織田信長

戦国時代

 朝廷や室町幕府の権威が低下し、日本をまとめる統治能力がなくなり戦国時代が生れた。

 室町幕府は応仁の乱以降、その実権を失い、将軍家を取り巻く管領などが、私利私欲を得るために将軍を飾り物にして、道具として使用するようになった。

 このような情勢下であったが、人々は生きるために地方ごとに身を寄せて生活をしなければならなかった。身を寄せたのは本願寺などの武装した宗教団体の場合もあれば、堺などの武装商人町の場合もあったが、もっとも多かったのが戦国大名であった。

 戦国大名とは、室町幕府の地方行政機関が独自の武力と政治機構を持ち、幕府の統制から独立した形でものをいった。

 ただし戦国大名にも様々な潮流があり、名も無い庶民が大名家を乗っ取った者(斉藤道三)、小さな土豪が実力で周辺勢力を併呑し巨大化した者(小田原北条家、毛利家、長曾我部家)などがいる。戦国大名は実力主義の世界で、常に領内の民衆を統治しなければならなかった。すなわち周辺との戦いに勝って、民生を充実させなければならなかった。

 朝倉家、今川家、武田家、長曾我部家などは、領内に独自の法令を発して民生の充実に努めた。また武田信玄の治水工事(信玄堤)に代表されるように、領内でのインフラ整備にも尽した。

 民衆の大半を占める農民は農閑期には仕事がなくなる。そのため農民が戦国大名を突き上げて他領を侵略して収入を得たという理屈はある。これは戦国時代において農閑期に戦いの頻度が高かった理由にはなるが、むしろ私たちには理解できない生死感や経済感があったのであろう。

 

下克上の時代

 戦国時代の特徴は完全な実力主義で、どのような名門でも能力がなければ簡単に滅ぼされた。まさに下克上の時代で、そのため斉藤道三や北条早雲のような流れ者が、美濃の土岐家や小田原の大森家を乗っ取るようになった。全国各地には大小多くの戦国大名が乱立していたが、大名たちは自分たちの領地を支配し、あわよくば隣国をも征服しようとしていた。平安末期の源氏なら敵は平氏だけだが、戦国時代は周囲のすべてが敵なので、同族であっても油断はならない。敵は滅ぼすか、臣従させなくてはならない。敵対しないなら同盟してしなくてはならない。
 戦国大名は領内の民意に気を遣っていたが、それは戦国大名が権威に頼れない実力本位主義だったためで、常に民衆感情に気を配らねばいけなかった。そうでなければその地位を保全出来なかったからで、戦国大名は民意を重視し、戦いに勝ち続けなければならなかった。戦いに負けて領内の民衆を保護できなければ部下や民衆に見限られ滅亡に追い込まれた。

 応仁の乱から約100年間は、このような戦国大名どうしの地域的な争いが続いていた。しかしその中で天下統一の野望に燃え、その実現に挑んだ人物がいた。もちろん織田信長である。当時、天下を取りたいと思う武将は数多くいただろうが、ほとんどの場合は夢か妄想であり、若いころから途方もない野望と実行力を持ってそれを計画して実行にしたのは信長ただ一人だったと言える。
    我々は戦国末期、信長が新社会の基礎を作り、秀吉が改良し、家康が総仕上げをしたことを知っている。しかし秀吉も家康も、信長の存在なくしてあの大業を成し遂げることなどありえないことだった。

 

地方政治

 織田信長を語る前に、まず室町時代の地方政治から説明する必要がある。室町時代の足利将軍は自分に忠実な家臣を守護(大名)に任命して、その地域を領国として独立性を持たせた。つまり守護とは幕府から特定の国(地方)の行政を委託された御家人のことである。もちろん守護を任命するのも罷免するのも足利将軍で、将軍の気分次第で、あるいは守護の忠臣心や失態によって、守護は領土変えられ、あるいは取り潰しが行われた。

 室町幕府にとって守護は国(地方)を治める重要な協力者だった。さらに守護を補佐するために国人守護代がいた。国人とはその地方で勢力を持つ地侍のことで、守護代とは守護の重臣あるいは有力な国人だった。

  守護は国人や守護代を服従させ、あるいは協力させて傘下におき勢力を拡大した。しかし室町時代の後半になると、足利将軍の勢力は衰え、時代は下克上の戦国時代になった。下克上とは下位の者が上位の者を打倒して上下関係を逆転させることで、国人や守護代は常に守護を見定め、統治能力がなければ、あるいは無理な要求を強いるのであれば反抗して立場を逆転させた。しかし戦国時代の足利将軍は飾り物にすぎず、室町幕府の厳令は地方に及ばなかった。

 

父・織田信秀から信長誕生まで

 室町時代の織田家は、もともと尾張(愛知県西部)の守護大名・斯波氏の守護代(筆頭家臣)であった。室町幕府で管領をつとめていた斯波氏が没落すると、織田家は尾張で勢力を持つようになる。

 しかし信長の父・織田信秀は同じ織田家でも、本筋の尾張守護代の清洲・織田氏一族の分家のひとつにすぎなかった。尾張下四郡を支配する清洲城主(清須市)の清洲織田家の三奉行の一人で、信長の父・織田信秀は織田本家を支える分家の家来であった。しかし海運の要地である商業港・津島の港を押さえると、経済力を蓄えて徐々に頭角を現し織田本家を凌ぐ勢いになった。織田信秀は17歳で父の生前に家督を継いでいるが、若い頃から織田信秀は信長より優秀だったとされている。

 織田信長は父の死後、「尾張を統一するのに8年間」も苦労を重ねるが、父の信秀は30歳の頃には尾張から美濃や三河の一部までをゆるやかではあるが統一していた。尾張の武士を動員して三河や美濃を攻め、三河では安祥城(安城市)を、美濃では大柿城(大垣市)を手中に収め、知多半島の水野信元も三河の松平(徳川)との同盟を絶って織田信秀につき、信秀は尾張統一から美濃侵攻までを早々と成し遂げていた。

 駿河の今川義元はこれを良しとせず、1542年(信長8歳時)に三河を攻め織田信秀の尾張勢と小豆坂(岡崎)で戦っているが、織田信秀が10倍の軍勢の今川義元を退けている。この頃が織田信秀の絶頂期であったが、これだけの実力がありながら尾張守護代の三奉行の一人という低い立場に変わりはなく、そのため信長も父の死後に苦労を重ねることになる。

 1551年、織田信長は父・信秀から家督を受け継ぐが、この時の尾張統一は穏やかな統一であって、父・信秀の勢力を奪おうとする者が多くいた。信長の織田家の身分は、尾張の南半分を支配する織田大和守家の家来に過ぎず、信秀が一代で大きく勢力を伸ばしたが、それを奪おうとする者が多くいた。信長はそれらの敵を打倒して、弟の信勝も含め他の織田家を滅ぼして尾張を統一したのである。それが19歳の頃で、尾張を統一までに8年の歳月を要している。この統一の翌年、息をつく間もなく今川義元の侵攻を受けることになる。

 

誕生からうつけ時代

 1534年、織田信長(幼少名:吉法師)は織田信秀の嫡男として尾張の勝幡城で生まれ、那古野(名古屋)城で育った。嫡男といっても別腹の兄が二人いたが、信長が正室(土田御前)の長男だったことから嫡男とされた。妹はお市の方(市の娘は豊臣家の淀君)がいる。

 信長は赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳首を噛み切り、乳母捜しに大変苦労したとされている。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は偉人伝ではしばしば見られる(弁慶など)。

 1546年、信長は12歳で元服して織田三郎信長を名乗り、美濃の斎藤道三と父が同盟し、その証として道三の娘と結婚した。

 この頃の信長は奇抜ないでたちを好んで、粗暴な振る舞いが多かった。入浴の際に着る浴衣を普段着にして、まげは毛先を茶道で使う茶筅(ちゃせん)のように結び、紅や黄色の派手な糸で巻き上げていた。

 腰を縄紐でしばり、瓢箪(ひょうたん)を八つぶら下げ、肩をだらしなくお供にもたれ掛け、平気で栗や柿を手掴みで食うなどして城下の大通りをを練り歩いた。この様子を見た世間の者は信長を「尾張の大ウツケ(大ばか者)」と呆れていた。

 なお瓢箪(ひょうたん)を八つぶら下げていたが、瓢箪には古くから縁起物、魔除けとされ豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」が好例である。瓢箪は作物の種の入れ物として使われ、酒や水、油の入れ物であり外傷の消毒用に使われていた。

 織田信長は父・信秀を見て育ったため、たとえ優秀でも自分は織田家の分家にすぎず、守護・守護代などの安定した地位でないことを悟っていた。

 うつけは「しきたりを重んじる風潮」に反発する気持ちが強かったのだろう。この「うつけ」ぶりは、織田大和守家の支配する清洲城下に数騎で火を放ったりしたことが信長公記に書かれている。
 このうつけであるが、これを信長特有の合理性と受け止めることもできる。浴衣の袖を切ったおかしな服装は、行動しやすいための工夫であり、仲間でつるんで馴れ馴れしく町を練り歩くのは、自分の手足となる親衛隊を育成するためで、それが世間からは「うつけ」と映ったのであろう。

 実力主義の戦国時代である。家臣といえども、いつ裏切るかわからない。自分の力を強め、存在感を高めるための「うつけ」だったのかもしれない。あるいは周囲を油断させるための演技だったかもしれないが、むしろ信長が優秀すぎて周囲の常識と違っていたと受け止めた方が良いだろう。

 また今川氏へ人質として護送される途中で松平家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(徳川家康)と幼少期を共に過ごしている。後に両者は固い盟約関係を結ぶことになる。

 ある日、 比良城の近くの池に恐ろしい大蛇が出るという噂が立った。村人によれば大蛇の太さは一抱えもあり、赤い舌を出し、目は星のごとく輝いているとのことであった。 この噂を聞きつけた信長は村人から話を聞き、自分が退治してくれると行動に出た。

 1月下旬、名古屋市西区の村人たちをかり集めると池の水を汲み出させた。しかし汲み上げても7分目ほまでしか水は減らず、業を煮やした信長は脇差を口に咥え池に飛び込んだ。さらに家来にも潜らせ大蛇を探させたが見つからなかった。信長は諦め清須へ引き上げたが、このことは好奇心が旺盛で、何でも徹底して行う信長の性格を示している。この池はこれをきっかけに「蛇池」とよばれ、現在では桜の名所として「蛇池千本桜」の名で住民に親しまれている。

 この頃から信長はすでに神仏の存在を全く認めていなかった。父が病気になった際、病気が回復すると保証した祈祷師・仏僧らを「虚偽を申し立てた」として寺院に監禁し、外から戸を締め「今や自らの生命に念を入れて偶像を拝むがよい」と言い放つと、鉄砲隊に包囲させて射撃の命令を下した。信長は生き残った仏僧を指さし「あそこにいる欺瞞者どもは、民衆を欺き己れを偽り、虚言を好み傲慢で僭越のほどはなはだしい。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殱滅しようと思っていた。しかし民に動揺を与えぬため、民に同情して彼らを放任している」と話している。合理的主義者の信長は神仏の存在を全く認めていなかった。

 

 斎藤道三との同盟

 信長14歳の時、父・信秀は尾張の半分を手中に収め、隣国の三河へも手を伸ばしていた。さらにもうひとつの隣国・美濃への進攻は何度も挑戦するがうまくゆかず、駿河の今川義元がいずれ攻めてくることが分かっていたので、信秀は美濃の斎藤道三と同盟を結び今川家と戦うことにした。

 斉藤道三は美濃から大名土岐氏を追い出して以降、織田家と斉藤道三はたびたび戦っていた。斉藤道三の美濃は朝倉氏の越前とも接し、しかも近江(滋賀)の六角氏は道三が乗っ取った土岐頼芸の嫁の実家だった。そこで織田家との同盟の利を悟った道三は、織田家と縁組をして同盟を結ぶ事にした。そのため斉藤道三は娘を織田家に嫁がせることにするが、もちろん政略結婚である。この同盟の証として、信長は道三の娘・濃姫を娶ることになった。

 斎藤道三は油売りの商人から美濃国の守護・土岐氏に取り入って国を乗っ取った下剋上の代名詞といえるほどの人物である。美濃のマムシと恐れられた道三は、うつけと評判の娘婿の器量を見ておこうと、濃尾国境の木曽川に近い富田の聖徳寺で信長と会うことにした。

 会見前に道三は信長の通り道の民家に潜 み、「うつけ」の様子を前もって見ておこうとした。すると織田の軍勢はまるで戦に行くかのように長柄の槍や鉄砲を道三に見せつけ、そのうえ武装し整然と行軍してきた。しかしやがて見えてきた信長の風貌にはあきれてしまった。信長はいつものように、半身の着物ははだけ、腰に瓢箪をぶらさげ、馬に跨っていたのだった。斎藤道三は「会見にあの軍勢、あの武装にはいささか目を覚ましたが、うつけ殿は、やはりうつけよ。わざわざ会見するほどでもない」と失望した。
 斎藤道三は会見場の正徳寺に入ると「あのうつけに会うのに正装ではなく平服でよい。うつけ殿が参られたら、ちと待たせておけ」と言った。そこで信長の到着を聞いたが、すぐには会見場には行かなかった。
「失敬、これはお待たせ致した」と、道三が会見の間に入り信長を見ると、そこには正装した凛々しい信長の姿があった。道三は信長の正装にド肝を抜かれるが、信長は毅然とした顔つきであった。
 斎藤道三の側近・堀田道空が、「山城(道三)殿でござる」と促すと「で、あるか」と、信長は尊大な態度で答え会見が始まった。斎藤道三はすぐに信長の器量を見抜き「わしの息子たちは、将来あの信長の配下になるだろう」と述べた。

 1561年に斎藤道三は息子の義龍に長良川で討たれるが、その前日には美濃国を譲渡する内容の手紙を織田信長に送っている。

 

濃姫

            濃姫之像(清洲城模擬天守横)
濃姫之像(清洲城模擬天守横)

 織田信長の正室となった斎藤道三の娘・濃姫であるが、濃姫の史料はほとんどなく謎に包まれている。そもそも濃姫は「美濃から来た姫」という意味の呼び名で、本名はわかっていない。濃姫は尾張との関係を友好に保つために道三が送り込んだ人質でもあり、「ことあれば信長と刺し違えよ」と命じられて尾張に来たという話もある。信長と濃姫の間には子はなく、信長も前田利家などの小姓(男色)を好んでいた。しかしマムシの娘である濃姫は「大うつけ」の妻を難なく務めたであろう。

 信長が22歳の時、舅の斎藤道三が息子の義龍に殺されると、斎藤道三は美濃を信長に譲る手紙を書いているが、少なくても濃姫はその時までは生きていた。本能寺の変の時に「おのう」という女性がそばにいたと記されているが、この「おのう」が濃姫だった可能性が残されている。しかし濃姫については史料がないため全く不明である。

 

信長最愛の人、吉乃(きつの)

 織田信長が23歳の時、長男(信忠)が誕生した。産んだのは濃姫ではなく生駒家宗の娘・吉乃だった。生駒氏は尾張上四郡の土豪で馬借(運送業)を生業としており、その関係で諸国の様々な人間が出入りしていた。吉乃は夫を戦で失った出戻りの娘で、信長より年上だった。しかし信長はたいそう気にいっていて、1566年に吉乃が亡くなるまで、吉乃は信忠、信勝、お徳という三人の子を産んでいる。また吉乃が亡くなったことを知った信長は涙を流したという話が残されている。

 信長は生まれながらの大名でありながら、若い頃から町人たちとも親しく付き合うなど、身分によって人を差別しない性格だった。低い身分の兵士たちにも気さくに声をかけ幅広い層から人気を得ている。これは人の用い方にも現れており、出自にこだわらず、能力のある者をそれにふさわしい身分に取り立てる方針を取っていた。このため低い階層の出身であった秀吉でも、信長の元であればいくらでも出世ができた。

父信秀の死から尾張統一

清州城まで

  織田信長17歳の時、父の信秀が急死により、信長は若くして家督を継ぐことになる。信長は父の葬式に遅れやってくると、いつものうつけの格好で、礼服で神妙な顔立ちの家臣たちを驚かした。髪を派手な紐で縛り、袴もつけず、信長はずかずかと仏前に進み出ると、いきなり焼香を鷲づかみにして位牌に投げつけ、そのまま帰ってしまった。

 まさに「うつけ者」の傍若無人である。そのため織田家の家臣や一族の者には信長から離反する者が多く出た。

 重臣・平手政秀は信長が幼い時からのの教育係であったが、信長の素行を諫める為に切腹をした。教育係の平手政秀は、死をもって信長を諫めたのである。信長はすぐに平手政秀の元に駆けつけると、平手政秀の死を深く悔悟し、平手政秀の死をいたんで政秀寺を建立して菩提を弔った。

  尾張が統一された時、側近が「ここまで尾張の国が強大になるとは知らずに、平手政秀が自害したのは浅薄だった」と言うと、信長は「こうやって弓矢をとれたのは、みな政秀が諫死してくれたからだ。わしが自分の恥を悔やんで過ちを改めたからで、古今に比類ない政秀を短慮と言う貴様の気持ちが口惜しいわ」と顔色を変えて激怒した。

 尾張の織田家はいくつにも分家していて、父の信秀や信長の家は「弾正忠家」と呼ばれ、織田家の中でも小さな分家に過ぎなかった。織田信長は織田家の分家の家臣であったが、名実ともに尾張を統一するため、信長は尾張国内の反対勢力を一掃するための行動をおこす。

 まず最初に清須の坂井大膳を攻め、次に主家の織田信友を攻めた。下四郡の中心地にある清洲城の織田信友が信長暗殺を企てるが、これを斯波義統が信長に密告してきた。これを知て織田信友が斯波義統を殺害すると、義統の嫡子・斯波義銀が信長の元に落ち延びてきた。信長は主君殺しの謀反人として織田信友を攻め、追放すると信長は清州城を居城とした。

 

稲生の戦い

 1556年、22歳の信長は斎藤道三の弔い合戦に破れて美濃から清須へ戻ってきたが、道三の後ろ盾がなくなり、家臣の中からも織田一族からも反信長の機運が高まってきた。

 まず尾張上四郡を支配する岩倉の織田信安が。道三を殺して意気上がる美濃の斎藤龍興と組んで信長に小競り合いを仕掛けてきた。信長領だった下之郷を岩倉勢が襲い、信長の砦(正眼寺)を3000の兵で襲ってきた。信長も出陣するが動員したのはわずか83騎のみで、さらに百姓衆に竹槍を持たせて足軽戦を行い岩倉勢を追い払っている。清須城の信長に対し、庄内川から東の地域がほぼ反信長となった。

 うつけ者の信長が家督を継ぐことに危機感をもった重臣は、信長の母が寵愛する弟の織田信勝を支持し信長に対して公然と挙兵した。重臣たちはこのままうつけ者の信長の下にいれば織田家はいずれ滅ぼされてしまうので、信長を廃して織田信勝を立て、織田信安や斎藤義龍と和睦したほうがよいとしたのある。
 その反信長勢力の中心は信長の家老で那古野城を与えられていた林秀貞とその弟の林美作守、さらに下社城の柴田勝家であった。この三人が結託して謀反を起こし、信長を廃して弟・信勝を立てようとした。

 信長の兵700に対し、織田信勝軍は柴田隊1000、林隊700だった。信長軍は兵力で劣っていたが、その勢いはすざ ましかった。信長が先頭に立ち大声で指揮をとり敵を威嚇した。敵は恐れをなし、味方は力を得て柴田勢を退けた。この信長部下というのが、かつてうつけ者の奇抜な格好にで町を闊歩(かっぽ)していた信長の供、前田利家や佐々成政らだった。彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時中行動をともにして来た「子飼い」の家来だった。合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し、烏合の衆を負かすことがである。

 この戦いで柴田勝家は手傷を負った。柴田勢を蹴散らした信長勢は、次に林美作勢へ向かい、信長自身が槍で大将の林美作を突き伏せ首を取った。織田信勝軍は統制がとれず、ちりじりになり那古野城に逃げた。

 信長の手勢は700だったが、数は少ないが信長に忠誠を誓った親衛隊であった。戦闘集団ゆえに士気は高く強かった。暴れまくる信長に従って3倍近い敵を蹴散らし、討ち取った首は450であった。敵の大将・織田信勝は戦いに出ず後ろで眺めているだけであった。

 この稲生の戦いに勝った信長は、末森城で同居していた母の土田御前の取りなしで織田信勝を罰しなかった。さらに信勝軍を指揮した柴田勝家を敢えて処分しなかった。

 尾張国はまだ政情不安定で、粛清すれば尾張の兵力が低下すると考えたのである。柴田勝家は信長の寛大な処置と戦略・戦術に感銘を受け、信長へ生涯の忠誠を誓うのである。

 弟の織田信勝は末森城の城主のままであったが、翌年には織田伊勢守家に通じて、信長にふたたび反旗を翻す。しかし事前に柴田勝家が信長に通報し、信長は信勝の反旗を勝家から聞くと、明日をも知れない重病との仮病の噂をたてた。信勝は母の土田御前から信長重症の知らせを受け、危篤という信長を見舞うため清州城を訪れた。そこを織田信長の命を受けた河尻秀隆に誅殺された。

 1559年、最後は尾張守護代の岩倉織田氏との戦いになった。岩倉織田の軍は3000であったが、信長との白兵戦で岩倉織田氏は軍の半数を討ち取られ城に逃げ込んだ。信長は岩倉城を取り囲んで火矢と鉄砲で攻め撃ち落とした。父信秀の後を継いでから10年、信長は25歳で尾張を統一したが、その過程で信長は鉄砲と長槍で武装した強力な家臣団の編成をおこなった。

桶狭間の戦い直前

 翌1560年6月12日(信長26歳)、尾張を統一したばかりの織田信長に大きな試練がやって来た。駿河(静岡東部)の大名・今川義元が尾張を我が物にしようと2万5千の大軍で攻めてきたのである。当時は戦国時代である。力のある大名は京都にのぼり名ばかりの室町幕府に代わって天下に号令をかけたいと考えていた。

 東海の雄といわれた今川義元もまさに京へ行こうと兵を動かしたのである。京への通り道には尾張の織田信長がいた。しかし織田は今川から見ればごく小さな勢力で戦闘というには値しないと考えていた。

 上洛を目指す今川義元は尾張侵攻を前に、武田氏・北条氏と婚姻関係を結び甲相駿三国同盟を成立させていた。この甲相駿三国同盟によって、武田信玄は北の上杉謙信に集中し、北条氏は関東に集中でき、今川義元は上洛に集中できた。

 このように今川義元は後背を整えてから京への道すがらの尾張を蹴散らそうとしたのである。信長の軍勢は2千、今川軍の軍勢の10分の1であった。「東海の雄」と呼ばれた今川義元とまともに戦っては勝ち目がなかった。

 まず前哨戦といえる小さな戦いが繰り広げられた。織田信長は名古屋の東南の知多半島の根本にある城・大高城をかこむように丸根砦鷲津砦を築き、今川義元の迎撃軍として待機させていた。

 大高城は元々は信長の領地であったが、今川方からの調略を受け寝返っていた。信長はこれに対抗し大高城と今川領との間に丸根・鷲津砦を築き、連絡を遮断し孤立させたのである。大高城は兵糧が不足しており、今川義元はまず大高城を孤立から救い、そこを拠点にして信長の領地に侵攻することにしたのである。
 この今川軍の先鋒を務めたのは、三河の豪族で義元の家臣だった松平元康(徳川家康)だった。家康は17才の若武者だったが、敵中を突破して大高城に兵糧を運び入れ、その後、松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を難なく陥落させた。これを受け後方の沓掛城で戦況を見守っていた義元は本隊を率いて大高城に向け進軍した。この時の義元直属の兵力は5000ほどで、他の2万の軍勢との連携を欠いた状況で行軍していた。大軍であっても連携が取れていなければ各軍勢が撃破され敗北してしまう可能性があった。義元はその過ちを犯したのである。義元はあり得ないはずの敗北を、自ら作り出してしまったのである。この行動は義元が戦場の危険性を熟知していなかったからである。

 信長はこれらの砦を総勢およそ500人で守らせていたが、今川軍はここを容易に突破すると、勢いづいた今川軍はさらに中嶋砦も攻め落とした。しかしこの砦の陥落が知らされても信長は動かなかった。中嶋砦の陥落を今川を油断させるための捨て石にしたのである。

 今川軍の圧倒的な強さが、信長に思わぬ勝機をもたらした。相次ぐ戦勝の報告に今川軍が油断し、酒宴を始めたのである。この三つの砦の犠牲がなければ信長の逆転は望めなかった。

 今川義元は大高城に大量の兵糧を送り込んでいた。そのため大高城に向かうことは分かっていた。しかし駿河から大高城に向かうには、細い窪地の桶狭間を通らなければいけない。

 清洲城では今川軍の侵攻を受け、どう対応すべきかの軍議が開かれていた。出撃するのか籠城策を取るのか結論は出なかった。それは織田信長が戦略・戦略を家臣に語らなかったからである。城砦が次々に陥落し、救援のあてもない以上、家臣たちは「かくなる上は篭城して通りすぎるのを待つべき」とする家臣がほとんどで、「出撃すべき」を主張する家臣はいなかった。10倍の敵が攻め込んきて、援助を求める勢力もないのだから、重鎮たちが浮き足立つのは当然のことだった。それを尻目に、信長は無言のまま作戦会議では何も発言しなかった。まさに絶体絶命の危機のなかで、信長は今川軍の動きを見ながら、機が訪れるのを待ち構えていたのである。


信長の出陣

 信長は静寂を保っていたが、信長の元に「今川義元が桶狭間で休憩を予定」この情報が飛び込んでくると、信長は夜更けに飛び起き、意を決したように立ち上がり「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」と幸若舞の「敦盛」の一節を舞った。

 この「敦盛」の一節とは源平合戦のときに、熊谷直実が敵の平敦盛を泣く泣く討ち取る場面を表した一節である。

 敦盛の舞を終えると、立ったまま湯漬けを食べ、装具を身に着けさせ馬に乗り出陣した。信長は単騎で城を飛び出し、あわててついてきた5騎の家来と共に熱田神宮に到着した。その後に陣貝を聞いて集結した2500の軍勢とともに熱田神宮で戦勝参拝を行ない、兵士の士気を高揚させ、善照寺砦で軍勢を整えると今川軍の本陣がいる「桶狭間」へ向かった。

 桶狭間で今川軍が休憩している時に奇襲をかける。それが織田信長が勝てる唯一の方法だった。信長は農民による「もてなし作戦」がおこなわれていた。

 もてなし作戦とは、今川軍が狭間に差し掛かった時に、農民がお酒やお餅を持ってご馳走することだった。当日、織田勢の3つの砦を潰した今川義元は気分を良くしていた。長距離を移動した今川軍は、予定通り桶狭間で昼飯を取ることになった。そこに地元の百姓たちが酒や食べ物を振舞った。「今川義元様、もう信長様の時代じゃねえです。この地を平定したら、ぜひまた村に立ち寄ってくだせえ。ささ、前祝いに一献」と杯を傾けた。

 織田信長軍は砦の戦いで兵を半分に減らしており、今川義元は絶対の勝利を確信して宴を開いていた。だが今川義元をもてなした農民は信長のスパイだった。「今川軍、桶狭間で休憩中」、この情報はすぐに信長に伝えられ、信長は全軍を率いて桶狭間へ直行したのだった。

 

桶狭間の戦い

 午後1時、それまで晴れ渡っていた空が急に暗雲に覆われ、視界を遮るほどの豪雨が襲ってきた。暴風雨のため視界は悪くなり、風で物音はかき消され、奇襲には絶好の条件になった。信長が出陣をする際には雨がよく降ったことから、信長は「梅雨将軍」の異名を持っていた。

 この雨によって織田軍の行軍が今川軍に察知されず、信長は家臣たちに「天も味方してくださった」と大声で鼓舞すると田楽狭間に突入した。信長軍は今川義元の首を狙って一気に攻めこんだ。
 桶狭間といわれる狭い窪地は、今川の後方の大軍は狭い山道を行くため軍勢は伸びきって援軍は機能しなかった。今川義元の周りを守っていた兵は300人くらいだったが、視界を妨げるほどの豪雨に気を取られ、信長軍の奇襲に体勢を立て直す暇はなかった。

 今川義元は東海一の弓取り言われた武将だったが、貴族かぶれをしており、偏食と運動不足から極度の肥満だった。そのため馬にも乗れず、桶狭間の合戦では輿に乗って出陣していた。今川義元は逃げるしかなかったが、抵抗も出来ずに討ち取られてしまう。信長の配下の服部一忠が斬りかかり、同じく足軽であった毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を打たれてしまった。こうして信長は、鮮やかな逆転勝利を飾ることができた。

 総大将の首を取られ、戦意を失った今川軍は動揺して敗走するしかなかった。桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を挙げた信長の武勇は全国にとどろいた。

 信長がこの戦で一番の手柄としたのは「今川義元休息中」との情報をもたらした梁田政綱という男であった。これは当時としては意外なことで、信長は武功だけではなく、あらゆる角度から戦功を評価したのである。「この情報がなくては戦には勝てなかった。勝利の要となる情報を伝えた者こそ一番の手柄」として論功行賞を与えたのである。戦争における情報の重要性を、信長がよく理解していた証拠である。

家康との同盟
 今川義元が倒されたことで、今川家の領地が目前にあった。しかし信長は今川義元を討ち取った後、信長そのまま清洲に引上げた。信長には桶狭間の戦果を拡大し、逃げる今川勢を追って駿河に侵入する選択肢があった。今川義元は死んでも今川家は滅びてはいないから、いつ義元の弔い合戦を挙げるかわからない。

 今川を追って攻め入るのが、当時の常識的戦法だった。しかし信長は今川の領地には目もくれず、翌々年に今川から独立した三河(愛知県東部)の松平元康徳川家康)と同盟を結ぶと、今川家の領土獲得を家康に任せ、信長は清洲から小牧へと本拠を移し美濃(岐阜県南部)の攻略に専念した。

 通常の戦国大名であれば、まず今川家の領地を狙うはずであるが、今川家の領地を手に入れれば、隣国の強豪・武田信玄や北条氏康と接することになる。信長は戦力の分散を避けるため、東を家康に任せ、上洛のために西に戦力を集中したのである。

 斎藤道三亡き後の信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし1561年に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤家では家中分裂が始まった。対斎藤戦で優位に立った信長は、1564年には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤家への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を浅井長政に輿入れさせた。

斎藤道三

 かつて美濃の斎藤道三は、国内の土岐家の勢力や、土岐家の家臣達を牽制するために、土岐頼芸の側室の妻が生んだ自分の嫡男・斎藤義龍に家督を譲った。義龍は土岐頼芸の側室が道三に嫁いですぐに生まれたことから、道三の子ではなく土岐頼芸の子と噂されていた。そのため道三は義龍に家督を譲り、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたが、義龍は道三とは似ても似つかぬ巨漢で、性格はおとなしく本ばかり読んでいた。そのため道三は 「あんな軟弱者に国はまかせられん」 と、家督を義龍から取り戻し、他の息子に国を継がせようとした。

 ところがこのことが土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでし、義龍も道三によって廃さることに危機感をつのらせ、さらに道三が信長と会見時に「我が子らは皆、信長の配下となるだろう」 と語ったことを聞き、義龍は道三と対立することになる。

 これまで道三が非道な裏切りと謀略を繰り返して今の地位を得たことが義龍の不安を募らせた。また義龍は斎藤道三の嫡男ではなく父は土岐頼芸と信じるようになっていた。そうならば土岐頼芸を追放した斎藤道三は父の仇であった。

 1556年、斉藤義龍 は土岐家に恩のあった家臣達や豪族の支持を受けると、道三に対してクーデターを実行した。他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、父の斎藤道三をも襲った。
    斎藤道三も軍勢を集めるが、多くの家臣が義龍側につき、戦える状態ではなかった。道三は織田信長へ 「美濃一国譲り状(美濃の国を譲り渡すと言う書状)」 を届けさせると、多勢に無勢の戦いの中で息子義龍と対峙し、最後の戦いで道三は義龍の見事な采配を見た。斎藤道三は「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかしこれで当面、斉藤家は安泰」 と語ったとされている。戦いに破れた美濃のマムシ・道三は命を落とした。享年 62 であった。

 その後斉藤義龍 は、美濃の支配をさらに強化し国内を発展させた。織田信長は、道三の「美濃一国譲り状」を大義名分として何度か攻撃を仕掛けるが、斉藤義龍は織田の軍勢を撃退させた。しかし1561 年、流行り病によって斉藤義龍は 34 才の若さで病没した。

 

美濃攻略 

 美濃の斉藤道三は息子の義龍から長良川で討たれ、織田との同盟はすでに廃されていた。斎藤道三亡き後、信長と斎藤家との関係は険悪なものとなったが、1561年、斎藤義龍が急死すると嫡男・斎藤龍興が14 才の若さで後を継いだ。しかし斎藤龍興は国主としての器量は無く、家臣達は次々と織田家に寝返った。

 信長は居城を清洲城か小牧城に移すと美濃(岐阜)攻略を開始した。信長は東美濃にある斎藤方の諸城(鵜沼・猿啄・堂洞城)を攻め落とし、その厳しい戦いぶりは美濃の土豪たちを動揺させた。斎藤龍興は部下からの信頼が薄く、そのため西美濃の土豪は信長になびこうとした。織田家は優位のまま、斎藤家では家中の分裂が始まる。1564年、織田家は北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤家を挟み撃ちにする形で牽制を強化した。

 1567年、斎藤家の有力家臣であった西美濃三人衆の稲葉一鉄氏家ト全安藤伊賀守が信長に味方することを申し出ると、信長は三人衆の人質を受け取る前に、すぐに軍勢を木曽川を越えさせ稲葉山城に殺到させた。稲葉山城下に火を放って城を孤立させ、包囲体制を整えて攻撃を開始した。

 稲葉山城は援軍の来ない「はだか城」となり、斎藤龍興はついに降服を申しでた。斎藤龍興は稲葉山城を明け渡し、7年間に及ぶ信長との攻防を終始させると、稲葉山城はついに落城した。このことで斎藤道三・義龍・龍興と続いた斎藤氏の美濃支配は終わりを告げた。
 この戦で木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、長良川沿いから金華山を登り、城の背後へ廻り一番乗りをはたした。秀吉が登ったのは現在の金華山登山道「めい想の小径」に近いルートで、味方への合図に「竹の先に瓢箪」をつけて振った。これが秀吉の馬標(うまじるし)の「千成びょうたん」となった。
 斎藤龍興は妻が浅井長政の妹だったことから、近江の浅井長政を頼って落ち延び、その後、京都六条合戦で三好三人衆とともに織田軍勢と戦った。その後、斎藤龍興は越前の大名朝倉義景の配下になり、1573年の越前敦賀刀根山合戦で信長と戦い討死している。

 

天下布武

 1567年、信長(33歳)は7年をかけて斎藤氏を滅ぼして美濃を平定すると、本拠地を尾張小牧から稲葉山城に移し「天下布武」の印を使い始める。天下布武とは「天下に武を布(し)く」、すなわち「日本全国を武によって支配する」ということで、信長が天下統一を目指すことを高らかに宣言したのである。

 「天下布武」といえば、信長の印章に用いた文言として有名であるが、一般的には前記した「天下を武力で平定する」という意味で捉えられがちだが、本当は天下布武の武は武力の武ではない。

 武は武力ではなく七徳の武のことである。武という漢字を分解してみると「戈(ほこ)」と「止」から成る。戈は戦で使われる武器で戦いを表し、それを止めるのが「武」である。

 七徳の武とは、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする七つの徳を意味し、それら全てを兼ね揃えた者が天下を治めるのに相応しいという意味である。しかし信長がそれを目指していたとは到底信じられない。戦国時代は徳をもって治められるような生易しい時代ではなかった。「天下布武」は天下統一への大義上の言葉であろう。

 美濃の稲葉山城に入った信長は、城の地名であった「井ノ口」を「岐阜」に改め、城の名前も岐阜城とした。これは古代中国の周の名君・文王が岐山(きざん)の麓から、殷の紂王(ちゅうおう)を滅ぼして中国全土を統一したことから、織田信長も「岐」を使うことで文王にならって自分が日本全国を統一をする意志を示したのである。阜は丘のことなので岐阜と岐山は同じ意味になる。

 それまで地名は古くからの言い伝えで付けられており、時の権力者が地名を変えることはなかった。信長が地名を新しくしたことは「天下統一へ向け、世の中を一新する」という強い意志を示していた。

 信長以降、時の権力者が地名を変更するのが通常となった。例えば、信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)は近江(滋賀県)の今浜の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって長浜と改めている。

 信長は日本人離れをしたカリスマ性を持ち、和の精神や怨霊など気にとめなかった。自分の考えを絶対視し逆らう者には容赦しなかった。信長の政策は何から何まで革新的で、実力本位の戦国時代には信長のような人物が必要であった。

 

兵農分離

 美濃を領地とした信長は、それまでの尾張から岐阜城を本拠地に定めた。他の戦国大名は信長のように本拠地を移すことはできなかった。それは戦国大名の兵力の大半が農民だったからである。

 農民にとって唯一の財産は彼らが所有する田畑だった。農民は田植えや稲刈りなどの農繁期は非常に忙しくて、田畑に釘付になった。当時の農業は全て手作業だったので、今とは比べ物にならない程忙しかった。

 そのため戦国大名は領地が広がっても、農民を易々と移動させることはできなかった。しかし信長は「兵農分離させ戦争専門の傭兵」を用いたのである。農業生産力が向上して足軽などの非生産者にも食料が行き渡るようになり、商業が発展して金銭に余裕の生まれた戦国大名の一部には、長期的に兵力を保持する必要から、足軽を継続して雇用したり、家臣団に組み入れる勢力も現れた。信長は商業で得た資金で下級武士や村の次男や三男を雇い兵にした。

 傭兵は命がけで最後まで戦う農民兵とは違い、形勢が不利になると逃亡する危険性があり兵力そのものは弱かったが、しかし一年中戦える強みがあった。また兵農分離された信長の兵は軍事に専念する職業軍人であり、資金が続く限り戦を継続できた。そのため戦いに集中できた。

 傭兵は農民兵のように田畑を持たないため、織田信長は本拠地を移しやすかった。信長はこの兵農分離の長所を最大限に生かし、岐阜に本拠地を移動すると家臣や傭兵たちを城下に住まわせた。人の流れが物の流れをつくり、家臣を強制的に岐阜に移動させれば、家臣の家族を含めた数万の人口が一気に岐阜へ流れ、岐阜が我が国有数の大都市になった。兵農分離による家臣の城下への強制移住は楽市楽座とともに城下町発展の大きな要因となった。

 

楽市楽座と関所

 当時の商業は自由に開業することはできなかった。「商品を販売する権利」を金で買わなくてはならず、その権利は多くの場合、土地の領主や有力な寺社が持っていた。当時の関所は江戸時代のそれとは違って税関であり、人には通行税が、商品には物品税が課せられた。ひどいところでは数百メートルごとに関所があった。これがいかに物品の流通を妨げ物価を高くしていたか、また庶民の生活をいかに圧迫していたか想像できるだろう。

 楽市楽座も関所も寺社や領主にとって貴重な財源だった。楽市楽座は信長の理に合わぬことだったのであろう。しかし当然、寺社や領主達は反発する。座や関所のおかげで労せずして金が入るのに、既得権を手離したくなかったのであろう。しかし徹底した合理主義者である信長には、楽市楽座や関所は不合理きわまりないものに映ったに違いない。また関所を廃し楽天楽市で商売に税をとらず、自由な商売を認めたことから人々が集まった。岐阜を新たな城下町として繁栄うると信長は大きな目標である天下統一へ向けて、西の方角へ眼を向けていた。

 

鉄砲

 古い戦いにこだわりをもたない信長は鉄砲の威力に注目していた。戦国時代を生き抜くためには勝たなくてはいけない。この日本を一つに束ねる政治的権威すら瓦解していたが、これを一変させたのが織田信長であり、その手段としての鉄砲を用いた。鉄砲は1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本にもたらしたが、手先が器用で技術力の高い日本人は、たちまち鉄砲の製造法を会得し、わずか10年で鉄砲は日本全国に流通することになった。この新兵器は厳しい競争下の大名たちにとって極めて有益な道具であり、その威力をいち早く戦いに用いたのが信長であった。

 

信長の上洛

 室町幕府の権威はさらに低下し、幕府権力の復活を目指した将軍足利義輝松永久秀らによって暗殺された。松永久秀と三好三人衆は清水寺参詣を名目に1万の軍勢率いて二条御所に押し寄せたのである。足利義輝は自ら薙刀を振るい奮戦したが殺害された。享年30。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」である。

 松永久秀は次の将軍に足利義栄を擁立するが、織田信長が義輝の弟の足利義昭を奉じて上洛したため義栄の在位は短期間だけであった。足利義昭それまで越前(福井県北東部)の朝倉義景匿われていたが、義景の家臣であった明智光秀の仲介で織田信長を頼った。

 信長にとって天下に覇をとなえるためには、上洛して京に旗を立てる必要があった。そのためには大義名分が必要だった。その大義が足利義昭を将軍の座につけることだった。

 1568年、信長は北近江の浅井長政と同盟を結び、上洛の途中で南近江の六角氏を破り、京へとたどり着くと足利義昭を15代将軍に就任させた。

 足利義昭は名ばかりの将軍であったが、名目上は武家の棟梁である室町幕府の15代将軍である。織田信長は足利義昭のために二条城を造営した。従来の信長からするると、世間の評判を気にする姿は意外に思われるが、信長は常に世間の評判を気にしていた。

 織田信長は日本史上最大の独裁者であり、一切の妥協を排除し自分の権力の絶対化を目指していた。そのような信長にとって、自分以上の権威や権力の存在ほど目ざわりで不愉快なことはなかった。しかしいかに強大な軍隊を擁する信長でも、簡単に叩きつぶせないものがあった。それは将軍と天皇であった。義昭は軍事力と呼べるようなものは持っていない。そのため将軍を武力でこの世から消し去ることは容易だが、問題はそれによって巻き起こる世間の反発だった。
 信長にとって他の諸大名なら追放しようが滅ぼそうが、世間の非難を浴びることはない。なぜなら信長と戦った武将達・・武田、上杉、毛利、浅井、朝倉などは信長と同格の大名だったからである。また同様に本願寺を頂点とする一向宗の勢力も問題ではなかった。信長は本願寺との戦いでは非常に苦戦したが、問題とはすなわち「戦争するための大義名分」なのであった。

 しかし将軍は違っている。将軍はまがりなりにも武家の頭領で、これを倒すには不忠・不孝・逆賊の非難や汚名を一身に受ける覚悟が必要になる。また逆の立場に立てば「逆賊信長を討つ」という名目で、反信長勢力の結束を一層強化することができるのである。反逆者の汚名を避けるには、将軍を倒すには倒すだけの理由を考え、それを世間に納得させる努力をしなければならない。もっと簡単に言えば、将軍を倒すことこそ正義である、という自己の行為の正当性を主張できるだけの根拠が必要になってくる。
 まず信長は足利幕府の組織に入ることを断わった。義昭は自らを将軍に就任させた信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍になるように勧めたが、信長はいずれも辞退し、代わりに堺を含む和泉(大阪府南西部)の支配を認めさせた。いわゆる名よりも実を取った判断であったが、その裏にはしたたかな計算があった。

 信長にすれば管領や副将軍を引き受ければ、室町幕府の一員になり、義昭の家来になってしまう。信長の最終的な目標は「信長自身による天下統一」で、いずれ義昭を見限るつもりだった。もしその際に信長が管領や副将軍であったならば、主人に対する裏切りという重罪を犯すことになる。たとえ戦国の世の中とはいえ、主人への謀反はダメージが大きい。また天下取りに影響が及ぶ可能性があった。そのため信長は義昭の誘いを断り、我が国最大の貿易港である堺を抑えるために和泉の支配を認めさせたのである。堺を手にした信長は、この後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも優位に立つことになる。

 義昭が将軍になったばかりの頃は、二人の関係は良好であった。しかし足利義昭は信長の敬う姿勢につけ込み、最後まで実質的な武士の棟梁としての将軍にこだわった。

 足利義昭は信長に叛旗を翻したが、信長は天皇を動かして将軍と和睦した。しかし数カ月後には再び義昭は挙兵した。信長が次第に義昭を圧迫すると、ふたりの関係はさらに悪化し、激怒した義昭は信長を倒すべく様々な作戦をねった。

 そもそも信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛したが、傀儡将軍であることを嫌った義昭が、密かに敵対勢力である越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、比叡山延暦寺、大阪・石山本願寺、伊勢長島の一向一揆の衆らと通じ信長包囲網を敷いた。これが後の世にいう「信長包囲網」である。信長の勢力拡大に不満を持つ武田、朝倉、浅井、毛利、三好らの諸大名や宗教勢力に呼びかけて信長包囲網をつくったのである。信長にとって最大のピンチが訪れようとしていた。

 信長はここまで舐められたため、15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を終わらせたが、義昭を殺さずに追放のみとして強硬な姿勢をとらなかった。それは世間の評判を気にしたからである。

 また天下統一の先導者となるため、朝廷を保護した。この皇室を保護する姿勢も同様で、皇居の修理を行ない、皇太子の元服のための費用を献上している。しかし信長は権威を気にせず天皇を軽んじるようになる。

 

蘭奢待切り取り事件
 天皇と信長は時に衝突することがあった。正親町天皇と織田信長が蘭奢待(らんじゃたい)切り取りで対立したのである。
 彗星の如く台頭した織田信長は、天皇の権威を利用して勢力拡大を図ろうとした。朝廷は財政の悪化のなかで即位した正親町天皇が信長に奉書の綸旨(りんじ、)や官職を与えて、それと引き換えに財政援助を引き出そうとした。
 両者は持ちつ持たれつの関係であったが、信長は正親町天皇からの度重なる無心に業を煮やし、東宮である誠仁親王の元服費用を求められると、質の悪い悪銭を進上して抗議の意を示した。このような両者の争いが鮮明になったのが、1574年に起きた「蘭奢待切り取り事件」である。
 蘭奢待とは聖武天皇の遺宝とされる香木で、東大寺正倉院に収蔵され、天下第一の名香と謳われ権力者に重宝された。信長は自身の権力を誇示すべく、この蘭奢待を切り取る勅許を正親町天皇に求めたのである。正親町天皇は、「そんなことをすれば聖武天皇の怒りが天道にまで響く」と怒りを顕わにしたが許さざるをえなかった。 大名間の抗争が激化する戦国時代にあって、朝廷の役割はそれらの抗争を鎮め「和睦」を促す役割があった。正親町天皇もまた、時の権力者である有力武将や寺社と円満な関係を築くため、全方位に配慮せざるを得なかった。

 信長には恐れる敵は誰もいなかった。大名に対する振舞いをみても、この魔王的イメージは見られない。桶狭間で今川家を破ったことから、強大な敵にも恐れず歯向かう印象を受けるが、信長は武田や上杉、毛利など数々の大名と戦ったが、小大名であった信長は、自分より相手が格上の場合は積極的に媚びて謙虚な姿勢を崩さなかった。例えば上杉謙信への直接宛てた手紙では極端にへりくだった表現をしている。武田信玄に対しては立派な贈り物をするなど相手のプライドを損ねないよう苦心していた。だが織田家が力をつけて上杉や武田と対等になると、信長は互角に付き合う姿勢を見せるようになった。ここに信長の合理的な考えが現れている。

  

金ヶ崎の戦い

 堺を手に入れた信長は経済力を高め、次の目標を越前の朝倉義景に定めた。朝倉氏と織田氏の家系はもともと守護大名・斯波氏の家来であるが、朝倉氏は直臣で守護代に命じられるほどの名門であったが、織田氏は斯波氏の家臣の家臣であり完全に格下であった。

 1570年4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍を開始した。朝倉義景にとっては信長の求めに応じて上洛すれば、織田の風下に立つことになる。朝倉義景のプライドが許すはずがなかった。信長は上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍する。敦賀の金ヶ崎城を落とすなど緒戦で勝利を収めた。ところが好事まさに魔多しである。

 長政は信長の義弟で、最も信頼していた武将である。浅井長政は織田信長の妹、お市を妻としており、同盟関係にある以上お互いが戦うことはありえないと思っていた。 浅井氏が裏切ったのは、以前から同盟関係にあった朝倉氏とよしみがあったからである。

 浅井家は織田信長と同盟を結ぶよりはるか前から、越前の朝倉家と同盟関係にあった。さらに浅井長政が織田信長と組んだ同盟には、織田は朝倉氏には戦を仕掛けないという条件があった。ところが織田信長がこの同盟を破って朝倉氏に戦をしかけたのである。 浅井長政にとって朝倉氏とは昔から友好関係にあり、織田信長とは義理の兄にあたるが、浅井長政は朝倉氏との同盟関係を重視して織田氏と戦うことを決断したのである。

 浅井長政の領地は北近江(滋賀)にあり、朝倉義景の領地はその隣の越前国(福井)である。織田信長は浅井長政と同盟を結んだことで朝倉義景まで兵を進めることができたが、朝倉義景と戦をしているときに、背後を浅井長政につかれてはひとたまりもなかった。そのため織田信長は浅井長政と同盟を結んだつもりであった。しかしここで浅井長政の裏切りにあい、 織田信長は、北を朝倉義景、南を浅井長政という形で挟み撃ちになった。

 弟のように可愛がっていた浅井長政が、まさか離反するとは思いもつかなかった。家臣が浅井離反の可能性を進言したが耳を貸さなかった。

 その信長のもとに「陣中の菓子にでも」と、妹・お市の方からの進物が届いた。その包みを開けると小豆をギッシリと詰めた袋の両側がしっかりと紐で結ばれていた。「袋のねずみ」ならぬ「袋の小豆」を意味していた。この進物を見て、信長は浅井と朝倉に挟まれ逃げ道のない状況にあることを確信した。

 同盟を結んだばかりの浅井長政が北近江から攻め寄せて来ているとの知らせが入った。さすがの信長も気を動転させた。越前と北近江からの挟み撃ちにあえば勝てるはずがなかった。織田信長・人生最大の危機である。残された時間はなかった。

 覚悟を決めた信長は「ワシは逃げる」と宣言すると、決死の逃避行が始まった(金ヶ崎崩れ)。わずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出し、一目散に京を目指して駆けに駆けた。信長は朝倉氏と浅井氏の包囲網から辛くも逃れると、数日のうちに京に戻ったが、供はわずか10人ばかりだった。お市の方の機転が信長を救ったのである。

 この負け戦は後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれ、屈辱を味わった信長は浅井・朝倉の両氏を深く恨んだ

 

姉川の戦い

 信長は裏切り者の長政を成敗すべく、大軍を率いて長政の居城小谷を包囲した。しかし織田軍の勢いもそこまで。何しろ小谷城は峻険な山城である。天下に名高い堅城を、そう簡単には攻め落とすことはできない。

 そこで信長は浅井勢を平地に引っ張り出し、野戦に持ちこむ作戦にでる。まず信長は羽柴秀吉らに命じて城下を放火して、籠城していた長政と援軍の朝倉勢を姉川北岸に誘い出すことに成功する。一方の織田勢は姉川の南岸に陣し、加勢の徳川軍と共に、6月28日の未明、姉川を挟んで両連合軍の決戦の火蓋が切って落とされる。兵力は、織田が29000、徳川5000(計34000)に対して、「浅井8000・朝倉10000」(計18000)の兵力差だった。しかし3倍の兵力を誇る織田勢は、浅井勢に押しまくられ、約1.6キロも後退させられるが、徳川勢の奮戦によって逆転勝利を得た。

 息を吹き返した浅井・朝倉の軍勢は京を目指し反撃し、信長に阻まれると比叡山に立てこもって反撃の機会を待った。

 浅井長政は姉川の戦いの被害が深刻なまま劣勢で、居城である小谷城へ撤退することになる。信長は長政に対して何度も降伏を勧告をしたが、長政はこれを拒否した。小谷城は難攻不落でなんど攻められても落ちなかった。それは小谷城が峻険な山城であったためである。

 小谷城は清水谷と呼ばれる逆V字形に切れこんだ谷を挟んでいて、右側の峰と左側の峰に分断されていた。右側の峰の山頂付近にある本丸へ攻め上がる道はふたつある。まずひとつは峰下の大手口を突破する方法であるが、この大手道はかなり急峻で、道の途中にはいくつも出丸がもうけられていた。ここから攻め上がるには、かなりの被害が予想された。もうひとつが本丸のある右側の峰と左側の峰を分かつ清水谷方面から水之手道を攻め上がる戦術である。
 姉川の合戦の2年後、信長はこの2つの戦術を取るが攻めきれずに引き返している。左側の峰の山頂にもうけられた大嶽城とその尾根上にある出丸から背後を攻撃されたためである。つまり小谷城は右側の本城と左側の支城(大嶽城)が独立しながら、互いに連携できる鉄壁の守備陣形を敷いていたのである。
 しかしその年、武田信玄が他界し、小谷城から至近の距離にある山本山城主が織田方へ寝返った。信玄を失って孤立していた長政を、貞山城主たちが見限った形になり、やがて大嶽城に付随する砦(焼尾砦)の守将も織田方へ寝返りこれで万事休すとなる。大嶽城はあえなく陥落し小谷城も陥落し、もはやこれまでと浅井長政と父である浅井久政は小谷城で自害した。

 お市の方は長政と運命をともにしようとするが、これを不憫に思ったのか、長政は配下に命じてお市の方と三姉妹(茶々・初・江)を織田軍へ送り返される。お市の方が無事に織田軍へと渡った後、織田軍からの総攻撃が始まった。

 1574年元旦、岐阜城にて信長は年賀の宴を開いた。家臣だけとの祝宴になったとき、信長は黒塗りの箱から3つの髑髏(頭蓋骨)を取り出す。この髑髏は箔濃が加工がされており、漆塗りした上に金粉をかけたもので、つまりは金色の髑髏でした。この3つの髑髏を部屋の3方に置いて宴の肴とした。この3つの髑髏というのは、信長が討ち取った、越前の朝倉義景、近江の浅井久政と長政親子のものだった。披露したと信長公記にあるが、浅井三代記ではこれらの髑髏を杯にしたとある。現在の感覚では想像もできない冒涜であるが、信長は長政たちの首を綺麗に装飾し、長政たちの成仏を願っての信長なりの供養だったのかもしれない。当時は討ち取った首を荼毘にふして、その遺骨を7年間供養することで成仏出来るという考えがあったからである。

 

宗教勢力

 信長にとっての最大の敵は戦国大名ではなく、死を恐れぬ一向宗の門徒たちであり、難攻不落の城、総本山・石山本願寺だった。信長を悩ませたのが、信長包囲網に宗教勢力が加わったことである。死を恐れない宗教勢力は最も手強い相手だった。そのきっかけは三好三人衆の三好氏が摂津(大阪市)で挙兵すると本願寺が味方についたことである。このことから信長は戦国大名の他に、延暦寺や本願寺といった強大な宗教勢力を敵に回し、宗教勢力からは仏敵とみなされた。

 その当時、宗教勢力は関所や座によって莫大な利益を得ていた。信長にすれば宗教勢力は本来の布教活動を忘れ、利益のために権益にしがみついていとみえた。信長は宗教勢力に権益の放棄と武装解除を迫ったが「眠っていても儲かる権益」を宗教勢力が手放すはずはなかった。

 信長は岐阜城を造る際、大胆な発想で城下町を建設した。当時の常識であった通行税を徴収する関所や商売のための座(組合)を廃して楽市楽座を採用した。楽市楽座によって商売の自由が認められたため、各地の商人がこぞって集まり、岐阜は大変なにぎわいを見せることになる。信長の領内は他の大名や宗教勢力などと比べ低い税率であったが、にぎわいのため自然に税収が増加した。この信長による斬新な政策は、関所や座を設けて莫大な収入を得ていた宗教勢力にとっては、目障りな商売敵となっていた。信長と宗教勢力との衝突は時間の問題であった。

 京に上った信長に対し、浅井・朝倉軍は比叡山に登ったまま動こうとしなかった。もし信長が京から離れればすぐにでも京を占領できる位置にいたため、信長は京から動くことができなかった。こうして信長が釘付けになっている間に、本願寺が率いる伊勢長島(三重県桑名)の一向一揆が活発になり、伊勢の長島城や尾張の小木江城などが次々に陥落していった。

 尾張の小木江城は信長の弟が守っていたが、一向一揆に攻められ自害に追い込まれた。京を動けぬ信長は弟が自害するのを、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。宗教勢力による無情な仕打ちに対して信長は耐え続けるしかなかった。

 1570年の年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦が成立し、信長は岐阜に戻ることができた。講和が成立した背景には兵農分離でない朝倉軍の都合があり、朝倉軍は雪深い越前では真冬になると身動きが取れず、来春の農作業のために帰国できなくなるからであった。

 翌1571年、信長は近江の姉川を封鎖して佐和山城を落とし、南近江の支配権を得るとともに、朝倉氏、浅井氏、本願寺などの連絡網を断つことに成功した。包囲網を分断した信長は、朝倉・浅井氏に協力した比叡山の焼き討ちを敢行した。それ以前の3年間は、信長にとって最も苦難の時期だった。この四面楚歌の状態を打ち破るべく、信長は反目する延暦寺の焼き討ちを企てたのだった。

比叡山の焼き討ち

 滋賀県大津市にある比叡山延暦寺は、788年、天台宗の宗祖・最澄により開山された。以後1200年間、鎮護国家の道場として法灯を守り続けてきた。1570年(36歳)浅井と朝倉両軍に近江姉川の戦で勝利すると、翌年、両氏に味方した延暦寺では忌々しい悲劇が起こった。そもそも比叡山の焼き討ちは、朝倉・浅井軍が比叡山に協力したことにある。信長は比叡山に「中立を保って欲しい」と伝えていた。さらにこの申し入れが受け入れなければ「全山を焼く払う」と通告していた。比叡山がこの通告を拒否したため、信長は翌年焼き討ちを決行したのである。信長の家臣・佐久間信盛らが「鎮守の王城を焼くとは前代未聞」と忠諫したが信長は聞き入れなかった。そして「比叡山延暦寺焼き討ち」を行ない、泣いて命乞いする僧侶一般人を問わず皆殺しにした。以来、信長は比叡山のみならず、天台宗信徒から「仏敵」と見なされてきた。

 長い歴史を誇った延暦寺は業火に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶のみならず、女人禁制なのに女性も多く含まれ、信長軍は比叡山にいた男女、子供までも容赦なく首をはねた。僧侶、一般人を問わず約4千人を皆殺しにした。

 信長といえば宗教を信じず、神仏を恐れないイメージが強い。それは無慈悲な比叡山の焼き討ちの事実があったからである。だが実際の信長は神に祈願することはあれば、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護策を施していた。

 信長にも焼くべき理屈があり、比叡山側にも焼かれる原因があった。最澄が開山した当初の比叡山は、人はみな仏になる、という法華経の教えを広めるべく人材育成に力を入れ、親鸞、日蓮など、多くの名僧を輩出した。

 しかし平安中期以降、僧たちは権益を要求し、通らなければ日吉神社の神輿を京都にかつぎおろして強訴するなど、その振る舞いは尊大になっていった。朝廷も手を出せず、白河法皇にして「鴨川の流れと山法師、双六の賽は意のままにならず」と嘆かせた。戦国時代に入ると比叡山の腐敗は更なるものとなる。「衆徒たちが領地からの年貢を元手に近隣の村人や農民たちに高利貸しを行なったり、足利将軍家の不安に付け込み、幕府を脅かして銭を出させるなど、守銭奴に成り下がった。金を得た僧たちは山を降り、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買った。その状況にあっても、延暦寺の宗教的権威は少しも衰えず、日本仏教界の頂点に位置していた。

 信長が延暦寺を焼き討ちにしたのは、単純に宗教勢力が敵対したからである。現代とは違い、宗教勢力は鉄砲なで武装して大名に歯向かうことが多かった。信長はそれらの敵対行為を受けて報復したのである。信長は「味方をしたものに対しては保護し、敵対したものには報復」という他の大名と同じ行動をとったにすぎない。天下が乱れ、その一翼を担った比叡山は焼かれる運命にあったのである。

 高野山も敵の残党を匿ったり、足利義昭と通じたりと信長に敵対する動きを見せ、さらに使者10人以上を差し向けるが殺害されてしまったので高野山討伐にかかることになる。高野山も応戦したため戦いは長期化することになった。

 比叡山延暦寺は信長に敵対する宗教勢力として滅亡したが、一向一揆の軍勢は相変わらず信長を苦しめた。

 

長島一向一揆
 織田信長は京へ上る前年から北陸を攻め、信長の勢力は北陸から伊勢に及んでいた。伊勢のなかで信長に反抗していたのが、信長の本拠地である尾張から川を隔てた所に強固な「要塞」を構えた長島一向一揆であった。武装をした一向宗徒の武士たちが,本願寺から派遣された指揮官の指揮の下で戦った。長島には大坂の石山本願寺の末寺・願証寺があり、東海地方の一向宗の門徒は10万人とされた。長島一向一揆は長島の城主伊藤重晴を追い出すと門徒による自治を行っていた。

 石山本願寺は信長の天下統一の動きに反抗して戦い、全国の一向宗門徒に信長と戦うようにと檄を飛ばしていた。長島願証寺もこの呼びかけに応じ、まず尾張の小木江(おぎえ)城を攻め、信長の弟の織田信興を切腹させた。
 織田信長は第1回目の長島攻撃を行ったが、長島方がゲリラ戦をとったため、信長軍は混乱して敗北した。1573年、信長は再び長島攻撃を行い、長島側に味方した北勢の土豪を降伏させたが、門徒のゲリラ部隊に襲われ再度敗走した。信長はすぐに三度目の長島攻撃を開始し、志摩の九鬼水軍を中心に数百艘の軍船を用い、これまでにない大軍を動員した。この軍船の威力は大きく、長島方の受けた被害は甚大であった。長島方では食糧不足から餓死者が続出し、2つの砦は落ち、風雨に紛れて砦から脱出した男女1000人余りが信長軍に斬り殺された。3カ月にわたる籠城戦が続き、遂に長島方は降伏し門徒衆は船で逃げ出した。

 しかし待ちかまえていた信長軍に鉄砲で打たれ、多くは川へ落とされ、川は死者の血で赤く染まった。また砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けられて閉じ込められ、女性、幼児も関係なく四方から火を放たれ全員が焼き殺された。文字通り騙し討ちで、土地に子孫を残さぬこの作戦は「根切り」と言われた。現在の長島町の人口の約二倍の人々が殺されたことになる。

 一向宗徒にとっての石山本願寺はキリスト教のヴァチカンに相当する。宗教と政治の違いを認め,各地の一向宗徒に「住む土地を支配する大名と争うな」と,顕如の名前で指令をだしていれば,長島や越前や加賀での信長の虐殺はなかったが、あまりに残酷すぎた。実際に信長と長年に渡って激しく戦い降伏した本願寺は,京都に西本願寺・東本願寺として残されている。

 

武田信玄

 翌1572年、信長が最も恐れていた甲斐(山梨県)の武田信玄が将軍義昭の誘いに応じて上洛を目指して動きだした。三方ヶ原の戦いで戦国最強と言われた武田信玄は徳川家康と信長の連合軍を苦もなく蹴散らすと、不気味な足音とともに京を目指して進軍を続けた。最強の武田信玄が京へ攻めてきては信長とて勝ち目はなかった。

 三方ヶ原の戦いで信長・家康の敗北を知った義昭は喜び、岐阜に戻っていた信長を裏切り、将軍の御所に堀をめぐらし防備を固めて信長に挙兵した。信長の運命はまさに風前の灯となったが、天は信長に味方した。上洛の途中で何と信玄が結核で急死し、武田軍は甲斐に引き返したのである。

 信玄の死は3年もの間、隠されていたが、信玄が亡くなると、翌年、未決着だった浅井氏を近江小谷城で滅ぼし、一気に越前まで進んで朝倉氏も討ち取ると、畿内に戻って京都宇治で挙兵した将軍義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得なかった。義昭は信長によって京を追われ、240年続いた足利氏の室町幕府は滅亡した。

 義昭を追放した信長は、越前から北近江にかけて領地を拡大し、さらに翌年には伊勢長島の一向一揆に対し、女性や子供に至るまで皆殺しにして、その翌年には越前の一向一揆を攻め滅ぼした。

 信長の比叡山延暦寺や一向一揆に対する酷い仕打ちは、弟や部下たちのための復讐とはいえ、その残虐性が問題視される。しかし先に手を出したのは宗教勢力の方である。一向一揆は女性や子供までが武器を持って戦ったのである。信長の行為はやむを得ないとすべきであろう。

長篠の戦い

 武田信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼は武田騎馬軍を率いて攻勢に出てきた。この戦は長篠城という徳川家の城が武田勝頼に攻められたことから始まる。もともと長篠城は奥平信昌が守っていましたが、精強で知られた武田軍を相手にするにはかなり分が悪かった。それでも三河武士らしい根性で何とか持ちこたえていたが、業を煮やした武田軍は兵糧庫への焼き討ちを決行し、兵糧攻めで長篠城は士気を落ちてきた。
 このままでは全員討死か餓死かと悩みに悩んだ奥平信昌は、徳川家康への救援要請をすることにしましたが、この時点で長篠城は武田軍に取り囲まれており、ただ要請に行くだけでも決死の覚悟が必要だった。

鳥居強右衛門
 生きて家康の下へたどり着けるかどうかもわからなかった。このような難業に自ら名乗り出る者があった。それが鳥居強右衛門(すねえもん)という足軽であった。泳ぎが得意で、身分の低さゆえに顔を知られていなかった。

 奥平信昌は鳥居強右衛門にこの任務を命じます。強右衛門は、城から外に通じる水路と川を泳いで渡り見事城の外へ脱出、次の日には家康のいる岡崎城までたどり着き、長篠城の窮状を伝え援軍要請の旨を伝えた。運の良いことに、強右衛門が岡崎城についたときには既に家康と信長の連合軍が出発の支度を整えていた。その数は武田軍の倍とされて、これを知った強右衛門は大いに喜び、すぐにでも早く長篠城に伝えないとと、来たばかりの道を猛烈な速さで戻っていってしまう。
 長篠城の近くまで来ると「無事援軍が来るぞ」という知らせとしてのろしを上げた。「脱出に成功したとき、援軍要請に成功したときはのろしをあげる」ことになっていた。しかしこれが彼の命を縮めてしまった。完全に包囲しているとはいえ、戦の真っ最中で武田軍も気を張っていた。当然見張りもそこらじゅうにいた。日に二回のろしを上げたため、武田軍は長篠城周辺の道や農村を調べ始め強右衛門は捕まってしまう。

 取調べによって援軍が来ることは白状するが、強右衛門はもう助からないことを悟り最後の意地を見せる。勝頼に「援軍は来ない、と城に向かって叫べ、そうしたら命を助けてやろう」と命令され城の前に立たされる。
 そこで強右衛門は、従順に勝頼に従うふりをしながら、「二・三日で信長様と家康様がいらっしゃるぞ、それまで皆頑張れ」と真逆のことを叫んだ。勝頼としては「援軍が来ないことを知れば、長篠城は降伏するか士気がガタ落ちするだろう」と考えてこのように命じたのだが、強右衛門が真逆のことを叫んだおかげで降伏計画が台無しになった。
 激昂して武田勝頼は強右衛門をその場で磔刑に処した。この強右衛門の勇気ある行動と死に様を見た長篠城士はかえって士気を上げ、勝頼の目論見は大幅に外れ、城を落とすことはできなかった。

 それから織田・徳川連合軍が到着し、鳥居強右衛門の活躍によって長篠城が窮地から脱すると長篠の戦いが始まる。一般的な長篠の戦いとは設楽原の戦いのみに注目し、事前に起こっていた長篠城の攻防や鳥居強右衛門の一件はあまり話題とされていないが、鳥居強右衛門あっての勝利と言える。

設楽原の戦い

 1575年、三河の長篠まで進出した際、信長・家康が用意した3千挺の鉄砲隊の前に、武田軍の騎馬隊は壊滅的な打撃を受けた。1挺の火縄銃でも迫力があるのに、これを3千挺も揃えたのである。これが「鉄砲三段撃ち」で有名な設楽原の戦いである。この設楽原にて「鉄砲」の織田徳川連合軍(4万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた。このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」であるという説明が以前からされている。

 後世の者からするとどうしても理解できないのが、織田信長が強固に固めた陣へ、無謀な突撃をなぜ武田勝頼は敢行したがである。そのような強固な山城へ突撃したのは、武田勝頼はやはり愚将だったなのからか。「勝頼は、勝ち目もないのに意固地になって、無謀な突撃をしやがった」とも囁かれたりしているが、たとえ勝頼が愚将でも、信玄の代からの重臣たちと折り合いが悪くても、自殺行為を行うのはあまりに不条理である。そこで「鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか」ということを考えなければいけない。実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは一つの作戦であった。もちろん突撃の最中に撃たれてしまう武者はいたが、当時の火縄銃は命中率も低く、うまくいけば鉄砲隊の一角を崩すことができ、十分に勝算もあった。武田軍は騎馬隊を勝頼は持っているので、勝頼としてもその強みを活かしただけのだろう。しかしこのときばかりは織田信長の方が上手だった。

 普通の野戦と違って織田徳川の防御は完璧。馬の機動力を奪うのに十分な防御力だったのです。ならばさっさと退却すればよいではないかとなるが、まさに「逃げるが勝ち」であるが、実はその選択肢も勝頼には残されていなかった。このとき織田信長は事前に別働隊(酒井忠次や信長の馬廻り衆など)を進軍させて長篠城の救援に成功しており、武田軍の背後をとり、勝頼はもはや前に出るしかない苦境だったのである。要は武田軍は追い込まれていた。
 そういう意味では、最初から信長の作戦勝ちだったと言える。結果、武田の騎馬隊は幾度も突撃を繰り返し、赤備えの山県昌景や無傷の鬼美濃・馬場信春、真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが命を落としていく。退却時に命を落とした者も多数と伝わっている。信長の計算がまるで神がかった展開でありまして「鉄砲の三段撃ち」の真意は別にしてもこの戦術に着目すべきである。
 ちなみにこのとき武田勝頼秘蔵の駿馬が戦場に置き去りにされて、信長のものとなった。そこには勝者と敗者の悲しい現実があった。この戦いで多くの精鋭を失った武田家は没落の一途をたどり、1582年の3月、織田信長は武田領国へ侵攻すると、迫り来る織田軍に対し、武田家重臣の真田昌幸(幸村の父)は群馬の昌幸の城まで撤退して交戦するように進言するが、勝頼はこれを却下し最期は部下の裏切りにあい自刃した。
 戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれを怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺した。燃え盛る炎の中で同寺の国師(高僧)・快川紹喜(かいせんじょうき)は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てた。
 国師とは天皇の師であり、天皇が認定した国師を殺すことは、天皇の権威など全く意に関していないということであった。信長が国司を焼き殺したのは比叡山に続いて2度目である。これで東国からの侵攻の懸念が消え、信長は本州中央部から関東上野までを支配下に治めた。

信長の人物像
 1574年の正月の酒宴で、浅井久政・長政父子、朝倉義景の3人の頭蓋骨を杯にして家臣に酒を飲ませた。このことから信長がいかに残忍な人物であることがわかる。その時は、前号の改年にあたり、清めの場で三将の菩提を弔い、敵将への敬意の念を示すためとも解釈できるが、生前の3人を知る家臣たちが3人の頭蓋骨を差し出されたとき、これ以上の驚きと恐怖はなかったであろう。次は自分の頭蓋骨が酒の杯になることが想像されたからである。特に明智光秀は朝倉義景から恩を受け、長期にわたり使えていた。その朝倉義景の頭蓋骨に酒を入れられ飲めと言われたのだから明智光秀の心情はいかなるものだったのか。いずれにしても明智光秀は朝倉義景の頭蓋骨に注がれた酒を飲み干したのである。

 信長は赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳首を噛み切り乳母捜しに大変苦労したとされている。なおこのような「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる(弁慶など)。
 観内という茶坊主に不手際があり信長が激怒した。観内は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に観内を斬り殺した。そのときの刀(長谷部国重作)はその切れ味から「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられている(福岡市博物館蔵、国宝)。
 1570年、鉄砲の名手・杉谷善住坊による信長暗殺が未然に発覚、杉谷善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に埋め、切れ味の悪い竹の鋸で首を挽かせ激痛を与え続けながら処刑した。これは信長だけでなく、秀吉も徳川家康も行っており、江戸時代の公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
 1578年、尼崎近くの七松で謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔、鉄砲、槍・長刀などで処刑している。女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。信長公記ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまったことによる制裁であった。
 1582年、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発ち、翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが信長は当日のうちに帰還し、侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で全て殺した。また助命嘆願をした桑実寺の長老も殺されている。

 その一方で、女好きの秀吉の妻ねねに次のような手紙を書いている。

「ねねさん、先日は私に会いに来てくれて有難う。持って来てくれた土産の数々には目を奪われるほどで心から感謝申し上げる。それにしても、あなたはますます美しくなっているので驚きいた。にもかかわらず秀吉はあなたのことを不満に思っているとのこと、これは言語道断である。あなたのような素晴らしい女性は何処を探してもいるはずもなく、禿鼠(はげねずみ、秀吉のこと)には二度と得ることが出来ないからである。だから、あなたも気持ちをほがらかに、妻としてどっしりと構えて、嫉妬などしない方がいい。秀吉には私から何かと意見を述べるが、秀吉の世話をするのはあなたの役目だということも忘れないように」と述べているのである。

 時は戦国時代である。信長は本当に残忍だったのだろうか。信長の行為の大半は当時の戦国大名の間で常に行われていて信長だけが特殊ではない。1577年、羽柴秀吉は毛利への見せしめとして女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)している。
 信長は弟の信勝を暗殺しているが、信勝を一度は許しており、彼の遺児を養育して元服すると織田一門として重用している。叔母のおつやを処刑しているが、信長の実子(織田勝長)を勝手に武田に差し出したからである。反乱を計画した兄・信広を赦免後に重用し、弟を戦死させた比叡山を憎しみ焼き討ちにし、長島一向一揆を殲滅している。
 信長の側から盟約・和睦を破った事は一度もない。信長と敵対したのは相手が盟約・和睦を反古にしたからである。信長は独尊の自信家であったが、世間の評判を重視して常に正しい戦いであるように腐心していた。また武将としても優れていた。桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、長良川の戦いでは殿軍をつとめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立った。通常、最も敵に狙われやすい大将が最前線に立つ事はほとんどないなかで、部下たちを鼓舞するために危険を顧みず自ら最前線に出て戦っていた信長は異例であった。無論、信長自身も普段から武術の訓練を怠ることはなかった。重要なことを他人に任せず自身で先頭に立ち行ったことである。
 荒木村重の説得に向かった黒田官兵衛が帰えらず、同時期に官兵衛の主君・小寺政職が離反したことから、官兵衛も政職に同調して裏切ったと考え、官兵衛の息子・松壽丸(黒田長政)の処刑命令を出したが、後に官兵衛が牢に監禁されていた事を知った時は「官兵衛に合わせる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中半兵衛に匿われていた事が分かった時には狂喜した。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面があった。
 長篠の戦いで身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させた。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。
 美濃と近江の国境近くの山中に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。1575年6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分は嬉しい」と村人に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙した。このように信長は自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であったが、このように立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面があった。
 1581年お盆では安土城の敷地全体に明かりを灯し、城下町の住民たちの目を楽しませ、相撲大会も庶民とともに楽しんでいた。祭り好きが好きで、信長自身が参加・主催することが多かった。1582年の正月には安土城を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を招き入れ、信長自らの手で一人につき銭百文ずつ見物料を取り立てた。また馬借が荷物の重さで言い争っていると、自ら馬から下りて荷物の重さを測ったりもした。
 また長女の徳姫(松平信康の妻)を除くと、縁組させた娘達は家臣の前田家や丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁がせ信長の死後も夫から大事にされている。つまり娘を大事にしてくれる婿を厳選する甘い父親と言える。信長は当時の武将としては女性を重視していた。自分の妻を尾張に残して岐阜に単身赴任した部下を叱り、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を重視した意外な言動が残されている。
信長の文化への関心
 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」ではビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。好奇心が強く、鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。長篠の戦いでは3,000丁もの鉄砲を用いて武田勝頼の軍に壊滅的な被害を与えた。
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付けて側近にした。この黒人は身長六尺二分(約182.4cm)の大男で、「十人力」と称される怪力であった。信長は単なる好奇心だけでなくこの黒人を実戦の役に立つ兵としても重用していたようである。信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは弥助に領地と城を与えて城主にするつもりであったが、その計画は本能寺の変により頓挫することとなった。なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、明智の軍勢を相手に最後まで奮戦した。
イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。信長はローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
南蛮品の中でも興味のない物は受け取らず、フロイスから南蛮の目覚まし時計を献上された際には、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。   

 

安土城

 長篠合戦で武田家を破った織田信長は、1576年から近江の安土(滋賀県安土町)に七重の大天守閣を持つ安土城を築き始めた。3年後に安土城が完成すると、信長はそれまでの岐阜城を嫡男の織田信忠に譲り尾張・美濃両国を支配させ、自分は豪華な安土城へ移った。

 安土城はそれまでの築城の常識を大きく変えるものだった。それまでの城は攻められにくいように山の頂上に建てるのが通常でこれを山城といった。しかし安土城は小高い山に建てられた平山城であった。山城から平山城へと城の建築方法が変わったのは、鉄砲の出現による。堅固な山城であっても、鉄砲の射程距離内であれば、結局は攻撃を受ける。

 しかし平山城であれば、城の周囲に大きな堀を設け、あるいは城自身を高く設計して射程距離にかからないようできる。さらに城に立てこもれば、城に迫る敵を鉄砲で狙い撃ちすることができた。しかも平山城であれば、交通の便が良くなり、城下町をさらに大きく広げることができた。経済が活性化して発達すれば収入が増え、さらに大きくて頑丈な城を建てることができた。

 1577年、信長は安土に楽市令を出して、商人の自由な経済活動を支えた。このことで多くの商人が集まり、その財力は信長にとって兵力に勝るとも劣らない大きな武器となった。

宗教勢力との宿命的な対決を経験した信長にとって、信仰の道から外れて権益にしがみつく仏教は嫌悪の対象でしかなかった。その一方で西洋の進んだ文化や技術をもたらしたキリスト教(カトリック)を保護した。ちなみにカトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解した。信長の柔軟な発想力がうかがえる。

 

石山本願寺

 比叡山は焼討ちで破壊したが、信長にとって死を恐れぬ一向宗の門徒たちは手強かった。総本山といえる大坂の石山本願寺(跡地は大坂城)が、難攻不落の城並みの防御力を誇っていて、毛利家が村上水軍を使い海路から兵糧や武器弾薬を運び続けたからである。石山本願寺との戦いは1570年から、本願寺から顕如が退去する80年(本能寺の2年前)まで10年間も続いだ。

 信長は石山本願寺への輸送を断つため、1576年に村上水軍と戦うが、強力な火器を持つ村上水軍によって、信長軍の船は次々に炎上して惨敗してしまう。このままでは石山本願寺を落とすことができない。信長軍が村上水軍に敗れたのは、敵の火器で自軍の船が燃やされたからだった。それが敗因ならば燃えない船をつくれば勝てるはずである。船を燃やされないためには頑丈な鉄を使えばよいのであるが鉄は重く沈んでしまう。

 そこで信長の柔軟な頭脳はとてつもない発想を思いつく。鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくりその周囲に薄い鉄を巻けば沈まないはず。こうして完成した鉄板装甲の巨大軍船は、村上水軍を散々に打ち破り、毛利水軍を木津川河口の戦でくだし、大阪湾の制海権を掌握し、本願寺の援軍を断って本願寺を屈伏させて畿内を完全に支配した。

 逆に毛利家からの補給路を断たれた石山本願寺は追いつめられ、1580年についに信長に降伏した。およそ10年にわたって戦いを続け、多くの家臣や肉親を失うことになった本願寺に対して、信長は以後は逆らわないことを条件に、今後の布教は自由としたのである。

 信長に対して反逆さえしなければ、たとえ激しく戦った相手であっても信教の自由を認める。このように信長はいわゆる宗教弾圧を常としない考えであった。

 この石山本願寺の合戦のこの過程で、信長は一向一揆を徹底的に弾圧した。伊勢長島の一揆では男女2万人を焼き殺し、100年続いていた越前の一向一揆を攻撃した際は、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数は4万人、信長は手紙の中で「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」と書き記している。鬼も震える冷酷非情であるが、石山戦争の初期に兄信広と、可愛がっていた弟信興と秀成を失っており、このことが狂気じみた残酷さの背景にあることを加えておく。

 比叡山延暦寺を焼討ちした後でも、信長は天台宗の禁教令を出していない。後に豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教(カトリック)が禁教とされ、宣教師や信者たちが激しい弾圧を受けたことに比べれば対照的である。

 巨大な圧力団体と化していた宗教勢力は、信長によって徹底的に滅ぼされました。信長は宗教を嫌っていたのではなく、宗教が圧力団体となって政治に圧力を加えることを嫌っていたのである。比叡山延暦寺の焼き討ちがあたかも宗教弾圧者のように捉えられるが、当時の寺社は決して無抵抗な宗教団体ではない。己の利権を守り、主張を押し通すために武装していた。つまり信長は「宗教」を盾にした武装組織を、あくまで敵対者として排除したのである。反抗した比叡山や本願寺に「禁教令」を出していないことからも、彼に宗教弾圧の意思がなかったことは疑いない。

 このことがきっかけに、我国では宗教団体が政治に積極的にかかわることがなくる。日本国憲法第20条で明確に規定されている政教分離は、信長がその道筋をつけてくれたといえる。信長は室町幕府を滅ぼし、その後も領土を拡大し続けたが、織田家が元々守護代の家臣という低い身分であっただけに、他に対する権威という面ではどうしても見劣りしていた。

 

生き神

 1581年、信長が47歳のときに京都で馬揃(うまぞろえ)軍事パレードを行い、信長の力を天下に見せ付けた。家臣団の構成は、北国方面は柴田勝家、丹波、丹後方面は明智光秀、関東方面は滝川一益、中国方面は羽柴秀吉、対本願寺戦は佐久間信盛であった。

 信長は1578年に右大臣・右近衛大将の官位を辞してから無官のままであった。そこで朝廷は甲州征伐の戦勝を機に、祝賀の勅使を下し信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙する「三職推任」を打診した。しかし信長は勅使を饗応したまま、この件について返答をしなかった。

 ここで信長は新たな発想を持った。すなわちそれは「自ら生き神になる」ことであった。織田信長は天皇になろうとしたのではない、それを超えた存在である神になろうとしたのである。日本は神の子孫である天皇が治める国である。天皇がこの国の主権者なのは天皇が天照大神という神の子孫であり、神の子孫が日本を治めるという原則が飛鳥時代以降定まっていたからである。日本は神の子孫の天皇家の血を引かない者が、天皇になることは絶対になった。天皇家以外の人間は「神のDNA」を継いでいないからである。そのため藤原氏は自分の娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子供を天皇にすることで何とか権力を掌握した。関白も同じで、関白とは本来臣下であるはずの藤原氏が実質的な皇族扱いとなり、いわば準皇族が天皇の権限を代行する形で天皇家の権限を奪ったのである。武士の世界では、天皇から武士団の棟梁(とうりょう)が征夷大将軍に任命されることによって、日本の統治権を委任されるというシステムであった。これは幕府政治と呼ばれるべきもので、この制度は江戸幕府の将軍、徳川慶喜が天皇家に「これまでお預かりしていた統治権を返還する(大政奉還)」という形で終止符が打たれた。

 このように関白にせよ将軍にせよ、あくまで天皇の代理であり、その権限は天皇にある。しかも関白は藤原氏の選ばれた家柄(五摂家)、将軍は武士の中でも源氏の嫡流しかなれなかった。そのため鎌倉幕府の源氏将軍を滅ぼした北条氏も、源氏に代わって将軍にはなれず、源氏の嫡流と称する足利氏が北条氏を滅ぼして将軍の座を奪ったのが室町幕府である。室町幕府の統制力は失われ、将軍の命令を誰もがきかなくなり大名同士が勝手に私闘を繰り返したのが戦国時代であるが、たとえ下克上の戦国時代であっても藤原氏でも源氏でもない人間が関白や将軍にはなれなかった。

 この旧来の仕組みを変え、新しい体制を築こうと思えば、日本においては神になるしかなかった。天皇がこの国の主権者なのは、天皇は天照大神という神の子孫であり、関白あるいは将軍も天皇の代理であるから権威があった。全く新たな権威を作るには、神の子孫である天皇家の権威を超えなければならない。そのため神の子孫ではなく自らが「神」になるしかなかった。織田信長は当然の結論の実現を目指したのである。

安土城天主信長の館(安土城復元天主)滋賀県近江八幡市安土町
安土城天主信長の館(安土城復元天主)滋賀県近江八幡市安土町

 安土城は豪華な造りで知られるが、信長が神として存在するための宮殿であったともされてれる。例えば通常なら「天守閣」というべきところを「天主」と名付け、天主の真下には釈迦如来の図が描かれ、自らが仏や神を超えるものとした。また安土城の天守閣から見下ろす本丸部分に天皇の御所とよく似た構造の建物跡が発見されている。信長はここに天皇を置き、自分が天皇より上の「神」であることを天下に知らしめるつもりでいたのだろう。

 「信長=神」という発想は「強者=神」の発想であり、信長の目算は狂い本能寺の変で信長は神にはなれなかったがその失敗を近くで見ていたのが家康は自らを東照大権現として祀るようにしている。権現とは神の化身(けしん)を意味しており、その発想は信長と同じである。

 それまでの権威を超えるため「自らが神になる」と宣言した信長であったが、絶対的な権力を持つ為政者が自らを神格化することは大変危険なことであった。それは自分が神のような存在になることで、「自分が正しいと思うことは何でも正しい」という独裁的な思想を持つことになるからである。事実、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなり、信長の行動は古今東西の独裁者と同じような非情な一面を見せるようになった。

 例えば1580年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛や林通勝(みちかつ)を、過去の不行跡を理由に突然追放している。

 また1582年の4月には自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件を起こしている。この侍女虐殺事件は、信長は安土城から琵琶湖の竹生島参詣に向かったときに起きた。安土城から竹生島までは往復80km以上であるため、城の侍女たちは信長が一泊してくると思い、皆が緊張感から解放された。ところが信長は疾風の如く参詣を終え日帰りで帰って来た。お城は仰天限りなしである。本丸に勤めているはずの侍女が二の丸にいたり、ある侍女は城下町で買い物をしたり桑実寺にお参りに行っていた。信長の癇癪玉が炸裂し、外出した侍女たちを縛り上げて皆殺しにて、侍女たちの助命を願った桑実寺の長老まで一緒に斬殺したのである。敵兵を斬るならともかく、安土の侍女たちを切るとは狂気じみていた。

 

明智光秀

 織田信長の狂気じみた行動に、家臣たちは「明日は我が身」とおびえた。その家臣の中に信長に見出され、例のない出世を果たした武将がいた。彼こそが我が国の歴史を大きく塗り替える大事件を起こした明智光秀だった。

 明智光秀は皇室などの古来からの権威や秩序を重視していた。自らが神となる信長の姿勢やその独善的な態度は、光秀にとって信長から受けた恩を差し引いても許されるものではなかった。心の中で次第に反感が高まった。信長にはついていけないと思ったのであろう。

 本能寺の変の当日、信長の三男・織田信孝は長宗我部元親を撃つために出陣するはずであった。この長宗我部元親討伐は明智光秀にとって許されないことだった。当初、信長は四国全域制覇を条件に長宗我部と同盟を結び、その仲を取り持ったのが光秀だった。しかも光秀の家臣の妹を元親に嫁つがせていた。また人質として差し出した母親を殺されたことから恨みがあった。信長は自分の苦労を水の泡にするだけでなく、家臣の縁者を見殺しにしようとしていると思い込んだ。

 5月15日、徳川家康が甲州征伐の戦勝祝いのために安土城を訪れると、信長は明智光秀に接待役を命じ、光秀は家康を手厚くもてなすが、この時光秀の接待に不満を覚えた信長は、森蘭丸に命じて光秀の頭を叩かせた。このこともあり、絶望した光秀の心の中で秘めていたものが炸裂したのである。

 

時は今 雨が下しる 五月哉

 本能寺の変の9日前、京都・愛宕神社で明智光秀が開いた連歌会でのことである。光秀が「時は今 あめが下しる 五月かな」と発句すると、次に威徳院行祐が「水上まさる 庭の夏山」と続き、第三に里村紹巴が「花落つる 池の流を せきとめて」と詠んだ。

 「時は今」は光秀は「土岐氏の一族」と名乗っていたので、土岐を意味しているとされ、「雨が下しる」は「天が下しる」の暗喩で天下を支配するということで信長を襲う意志を詠んだものだと解説されている。

 さらに里村紹巴の句頭にある「花落ちる」は、花(信長)が落つる(死ぬ)と解釈と、池の流れをせきとめているのは信長であり、池の流れは朝廷が治める国家の秩序を信長が滞らせている。つまり信長を討つことは罪悪ではないので今やるべきだと解釈できる。また池の流れを信長の天下布武ととらえるなら、信長の首を落とし信長が進める新しい支配体制くい止め天皇の秩序を取り戻そうとなる。
 さらに花(光秀の計画)が落つる(失敗に終わる)というもがある。池の流れをせきとめては「(信長暗殺の)計画は上手くはいかないから、考え直しなさい」と紹巴が諭していることになる。
 しかしこの解釈ではどちらも光秀の発句が「信長を討つこと」にある。この発句以前からその計画を知らされていた可能性があり、この発句を聞かされて初めてその決意を知ったとことになる。本当に光秀の発句は信長を討つことを宣言したものだったのか。明確に連歌の裏に潜む真意を読み取ることは難しく謎は謎のままであるが、何もかもが光秀の発句の意味次第で解釈が大きく変化してしまうことは確かである。
 この謎の真意を紐解く鍵は紹巴の日記の改竄である。本能寺の変後、山崎で光秀が敗れたことを知ると、秀吉からこの連歌会で光秀の決意を事前に知っていたにも関わらず、信長に報告せずに、明智に荷担した疑いをかけられた。その際、紹巴は自分の日記の該当個所を書き直している。光秀の句を書き換え「ときは今天が下なる五月哉」で、五月雨(さみだれ)の情景を詠んだものに過ぎないとしたのである。そのため紹巴は光秀の謀叛を知ることはなかったと弁明している。しかし改竄したのは光秀が信長を討つこと知っていたからと考えられ、本当に五月を詠んだだけの句なら、何もわざわざ改竄する必要はないはずである。

 連歌師・里村村紹巴は当時の連歌界を代表する存在だったが、本能寺の変後に羽柴秀吉に厳しく詮議を受けている。紹巴は懐紙を持参し光秀の発句を示し「あめが下しる」の「し」に書き直しの跡があり、紹巴は「あめが下なる」とあったものを、誰かが自分をおとしめるため「下しる」に変えたと弁明したのである。実は最初から「あめが下しる」とあったのを紹巴自身が「し」を消した上にまた「し」を書いて裏工作をしたとされている。

 また愛宕山に泊まった光秀は境内でくじを運を占い、明智光秀は連歌が巡詠される最中に、本能寺の堀の深さを尋ねたことが伝えられている。

 信長は豊臣秀吉の毛利攻めの援軍のため、明智光秀に秀吉の援軍に向かうよう命じた。つまりは秀吉の下につくことになる。明智光秀のプライドが許すはずはなかった。明智光秀の軍勢は領地の丹波亀山(京都府中部)を出発して京に近づくと、備中と京への分かれ道で突然京へ向きを変えた。そして明智光秀が高らかに宣言した。「敵は本能寺にあり」。この「敵は本能寺にあり」は明智光秀が本能寺の変の際に発したとされる有名な台詞であるが、江戸時代中期に書かれた軍記物「明智軍記」の中にある記述で、織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀は、軍勢を備中の毛利勢を攻めると見せかけて出陣するが、本当に討つべき敵は本能寺にいるとして、進路を東にとって京都の本能寺に向かったのである。

 光秀は信長の殺害を決意したが、光秀への忠誠を誓う者が少なかったため標的が信長であることを伏せていた。相談する大名も、止める家臣もいないまま、光秀の謀反を直前に知らされたのは5人の重臣だけだった。「敵は本能寺にあり」は後世に創作された文言で多くの小説で使われている。

 

敵は本能寺にあり

 1582年6月1日の深夜、織田信長はわずかな手勢で京の本能寺に宿泊していた。そこへ1万3千の明智光秀の軍勢が突然襲撃してきた。信長側の手勢は180人である。信長は鉄砲の音で部屋を出ると、敵が本能寺に突入して来た。「これは謀反か、攻め手は誰じゃ」、蘭丸が「明智が者と見え申し候が」と答えた。是非に及ばず(何を言っても仕方がない)と言うと、信長は弓矢を放ち弦が切れると槍を手に取ってに奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍に敵うはずはなく、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番知っていた。何しろ多勢に無勢である。火矢が放たれ、本能寺は燃え上がった。

 信長は突然の光秀の謀反になすすべもなく、居間に戻ると自ら火を放ち炎上する本能寺の奥の間に入り腹を切った。覇権の天下統一の夢は消え、業火の中で49歳(満48歳没)の生涯を閉じた。この大事件は我が国の歴史を大きく変え「本能寺の変」と呼ばれている。

 明智光秀は信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地に使われていたため、火薬が備蓄されており信長の遺体が爆散しためとされている。

 明智勢は信長の遺体を探したが見つからなかった。光秀も捕虜に色々と尋ねてみたが行方は分からなかった。光秀は信長が脱出したのではないかと不安になるが、これを見かねた斎藤利三が合掌して信長が火の手の上がる建物奥に入っていくのを見たと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった。

 光秀が信長と信忠の首を手に出来なかったため信長生存説を否定できず、本能寺の変以後、信長配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったののである。

 羽柴秀吉は中国大返しの際に多くの武将に対して「上様ならびに殿様いづれも本能寺から御切り抜けなされた」との虚報を伝え、数日間は近江でも信長生存の情報が錯綜し、光秀が山岡景隆の与力武将にすら協力を拒まれた。このように「信長生存説」が明智勢に不利に働いた。

 木造の本能寺が焼け落ち、本能寺の大きさから、また膨大な残骸の中から、特定の人物の遺骸は見つけられなかったのもである。遺体が灰燼に帰してしまうことはあり得ることである。しかし遺体が見つからなかったため、信長は密かに脱出し別の場所で自害したという説、あるいは信長を慕う僧侶によって人知れず埋葬されたなどの説が流布した。

 織田信長の嫡男・織田信忠はこの頃はすでに信長の重臣たちと肩を並べ、大軍勢を率いる後継者だった。本能寺の変の際も、信忠は信長とともに秀吉の援護に出陣する予定であった。宿泊先は本能寺ではなく京都の妙覚寺であった。

 本能寺の変を知ると信長を救うため出発するが、手勢が少なく二条御所に篭城した。そこを明智勢に攻められ信長と同じように奮戦したが自害した。つまり織田家はこの変で信長と嫡男を同時に失ったのである。

 本能寺の変の直前、羽柴秀吉は中国地方の大名・毛利氏を攻めている真っ最中だった。そもそも織田信長が本能寺に宿泊していたのは、この秀吉を援軍を送るためだった。

 秀吉は即座に毛利勢と和睦すると、とてつもない早さで京都へと辿り着いた。明智光秀は頼みとしていた細川氏・筒井氏などの大名の応援はほとんど得られず、安土城を占領するなど畿内一帯の制圧をはじめるが、急を聞き駆けつけてきた羽柴秀吉に山崎の戦いにて敗れ、敗走中に京都小栗栖にて土民の槍に刺され死去したとされている。

 秀吉軍は明智光秀を討ち、信長死後の政局に優位に立ち回ることになる。明智光秀の天下は信長横死後わずか11日間であった。明智光秀は中国地方の遠征を切り上げて上京して来た羽柴秀吉にあえなく討ち取られた。

本能寺焼討之図(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)

 尾張の小領主の家に生まれた信長は13才で元服し、18才で父信秀の後を継いで10年で尾張国内を統一し、27才で桶狭間の戦いで勝ち、岐阜城で天下布武を掲げるのが34才のときである。さらに10年足らずで日本の中枢を支配した。光秀の裏切りがなければ間違いなく日本全土を掌握していただろう。

 信長の特徴は、若いころから天下統一の野心を燃やしその実現に尽力したことである。そのためには室町将軍や天皇といった「昔の権威」を飾り立て、自分の政治行動の正当性を維持しようとし、抵抗勢力に対して非妥協的態度を貫いて殲滅に努めた。また妥協や和合をせず独自の方法で戦った。そのため徹底的な能力主義の人材登用と人材評価を行ったため、信長の下に経験豊富で優秀な部下が集まった。さらに大切なことはそれまでの農業主義から商業資本主義への切り替えであった。楽市楽座の育成に努めたため財政が充実し、その結果、農村と切り離された専業兵士を基幹戦力に位置づけ新兵器の鉄砲を大量に装備できた。

 これらから窺えるように、信長の政策は何から何まで革新的で革命的だった。織田信長は、今川、斉藤、朝倉、浅井、三好、武田、本願寺といった抵抗勢力を次々に倒し、ついには抵抗勢力と結託した足利将軍家(15代将軍・義昭)を京都から放逐し室町幕府を滅亡させている。

 信長は安土(滋賀県)に広壮な居城を築き、安土城を拠点に天下を睥睨した。彼の圧倒的な軍勢は、北に上杉氏と戦い、東に関東諸豪と戦い、西に毛利氏と戦った。そのころの朝廷は、天皇自らが書画などの内職をしなければならないほど落剥困窮していたが、信長が天下人となって行く過程で様々な援助を受け政治機関としての機能を回復していた。朝廷は信長を征夷大将軍に任命し強大な独裁者と朝廷との位置関係を明確にしたかった。

 しかし信長は右大臣以上の官位を得ようとはせず、信長の夢は「天下布武」で、武士階級を日本の主権者とし、朝廷は武士を権威付けるための単なる機関としていた。

 その信長が天下統一に王手をかけた矢先に、京都にて部下の明智光秀の突然の謀反に倒れた。この明智光秀は低い身分から信長によって大抜擢され、忠勤に励んでいた重臣である。光秀は足利義昭を織田信長に引き合わせ、それ以後、織田家臣と足利義昭側近として2足の草鞋をはき、朝倉征伐の際には姉川の戦いに従軍し、比叡山焼き討ちにも参加している。その功あって織田家中で最初の城主として坂本城を任されている。

 しかし織田信長と足利義昭の分裂は、明智光秀は苦悩の中で織田方に味方し丹波攻略を任される。丹波攻略中にも石山本願寺攻めなどで活躍し、丹波攻略後には民政に手腕を振るい大和国の検地をしている。1582年、信長と一緒に甲州遠征したあと、徳川家康接待を任せられるが、なぜか途中で外され中国攻略・羽柴秀吉の援軍に行くことになった。信長は明智光秀を信頼していたようであるが、なぜ光秀が突然反逆したのかは大きな謎である。

 本能寺の変後、信長の後継者となったのは信長の遺児ではなく羽柴秀吉であった。実力主義の戦国時代では血統など何の価値もなかった。この光秀の謀反には黒幕説が多くあるが、戦国大名に書状を送ったのは変の後であり、堺にいる徳川家康へ刺客を放ったのも変の後である。用意周到の明智光秀が天下取りへの野望があるならば、あまりに杜撰すぎた。何かをきっかけに「突発的に信長を憎む」ことになった理由は戦国史最大の謎である。そのきっかけが信長の怒声なのか、黒幕がいたのかも分からない。明智光秀が織田信長を襲撃した動機については50以上の説があるが、本当の理由は明智光秀しか分からず、謎のままであるが信長との人間的な相違は確かだった。

 

本能寺後、秀吉の信長評
 秀吉は「信長は勇将であったが、良将ではなかった。剛が柔に勝つ事はよく知っておられたが、柔が剛を制する事をご存知ではなかった。一度背いた者があると、信長公はその者への怒りがいつまでも収まらず、一族縁者までまとめて皆殺しにした。降伏する者さえも躊躇なく殺すため、信長公への敵討ちはいつまでたっても絶えることがなかった。これは信長公の人間としての器量が狭かったせいであろう。強さや怖さで人に恐れられはしても、敬愛されることはない。例えて言えば信長公は虎や狼のようなもの。人は自分が噛み殺されるのを防ぐために、猛獣を殺そうとするであろう」と評している。信長は出自や家格を無視して能力本位で人物を登用した。秀吉も明智光秀も途中採用の外様でありながら、その才を遺憾なく発揮して家中でのし上がっている。

 しかし本能寺の変が起きる頃になると、織田一族を重視するようになる。甲斐の武田氏討滅戦の総大将には嫡男の織田信忠を任じ、三男の神戸信孝には四国征伐を命じている。また、その他の息子たちにも大事な役目を任せている。秀吉にとって信長は絶対的存在であったが、威圧的に無理やり部下を動かす信長の統治体制は、秀吉にとっても明智光秀と同様に極めて危うく見えていた。秀吉には黒田官兵衛が付いていたから、明智光秀と同じ謀反を起こしても官兵衛はそれを歴史からもみ消し、秀吉を天下人にさせた可能性はある。
 中国攻めにあたっていた秀吉は、本能寺の変前に信長に援けを求めており、信長は自ら出陣して総指揮を執ると答えている。ここで信長が例の如く非道ぶりを発揮する可能性は高い。「高松城の城兵を皆殺しにする」「毛利の領土のほとんどを没収し、反抗的な毛利輝元や吉川元春は処刑する」。このような非情は毛利との間に入る秀吉・官兵衛の立場を無視するものだ。明智光秀と同様な決意を固める可能性はあっただろう。播磨周辺には、信長に恨みを持つ人間が無数にいた。官兵衛が姫路城で好機を見計らい、彼らに強襲するように唆せば実行は容易である。

 

信長の性格

 信長暗殺の真の黒幕は誰か。光秀と公家には深い親交があったことから、最近では朝廷と見る意見が多い。延暦寺焼き討ちでは天皇が認定した国師(高僧)が焼かれ、本能寺の変の2ヶ月前にも国師・快川和尚が信長の敵を匿った罪で焼き殺されている。国師を殺すと言うことは天皇を全く恐れていないことである。信長は室町幕府を潰した時に、暦を元亀から天正へ勝手に改暦しており官位も返上している。光秀謀反の前月には天皇が信長に勅使を送り幕府開設を勧めるが無視している。信長はルイス・フロイスら宣教師から聞いた欧州の絶対王政を目指しており、国王になるつもりだったのだろう。その為には王は2人はいらないから天皇を殺し、朝廷公家を滅ぼそうとしたのではないだろうか。皇室はこれを阻止する為に光秀を利用して信長を葬った。
 信長は武闘派として知られるが、内政でも様々な改革を推し進めた。経済発展のため課税を免除した楽市・楽座を設定し、流通をよくする為に関所を廃止、政教分離の徹底、検地など新政策を次々と実行した。

 外国文化への好奇心が強く、式典の際はビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介(やすけ)と名付けた黒人もいた。信長はまた日本の伝統的な茶の湯、能楽、鷹狩り、相撲などもよく好んだ。茶の湯は政治にも利用し、千利休や今井宗久らを召抱えて、家臣に茶の湯の開催権や茶器を恩賞として与えた。信長の命令、規律は絶対であり、家臣は信長の一声で飛び散ることを恐れ従った。その一方で、秀吉の妻(ねね)へ夫婦喧嘩仲裁の手紙を書くなど面倒見の良い一面もあった。
信長からねねへの手紙
「ねねさん、先日は私に会いに来てくれて有難う。持って来てくれた土産の数々には目を奪われるほどで心から感謝申し上げます。それにしても、あなたはますます美しくなっているので驚きました。にもかかわらず秀吉はあなたのことを不満に思っているとのこと、これは言語道断です。あなたのような素晴らしい女性は何処を探してもいるはずもなく、『禿鼠(はげねずみ、秀吉のこと)』には二度と得ることが出来ないからです。だから、あなたも気持ちをほがらかに、妻としてどっしりと構えて、嫉妬などしない方がいいですよ。秀吉には私から何かと意見を述べてもいいのですが、彼の世話をするのはあなたの役目だということも忘れないように」
教師ルイス・フロイス

 信長は中くらいの背丈で、華奢(きゃしゃ)な体型であり、声は高く極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。彼の睡眠は短く早朝に起床した。貪欲でなく、よく決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
彼はほとんど家臣の忠言に従わず、一同から深く畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取扱いは実に率直で、自らの見解に尊大であった。彼は他の大名をすべて軽蔑し、頭の上から話をした。そして人々は絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己れに背いても心気広濶、忍耐強かった。
 彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤(ひせん)の者とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることを甚だ好んだ。何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当ってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
 美濃の国で見た全てのものの中で、最も私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)が如何に異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました。即ち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らは極めて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が極めて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って差支えがありません。都では大いに評価される天皇の最大の寵臣のような者でも、信長と語る際には顔を地に着けて行なうのであり、彼の前で眼を上げる者は誰もおりません。

信長の墓

 光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、すぐさま「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と共闘を求める書状を送った。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し速攻で自国へ帰った。

 これは異説であるが、変が起きた時、大事を聞きつけた信長が帰依していた織田家と縁のある阿弥陀寺の清玉和尚が僧20名と共に本能寺に駆けつけたが、門壁で戦闘中であって近寄ることができなかった。しかし裏道堀溝に案内する者があり裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ信長も切腹したと聞いて落胆する。

 ところが墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけ、彼らに信長のことを尋ねると、遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので火葬にして隠してその後切腹するつもりと答えた。上人はこれを聞いて火葬は出家の役目であるから信長の遺骸を渡してくれれば、火葬して遺骨を寺に持ち帰り懇ろに弔って法要も欠かさないと約束する。織田の家臣は感謝してこれで表に出て敵を防ぎ心静かに切腹できると立ち去った。上人らは遺骸を荼毘に付して信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰り塔頭の僧だけで葬儀をして墓を築いた]。また二条で亡くなった信忠についても、遺骨と思しき骨を上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作った。さら上人は光秀に掛け合って変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得たとされている。

  後日、秀吉が天下人になった後に再三にわたって。阿弥陀寺に信長の遺骸を渡すよう圧力をかけた。阿弥陀寺には法事領300石があてられたが、亡骸を手に入れることで政治的に有利な立場を築こうという魂胆が明白なので、寺側は最後まで引き渡さなかった。上人はそれでも拒否したので、秀吉の逆鱗に触れ大徳寺総見院を織田氏の宗廟としてしまったので阿弥陀寺は廃れ無縁寺になった。

 この信長公阿弥陀寺由緒之記録は古い記録が焼けたため、記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないという説があるが、この縁で阿弥陀寺には織田信長公本廟が現存する。ただし阿弥陀寺と墓は上京区鶴山町に移転している。