重臣・平手政秀は信長が幼い時からの教育係であったが、信長の奇行が続いたことから信長の素行を諫める為に切腹して果てた。教育係の平手政秀は、死をもって信長を諌めたのである。信長はすぐに平手政秀の元に駆けつけると、平手政秀の死を深く嘆き悲しみ、その死をいたんで政秀寺(愛知県小牧市)を建立し、臨済宗の沢彦宗恩(たくげん そうおん)にその霊を弔わせている。

  後に尾張が統一された時、側近が「ここまで尾張の国が強大になるとは知らずに、平手政秀が自害したのは浅薄だった」と言うと、信長は「こうやって弓矢をとれたのは、みな政秀が諫死してくれたからだ。わしが自分の恥を悔やんで過ちを改めたからで、古今に比類ない政秀を短慮と言う貴様の気持ちが口惜しいわ」と顔色を変えて激怒した。

(下段右:あまが池)

濃姫

 織田信長の正室となった濃姫であるが、濃姫の史料はほとんどなく、濃姫がどのような人物だったのか謎に包まれている。そもそも斎藤道三の娘・濃姫は「美濃から来た姫」という意味の呼び名で本名すらわかっていない。

 濃姫は謎に包まれているが、尾張との関係を友好に保つため、斎藤道三が政略結婚で送り込んだスパイで、道三が「ことあれば信長と刺し違えよ」と短刀を渡すと、「分かりました。でももしかしたらこの刀で父上を刺すかもしれません」と答えた。この様に濃姫の気の強さを示す逸話が残されている。

 織田家に嫁いでからしばらくたった頃、信長は夜中、寝床をたびたび抜け出すようになった。これを不審に思った濃姫は、さりげなく信長に尋ねると、信長は「美濃の重臣たちが、すでに織田家に寝返っている。やつらは斎藤道三を殺すと狼煙をあげることになっている。だから夜な夜な高台で狼煙があがるのを待っているのだ」と濃姫に話した。これを聞いた濃姫は黙っているはずはない、父・斎藤道三にこのことを密書で送った。それを信じた斎藤道三は、密書に記された名前の重臣たちを処罰した。しかしこれは信長の戦略で、美濃の重臣たちが織田家に寝返ったことは大嘘だった。信長は、自身の手を汚すことなく斎藤家を弱体化させた。

 信長と濃姫の間には子はなく、信長は前田利家などの小姓との男色を好んでいた。しかし美濃国のマムシ斎藤道三の娘である濃姫は「大うつけ」の妻を難なく務めた。

 信長が22歳の時、舅の斎藤道三が息子の義龍に殺されると、斎藤道三は美濃を信長に譲る手紙を書いているので、少なくても濃姫はその時までは生きていたのであろう。本能寺の変の時に「おのう」という女性がそばにいたと記されている。この「おのう」が濃姫だった可能性が残されているが、濃姫については史料がないため全く不明である。

 織田信長は正室である「濃姫」の他に7人側室がいて子供も20人以上いたとされている。戦国時代は女性に関する記述がほとんど残されておらず、織田信長の正室や側室の情報も非常に乏しく、確実なことは何も言えないのが現状である。信長と濃姫の間には子供がいなかったことも史料に残されてない原因だとされている。それにしても織田信長のことが詳細に書かれている「信長公記」ですら、まるで濃姫の存在がなかったかのように濃姫は忽然と姿を消しいる。

 

信長最愛の人、生駒吉乃(きつの)

 織田信長が23歳の時、長男(織田信忠)が誕生している。産んだのは濃姫ではなく生駒家宗の娘・吉乃だった。

 生駒氏は尾張上四郡の土豪で馬借(運送業)を生業としており、その関係で諸国の様々な人間が出入りしていた。生駒家宗の長女として産まれた吉乃は、土田弥平次に嫁ぐが、夫が戦死したので実家に帰っていた。吉乃は出戻りの娘で信長より年上だったが、実家にいたときに信長と出会い、信長が一目ぼれで側室になった。信長は側室の吉乃をたいそう気にいって、吉乃は信忠、信勝、徳姫の三人の子を産んでいる。産後の肥立が悪くその後吉乃は死去してしまうが、そのとき信長は涙を流したという話が残されている。

 信長は生まれながらの大名でありながら、若い頃から町人たちと親しく付き合うなど、身分によって人を差別しない性格だった。低い身分の兵士たちとも気さくに声をかけ幅広い層から人気を得ていた。これは人の用い方にも現れており、出自にこだわらず、能力のある者をそれにふさわしい身分に取り立てる方針を取っていた。このため低い階層の出身であった秀吉でも、信長の元であればいくらでも出世ができた。

 なお濃姫との間に子供がいなかったので、養子となった吉乃の長男・織田信忠が嫡男となった。織田信忠は織田家の家督と美濃・尾張の一部を譲り受けて岐阜城主となり、その後、総大将として松永久秀の討伐や大坂・本願寺攻めに出陣し、1582年の武田氏攻略の際には先鋒大将として滅亡に追いやるなど多くの活躍を見せている。織田信長の嫡男としての自覚と、その責任感の強さ、頭脳明晰などは父親譲りとされていたが、本能寺の変のとき織田信長と一緒に明智光秀率いる群勢に襲われ自害している。

 また吉乃との次男に織田信雄がいる。父の織田信長が死去した後、弟の信孝と争いを繰り広げ、徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いを起こし豊臣秀吉と戦っている。その後は内大臣となり、大阪の陣後に大和国五万石を領した。叔父から茶道を学び隠居生活を過ごし72歳で没している。有能であれば、天下を統一していたであろう。

 三男の織田信孝は柴田勝家と秀吉に敵対し、岐阜城を秀吉に攻められて降伏。この際、信孝の娘と一緒に人質になるが、織田勝家が秀吉に負けると同時に孫娘と共に磔(処刑)にされた。

父信秀の死から尾張統一

清州城まで

  織田信長17歳の時、父の信秀が急死したことにより、信長は若くして家督を継ぐことになった。信長は父の葬式に遅れやってくると、いつものうつけの格好で、礼服で神妙な顔立ちの家臣たちを驚かした。

 髪を派手な紐で縛り、袴もつけず、信長はずかずかと仏前に進み出ると、いきなり焼香を鷲づかみにして仏前に投げつけ、そのまま帰ってしまった。まさに「尾張の大うつけ者」の傍若無人ぶりである。そのため織田家の家臣や一族の者には信長から離反する者が多く出た。

 信長は宗教が幅を利かせる「中世」の徹底的な否定者だった。父・信秀の葬儀に異様な風体で現れ、仏前に抹香を投げつけたのも、後年、天下統一の邪魔をする宗教的権威・比叡山を焼き討ちにし、一向一揆で数十万の門徒を殺したのも、宗教的権威の完全な否定の上でしか、新たな時代が築かれないことを示そうとしたのである。

 

尾張国内統一

 尾張の織田家はいくつにも分家していて、父の信秀や信長の家は「弾正忠家」と呼ばれ、織田家の中でも小さな分家に過ぎなかった。織田信長は織田家の分家の家臣であったが、名実ともに尾張を統一するため、信長は尾張国内の反対勢力を一掃するため行動をおこした。

 まず最初に清須の坂井大膳を攻め、次に主家の守護代・織田信友を攻めた。下四郡の中心地にある清洲城の織田信友が信長暗殺を企てるが、このことを斯波義統が信長に密告してきた。これを知て織田信友が斯波義統を殺害すると、斯波義統の嫡子・斯波義銀が信長の元に逃げ延びてきた。信長は主君殺しの謀反人として、守護を守るとの大義名分で織田信友を攻め追放して信長は清州城を居城とした。ここから守護代織田家の家臣だった織田信長は「織田本家」となった。

 

稲生の戦い

 1556年、22歳の織田信長は斎藤道三の弔い合戦に破れ、美濃から清須へ戻ってくると、道三の後ろ盾がなくなり、織田家臣の中からも、織田一族からも反信長の機運が高まってきた。

 まず尾張上四郡を支配する岩倉の織田信安が、道三を殺して意気上がる美濃の斎藤龍興と組んで信長に小競り合いを仕掛けてきた。信長領だった下之郷を岩倉勢が襲い、信長の砦(正眼寺)を3000の兵で襲ってきた。

 信長も出陣するが、動員できたのはわずか83騎のみで、百姓衆に竹槍を持たせて足軽戦を行い岩倉勢を追い払った。清須城の信長に対し、庄内川から東の地域がほぼ反信長となった。

 うつけ者の信長が家督を継ぐことに危機感をもった重臣たちは、信長の母が寵愛する弟の織田信勝を支持し、うつけ者の信長に対して公然と挙兵した。重臣たちはこのままうつけ者の信長の下にいれば織田家はいずれ滅ぼされてしまうので、信長を廃して弟の織田信勝を立て、織田信安や斎藤義龍と和睦しようとしたのある。
 その反信長勢力の中心は、信長の家老で那古野城を与えられていた林秀貞とその弟の林美作守、さらに下社城の柴田勝家であった。この三人が結託して謀反を起こし、信長を廃して弟・信勝を立てようとした。

 信長の兵700に対し、織田信勝軍は柴田隊1000、林隊700だった。信長はまず勝家勢に攻撃を開始した。信長軍は兵数では劣っていたが、その勢いはすざ ましかった。信長が先頭に立ち大音声を発して指揮をとり敵を威嚇した。敵は恐れをなし、味方は力を得て柴田勢を退けた。この信長の部下は、かつてうつけ者の奇抜な格好にで町を闊歩(かっぽ)していた信長の供である前田利家や佐々成政らだった。

 彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時間中行動をともにした「子飼い」の家来だった。合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し烏合の衆を負かすことができた。

 この戦いで「鬼柴田」の異名をもつ武将・柴田勝家は手傷を負った。武勇に誉れ高い柴田勢を蹴散らした信長勢は、次に林美作勢へ向かい、信長自身が槍で大将の林美作を突き伏せ首を取った。織田信勝軍は統制がとれず、ちりじりになり那古野城に逃げ込んだ。

 信長の手勢は700だったが、数は少ないものの戦力の中心は信長に忠誠を誓った親衛隊で士気は高かった。暴れまくる信長に従って3倍近い敵を蹴散らし、討ち取った首は450であった。敵の大将・織田信勝は戦いに出ず、後ろで眺めているだけであった。

 

織田信勝の処分

 この稲生の戦いに勝った信長は、末森城で同居していた母の土田御前の取りなしで織田信勝を罰しなかった。さらに信勝軍を指揮した柴田勝家も剃髪し、信長に謝罪したので敢えて処分しなかった。

 尾張国はまだ政情不安定で、粛清すれば尾張の兵力が低下すると考えたのであろう。柴田勝家は信長の寛大な処置と戦略・戦術に感銘を受け、信長へ生涯の忠誠を誓うのである。

 弟の織田信行(信勝)は末森城・城主のままであったが、翌年には反省することなく織田伊勢守家に通じて、信長にふたたび反旗を翻した。柴田勝家は織田信行を諫めたが、織田信行は全く聞き入れず、祝いの席で皆に膳をふるまった際、柴田勝家を仲間外れにする嫌がらせをした。怒った柴田勝家が「織田信行が謀反を企んでいる」と信長に密告し、信長はそれを聞くと「明日をも知れない重病との仮病の噂」をたてた。

 織田信行(信勝)は母の土田御前から信長が重症であるとの知らせを受け、危篤という信長を見舞うため清州城を訪れた。そこを織田信長の命を受けた河尻秀隆に誅殺された。これは単なる感情的理由ではなく、信行が数回の裏切りを画策したからだった。さすがに裏切りの繰り返しでは殺害されても致し方なかった。

 なおその前年(1556年)には、妻・濃姫の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれ、その際、信長が救援に向かった。実弟の裏切りはその直後のことだっただけに後ろ盾を失った信長が織田家を引き締めるためにも、果断な処置が求められており、単に殺害したことが注目されるのはバランスを欠いた考えである。実際、織田信長の直臣となった柴田勝家は生涯信長に誠心誠意仕え、織田家家臣団の筆頭に上り詰めていった。

 1559年、最後は尾張守護代の岩倉織田氏との戦いになった。岩倉織田の軍は3000であったが、信長との白兵戦で岩倉織田氏は軍の半数を討ち取られ城に逃げ込んだ。信長は岩倉城を取り囲んで、火矢と鉄砲で攻め撃ち落とした。父・信秀の後を継いでから10年、信長は25歳で尾張を統一した。その尾張統一の過程で信長は鉄砲と長槍で武装した強力な家臣団の編成をおこなった。

(図した:父・信秀の居城であり、後に織田信行の居城ともなった末森城跡。現在は城山八幡宮となっている)

桶狭間の戦い直前

 1560年6月12日(信長26歳)、尾張を統一したばかりの織田信長に大きな試練がやって来た。駿河(静岡東部)の大名・今川義元が尾張を我が物にしようと2万5千の大軍で攻めてきた。当時は戦国時代である。力のある大名は上洛し名ばかりの室町幕府に代わって天下に号令をかけたいと考えていた。

 東海の雄といわれた今川義元もまさに京へ行こうと兵を動かしたのである。京への通り道には尾張の織田信長がいた。しかし織田は今川から見ればごく小さな勢力で戦闘というには値しないと考えていた。

 上洛を目指す今川義元は尾張侵攻を前に、武田氏・北条氏と婚姻関係を結び甲相駿三国同盟を成立させていた。この甲相駿三国同盟によって、武田信玄は北の上杉謙信に集中し、北条氏は関東に集中でき、今川義元は上洛に集中できた。

 このように今川義元は後背を整えてから京への道すがらの尾張を蹴散らそうとした。信長の軍勢は2千、今川軍の2万5000軍勢の10分の1であった。織田軍にはかつての御供衆(チンピラ仲間の親衛隊)の佐々成政・前田利家らがいたが、今川義元とまともに戦っては勝ち目がなかった。

 まず前哨戦といえる小さな戦いが繰り広げられた。織田信長は名古屋の東南の知多半島の根本にある城・大高城をかこむように丸根砦鷲津砦を築き、今川義元の迎撃軍として待機させていた。

 大高城は元々は信長の領地であったが、今川からの調略を受け寝返っていた。信長は大高城と今川領との間に丸根・鷲津砦を築き、連絡を遮断し孤立させていた。このふたつの砦は今川方の大高城を監視するためのものだったが、義元はこの目障りな砦を手始めに落とし入れようとした。大高城は兵糧が不足しており、今川義元はまず大高城を救い、そこを拠点にして信長の領地に侵攻しようとした。
 この今川軍の先鋒を務めたのは、三河の豪族で義元の家臣だった松平元康(徳川家康)だった。家康は17才の若武者だったが、敵中を突破して大高城に兵糧を運び入れ、その後、松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を難なく陥落させた。

 これを受け後方の沓掛城で戦況を見守っていた今川義元は、本隊を率いて大高城に向け進軍した。この時の義元直属の兵力は5000ほどで、他の2万の軍勢との連携を欠いた状況で行軍していた。大軍であっても連携が取れなければ、各軍勢が撃破され敗北してしまう可能性があった。今川義元はその過ちを犯したのである。義元はあり得ないはずの敗北を、自ら作り出してしまったのである。この行動は義元が戦場の危険性を熟知していなかったからである。

 信長はこれらの砦をおよそ500人で守らせていたが、今川軍はここを容易に突破すると、勢いづいた今川軍はさらに中嶋砦をも攻め落とした。しかしこの砦の陥落が知らされても信長は動かなかった。中嶋砦の陥落を今川を油断させるための捨て石にしていたのである。

 今川軍の圧倒的な強さが、信長に思わぬ勝機をもたらした。相次ぐ戦勝の報告に今川軍が油断し、酒宴を始めたのである。この三つの砦の犠牲がなければ信長の逆転は望めなかった。

 今川義元は大高城に大量の兵糧を送り込んだため、今川義元が大高城に向かうことは分かっていた。しかも駿河から大高城に向かうには、細い窪地の桶狭間を通らなければならなかった。

 

清洲城

 清洲城では今川軍の侵攻を受け、どう対応すべきかの軍議が開かれていた。出撃するのか、籠城するのか、その結論は出なかった。それは織田信長が戦術・戦略を家臣に語らなかったからである。城砦が次々に陥落し、救援のあてもない以上、家臣たちは「かくなる上は篭城して通りすぎるのを待つべき」とするのがほとんどで「出撃すべき」と主張する家臣はいなかった。10倍の敵が攻め込んきて、援助を求める勢力もない。そのため重鎮たちが浮き足立つのは当然のことだった。それを尻目に、信長は無言のまま作戦会議では何も発言しなかった。

 戦国大名は家臣団と戦略会議を開き、話し合いで行動方針・政策を決定していた。他の戦国大名はこの集団指導体制を取っていた。しかし織田信長は家臣の意見を聞かず、あるいは聞こうともしなかった。今川軍が正攻法で攻めてくれば、数において圧倒的に不利な信長に打つ手はなかった。作戦の立てようもなく、ふてくされたように見えたのも当然のことだった。

 しかし絶体絶命のなかで、信長は今川軍の動きを見ながら、機が訪れるのを待ち構えていた。このまま何もしなければ、前線の織田方拠点は次々と攻め落とされ、信長を見限った家来たちから今川軍に寝返る者も出てくる。

 やがて清洲城は内部から崩壊し、尾張は義元に蹂躙され、伊勢湾の支配権も今川家の手に落ちるだろう。なんとしても生き残りたい。信長は押し殺した表情でのんきに振る舞いながら、ひそかに行動を起こすチャンスを自分で判断し、自分で決めようとしていた。


信長の出陣

 信長は長い軍議において「結論として、今日は何もしない」と解散しておきながら、静寂を保っていた。19日の未明、信長のもとへ前線からの使者が飛び込んできた。「今川軍が鷲津砦・丸根砦に攻め掛かりました」との報を受け、信長は突如飛び起き、意を決したように立ち上がり「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生をうけ 滅せぬ者のあるべきか」と幸若舞の「敦盛」の一節を舞った。

 この「敦盛」の一節とは源平合戦のときに、熊谷直実が敵の平敦盛を泣く泣く討ち取る場面を表した一節である。

 勝算はなくとも、今この時、抵抗する姿勢を示さなければどのみち部下たちから見放されて滅びてしまうだろう。ましてや相手も人間である。天の味方を得ることができれば、逆に滅ぼすことも可能だろう。短い舞の中で、信長は一か八かの賭けに出ることを決意した。

 敦盛の舞を終えると、信長は「ホラ貝を吹け、甲冑(かっちゅう)を持ってこい」と大声で叫び、立ったまま湯漬けを食べ、出された昆布と勝栗を口にした。これはこの時代に広くおこなわれていた「勝ってよろこぶ」という必勝のまじないであった。信長は装具を身に着けさせ、馬に乗り城を飛び出した。あわててついてきた5騎の小姓衆だけを引き連れ、熱田神宮まで3里(12キロ)の道のりを馬で一気に駆けた。時刻は辰の刻(午前8時ごろ)陣貝を聞いて慌ててあとから追いかけてきた軍勢が熱田神宮に集結し200の軍勢が集まった。

 ここで信長は熱田社に参詣し勝利を祈った。熱田社の神は天照大神でそのご神体が「草薙剣(クサナギノツルギ)」である。草薙剣はスサノオノミコトがヤマタノオロチをたおしてその尻尾から得た剣であり、大蛇(オロチ)の力そのものといえる聖剣である。スサノオノミコトはこれを姉の天照大神に献上し、スサノオノミコトも熱田社の副祭神とされた。
 早い時期から蛇信仰に傾倒してきた信長は、人生の大一番に臨んで熱田社のオロチに祈りをささげた。当然それは全身全霊をかけた真剣なものだった。
 熱田社で必死の祈りを終えた信長が拝殿から出てきたとき、その傘下の軍勢は2000ともいえる数に膨らんでいた。前線の兵を合わせると2500という兵になる。兵士の士気を高揚させ、善照寺砦で軍勢を整えると、今川軍の本陣がいる「桶狭間」へ向かった。

 この時、東方を遠望するとすでに鷲津・丸根両砦から煙が立ち上っていて、すでに鷲津・丸根両砦が攻め落とされたとみえた。

 信長は正午過ぎには桶狭間の近くの善照寺砦まで軍勢を進め、家老衆の制止を振り切って中島砦に入り、義元が本陣を構えた「おけはざま山」との間に自身を置いた。そしてついには中島砦を出ると、おけはざま山に連なる一帯の小丘陵の際まで接近した。

 桶狭間で今川軍が休憩している時に奇襲をかける。それが織田信長が勝てる唯一の方法だった。桶狭間では農民による「もてなし作戦」がおこなわれていた。 

 もてなし作戦とは、今川軍が狭間に差し掛かった時に、農民がお酒やお餅を持ってご馳走することだった。当日、織田勢の3つの砦を潰した今川義元は気分を良くしていた。長距離を移動した今川軍は、予定通り桶狭間で昼飯を取ることになった。そこに地元の百姓たちが酒や食べ物を振舞った。「今川義元様、もう信長様の時代じゃねえです。この地を平定したら、ぜひまた村に立ち寄ってくだせえ。ささ、前祝いに一献」と杯を傾けた。

 織田信長軍は砦の戦いで兵を半分に減らしており、今川義元は絶対の勝利を確信して宴を開いていた。だが今川義元をもてなした農民は信長のスパイだった。「今川軍、桶狭間で休憩中」、この情報はすぐに信長に伝えられ、信長は全軍を率いて桶狭間へ直行したのだった。

 午後1時、それまで晴れ渡っていた空が急に暗雲に覆われ、視界を遮るほどの豪雨が襲ってきた。現代でいう「ゲリラ豪雨」だが、暴風雨のため視界は悪くなり、風で物音はかき消され、奇襲には絶好の条件になった。

 信長が出陣をする際には雨がよく降ったことから、信長は「梅雨将軍」の異名を持っていたが、桶狭間に向かう道すがらこの豪雨があったのは間違いない。

 当時、武将には必ず軍配者(軍師)と呼ばれる者が仕えていた。軍配者は常に気象状況をチェックして雲の色形や流れなどで合戦の吉凶を占った。

 つまりこれから天候がどう変わるかは、地元の利もあってこの軍配者がかなりの正確さで判断し、信長に申し上げていたはずである。その情報を得た信長は、雲に合わせて東に進み、ちょうど豪雨が始まる直前に戦闘態勢を整え、それが自分の頭上から東へ進むのを確かめると大音声をあげた。午後2時ごろのことだった。

 今川軍は尾根の上にはおらず山の裏側(南側)にいた。今川軍と織田軍はそれぞれが見えない状態にあった。この雨によって織田軍の行軍が今川軍に察知されず、信長は家臣たちに「天も味方してくださった」と大声で鼓舞すると、信長軍は田楽狭間に突入し、今川義元の首を狙って一気に攻めこんだ。
 桶狭間といわれる狭い窪地では、今川の後方の大軍は、狭い山道を行くため軍勢は伸びきって援軍は機能しなかった。今川義元の周りを守っていた兵は300人くらいだったが、視界を妨げるほどの豪雨に気を取られ、信長軍の奇襲に体勢を立て直す暇はなかった。桶狭間一帯は小丘陵群とその合間の「深田足入れ」と表現される低湿地が広がっている。本陣の前の山々に布陣していた今川の先鋒部隊は、通過した風雨の影響で「深田」がさらに泥沼と化してしまい、駆け付けることすらできないでいた。

 今川義元は東海一の弓取り言われた武将だったが、貴族かぶれをしており、偏食と運動不足から極度の肥満だった。そのため馬にも乗れず、桶狭間の合戦では輿に乗って出陣していた。今川義元は暴風雨に教われ、信長勢の姿すら見ることもできず逃げるしかなかった。信長の配下の服部一忠が今川義元に斬りかかり、同じ足軽の毛利良勝に組み伏せられ、今川義元は抵抗も出来ずに討ち取られてしまった。こうして信長は鮮やかな逆転勝利を飾ることができた。

 総大将の首を取られ、戦意を失った今川軍は動揺して敗走するしかなかった。桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を挙げた信長の武勇は全国にとどろいた。しかしその後、信長は奇襲作戦は使っていない。信長はこの大勝利は「天候の急変」によるもので、「今川軍は前哨戦で疲れ果てている」とする思い込みがはずれたせいか、その後、奇襲作戦は使っていない。いずれにせよ、成功体験をあっさり捨てることも特筆した才能であう。

 

情報管理

 信長がこの戦いで一番の手柄としたのは「今川義元休息中」との情報をもたらした梁田政綱という男であった。これは当時としては意外なことで、信長は武功だけではなく、あらゆる角度から戦功を評価したのである。「敵将・今川義元が何処にいるかをいち早く、的確に得る情報がなくては戦には勝てない。勝利の要となった情報を伝えた者が一番の手柄」として論功行賞を与えたのである。梁田政綱は今川義元の本陣の場所を織田信長に伝え、後に沓掛城主となった。信長は義元の居場所を通報した梁田政綱を第一の功、義元に一番槍をつけた服部小平太を第二の殊勲、そして義元の首級をとった毛利新介を第三の手柄とした。

 また信長が義元の居場所を懸命に探しているあいだ、信長方の動向が今川方に知られなかった。信長の軍勢は清洲から熱田、善照寺、中島砦をさまよい、ようやく田楽狭間にたどりついたが、この間、尾張の領民から離反者、すなわち今川方への内報者を出さなかった。この時代は家臣が平気で主君を見捨て、領民が領主を裏切ってもおかしくはなかった。多くの合戦には必ずといっていいほど褒賞めあての「密告」があったが、義元のもとへ信長の動向を知らせた者はいなかった。信長が戦における情報収集と情報管理を最大の武器としていたことがよく理解できる。

 

家康との同盟
 今川義元を倒したことで、今川家の領地を奪うことができた。しかし信長は今川義元を討ち取った後、そのまま清洲に引上げた。信長には桶狭間の戦果を拡大し、逃げる今川勢を追って駿河に侵入する選択肢があった。今川義元は死んでも、今川家は滅びてはいないのだから、いつ義元の弔い合戦になるかわからない。

 今川を追って攻め入るのが、当時の常識的戦法だった。しかし信長は今川の領地には目もくれず、翌々年に今川から独立した三河(愛知県東部)の松平元康徳川家康)と同盟を結ぶと、今川家の領土獲得を家康に任せ、信長は清洲から小牧へと本拠を移し美濃(岐阜県南部)の攻略に専念した。

 通常の戦国大名であれば、まず今川家の領地を狙うはずであるが、今川家の領地を手に入れれば、隣国の強豪・武田信玄や北条氏康と接することになる。信長は戦力の分散を避けるため、東を家康に任せ、上洛のために西に戦力を集中したのである。

 斎藤道三亡き後の信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし1561年に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤家では家中分裂が始まった。対斎藤戦で優位に立った信長は、1564年に北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤家への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を浅井長政に輿入れさせた。

斎藤道三

 美濃の斎藤道三は、国内の土岐家の勢力や、土岐家の家臣達を牽制するために、土岐頼芸の側室の愛妾が生んだ自分の嫡男・斎藤義龍(よしたつ)に家督を譲った。義龍は土岐頼芸の側室・深芳野が道三に嫁いですぐに生まれたことから、道三の子ではなく土岐頼芸の子とされていた。

 そのため道三は義龍に家督を譲り、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたが、2代当主・義龍は道三とは似ても似つかぬ巨漢で、性格はおとなしく本ばかり読んでいた。そのため道三は 「あんな軟弱者に国はまかせられん」 と、家督を義龍から取り戻し、他の息子に国を継がせようとした。

 この道三が義龍をおいぼれと嫌い、正室が産んだ利口者の次男、三男を溺愛したことが、土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでにした。義龍も道三によって廃さることに危機感をつのらせ、さらに道三が信長と会見の際に「我が子らは皆、信長の配下となるだろう」 と語ったことを聞き、義龍と道三親子の関係は最悪な状況となった。

 道三が非道な裏切りと謀略を繰り返して今の地位を得たことが義龍の不安を募らせた。また義龍は斎藤道三の嫡男ではなく、父は土岐頼芸と信じるようになっていた。それならば土岐頼芸を追放した斎藤道三は父の仇であった。

 1556年、斉藤義龍 は土岐家に恩のあった家臣達や豪族の支持を受けると、道三に対してクーデターを実行した。他の兄弟を稲葉山城の奥の間に病を装っておびき出し襲ってこれを討ち倒すと、これに驚いた父・道三は大桑城に逃げるが、多くの家臣が義龍側につき、戦える状態ではなかった。

 織田信長が尾張国から道三の救援に向かっていたが間に合わなかった。道三は織田信長へ 「美濃一国譲り状(美濃の国を譲ると言う書状)」 を届けさせると、多勢に無勢の戦いの中で息子義龍と対峙し、最後の戦いで道三は義龍の見事な采配を見た。斎藤道三は「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかしこれで当面、斉藤家は安泰」 と語った。戦いに破れた美濃のマムシ・道三は命を落とした。享年 62 。

 その後斉藤義龍 は美濃の支配をさらに強化し、重臣の意見を取り入れ国内を発展させた。織田信長は、道三の「美濃一国譲り状」を大義名分として何度か美濃を攻めるが、斉藤義龍は織田の軍勢を撃退させた。南近江の六角義賢と同盟結ぶが、愛妾1561 年、流行り病によって斉藤義龍は 34 歳の若さで病没した。

 岐阜県岐阜市にある常在寺は、斎藤道三と義龍の菩提寺となっており、両人の肖像画がが残されている。

 

美濃攻略

 美濃の斉藤道三は息子の義龍から長良川で討たれ、織田との同盟はすでに廃されていた。斎藤道三亡き後、信長と斎藤家との関係は険悪なものになったが、1561年、斎藤義龍が急死し嫡男・斎藤龍興が14 才の若さで後を継いだ。この斎藤龍興は国主としての器量はなく、家臣達は次々と織田家に寝返った。

 信長は居城を清洲城か小牧城に移すと美濃(岐阜)攻略を開始した。信長は東美濃にある斎藤方の諸城(鵜沼・猿啄・堂洞城)を攻め落とし、その厳しい戦いぶりに美濃の土豪たちは動揺した。斎藤龍興は部下からの信頼が薄く、そのため西美濃の土豪は信長になびこうとした。織田家は優位のまま、斎藤家では家中の分裂が始まった。1564年、織田家は北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤家を挟み撃ちにする形で牽制を強化した。

 1567年、斎藤家の有力家臣であった西美濃三人衆・稲葉一鉄氏家ト全安藤伊賀守が信長に味方することを申し出ると、信長は三人衆の人質を受け取る前に、すぐに軍勢を木曽川を越えさせ、稲葉山城に殺到させた。稲葉山城下に火を放って城を孤立させ、包囲体制を整えて攻撃を開始した。

 稲葉山城は援軍の来ない「はだか城」となり、斎藤龍興はついに降服を申しでた。斎藤龍興は稲葉山城を明け渡し、7年間に及ぶ信長との攻防を終始させると、稲葉山城はついに落城した。この落城で斎藤道三・義龍・龍興と続いた斎藤氏の美濃支配は終わりを告げた。
 この戦いで木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、長良川沿いから金華山を登り、城の背後へ廻り一番乗りをはたした。秀吉が登ったのは現在の金華山の登山道「めい想の小径」に近いルートで、味方への合図のため「竹の先に瓢箪」をつけて振った。これが秀吉の馬標(うまじるし)の「千成びょうたん」となった。
 斎藤龍興は妻が浅井長政の妹だったことから、近江の浅井長政を頼って落ち延び、その後、京都六条合戦で三好三人衆とともに織田軍勢と戦った。その後、斎藤龍興は越前の大名朝倉義景の配下になり、1573年の越前敦賀刀根山の合戦で信長と戦い討死している。

 

天下布武

 1567年、信長(33歳)は7年かけて斎藤氏を滅ぼして美濃を平定すると、本拠地を尾張小牧から稲葉山城に移し「天下布武」の印を使い始める。天下布武とは「天下に武を布(し)く」、すなわち「日本全国を武によって支配する」ということで、信長が天下統一を目指すことを高らかに宣言したのである。

 「天下布武」といえば、信長の印章に用いた文言として有名であるが、一般的には前記した「天下を武力で平定する」という意味で捉えられがちであるが、本当は天下布武の武は武力の武ではない。

 武は武力ではなく七徳の武のことで、武という漢字を分解してみると「戈(ほこ)」と「止」から成る。戈は戦で使われる武器で戦いを表し、それを止めるのが「武」である。

 七徳の武とは、暴を禁じ戦をやめ、大を保ち功績を定め、民を安心させ大衆を仲良くさせ、経済を豊かにするという七つの徳を意味し、それら全てを兼ね揃えた者が天下を治めるのに相応しいという意味である。

 つまり「天下布武」の本当の意味は「天下に七徳の武を布く」という、天下泰平の世を創る決意表明だった。しかし信長がそれを目指していたとは到底信じられない。戦国時代は徳をもって治められるような生易しい時代ではなかった。「天下布武」は天下統一への大義上の言葉であろう。

 美濃の稲葉山城に入った信長は、城の地名であった「井ノ口」を「岐阜」に改め、城の名前も岐阜城とした。岐阜の名は古代中国の故事にならったもので、周の名君・文王が岐山(きざん)に都を置き、そこを拠点にして殷の紂王(ちゅうおう)を滅ぼして中国全土を統一した縁起のいい地名で、織田信長も「岐」を使うことで文王にならって日本全国を統一をする意志を示したのである。阜は「大きい」とか「おか(丘・岡)」の意味である。城からの眺望は息をのむほど素晴らしく、西は伊吹山から東は名古屋の中心街まで手に取るように見渡せまる。岐阜城は街とは300メートルの落差がある。

 それまで地名は、古くからの言い伝えで付けられており、時の権力者が地名を変えることはなかった。信長が地名を新しくしたことは「天下統一へ向け、世の中を一新する」という強い意志を示している。

 信長以降、時の権力者が地名を変更するのが通常となった。例えば、信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)は近江(滋賀県)の今浜の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって長浜と改めている。

 信長は日本人離れをしたカリスマ性を持ち、和の精神や怨霊など気にとめることはなかった。自分の考えを絶対視し、逆らう者には容赦しなかった。信長の政策は何から何まで革新的で、実力本位の戦国時代には信長のような人物が必要であった。 

 織田信長にしても尾張統一から、桶狭間の戦いをへて、美濃を手に入れるのに15年の年月がかかっていた。天下布武の印を用いたことは、天下統一を意識したのであるが、天下統一まで何年かかるのか、それを自問自答するうち編み出したのが軍の増強策である。

 

兵農分離

 美濃を領地とした信長は、それまでの尾那の那古野城、清洲城、さらに小牧山城から岐阜城に本拠地を移した。他の戦国大名は信長のように本拠地を移すことはなかった。それは兵力の大半が農民だったからである。しかし従来の戦時の時だけの兵士召集では、田植えの時期・稲刈りの農繁期には軍事行動が制限された。
 戦国時代の戦闘集団の構成は、武士1名に対し3名は農兵である。また実際に、農兵は領内各地から集合させるため、集合だけで数日を要し、上杉謙信や武田信玄などは夏や冬だけ「戦」をすることが多く、田植え・稲刈りの農繁期になると、兵士が帰国したがるため、士気が上がらず苦悩していた。

 しかし織田信長は農業に従事しない職業兵士としての集団、つまり「プロの軍隊」を組織し城下町に住まわせた。最初の頃には、武士と言えども、長男ともなると家督を継ぐため、地元に残る必要があり、呼び寄せることはできなかった。

 そのため、手の空いている武家の次男・3男を城下町に住まわせることにした。次男であった前田利家などが良い例で、その後、家督を継げない次男・3男などの武士だけでなく、兵になりたいと希望する農民やあぶれ者からも兵を図り、専門の兵士として城下町に住まわせた。これが「兵農分離」の先駆けで、これにより織田信長は平時には戦闘の訓練を行ない、兵士の戦闘の練度・経験値が上がった。また迅速に軍事行動ができる集団となり、しかも季節を問わず1年中動員できる常備軍を獲得したのだった。もっとも足軽に至るまで兵士を雇うため、莫大な資金が必要であった。織田信長は商人を保護する代わりに上納金を巻き上げ、その金で常備軍を獲得した。

 農民にとって唯一の財産は田畑だった。農民は田植えや稲刈りなどの農繁期は忙しくて田畑に釘付になった。当時の農業は全て手作業だったので、現在とは比べ物にならない程忙しかった。そのため戦国大名は領地が広くても、農民を易々と移動させることはできなかった。

 信長は「兵農分離で戦争専門の傭兵」を用いて、商業で得た資金で下級武士や村の次男や三男を雇い兵にした。農業生産力を向上させ足軽などの非生産者にも食料が行き渡るようにした。足軽を雇用して家臣団に組み入れたのである。

 足軽は形勢が不利になると逃亡する危険性があった。敗色とみると簡単に逃げ出すため兵力としては弱かったが、一年中戦える強みがあった。また兵農分離された信長の兵は軍事に専念する職業軍人であり、資金が続く限り戦いを継続でき、そのため戦いに集中できた。

 足軽は農民のように田畑を持たないため、織田信長は本拠地を移しやすかった。信長はこの兵農分離の長所を最大限に生かし、岐阜に本拠地を移動すると家臣や傭兵たちを城下に住まわせた。人の流れが物の流れをつくり、家臣を強制的に岐阜に移動させれば、家臣の家族を含めた数万の人口が一気に岐阜へ流れ、岐阜が我が国有数の大都市になった。兵農分離による家臣の城下への強制移住は楽市楽座とともに城下町発展の大きな要因となった。

 

情報管理

 情報は常日頃から伝達回路を持っていなければ、いざというときに何の役にも立たない。織田軍団は上から下まで情報の重要性を十分に認識しており、情報伝達は完璧といっていいほどであった。信じ難いことだが、信長にとって聞きたくないような情報までも、織田家ではいち早く伝える習慣ができていた。

 情報は常日頃から速さと正確さを備えた伝達回路を持っていなければ、いざというときには役に立たない。そのため信長は同時代を生きた諸国の大名や武将とはかなり違っ動き方をする。例えば敵地を偵察させる場合、個人に物見に行かせるのではなく、配下の武将に一軍を率いさせて敵地に強行侵入させ、状況を直接肉眼で観察させた。これは敵陣深く潜行するため得る情報は正確で、しかも情報量も多かった。とりわけ信長は迅速を尊び、織田家の武将たちは信長の情報戦略の中で鍛えられていった。

 織田家の中核を担う情報・伝達役の武士(母衣衆)はそのための専門職で、情報の選定にあたっては私的な利害得失に拘泥しない、諫言・論争も辞さない人材が登用されている。後に加賀百万石を領した前田利家は二つあった母衣の一方「赤母衣衆」の筆頭を務めていた。

  織田信長がその名を轟かしたのは桶狭間の戦いであるが、今川義元軍とは人数こそ負けていたが、「情報収集能力」は織田信長の方が格段に上だった。今川義元の行動を把握していたからこそ奇襲攻撃を成功させた。桶狭間の戦いで織田信長は、情報を報告した簗田政綱を一番の手柄として褒めている事からも「情報収集」を最大の武器としていたことがわかる。負ける側の要因としては、負けないと過信していたことと情報不足である。神風が吹けば勝てると過信したり「敵は弱い」と正確な情報を得られなかった場合である。
 織田信長は最初の頃こそ死ぬ覚悟で戦っていたが、それでも情報収集は行っていた。その後の信長の戦いでは情報を得ているからこそ、その敵に負けないように常に敵よりも多くの軍を動員している。これも的確に敵の戦力を分析できる情報があって成しえる事である。

 戦国大名の多くは格上の信玄や謙信の動向を恐れ、見えない影に怯えていた。しかし信長は武田信玄や上杉謙信の死を先んじて確信するという情報収集力能力があった。この情報収集力能力と神仏も来世も信じない徹底的な合理主義者だったことが、信長を天下人に押し上げる最大の要因だった。

 しかし本能寺の変だけは、織田信長も事前に察知する事はできなかった。それだけ光秀が謀反を起こさないと過信し明智光秀の不穏な動きの情報収集を行っていなかったことが本能寺の悲劇を生んだのである。

 

楽市楽座と関所

 当時の商業は自由に開業することはできなかった。「商品を販売する権利」を金で買わなくてはならず、その権利は多くの場合、土地の領主や有力な寺社が持っていた。当時の関所は江戸時代の関所とは違い、人には通行税が、商品には物品税が課せられた。ひどいところでは数百メートルごとに関所があった。これがいかに物品の流通を妨げ物価を高くしていたか、また庶民の生活をいかに圧迫していたか想像できるであろう。

 楽市楽座も関所も寺社や領主にとって貴重な財源だった。楽市楽座は信長の理に合わぬことだったが、その廃止には当然、寺社や領主達から反発を受ける。座や関所のおかげで労せずに金が入るのだから、既得権を手離したくなかったのである。しかし徹底した合理主義者である信長は、不合理きわまりない関所を廃し、楽天楽市で商売に税をとらず、自由な商売を認めた。

 城下町では既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除し、自由取引市場をつくり「楽市楽座」を実施して、自国の経済活性化を図った。今で言う規制緩和以上の規制廃止であった。そのため人々が集まり、岐阜は新たな城下町として繁栄し、信長は天下統一へ向けて西へ眼を向けた。

 1574年から大規模な街道整備を行い、街道を広くまっすぐにした。川に橋を架け関所を廃止しただけでなく、一定間隔で飲食店を設置させている。これにより街道における治安が向上し、人の往来が容易となり商業が活性化した。今で言う高速道路を建設したのと同じ効果といえる。
 当然ながら自分の軍の侵攻スピードも向上したが、逆にいうと敵軍の侵攻も早くなるという欠点があった。そのため戦国大名の多くは道路整備はあまり行っておらず、街道を整備するのは、江戸時代に入ってから徳川家康が織田信長の手法を手本にして行っている。
 通行税もないので、領内での物流が盛んになり、物資がたくさん津(港)などから陸揚げされ、その津での税金徴収が織田家の大きな収入源となった。
 要するに農民からの年貢を中心だった収入を、織田信長は貿易・津の運用にて莫大な収入を得るという、経済発展に伴う税収増加を図ったのである。

 

鉄砲の伝来

 さらに織田家は南蛮貿易においても財をなした。南蛮貿易による珍しい物は高く売れたので、他の大名家とは異なり、潤沢な軍資金を得て軍勢を常に動かす事が出来た。

 古い戦いにこだわりをもたない信長は鉄砲の威力に注目していた。戦国時代を生き抜くためには勝たなくてはいけない。この日本を一つに束ねる政治的権威は崩壊していたが、これを一変させたのが織田信長であり、その手段として鉄砲を用いた。

 大航海時代、ポルトガルはマラッカ・マカオに進出し、スペインはフィリピンを占領した。この時代のヨーロッパでは海路による貿易がさかんであったが、それはオスマントルコ帝国が成長し、西アジアの陸路をさえぎられため、陸路をさけた海路貿易がさかんになったのである。
 ポルトガルやスペインは東アジアに進出して貿易を行ったが、1543年、マカオからマラッカに向かっていた一艘の船が鹿児島県の種子島に漂着した。種子島の住民にとってはどこの国から来たか分からず、船には100余人が乗っていたが、言葉は通じなかった。船員の一人がある物を手に持っていた。その長さは2・3尺(約7-80センチ)で、中に穴があいていていたが底は堅くとざされていた。底の近くに小さな穴があり、その穴は火を通す道であった。

 妙薬(火薬)と小さな鉛玉を入れて、片方の目をつぶってねらいを定め、火を放つと百発百中であった。種子島領主の種子島時尭(ときたか)は、鉄砲の威力を見て感心し、ポルトガル人に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入した。鉄砲を買い入れると部下に、その仕組みや製造法を学ばせた。

 日本にはそれまで鉄砲はなかったので、このポルトガル人の来航は同時に鉄砲伝来であった。「蒙古襲来絵巻」に見られる「てつはう」はもともと火薬がつめられたもので、日本は火薬に関して少なからず興味を持っていた。この鉄砲の伝来を機に日本でも鉄砲の生産が始められた。

 手先が器用で技術力の高い日本人は、たちまち鉄砲の製造を会得し、堺や国友(滋賀県)の刀鍛冶によって大量に鉄砲が生産され、わずか10年で日本各地に鉄砲は広がった。この新兵器は厳しい競争下の大名たちにとって極めて有益な道具であり、その威力をいち早く戦いに用いたのが信長であった。
 鉄砲の伝来により戦い方が大きく変わった。それまでは弓矢や槍を武器としていたので、山城が主流であったが、鉄砲は飛躍的に射程距離が長く、殺傷力も強いため、鉄砲の攻撃や侵入を避けるように、大きく深い堀や幅の厚い塀を造ることが必要になり、平地や丘陵の上に築かれた平城・平山城が多くなり、城壁は鉄砲の弾を防ぐため強固になった。
 馬に乗って戦う戦闘から、足軽などに鉄砲を持たせて戦う集団戦法に変った。これまでは足軽は戦闘の主役ではなかったが、鉄砲の伝来で集団戦法が発達し、本格化されたため、訓練された鉄砲の足軽隊が組織され主要な部隊として活躍するようになった。鉄砲は戦いを激しいものとし集団戦法を発達させ、戦術・武器・武具・築城法に影響を及ぼし、統一の機運を高め、戦争の勝負が早く決まるようになった。
 1575年、織田信長が武田勝頼を破った長篠の戦いは、鉄砲の威力を集中的に使用した戦いであった。鉄砲伝来から数十年の間に、すでに堺鍛冶や近江の国友鍛冶が生産した鉄砲は膨大な数にのぼった。

将軍・足利義輝の暗殺

 当時、政治の中心は「室町幕府」であったが、将軍は約11年間続いた「応仁の乱」を収拾できず、将軍の権威は地に落ち、細川氏や山名氏の勢力は衰退して、将軍は都落ちすることが多かった。

 近畿では細川晴元の家臣だった三好長慶が力をつけ、三好長慶は畿内、淡路、四国にかけて10カ国の所領を持つ勢力を誇っていた。細川晴元と三好長慶は仲が悪く、細川晴元は三好長慶へ刺客を何度も差し向けた。三好長慶の勢力と将軍家の権威を合わせれば畿内を治めるのはたやすいことと思われた。

 事実、三好長慶は将軍の相伴衆に加えてもらえるように申し入れていた。相伴衆となって将軍・足利義輝を意のままに動かそうとした。裏を返せば、足利義輝にとっては三好義輝はそれだけ厄介な存在だった。

 細川晴元は三好長慶を取り除こうとして、三好長慶の重臣・松永久秀をそそのかし「三好長慶を殺して三好家を乗っ取れば天下を握ることができる」として三好長慶を屠った。
  松永久秀が足利義輝の思惑通り三好家を乗っ取ると、将軍・足利義輝は今度はその松永久秀を討つために上杉謙信と織田信長に上洛を求めた。この足利義輝の謀(はかりごと)を知った松永久秀は、屈辱と憎悪に打ち震え、たとえ自分の身はどうなろうとも将軍・義輝だけは許さぬと復讐の塊となった。

  ついに室町幕府の力が完全に失われる事件が起きた。室町幕府の力を取り戻すために活動していた13代将軍・足利義輝が、1565年に敵対する松永久秀と三好三人衆に襲撃され命を落としたのである。

 13代将軍・足利義輝は第12代将軍・足利義晴の嫡男として京都・東山南禅寺で生まれ、わずか11歳で父・義晴から将軍職を譲られた。足利義輝は神道流の剣達人・塚原卜伝から免許皆伝を得たほどの剣豪将軍で、その戦ぶりは生半可な武将の及ぶところではなかった。また義輝は権謀家でもあり、地に墜ちた幕府の権威を回復させるため、なりふり構わぬ権謀を凝らしていた。

 松永久秀らは1万の軍勢率いて、清水寺参詣を名目に京に入り、二条御所に押し寄せて将軍・足利義輝を狙った。松永久秀の裏切りによって囲まれた義輝は、剣豪で鍛えた剣術を活かし、襲いかかってきた敵兵を次々に自らの刀で斬り倒していった。
 刀は人を斬ると、血や脂がつき切れ味が悪くなる。そこで義輝は自身の周囲に予備の刀を刺しておき、敵を斬って倒して、切れ味が悪くなると、また新たな刀を握りしめた。困った松永軍は畳を持って四方から寄せて、この強すぎる剣豪・将軍を討ち取った。将軍・足利義輝、享年30。足利義輝は憎悪の鬼と化した松永久秀の刃の前に倒れた。これ以降、幕府の権威が回復することはなかった。

 義輝の辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」である。将軍・足利義輝の暗殺の知らせは、瞬く間に日本中に広がり、松永久秀は次の将軍に足利義栄を擁立するが、織田信長が足利義輝の弟の足利義昭を将軍に奉じて上洛したため、義栄の在位は短期間だけであった。

 

瓶割り柴田

 織田信長は近江方面の敵と戦うため、近江・長光寺城に柴田勝家を配置した。その長光寺城に攻めてきたのが六角義堅(ろっかくよしかた)で、その2年前に織田信長に敗北していた近江の大名であった。兵力だけなら六角軍が俄然有利であったが柴田勝家の守りは固かった。

 正面から戦っても勝てないとみた六角義堅は、柴田軍が利用する水路を断って城兵を渇死させる作戦にでた。その作戦は功を成し、柴田軍の兵士たちは水不足に苦しみ、日を追うごとに体力を失っていった。ついに城内に残る飲水は瓶三つのみとなった。恵みの雨も降らず、もはやこれまでという状況になり、覚悟を決めた紫田勝家は城兵を集め、水の入った瓶を前に「このままでは皆、水に渇いて死んでしまう。ならばいっそワシは討ち死に覚悟で打って出る。しかし強制はしない、愛する家族のもとへ帰りたい奴は城を出ていけばいい、恨んだりはしない。ワシと共に戦ってくれる者があれば、この水瓶の前へ来い。好きなだけ水を飲ませてやる。これまでの渇きを癒し、思う存分戦おうではないか」この勝家の覚悟を聞き兵は奮い立った。「望むところ。このまま野垂れ死ぬぐらいなら、たくさん水飲んで討ち死にする方がいいに決まっている」逃げ出す者は一人もおらず兵達はみな水瓶の前に集まった。勝家は残っていた水を兵達に飲ますと、残りの水の入っていた瓶を全て割ってしまった。討ち死にすると決めたからには、もうこの水瓶を使う事はない。
  人生最後の水分補給で気合い十分である。凄まじい覚悟を決めた兵達は一斉に城外へ打って出た。勝ち戦と思い込んでいた六角軍は、柴田軍がこれほどまでに勇んで突撃してくるとは思っていなかった。大混乱の結果、柴田軍は800もの敵首をあげ大勝利を飾った。この後、この話は「瓶割り柴田」と呼ばれるようになった。

 

 

信長の上洛

 足利義秋(義昭)は9月に越前の朝倉義景を頼って一乗谷城下の安養寺へ移った。足利義秋義昭)のもとにはかつての幕府重臣が帰参したが、上杉謙信・武田信玄らに上洛要請しても周辺国との対立で長距離出兵は難しく、朝倉義景も積極的に上洛を支援する事は無かった。
 1568年2月、松永久秀らに擁立された足利義栄が第14代将軍に就任。足利義秋は1568年4月に朝倉館で元服すると名を足利義昭と改めた。そして、7月になると朝倉家を見限り、勢いがあった織田信長を頼って越前を出た。
 明智光秀のはからいで足利義昭は美濃・立正寺に迎えられ、織田信長は足利義昭を奉じて、9月に上洛し足利義昭を室町幕府15代将軍に据えた。

 足利義昭それまは越前(福井県北東部)の朝倉義景に匿われていたが、義景の家臣であった明智光秀の仲介で織田信長を頼った。信長にとって天下に覇をとなえるには、上洛して京に旗を立てる必要があったが、そのためには大義名分が必要だった。その大義こそが足利義昭を将軍の座につけることだった。足利義昭からの要請を受けた織田信長は、さっそく京都へ向かう準備を始めた。

 1568年、信長は妹の「お市」を京都への道の途中にいる北近江の大名「浅井家」の 浅井長政に娶らせて同盟を結び、上洛の途中で京都へ進むのに邪魔な大名・南近江の六角氏を破り京へとたどり着くと、京都を支配していた三好家を攻撃して、これを一蹴して足利義昭(32歳)を15代将軍に就任させた。

 こうして足利義昭は正式に室町幕府の15代将軍に就任した。足利義昭は名ばかりの将軍であったが、名目上は武家の棟梁である室町幕府の将軍である。織田信長は足利義昭のために二条城を造営した。従来の信長からするると、世間の評判を気にする姿は意外と思われるが、信長は常に世間の評判を気にしていた。

 足利義昭は織田信長が「武勇天下第一」と称えたことから、「御父」と尊敬したが、織田信長は足利義昭の下風に立つことを嫌い、副将軍や管領就任を拒絶し、幕府の条規を定めて足利義昭の行動を制限して独自に畿内支配を進めた。織田信長は足利義昭の威光を利用していただけであった。

 

 

将軍の信長包囲網

 織田信長は日本史上最大の独裁者であり、一切の妥協を排除し、自分の権力の絶対化を目指した。その信長にとって、自分以上の権威や権力の存在ほど目ざわりで不愉快なことはなかった。

 しかしいかに強大な軍隊を擁する信長でも、簡単に叩きつぶせないものがあった。それは将軍と天皇である。義昭は軍事力と呼べるようなものは持っていない。そのため将軍を武力でこの世から消し去ることは容易だが、問題はそれよって巻き起こる世間の反発だった。
 信長にとって他の諸大名なら追放しようが滅ぼそうが、世間の非難を浴びることはなかった。これまで信長と戦った武将達・武田、上杉、毛利、浅井、朝倉などは信長と同格の大名だった。また同様に本願寺を頂点とする一向宗の勢力も問題にならなかった。信長は本願寺との戦いでは苦戦したが、宗教の本道から外れた仏教は問題にはならなかった。問題はすなわち「戦争するための大義名分」である。

 将軍はまがりなりにも武家の頭領で、これを倒すには不忠・不孝・逆賊の非難や汚名を一身に受ける覚悟がいる。また逆の立場に立てば「逆賊信長を討つ」という名目で、反信長勢力が結束することができた。反逆者の汚名を避けるには、将軍を倒すにはその理由を必要とし、それを世間が納得すれば良い。簡単に言えば「将軍を倒すことが正義である」という大義名分が必要だった。
 まず信長は足利幕府の組織に入ることを断わった。将軍・義昭は自らを将軍にしてくれた信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるように勧めたが、信長はいずれも辞退し、代わりに堺を含む和泉(大阪府南西部)の支配を希望した。いわゆる名よりも実を取った判断で、その裏にはしたたかな計算があった。

 信長にすれば、管領や副将軍を引き受ければ「信長室町幕府の一員」になり、義昭の家来になってしまう。信長の最終的な目標は「信長自身による天下統一」であり、いずれ義昭を見限るつもりだった。

 もしその際に信長が管領や副将軍であったならば、主人に対する裏切りという重罪を犯すことになる。たとえ戦国の世の中とはいえ、主人への謀反はダメージが大きすぎた。また天下取りに影響が及ぶ可能性があった。そのため信長は義昭の誘いを断り、我が国最大の貿易港である堺を得るために和泉の支配を認めさせたのである。堺を手にした信長は、その後、貿易などの経済面において他の戦国大名より優位に立つことになる。

 義昭が将軍になったばかりの頃は、二人の関係は良好であった。しかし足利義昭は信長の敬う姿勢につけ込み、最後まで実質的な武士の棟梁としての将軍にこだわった。

 足利義昭は信長に叛旗を翻したが、信長は天皇を動かして将軍と和睦した。しかし数カ月後には、再び義昭は挙兵した。信長が次第に義昭を圧迫すると、ふたりの関係はさらに悪化し、激怒した義昭は信長を倒すべく様々な作戦をねった。

 信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛したが、傀儡将軍であることを嫌った足利義昭が密かに敵対勢力である越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、比叡山延暦寺、大阪・石山本願寺、伊勢長島の一向一揆の衆らと通じ、信長包囲網を敷いた。これが後の世にいう「信長包囲網」である。信長にとって最大のピンチが訪れようとしていた。

 信長はここまで足利義昭に舐められたため、15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を終わらせることを考えた。義昭を殺さずに追放して、殺害などの強硬な姿勢をとらなかったのは世間の評判を気にしたからである。

 室町幕府の最後の将軍。足利義昭は「盛者必衰は世の習い」とはいえ、滅びるほうからすれば「やられてたまるか」と踏ん張りたくなるのもまた道理である。

 

蘭奢待(らんじゃたい)切り取り事件

 大名間の抗争が激化する戦国時代にあって、朝廷の役割はそれらの抗争を鎮め「和睦」を促す事であった。正親町天皇もまた、時の権力者である有力武将や寺社と円満な関係を築くため、全方位に配慮せざるを得なかった。

 即位した正親町天皇が朝廷の財政の悪化のなかで、信長に奉書の綸旨や官職を与え、それと引き換えに財政援助を引き出そうとした。彗星の如く台頭した織田信長は、この天皇の権威を利用して勢力拡大を図ろうとした。

 また信長は天下統一の先導者となるため朝廷を保護した。この皇室の保護も目的は天下統一のためであり、皇居の修理を行ない皇太子の元服のための費用を献上して機嫌をとった。しかし信長は次第に天皇を軽んじるようになる。
  両者は持ちつ持たれつの関係にあったが、信長は正親町天皇からの度重なる無心に業を煮やし、東宮である誠仁親王の元服費用を求められると、質の悪い悪銭を進上して抗議の意志を示した。両者の争いが鮮明になったのが、1574年に起きた「蘭奢待切り取り事件」である。
 「蘭奢待とは聖武天皇の遺宝とされる香木」で、天皇家に代々伝わってきた国宝である。蘭奢待は奈良の東大寺正倉院に厳重に保管され「天下第一の名香」とされ、天皇でさえ勝手に持ち出す事は出来ないとされている。かつて様々な権力者が蘭奢待を見ることを希望したが誰も見る事は出来なかった。

 信長は自分の権力を誇示すべく、この蘭奢待を切り取る勅許を正親町天皇に求めた。正親町天皇は「そんなことをすれば聖武天皇の怒りが天道にまで響く」と怒りを顕わにし、正親町天皇と織田信長が対立した。

 織田信長はある日、急に「蘭奢待が見たい」と言い出した。もちろんそれは許される事ではなかったが、織田信長は比叡山焼き討ちなどで敵対する者には容赦しない事がすでに知られていた。

 信長が東大寺に催促に行くと「ここで断るとどうなるのか解らない」と恐れた東大寺側は、嫌々ながらも蘭奢待を信長の前に差し出した。すると信長は短刀を取り出して「一方は天皇に献上し、もう一方は自分が使う」と言って蘭奢待の一部を無造作に切り取ってしまった。翌月、織田信長はその蘭奢待を炊いて茶会を催し、さらに信長は将軍・足利義昭を追放した直後に、本来は朝廷しか行えない「年号」の変更を、その権力でムリヤリ「天正」という年号に変えた。

 これらは織田信長の権力が頂点にあったことの証明であり、朝廷や既存の権力者にとっては、これ以上ないほどの圧力になった。

金ヶ崎の戦い

 堺を手に入れた信長は経済力を高め、次の目標を越前の朝倉義景に定めた。朝倉氏と織田氏の家系はもともと守護大名・斯波氏の家来であるが、朝倉氏は直臣で守護代に命じられるほどの名門で、織田氏は斯波氏の家臣の家臣であり完全に格下であった。

 足利義昭を奉じて権力を手にいれた信長であったが、これを良く思っていなかった朝倉義景は、将軍に挨拶するよう信長から命じられてもいうことをきかず、義昭からの要請にすら従わなかった。これに腹を立てた信長は朝倉軍を攻撃するが、ここで同盟を結んでいたはずの浅井家に背後から攻められてしまう。これは信長にとって予想外の出来事でした。何しろ浅井長政の妻は信長の妹・お市でであった。長政は義理の兄であり同盟を結んでいた信長を裏切り、朝倉家を優先したことになる。

 1570年4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍を開始した。朝倉義景にとっては信長の求めに応じて上洛すれば、織田の風下に立つことになる。朝倉義景のプライドが許すはずがなかった。信長は上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍する。敦賀の金ヶ崎城を落とすなど緒戦で勝利を収めた。ところが好事まさに魔多しである。

 浅井長政は信長の義弟で、最も信頼していた武将である。浅井長政は織田信長の妹、お市を妻としており、同盟関係にある以上お互いが戦うことはありえないと思っていた。 浅井氏が裏切ったのは、以前から同盟関係にあった朝倉氏とよしみがあったからである。

 浅井家は織田信長と同盟を結ぶよりはるか前から、越前の朝倉家と同盟関係にあった。さらに浅井長政が織田信長と組んだ同盟には、織田は朝倉氏には戦を仕掛けないという条件があった。ところが織田信長がこの同盟を破って朝倉氏に戦をしかけたのである。 浅井長政にとって朝倉氏とは昔から友好関係にあり、織田信長とは義理の兄にあたるが、浅井長政は朝倉氏との同盟関係を重視して織田氏と戦うことを決断したのである。

 浅井長政の領地は北近江(滋賀)にあり、朝倉義景の領地はその隣の越前国(福井)である。織田信長は浅井長政と同盟を結んだことで朝倉義景まで兵を進めることができたが、朝倉義景と戦をしているときに、背後を浅井長政につかれてはひとたまりもなかった。そのため織田信長は浅井長政と同盟を結んだつもりであった。しかしここで浅井長政の裏切りにあい、 織田信長は、北を朝倉義景、南を浅井長政という形で挟み撃ちになった。

 弟のように可愛がっていた浅井長政が、まさか離反するとは思いもつかなかった。家臣が浅井離反の可能性を進言したが耳を貸さなかった。

 その信長のもとに「陣中の菓子にでも」と、妹・お市の方からの進物が届いた。その包みを開けると小豆をギッシリと詰めた袋の両側がしっかりと紐で結ばれていた。「袋のねずみ」ならぬ「袋の小豆」を意味していた。この進物を見て、信長は浅井と朝倉に挟まれ逃げ道のない状況にあることを確信した。

 同盟を結んだばかりの浅井長政が北近江から攻め寄せて来ているとの知らせが入った。さすがの信長も気を動転させた。越前と北近江からの挟み撃ちにあえば勝てるはずがなかった。織田信長・人生最大の危機である。残された時間はなかった。

 覚悟を決めた信長は「ワシは逃げる」と宣言すると、決死の逃避行が始まった(金ヶ崎崩れ)。わずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出し、一目散に京を目指して駆けに駆けた。信長は朝倉氏と浅井氏の包囲網から辛くも逃れると、数日のうちに京に戻ったが、供はわずか10人ばかりだった。お市の方の機転が信長を救ったのである。

 この負け戦は後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれ、屈辱を味わった信長は浅井・朝倉の両氏を深く恨んだ

姉川の戦い

 信長は裏切り者の長政を成敗すべく、大軍を率いて長政の居城小谷を包囲した。しかし織田軍の勢いもそこまで。何しろ小谷城は峻険な山城である。天下に名高い堅城を、そう簡単には攻め落とすことはできない。

 そこで信長は浅井勢を平地に引っ張り出し、野戦に持ちこむ作戦にでる。まず信長は羽柴秀吉らに命じて城下を放火して、籠城していた長政と援軍の朝倉勢を姉川北岸に誘い出すことに成功する。一方の織田勢は姉川の南岸に陣し、加勢の徳川軍と共に、6月28日の未明、姉川を挟んで両連合軍の決戦の火蓋が切って落とされる。兵力は、織田が29000、徳川5000(計34000)に対して、「浅井8000・朝倉10000」(計18000)の兵力差だった。しかし3倍の兵力を誇る織田勢は、浅井勢に押しまくられ、約1.6キロも後退させられるが、徳川勢の奮戦によって逆転勝利を得た。

 息を吹き返した浅井・朝倉の軍勢は京を目指し反撃し、信長に阻まれると比叡山に立てこもって反撃の機会を待った。

 浅井長政は姉川の戦いの被害が深刻なまま劣勢で、居城である小谷城へ撤退することになる。信長は長政に対して何度も降伏を勧告をしたが、長政はこれを拒否した。小谷城は難攻不落でなんど攻められても落ちなかった。それは小谷城が峻険な山城であったためである。

 小谷城は清水谷と呼ばれる逆V字形に切れこんだ谷を挟んでいて、右側の峰と左側の峰に分断されていた。右側の峰の山頂付近にある本丸へ攻め上がる道はふたつある。まずひとつは峰下の大手口を突破する方法であるが、この大手道はかなり急峻で、道の途中にはいくつも出丸がもうけられていた。ここから攻め上がるには、かなりの被害が予想された。もうひとつが本丸のある右側の峰と左側の峰を分かつ清水谷方面から水之手道を攻め上がる戦術である。
 姉川の合戦の2年後、信長はこの2つの戦術を取るが攻めきれずに引き返している。左側の峰の山頂にもうけられた大嶽城とその尾根上にある出丸から背後を攻撃されたためである。つまり小谷城は右側の本城と左側の支城(大嶽城)が独立しながら、互いに連携できる鉄壁の守備陣形を敷いていたのである。
 しかしその年、武田信玄が他界し、小谷城から至近の距離にある山本山城主が織田方へ寝返った。信玄を失って孤立していた長政を、貞山城主たちが見限った形になり、やがて大嶽城に付随する砦(焼尾砦)の守将も織田方へ寝返りこれで万事休すとなる。大嶽城はあえなく陥落し小谷城も陥落し、もはやこれまでと浅井長政と父である浅井久政は小谷城で自害した。

 お市の方は長政と運命をともにしようとするが、これを不憫に思ったのか、長政は配下に命じてお市の方と三姉妹(茶々・初・江)を織田軍へ送り返される。お市の方が無事に織田軍へと渡った後、織田軍からの総攻撃が始まった。

 1574年元旦、岐阜城にて信長は年賀の宴を開いた。家臣だけとの祝宴になったとき、信長は黒塗りの箱から3つの髑髏(頭蓋骨)を取り出す。この髑髏は金粉が加工がされており、漆塗りした上に金粉が塗られ、この3つの髑髏を部屋の3方に置いて宴宴の肴とした。この3つの髑髏というのは、信長が討ち取った、越前の朝倉義景、近江の浅井久政と長政親子のものだった。披露したと信長公記にある。

 現在の感覚では想像もできない冒涜であり、とても人とは思えないような行動であるが、信長は長政たちの首を綺麗に装飾し、長政たちの成仏を願っての信長なりの供養だったのかもしれない。当時は討ち取った首を荼毘にふして、その遺骨を7年間供養することで成仏出来るという考えがあったのである。

宗教勢力

 信長にとっての最大の敵は戦国大名ではなく、死を恐れぬ一向宗の門徒たちであり、難攻不落の城、総本山・石山本願寺だった。信長を悩ませたのが、信長包囲網に宗教勢力が加わったことである。死を恐れない宗教勢力は最も手強い相手だった。そのきっかけは三好三人衆の三好氏が摂津(大阪市)で挙兵すると本願寺が味方についたことである。このことから信長は戦国大名の他に、延暦寺や本願寺といった強大な宗教勢力を敵に回し、宗教勢力からは仏敵とみなされた。

 その当時、宗教勢力は関所や座によって莫大な利益を得ていた。信長にすれば宗教勢力は本来の布教活動を忘れ、利益のために権益にしがみついていとみえた。信長は宗教勢力に権益の放棄と武装解除を迫ったが「眠っていても儲かる権益」を宗教勢力が手放すはずはなかった。

 信長は岐阜城を造る際、大胆な発想で城下町を建設した。当時の常識であった通行税を徴収する関所や商売のための座(組合)を廃して楽市楽座を採用した。楽市楽座によって商売の自由が認められたため、各地の商人がこぞって集まり、岐阜は大変なにぎわいを見せることになる。信長の領内は他の大名や宗教勢力などと比べ低い税率であったが、にぎわいのため自然に税収が増加した。この信長による斬新な政策は、関所や座を設けて莫大な収入を得ていた宗教勢力にとっては、目障りな商売敵となっていた。信長と宗教勢力との衝突は時間の問題であった。

 京に上った信長に対し、浅井・朝倉軍は比叡山に登ったまま動こうとしなかった。もし信長が京から離れればすぐにでも京を占領できる位置にいたため、信長は京から動くことができなかった。こうして信長が釘付けになっている間に、本願寺が率いる伊勢長島(三重県桑名)の一向一揆が活発になり、伊勢の長島城や尾張の小木江城などが次々に陥落していった。

 尾張の小木江城は信長の弟が守っていたが、一向一揆に攻められ自害に追い込まれた。京を動けぬ信長は弟が自害するのを、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。宗教勢力による無情な仕打ちに対して信長は耐え続けるしかなかった。

 1570年の年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦が成立し、信長は岐阜に戻ることができた。講和が成立した背景には兵農分離でない朝倉軍の都合があり、朝倉軍は雪深い越前では真冬になると身動きが取れず、来春の農作業のために帰国できなくなるからであった。

 翌1571年、信長は近江の姉川を封鎖して佐和山城を落とし、南近江の支配権を得るとともに、朝倉氏、浅井氏、本願寺などの連絡網を断つことに成功した。包囲網を分断した信長は、朝倉・浅井氏に協力した比叡山の焼き討ちを敢行した。それ以前の3年間は、信長にとって最も苦難の時期だった。この四面楚歌の状態を打ち破るべく、信長は反目する延暦寺の焼き討ちを企てたのだった。

 

比叡山の焼き討ち

 滋賀県大津市にある比叡山延暦寺は、788年に天台宗の宗祖・最澄により開山された。以後1200年間、鎮護国家の道場として法灯を守り続けてきた。しかし信長が姉川の戦で浅井と朝倉両軍に勝利すると、翌年、両氏に味方した延暦寺では比叡山焼き討ちという忌々しい悲劇が起こった。

 そもそも比叡山の焼き討ちは、朝倉・浅井軍が比叡山に協力したことにある。信長は比叡山に「中立を保って欲しい」と伝えていた。さらにこの申し入れが受け入れなければ「全山を焼く払う」と通告していた。比叡山がこの通告を拒否し、朝倉・浅井軍をかばい続けたため信長は焼き討ちを決行したのである。信長の家臣・佐久間信盛らが「鎮守の王城を焼くとは前代未聞」と忠諫したが信長は聞き入れなかった。

 信長は重臣の池田恒興から「夜になると逃げる者が出るから、早朝を待って攻めれば一人残らず討ち取れる」と進言され、前日夜中から3万の兵士を隙間なく比叡山東麓に配置した。そして「比叡山延暦寺焼き討ち」を行ない1日で灰になり、泣いて命乞いする僧侶や一般人を問わず皆殺しにした。以来、信長は比叡山が比叡山がのみならず、天台宗信徒から「仏敵」と見なされてきた。

 長い歴史を誇った延暦寺は業火に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶のみならず、女人禁制なのに女性も多く含まれ、信長軍は比叡山にいた男女、子供までも容赦なく首をはねた。僧侶、一般人を問わず約4千人を皆殺しにした。

 信長といえば宗教を信じず、神仏を恐れないイメージが強い。それは無慈悲な比叡山の焼き討ちの事実があったからである。だが実際の信長は神に祈願することはあれば、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護策を施していた。

 信長にも焼くべき理屈があり、比叡山側にも焼かれる原因があった。最澄が開山した当初の比叡山は「人はみな仏になる」という法華経の教えを広めるべく人材育成に力を入れ、親鸞、日蓮など、多くの名僧を輩出していた。

 しかし平安中期以降、僧たちは権益を要求し、通らなければ日吉神社の神輿を京都にかつぎおろして強訴するなど、その振る舞いは尊大になっていった。朝廷も手を出せず、白河法皇にして「鴨川の流れと山法師、双六の賽は意のままにならず」と嘆かせた。戦国時代に入ると比叡山の腐敗は更なるものとなる。「衆徒たちが領地からの年貢を元手に近隣の村人や農民たちに高利貸しを行なったり、足利将軍家の不安に付け込み、幕府を脅かして銭を出させるなど、守銭奴に成り下がった。金を得た僧たちは山を降り、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買った。その状況にあっても、延暦寺の宗教的権威は少しも衰えず、日本仏教界の頂点に位置していた。

 信長が延暦寺を焼き討ちにしたのは、単純に宗教勢力が敵対したからである。戦国当時の寺院が世俗の権力と一体化して軍事力を持ち、宗教勢力は鉄砲なで武装して大名に歯向かうことが多かった。信長はそれらの敵対行為を受けて報復したのである。信長は「味方をしたものに対しては保護し、敵対したものには報復」という他の大名と同じ行動をとったにすぎない。寺院が世俗化し、僧侶が女に溺れたりと「宗教」としての意義を忘れていたのである。僧侶の腐敗ぶりを批判し、天下が乱れ、祟りなどを恐れない織田信長はそれだけ、正義感が強かったと言われている。その一翼を担った比叡山は焼かれる運命にあったのである。なにしろ「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と表現された織田信長である。

 高野山も敵の残党を匿ったり、足利義昭と通じたりと信長に敵対する動きを見せ、さらに使者10人以上を差し向けるが殺害されてしまったので高野山討伐にかかることになる。高野山も応戦したため戦いは長期化することになった。

 比叡山延暦寺は信長に敵対する宗教勢力として滅亡したが、一向一揆の軍勢は相変わらず信長を苦しめた。

長島一向一揆
 織田信長は京へ上る前年から北陸を攻め、信長の勢力は北陸から伊勢に及んでいた。伊勢のなかで信長に反抗したのが、信長の本拠地である尾張から川を隔てた所に強固な「要塞」を構えた長島一向一揆であった。

 真に恐ろしいのは戦国武将や大名ではなく宗教勢力である。武装をした一向宗徒の武士たちが,本願寺から派遣された指揮官の指揮の下で戦った。長島には大坂の石山本願寺の末寺・願証寺があり、東海地方の一向宗の門徒は10万人とされた。長島一向一揆は長島の城主伊藤重晴を追い出すと門徒による自治を行っていた。

 石山本願寺は信長の天下統一の動きに反抗して戦い、全国の一向宗門徒に信長と戦うようにと檄を飛ばしていた。長島願証寺もこの呼びかけに応じ、まず尾張の小木江(おぎえ)城を攻め、信長の弟の織田信興を切腹させた。
 織田信長は第1回目の長島攻撃を行ったが、長島方がゲリラ戦をとったため、信長軍は混乱して敗北した。1573年、信長は再び長島攻撃を行い、長島側に味方した北勢の土豪を降伏させたが、門徒のゲリラ部隊に襲われ再度敗走した。信長はすぐに三度目の長島攻撃を開始し、これまでにない10万の大軍を動員した。志摩の九鬼水軍を中心に数百艘の軍船も加わり、長島方の受けた被害は甚大であった。長島方では食糧不足から餓死者が続出し、2つの砦は落ち、風雨に紛れて砦から脱出した男女1000人余りが信長軍に斬り殺された。3カ月にわたる籠城戦が続き、耐えきれなくなり、長島方は降伏し、門徒衆は船で逃げ出した。

 しかし待ちかまえていた信長軍に鉄砲で打たれ、多くは川へ落とされ、川は死者の血で赤く染まった。また砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けられて閉じ込められ、女性、幼児も関係なく四方から火を放たれ全員が焼き殺された。文字通り騙し討ちで、土地に子孫を残さぬこの作戦は「根切り」と言われた。現在の長島町の人口の約二倍の人々が殺された。

 一向宗徒にとっての石山本願寺はキリスト教のヴァチカンに相当する。宗教と政治の違いを認め,各地の一向宗徒に「住む土地を支配する大名と争うな」と,顕如の名前で指令をだしていれば,長島や越前や加賀での信長の虐殺はなかったが、あまりに残酷すぎた。実際に信長と長年に渡って激しく戦い降伏した本願寺は,京都に西本願寺・東本願寺として残されている。

武田信玄

 戦国武将として有名な織田信長と武田信玄は、お互いが直接戦ったことはなかった。織田信長は姪の娘を武田勝頼に嫁がせて友好関係を結んでいたのである。また武田信玄は上杉謙信が脅威となっており、東には北条氏康がいて主力を西へ向けられなかった。しかし北条氏康が死去すると、北条家と武田信玄は再び手を組んだ。

 信長が最も恐れていた甲斐(山梨県)の武田信玄が将軍・義昭の誘いに応じて上洛を目指して動きだしたのである。これは比叡山焼き討ち事件がきっかけになった。仏教者である武田信玄は怒り心頭になっていたのである。

 精強な武田騎馬軍団の中でも最強と称される赤備え・山県昌景が先陣を切って三河へ向かい、武田信玄本隊は昌馬場信春らと共に遠江へ向かった三方ヶ原の戦いで戦国最強と言われた武田信玄(3~4万)は徳川家康(1~2万)と織田信長(3,000)の連合軍を苦もなく蹴散らすと、不気味な足音とともに京を目指して進軍を続けた。織田信長は上杉へ挙兵を求めながら、畿内で包囲網を敷かれていたため、援軍の数はあまりにも心もとない兵力であった。最強の武田信玄が京へ攻めてきては信長とて勝ち目はなかった。

 徳川家康の連敗・惨敗であった。特に三方ヶ原の戦いで武田軍は、家康のいる浜松城を素通りするかのように見せかけ、背後から奇襲を仕掛け、徳川を万全の体制で待ち構え、完膚無きまで叩きのめした。やっとのことで三方ヶ原から逃げ出し、その際、恐怖のあまり徳川家康は大便を漏らしたとされ、浜松城へは這々の体で逃げ帰るという有り様であった。まさに格が違う両者であった。
 三方ヶ原の戦いで信長・家康の敗北を知った義昭は喜び、岐阜に戻っていた信長を裏切り、将軍の御所に堀をめぐらし防備を固めて信長に挙兵した。信長の運命はまさに風前の灯となったが、天は信長に味方した。上洛の途中で何と信玄が結核で急死し、武田軍は甲斐に引き返したのである。

 信玄の死は3年もの間、隠されていたが、信玄が亡くなると、翌年、未決着だった浅井氏を近江小谷城で滅ぼし、一気に越前まで進んで朝倉氏も討ち取ると、畿内に戻って京都宇治で挙兵した将軍・義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得なかった。義昭は信長によって京を追われ、240年続いた足利氏の室町幕府は滅亡した。

 義昭を追放した信長は、越前から北近江にかけて領地を拡大し、さらに翌年には伊勢長島の一向一揆に対しては女性や子供に至るまで皆殺しにして(撫で斬り)、その翌年には越前の一向一揆を攻め滅ぼした。

 信長の比叡山延暦寺や一向一揆に対する酷い仕打ちは、弟や部下たちのための復讐とはいえ、その残虐性が問題視される。しかし先に手を出したのは宗教勢力の方である。一向一揆は女性や子供までが武器を持って戦ったのである。信長の行為はやむを得ないとすべきであろう。

 

長篠の戦い

 武田信玄の死後家督を継いだ武田勝頼は武田騎馬軍を率いて攻勢に出てきた。長篠の戦いとは「織田信長・徳川家康の連合軍3万」と「武田勝頼1万5000」による合戦で、この戦は長篠城と設楽原(したらがはら)地域の2カ所で行われた。鉄砲の3段撃ちで有名なのは設楽原での戦いである。

 武田信玄の死去後、徳川家康は「北三河地域を武田氏から取り戻そう」と、奥三河の要衝である長篠城を奪還する。これに対して武田勝頼は奪還された長篠城を三河侵攻の橋頭堡とすべく攻略に向かう。

 この戦いは徳川家の長篠城が武田勝頼に攻められたことから始まる。もともと長篠城は奥平信昌が守っていましたが、精強で知られた武田軍を相手にするにはかなり分が悪かった。それでも三河武士らしい根性で何とか持ちこたえていたが、業を煮やした武田軍は兵糧庫への焼き討ちを決行し兵糧攻めで長篠城は士気が落ちてきた。
 このままでは全員討死か餓死かと悩みに悩んだ奥平信昌は、徳川家康への救援要請をすることにしました。しかしこの時点で長篠城は武田軍に取り囲まれており、ただ要請に行くだけでも決死の覚悟が必要だった。

 

鳥居強右衛門
 生きて家康の下へたどり着けるかどうかもわからなかった。このような難業に自ら名乗り出る者があった。それが鳥居強右衛門(すねえもん)という足軽であった。泳ぎが得意で、身分の低さゆえに顔を知られていなかった。

 奥平信昌は鳥居強右衛門にこの任務を命じます。強右衛門は、城から外に通じる水路と川を泳いで渡り見事城の外へ脱出、次の日には家康のいる岡崎城までたどり着き、長篠城の窮状を伝え援軍要請の旨を伝えた。運の良いことに、強右衛門が岡崎城についたときには既に家康と信長の連合軍が出発の支度を整えていた。その数は武田軍の倍とされて、これを知った強右衛門は大いに喜び、すぐにでも早く長篠城に伝えないとと、来たばかりの道を猛烈な速さで戻っていってしまう。
 長篠城の近くまで来ると「無事援軍が来るぞ」という知らせとしてのろしを上げた。「脱出に成功したとき、援軍要請に成功したときはのろしをあげる」ことになっていた。しかしこれが彼の命を縮めてしまった。完全に包囲しているとはいえ、戦の真っ最中で武田軍も気を張っていた。当然見張りもそこらじゅうにいた。日に二回のろしを上げたため、武田軍は長篠城周辺の道や農村を調べ始め強右衛門は捕まってしまう。

 取調べによって援軍が来ることは白状するが、強右衛門はもう助からないことを悟り最後の意地を見せる。勝頼に「援軍は来ない、と城に向かって叫べ、そうしたら命を助けてやろう」と命令され城の前に立たされる。
 そこで強右衛門は、従順に勝頼に従うふりをしながら、「二・三日で信長様と家康様がいらっしゃるぞ、それまで皆頑張れ」と真逆のことを叫んだ。勝頼としては「援軍が来ないことを知れば、長篠城は降伏するか士気がガタ落ちするだろう」と考えてこのように命じたのだが、強右衛門が真逆のことを叫んだおかげで降伏計画が台無しになった。
 激昂して武田勝頼は強右衛門をその場で磔刑に処した。この強右衛門の勇気ある行動と死に様を見た長篠城士はかえって士気を上げ、勝頼の目論見は大幅に外れ、城を落とすことはできなかった。

 織田信長は、親衛部隊と家康軍の一部隊を合わせた4000の兵を迂回路から長篠城に送り、設楽原での開戦とほぼ同時に敵の包囲から長篠城を救った。鳥居強右衛門の活躍によって長篠城が窮地から脱したのである。一般的には、長篠の戦いとは設楽原の戦いのみに注目し事前に起こっていた長篠城の攻防や鳥居強右衛門の一件はあまり話題とされていないが、鳥居強右衛門あっての勝利と言える。身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、鳥居強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられている。
その墓は愛知県新城市作手の甘泉寺に残っており、織田信長はこのように、我が身を犠牲にして忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。

 織田信長は長篠の戦いで身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させた。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残されている。信長はこのように身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。

設楽原の戦い

 1575年、武田軍の騎馬隊が三河の長篠まで進出した際、信長・家康が用意した3千挺の鉄砲隊の前に壊滅的な打撃を受けた。1挺の火縄銃でさえ迫力があるのに、これを3千挺も揃えたのである。これが「鉄砲三段撃ち」で有名な設楽原の戦いである。

 この設楽原における「鉄砲」の織田徳川連合軍(3万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた。このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」であるという説明が以前からなされている。

 織田徳川連合軍は武田軍の得意とする騎馬隊による突撃を馬防柵(ばぼうさく)」で食い止め、横1列に1000挺ずつ3段に分けた鉄砲3000挺で一斉交代射撃を行って、武田軍を撃退したとされている。突撃してくる武田軍に対し、信長が「敵が近づくまでは鉄砲を撃つな。1町(00m)まで引き寄せたらまず1000挺が発砲し、1段ずつ交代に撃て」と命じ、このことが基となって「3段撃ち」が定着した。しかし戦場となった設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土していないのである。このことから本当に3000挺もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれている。

 また後世の者からすると理解にくいことであが、織田信長が強固に固めた柵へ、無謀な突撃をなぜ武田勝頼は敢行したのかである。強固な柵へ突撃したのは武田勝頼が愚将だったからとされているが、「勝勝ち目もないのに意固地になって、無謀な突撃をした」とも囁かれるが、たとえ勝頼が愚将でも、信玄の代からの重臣たちと折り合いが悪くても自殺行為を行うのはあまりに不条理である。

 この「鉄砲三段撃ち」は江戸時代に書かれた信長記に書かれている内容である。信長記は戦いから数十年を経たあとに書かれた「小説」で、当事者または同時代に残された記録ではないことから、「信憑性に問題がある」とされている。小説は売れなければならない、そのため面白い内容でなければならず、その創作された歴史がいつしか真実になってしまうのである。

 ここで「騎馬隊が鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか」を考えなければいけない。実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは一つの作戦であった。もちろん突撃の最中に撃たれてしまう武者はいたが、当時の火縄銃は命中率は低く、うまくいけば鉄砲隊の一角を崩すことができ、勝頼側にも十分に勝算もあった。実際の戦いが鉄砲だけで決着がついたのなら短時間で終わっているはずだが、長篠の戦いは1日がかりの戦いだった。武田軍は騎馬隊を持っているので、勝頼としてもその強みを活かしたが、このときばかりは織田信長の方が上手だった。

 普通の野戦と違い、織田徳川の防御柵は完璧であった。馬の機動力を奪うのに十分な防御力だった。それなら「逃げるが勝ち」で退却すれば良いのだが、その選択肢も勝頼には残されていなかった。戦場となった設楽原は窪んだ地形で背後の丘陵の後ろに勝頼たちから見えないようになっていた。さらに織田信長は事前に別働隊の酒井忠次や信長の部下を進軍させて長篠城の救援に成功しており、武田軍の背後をとり勝頼はもはや前に出るしかない苦境にあったのである。
 この時代、戦国大名の家臣たちは、それぞれの知行に応じた数の騎馬や槍、弓などの兵を集め集団行動をしていました。つまり「騎馬隊」と呼べるような兵団は少なく、当時の軍役から兵種を分類すると「武田軍の騎兵の割合は全体の1割程度」だったことがわかっている。またちなみに当時、日本にいた在来種の馬は体が小さい種類で、現代のサラブレッドは体高がおよそ150~170cm超あるが、当時日本にいた馬は120cmほどで、今でいう「ポニー」に近い体型だった。
 また「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原は、その「原」という地名からは開けた場所との印象を受けやすいが、しかし戦場となった場所は南北におよそ2km、東西に200mほどの縦長な平地で、その中央を河川(連吾川)が分断し、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠い地だった。
 決戦時、織田・徳川連合軍と武田軍は、上記の南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる「舌状台地上に布陣」していた。特に連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀(からぼり)や土塁、切岸(きりぎし)を築くと、全体に柵(さく)をめぐらせ高低差を利用して武田軍を迎えた。そのためこの戦いは武田軍からみれば「平原での野戦」というより、むしろ「城攻め」に近く馬での戦闘には不向きだった。
 武田軍は追い込まれていた。その意味では、最初から信長の作戦勝ちだった。武田の騎馬隊は幾度も突撃を繰り返し、赤備えの山県昌景や無傷の鬼美濃・馬場信春、真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが命を落としていく。退却時に命を落とした者も多数いたと伝わっている。信長の計算がまるで神がかった展開で「鉄砲の三段撃ち」の真意は別にしてもこの戦術は着目すべきである。

 これで織田・徳川連合軍の「長篠城の救援」は達成され、さらに設楽原でも「武田軍本隊に壊滅的な打撃を与える」という思わぬ戦果をあげ、勝利の印象がより鮮烈なものとなったのである。
 ちなみにこのとき武田勝頼秘蔵の駿馬が戦場に置き去りにされて、信長のものとなった。この戦いで多くの精鋭を失った武田家は没落の一途をたどり、1582年の3月、織田信長は武田領国へ侵攻すると、迫り来る織田軍に対し、武田家重臣の真田昌幸(幸村の父)は群馬の昌幸の城まで撤退して交戦するように進言するが、勝頼はこれを却下し最期は部下の裏切りにあい自刃した。勝者と敗者の悲しい現実であった。
 戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が武田勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれを怒って寺を放火し僧侶150余人を焼き殺した。燃え盛る炎の中で同寺の国師(高僧)・快川紹喜(かいせんじょうき)は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放った。
 国師とは天皇の師であり、天皇が認定した国師を殺すことは、天皇の権威など全く意に関していないことであった。信長が国司を焼き殺したのは比叡山に続いて2度目である。これで東国からの侵攻の懸念が消え、信長は本州中央部から関東上野までを支配下に治めることができた。

 

畿内中央から全国地方

 信長といえば桶狭間で今川家を破ったことから、どんな強敵でも果敢に大軍に立ち向かう姿を想像するが、しかし桶狭間の戦いはかなり例外的であり、実際の信長はとても戦いには慎重であった。必ず敵を上回る兵力を準備しなければ出陣しなかった。敵よりも多くの兵力で強攻、大軍を持って一気に押し切って勝つのが基本的な信長の戦い方であった。また「古い習慣や慣習を破壊する」「宗教を信じない」といった革新的な姿は意外に少ない。信長には恐れる敵は誰もいなかったが、大名に対する振舞いをみても魔王的イメージは見られない。

 信長は武田や上杉、毛利など数々の大名と戦ったが、小大名であった信長は自分より相手が格上の場合は、積極的に媚びて謙虚な姿勢を崩さなかった。例えば上杉謙信への直接宛てた手紙では極端にへりくだった表現をしている。武田信玄に対しては立派な贈り物をするなど相手のプライドを損ねないよう苦心していた。だが織田家が力をつけて上杉や武田と対等になると、信長は互角に付き合う姿勢を見せるようになった。ここに信長の合理的な考えが現れている。

 部下たちに効率よく地域支配を進めさせるため、織田家では「方面軍」を設置した。この「方面軍」という呼び方は現代に生みだされた歴史用語である。
 考え方そのものは単純で、各軍団長に作戦の裁量を与え、自由に攻略させたのである。細かな指示をその都度送ってヤリトリしていたらコトが進まないという極めて合理的な考えからである。
  先の柴田勝家などはその代表であり、北陸方面から越後を担当していた。他の武将たちは以下のように任ぜられた。

織田家の方面軍結成
・北陸→柴田勝家
・山陽&山陰→羽柴秀吉
・本願寺→佐久間信盛
・伊勢&伊賀→織田信雄&織田信包
・近畿→明智光秀
・四国→織田信孝&丹羽長秀
・対武田→織田信忠&滝川一益
(後に関東→滝川一益)
・東海道→徳川家康

  後の豊臣政権を考えると前田利家の名前がないが、利家はこのとき柴田勝家に従い、北陸の攻略に携わっている。つまり加賀百万石の礎はこのとき出来ている。近畿担当が明智光秀というのも本能寺の変へと続く道筋となっていく。信長は部下に大軍を預けて「裏切られる」という懸念はなかったのかと思われるが、そのような鷹揚さも信長の一つの性格と思える。むろん日頃は安土城で政務を取っており、いざというときの守りも万全であっただろうが、一方で本能寺をはじめとする寺に泊まることも珍しくなく、後の明智光秀にしてみればこうした状況が日頃から念頭にあったのだろう。信長は「恐怖の対象」となるが、実績だけ見ればむしろ逆である。働く者には自由を与え、結果を出せばよいという考えだった。しかも戦場では自ら前にでる。まさに理想の上司だった。
 佐久間信盛は、石山本願寺の攻略戦で結果が出なかっただけでなく、努力を惜しんで連絡すらよこさなかったことを信長に指摘され、更には「死ぬ気で領土を切り取るか、それとも高野山に引っ込むか」という選択を用意され自ら出ていった。石山本願寺の攻略は破格に難しく、佐久間でなくても無理だったという見方もある。「織田家躍進の原動力」として40年余りにわたって信長に従い、数々の戦功をあげてきた最有力家臣のひとりに「佐久間信盛(のぶもり)」がいます。しかし佐久間信盛は「合戦での積極性がまったく見られなかった」という「罪」により、突如、家禄を没収された。そして家中から追放され、その後の赦免も一切なかった。

信長の文化への関心
 日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。日本への輸入品は中国の生糸や絹織物などで中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども日本に輸入された。日本からの輸出品は銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたので、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。
 当時の日本人がヨーロッパ人を南蛮人と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易のことを 南南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」ではビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。好奇心が強く、鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。長篠の戦いでは3,000丁もの鉄砲を用いて武田勝頼の軍に壊滅的な被害を与えた。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付けて側近にした。この黒人は身長六尺二分(約182.4cm)の大男で、「十人力」と称される怪力であった。信長は単なる好奇心だけでなくこの黒人を実戦の役に立つ兵としても重用していたようである。信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは弥助に領地と城を与えて城主にするつもりであったが、その計画は本能寺の変により頓挫することとなった。なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、明智の軍勢を相手に最後まで奮戦した。
 イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。信長はローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから南蛮の目覚まし時計を献上された際には、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。

茶の湯

 織田信長の意外な趣味が「茶の湯」だった。お茶を飲むという行為に「禅」の思想を取り入れた茶道を体験した信長は、その風流な趣向に感銘を受け茶の湯を好んで行った。和歌や茶道などの風流な催しは、裕福な商人・町人の間で広まったのであるが、戦国時代にはこうした文化が武士の間にも急速に広まっていった。

 主君である織田信長が趣味にしているため、配下の武将達も好むようになり、茶道は武将達の間で大きな流行となった。
 織田信長は茶道に使う「茶器」の収集を始め、それは資金や物品と引き替えに、裕福な商人が持っていた高価な茶器を買い取るというもので、相手に拒否権を与えない強引なものだった。そして集めた茶器を使った格式の高い茶会や、茶器そのものを信長は武将達の手柄の褒美として与えるようになる。いつしか茶器は一国より高い価値を持つようになり、茶人の地位も戦国武将に劣らぬほど高まって行くことになった。この年、織田信長は京都の「妙覚寺」というお寺で、天下一の茶人と言われた「千利休」を茶頭とし、大規模な茶会を開催する。それは内外に自らの地位をアピールするものとなった。

 

信長の人心掌握術
 尾張三英傑の織田信長は下剋上の申し子のイメージが強いが、市場経済や計画発案者の先駆けであった。この天下取りの裏で信長が用いた背景には「人心掌握の戦略」が深く関わっっている。
  1573年に室町幕府の将軍・足利義昭を武力でねじ伏せたとき殺すこともできた。しかし信長は義昭を追放という形で表舞台から排除している。将軍を殺害すれば世間の不信感や「批判」が生じ、始まったばかりの天下取りの道を弊害するようなことはしたくなかったのである。当時の信長は「世間」や「外聞」という言葉を頻繁に用いている。外聞とはどのように他人から見られているかと同じ意味で、義昭を攻めたときにも朝廷や京都の外聞を気にしていた。織田信長は秩序を乱す乱暴者のイメージがあるが、出陣に際しては必ず家臣を集めて評議し、独断で物事を決定することは少なかった。
  毛利輝元宛て出した信長の書状には「義昭のもとで争いのない世の中を維持する役割を担いたい」といっている。つまり当初から天下統一という考えはなかったが、一方では武力によって戦国時代を牽引したいとも思っており、その過程で世論や評判、さらに政治的なルールにも目を向けながら動いていた。
 乱世で生き抜くうえで裏切りや謀略は日常茶飯事である。無理やり忠義を誓わせたところで心変わりすれば意味がない。それならば「その者の心に忠義を植え付ける」ことが最善の方法である。織田家に仕える家臣の統率を信長は「人心掌握」で忠義を操っていた。つまり「何があっても、信長についていこう」と自覚をもたせば、命を懸けてもついてくるはずである。そのための人心掌握であり、「ついていきたい」「忠義を尽くしたい」と思われる人物像を信長は演じていたのかもしれない。

人心掌握
 信長は武闘的なイメージを持つ一方で、文化的な一面がある。たとえば相撲大会は信長が安土に力士を集めて競い合わせたことが元であり、弓取り式や行事などもこのときに由来している。さらに「茶」に信長が文化的な価値を見出した。信長が「茶の湯」を好み、「茶人」として茶会を催し、「茶道の道具」を集めていた。しかしこれは信長の趣味ではなかった。自己演出であり人心掌握のために用いた「策」だったのであろう。当時の武将たちは領土よりも茶器を欲しがっていた。義昭を京都に追放したあと、真っ先に信長は「茶道具狩り」を行っている。価値の高い茶碗や茶道具を没収し、名器と呼ばれる茶碗のほとんどが信長のもとに集まった。
 当時、武功を挙げれば褒美として領地を与えられていたが、信長は手柄をたてた家臣に茶器をあげ、茶会に呼び茶道を教えたていた。領地には限りがあし領地を増やしたいと思う武将は力づくで奪ってようになる。そのたびに合戦が起きれば天下取りの足手まといになる。そこで考えたのが領地に変わる褒美だったのであろう。「

 茶道具とは素晴らしい芸術品だ。この茶碗はどれほど金を積まれても譲れない」と、来る日も来る日も茶碗の価値を部下たちに言い聞かせ、価値観を刷り込み「俺の部下であれば茶碗の価値がわからないはずがない」と言って家臣たちの前で茶器を披露した。
 さらに大勢の人を集めて茶会を催し、収集した茶器を披露しては「素晴らしい。こんなに価値の高いものは、この世に茶器以外ない」と言っている。
 古来より天皇や上級の茶人が茶を嗜んでいたという既成事実もあり、その裏付けも充分だったので都合が良かった。かの有名な千利休も信長に仕え、千利休には信長に茶道を教える一方で、茶器の鑑定人としての役割もあった。信長が「価値のある茶器」だと言い、それを千利休が「間違いない」とお墨付きを与えれば価値が倍増したのである。
 事実、国宝や重要文化財に指定された茶器が美術館や寺に保管されているが、ほとんどが安土桃山時代のものである。茶道の開祖と称される僧侶の村田珠光は、作法や礼儀を重んじる「侘び茶」を好み、次第に珠光の茶道は富裕層に広まり、皮肉なことに茶器が高い価格で取引される。ちなみに珠光の弟子が千利休である。戦国武将は土地よりも「茶碗」を欲しがうようにしたのは織田信長の人心掌握術であろう。
 信長は商人や家臣など限られた参加者を集めて茶会を催し、自分が所有する200点にも及ぶ茶道具を見せつけている。自身の権勢を示し茶の湯が武家の儀礼であるとした。安土城の建築で功績を挙げた丹羽長秀に「珠光茶碗」を与えたのが始まりで、その光景を見た家臣たちは茶器に憧れを抱き、茶器を集めるために手柄を挙げたいと思うようになった。茶会を開くことを信長から許可されることを大きな名誉として感じるようになった。
  たとえば滝川一益が武田家(勝頼)を滅ぼした褒美として、上野一国と信濃二郡を与えられ、さらに「関東管領」と奥羽の大名をまとめる役割も与えられている。しかしこのとき滝川は信長に茶器が欲しいと言うつもりだった。しかし関東で働くことになった滝川は「こんな遠方に来ては、もう茶は楽しめない」と手紙に記して嘆いている。領地や官職より茶器のほうが価値が高いということを物語っている。
 新しい価値を導入するためには、自分で価値観を演出して価値観を刷り込むことが重要である。自分も欲しいと欲求しなければ闘争心は生まれない。信長が茶器で人心掌握できた背景には「心理欲求」のコントロールがあった。茶器に憧れを抱く者たちは「欲しい」という欲求が生まれ、そのため闘争心が生まれるのである。現代で言う「宣伝伝効による洗脳」である。茶器を持つことで悩みが解決することによって「使ってみたい、買ってみたい」という意欲につながるのである。   

 

石山本願寺と堺

 比叡山は焼討ちで破壊したが、信長にとって死を恐れぬ一向宗の門徒たちは手強かった。総本山といえる大坂の石山本願寺(跡地は大坂城)が、難攻不落の城並みの防御力を誇っていた。

 京都に上洛した織田信長は、石山本願寺を支配しようと、京都の御所の修繕費用を名目に本願寺と堺の会合衆に多額の資金提供を要求し、もし断れば織田軍8万の軍勢が攻め込むと脅迫する。本願寺は大阪に拠点となる城を持っていたため、信長はここからの立ち退きも要求した。これに対し本願寺は、資金提供には応じたが、本拠地である大阪の城(石山本願寺城)からの退去は拒否した。
 以後、本願寺と織田家は交渉を続ける事となる。一方、堺の会合衆は資金提供の要求を拒否し織田家と敵対していた三好家と協力して対抗しようとするが三好軍は敗退した。その後、会合衆の中で議論が紛糾したが、会合衆の一人「今井宗久」という人物が織田信長との和睦を訴え主戦派の商人たちを説得した。その結果、堺は多額の資金提供に応じ、織田信長に臣従する事になった。以後「今井宗久」は、織田家の御用商人(専属の商人)として高い地位と財力を得る事になる。

 

荒木村重の裏切り

 石山本願寺(大阪)から見て西方に位置する播磨(兵庫県)は、下手をすれば退路を断たれかねない立地にあった。西と東から挟撃される危険性を伴っていた。
 当初は織田方だった播磨三木城の別所長治も毛利方についており、にわかにその危険性は高まっていた。別所長治は信長に数回の拝謁をするなど、播磨平定での大きな足がかりとなっていただけに事態は決して軽んじられず、その約1ヶ月後、実際に毛利の本隊も動く。毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家という名だたる将たちが上月城を囲んだのである。秀吉が攻略し、尼子一族が入っていた城である。
 三木城の攻略に取り掛かっていた秀吉は、すぐに上月城へ向かったが、谷と川に遮られて手出しが出来ず。結局、信長の指示により上月城は事実上見捨てられ、尼子勝久は自害して果て、山中鹿介も後に殺されるのであった。
 同年10月、石山本願寺を囲んでいた荒木村重が突如として織田を裏切り、摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城した。まだ野望を捨てていない足利義昭の働きかけがあり、毛利と同時に荒木村重も動いたのである。
 その説得に向かった黒田官兵衛が約1年に渡って荒木村重に幽閉され、織田信長に「裏切り者」と勘違いされ、このとき人質に取られていた官兵衛の息子(黒田長政)に殺害命令が下されたが、竹中半兵衛が独断で匿っていた。秀吉も把握していた可能性が高いと思われる。
 このとき織田信忠の軍勢により石山本願寺の攻略はかなり進んでいたが、有岡城が反目に回れば途端に息を吹き返しかねない。ましてや秀吉の中国侵攻も覚束なくなる。むろん毛利方にしても正念場であり、瀬戸内海の毛利水軍、有岡城、石山本願寺ラインで織田を食い止めることは自国の防衛にも適っていた。

 荒木村重のこもる伊丹城は信長によって包囲され、翌年9月、荒木村重は単独で脱出に成功した。しかし城に残された村重の家族36人、家臣の妻子122人が信長に捕われてしまい、信長は全員を処刑し、さらには下級家臣と妻子合わせて五百数十人を古民家4軒に押し込めて放火し全員を焼き殺した。

 信長の方針は「積極的な版図拡大」だったため、部下が戦場で活躍すれば広大な領土が恩賞として与え、逆らえば恐ろしい報復を受けた。

 

石山本願寺との戦い

 織田信長と対立した宗教勢力・石山本願寺(大阪)も傭兵集団・雑賀衆 を率いる「雑賀孫市」の支援を受けつつ、織田信長に激しく抵抗し、各地で織田家の軍勢を攻め立てた。1570年から、本願寺から顕如が退去する80年(本能寺の2年前)まで10年間続いだ。

 毛利家が村上水軍を使い海路から兵糧や武器弾薬を運び続けたからである。石山本願寺との戦いは信長は石山本願寺への輸送を断つため、1576年に村上水軍と戦うが、強力な火器を持つ村上水軍によって、信長軍の船は次々に炎上して惨敗してしまう。

 1578年4月、織田軍は本願寺へ出陣した。嫡男の織田信忠が大将となり明智光秀や滝川一益、丹羽長秀などの重臣たちが従った。同年3月に上杉謙信が亡くなったが、同軍の出陣後に知らされたことになっているが、すでに兵力には相当の余裕があった。
 織田方に謙信の死が報告されると、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀の3名は丹波(京都)へ進軍することとなった。このように織田軍の勢力が組まれた

 このままでは石山本願寺を落とすことができない。信長軍が村上水軍に敗れたのは、敵の火器で自軍の船が燃やされたからだった。それが敗因ならば燃えない船をつくれば勝てるはずである。船を燃やされないためには頑丈な鉄を使えばよいのであるが鉄は重く沈んでしまう。

 そこで信長の柔軟な頭脳はとてつもない発想を思いつく。鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくりその周囲に薄い鉄を巻けば沈まないはず、こうして完成した鉄板装甲の巨大軍船は600艘もの村上水軍を散々に打ち破り、毛利水軍を木津川河口の戦でを一方的に退けるのであった。大阪湾の制海権を掌握した。本願寺の援軍を断って本願寺を屈伏させて畿内を完全に支配した。

 日本で初めて国産の大砲を製造させ、この鉄鋼船に搭載し実戦使用した他、大砲を陸上兵器としても使用した。このように、戦闘で負けない為には、敵の兵の命を先に奪い取り、自軍の兵の命を守ると言う、少しでも有利な戦いができるように工夫している。

 毛利家からの補給路を断たれた石山本願寺は追いつめられ、三木城が降伏するともはやこれまでと思ったのであろう、石山本願寺は正親町天皇の意向を受けて、信長との和睦に応じた。1580年についに信長に降伏した。

 顕如が雑賀(和歌山県)へ退き、最後まで残った本願寺教如一派が退去するときには、同寺を隅々まで補修・掃除をして、槍や鉄砲などの武器をすべて掛けて置いた。こうして雑賀や淡路島からやってきた数百艘の船に乗り門徒たちは散り散りに別れていった。ただし明け渡しの直後に松明の火がお堂に燃え移り本願寺は三昼夜に渡って燃え続け完全に灰となった。

 およそ10年にわたって戦いを続け、多くの家臣や肉親を失うことになった本願寺に対して、信長は以後は逆らわないことを条件に、今後の布教は自由としたのである。

 

信長と宗教

 信長に対して反逆さえしなければ、たとえ激しく戦った相手でも信教の自由を認める。このように信長はいわゆる宗教弾圧を常としない考えであった。

 この石山本願寺の合戦のこの過程で、信長は一向一揆を徹底的に弾圧した。伊勢長島の一揆では男女2万人を焼き殺し、100年続いていた越前の一向一揆を攻撃した際は、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数は4万人、信長は手紙の中で「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」と書き記している。鬼も震える冷酷非情であるが、石山戦争の初期に兄信広と、可愛がっていた弟信興と秀成を失っており、このことが狂気じみた残酷さの背景にあることを加えておく。

 比叡山延暦寺を焼討ちした後でも、信長は天台宗の禁教令を出していない。後に豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教(カトリック)が禁教とされ、宣教師や信者たちが激しい弾圧を受けたことに比べれば対照的である。

 巨大な圧力団体と化していた宗教勢力は、信長によって徹底的に滅ぼされました。信長は宗教を嫌っていたのではなく、宗教が圧力団体となって政治に圧力を加えることを嫌っていたのである。比叡山延暦寺の焼き討ちがあたかも宗教弾圧者のように捉えられるが、当時の寺社は決して無抵抗な宗教団体ではない。己の利権を守り、主張を押し通すために武装していた。つまり信長は「宗教」を盾にした武装組織を、あくまで敵対者として排除したのである。反抗した比叡山や本願寺に「禁教令」を出していないことからも、彼に宗教弾圧の意思がなかったことは疑いない。

 宗教勢力との宿命的な対決を経験した信長にとって、信仰の道から外れて権益にしがみつく仏教こそが嫌悪の対象だった。しその一方で西洋の進んだ文化や技術をもたらしたキリスト教(カトリック)を保護した。ちなみにカトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解した。信長の柔軟な発想力がうかがえる。

 我国では宗教団体が政治にかかわることがない「宗教の自由」がる。日本国憲法第20条で明確に規定されている政教分離は、信長がその道筋をつけてくれたといえる。信長は室町幕府を滅ぼし、その後も領土を拡大し続けたが、織田家が元々守護代の家臣という低い身分であっただけに、他に対する権威という面ではどうしても見劣りしていた。

 

生き神

 1581年、信長が47歳のときに京都で馬揃(うまぞろえ)軍事パレードを行い、信長の力を天下に見せ付けた。家臣団の構成は、北国方面は柴田勝家、丹波、丹後方面は明智光秀、関東方面は滝川一益、中国方面は羽柴秀吉、対本願寺戦は佐久間信盛であった。

 信長は1578年に右大臣・右近衛大将の官位を辞してから無官のままであった。そこで朝廷は甲州征伐の戦勝を機に、祝賀の勅使を下し信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙する「三職推任」を打診した。しかし信長は勅使を饗応したまま、この件について返答をしなかった。

 ここで信長は新たな発想を持った。すなわちそれは「自ら生き神になる」ことであった。織田信長は天皇になろうとしたのではない、それを超えた存在である神になろうとしたのである。日本は神の子孫である天皇が治める国である。天皇がこの国の主権者なのは天皇が天照大神という神の子孫であり、神の子孫が日本を治めるという原則が飛鳥時代以降定まっていたからである。日本は神の子孫の天皇家の血を引かない者が、天皇になることは絶対になった。天皇家以外の人間は「神のDNA」を継いでいないからである。そのため藤原氏は自分の娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子供を天皇にすることで何とか権力を掌握した。関白も同じで、関白とは本来臣下であるはずの藤原氏が実質的な皇族扱いとなり、いわば準皇族が天皇の権限を代行する形で天皇家の権限を奪ったのである。武士の世界では、天皇から武士団の棟梁(とうりょう)が征夷大将軍に任命されることによって、日本の統治権を委任されるというシステムであった。これは幕府政治と呼ばれるべきもので、この制度は江戸幕府の将軍、徳川慶喜が天皇家に「これまでお預かりしていた統治権を返還する(大政奉還)」という形で終止符が打たれた。

 このように関白にせよ将軍にせよ、あくまで天皇の代理であり、その権限は天皇にある。しかも関白は藤原氏の選ばれた家柄(五摂家)、将軍は武士の中でも源氏の嫡流しかなれなかった。そのため鎌倉幕府の源氏将軍を滅ぼした北条氏も、源氏に代わって将軍にはなれず、源氏の嫡流と称する足利氏が北条氏を滅ぼして将軍の座を奪ったのが室町幕府である。室町幕府の統制力は失われ、将軍の命令を誰もがきかなくなり大名同士が勝手に私闘を繰り返したのが戦国時代であるが、たとえ下克上の戦国時代であっても藤原氏でも源氏でもない人間が関白や将軍にはなれなかった。

 信長が統治の関係上、自分を神として奉らせる必要を感じていたとしても、本心から自分を神だなどとは思っていなかった。しかし旧来の仕組みを変え、新しい体制を築こうと思えば、日本においては神になるしかなかった。

 天皇がこの国の主権者なのは、天皇は天照大神という神の子孫であり、関白あるいは将軍も天皇の代理であるから権威があった。全く新たな権威を作るには、神の子孫である天皇家の権威を超えなければならない。そのため神の子孫ではなく自らが「神」になるしかなかった。織田信長は当然の結論の実現を目指したのであろう。

 しかし織田信長が自ら神だと言いだしたのは、イエスズ会教師ルイス・フロイスが同僚に宛てた書簡の中に書かれてあるのみで、他の文献には見られないことからイス・フロイスの誤解の可能性もある。誤解でなくとも、秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現となり死後に神となっているが、聖なる存在として崇められる神とは違い、織田信長の場合は自分と神が一体化した神威を思いついたのかもしれない。

安土城

 現在の感覚では安土は京都でもなく名古屋でもなく、中途半端な場所に思える。しかし信長は若いころから本拠地を何度も移している。1555年に那古野城から清洲城(愛知県西部)に本拠を移して尾張を統一し、1563年に小牧山城(愛知県北部)に腰を据えて美濃(岐阜県南部)を攻撃した。1567年には、美濃の領主を追放し、その居城の稲葉山城(岐阜県岐阜市)に本拠を移して岐阜城に改名しており。その翌年に上洛を果たした。このように信長は次の標的に近い場所に城を移して進攻するというやり方で勢力を拡げていった。岐阜城に本拠を移してから数年間、四方八方敵だらけの状態になるが、1573年に浅井・朝倉氏を滅ぼし、1574年に伊勢長島の一向一揆勢を討伐。1575年に長篠の戦いで武田氏に勝って一服すると、次の目標は西国、つまり石山本願寺がある大坂や、毛利氏が支配する中国地方となる。そのため岐阜より西方に城を移そうとした。しかし京やそれより西に本拠を構えると、今度は東方が心配になる。信長の領国の東にある三河国・遠江国(愛知県西部・静岡県西部)は、信長と同盟関係にある徳川家康が治めていたが、そこは戦国時代である。情勢が変わればいつ裏切られるか分からない。そのため極端に岐阜から離れるわけにもいかなかった。長篠合戦で武田家を破った織田信長は、本拠地と京の往来の中継地として近江の安土を重要視した。

 1576年から近江の安土(滋賀県安土町)に七重の大天守閣を持つ安土城を築き始め、同年1月に織田家重臣の丹羽長秀を建設の総責任者に指名し、2月には仮の住まい部分が完成し信長が入城した。信長はそれまでの岐阜城を嫡男の織田信忠に譲り尾張・美濃両国を支配させ、自分は豪華な安土城へ移った。安土城が完成したのは工事開始から3年後である。本来、日常的に合戦が行われていた戦国時代において、いつ戦闘がおこるか分からないことから城を建てる場合は防衛上重要な部分が優先されてた。そのため安土城のように先に居住部分を建て、何年も工事を続けて完成させると計画そのものは前代未聞であった。

 安土城はそれまでの築城の常識を大きく変えるものだった。安土城は日本で初めて石垣に天主が乗る構造で造られた独創的なデザインであった。五重七層の天主を備えた非常に壮麗な城であった。安土城建設のために使われた技術は、その後江戸時代初期ごろまでに相次いで全国で築かれた近世城郭のモデルとなった。しかし現在は石垣や石段の一部を残すのみで、当時の建物の様子を窺い知ることは出来きない。

 それまでの城は攻められにくいように山の頂上に建てるのが通常でこれを山城といった。しかし安土城は小高い山に建てられた平山城であった。山城から平山城へと城の建築方法が変わったのは、鉄砲の出現による。堅固な山城であっても、鉄砲の射程距離内であれば、結局は攻撃を受けるからである。

 しかし平山城であれば、城の周囲に大きな堀を設け、あるいは城自身を高く設計して射程距離にかからないようできる。さらに城に立てこもれば、城に迫る敵を鉄砲で狙い撃ちすることができた。しかも平山城であれば、交通の便が良く、城下町をさらに大きく広げることができた。経済が活性化して発達すれば収入が増え、さらに大きくて頑丈な城を建てることができた。

 1577年、信長は安土に楽市令を出して、商人の自由な経済活動を支えた。このことで多くの商人が集まり、その財力は信長にとって兵力に勝るとも劣らない大きな武器となった。安土山の周囲は建造当時は内湖が取り囲み、郭(くるわ)が琵琶湖に突き出すように建っていた。郭とは壁や堀などで城の外周を囲んだ部分のことで、城下町には湖へと向かう港があるなど水辺の都市として繁栄した。安土城が完成しても家族を呼び寄せずにそれまでの岐阜に住まわせていた家臣120人に対して、岐阜の家臣の家を放火し、強制的に安土へ引越しさせた。

 安土城が出来る前、信長は岐阜城を本拠地にしており、たびたび岐阜と京の間を行き来していました。しかし岐阜と京の間は相当の距離があり、片方で異変があった際、準備をして駆けつけるのに時間がかかりました。そのため、この重要二地点の中間に城を建てて滞在し、どちらで異変が起きても早く駆けつけられることを望んだのだろう。

 安土城は琵琶湖のほとりに建っており、船を出して湖を迅速に移動する事が出来、舟を使えば京へは半日で入れた。これは有事の際に非常に便利であり、さらに湖北地域・北陸方面にもにらみを利かせる上で重要だった。安土城は京から東海方面・北陸方面へ移動するための街道沿いにあり交通の要衝だった。当時、信長は越前・加賀(福井県・石川県)の一向宗の信者衆、さらに越中・越後(現富山県・新潟県)の上杉謙信と対立しており、上杉謙信との戦闘に備える必要があった。
 また交通の往来が盛んな場所には、たくさんの旅行者や商売人が立ち寄る。そこで自然と市場ができ、商業が活性化します。そのモノやカネのやり取りに課税することで、潤沢な資金を蓄えることが出来た。

 信長は天下統一事業を安土城の外観で象徴し、自分の権威を人々に知らしめる意図を持っていた。それを徹底するため信長自身が天主で寝起きし、その家族らは本丸付近で生活した。家臣は城がある山の中腹より低い場所や城下の屋敷で暮らした。
 派手好きで目立ちたがりだった信長は、城下で度々相撲大会を開いたり、天主を提灯でライトアップするなど、奇抜なイベントを行わせました。1582年には、一般の人々に本丸御殿を見物させて観客から見物料を徴収している。通常、城内の道は敵の侵入を妨害するため、細く曲り角を多くして作られが、安土城では入り口の門からの道が幅6mと広く、そこから約180mも直線の石段が続きました。また防御用の設備もとても少ない状態であった。このことからも安土城は軍事的な機能より、政策的な機能を優先して作られたと考えられる。

 宗教勢力との宿命的な対決を経験した信長にとって、信仰の道から外れて権益にしがみつく仏教は嫌悪の対象でしかなかった。その一方で西洋の進んだ文化や技術をもたらしたキリスト教(カトリック)を保護した。ちなみにカトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解した。信長の柔軟な発想力がうかがえる。

 

安土城と神

 安土城は豪華な造りで知られるが、信長が神として存在するための宮殿であったとされてれる。例えば通常なら「天守閣」というべきところを「天主閣」と名付け、「天主閣」の上階には釈迦の住む仏教世界が描かれ、最上階は金箔で覆われ、古代中国の賢人達が描かれ、自らが仏や神を超えるものとした。

 また安土城の天守閣から見下ろす本丸部分に天皇の御所とよく似た構造の建物跡が発見され、信長はここに天皇を置き、自分が天皇より上の「神」であることを天下に知らしめるつもりでいたのだろう。

 「信長=神」という発想は「強者=神」の発想になり、信長の目算は狂い本能寺の変で信長は神にはなれなかったが、その失敗を近くで見ていたのが家康で、自らを東照大権現として祀るようにしている。権現とは神の化身(けしん)を意味しており、その発想は信長と同じであった。

 それまでの権威を超えるため「自らが神になる」と宣言した信長であったが、絶対的な権力を持つ為政者が自らを神格化することは大変危険なことであった。それは自分が神のような存在になることで「自分が正しいと思うことは何でも正しい」という独裁的な思想を持つことになるからである。事実、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなり、信長の行動は古今東西の独裁者と同じような非情な一面を見せるようになった。例えば1580年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛や林通勝(みちかつ)を、過去の不行跡を理由に突然追放している。

 

神としての織田信長

 1582年3月、織田信長はその日、前例のない行動に出る。各地のお寺から「ご神体」を集め、建物の一番高い所にある「盆山」と称する石を置き、それを自らの化身として祀って、自分の誕生日にはこの石に参拝するよう人々に命じたのである。当時は 仏教、 キリスト教が流行しており、 天皇家や将軍の権威などがあった。信長はそれらの権威に対し自らを神としたのである。

 宣教師のルイス=フロイスの「日本史」では「日本においては神の宮には神体と称する石がある。神体は神の心または本質を意味し、安土山の寺院(摠見寺)には神体はなく、信長は自らが神体であり生きた神仏であるとし、世界には自分以外に主はなく、自分の上に万物の創造主もない、地上において崇拝されるべき」と書かれており、自分の誕生日を聖日と定め、老若男女を問わずにこの寺に参詣するよう命じ、信長を神として崇め、誕生日に参詣すれば功徳と利益があると高札に書かれたと記載されている。

 自分を拝むように命じた。これは信長が「神」を自称した瞬間であった。神や仏を信じない織田信長が自らを神として祀ったのはどういう意図かは解らない。フロイスの記載が正しいかどうかは分からないが、城の敷地内に寺院を建立した例はないことから、信長は自らを神と称していた可能性は高い。

竹生島事件

 1582年の4月には自分が安土城を留守にしている間に、無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件を起こしている。この侍女虐殺事件は、信長は安土城から琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)参詣に向かったときに起きた。

 安土城から竹生島までは往復120km以上と遠路であるため、城の侍女たちは信長が羽柴秀吉の居城・長浜城に泊まるに違いないと思い、皆が緊張感から解放された。女房衆は桑実寺へお詣りに出かけたりして羽をのばしました。

 ところが信長は疾風の如く参詣を終え日帰りで帰って来た。お城は仰天の限りである。本丸に勤めているはずの侍女が二の丸にいたり、ある侍女は城下町で買い物をしたり、桑実寺にお参りに行っていた。信長の癇癪玉が炸裂し、外出した侍女たちを縛り上げると皆殺にした。女房衆は恐れおののいて桑実寺の長老に助けを求め、長老は同情して慈悲を願うが侍女たちの助命を願った長老まで一緒に斬殺しのである。敵兵を斬るならともかく、安土の侍女たちを切るとは狂気じみている。

 自らを神とした信長の意図はともかく、キリスト教の宣教師たちには、それは神を冒涜する恐るべき行為に見えた。

 ルイス=フロイス は「信長は神デウスにのみ捧げられるべき礼拝を横領し、途方もない狂気の言動と暴挙に及んだ。 我らの神デウスは、彼と彼を参拝する者達の歓喜が続くことを許さなかった」と記している。

明智光秀

 織田信長の狂気じみた行動に、家臣たちは「明日は我が身」とおびえた。その家臣の中に信長に見出され、例のない出世を果たした武将がいた。彼こそが我が国の歴史を大きく塗り替える大事件を起こした明智光秀だった。

 明智光秀は皇室などの古来からの権威や秩序を重視していた。自らが神となる信長の姿勢やその独善的な態度は、光秀にとって信長から受けた恩を差し引いても許されるものではなかった。心の中で次第に反感が高まった。信長にはついていけないと思ったのであろう。

 本能寺の変の当日、信長の三男・織田信孝は長宗我部元親を撃つために出陣するはずであった。この長宗我部元親討伐は明智光秀にとって許されないことだった。当初、信長は四国全域制覇を条件に長宗我部と同盟を結び、その仲を取り持ったのが光秀だった。しかも光秀の家臣の妹を元親に嫁つがせていた。また人質として差し出した母親を殺されたことから恨みがあった。信長は自分の苦労を水の泡にするだけでなく、家臣の縁者を見殺しにしようとしていると思い込んだ。

 5月15日、徳川家康が甲州征伐の戦勝祝いのために安土城を訪れると、信長は明智光秀に接待役を命じ、光秀は家康を手厚くもてなすが、この時光秀の接待に不満を覚えた信長は、森蘭丸に命じて光秀の頭を叩かせた。このこともあり、絶望した光秀の心の中で秘めていたものが炸裂したのである。

 

時は今 雨が下しる 五月哉

 本能寺の変の9日前、京都・愛宕神社で明智光秀が開いた連歌会でのことである。愛宕神社は軍神として武家に信仰されており、光秀もまた自らの武運を祈願するために訪問し、その翌日、連歌会を開いた。

 光秀が「時は今 あめが下しる 五月かな」と発句すると、次に威徳院行祐が「水上まさる 庭の夏山」と続き、第三に里村紹巴が「花落つる 池の流を せきとめて」と詠んだ。

 「時は今」は光秀は「土岐氏の一族」と名乗っていたので、土岐を意味しているとされ、「雨が下しる」は「天が下しる」の暗喩で天下を支配するということで信長を襲う意志を詠んだものだと解説されている。

 さらに里村紹巴の句頭にある「花落ちる」は、花(信長)が落つる(死ぬ)と解釈と、池の流れをせきとめているのは信長であり、池の流れは朝廷が治める国家の秩序を信長が滞らせている。つまり信長を討つことは罪悪ではないので今やるべきだと解釈できる。また池の流れを信長の天下布武ととらえるなら、信長の首を落とし信長が進める新しい支配体制くい止め天皇の秩序を取り戻そうとなる。
 さらに花(光秀の計画)が落つる(失敗に終わる)というもがある。池の流れをせきとめては「(信長暗殺の)計画は上手くはいかないから、考え直しなさい」と紹巴が諭していることになる。
 しかしこの解釈ではどちらも光秀の発句が「信長を討つこと」にある。この発句以前からその計画を知らされていた可能性があり、この発句を聞かされて初めてその決意を知ったとことになる。本当に光秀の発句は信長を討つことを宣言したのだろうか。明確に連歌の裏に潜む真意を読み取ることは難しく謎は謎のままであるが、何もかもが光秀の発句の意味次第で解釈が大きく変化してしまうことは確かである。
 この謎の真意を紐解く鍵は紹巴の日記の改竄である。本能寺の変後、山崎で光秀が敗れたことを知ると、秀吉からこの連歌会で光秀の決意を事前に知っていたにも関わらず、信長に報告せずに、明智に荷担した疑いをかけられた。その際、紹巴は自分の日記の該当個所を書き直している。光秀の句を書き換え「ときは今天が下なる五月哉」で、五月雨(さみだれ)の情景を詠んだものに過ぎないとしたのである。そのため紹巴は光秀の謀叛を知ることはなかったと弁明している。しかし改竄したのは光秀が信長を討つこと知っていたからと考えられ、本当に五月を詠んだだけの句なら、何もわざわざ改竄する必要はないはずである。

 連歌師・里村村紹巴は当時の連歌界を代表する存在だったが、本能寺の変後に羽柴秀吉に厳しく詮議を受けている。紹巴は懐紙を持参し光秀の発句を示し「あめが下しる」の「し」に書き直しの跡があり、紹巴は「あめが下なる」とあったものを、誰かが自分をおとしめるため「下しる」に変えたと弁明したのである。実は最初から「あめが下しる」とあったのを紹巴自身が「し」を消した上にまた「し」を書いて裏工作をしたとされている。

 また愛宕山に泊まった光秀は境内でくじを運を何度も占い、明智光秀は連歌が巡詠される最中に、本能寺の堀の深さを尋ねたことが伝えられている。また「戦の際、携帯食として持ってきたちまきを外側の笹の葉ごと食べた」などの逸話が残されている。

 信長は豊臣秀吉の毛利攻めの援軍のため、明智光秀に秀吉の援軍に向かうよう命じた。つまりは秀吉の下につくことになる。明智光秀のプライドが許すはずはなかった。明智光秀の軍勢は領地の丹波亀山(京都府中部)を出発して京に近づくと、備中と京への分かれ道で突然京へ向きを変えた。そして明智光秀が高らかに宣言した。「敵は本能寺にあり」。この「敵は本能寺にあり」は明智光秀が本能寺の変の際に発したとされる有名な台詞であるが、江戸時代中期に書かれた軍記物「明智軍記」の中にある記述で、織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀は、軍勢を備中の毛利勢を攻めると見せかけて出陣するが、本当に討つべき敵は本能寺にいるとして、進路を東にとって京都の本能寺に向かったのである。

 光秀は信長の殺害を決意したが、光秀への忠誠を誓う者が少なかったため標的が信長であることを伏せていた。相談する大名も、止める家臣もいないまま、光秀の謀反を直前に知らされたのは5人の重臣だけだった。「敵は本能寺にあり」は後世に創作された文言で多くの小説で使われている。

 

敵は本能寺にあり

 織田信長は、甲斐の武田勝頼を滅ぼし、天下統一まであと少しの段階まできていた。しかし1582年6月1日の深夜、織田信長はわずかな手勢で京の本能寺に宿泊していた。本能寺は京都での織田信長の滞在施設として建設された無防備な寺ではなく、1580年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた施設になっていた。織田信長は京都に滞在する際にも、ある程度の警戒は怠っていなかったのであるが、この夜、本能寺にはわずかな兵しかいなかった。そこへ1万3千の明智光秀の軍勢が突然襲撃してきた。

 明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺したが、内部ではこのような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと茶坊主と女たち以外は誰もいなかった。兵は少なく抵抗する者はいなかった。

 信長は鉄砲の音で部屋を出ると、敵が本能寺に突入して来た。信長が「これは謀反か、攻め手は誰じゃ」というと、蘭丸が「明智が者と見え申し候が」と答えた。

 是非に及ばず(何を言っても仕方がない)と言うと、信長は弓矢を放ち弦が切れると槍を手に取ってに奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍に敵うはずはなく、やがて戦うのを止めた。何しろ多勢に無勢である。智将・光秀の強さは信長が一番知っていた。火矢が放たれ本能寺は燃え上がった。

 信長は突然の光秀の謀反になすすべもなく、居間に戻ると自ら火を放ち炎上する本能寺の奥の間に入り腹を切った。覇権の天下統一の夢は消え、業火の中で49歳(満48歳没)の生涯を閉じた。この大事件は我が国の歴史を大きく変え「本能寺の変」と呼ばれている。

 明智光秀は信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地に使われていたため、火薬が備蓄されており信長の遺体が爆散しためとされている。しかし本能寺から200mほど離れた教会にいた宣教師ルイス・フロイスは銃声の音は聞いたが、火薬の爆発音は聞いていない。

 明智勢は信長の遺体を探したが見つからなかった。光秀は信長が脱出したのではないかと不安になるが、これを見かねた斎藤利三が合掌して信長が火の手の上がる建物奥に入っていくのを見たと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった。

 信長は本能寺で自刃したことになっているが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、自刃するのを誰が見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの疑問がある。「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、信長の遺体が発見されないのならば、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。信長の遺体を余程わかりにくいところに隠したか、遺体を外部に持ち去った人物がいるのか、明智軍が遺体を確保したがその事実を秘匿したか、あるいは隙を見て信長が逃亡するのに成功したかのいずれかだろう。密かに脱出し別の場所で自害したという説、また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説がある。

 当時は首を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に知らしめた時代である。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性があるほど、相手の首を取ることが重大事であった。

 何れにしても明地光秀が信長と信忠の首を手に出来なかったため信長生存説を否定できず、そのため信長の配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったのである。なお最後まで信長に付き従っていた黒人の家来・弥助は、光秀に捕らえられたが放免となっており、それ以降、弥助の動向については不明となっている。

 羽柴秀吉は中国大返しの際に多くの武将に対して「上様ならびに殿様いづれも本能寺から御切り抜けなされた」との虚報を伝え、数日間は近江でも信長生存の情報が錯綜し、光秀が山岡景隆の与力武将にすら協力を拒まれた。このように「信長生存説」が明智勢に不利に働いた。

 木造の本能寺が焼け落ち、本能寺の大きさから、また膨大な残骸の中から、特定の人物の遺骸は見つけられなかったのもである。遺体が灰燼に帰してしまうことはあり得ることである。しかし遺体が見つからなかったため、信長は密かに脱出し別の場所で自害したという説、あるいは信長を慕う僧侶によって人知れず埋葬されたなどの説が流布した。

 織田信長の嫡男・織田信忠はこの頃はすでに信長の重臣たちと肩を並べ、大軍勢を率いる後継者だった。本能寺の変の際も、信忠は信長とともに秀吉の援護に出陣する予定であった。宿泊先は本能寺ではなく京都の妙覚寺であった。

 本能寺の変を知ると信長を救うため出発するが、手勢が少なく二条御所に篭城した。そこを明智勢に攻められ信長と同じように奮戦したが自害した。つまり織田家はこの変で信長と嫡男を同時に失ったのである。

 本能寺の変の直前、羽柴秀吉は中国地方の大名・毛利氏を攻めている真っ最中だった。そもそも織田信長が本能寺に宿泊していたのは、この秀吉を援軍を送るためだった。

 秀吉は即座に毛利勢と和睦すると、とてつもない早さで京都へと辿り着いた。明智光秀は頼みとしていた細川氏・筒井氏などの大名の応援はほとんど得られず、安土城を占領するなど畿内一帯の制圧をはじめるが、急を聞き駆けつけてきた羽柴秀吉に山崎の戦いにて敗れ、敗走中に京都小栗栖にて土民の槍に刺され死去したとされている。

 秀吉軍は明智光秀を討ち、信長死後の政局に優位に立ち回ることになる。明智光秀の天下は信長横死後わずか11日間であった。明智光秀は中国地方の遠征を切り上げて上京して来た羽柴秀吉にあえなく討ち取られた。

本能寺焼討之図(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)

 尾張の小領主の家に生まれた信長は13才で元服し、18才で父信秀の後を継いで10年で尾張国内を統一し、27才で桶狭間の戦いで勝ち、岐阜城で天下布武を掲げるのが34才のときである。さらに10年足らずで日本の中枢を支配した。光秀の裏切りがなければ間違いなく日本全土を掌握していただろう。

 信長の特徴は、若いころから天下統一の野心を燃やしその実現に尽力したことである。そのためには室町将軍や天皇といった「昔の権威」を飾り立て、自分の政治行動の正当性を維持しようとし、抵抗勢力に対して非妥協的態度を貫いて殲滅に努めた。また妥協や和合をせず独自の方法で戦った。そのため徹底的な能力主義の人材登用と人材評価を行ったため、信長の下に経験豊富で優秀な部下が集まった。さらに大切なことはそれまでの農業主義から商業資本主義への切り替えであった。楽市楽座の育成に努めたため財政が充実し、その結果、農村と切り離された専業兵士を基幹戦力に位置づけ新兵器の鉄砲を大量に装備できた。

 これらから窺えるように、信長の政策は何から何まで革新的で革命的だった。織田信長は、今川、斉藤、朝倉、浅井、三好、武田、本願寺といった抵抗勢力を次々に倒し、ついには抵抗勢力と結託した足利将軍家(15代将軍・義昭)を京都から放逐し室町幕府を滅亡させている。

 信長は安土(滋賀県)に広壮な居城を築き、安土城を拠点に天下を睥睨した。彼の圧倒的な軍勢は、北に上杉氏と戦い、東に関東諸豪と戦い、西に毛利氏と戦った。そのころの朝廷は、天皇自らが書画などの内職をしなければならないほど落剥困窮していたが、信長が天下人となって行く過程で様々な援助を受け政治機関としての機能を回復していた。朝廷は信長を征夷大将軍に任命し強大な独裁者と朝廷との位置関係を明確にしたかった。

 しかし信長は右大臣以上の官位を得ようとはせず、信長の夢は「天下布武」で、武士階級を日本の主権者とし、朝廷は武士を権威付けるための単なる機関としていた。

 その信長が天下統一に王手をかけた矢先に、京都にて部下の明智光秀の突然の謀反に倒れた。この明智光秀は低い身分から信長によって大抜擢され、忠勤に励んでいた重臣である。光秀は足利義昭を織田信長に引き合わせ、それ以後、織田家臣と足利義昭側近として2足の草鞋をはき、朝倉征伐の際には姉川の戦いに従軍し、比叡山焼き討ちにも参加している。その功あって織田家中で最初の城主として坂本城を任されている。

 しかし織田信長と足利義昭の分裂は、明智光秀は苦悩の中で織田方に味方し丹波攻略を任される。丹波攻略中にも石山本願寺攻めなどで活躍し、丹波攻略後には民政に手腕を振るい大和国の検地をしている。1582年、信長と一緒に甲州遠征したあと、徳川家康接待を任せられるが、なぜか途中で外され中国攻略・羽柴秀吉の援軍に行くことになった。信長は明智光秀を信頼していたようであるが、なぜ光秀が突然反逆したのかは大きな謎である。

 本能寺の変後、信長の後継者となったのは信長の遺児ではなく羽柴秀吉であった。実力主義の戦国時代では血統など何の価値もなかった。この光秀の謀反には黒幕説が多くあるが、戦国大名に書状を送ったのは変の後であり、堺にいる徳川家康へ刺客を放ったのも変の後である。用意周到の明智光秀が天下取りへの野望があるならば、あまりに杜撰すぎた。何かをきっかけに「突発的に信長を憎む」ことになった理由は戦国史最大の謎である。そのきっかけが信長の怒声なのか、黒幕がいたのかも分からない。明智光秀が織田信長を襲撃した動機については50以上の説があるが、本当の理由は明智光秀しか分からず、謎のままであるが、信長との人間的相違は確かだった。

 明智光秀にとっては愛着ある丹波・近江という領土を取り上げられ、新たにこれから占領する毛利の土地が与えられることになり、その間、支配地がなくなる。つまり一族が路頭に迷う事が最大の要因であったと思う。

 

織田信長と森蘭丸
 織田信長には数多くの家臣がいたが、その中でも特に気に入っていたのが「森蘭丸」である。織田信長の家臣として使えた森蘭丸は、その働きぶりに多くの人が感心するほどだった。森蘭丸の父は百戦錬磨の武将で槍の名手として恐れられていたが、森蘭丸の戦についての記録は残されていない。森蘭丸は小性であるが、事務的な仕事も担当していた。織田信長からの信頼も厚くあ。織田信長から様々な場所に使者として送られるが、その先々で森蘭丸の高い能力が言い伝えられている。森蘭丸は頭脳明晰だったから、織田信長の右腕として事務方の武将と呼ばれるようになった。
 ところが森蘭丸は織田信長と本能寺の変にあい、明智光秀配下の安田国継に討ち取られ死亡した。享年は18とされている。森蘭丸に関しては、様々な言い伝えがあるが、その中でも抜きんでて有名なのが「美少年」という内容である。森蘭丸が美少年だったのかどうかは分からないのが現状であるが、織田信長はその美しい顔立ちに惹かれ元服前の森蘭丸を小性として身近に置くようになり信長と蘭丸は「男色関係」とされている。
 安土桃山時代から戦国時代にかけては、元服前の男性を小性という職に就かせて、身の回りの支度や雑務などをこなせる風習があった。小性は主人の性欲を発散させることも重要な仕事だった。
 織田信長は森蘭丸を小性にしたということは、そういった関係があったのを意味している。憶測に過ぎないが、今でも話題にあがる関係のようです。小性として寵愛を受けていた織田信長と同じ場所で死亡したという点は、まさに運命だったのであろう。

 

本能寺後、秀吉の信長評
 秀吉は「信長は勇将であったが、良将ではなかった。剛が柔に勝つ事はよく知っておられたが、柔が剛を制する事をご存知ではなかった。一度背いた者があると、信長公はその者への怒りがいつまでも収まらず、一族縁者までまとめて皆殺しにした。降伏する者さえも躊躇なく殺すため、信長公への敵討ちはいつまでたっても絶えることがなかった。これは信長公の人間としての器量が狭かったせいであろう。強さや怖さで人に恐れられはしても、敬愛されることはない。例えて言えば信長公は虎や狼のようなもの。人は自分が噛み殺されるのを防ぐために、猛獣を殺そうとするであろう」と評している。信長は出自や家格を無視して能力本位で人物を登用した。秀吉も明智光秀も途中採用の外様でありながら、その才を遺憾なく発揮して家中でのし上がっている。

 しかし本能寺の変が起きる頃になると、織田一族を重視するようになる。甲斐の武田氏討滅戦の総大将には嫡男の織田信忠を任じ、三男の神戸信孝には四国征伐を命じている。また、その他の息子たちにも大事な役目を任せている。秀吉にとって信長は絶対的存在であったが、威圧的に無理やり部下を動かす信長の統治体制は、秀吉にとっても明智光秀と同様に極めて危うく見えていた。秀吉には黒田官兵衛が付いていたから、明智光秀と同じ謀反を起こしても官兵衛はそれを歴史からもみ消し、秀吉を天下人にさせた可能性はある。
 中国攻めにあたっていた秀吉は、本能寺の変前に信長に援けを求めており、信長は自ら出陣して総指揮を執ると答えている。ここで信長が例の如く非道ぶりを発揮する可能性は高い。「高松城の城兵を皆殺しにする」「毛利の領土のほとんどを没収し、反抗的な毛利輝元や吉川元春は処刑する」。このような非情は毛利との間に入る秀吉・官兵衛の立場を無視するものだ。明智光秀と同様な決意を固める可能性はあっただろう。播磨周辺には、信長に恨みを持つ人間が無数にいた。官兵衛が姫路城で好機を見計らい、彼らに強襲するように唆せば実行は容易である。

 信長の人物像(残忍さ)
 1574年の正月の酒宴で、浅井久政・長政父子、朝倉義景の3人の頭蓋骨を杯にして家臣に酒を飲ませた。このことから信長がいかに残忍な人物であることがわかる。その時は、前号の改年にあたり、清めの場で三将の菩提を弔い、敵将への敬意の念を示すためとも解釈できるが、生前の3人を知る家臣たちが3人の頭蓋骨を差し出されたとき、これ以上の驚きと恐怖はなかったであろう。

 次は自分の頭蓋骨が酒の杯になることが想像されたからである。特に明智光秀は朝倉義景から恩を受け、長期にわたり使えていた。その朝倉義景の頭蓋骨に酒を入れられ飲めと言われたのだから、明智光秀の心情はいかなるものだったのか。いずれにしても明智光秀は朝倉義景の頭蓋骨に注がれた酒を飲み干したのである。
 ある時、観内という茶坊主に不手際があり信長が激怒した。観内は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に観内を斬り殺した。そのときの刀(長谷部国重作)はその切れ味から「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられている(福岡市博物館蔵、国宝)。
 1570年、鉄砲の名手・杉谷善住坊による信長暗殺が未然に発覚、杉谷善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に埋め、切れ味の悪い竹の鋸で首を挽かせ激痛を与えながら処刑した。これは信長だけでなく、秀吉も徳川家康も行っており、江戸時代の公事方御定書には極刑の一つとされている(鋸挽き)。
 1578年、尼崎近くの七松で謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔、鉄砲、槍・長刀などで処刑している。女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。信長公記ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまったことによる制裁であった。
 1582年、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発ち、翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが信長は当日のうちに帰還し、侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で全員を殺した。また助命嘆願をした桑実寺の長老も殺されている。

 しかし時は戦国時代である。信長は本当に残忍だったのだろうか。信長の行為の大半は当時の戦国大名たちが常に行われていて信長だけが特殊ではない。1577年、羽柴秀吉は毛利への見せしめとして女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)している。
 信長は弟の信勝を暗殺しているが、信勝を一度は許しており、彼の遺児を養育して元服すると織田一門として重用している。叔母のおつやを処刑しているが、信長の実子(織田勝長)を勝手に武田に差し出したからである。反乱を計画した兄・信広を赦免後に重用し、弟を戦死させた比叡山を焼き討ちにし、長島一向一揆を殲滅している。
 信長の側から盟約・和睦を破った事は一度もない。信長と敵対したのは相手が盟約・和睦を反古にしたからである。信長は独尊の自信家であったが、世間の評判を重視して常に正しい戦いであるように腐心している。また武将としても優れており、桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、長良川の戦いでは殿軍をつとめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立った。通常、最も敵に狙われやすい大将が最前線に出る事はほとんどないなかで、部下たちを鼓舞するために危険を顧みず自ら最前線に出て戦ったのは異例であった。無論、信長自身も普段から武術の訓練を怠ることはなかった。重要なことを他人に任せず自ら先頭に立ち行ったのである。

 

反省する信長
 謀反した荒木村重の説得に向かった黒田官兵衛が帰えらず、同じ時期に官兵衛の主君・小寺政職が離反したことから、官兵衛も裏切ったと判断して、豊臣秀吉が預かっていた人質の官兵衛の息子・松壽丸(黒田長政)の処刑命令を出したが、後に官兵衛が牢に監禁されていた事を知った時は「官兵衛に合わせる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中半兵衛に匿われていた事が分かった時には狂喜し、竹中重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面があった。
 信長公記によると、美濃と近江の国境近くの山中に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。子孫代々、障害者として生まれるため、村などには住めず、山の中で猿のように乞食として暮らしていた。

 岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを観て哀れに思っていた。1575年6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を「山中の猿」に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分は嬉しい」と村人に要請した。織田信長は品物や食料などの生活物資を定期的に与えて保護しようとしたのである。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙した。

 要するに障害者に対して生活保護を行ったのだ。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々は皆、涙したと伝わっている。このように信長は自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であったが、立場の弱い庶民に対しては寛大な一面があった。

 

民衆と織田信長
 また織田信長は身分にとらわれず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かったことが、数々の文献に残されている。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際にはその姿を庶民の前に晒している。
  お盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませ、現代風に言えば「安土城のライトアップ」を披露し「言語道断面白き有様」と記述されている。相撲大会を頻繁に主催し、自分も参加して楽しんだ。相撲大会で優秀な者がいると、武士・庶民の身分に関係なく織田家の家来として登用もしていた。   1582年の正月には安土城を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を招き入れ、信長自らの手で一人につき銭百文ずつ見物料を取り立てた。また馬借が荷物の重さで言い争っていると、自ら馬から下りて荷物の重さを測ったりもした。
 また縁組させた娘達は家臣の前田家や丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁がせ信長の死後も夫から大事にされている。つまり娘を大事にしてくれる婿を厳選する甘い父親であった。

 信長は当時の武将としては女性を大切にし、自分の妻を尾張に残して岐阜に単身赴任した部下を叱り、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を重視した意外な言動が残されている。

 

信長の性格

 信長暗殺の真の黒幕は誰か。光秀と公家には深い親交があったことから、最近では朝廷と見る意見が多い。延暦寺焼き討ちでは天皇が認定した国師(高僧)が焼かれ、本能寺の変の2ヶ月前にも国師・快川和尚が信長の敵を匿った罪で焼き殺されている。国師を殺すと言うことは天皇を全く恐れていないことで、信長は室町幕府を潰した時に、暦を元亀から天正へ勝手に改暦しており官位も返上している。光秀謀反の前月には天皇が信長に勅使を送り幕府開設を勧めるが無視している。信長はルイス・フロイスら宣教師から聞いた欧州の絶対王政を目指しており、国王になるつもりだったのだろうか。その為には王は2人はいらないから天皇を殺し、朝廷公家を滅ぼそうとしたのかもしれない。朝廷はこれを阻止する為に光秀を利用して信長を葬ったとの説の根拠である。
 信長は武闘派として知られるが、外国文化への好奇心が強く、式典の際はビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介(やすけ)と名付けた黒人もいた。信長はまた日本の伝統的な茶の湯、能楽、鷹狩り、相撲などもよく好んだ。茶の湯は政治にも利用し、千利休や今井宗久らを召抱えて、家臣に茶の湯の開催権や茶器を恩賞として与えた。信長の命令や規律は絶対であり、家臣は信長の一声で飛び散ることを恐れ従った。その一方で、秀吉の妻(ねね)へ夫婦喧嘩を仲裁する手紙を書くなど面倒見の良い一面もあった。


信長からねねへの手紙
「ねねさん、先日は私に会いに来てくれて有難う。持って来てくれた土産の数々には目を奪われるほどで心から感謝申し上げます。それにしても、あなたはますます美しくなっているので驚きました。にもかかわらず秀吉はあなたのことを不満に思っているとのこと、これは言語道断である。あなたのような素晴らしい女性は何処を探してもいるはずもなく、禿鼠(はげねずみ、秀吉のこと)には二度と得ることが出来ない。だからあなたも気持ちをほがらかに、妻としてどっしりと構えて、嫉妬などしない方がいい。秀吉には私から何かと意見を述べてもいいが、秀吉の世話をするのはあなたの役目だということも忘れないように」。

 豊臣秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、豊臣秀吉を呼び出して厳しく叱責する人間味を見せている。「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」これは織田信長の性格を表す言葉としてあまりにも有名であるが、意外に気遣う優しさがあった。


宣教師ルイス・フロイス

 織田信長を知る上でポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの観察がより客観的で正確である。特に日本の様子を克明に書いた「日本史」には信長にまつわる記述が多い。フロイスは実際に信長と何度も面会しているので、信長を知る上で参考になる。

 イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などを、織田信長はよく理解し、まだ地球が丸いと知らない日本にあって、織田信長は「理に適っている」と言っており、柔軟な発想の持ち主だった事が伺える。

 フロイスは織田信長を次のように書いている。「信長は傲慢で神をも恐れず、名誉を重んじることこの上なし。決断を内に秘め軽々しく外に表すことがない。戦術は極めて老練でかつ巧みであり、部下の進言を聞き入れることは滅多にない。極度に戦を好み、軍事的訓練にいそしみ、名誉心に富み正義において厳格であった。善き理性と明晰な判断力を有し、はなはだ決断を秘め、戦術はきわめて老練で、戦運が已に背いても心気広濶、忍耐強かった。困難な企てに着手するに当たってはなはだ大胆不敵であった。」

 「さらに激昂はするが平素はそうでもなかった。信長は幾つかのことでは人情味と慈愛を示し、家臣から深く畏敬されていた。人の取扱いは実に率直であるが、信長は他の大名をすべて軽蔑し、頭の上から話をした。そして人々は絶対君主に対するように服従した。信長は戦運が己れに背いても心気広濶で忍耐強かった。
 また善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは法華宗に属しているような態度を示したが、すべての偶像を見下げた。霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なしていた」
 信長の自邸はきわめて清潔で、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、だらだらとした前置きを嫌い、卑賤(ひせん)の者とも親しく話をした。信長が格別愛好したのは、著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りで、身分に関係なく裸体で相撲をとらせることを好んだ。何ぴとも武器を携えて信長の前に罷り出ることを許さなかった。信長は少し憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当っては大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
 最も驚嘆したのは、この信長が如何に異常な仕方、また驚くべき用意をもって、家臣に奉仕され畏敬されていることであった。信長が手でちょっと合図をするだけで、家臣は極めて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去った。信長が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が極めて抑揚のある声で返事した。信長の報告を伝達する者は、それが徒歩であれ、馬であれ飛ぶかごとく行かねばならなかった。都では大いに評価される天皇の最大の寵臣のような者でも、信長と語る際には顔を地につけ、信長の前で眼を上げる者は誰もいなかった、「背丈中くらいで、華奢な体型で、声は快調で高い。信長の睡眠は短く早朝に起床し、酒をたしなめず、人には滅多にすすめず小食であった」と書かれている。

 信長はイエズス会を大いに庇護したので好意的な書き方になることを差し引いても、家臣だけでなく自分も厳しく律し、軍事力を強化し、何事も合理的に判断し、大胆かつ忍耐強く行動するたくましい人物像が浮かび上がってくる。

 

安土城
 安土城は織田信長が天下統一の拠点として、丹羽長秀を普請奉行にして安土山に築城させた。1579年、安土城の天守が完成したが、完成から3年後の6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長は自刃し、その混乱の最中の6月15日に安土城は何らかの原因によって焼失してしまう。
 焼失の原因については諸説があり、明智光秀の娘婿・明智秀満の放火説があるが、明智秀満は安土城を14日未明に撤収しており、安土城が焼けた15日には坂本城で堀秀政の軍に包囲されたのち自害しているので安土城の焼失に関わっているとは思えない。

 また信長の二男の織田信勝の放火説がある。織田信雄は明智勢が退去した後に安土城に入りるが、その際、まだ城内に明智の残党が隠れていると考え、彼らを炙り出すために火をつけたのではないかという説である。信雄はあまり賢い人ではなく、短絡的な行動を起こして信長に何度も叱られていたので、父親ゆかりの城であっても気にしなかったのかも知れない。さらに略奪目的もよる野盗や土民の放火説、落雷での焼失した説などがあるが、原因については何も記録に残っていない。
 ここに徳川家康説がある。これは明智光秀の黒幕が徳川家康であるとしてのことであるが、「家康は10日に光秀支援に向かう出陣の命令を出している。その時点では安土に明智秀満がいた。当然、家康は安土城の秀満とも連携をとり、家康は安土城へ支援部隊を送ったと考えられる。
 それを裏付けるように、奈良興福寺多聞院主の書いた「多聞院日記」の12日の記述には、「秀吉が既に摂津に到着して猛勢な上に、家康が既に安土に着陣した」と書かれている。興福寺は筒井順慶と密接な関係があり、その情報はかなり正確だったとされている。12日の時点で家康が安土に着陣ということは、家康は10日の出陣命令と同時に安土へ支援部隊を送っていたのであろう。
 14日に、山崎の合戦の敗北を知った明智秀満は、徳川の支援部隊に安土城を委ねて坂本城へ向かった。そのあと安土に残った家康軍の支援部隊はどういう行動をとったのか。三河の家康にとって安土城は脅威以外の何物でもなかった。信長の後継者が確保することは何としても阻止したかった。何しろ家康は甲斐の織田勢と戦っている最中だったからである。
 したがって家康は、支援部隊が安土城を放棄する場合には城を破壊せよ、と命じていたに違いない。支援部隊はその命令に従い、安土城天守に火を放って撤退したのであろう。
 この推理を裏付けるのが、そこに実行犯とされる部隊がいたとことで、つまり服部半蔵たちの伊賀者である。伊賀者由緒忸(ならびに)御陣御供書付には、伊賀越えで家康を護衛した伊賀者たちが、15日に徳川家康から侍として採用されたと書かれている。15日といえば、まさに安土城天守炎上の当日である。
 家康は身軽に動ける伊賀者を安土に送り、彼らが安土城破壊を成し遂げた褒美として、徳川家の家臣に正式に取り立てた可能性がある。それはある種の口止め策でもあった。後には江戸城の裏門を勲功の褒賞として半蔵門と命名したのはあまりにも有名である。
 いつの時代もどこの国でも、権力を奪いとる戦いの中には記録が残されていないことが多々あるもので、このような出来事の真相究明には、確認されている事実と矛盾しない仮説を立てるしかないのだが、はたして真実はどうなのだろうか。
 安土城の天守を訪れたイエズス会のルイス・フロイスは次のように絶賛している。「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さは、ヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩するものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできていて、石垣のほかに、その美しい華麗な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示している。城の真中には天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営されいる。事実内部は四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では七層の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を拝した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。あるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。この天守は他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知り得る限りもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人形が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっている。これらの建物は相当な高台にあったが、建物全体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるが、内からも外からも木材は見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。
  イエズス会のフロイスがこう書いているのだから、この時代のわが国の建築技術は世界的に見てもかなり高い水準にあったことは確実である。しかしここまでフロイスから絶賛された建物は、先ほど記したとおりわずか3年で焼失してしまい再建されることはなかった。

 安土城は天主が炎上した後もしばらくは他の建物を使用しており、織田信雄につづいて信長の孫・三法師(さんぼうし)が入城している。しかし実質的に信長の跡を継いで天下人となった豊臣秀吉は1583年から大坂に新しい城の建設を命じている。さらに秀吉の命で甥・秀次が安土の近隣に八幡山城の築城を始めている。その築城の際に安土城の建物を建材として移築され、安土城はその役割を終えて廃城となった。秀吉にとって前の統治者・信長を象徴する安土城は目障りだったのかもしれない。


第六天魔王
 仏教の世界では六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)、あるいは六道に四聖(声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)を加えた十界という世界観になっている。またそれとは別に欲界・色界・無色界の三界に分ける世界観もある。

 三界において欲界は地獄界から人間界および天上界の一部を含み、人間は欲から逃れることは出来ないとされている。その欲界の最高位が「第六天魔王」である。
 「我は第六天の魔王、織田信長なり」と信長は自分で名乗ったとされている。しかしこの「第六天魔王」発言は思わず出た言葉だった。
 人間の住む俗世には天界があり、第1~五の下には、閻魔大王や弥勒菩薩、帝釈天などの神様がたくさん住んでいて、その下に私達の住む俗世である。この第六天魔王とは「人間の望みを叶えたり快楽を与えてくれる神様で、人間のありとあらゆる願いの全てに御利益のある神様で、東日本、特に関東には「第六天神社」などの名前の神社がたくさんある。
 欲を否定する仏教の教えが、いつしか夢を叶えてくれる第六天魔王となり、人間の欲望を否定する仏教そのものを否定している。
  彼は当時の武士の教養の一つであった「太平記」などにも登場し、後鳥羽上皇を唆して承久の乱を起こさせるという、嫌な役回りを与えられている。しかし人間よりは悟りに近いからこそ天にお住まいの彼を、より下の階層に住んでいる我々が仏敵と罵るとはこれいかにもおかしい。実際に信長が「第六天魔王」と自ら名乗ったことは一度もない
  この第六天魔王の発言は、日本の書状や日記、歴史書などには記載がく、敵には散々天魔天魔と言われていたよが、自分から名乗ったという記録はどこにもない。でただしイエスズ会教師ルイス・フロイスが、日本布教長であったフランシス・ガブリエルに宛てた日本の情勢などを記した書簡の中に書かれていた。
  「信玄が遠江と三河に来襲する前に面白いことがありました。信玄が信長に書状をしたためた際に自分の名を天台座主沙門信玄と署名したのに対して信長は第六天魔王信長、つまり仏教に反対する悪魔の王と署名して返した」というもだった。
  さすがザビエルはである。日本史上に燦然と輝く戦国武将、武田信玄と織田信長のやり取りを「面白いことがありました」とは、書き方が他面白い。これがルイス・フロイスによる信長の第六天魔王発言である。
 皇族や貴族、将軍家などが歴任した天台座主は、信玄が自称したという「天台座主」のことである。当時一大勢力を誇った天台宗の総本山、比叡山延暦寺の住職(貫主)を指す言葉で、沙門は僧侶、修行僧という意味である。
  「天台座主」という言葉は、当初は「比叡山で一番偉くて賢い人」という位の意味だったが、途中から太政官(政府の一番偉い人です)が任命する公的な職業となり、主に皇族や貴族、足利将軍家出身の僧侶などがこの職を歴任するようになった。この比叡山に敵対する者を第六天魔と呼んでいたのである。

足利義教
 この書状がやりとりがされたのは、信長公が延暦寺を焼き討ちし、時の天台座主であり正親町天皇の弟であった覚恕法親王が武田に保護された後の事である。当然、信玄公から信長公に宛て、焼き討ちを糾弾する書状が送られたが、その封筒に問題の「天台座主沙門信玄」と言う署名がされてあった。「勘違いする奴はすればいい。俺は正しい」 実際に覚恕法親王が信玄公に天台座主の位を譲ると言ったのか、それとも信玄公が譲ってもらえるだろうと思ったのかは分からない。
 真実は定かではないが、「天台座主沙門信玄」の意味を汲み取れば「天台宗は俺が保護し、天台宗の宗徒は俺に味方する事になってる」、だから「お前(信長)は仏敵」、あるいは「俺は入道だし、上洛間近の武田の頭領だ。つまり足利将軍家や天皇家のように、天台座主に就く資格がある男である」との意味かも知れない。
 確かにフロイスに「信玄が調子に乗ってる」と言われても仕方がない側面はあるが、信長も「当時の仏教組織が腐敗を極めていたとはいえ、天皇の弟が座主をつとめている延暦寺を焼き討ちにすればこのような非難は充分に予想がついたはず」であう。
  例え自分を糾弾する書状の封筒に「俺は天台座主」と書いてあっても、「第六天魔王」などと、敵に仏敵と捉えられるに違いない署名をして返してやるべきではない。最後の署名で台無である。とはいえ信長の噂では世間の常識、建前や偽善、迷信を嫌う清々しい性格と捉えると、「勘違いする奴はすればいい。俺は正しい。」と捉えられる。
 戦国武将達の意地の張り合いは、信長がうっかりと言ったのか、確信犯的に第六天魔王を挙げてしまったのかは分からない。


三種の神器がご登場
 ちなみに「太平記」には第六天魔王が活躍する場面がある。第六天魔王が天照大御神に「日本に仏教が広まったら嫌だから、三宝(仏・法・僧)には近づかない」とお願いをしている。これに対して天照大御神が「分かった、近づかない」と返事をしたため、第六天魔王は「お前の子孫が日本を治めてる間は俺が日本を守ってやる。だがお前の血を引く奴以外がここを統治するような事があったら、ここを荒らしに来てやる」と脅し、ついでに彼の血で作られた印章を置いていった。なんとそれが三種の神器の一つでである八尺瓊(やさかにの)勾(まが)玉(たま)である。仏教と神道をどんな関係にしたかったのか。
  信長は武家の教養として第六天魔王を知っていても、信長が統治の関係上、自分を神として奉らせる必要を感じていたとしても、本心から自分を神だなどとは思っていなかったのであろう。しかし信長は比叡山を焼き討ちして天台座主を延暦寺から追い出し、足利将軍家はもちろん天皇家までも「ただの人間、かつての統治者」と考えていたのだろう。奇しくもその天皇家の王権を保証した神である第六天魔王の名をかたったのは面白い偶然だと思う。
 日本神話にはまた違う八尺瓊勾玉のお話があるが、信長公も武家の教養の一つとしてこの話を知っていただろうと考えられる。
 

信長の墓

 明智光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、すぐさま「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と共闘を求める書状を送った。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し速攻で自国へ帰った。

 これは異説であるが、本能寺の変が起きた時、大事を聞きつけた信長が帰依していた織田家と縁のある阿弥陀寺の清玉上人が僧20名と共に本能寺に駆けつけたが、門壁で戦闘中であって近寄ることができなかった。しかし裏道堀溝に案内する者があり裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ信長も切腹したと聞いて落胆していた。

 ところが墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけ、信長のことを尋ねると、首を敵方に渡すことがないように指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので火葬にして隠して、その後切腹するつもりと答えた。清玉上人はこれを聞いて火葬は出家の役目であるから、信長の遺骸を渡してくれれば火葬して遺骨を寺に持ち帰り懇ろに弔って、法要も欠かさないと約束した。

 織田の家臣は感謝して、これで表に出て敵を防ぎ心静かに切腹できると立ち去った。清玉上人らは遺骸を荼毘に付して信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をして墓を築いた。また二条で亡くなった織田信忠についても、遺骨と思しき骨を清玉上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作った。さらに清玉上人は、本能寺の変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を明智光秀にから得たとされている。

  後日、秀吉が天下人になった後に再三にわたって、阿弥陀寺に信長の遺骸を渡すよう圧力をかけた。阿弥陀寺には法事領300石があてられていたが、亡骸を手に入れることで政治的に利用しようとの魂胆が明白なので、寺側は最後まで引き渡さなかった。拒否した清玉上人は秀吉の逆鱗に触れ、大徳寺総見院を織田氏の宗廟としたので阿弥陀寺は廃れ無縁寺になった。

 この信長公阿弥陀寺由緒之記録は古い記録が焼けたため、記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないとの説があるが、この縁で阿弥陀寺には織田信長公本廟が現存する。ただし阿弥陀寺は二度火災に遭い、墓は上京区鶴山町に移転している。 

 

1543年 尾張(愛知県)にて誕生する。

1547年 13歳。吉良大浜の戦いにて初陣。

1548年 斎藤道三の娘・濃姫と結婚する。

1551年 父・信秀が死去。18歳にして織田家の家督を継ぐ。

1559年 尾張を統一する。

1560年 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。これにより織田信長は一目置かれる存在となった。

1562年 清州同盟 三河の徳川家康と同盟を結ぶ。家康は織田家がピンチの時もずっと味方でいてくれた良き同盟相手。

1567年 稲葉山城の合戦 美濃の斎藤龍興に勝利。美濃を支配下に置く。

1568年 足利義昭を将軍に奉じて上洛する。

1570年 姉川の戦い 織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍に勝利。

 石山本願寺の顕如を中心とした一向門徒達と敵対する。各地で一向一揆が起こる。(約11年間にわたってこの宗教勢力と戦い続ける事となる。)

1571年 伊勢長島一向一揆 織田信長、一揆衆に敗れる。

比叡山焼き打ち 織田信長、誰も手出しする事のなかった宗教的聖域とも言える比叡山延暦寺を焼き打ち、徹底的に殲滅する。

1573年 足利義昭が本願寺、浅井氏、朝倉氏と組んで打倒織田信長を掲げ挙兵。

かなりのピンチであったが信長はこれをことごとく殲滅する。

足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡した。

1574年 織田信長、伊勢での一向一揆を無事平定する。

長篠の合戦 織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼に勝利する。
信長はこの戦で鉄砲を使用して革命を起こした。

越前での一向一揆を平定する。

1576年 織田信長、根来、雑賀での一向一揆を平定する。

1577年 織田信長、中国征伐の為に羽柴秀吉を中国へ派遣する。

1580年 石山本願寺の顕如が織田信長に降伏し石山本願寺を明け渡す。

1582年高遠城の合戦 織田軍が仁科盛信(武田勝頼の弟)に勝利する。

天目山の合戦 織田軍が武田勝頼に勝利する。
織田氏は甲斐、信濃を支配下に置く。

天正伊賀の乱 忍びの里である伊賀の地を攻めて勝利する。伊賀の地を支配下に置く。

本能寺の変 家臣の明智光秀に謀反を起こされ自害する。