織田信長

戦国時代

 戦国時代は朝廷や室町幕府の権威や能力が崩壊し、日本をまとめる力が消滅したために生じた。室町幕府は応仁の乱以降はその実権を失い、将軍家を取り巻く管領などが私利私欲を得るために将軍を道具として飾り物にするのみであった。

 このような情勢下では、人々は地方ごとの自治体に身を寄せて生活の保障を得なければならなかった。その自治体は本願寺などの武装宗教団体の場合もあり、堺などの武装商人町の場合もあったが、もっとも有力だったのが戦国大名であった。

 戦国大名とは、室町幕府の地方行政機関が独自の武力と政治機構を確立して幕府の統制から独立したものを言う。ただ戦国大名にも様々な潮流があり、中には名も無い庶民が大名家を乗っ取って成立したり(斉藤道三)、小さな土豪が実力で周辺勢力を併呑し巨大化したり(小田原北条家、毛利家、長曾我部家)といったものある。戦国大名は実力主義の中で、常に領内の民衆に統治を示さなければならなかった。すなわち周辺との戦争に勝利して民生を充実させなければならなかった。

 朝倉家、今川家、武田家、長曾我部家などは、領内に独自の法令を発布して民生の充実に努力した。また武田信玄の治水工事(信玄堤)に代表されるように、領内でのインフラ整備に尽力した。

 民衆の大半を占める農民は農閑期に仕事がなくなる。そのような農民が戦国大名を突き上げて他領を侵略して副収入を得るという理屈はあるが、これは戦国時代において農閑期における戦争頻度が高かった理由になるだろうが、むしろ私たちには理解困難な生死感や経済感があったからであろう。

下克上の時代

 戦国時代の特徴は完全な実力主義で、どのような名門でも能力が低ければ簡単に滅ぼされてしまう下克上の時代であった。そのため斉藤道三や北条早雲のような流れ者が、美濃の土岐家や小田原の大森家を乗っ取るようになった。全国各地に大小多くの戦国大名がいたが、大名たちは自分たちの領地を支配し、あわよくば隣国をも征服しようとしていた。

  戦国大名は領内の民意に気を遣っていたが、それは戦国大名が権威に頼れない実力本位ゆえ、常に民衆感情に気を配らねばいけなかったからである。その地位を保全出来なかったからである。戦国大名は民意を重視し、戦争に勝ち続けなければならなかった。戦争に負けて領内の民衆を保護できないようであれば部下や民衆に見限られ滅亡に追い込まれる時代であった。

 応仁の乱から約100年間は、このような戦国大名どうしの地域的な争いが続いていたが、その中で天下統一の野望に燃 え、その実現に挑んだ人物がいた。もちろん織田信長である。

 織田信長を語る前に、まず室町時代の地方政治から説明する必要がある。室町時代の足利将軍は自分に忠実な家臣を守護(大名)に任命して、その地域を領国として独立性を持たせた。つまり守護とは幕府から特定の国(地方)の行政を委託された御家人のことで、もちろん守護(大名)を任命するのも罷免するのも足利将軍で、将軍の気分次第で、あるいは守護(大名)の忠臣心や失態によって、守護(大名)は領土変えられ、あるいは取り潰しが行われていた。

 室町幕府にとって守護(大名)は国(地方)を治める重要な協力者だった。さらに守護(大名)を補佐するのが国人守護代である。国人とはその地方で勢力を持つ地侍のことで、守護代とは守護(大名)の重臣あるいは有力な国人だった。

  守護(大名)は国人や守護代を服従させ、あるいは協力させて傘下において勢力を拡大した。しかし室町時代の後半になると、足利将軍の勢力は衰え、時代は下克上の戦国時代になった。下克上とは下位 の者が上位の者を打倒して上下関係を逆転させることで、国人や守護代は常に守護大名を見定め、統治能力がなければ、あるいは無理な要求を強いるのであれば反抗して立場を逆転させた。戦国時代の足利将軍は飾り物にすぎず、室町幕府の厳令は地方には及ばなかった。

 

父・織田信秀から信長誕生まで

 室町時代の織田家はもともと尾張(愛知県西部)の守護大名・斯波氏守護代(筆頭家臣)であった。室町幕府で管領をつとめていた斯波氏が没落すると、織田家は尾張で勢力を持つようになる。

 しかし信長の父・織田信秀は同じ織田家でも、本筋の尾張守護代の清洲・織田氏一族の分家のひとりにすぎなかった。尾張下四郡を支配する清洲城主(清須市)の清洲織田家の三奉行の一人で、信長の父・織田信秀は織田本家を支える分家の家来であったが、海運の要地である商業港・津島の港を押さえると、経済力を蓄えて徐々に頭角を現し織田本家を凌ぐ勢いになった。織田信秀は17歳で父の生前に家督を継いでいるので、若い頃からデキる奴と思われていた。織田信秀は信長より優秀だったとも考えられる。

 織田信長は父の死後、「尾張を統一するのに7年間」も苦労を重ねるが、父の信秀は30歳のころには尾張から美濃や三河の一部までを領地にていた。尾張の武士を動員して三河や美濃を攻め、三河では安祥城(安城市)を、美濃では大柿城(大垣市)を手中に収め、知多半島の水野信元も三河の松平(徳川)との同盟を絶って信秀につき、尾張統一から美濃侵攻までを早々と成し遂げていた。

 駿河の今川義元はこれを良しとせず、1542年(信長8歳時)に三河を攻め織田信秀の尾張勢と小豆坂(岡崎)で戦っているが、織田信秀が義元を退けている。この頃が信秀勢力の絶頂期であったが、これだけの実力がありながら尾張守護代の三奉行の一人という低い立場に変わりはなく、そのため信長も父の死後に苦労を重ねることになる。

 

誕生からうつけ時代

 1534年、織田信長(幼少名:吉法師)は織田信秀の嫡男として尾張の勝幡城で生まれ、那古野(名古屋)城で育った。嫡男といっても別腹の兄が二人いたが、正室の長男だったことから嫡男とされた。

 1546年、信長は12歳で元服して織田三郎信長を名乗った。この頃の信長は好んで異様な風体をして、粗暴な振る舞いが多かった。入浴の際に着る湯帷子(ゆかたびら)を普段着にして、まげは毛先を茶道で使う茶筅(ちゃせん)のように結び、紅や黄色の派手な糸で巻き上げていた。

 腰を縄紐でしばり、瓢箪をぶら下げ、肩をだらしなくお供にもたれ掛け、平気で栗や柿を手掴みで食うなどして城下を練り歩いた。この様子を見た世間の者は信長を「尾張の大ウツケ(大ばか者)」とよんだ。

 織田信長は父・信秀を見て育ったため、たとえ優秀でも自分は織田家の分家にすぎず、守護・守護代などの安定した高い地位でないことを悟っていた。うつけは「真面目でしきたりを重んじる風潮」に反発する気持ちがあったのだろう。この「うつけ」ぶりは清州城下に火を放ったりしたことが信長公記に書かれているので事実である。
 このうつけであるが、これを信長特有の合理性と受け止めることもできる。袖を切ったおかしな服装は行動しやすいための工夫であり、仲間でつるんで馴れ馴れしく町を練り歩くのは、自分の手足となる親衛隊を育成するためで、それが世間からは「うつけ」と映ったのであろう。

 家臣とはいえ、いつ裏切るかわからない。自分の力を強め、存在感を高めるための「うつけ」だったのかもしれない。あるいは周囲を油断させるための演技だったかもしれないが、むしろ信長が優秀すぎて周囲の常識と違っていたと受け止めた方が良いだろう。

 このころ幼少期の徳川家康(松平元康)と共に過ごしてい る。 

 ある日、 比良城の近くの池に恐ろしい大蛇が出るという噂が立った。村人によれば大蛇の太さは一抱えもあり、赤い舌を出し、目は星のごとく輝いているとのことであった。 この噂を聞きつけた信長は村人から話を聞き、自分が退治してくれると行動に出た。

 1月下旬、名古屋市西区の村人たちをかり集めると池の水を汲み出させた。しかし汲み上げても7分目ほまでしか水は減らず、業を煮やした信長は脇差を口に咥え池に飛び込んだ。さらに家来も潜らせ大蛇を探させたが見つからなかった。信長は諦め清須へ引き上げたが、このことは好奇心が旺盛で、何でも徹底して行う信長の性格を示している。この池はこれをきっかけに「蛇池」とよばれ、現在では桜の名所として「蛇池千本桜」の名で住民に親しまれている。

 

 斎藤道三との同盟

 信長14歳の時、猛将ぶりで知られた父・信秀は尾張の半分を手中に収め、隣国・三河へ手を伸ばしていた。さらにもうひとつの隣国・美濃への進攻は何度挑戦してもうまくいかなかった。駿河の今川義元がいずれ攻めてくることが分かっていたので、信秀は美濃の斎藤道三と同盟を結び今川家と戦うことにした。

 斉藤道三は美濃から大名土岐氏を追い出した後、織田家と斉藤道三はたびたび戦っていた。さらに美濃は朝倉氏の越前とも接していて、しかも近江(滋賀)の六角氏は道三が乗っ取った土岐頼芸の嫁の実家だった。そこで織田家との同盟の利を悟った道三は、織田家と縁組をして同盟を結ぶ事にした。斉藤道三は娘を織田家に嫁がせることにする。もちろん政略結婚であるが、同盟の証として信長は道三の娘・濃姫を娶ることになった。

 斎藤道三は油売りの商人から美濃国の守護・土岐氏に取り入って国を乗っ取った下剋上の代名詞といえるほどの人物である。美濃のマムシと恐れられた道三は、うつけと評判の娘婿の器量を見ておこうと、濃尾国境の正徳寺で信長と会うことにした。

 会見前に道三は信長の通り道の民家に潜 み「うつけ」の様子を前もって見ておこうとした。すると織田の軍勢がまるで戦に行くかのように武装し、整然と行軍してきた。しかし、やがて見えてきた信長の風貌に道三はあきれてしまった。信長はいつものように、半身の着物ははだけ、腰に瓢箪をぶらさげ、馬に跨っていたのだった。斎藤道三は「会見にあの軍勢、あの武装にはいささか目が覚めたが、うつけ殿は、やはりうつけよ。わざわざ会見するほどでもない」と失望した。
 斎藤道三は会見場の正徳寺に入ると「あのうつけに会うのに正装ではなく平服でよい。うつけ殿が参られたら、ちと待たせておけ」と言った。そこで信長の到着を聞いたが、すぐには会見場には行かなかった。
「失敬、これはお待たせ致した」と、道三が会見の間に入り信長を見ると、そこには正装をした凛々しい信長の姿があった。道三は信長の正装にド肝を抜かれるが、信長は毅然とした顔つきであった。
 斎藤道三の側近・堀田道空が、「山城(道三)殿でござる」と促すと「で、あるか」と、信長は尊大な態度で受け答えをして会見が始まった。斎藤道三はすぐに信長の器量を見抜き「わしの息子たちは、将来あの信長の配下になるだろう」と述べた。

 1561年に斎藤道三は息子の義龍に長良川で討たれが、その前日には美濃国を譲渡する内容の手紙を織田信長に送っている。

濃姫

 織田信長の正室となった斎藤道三の娘・濃姫であるが、濃姫の史料はほとんどなく謎に包まれている。そもそも濃姫は「美濃から来た姫」という意味の呼び名で、本名はわかっていない。濃姫は尾張との関係を友好に保つために道三が送り込んだ人質でもあり「ことあれば信長と刺し違えよ」と言われて尾張に来たという話もある。信長との間に子はなく、信長も前田利家などの小姓(男色)の方を好んでいた。しかしマムシの娘である濃姫は「大うつけ」の妻を難なく務めたであろう。

 信長が22歳の時、舅の斎藤道三が息子の義龍に殺されると、斎藤道三は美濃を信長に譲る手紙を書いているが、少なくても濃姫はその時点までは存在していた。本能寺の変の時に「おのう」という女性がそばにいたと記されている。この時の「おのう」が濃姫だった可能性が残されているが、濃姫については史料がないため全く不明である。

信長最愛の人、吉乃(きつの)

 織田信長23歳の時、長男(信忠)が誕生した。産んだのは濃姫ではなく生駒家宗の娘・吉乃だった。生駒氏は尾張上四郡の土豪で馬借(運送業)を生業としており、その関係で諸国の様々な人間が出入りしていた。吉乃は夫を戦で失った出戻りの娘で、信長より年上だった。しかし信長はたいそう気にいっていて、1566年に吉乃が亡くなるまで、信忠、信勝、お徳という三人の子を産んでいる。また吉乃亡くなったことを知った信長は涙を流したという話が残されている。

父信秀の死から尾張統一

清州城まで

  信長17歳の時、父信秀が急死すると信長は若くして家督を継ぐことになる。信長は父の葬式に遅れやってくると、いつものうつけた格好で、礼服で神妙な顔立ちの家臣たちを驚かした。髪を派手な紐で縛り、袴もつけず、信長はずかずかと仏前に進み出ると、いきなり焼香を鷲づかみにして位牌に投げつけ、そのまま踵を返して帰ってしまった。まさにつつけ者の傍若無人である。そのため織田家の家臣や一族の者には信長から離反する者が多く出た。

 亡き父に仕えていた重臣・平手政秀は信長が幼い時からのの教育係であったが、信長の素行を諫める為に切腹した。教育係の平手政秀は死をもって信長を諫めたのである。信長はすぐに平手政秀の元に駆けつけると、平手政秀の死を深く悔悟し、平手政秀の死をいたんで政秀寺を建立して菩提を弔った。

  尾張が統一された時、側近が「ここまで尾張の国が強大になるとは知らずに、平手政秀が自害したのは浅薄だった」と言うと、信長は「こうやって弓矢をとれるのは、みな政秀が諫死してくれたおかげだ。わしが自分の恥を悔やんで過ちを改めたからで、古今に比類ない政秀を短慮と言う貴様の気持ちが口惜しいわ」と顔色を変えて激怒したほどである。

 信長は尾張を統一するため、信長は尾張国内の身内を含めた反対勢力を一掃するために行動をおこす。まず最初に清須の坂井大膳を攻め、次に主家の織田信友を攻めた。下四郡の中心地清洲城の織田信友が信長暗殺を企てるが、斯波義統が信長に密告して、それを知った織田信友が斯波義統を殺害した。信長の元に義統の嫡子・斯波義銀が落ち延びてくると、織田信友を主君殺しの謀反人として攻め討伐する。織田信友を追放した信長は清州城を居城とした。

稲生の戦い

 1556年(22歳)、信長は斎藤道三の弔い合戦に破れて美濃から清須へ戻ってきたが、道三の後ろ盾がなくなり、家臣の中からも織田一族からも反信長の機運が高まってきた。

 まず尾張上四郡を支配する岩倉の織田信安が道三を殺して意気上がる美濃の斎藤龍興と組んで信長に小競り合いを仕掛けてきた。信長領だった下之郷を岩倉勢が襲い、信長方の砦(正眼寺)を3000の兵で襲ってきた。信長も出陣するが動員したのはわずか83騎のみで、そのほか百姓衆に竹槍を持たせて足軽戦を行い、岩倉勢を追い払っている。清須城の信長に対し、庄内川から東の地域がほぼ反信長となった。

 うつけ者の信長が家督を継ぐことに危機感をもった重臣は、信長の母が寵愛する弟の織田勘十郎信勝を 支持し、信長に対して公然と挙兵した。重臣たちはこのままうつけ者の信長の下にいれば織田家はいずれ滅ぼされてしまうので、信長を廃して織田信勝を立て織田信安や斎藤義龍と和睦したほうがよいと考えたのある。
 その勢力の中心は信長の一番の家老で那古野城を与えられていた林秀貞とその弟の林美作守で、さらに下社城の柴田勝家であった。この三人が結託して謀反を起こし、信長を廃して弟信勝を立てようとした。

 信長の兵700に対し、織田信勝軍は柴田隊1000、林隊700だった。信長軍は兵力で劣っていたが、その勢いはすざ ましかった。信長が先頭に立ち大声で指揮をとり敵を威嚇した。敵は恐れをなし味方は力を得て柴田勢を退けた。この戦いで柴田勝家は手傷を負い、柴田勢を蹴散らした信長勢は、次に林美作勢へ向かい、信長自身が槍で大将の林美作を突き伏せ首を取った。織田信勝軍は統制がとれず、ちりじりになり那古野城に逃げた。

 信長の手勢は700だったが、信長に忠誠を誓った親衛隊であった。数は少なくとも戦闘集団ゆえ士気は高く強かったす。暴れまくる信長に従って3倍近い敵を蹴散らし、討ち取った首は450であった。敵の大将・織田信勝は戦いに出ず後ろで眺めているだけであった。

 この稲生の戦いに勝った信長は、末森城で同居していた母の土田御前の取りなしで織田信勝を罰しなかった。さらに信勝軍を指揮した柴田勝家を敢えて処分しなかった。尾張国はまだ政情不安定で、粛清すれば尾張の兵力が低下すると考えたのである。柴田勝家は信長の寛大な処置と戦略・戦術に感銘を受け、信長へ生涯の忠誠を誓うのである。

 弟の信勝は末森城の城主のままであったが、翌年には織田伊勢守家に通じて、信長にふたたび反旗を翻す。しかし事前に柴田勝家が信長に通報し、信長は信勝の反旗を勝家から聞くと、明日をも知れない重病との仮病の噂をたてった。信勝は母の土田御前から信長重症の知らせを受け、危篤という信長を見舞うため清州城を訪れた。そこを織田信長の命を受けた河尻秀隆に誅殺された。

 1559年、最後は尾張守護代の岩倉織田氏との戦いになった。岩倉織田の軍は3000であったが、信長との白兵戦で岩倉織田氏は軍の半数を討ち取られ城に逃げ込んだ。信長は岩倉城を取り囲んで火矢と鉄砲で攻め撃ち落とした。父信秀の後を継いでから10年、信長は25歳で尾張を統一したが、その過程で信長は鉄砲と長槍で武装した強力な家臣団の編成をおこなった。

 

 

桶狭間の戦い

 翌1560年6月12日(26歳)、尾張を統一したばかりの織田信長に大きな試練がやって来た。駿河(静岡東部)の大名・今川義元が尾張を我が物にしようと2万5千の大軍で攻めてきたのである。当時は戦国時代である。力のある大名は京都にのぼって天皇に認められ名ばかりの室町幕府に代わって天下に号令したいと考えていた。そして東海の雄といわれた今川義元もまさに京都へ行こうと兵を動かしたのである。京への通り道には尾張の織田信長がいたが、織田は今川から見ればごくごく小さな勢力で、戦闘というほどのものにはあたいしないと考えていた。

 上洛を目指す今川義元は尾張侵攻を前に、武田氏・北条氏と婚姻関係を結び甲相駿三国同盟を成立させていた。甲相駿三国同盟により武田信玄は北の上杉謙信に集中し、北条氏は関東に集中し、今川義元は上洛することに集中できた。このようにして今川義元は後背を整えてから京への道すがらの尾張を蹴散らそうとしたのである。信長の軍勢は2千、今川軍の10分の1である。「東海の雄」と呼ばれた今川義元とまともに戦っては勝ち目がなかった。

 まず前哨戦といえる小さな戦いが名古屋近郊で繰り広げられた。信長は名古屋の東南に丸根砦鷲津砦を築き迎撃軍を待機させていた。しかしこの砦は、今川の同盟国の松平元康(徳川家康)と家臣の朝比奈泰朝に襲撃され、松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を難なく陥落させた。

 信長はこれらの砦を総勢およそ500人で守らせていたが、今川軍はここを容易に突破し、勢いづいた今川軍はさらに中嶋砦も攻め落としたが、この砦の陥落の知らせに信長は動かず、砦の陥落を今川を油断させる捨て石にしたのである。今川軍の圧倒的な強さが、信長に思わぬ勝機をもたらした。相次ぐ戦勝の報告に今川軍が油断し酒宴を始めたのである。もしこの三つの砦の犠牲がなければ信長の逆転は望めなかった。

 今川義元は大高城に大量の兵糧を送り込んでいた。このことから大高城に向かうことは分かっていた。駿河から大高城に向かうには、細い窪地の桶狭間を通らなければいけなかった。

 清洲城の織田信長は戦略・戦略を家臣に語ろうとしなかった。城砦が次々に陥落し、家臣たちは「かくなる上は篭城して通りすぎるのを待つべき」と述べる家臣がほとんどで、「出撃するべき」を主張する者はいなかった。浮き足立つ重鎮たちを尻目に、信長は無言のまま作戦会議も開かなかった。まさに絶体絶命の危機のなかで、信長は今川軍の動きを待っていた。

 信長の元に「今川義元が桶狭間で休憩を予定」との情報が飛び込んでくると、信長は意を決したように立ち上がり「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」と幸若舞「敦盛」の一節を舞うと出陣の身支度を整えて出陣した。「敦盛」とは源平合戦のときに、熊谷直実が敵の平敦盛を泣く泣く討ち取る場面を表した一節である。まだ若い平敦盛の悲哀を自分に重ね合わせたのか、自分も家臣もいつか討ち死すると覚悟しての舞なのか、舞を終えると立ちながら飯を食い、鎧を着けさせ出陣したのである。

 信長は単騎で城を飛び出すと、あわててついてきた5騎の家来と共に熱田神宮に到着した。その後にあわてて集まってきた軍勢とともに熱田神宮に戦勝祈願を行ない、兵士の士気を高揚させると今川軍の本陣がいる「桶狭間」にむかった。

 桶狭間で今川軍が休憩している時に奇襲をかける。それが織田信長が勝てる唯一の方法だった。信長は農民による「もてなし作戦」をおこなっていた。もてなし作戦とは、今川軍が狭間に差し掛かった時に、農民がお酒やお餅を持ってご馳走することだった。当日、織田勢の3つの砦を潰した今川義元は気分を良くしていた。長距離を移動した今川軍は、予定通り桶狭間で昼飯を取ることになった。そこに地元の百姓たちが酒や食べ物を振舞った。「今川義元様、もう信長様の時代じゃねえです。この地を平定したら、ぜひまた村に立ち寄ってくだせえ。ささ、前祝いに一献」と杯を傾けた。

 織田信長軍は砦の戦いで兵を半分に減らしており、今川義元は絶対の勝利を確信して宴を開いていた。だが今川義元をもてなした農民は信長のスパイだった。「今川軍、桶狭間で休憩」、この情報はすぐに信長に伝えられ、信長は全軍を率いて桶狭間へ直行したのだった。

 午後1時、それまで晴れ渡っていた空が、急に暗雲に覆われ豪雨が襲ってきた。暴風雨のため視界は悪くなり、風で物音はかき消され、奇襲には絶好の条件になった。信長は家臣たちに「天も味方してくださった」と大声で鼓舞すると田楽狭間に突入した。信長軍は今川義元の首を狙って一気に攻めこんだ。
 桶狭間といわれる狭い窪地は、今川の後方の大軍は狭い山道を行くため軍勢は伸びきり援軍は機能しなかった。今川義元の周りを守っていた兵は300くらいだったが、視界を妨げるほどの豪雨に気を取られ、信長軍の奇襲に体勢を立て直す暇はなかった。

 今川義元は東海一の弓取り言われた武将だったが、貴族かぶれをしており、偏食と運動不足で極度の肥満だった。そのため馬にも乗れず、桶狭間の合戦では輿に乗って出陣していた。今川義元は逃げるしかなかったが、抵抗も出来ずに討ち取られてしまう。織田信長の足軽・毛利新介秀高が今川義元を討ち取った。

 総大将の首を取られ、戦意を失った今川軍は動揺し敗走するしかなかった。桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を挙げた信長の武勇は全国にとどろいた。

 信長がこの戦で一番の手柄としたのは「今川義元休息中」との情報をもたらした梁田政綱という男であった。これは当時としては意外なことで、信長は武功だけではなく、あらゆる角度から戦功を評価したのである。「情報がなくては戦には勝てぬ。勝利の要となる情報を伝えた者こそ一番の手柄」として論功行賞を与えたのである。戦争における情報の重要性を、信長がよく理解していた証拠として挙げられる。
 今川義元が倒されたことで、今川家の領地が目前にあった。しかし信長はその領地には目もくれず、今川から独立した三河(愛知県東部)の松平元康徳川家康)と同盟を結ぶと、今川家の領土獲得を家康に任せ、信長は斎藤氏が領有する美濃(岐阜県南部)の攻略に専念した。

 通常の戦国大名であれば、まず今川家の領地を狙うはずであるが、今川家の領地を手に入れれば、隣国の強豪・武田信玄や北条氏康(うじやす)と接することになる。信長は戦力の分散を避けるため、東を家康に任せ、上洛のために西に戦力を集中したのである。

斎藤道三

 かつて美濃の斎藤道三は、国内の土岐家の勢力や、土岐家の家臣達を牽制するために、土岐頼芸の側室の妻が生んだ自分の嫡男斎藤義龍に家督を譲った。義龍は側室が道三に嫁いですぐに生まれたことから、道三の子ではなく土岐頼芸の子と噂されていた。そのため道三は義龍に家督を譲り、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたが、義龍は道三とは似ても似つかぬ巨漢で、性格はおとなしく本ばかり読んでいた。そのため道三は 「あんな軟弱者に国はまかせられん」 と、家督を義龍から取り戻し他の息子に国を継がせようとした。

 ところが土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでし、義龍も道三によって廃さることを悟り、さらに道三が信長と会見時に「我が子らは皆、信長の配下となるだろう」 と語ったことを聞き、義龍は危機感をつのらせ道三を撃つ事になる。

 道三がこれまで非道な裏切りと謀略を繰り返して今の地位を得たことも義龍の不安を募らせた。また義龍は斎藤道三の嫡男ではなく父は土岐頼芸と信じ、そうなれば土岐頼芸を追放した斎藤道三は父の仇であった。

 1556年、斉藤義龍 は土岐家に恩のあった家臣達や権力者達の支持を受けると、道三に対してクーデターを実行した。他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、父の斎藤道三 をも襲った。
    斎藤道三も軍勢を集めるが、多くの家臣が義龍側につき、戦える状態ではなかった。道三は織田信長へ 「美濃一国譲り状(美濃の国を譲り渡すと言う書状)」 を届けさせると、多勢に無勢の戦いの中で息子義龍と対峙し、最後の戦いで道三は義龍の見事な采配を見た。斎藤道三は「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかしこれで当面、斉藤家は安泰」 と語った。戦いに破れた美濃のマムシ道三は命を落とした。享年 62 。

 その後斉藤義龍 は、美濃の支配をさらに強化し国内を発展させた。織田信長は「美濃一国譲り状」を大義名分として度々攻撃を仕掛けるが、斉藤義龍は織田の軍勢を撃退するが、1561 年、流行り病によって 34 才の若さで病没する。

美濃攻略 

 美濃の斉藤道三は息子の義龍から長良川で討たれ、織田との同盟はすでに廃されていた。斎藤道三亡き後、信長と斎藤家との関係は険悪なものとなり、1561年、斎藤義龍が急死しすると嫡男・斎藤龍興が14 才の若さで後を継いだ。斎藤龍興は国主としての器量は無く、家臣達は次々と織田家に寝返った。

 信長は居城を清洲城か小牧城に移すと美濃(岐阜)攻略を開始した。信長は東美濃にある斎藤方の諸城(鵜沼・猿啄・堂洞城)を攻め落とし、その厳しい戦いぶりは美濃の土豪たちに動揺を与えた。斎藤龍興は部下からの信頼が薄く、そのため西美濃の土豪は信長になびこうとした。織田家は優位のまま、斎藤家は家中での分裂が始まる。1564年、織田家は北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤家を挟み撃ちにする形で牽制を強化した。

 1567年、斎藤家の有力家臣であった西美濃三人衆の稲葉一鉄氏家ト全安藤伊賀守が信長に味方することを申し出ると、三人衆の人質を受け取る前に、すぐに軍勢を木曽川を越えさせ稲葉山城に殺到させた。稲葉山城下に火を放って城を孤立させ、包囲体制を整えて攻撃を開始した。

 稲葉山城は援軍の来ない「はだか城」となり、斎藤龍興はついに降服を申しでた。斎藤龍興は稲葉山城を明け渡し、7年間に及ぶ信長との攻防を終始させると、稲葉山城はついに落城した。斎藤道三・義龍・龍興と続いた斎藤氏の美濃支配は終わりを告げた。
 この戦で木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、長良川沿いから金華山を登り城の背後へ廻り一番乗りをはたした。秀吉が登ったのは現在の金華山登山道「めい想の小径」に近いルートで、味方への合図に「竹の先に瓢箪」をつけて振った。これが秀吉の馬標(うまじるし)の「千成びょうたん」となった。
 斎藤龍興は妻が浅井長政の妹だったことから、近江の浅井長政を頼って落ち延び、その後、京都六条合戦で三好三人衆とともに織田軍勢と戦った。斎藤龍興はその後、越前の大名朝倉義景の配下になり、1573年の越前敦賀刀根山合戦で信長と戦い討死している。

 

天下布武

 1567年、信長(33歳)は7年をかけて斎藤氏を滅ぼし美濃を平定すると、本拠地を尾張小牧から稲葉山城に移し「天下布武」の印を使い始める。天下布武とは「天下に武を布(し)く」、すなわち「日本全国を武によって支配する」ということで、信長が天下統一を目指すことを高らかに宣言したのである。

 「天下布武」といえば、信長の印章に用いた文言として有名で、一般的に前記した「天下を武力で平定する」という意味で捉えられがちだが、本当は天下布武の武は武力の武ではない。武は武力ではなく七徳の武のことである。武という漢字を分解してみると「戈(ほこ)」と「止」から成る。戈は戦で使われる武器で戦いを表し、それを止めるのが「武」である。

 七徳の武とは、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする七つの徳を意味し、それら全てを兼ね揃えた者が天下を治めるのに相応しいという意味である。

  美濃の稲葉山城に入った信長は、城の地名であった「井ノ口」を「岐阜」に改め、城の名前も岐阜城とした。これは中国の古代の周の名君・文王が岐山(きざん)によって中国全土を統一したことから、織田信長も「岐」を使うことで文王にならって自分が日本全国を統一をする意志を示したのである。それまで地名は古くからの言い伝えで付けられており、時の権力者が地名を変えることはなかった。信長が地名を新しくしたことは「天下統一へ向け、世の中を一新する」という強い意志を示していた。

 信長以降、時の権力者が地名を変更するのが通常となった。例えば、信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)は近江(滋賀県)の今浜の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって長浜と改めている。

 信長は日本人離れをしたカリスマ性を持ち、和の精神や怨霊など気にもとめなかった。自分の考えを絶対視し逆らう者には容赦しなかった。実力本位の戦国時代には信長のような人物が必要であった。信長の政策は何から何まで革新的で革命的だった。

 

兵農分離

 美濃を領地とした信長は、それまでの尾張から岐阜城を本拠地に定めた。他の戦国大名では信長のように本拠地を移すことは容易なことではなかった。それは戦国大名の兵力は大半が農民だったからである。

 農民にとって唯一の財産は彼らが所有する田畑だった。農民は田植えや稲刈りなどの農繁期は非常に忙しく田畑に釘付になった。当時の農業は農薬や機械などなく、全て手作業だったので、今とは比べ物にならない程大変だった。

 そのため戦国大名は領地が広がっても、農民を易々と移動させることはできなかった。しかし信長は「兵農分離させ戦争専門の傭兵」を用いていたのである。信長の「兵農分離」は商業で得た資金で、下級武士や村の次男や三男を雇い兵士にした。傭兵は命がけで最後まで戦う農民兵とは違い、形勢が不利になると逃亡する危険性があり、兵力そのものは弱かったが、一年中戦える強みがあった。資金が続く限り戦を継続出来た。そのため戦いに集中できたのである。

 傭兵は農民兵のように田畑を持たないため、織田信長は本拠地を移しやすかった。信長はこの兵農分離の長所を最大限に生かし、岐阜に本拠地を移動すると家臣や傭兵たちを城下に住まわせた。人の流れが物資の流れをつくり、家臣を強制的に岐阜に移動させれば、彼らの家族を含めた数万の人口が一気に岐阜へ流れ、岐阜が我が国有数の大都市になった。また関所を廃し、楽天楽市で商売に税をとらず自由な商売を認めたことから人々が集まった。岐阜を新たな城下町として繁栄させると、信長は大きな目標である天下統一へ向けて、西の方角へ眼を向けていた。

鉄砲

 古い戦いにこだわりをもたない信長は鉄砲の威力に注目していた。戦国時代を生き抜くためには勝たなくてはいけない。この日本を一つに束ねる政治的権威すら瓦解していたが、これを一変させたのが織田信長でありその手段としての鉄砲を用いた。鉄砲は1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本にもたらしたが、手先が器用で技術力の高い日本人は、たちまち鉄砲の製造法を会得し、わずか10年で鉄砲は日本全国に流通することになった。この新兵器は厳しい競争下の大名たちにとって極めて有益な道具であであり、その威力をいち早く戦いに用いたのが信長であった。

 

信長の上洛

 室町幕府の権威はさらに低下し、幕府権力の復活を目指した将軍足利義輝松永久秀らによって暗殺された。松永久秀と三好三人衆は清水寺参詣を名目に1万の軍勢率いて二条御所に押し寄せたのである。足利義輝は自ら薙刀を振るい奮戦したが殺害された。享年30。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」である。

 松永久秀は次の将軍に足利義栄を擁立するが、織田信長が義輝の弟の足利義昭を奉じて上洛したため義栄の在位は短期間だけであった。足利義昭それまで越前(福井県北東部)の朝倉義景匿われていたが、義景の家臣であった明智光秀の仲介で織田信長を頼った。

 信長にとって天下に覇をとなえるためには、上洛して京に旗を立てる必要があった。そのためには大義名分が必要だった。その大義が足利義昭を将軍の座につけることだった。

 1568年、信長は北近江の浅井長政と同盟を結び、上洛の途中で南近江の六角氏を破り、京へとたどり着くと足利義昭を15代将軍に就任させた。

 足利義昭は名ばかりの将軍であったが、名目上は武家の棟梁である室町幕府の15代将軍である。織田信長は足利義昭のために二条城を造営し、朝廷を保護し天下統一の先導者となった。

 義昭は自らを将軍に就任させた信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるように勧めた。しかし信長はいずれも辞退し、代わりに堺を含む和泉(大阪府南西部)の支配を認めさせた。いわゆる名よりも実を取った判断であったが、その裏にはしたたかな計算があった。

 信長にすれば管領や副将軍を引き受ければ、室町幕府の一員になり、義昭の家来になってしまう。信長の最終的な目標は「信長自身による天下統一」で、いずれ義昭を見限るつもりだった。もしその際に信長が管領や副将軍であったならば、主人に対する裏切りという重罪を犯すことになる。たとえ戦国の世の中とはいえ、主人への謀反はダメージが大きい。また天下取りに影響が及ぶ可能性があった。そのため信長は義昭の誘いを断り、我が国最大の貿易港である堺を抑えるために和泉の支配を認めさせたのである。堺を手にした信長は、この後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも優位に立つことになる。

 義昭が将軍になったばかりの頃は、二人の関係は良好であった。しかし足利義昭は信長の敬う姿勢につけ込み、最後まで実質的な武士の棟梁としての将軍にこだわった。

 足利義昭は信長に叛旗を翻したが、信長は天皇を動かして将軍と和睦した。しかし数カ月後には再び義昭は挙兵した。信長が次第に義昭を圧迫すると、ふたりの関係はさらに悪化し、激怒した義昭は信長を倒すべく様々な作戦をねった。後の世にいう「信長包囲網」である。

 将軍義昭は信長の勢力拡大に不満を持つ武田、朝倉、浅井、毛利、三好らの諸大名、石山本願寺、比叡山延暦寺などの宗教勢力に呼びかけて信長包囲網をつくった。信長にとって最大のピンチが訪れようとしていた。

 信長はここまで舐められたため、15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を終わらせたが、義昭を殺さずに追放のみとして強硬な姿勢をとらなかった。それは世間の評判を気にしたからである。従来の信長からするると、世間の評判を気にする姿は意外に思われるが、信長は常に世間の評判を気にしていた。

 世間からの評判を気にする信長は、皇室を保護する姿勢も同様で、皇居の修理を行ない、皇太子の元服のための費用を献上している。信長は権威を気にせず天皇を軽んじたとの説があるが、これは信長には恐れる敵は誰もいないという魔王的イメージがあるからである。

 大名に対する振舞いをみても、この魔王的イメージは見られない。桶狭間で今川家を破ったことから、強大な敵にも恐れず歯向かう印象を受ける。しかし信長は武田や上杉、毛利など数々の大名と戦ったが、小大名であった信長は、自分より相手が格上の場合は積極的に媚びて謙虚な姿勢を崩さなかった。例えば上杉謙信への直接宛てた手紙では極端にへりくだった表現をしている。武田信玄に対しては立派な贈り物をするなど相手のプライドを損ねないよう苦心していた。だが織田家が力をつけて上杉や武田と対等になると、信長は互角に付き合う姿勢を見せるようになった。ここに信長の合理的な考えが現れている。

  

負け戦

 堺を手に入れた信長は経済力を高め、次の目標を越前の朝倉義景に定めた。朝倉氏と織田氏の家系はもともと守護大名・斯波氏の家来であった。しかし朝倉氏は直臣で守護代に命じられるほどの名門であったが、織田氏は斯波氏の家臣の家臣であり完全に格下であった。

 信長の求めに応じて上洛すれば、織田の風下に立つことになる。朝倉義景のプライドが許すはずがなかった。信長は上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍する。敦賀の金ヶ崎城を落とすなど緒戦で勝利を収めた。ところが好事魔多しである。

 それは信長の義理の弟で、最も信頼していた武将・浅井長政の裏切りであった。浅井長政は織田信長の妹、お市を妻としており、同盟関係にある以上お互いが戦うことはありえないことであった。 浅井氏が裏切ったのは昔から同盟関係にあった朝倉氏とよしみがあったからである。

 浅井家は織田信長と同盟を結ぶよりはるか以前から、越前の朝倉家と同盟関係にあったた。さらに浅井長政が織田信長と組んだ同盟には、織田は朝倉氏には戦を仕掛けないという内容があった。ところが織田信長がこの同盟を破って朝倉氏に戦をしかけたのである。 浅井長政にとって朝倉氏とは昔から友好関係にあり、織田信長とは義理の兄にあたるが、浅井長政は朝倉氏との同盟関係を重視して織田氏と戦うことを決断したのである。

 織田信長と同盟関係にあった浅井長政の領地は北近江(滋賀)にあった。そして朝倉義景の領地はその隣の越前国(福井)である。織田信長は浅井長政と同盟を結んだことで朝倉義景まで兵を進めることができたが、朝倉義景と戦をしているときに、背後を浅井長政につかれてはひとたまりもない。そのことから織田信長は浅井長政と同盟を結んだつもりであった。しかしここで浅井長政の裏切りにあった。 織田信長は、北を朝倉義景、南を浅井長政という形で挟み撃ちになった。

 弟のように可愛がっていた浅井長政が、まさか離反するとは思いもつかなかった。家臣が離反の可能性を進言したが耳を貸さなかった。その信長のもとに「陣中の菓子にでも」と、妹・お市の方からの進物が届いた。その包みを開けると小豆をギッシリと詰めた袋の両側をしっかりと紐で結ばれていた。「袋のねずみ」ならぬ「袋の小豆」であった。この進物を見て、信長は浅井と朝倉に挟まれ逃げ道のない状況にあることを確信した。

 2年前に同盟を結んだばかりの浅井長政が北近江から攻め寄せてきているとの知らせが入った。さすがの信長も気を動転させた。越前と北近江からの挟み撃ちにあえば勝てるはずがなかった。織田信長・人生最大の危機であった。残された時間はなかった。

 覚悟を決めた信長は「ワシは逃げる」と宣言すると、決死の逃避行が始まった。わずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出し、一目散に京を目指して駆けに駆けた。信長は朝倉氏と浅井氏の包囲網から辛くも逃れ、数日のうちに京に戻ったが、供はわずか10人ばかりだった。お市の方の機転が信長を救ったのである。

 この負け戦は後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれ、屈辱を味わった信長は浅井・朝倉の両氏を深く恨んだ。やがて信長は徳川軍とともに、同年6月「姉川の戦い」で浅井・朝倉の連合軍を破ったが、息を吹き返した浅井・朝倉の軍勢は京を目指し反撃し、信長に阻まれると比叡山に立てこもって反撃の機会を待った。比叡山が浅井・朝倉軍をかくまったことは、比叡山延暦寺が信長を敵とみなしていたからである。

 

宗教勢力

 信長を悩ませたのが、信長包囲網に宗教勢力が加わったことである。死を恐れない宗教勢力は最も手強い相手だった。そのきっかけは三好三人衆の三好氏が摂津(大阪市)で挙兵すると本願寺が味方についたことである。このことから信長は戦国大名の他に、延暦寺や本願寺といった強大な宗教勢力を敵に回し、宗教勢力からは仏敵とみなされた。

 その当時、宗教勢力は関所や座によって莫大な利益を得ていた。信長にすれば宗教勢力は本来の布教活動を忘れ、利益のために権益にしがみついていとみえた。信長は宗教勢力に権益の放棄と武装解除を迫ったが「眠っていても儲かる権益」を宗教勢力が手放すはずはなかった。

 信長は岐阜城を造る際、大胆な発想で城下町を建設した。当時の常識であった通行税を徴収する関所や商売のための座(組合)を廃して楽市楽座を採用した。楽市楽座によって商売の自由が認められたため、各地の商人がこぞって集まり、岐阜は大変なにぎわいを見せることになる。信長の領内は他の大名や宗教勢力などと比べ低い税率であったが、にぎわいのため自然に税収が増加した。この信長による斬新な政策は、関所や座を設けて莫大な収入を得ていた宗教勢力にとっては、目障りな商売敵となっていた。信長と宗教勢力との衝突は時間の問題であった。

 京に上った信長に対し、浅井・朝倉軍は比叡山に登ったまま動こうとしなかった。もし信長が京から離れればすぐにでも京を占領できる位置にいたため、信長は京から動くことができなかった。こうして信長が釘付けになっている間に、本願寺が率いる伊勢長島(三重県桑名)の一向一揆が活発になり、伊勢の長島城や尾張の小木江城などが次々に陥落していった。

 尾張の小木江城は信長の弟が守っていたが、一向一揆に攻められ自害に追い込まれた。京を動けぬ信長は弟が自害するのを、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。宗教勢力による無情な仕打ちに対して信長は耐え続けるしかなかった。

 1570年の年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦が成立し、信長は岐阜に戻ることができた。講和が成立した背景には兵農分離でない朝倉軍の都合があり、朝倉軍は雪深い越前では真冬になると身動きが取れず、来春の農作業のために帰国できなくなるからであった。

 翌1571年、信長は近江の姉川を封鎖して佐和山城を落とし、南近江の支配権を得るとともに、朝倉氏、浅井氏、本願寺などの連絡網を断つことに成功した。包囲網を分断した信長は、朝倉・浅井氏に協力した比叡山の焼き討ちを敢行した。

 そもそも比叡山の焼き討ちは、朝倉・浅井軍が比叡山に協力したことにある。信長は比叡山に「中立を保って欲しい」と伝えていた。さらにこの申し入れが受け入れなければ「全山を焼く払う」と通告していた。比叡山がこの通告を拒否したため、信長は翌年焼き討ちを決行したのである。長い歴史を誇った延暦寺は業火に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶のみならず、女人禁制なのに女性も多く含まれ、信長軍は比叡山にいた男女、子供までも容赦なく首をはねた。僧侶、一般人を問わず約4千人を皆殺しにした。

 信長といえば宗教を信じず、神仏を恐れないイメージが強い。それは無慈悲な比叡山の焼き討ちの事実があったからである。だが実際の信長は神に祈願することはあれば、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護策を施していた。
 信長は延暦寺に焼き討ちを行なったのは、単純に宗教勢力が敵対したからである。現代とは違い、宗教勢力は鉄砲なで武装して大名に歯向かうことが多かった。信長はそれらの敵対行為を受けて報復したのである。信長は「味方をしたものに対しては保護し、敵対したものには報復」という他の大名と同じ行動をとったにすぎない。

 高野山も敵の残党を匿ったり、足利義昭と通じたりと信長に敵対する動きを見せ、さらに使者10人以上を差し向けるが殺害されてしまったので高野山討伐にかかることになる。高野山も応戦したため戦いは長期化することになった。

 比叡山延暦寺は信長に敵対する宗教勢力として滅亡したが、一向一揆の軍勢は相変わらず信長を苦しめた。

長島一向一揆
 織田信長は京へ上る前年から北陸を攻め、信長の勢力は北陸から伊勢に及んでいた。伊勢のなかで信長に反抗していたのが、信長の本拠地である尾張から川を隔てた所に強固な「要塞」を構えた長島一向一揆であった。武装をした一向宗徒の武士たちが,本願寺から派遣された指揮官の指揮の下で戦った。長島には大坂の石山本願寺の末寺・願証寺があり、東海地方の一向宗の門徒は10万人とされた。長島一向一揆は長島の城主伊藤重晴を追い出すと門徒による自治を行っていた。

 石山本願寺は信長の天下統一の動きに反抗して戦い、全国の一向宗門徒に信長と戦うようにと檄を飛ばしていた。長島願証寺もこの呼びかけに応じ、まず尾張の小木江(おぎえ)城を攻め、信長の弟の織田信興を切腹させた。
 織田信長は第1回目の長島攻撃を行ったが、長島方がゲリラ戦をとったため、信長軍は混乱して敗北した。1573年、信長は再び長島攻撃を行い、長島側に味方した北勢の土豪を降伏させたが、門徒のゲリラ部隊に襲われ再度敗走した。信長はすぐに三度目の長島攻撃を開始し、志摩の九鬼水軍を中心に数百艘の軍船を用い、これまでにない大軍を動員した。この軍船の威力は大きく、長島方の受けた被害は甚大であった。長島方では食糧不足から餓死者が続出し、二つの砦は落ち、風雨に紛れて砦から脱出した男女1000人余りが信長軍に斬り殺された。三カ月にわたる籠城戦が続き、遂に長島方は降伏し門徒衆は船で逃げ出した。しかし待ちかまえていた信長軍に鉄砲で打たれ、多くは川へ落とされ、川は死者の血で赤く染まった。また砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けられて閉じ込められ、四方から火を放たれ焼き殺された。現在の長島町の人口の約二倍の人々が殺されたことになる。

 一向宗徒にとっての石山本願寺はキリスト教のヴァチカンに相当する。宗教と政治の違いを認め,各地の一向宗徒に「住む土地を支配する大名と争うな」と,顕如の名前で指令をだしていれば,長島や越前や加賀での信長の虐殺はなかった。
 実際には,信長と長年に渡って激しく戦い降伏した本願寺は,京都に西本願寺・東本願寺として残されている。

 

武田信玄

 翌1572年、信長が最も恐れていた甲斐(山梨県)の武田信玄が将軍義昭の誘いに応じて上洛を目指して動きだした。三方ヶ原の戦いで武田信玄は徳川家康と信長の連合軍を苦もなく蹴散らすと、不気味な足音とともに京を目指して進軍を続けた。最強の武田信玄が京へ攻めてきては信長とて勝ち目はなかった。

 三方ヶ原の戦いで信長・家康の敗北を知った義昭は喜び、岐阜に戻っていた信長を裏切り、将軍の御所に堀をめぐらし防備を固めて信長に挙兵した。信長の運命はまさに風前の灯となったが、天は信長に味方した。上洛の途中で信玄は急死し、武田軍は甲斐に引き返したのである。

 その死は3年もの間、隠されていたが、信玄が亡くなると義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得なかった。義昭はこの後、再度挙兵するが再び敗れ、翌1573年、義昭は信長によって京を追われ、240年続いた足利氏の室町幕府は滅亡した。

 義昭を追放した信長は、返す刀で朝倉義景浅井長政を次々と滅ぼし、越前から北近江にかけて領地を拡大した。さらに翌年には伊勢長島の一向一揆に対し、女性や子供に至るまで皆殺しにして、その翌年には越前の一向一揆を攻め滅ぼした。

 信長の比叡山延暦寺や一向一揆に対する酷い仕打ちは、弟や部下たちのための復讐とはいえ、その残虐性が問題視されることが多い。しかし先に手を出したのは宗教勢力の方である。一向一揆は女性や子供までが武器を持って戦ったのである。信長の行為はやむを得ないとすべきであろう。

 武田信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼は武田騎馬軍を率いて攻勢に出てきた。東美濃や遠江(静岡県西部)にある信長や家康の城を次々と落していった。しかし1575年、三河の長篠まで進出した際、信長・家康が用意した3千挺の鉄砲隊の前に、武田軍の騎馬隊は壊滅的な打撃を受けた。1挺の火縄銃でも迫力があるのに、これを3千挺も揃えたのである。これが有名な長篠合戦である。この戦いで多くの精鋭を失った武田家は没落の一途をたどり、1582年の3月、織田信長は武田領国へ侵攻すると、甲斐天目山で武田勝頼にとどめを刺した。これで東国からの侵攻の懸念が消え、信長は本州中央部から関東上野までを支配下に治めた。

信長の人物像
 1574年の正月の酒宴で、浅井久政・長政父子、朝倉義景の3人の頭蓋骨を杯にして家臣に酒を飲ませた。このことから信長がいかに残忍な人物であることがわかる。その時は、前号の改年にあたり、清めの場で三将の菩提を弔い、敵将への敬意の念を示すためとも解釈できるが、生前の3人を知る家臣たちが3人の頭蓋骨を差し出されたとき、これ以上の驚きと恐怖はなかったであろう。次は自分の頭蓋骨が酒の杯になることが想像されたからである。特に明智光秀は朝倉義景から恩を受け、長期にわたり使えていた。その朝倉義景の頭蓋骨に酒を入れられ飲めと言われたのだから明智光秀の心情はいかなるものだったのか。いずれにしても明智光秀は朝倉義景の頭蓋骨に注がれた酒を飲み干したのである。

 信長は赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳首を噛み切り乳母捜しに大変苦労したとされている。なおこのような「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる(弁慶など)。
 観内という茶坊主に不手際があり信長が激怒した。観内は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に観内を斬り殺した。そのときの刀(長谷部国重作)はその切れ味から「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられている(福岡市博物館蔵、国宝)。
 1570年、鉄砲の名手・杉谷善住坊による信長暗殺が未然に発覚、杉谷善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に埋め、切れ味の悪い竹の鋸で首を挽かせ激痛を与え続けながら処刑した。これは信長だけでなく、秀吉も徳川家康も行っており、江戸時代の公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
 1578年、尼崎近くの七松で謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔、鉄砲、槍・長刀などで処刑している。女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。信長公記ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまったことによる制裁であった。
 1582年、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発ち、翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが信長は当日のうちに帰還し、侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で全て殺した。また助命嘆願をした桑実寺の長老も殺されている。
 時は戦国時代である。信長は本当に残忍だったのだろうか。信長の行為の大半は当時の戦国大名の間で常に行われていて信長だけが特殊ではない。1577年、羽柴秀吉は毛利への見せしめとして女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)している。
 信長は弟の信勝を暗殺しているが、信勝を一度は許しており、彼の遺児を養育して元服すると織田一門として重用している。叔母のおつやを処刑しているが、信長の実子(織田勝長)を勝手に武田に差し出したからである。反乱を計画した兄・信広を赦免後に重用し、弟を戦死させた比叡山を憎しみ焼き討ちにし、長島一向一揆を殲滅している。
 信長の側から盟約・和睦を破った事は一度もない。信長と敵対したのは相手が盟約・和睦を反古にしたからである。信長は独尊の自信家であったが、世間の評判を重視して常に正しい戦いであるように腐心していた。また武将としても優れていた。桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、長良川の戦いでは殿軍をつとめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立った。通常、最も敵に狙われやすい大将が最前線に立つ事はほとんどないなかで、部下たちを鼓舞するために危険を顧みず自ら最前線に出て戦っていた信長は異例であった。無論、信長自身も普段から武術の訓練を怠ることはなかった。重要なことを他人に任せず自身で先頭に立ち行ったことである。
 荒木村重の説得に向かった黒田官兵衛が帰えらず、同時期に官兵衛の主君・小寺政職が離反したことから、官兵衛も政職に同調して裏切ったと考え、官兵衛の息子・松壽丸(黒田長政)の処刑命令を出したが、後に官兵衛が牢に監禁されていた事を知った時は「官兵衛に合わせる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中半兵衛に匿われていた事が分かった時には狂喜した。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面があった。
 長篠の戦いで身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させた。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。
 美濃と近江の国境近くの山中に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。1575年6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分は嬉しい」と村人に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙した。このように信長は自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であったが、このように立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面があった。
 1581年お盆では安土城の敷地全体に明かりを灯し、城下町の住民たちの目を楽しませ、相撲大会も庶民とともに楽しんでいた。祭り好きが好きで、信長自身が参加・主催することが多かった。1582年の正月には安土城を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を招き入れ、信長自らの手で一人につき銭百文ずつ見物料を取り立てた。また馬借が荷物の重さで言い争っていると、自ら馬から下りて荷物の重さを測ったりもした。
 また長女の徳姫(松平信康の妻)を除くと、縁組させた娘達は家臣の前田家や丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁がせ信長の死後も夫から大事にされている。つまり娘を大事にしてくれる婿を厳選する甘い父親と言える。信長は当時の武将としては女性を重視していた。自分の妻を尾張に残して岐阜に単身赴任した部下を叱り、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を重視した意外な言動が残されている。
信長の文化への関心
 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」ではビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。好奇心が強く、鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。長篠の戦いでは3,000丁もの鉄砲を用いて武田勝頼の軍に壊滅的な被害を与えた。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付けて側近にした。この黒人は身長六尺二分(約182.4cm)の大男で、「十人力」と称される怪力であった。信長は単なる好奇心だけでなくこの黒人を実戦の役に立つ兵としても重用していたようである。信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは弥助に領地と城を与えて城主にするつもりであったが、その計画は本能寺の変により頓挫することとなった。なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、明智の軍勢を相手に最後まで奮戦した。
イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。信長はローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから南蛮の目覚まし時計を献上された際には、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。   

 

安土城

 長篠合戦で武田家を破った織田信長は、1576年から近江の安土(滋賀県安土町)に七重の大天守閣を持つ安土城を築き始めた。3年後に安土城が完成すると、信長はそれまでの岐阜城を嫡男の織田信忠に譲り尾張・美濃両国を支配させ、自分は豪華な安土城へ移った。

 安土城はそれまでの築城の常識を大きく変えるものだった。それまでの城は攻められにくいように山の頂上に建てるのが通常でこれを山城といった。しかし安土城は小高い山に建てられた平山城であった。山城から平山城へと城の建築方法が変わったのは、鉄砲の出現による。堅固な山城であっても、鉄砲の射程距離内であれば、結局は攻撃を受ける。

 しかし平山城であれば、城の周囲に大きな堀を設け、あるいは城自身を高く設計して射程距離にかからないようできる。さらに城に立てこもれば、城に迫る敵を鉄砲で狙い撃ちすることができた。しかも平山城であれば、交通の便が良くなり、城下町をさらに大きく広げることができた。経済が活性化して発達すれば収入が増え、さらに大きくて頑丈な城を建てることができた。

1577年、信長は安土に楽市令を出して、商人の自由な経済活動を支えた。このことで多くの商人が集まり、その財力は信長にとって兵力に勝るとも劣らない大きな武器となった。

宗教勢力との宿命的な対決を経験した信長にとって、信仰の道から外れて権益にしがみつく仏教は嫌悪の対象でしかなかった。その一方で西洋の進んだ文化や技術をもたらしたキリスト教(カトリック)を保護した。

 ちなみにカトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解した。信長の柔軟な発想力がうかがえる。

 

石山本願寺

 比叡山は焼討ちで破壊したが、信長にとって死を恐れぬ一向宗の門徒たちは手強かった。総本山といえる大坂の石山本願寺(跡地は大坂城)が、難攻不落の城並みの防御力を誇っていて、毛利家が村上水軍を使い海路から兵糧や武器弾薬を運び続けたからである。石山本願寺との戦いは1570年から、本願寺から顕如が退去する80年(本能寺の2年前)まで10年間も続いだ。

 信長は石山本願寺への輸送を断つため、1576年に村上水軍と戦うが、強力な火器を持つ村上水軍によって、信長軍の船は次々に炎上して惨敗してしまう。このままでは石山本願寺を落とすことができない。信長軍が村上水軍に敗れたのは、敵の火器で自軍の船が燃やされたからだった。それが敗因ならば燃えない船をつくれば勝てるはずである。船を燃やされないためには頑丈な鉄を使えばよいのであるが鉄は重く沈んでしまう。

そこで信長の柔軟な頭脳は、とてつもない発想を思いつく。鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくり、その周囲に薄い鉄を巻けば沈まないはず。こうして完成した鉄板装甲の巨大軍船は、村上水軍を散々に打ち破り、毛利水軍を木津川河口の戦でくだし、大阪湾の制海権を掌握し、本願寺の援軍を断って本願寺を屈伏させて畿内を完全に支配した。

 逆に毛利家からの補給路を断たれた石山本願寺は追いつめられ、1580年についに信長に降伏した。およそ10年にわたって戦いを続け、多くの家臣や肉親を失うことになった本願寺に対して、信長は以後は逆らわないことを条件に、今後の布教は自由としたのである。

 信長に対して反逆さえしなければ、たとえ激しく戦った相手であっても信教の自由を認める。このように信長はいわゆる宗教弾圧を常としない考えであった。

 この石山本願寺の合戦のこの過程で、信長は一向一揆を徹底的に弾圧した。伊勢長島の一揆では男女2万人を焼き殺し、100年続いていた越前の一向一揆を攻撃した際は、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数は4万人、信長は手紙の中で「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」と書き記している。鬼も震える冷酷非情であるが、石山戦争の初期に兄信広と、可愛がっていた弟信興と秀成を失っており、このことが狂気じみた残酷さの背景にあることを加えておく。

 比叡山延暦寺を焼討ちした後でも、信長は天台宗の禁教令を出していない。後に豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教(カトリック)が禁教とされ、宣教師や信者たちが激しい弾圧を受けたことに比べれば対照的である。

 巨大な圧力団体と化していた宗教勢力は、信長によって徹底的に滅ぼされました。信長は宗教を嫌っていたのではなく、宗教が圧力団体となって政治に圧力を加えることを嫌っていたのである。比叡山延暦寺の焼き討ちがあたかも宗教弾圧者のように捉えられるが、当時の寺社は決して無抵抗な宗教団体ではない。己の利権を守り、主張を押し通すために武装していた。つまり信長は「宗教」を盾にした武装組織を、あくまで敵対者として排除したのである。反抗した比叡山や本願寺に「禁教令」を出していないことからも、彼に宗教弾圧の意思がなかったことは疑いない。

 このことがきっかけに、我国では宗教団体が政治に積極的にかかわることがなくる。日本国憲法第20条で明確に規定されている政教分離は、信長がその道筋をつけてくれたといえる。信長は室町幕府を滅ぼし、その後も領土を拡大し続けたが、織田家が元々守護代の家臣という低い身分であっただけに、他に対する権威という面ではどうしても見劣りしていた。

 

生き神

 1581年47歳のときに京都で馬揃(うまぞろえ)軍事パレードを行い信長の力を天下に見せ付けた。家臣団の構成は、北国方面は柴田勝家、丹波、丹後方面は明智光秀、関東方面は滝川一益、中国方面は羽柴秀吉、対本願寺戦は佐久間信盛であった。

 ここで信長は新たな発想を持ち出す。自分がこれまでの権威を超える存在になればよいことだった。すなわちそれは「自らを生き神になる」ことであった。

 安土城は豪華な造りで知られるが、信長が神として存在するための宮殿であったとされてれる。例えば通常なら「天守閣」というべきところを「天主」と名付け、天主の真下には釈迦如来の図が描かれ、自らが仏や神を超えるものとした。信長=神という発想は強者=神の発想であり、家康も遺言で自らを東照大権現として祀るように命じている。権現とは神の化身(けしん)で、仮の姿を意味しており、その発想は信長と同じである。

 それまでの権威を超えるため「自らが神になる」と宣言した信長であったが、絶対的な権力を持つ為政者が自らを神格化することは実は大変危険な行為でもあった。それは自分が神のような存在になることで、「自分が正しいと思うことは何でも正しい」という独裁的な思想を持つことになるからである。事実、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半から、信長の行動は古今東西の独裁者と同じような非情な一面を見せるようになった。

 例えば1580年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛や林通勝(みちかつ)を、過去の不行跡を理由に突然追放しており、1582年の旧暦4月には自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件も起こしている。

 

明智光秀

 織田信長の狂気じみた行動に、家臣たちは「明日は我が身」とおびえ、信長にはついていけないと思った。その家臣の中に信長に見出され、例のない出世を果たした武将がいた。彼こそが我が国の歴史を大きく塗り替える大事件を起こした明智光秀だった。

 明智光秀は皇室などの古来からの権威や秩序を重視していた。自らが神となる信長の姿勢やその独善的な態度は、光秀にとって信長から受けた恩を差し引いても許されるものではなかった。心の中で次第に反感が高まった。

 本能寺の変の当日、信長の三男・織田信孝は長宗我部元親を撃つために出陣するはずであった。この長宗我部元親討伐は明智光秀にとって許されないことだった。当初、信長は四国全域制覇を条件に長宗我部と同盟を結び、その仲を取り持ったのが光秀だった。しかも光秀の家臣の妹を元親に嫁つがせていた。信長は自分の苦労を水の泡にするだけでなく、家臣の縁者を見殺しにしようとしていた。

 5月15日、徳川家康が甲州征伐の戦勝祝いのために安土城を訪れると、信長は明智光秀に接待役を命じた。光秀は家康を手厚くもてなすが、この時光秀の接待に不満を覚えた信長は、森蘭丸に命じて光秀の頭を叩かせた。このこともあり絶望した光秀の心の中で秘めていた爆弾が炸裂したのである。

 豊臣秀吉が毛利攻めの援軍を求め、信長は明智光秀に秀吉の援軍に向かうよう命じた。そのため明智光秀の軍勢は領地の丹波亀山(京都府中部)を出発して京に近づくと、備中と京への分かれ道で突然京へ向きを変えた。そして明智光秀が高らかに宣言した。「敵は本能寺にあり」。

 「敵は本能寺にあり」は、江戸時代中期に書かれた軍記物「明智軍記」の中にある記述で、明智光秀が本能寺の変の際に発したとされる台詞である。織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀の軍勢は、備中の毛利勢を攻めると見せかけて出陣する。しかし本当に討つべき敵は本能寺にいるとして、進路を東にとって京都の本能寺に向かった。光秀は信長の殺害を決意した。相談する相手も止める家臣もいなかった。光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、標的が信長であることを伏せていた。光秀の謀反を知っていたのは5人の重臣だけだった。

 「敵は本能寺にあり」は後世に創作された言葉で多くの小説で使われている。

 

敵は本能寺にあり

 1582年6月1日の深夜。織田信長はわずかな手勢で京の本能寺に宿泊していた。そこへ1万3千の明智光秀の軍勢が突然襲撃してきた。信長側の手勢は180人である。信長は鉄砲の音で部屋を出ると、敵が本能寺の中に突入して来た。「これは謀反か、攻め手は誰じゃ」。蘭丸が「明智が者と見え申し候が」と答えた。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は自ら弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ってに奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍に敵うはずはなく、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番知っていた。火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。

 突然の光秀の謀反になすすべもなく、居間に戻った信長は自ら火を放ち炎上する本能寺の奥の間に入り腹を切った。覇権の夢は消え、業火の中で49歳(満48歳没)の波乱に満ちた生涯を閉じた。この大事件は我が国の歴史を大きく変え「本能寺の変」と呼ばれている。

 明智光秀は信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地に使われていたため、火薬が備蓄されており信長の遺体が爆散しためとされている。しかし遺体が見つからなかったため、信長は密かに脱出し別の場所で自害したという説、信長を慕う僧侶によって人知れず埋葬されたなどの説が流布した。

 その光秀は中国地方の遠征を切り上げて上京して来た羽柴秀吉(信長軍の西部戦線司令官)にあえなく討ち取られた。信長横死後わずか11日間の天下であった。

本能寺焼討之図(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)

 尾張の小領主の家に生まれた信長は、父信秀の後を継いでから10年で国内を統一し、それから20年足らずで日本の中枢を支配した。道半ばにして光秀の裏切りで暗殺されなければ間違いなく日本全土を掌握していただろう。

 信長の特徴は、(1)若いころから天下統一の野心を燃やし、その実現に尽力した。(2)室町将軍や天皇といった「昔の権威」を飾り立て、自分の政治行動の正当性を維持しようとした。(3)抵抗勢力に対して非妥協的態度を貫いて殲滅に努め、妥協や和合をしなかったため、あらゆる政治行動を完全なフリーハンドで行えた。(4)商業資本を重視し、楽市楽座の育成に努めたため財政が充実し、その結果、農村と切り離された専業兵士を基幹戦力に位置づけ新兵器の鉄砲を大量に装備できた。(5)徹底的な能力主義の人材登用と人材評価を行ったため、信長の下に経験豊富で優秀な部下が集まった。

 以上のことから窺えるように、信長の政策は何から何まで革新的で革命的だった。織田信長は、今川、斉藤、朝倉、浅井、三好、武田、そして本願寺といった抵抗勢力を次々に倒して行き、ついには抵抗勢力と結託した足利将軍家(十五代将軍・義昭)を京都から放逐し、室町幕府を滅亡させる。

 信長は、安土(滋賀県)に広壮な居城を築き、ここを拠点に天下を睥睨した。彼の圧倒的な軍勢は、北に上杉氏と戦い、東に関東諸豪と戦い、西に毛利氏と戦った。そのころの朝廷は、天皇自らが書画などの内職をしなければならないほど落剥困窮していたが、信長が天下人となって行く過程で様々な援助を受け、ようやく政治機関としての機能を回復していた。朝廷は信長を征夷大将軍に任命し、強大な独裁者と朝廷との位置関係を明確にしたかった。

 しかし信長は、右大臣以上の官位を得ようとはしなかった。彼の夢は「天下布武」。あくまでも、武士階級を日本の主権者とし、朝廷は武士を権威付けるための単なる宗教機関で良いとしていた。

 その信長が天下統一に王手をかけた矢先、京都にて部下の明智光秀の突然のクーデターに倒れた。本能寺の変である。この明智光秀は低い身分から信長によって大抜擢され、忠勤に励んでいた重臣である。信長は彼を深く信頼していたようであるが、なぜ光秀が突然反逆したのかは歴史上の一大ミステリーになっている。そして信長の後継者となったのは、その遺児ではなく、この羽柴秀吉であった。実力主義の戦国時代では血統など何の価値もないのだ。光秀の果実を奪い取った秀吉の立場は、カエサル死後の古代ローマにおけるオクタヴィアヌスに似ている。