農業/商工業

民衆の生活

 この60年以上にも及ぶ戦乱の中で、当時の日本の人口はおおむね増加傾向だった。気候が温暖期だったこともあり、また欧米や中国とは違い、日本国内の内戦は残酷な殲滅戦に発展しなかったことがその要因であった。日本は自然環境に恵まれ、極端な食糧難が生じにくいため、食糧をめぐる殺し合いの必要性が乏しいかったのある。

 しかも南北朝の戦乱は、要するに武士同士の利害闘争に過ぎなかったので、庶民は遠くから観望していれば良かった。もちろん戦場付近の農地は荒らされ、略奪もあったが、社会全体としての損失はそれほど深刻ではなかった。

 太平記などの戦記には10万から100万の大軍が殺し合ったように書かれているが、これは小説家による創作で、実際には数百から数千規模の軍勢が矢を射ち合って、先に戦意をなくした方が退却するという比較的のんびりした戦いだった。

 

農業

 室町時代の農業は、生産性を高めるために集約化、多角化されたことが大きな特徴である。土地の生産性が向上し集約化・多角化が進んだのである。灌漑や排水設備が整備され、畿内ではそれまでの二毛作に加えて、米・麦・そばの三毛作が行われるようになった。

 また水稲の改良により早稲・中稲・晩稲などの品種が栽培されるようになった。さらに大陸から伝来した大唐米は白米に比べ味は劣るが、早稲で収穫量が多かったので庶民の食用米として広まった。肥料としてはそれまでの刈敷や草木灰に加え、ヒトの排泄物である下肥が用いられるようになり、地味(土地の質)の向上と収穫の安定化をもたらし、農作物の収穫の安定化が進んだ。このように農作物の生産性が向上し農民は豊かになり、商品の生産・流通は盛んになった。

 

手工業

 農業が進歩するにつれて林業・漁業・鉱業・手工業が発達した。特に手工業が盛んになり原料となる苧(からむし)や桑、楮(こうぞ)、藍(あい)、茶などの栽培が広まり、農村での加工業が発達し商品として流通するようになり、農民の生産性は向上して暮らしは豊かになった。暮らしが豊かになり生活に余裕が生まれると、物資の需要が高まり農村でも次第に商品経済が発達していった。手工業を営んだ者は主に農民で、農民たちは自分が必要なものは自分たちで作るために、それぞれの家で手工業を営んだ。またそれらを運んだり、売りさばいたたりするために商業が非常に進歩した。

 商品経済の発達は地方の産業の繁栄につながり、その結果として加賀や丹後の絹織物や美濃の美濃紙、尾張や近江の陶器や河内の鍋など、各地の特色を生かした様々な特産品が製造されるようになった。

 製塩は瀬戸内海の沿岸で盛んに行われ、塩田に海水をくみ上げ自然に蒸発濃縮して煮つめる揚浜法(あげはまほう)、伊勢地方などで潮の満ち引きを利用して海水を導入する入浜法が行われた。

 鍛冶では刀剣や農具の製作が盛んとなり、武士の必需品の刀剣は日明貿易の主要な輸出品として備前や山城、大和などで多数つくられた。

 手工業の同業者組合である座もその種類や数を増やして各地域に広まった。京都の貴族や神社・寺院を領主とする荘園にはたくさんの職人がおり手工業によって、暮らしをたてていた。彼らは荘園内の商人と同じようそれぞれ座とよぶ同業組合をつくっていた。中には朝廷や大寺社の権威のもとで、通行税(関銭)の免除や独占的販売権が認められ全国的な商売を展開した座もあった。

 座とは「商人や職人が自分たちの利益を守るために勢いの強い貴族や、大きな神社・寺院などの保護を受け同業者の組合をつる」ことである。座の人々はこれらの貴族・神社・寺院などに座銭というお金や品物を納めたり座役という仕事な請け負っていた。その代わり座に入っていない人々が自分たもと同じ商売が出来ないようにしてもらっていた。座に加わっている人々を座人といった。彼らは京都や奈良などの都市それに荘園内の決まった区域で商売をしたり品物なつくつたりする権利を独り占めにしました。また商売をしたり市にでたり関所を通るときなどに払う税を免れた。このような権利は、代々その子孫が受け継いでいた。室町時代には、奈良の興福寺の大乗院や一乗院の保護を受ける座だけでも80以上あった。
 その一方で座に加わらない新興商人もあらわれ座と対立するようになった。

 

商品経済

 農業や手工業の発達にともない、商品経済の発達によって、各地における取引が盛んとなった。神社や寺院の門の前にも市がたちこれらは門前市と呼ばれた。地方でもそれまでの月に三度開かれた三斎市から、応仁の乱後には月六回の六斎市が一般的になった。また連雀商人や振売と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女などの女性の活躍が目立った。

 この他、京都や奈良・鎌倉などの大都市では見世棚と呼ばれた常設の小売店舗が一般化し、毎日たいていどこかで市がたち、やがてその場所にはいつでも品物の買える店がたくさん出来てきた。京都の三条、四条の店は鎌倉時代の初め頃から賑わっていましたが、奈良の門前町の店は応仁の乱のころから盛んになってきた。さらには商品の取引量の増加によって、京都の米場や淀の魚市のように、特定の商品だけを扱う市場も現れた。

 

貨幣の流通

 商品経済の発達は必然的に貨幣の流通をもたらしたが、国内で貨幣が発行されなかったため、宋銭や永楽通宝などの明銭が大量に輸入された。現金を直接送付する場合のリスクを避けるために為替の利用も盛んとなった。需要の増大とともに粗悪な私鋳銭も流通し、取引に当たって悪銭を選んで捨て、良質の貨幣のみを求める撰銭が行われた。これを受けて幕府や大名などは良銭の基準や悪銭と良銭の混入比率を定めた撰銭令(えりぜにれい)を出して銭の円滑な流通を目指した。

 貨幣は鎌倉時代にも使われていたが、室町時代になるとさらに行き渡り、お金さえ出せばなんでも買えるようになった。こうした貨幣経済の発達は金融機関の活動をうながしました。酒屋などの富裕な商工業者は、高利貸を兼ねるようになり、幕府は彼らを保護する代わりに土倉役や酒屋役などの営業税を課した。

 

交通手段

 商業流通の活発化によって、物資を輸送するための海や川、陸における交通手段も発達した。水上の輸送では廻船業者が活躍したほか、交通の要地に鎌倉時代の問丸から発達した問屋が置かれ地方都市の繁栄をもたらした。この他にも多数の物資を運ぶため、京都の輸送路を中心に各地で馬借や車借などの運送業者が活躍した。

 

自治が進む村々
 室町時代は荘園の力が弱まったこともあり、近畿地方やその周辺地域の村では荘園領主、守護、盗賊に対する自衛のために、次第に村々が自治的あるいは自立的な組織となり、独立的な傾向を示し始めた。農民たちが自治的に運営するようになった新たな村を、惣(そう)あるいは惣村といった。
 惣とは「全体」という意味の言葉で、宮座と呼ばれる神社の氏子組織が中心になった。村の神社の祭礼での寄り合いが、農業の共同作業の相談となり、やがて戦乱への自衛策を通して村人たちの意識が高まっていった。
 このような惣村を構成する村民を惣百姓といい、当初は有力農民である名主を中心にしていたが、次第に一般の農民が荘園の枠を超えて地域単位で結びついた。多くは寄合と呼ばれる寄合の協議に基づいて、乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)、年寄などが選ばれ惣を運営した。寄合では村内の秩序を維持するために地下検断(じげけんだん)と呼ばれる警察機構を行い、村の規則である惣掟を定めたりした。
 もちろん農作業に大切な山や野原などの共同利用地(入会地)の確保や灌漑用水の管理をもおこなった。さらにそれまで守護や地頭が請負っていた年貢を、惣村が一括して行う地下請(じげうけ)も広がっていった。個人で年貢を納入するより村で一括納入したほうが領主に対抗しやすかったからである。

 

農民の結束
 結束こそが力だった。神社に集まった農民たちが重要なことを決定するときには、神の前で水を飲みまわし(一味神水)結束を高めた。惣による強い団結心を持った農民たちは、折からの下剋上の風潮とあいまって、不法を働く荘官などの役人の免職や、不作の場合の年貢の減免を求め、荘官(荘園の代官)を辞めさせるため正式な手続きを踏まずに荘園領主に押しかけたり(強訴)、拒否されたら全員で耕作を放棄して山林などに逃げ込み(逃散)、さらには武力によって反抗した。これを土一揆というが、土一揆は農民たちの連帯行動であった。
 このような結束力による武力行為は農民だけでなかった。その最大級の一揆が足利義持が亡くなったのをきっかけに起きた。1428年の正長の徳政一揆である。輸送業者である近江(滋賀)の馬借たちが、借金を帳消しにする徳政を幕府に求め仕事を放棄した。これに京都周辺の惣村が呼応して、民衆は京都の酒屋や土倉を襲って質物や借金の借用書などを奪った。この暴動は徳政令と同じ効果をもたらしたため私徳政とよばれた。
 さらに足利義教の暗殺をきっかけに、1441年に発生した嘉吉の徳政一揆も凄まじいもので、数万の民衆が京都を占領して徳政令を要求したため、幕府は徳政令を出さざる得なかった。それどころか幕府は、徳政令を武器に商売を始めた。すなわち借金額の5分の1もしくは10分の1程度の手数料を納めたら「借金を認め、借金を帳消にする」という分一徳政令を出すことになる。
 民衆はしばしば「一揆」と呼ばれる騒動を起こした。徳政令を求めて高利貸しの土蔵を打ち壊し、山城国一揆のように大名同士の戦争に割って入って無理やり停戦させることもあった。このような実力行使は、地侍らの指導によって地方の豪族や惣村の有力者が扇動して行われた。
 勢力を伸ばした惣村は、やがて周辺同士の連合を生み出し、大きな力となって領主や中央政府に向かって牙をむき始めた。一揆の多発は荘園領主や地頭による領主支配の困難を招いた。
 一揆といい倭寇といい、室町時代の日本人は、非常にバイタリティに富んだ、政治意識の高い民族に成長していた。もちろん為政者の立場から見れば、これらは「悪しき下克上」である。この民衆のパワーは民度の向上ではなく、朝廷と幕府が権威を失い無能であることを知っていたからである。自分たちのことは自分たちが行い、防衛し、守るために立ち上がったのである。それは民衆のためという使命感に駆られていた。

 

室町幕府の衰退
 またこの時代は真宗(親鸞)の一派である一向宗などが広まった。鎌倉新仏教系の新興宗教が大ブームとなたのは、政府の無能無策ぶりに不安になった民衆が、せめてもの心の慰めを宗教に求めたからである。
 朝廷の権威が凋落し、室町幕府の機能が衰え、各地で大名同士が私闘を繰り返し、商業資本が「座」という組合を傘に着て搾取を行う時代においては、民衆は政治的にも精神的にも強くならなければならなかった。このような過酷な環境があったので、豊かな日本文化が鍛えられ育まれたのであろう。