戦国時代(概要)

戦国時代とは

 戦国時代が始まったのは応仁の乱がきっかけで、朝廷や幕府の権威や能力が弱体化し、実権を失った室町幕府の代わりに、各地に群雄が割拠して、天下統一を目指したからである。将軍家や朝廷は、群雄の私利私欲に利用される単なる飾り物にすぎなかった。

 治安の悪化、社会不安などの混乱の中では、人々は地方ごとの有力者に身を寄せて生きなければならなかった。その有力者としては戦国大名や本願寺などの武装宗教団体、堺などの武装商人町があった。さらに貧困と重税に耐えかねた農民が各地で一揆を起こし、加賀では農民と僧侶が結託して「一向一揆」が起こり、農民が100年にわたり加賀を占領することがあった。しかし次第に頭角を現してきたのが戦国大名である。

 戦国大名には様々な潮流があり、名もなき庶民が大名家を乗っ取ったり(斉藤道三)、小田原の北条家、中国の毛利家、四国の長曾我部家など小さな土豪が従来の勢力を併呑したりした。このように戦国時代の特徴は完全な「実力主義」で、かつての名門であっても能力がなければ簡単に滅ぼされる時代となった。斉藤道三のような庶民や北条早雲(伊勢長氏)のような流れ者が、美濃の土岐家や小田原の大森家を乗っ取るようになった。

 実力主義の評価では戦いに勝つことで、古い戦術や戦略に捕らわれて負ければただの敗者である。革新的発想で勝てば、それが卑怯と呼ばれても勝者であった。戦国大名の人格は勝つことによって決められ、勝つために戦国大名は統治能力を常に領内の民衆(兵士)に示さなければならなかった。戦いに勝つには兵士を集め、民生を充実させなければならなかった。

 朝倉家、今川家、武田家、長曾我部家などは領内に独自の法令を発布して民生の充実につとめ兵士を集めた。武田信玄の治水工事(信玄堤)のように領内のインフラ整備に尽力することも必要だった。領内の民衆は、大名によって生死や貧富が決まるので、大名に従うべきかどうかを常に評価していた。戦いは家臣によって決まるのではなく、民衆(兵士)が大名や家臣をどれだけ信じるかによって決まるのである。

 民衆の大半を占める農民は農閑期に仕事がなくなる。そのような農民が戦国大名を突き上げて他領を侵略して副収入を得る、この理屈から戦国時代の戦闘行為について「民衆に副業を与えるため」という説がある。しかしこれは戦国時代において、農閑期の戦いの頻度が高かった理由にすぎず、逆に言えば多忙な農繁期では仕事を放置することができなかった。日本国のために命をかける戦いは理解できるが、出世のために生死をかける戦いの動機については、現代人には理解できない生死感や経済感があった。

 戦国大名は領内の民意に気を配っていたが、それは戦国大名が権威に頼れない実力本位だったため、常に民衆感情に気を配らねばいけなかったからである。戦国大名は民意を重視し、戦争に勝ち続けなければならなかった。戦いに負けて領内の民衆を保護できなければ、その地位を保全出来ず、部下や民衆に見限られ、滅亡に追い込まれた。

  斎藤道三、織田信長、松永久秀は梟雄と呼ばれているが、梟雄(きょうゆう)とは「残忍で強く荒々しい、悪者の首領」の意味であるが、梟とはふくろうのことである。ふくろうの子どもは親鳥を食べて成長するとされていたからので、ふくろうとは不孝鳥とされ、この梟雄の漢字の由来こそが戦国時代である。

 また戦国時代というと名古屋城ゆかりの愛知三英傑(織田信長、豊臣秀吉・徳川家康)が目立っているが、日本は東北地方から九州まで激しい武力衝突があったことを忘れてはいけない。

 

 

斎藤道三

 斎藤道三は「美濃のマムシ」と恐れられ、天下の梟雄(悪逆非道な英雄)として知られている。一介の油商人から一国一城の主にまで登りつめ、斉藤道三は戦国時代の下克上の代名詞と云える。

 斎藤道三の若い頃については不明で、京都の妙覚寺の僧だったとされているが確証はない。いずれにせよ京都から美濃(岐阜県)に移り、油の量り売り商人になった。道三は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がこぼれたらそれをタダにするというパフォーマンスで油を売り歩き人気者になった。その後、美濃の有力者・長井家に仕官し、長井氏の紹介で土岐頼芸に仕えることになる。当時の美濃は土岐家が守護大名で土岐頼芸はその一族であった。

 斎藤道三は頭が切れ、仕事も遊びも器用で人間的魅力に溢れていた。道三は土岐頼芸のお気に入りになり、頼芸は側室を道三に与えた。

 この土岐頼芸は美濃の守護大名・土岐政頼とは不仲で、道三は土岐頼芸を言葉巧みにしかけて、1527年に頼芸と共に土岐政頼の城を夜襲し、土岐政頼を追放して土岐頼芸が美濃の大名となった。

 斎藤道三は土岐頼芸の一番の家臣になるが、道三のやり方と急激な出世は他の家臣たちの不満を招き、かつての恩人長井氏も道三の横暴を疎ましく思っていた。そこで道三はかつての恩人である長井氏を殺害して長井家を乗っ取り、長井新九郎規と名乗って長井家の稲葉山城を居城にした。

 斎藤道三は非道な謀略で、ある時は巧みに和解しながら、稲葉一徹や安藤守就などの有力な豪族を味方にした。さらに元々美濃の守護職にあった「斎藤家」の家を継いで斎藤氏となり、1538年に主人である土岐頼芸の城を襲い頼芸を追放し、斎藤道三は美濃の国を奪い一国一城の大名にのし上がった。

 斉藤道三は街道の整備や楽市楽座(税金なしで自由に開業できる法令)を実行し、これらによって美濃の城下町は商業的に大きく発展することになる。楽市楽座はその後、全国に広まるが、かつて街頭で油を売っていた道三は商売と経済効果を知っていたのだった。

 美濃を追い出された大名の土岐家は、尾張の織田家に接近し、斉藤道三をたびたび攻撃させた。そこで道三は織田家と同盟を結ぶため、娘を織田家に嫁がせることにする。その嫁いだ相手が尾張の織田信長だった。

 1553年、斎藤道三は正徳寺で織田信長と会見。道中、信長はトンでもない格好でやってきたが、会見の席では一転して正装し、さらに尊大な態度で受け答えをした。道三は信長の姿に大いに感服し「我が子らは皆、あの男の配下となるだろう」と語たとされている。しかしこれが、後のわざわいの火種となった。

 斎藤道三は国内の土岐勢力や、土岐家の家臣達を牽制するために、妻で土岐頼芸の側室が生んだ長男・斎藤義龍に家督を譲る。義龍は道三に嫁いですぐに生まれたので、道三の子ではなく土岐頼芸の子だとされている。そのこともあり道三は義龍に家督を譲り、国内の土岐家勢力をなだめようとした。しかし義龍は道三とは正反対の人物で、巨漢であったが大人しい性格で、部屋で本ばかり読んでいた。

 そのため道三は「あんな軟弱者に国はまかせられん」と考え、義龍に譲った家督を撤回して、他の兄弟に国を継がせようとした。このことが土岐家の家臣達の感情を逆なでし、義龍自身も道三によって廃されることを悟った。さらに信長との会見で「我が子らは皆、あの男(信長)の配下となるだろう」と語ったことが広まり、義龍は危機感を感じ、これまで道三が非道な裏切りと謀略を繰り返してきたこともあり義龍の不安を募らせた。

 1556年、斉藤義龍は家臣達や権力者達の支持を受け、道三に対してクーデターを実行した。他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、父・斎藤道三をも襲った。斎藤道三もすぐに軍勢を集めるが、家臣の多くは義龍の側につき、もはや戦える状態ではなかった。道三は信長へ「美濃の国を譲り渡す」と言う書状を届けると、多勢に無勢の戦いの中で息子・義龍と対峙した。道三は最後の戦いで義龍の見事な采配を見て、「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いた。これで斉藤家は安泰」と語った。そして戦いに破れた道三は命を落とした。享年 62。

 その後、斉藤義龍は美濃の支配を強化て国内を発展させ、「美濃一国譲り状」を理由に攻撃を仕掛けてくる織田の軍勢を撃退するが、1561年、流行り病に倒れ34才の若さで病没する。後を継いだ14才の斎藤龍興は大名としての器量もなく、家臣達は次々と織田家に寝返った。1567年、織田家の攻撃によって美濃は占領され斉藤家は滅亡することになる。

 斎藤道三は下克上によって油売りから戦国大名にまで登りつめたが、因果は巡り自分の息子の下克上によってその生涯を断たれた。戦国時代をそのまま象徴する人生であった。

 

鉄砲とキリスト教

 過当競争の下で勝つために技術改革や組織改革が急ピッチに進んだ。1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に始めて鉄砲をもたらしたが、鉄砲はわずか10年足らずで日本全国に流通することになる。この新兵器は厳しい競争下の大名たちにとって極めて有益な道具で、手先が器用で技術力の高い日本人は、たちまちのうちに鉄砲の製造法を会得したのである。 

 フランシスコ・ザビエルがもたらしたキリスト教は、鉄砲に比べればそれほど広まることはなかった。キリスト教の布教を許した大名は南蛮(西洋)交易による経済の強化に興味をもっていたが、キリスト教そのものを重視していなかった。生死をかけた過当競争下の大名家にとってはキリスト教は死後の信仰であり、生死には結ぶつかなかったのである。

 宣教師がアジア各地で布教したのは、ヨーロッパでの政治事情があったからである。プロテスタントの宗教改革によって既得権益を失ったカトリック教会が、ヨーロッパから遠く離れたアフリカやアジアにその勢力を伸ばし植民地として、本国での巻き返しを狙ったのである。スペインやポルトガルを中心とした西欧各国は富を求めて世界中に探検船や交易船を派遣していた(大航海時代)。来日したザビエルはカトリックのイエズス会の幹部で、イエズス会の修道士はその植民地化の先兵としてやって来たのである。

 日本は黄金の国である。西欧諸国は日本を植民地にしようと狙っていた。しかし当時の西欧諸国は交易船と少数の軍隊を派遣するのが精一杯で、植民地化する武力は乏しかった。だが宗教の力は欧米人が最も知っていた。当時の中国の軍事力は西欧列強と比べても遜色はなかったが、政治力と宗教力で民意で征服したことを知っていた。

 戦国時代の日本は軍制改革や新兵器の技術革新が進み、世界最大級の軍隊を持つ国家であった。その軍事力は地方ごとに分散され統一性はなかった。日本を一つに束ねる政治的権威すら瓦解していたが、この状況を一変させたのが織田信長であった。

 

織田信長の天下布武

 織田信長はスーパーヒーローである。信長は和の精神や怨霊など気にもとめず、自分の考えを絶対視し、逆らう者には容赦しなかった。実力本位の戦国時代には信長のようなカリスマ性の高い人物が必要であった。

 尾張の国(愛知県西部)の小領主の家に生まれた信長は、父・信秀の後を継いでから10年で国内を統一し、それから20年足らずで日本の中枢を支配した。

 信長は若いころから天下統一の野心を燃やし、その実現に尽力した。室町将軍や天皇といった「昔の権威」を飾り立て、自分の政治行動の正当性を維持しようとした。抵抗勢力に対しては非妥協的態度で殲滅し、妥協や和合をしなかった。あらゆる政治行動を自由な意思で行った。

 また商業資本を重視し、楽市楽座の育成に努めたため財政が充実し、その結果、農村と切り離された専業兵士を基幹戦力に位置づけ、新兵器の鉄砲を大量に装備できた。徹底的な能力主義の人材登用と人材評価を行ったため、信長の下には経験豊かで優秀な部下が集まった。

 ことから窺えるように信長の政策は何から何まで革新的で革命的だった。織田信長は、今川、斉藤、朝倉、浅井、三好、武田、さらに本願寺といった抵抗勢力や包囲網を次々に倒して行き、ついには抵抗勢力と結託した15代将軍・義昭を京都から追放し、室町幕府を滅亡させた(1573年)。

 信長は安土(滋賀県)に広壮な居城を築き、ここを拠点に天下を狙った。彼の圧倒的な軍勢は、北に上杉氏と戦い、東に関東諸豪と戦い、西に毛利氏と戦った。

 そのころの朝廷は、天皇自らが書画などの内職をしなければならないほど困窮していたが、信長が天下人となると朝廷は様々な援助を受け政治機関としての機能を回復した。朝廷は信長を征夷大将軍に任命し、強大な独裁者と朝廷との位置関係を明確にしたかった。

 しかし信長の夢は「天下布武」で、武士階級を日本の主権者とし、朝廷は武士を権威付けるための単なる機関で良いとしていた。

 その信長が天下統一に王手をかけた矢先に、京都の本能寺で部下の明智光秀の突然の裏切りに倒れた(1582年)。この明智光秀は低い身分から信長によって大抜擢され、忠勤に励んでいた重臣である。信長は明智光秀を深く信頼していたが、なぜ光秀が突然反逆したのかは歴史上の謎になっている。

 明智光秀が朝廷をないがしろにする信長を見て、朝廷の消滅の危機を深く憂えて反逆したのかもしれない。古代ローマ世界で共和制消滅の危機を憂えてカエサルを殺したブルータスのように、過激な改革を行う独裁者が最も信頼していた側近に裏切られるのは良くあることである。

 その明智光秀は中国地方の遠征を切り上げて上京した羽柴秀吉にあえなく討ち取られた。信長横死後、わずか11日間の天下であった。そして信長の後継者となったのは遺児ではなく羽柴秀吉であった。実力主義の戦国時代では血統など何の価値もないのである。

 

豊臣政権の正体

 羽柴秀吉は巧みな政治工作でその地位を高め、1583年、信長の重臣・柴田勝家を賤が嶽の戦いで破り、信長の後継者としての地位を確立した。

 秀吉は信長路線をそのまま踏襲したが、信長に比べると日本人的な政治家で敵対勢力と和合してこれを取り込むことを得意としていた。彼の天下制覇の過程で滅亡にまで追い込まれた有力な大名は小田原北条氏のみである。それ以外の諸大名、すなわち中国の毛利氏、九州の島津氏、四国の長曾我部氏、北陸の上杉氏、奥州の伊達氏、そして東海の徳川氏などは、小競り合いと政治工作の末に秀吉に屈服して従属者となったのである。

 また信長の最大の強敵であった本願寺は秀吉の謀略によって、西本願寺と東本願寺に分裂させられて牙を抜かれた。こうした柔軟な政策によって、秀吉は信長の後継者の地位を固めてからわずか7年で天下統一することが出来た。

 ことから分かるように秀吉の政権は有力大名の寄せ合い所帯であって、室町幕府の再生と言うべきものである。しかしここで問題になるのは秀吉の持つ「権威」である。彼はその独特の政治力と軍事力で初めての天下人となったが、その地位を維持するためには絶対的な権威が不可欠であった。しかし秀吉は百姓から成り上がった「下克上の申し子」で、それゆえ血統に基づく権威はなかった。そこで秀吉は朝廷の権威に縋り付いたのである。

 羽柴秀吉は姓を「豊臣」に変え、朝廷から高貴な姓を授けてももらい権威付けを行い、その官位は貴族の最高位である関白にまで昇った。さらに大阪の地に広大な大阪城を築いて諸大名を圧伏させた。こうして豊臣政権は平清盛の政権と室町幕府の折衷する形になった。

 しかしいかに関白や太政大臣になったとしても、秀吉が賤しい出自であることは周知の事実なので、その権威の維持と政権の安定確保は困難であった。それを知る秀吉は、有力大名同士を競合させ、派手な恩賞をばら撒いて大名たちを牽制し懐柔させた。

 幸いなことに豊臣政権の全盛期は、経済的に好景気だった。掘削技術の進歩によって日本全国から金や銀が多量に産出され、また戦乱の終わるとともに商業資本が急成長して日本全国が好況の波に乗っていた。秀吉は茶会などでこのムードに乗った陽気な演出を行い、その威信確保に努めた。まさに大阪商人らしい活気溢れる空気を感じさせた。

 日本は室町から戦国時代の間に、豊かな文化と技術を極限にまで研ぎ澄ませてきた。たまたま政治が混乱していたから、国家レベルでその実力を発揮できなかっただけである。しかし豊臣政権が誕生したことによって、その民度はようやく一つに繋がれ、そして真の実力を出せるようになった。桃山時代の豊かな文化と経済はこうした文脈で初めて説明することが出来る。

 ヨーロッパの宣教師たちが競って賞賛した日本のパワーは、不幸なことに対外戦という形で放出されることになる。それが朝鮮出兵であった。

 

朝鮮出兵

 安土桃山期の日本の特徴は西欧諸国との通商関係が芽生えたことである。この当時、スペインやポルトガルを中心とした勢力は積極的に東アジアへの進出を図っていた。ポルトガルはインドとマレーシアを、スペインはフィリッピンを拠点として、日本や中国と通商していた。戦国大名は西欧の珍しい物品や知識に大いに興味を示し、彼らとの交流をおおむね歓迎した。

 織田信長は西欧の衣装を好んで身につけ、ワインを飲みキリスト教の宣教師の話を聞くのを楽しみにしていた。また宣教師が連れてきた黒人を従者として貰い受け弥助と呼んで可愛がった。信長は哲学論を繰り返す仏教の坊主より、西欧の合理主義や科学知識を身につけた宣教師に好感を抱いていた。九州のキリシタン大名の子弟たちにヨーロッパ諸国を視察させようとした「天正少年使節団」は宣教師の助言を受けた信長の発案であった。

 信長の後継者となった豊臣秀吉は信長の路線を引き継いだが、キリスト教宣教師が諸外国で侵略の先兵となった事例を耳にし、キリスト大名が地元の仏閣神殿を破壊するのを見て、少しずつ彼らと距離を置き、やがて禁圧するようになる。

 しかし秀吉は海外遠征を思いつき、明(中国)を征服し、インドまで兵を送ろうとした。その目的のために朝鮮半島を通り道にしようとして李氏朝鮮王朝に道を借りるための使者を送った。朝鮮は、当然ながらその要求を拒否して、日本の大軍が朝鮮に襲い掛かった。これが「朝鮮の役」の勃発である。

 朝鮮出兵の本当の狙いについて「あの天才政治家の秀吉が、中国とインドを征服しようなど愚かなことを本気で考えるはずがない。老化によるボケ」と思う人たちが多い。しかしそれは日本史だけに視点を据えた狭い考えだと思う。

 その当時、世界は大航海時代の潮流に乗り、先進国は競って海外進出を行っていた。いわゆる「植民地を得る帝国主義」である。秀吉は宣教師などからこのような海外事情を聞き、日本もこの流れに乗るべきと考えたのだろう。

 しかも客観的に見れば、当時の日本は民度も経済力も高く、戦国で鍛え抜かれた大勢の兵士たちの錬度は高く、しかも彼らは最新兵器の鉄砲で重武装されていた。そもそも日本の総人口は、西欧諸国全てを合わせたよりも多かった。絶頂の波に乗る秀吉が、西欧諸国の世界進出の成功を見て、日本がその流れに乗って失敗するはずがないと思い込んだとしても無理はない。

 秀吉の朝鮮出兵はスペインとポルトガルの世界進出に似ている。イベリア半島のキリスト教国家は、数百年に及ぶイスラム教徒との戦いの後、ようやくイベリア半島を奪い返し、その統一の喜びとエネルギーがそのまま海外に流れて行ったのが大航海時代である。世界史的に見れば、朝鮮出兵は極めて当然のことであった。ここに怪しむべき要素は何も無いのである。

 さらに国力や戦闘力といった観点から、日本が中国やインドを征服することは十分に可能だったと思われる。しかしながら戦争は戦闘力だけでは決着しないのである。過去に外国に占領されたり外国を占領したことのない日本人は、そのことを分かっていなかった。それが秀吉の遠征の失敗の理由である。

 1592年、秀吉の30万の大軍は、朝鮮半島南部に上陸し一斉に進撃を開始した。文禄の役の勃発である。当時の朝鮮は明の属国の立場にあったので、明を刺激しないように軍備を著しく縮小していた。それが仇となり朝鮮半島はあっという間に日本の掌中に入り、朝鮮国王は満州との国境にまで逃げ延びた。

 当時、明は満州で勢力を強化する女真民族を警戒してこの地に大軍を置いていた。しかし朝鮮全土が日本人の手に落ちるのを見た明は、慌ててこの軍を半島に投入した。半島北部の日本軍はこの大軍に押しまくられ、たちまちピョンヤン(平壌)を奪還され、やむなく半島南部に退いて態勢を整えた。ソウル(開城)南方「碧蹄館の決戦」でようやく明軍を撃破したが、それ以上前進めない状況に陥った。

 日本軍の停滞の理由は大きく分けて3つあった。補給の軽視、占領地域の民衆感情の無視、兵士の戦意の低下である。

 補給の軽視について日本軍は当然の事ながら、海路を用いて補給物資を前線に運んでいた。しかし海路を保護する方策をほとんど講じなかった。そのためこの脆弱な海路が名将・李舜臣(イスンシン)率いる朝鮮水軍に食い破られ、前線の将兵が飢えに苦しんだのである。

 日本軍は占領地域の民衆を安心させ慰撫する政策を何も講じていなかった。占領地域の民衆感情の無視である。しかも補給が枯渇すると、民衆から組織的な略奪を情け容赦なく行った。その結果、多くの朝鮮人がゲリラとなって日本軍を襲い日本軍の損耗と補給難はますます深刻になった。日本軍が明の攻撃を受けて、たちまち半島南部まで撤収した理由はここにあった。

 日本軍の兵士にはこの戦争の動機付けがなかった。戦争に参加した大名たちは「新たな領土がもらえる」という物欲のため奮闘したが、下級兵士は「せっかく戦国時代が終わって平和になったのに、どうしてまた戦わなければならないか」「罪もない朝鮮の人々を殺戮し奪いつくすのは何のためなのか」という当然の疑問を抱いていた。そのため兵士たちの厭戦気分は日増しに高まり、多くの脱走兵が出たのである。

 こうして次第に講和の機運が高まった。しかし明が秀吉の提案をすべて撥ね付けたことから、再び戦火が吹き荒れた。それが慶長の役である(1597年)。このときの日本軍は、朝鮮半島南部の城砦に閉じ込められて一歩も前進出来なかった。

 やがて秀吉が病没し朝鮮での戦争は終わった(1598年)。日本の対外進出は完全な失敗に終わり、豊臣政権の威信は地に落ち、朝鮮へ出兵せず戦力を温存させた徳川家康の台頭が始まる。

 

徳川政権の誕生

 豊臣政権は有力な大名家の寄り合いで、しかも豊臣秀吉個人の能力と政治的威信によって支えられてきた。親族は遺児・秀頼6歳に過ぎなかったから、秀吉の死によって日本が再び戦国時代に逆戻りする可能性があった。

 しかしそうはならなかったのは、豊臣政権下の徳川氏が急速に台頭し日本全土を統合したからである。徳川氏は、もともと三河(愛知県東部)の戦国大名であった。家康は織田信長の従属的同盟者として武田氏と戦い、自家の勢力を拡張した。その後、秀吉政権に屈服して関八州に国替えになったが、江戸を中核として関東平野を整備して国力を強め、その困難さを口実に朝鮮出兵に参加せず、秀吉の晩年には絶大な勢力を誇る大名に伸し上がったのである。

 秀吉は家康の勢力を恐れていた。そのため様々な手段で掣肘を加えようとして、親友であった前田利家を家康のライバルに位置づけて徳川を押さえ込もうとした。しかし利家はその能力も体力も家康に及ばなかった。利家は、秀吉の死後、その後を追うように病没し、それを契機に加賀百万石といわれた前田家は徳川家の膝下にくだったのである。

 豊臣政権の大官僚であった石田三成はこの情勢を憂えて家康を抹殺しようとした。密かに同志を糾合し、美濃(岐阜県)の「関が原」で徳川氏に決戦を挑むがあえなく敗れ去った(1600年)。

 徳川家康はあくまでも豊臣家の重臣という建前で勢力を拡大したが、石田三成ら反徳川派を一網打尽に滅ぼした後は、豊臣家の頭越しに朝廷と結びつき征夷大将軍となった(1603年)。

 間違いやすいのは江戸時代は徳川家康が征夷大将軍になった時からである。江戸時代になり焦燥感を強める豊臣家を挑発して戦争に引きずり込み、二度の激戦(大阪冬の陣、大阪夏の陣)の後に大阪城ごと焼き滅ぼすことに成功した(1615年)。こうして、名実ともに天下人となった徳川家康は、この国を新たな政治ステージに導き入れた。すなわち幕藩体制の成立である。