応仁の乱

応仁の乱の背景

 恐怖の独裁者であったくじびき6代将軍足利義教赤松満祐の自宅で暗殺され、それまで押さえつけられていた守護大名は胸をなでおろした。足利義教が暗殺されたのは、領地の没収や、気まぐれな強権が相次ぎ、次は自分の命が狙われることを恐れた赤松満の自衛的行為と言えた。赤松満祐は足利将軍の命を受けた山名宗全によって討たれることになる。

 足利義教は恐怖の横暴将軍であったが、強権によって世の中をまとめる将軍がいなくなると、守護大名や守護代は、たがが外れ自分勝手な行動とるようになった。暗殺された足利義教は天台座主から還俗して籤引(くじびき)で将軍になったが、暗殺された時、跡取りとなる二人の子供はまだ幼なく、義教の後を継いだ第7代将軍足利義勝はわずか9歳であった。幼い足利義勝に政治などわかるはずがなく、しかも翌年に急死すると、弟の足利義政が8歳で第8代将軍となった。

 将軍が幼いことから、政治は管領(かんれい)と呼ばれる執事にゆだねられることになる。管領とは鎌倉幕府の北条家と同じ役割であるが、室町時代の管領はその時代の実力者による持ち回り制度であった。この管領の持ち回り制度が騒乱頻発の原因となった。

 足利義教が暗殺されたときの管領は細川持之で、暗殺直後に幕府は足利義教が奪った領地や職を返還することを決定した。そのため義教に領地を奪われていた畠山持国は、この幕府の方針に従って領地と家督の返還を求めたが、管領・細川持之がこの申し出を拒否して弟の畠山持永を支持した。

 細川持之にとっては、実力のない弟の畠山持永に相続させた方が自分の勢力を保つために都合がよかったからである。そのため畠山持国は管領の決定に逆らい、実力で領地と家督を奪いとった。このことから管領の細川持之と畠山持国は幕府内で激しく対立し権力闘争を繰り広げた。

 鎌倉幕府以降、家督争いが頻発したのは、相続がそれまでの分割相続から家督独占に代わったことによる。家督を独占すればすべての権勢を独占できるが、相続できなければ全ての権力や財産を失うことになる。しかも家督争いの決定権は管領が握っていて、時の管領が守護の家督を自分の都合で決めることができた。そのため室町時代の守護の家督争いのほとんどが、管領による家督決定がからんでいた。

 家督争で管領が一方を支持すれば、もう一方は反管領に泣きくことになる。そのため管領対反管領の争いに発展することになる。管領にすれば自分の地位を保持・安定するためには、実力の劣る方を応援することになった。守護の家督争いが誰の目にも公平であれば問題はなかったが、幕府内の管領と反管領の争いに発展して問題を泥沼化させた。しかも管領は持ち回り制であるため、管領が変わるごとに管領と反管領の地位が逆転した。

 管領の細川持之と畠山持国の争いは、加賀国の守護・富樫家の家督争いで再燃することになった。富樫家は兄の富樫教家と弟の富樫泰高が家督を争ったが、管領・細川持之は弟の富樫泰高を支持し泰高が家督を受け継いだ。しかしこれに不満を持つ兄の富樫教家が畠山持国に支援を申し出た。しかもこの時、細川持之が急死したため、管領の座は畠山持国に変わっていた。畠山持国はすぐに富樫泰高の守護職を奪うと、守護職を教家の子の亀童丸に与えてしまった。このことから細川氏と畠山氏の遺恨は後々まで続くことになる。

 第8代将軍となった足利義政は、当初は祖父の義満や父の義教にならい将軍の権力復活を図った。鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)と関東管領の上杉氏との内紛・享徳の乱(きょうとくのらん)にも積極的に関わった。しかし将軍足利義政の権力は著しく低下しており、義政の妻である日野富子や実家の日野家、あるいは有力大名らが次々と政治に介入してきて義政は政治への関心を失い、政治に興味をなくしてしまった。義政は贅沢な暮らしを始め、将軍としての人望を失ってゆく。

 足利義政は将軍の地位を誰かに譲って気ままに余生を過ごしたいと願っていた。早く引退して隠居生活をしたかった。義政は、日野富子との間に嫡男がいなかったので、妾腹の弟の僧侶・足利義視(よしみ)を還俗させ、養子に迎えて次期将軍にすることを約束した。義視は将軍になる気はなかったが、義政は「今後自分に男子が生まれても、赤ん坊のうちに僧籍に入れて、そなたの妨げにならないようにする」とまで約束した。この約束を信頼できない義視は、管領の細川持之にその約束を保証させると、12月2日に還俗して僧名である義尋を捨て義視と名乗った。細川勝元が管領を辞職しても、義政の養子・義視を支持した。

 ところがその翌年、日野富子との間に出来ないと思っていた嫡男・足利義尚(よしひさ)が生まれたのである。我が子を可愛いと思うのは世の常で、当然、義政の気持ちはぐらつき始め、妻の日野富子にすれば腹を痛めて産んだ我が子を将軍にしたいのは当然のことだった。

 日野富子は自分の子・義尚を将軍職に就かせたい一心で、義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼した。このことから補佐役である細川勝元の勢力と山名持豊が対立することになった。日野富子は義尚可愛さから義視を必死に排斥しようとし、そのため幕府内部は義尚派と義視派とに分かれ対立することになった。義政にとっては、実の子と弟との次期将軍をめぐる争いであった。

 義視にすれば次期将軍を約束したのだから反故にされたくなかった。将軍義政が決断を下せばよいのだが、優柔不断な義政は心情的には息子の足利義尚を後継にしたかったが、周囲の波風を恐れ決定できずにいた。義政が後継を決めないことに業を煮やした日野富子と足利義視は、お互いに有力な武将を味方にしようと動き出した。日野富子と足利義尚は山名持豊(出家して宗全と名乗る)を中心としたグループが支援し、足利義視を管領の細川勝元を中心としたグループが支援することになった。

 細川勝元の妻は山名宗全の娘で、それまで両者の仲は良かったが、互いに守護としての領国を多く持っており、細川・山名の両家は政治の主導権を握ろうとした。また同時に管領家である斯波家と畠山家の両家で相続争いが生じ、相続争いの当事者はそれぞれ山名宗全・細川勝元を頼り、ここに二大勢力が争う基盤が整った。

 1467年、人世空(ひと・よ・む・な)しい応仁の乱は京都を舞台にして、日本は戦国時代への進むことになる。足利義政や足利義視は応仁の乱を引き起こすつもりはなかったが、山名宗全と細川勝元の二大の勢力の争いがからみ、引き込むことができなくなった。山名宗全と細川勝元が、争いの主導権を握り、それぞれの勢力は各地の大名・小名を陣営に引き込み、地方勢力も自分の利益を守るためにこれに応じた。そのため戦いの規模は大きく広がっていった。

 初期の対立構造は次のようになる。
 

細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、

            赤松政則、京極氏など16万人。
山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など12万人

 細川勝元は本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷・花の御所におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある自分の屋敷を本陣とした。その位置関係から「東軍」「西軍」と呼ばれた。
 1467年5月26日、ついに戦いが始まった。こうなると流石の将軍義政も無関心ではいられない。かねてから山名宗全の横暴を憎んでいた義政は、細川勝元を支持し、弟の義視に対して宗全追討の命令を下した。しかし対立させながらも、京都の室町では義政・義尚父子を始め、日野富子や義視までも起居をともにしていたのである。

 最初の段階では東軍が勝利を収め、将軍の足利義政と足利義尚を迎えることに成功した。身の危険を覚えた義視は、間もなく逃亡したが、同年8月、周防・長門などの守護である大内政弘が率いる大軍が西軍の援軍にやってきて、同年10月の相国寺の戦いで西軍は東軍を打ち破ってしまう。大内政弘の20万を超える兵が全国から京都へ集結し、東軍と西軍は二手に分かれて実に10年も戦い続けた。

 戦いの中心になったのは足軽と呼ばれる傭兵で、多くは武士の下層の浪人か農民だった。足軽は武士と異なり、逃げることを恥とせず集団戦を得意とした。自分が得する方へ簡単にねがえり、京都では足軽の放火、略奪行為が目立ち、このため京都は無政府状態になった。応仁の乱で貴族や武士の屋敷、御所、寺院など3万件の家が焼け、京都は焼け野原となった。

 京都は焼け野原になったが、東軍、西軍とも勢力に差がなかったため、両軍ともに相手を打ち破れず、両軍は膠着状態になった。そのうちに「いつ俺は将軍になれるんだ」と不安がっている足利義視が西軍の誘いに乗り、足利義尚と義視の立場が逆転してしまう。
 京都で争いをしている間に、守護や大名の地元では一揆が発生するなどして、帰国するの武将が相次いだ。特に西軍に離脱者が多く、争いの当事者の一人・管領の斯波義廉も京都から撤退して帰国している。大内政弘も「帰国しなければ」と帰り支度をするが、山口に帰るためには播磨の赤松氏の領内を通過しなければいけない。そのため、やむをえずに東軍に降伏してしまう。
 やがて細川勝元と山名宗全が相次いで死去し、それからまもなくして、みな帰国して京都の戦闘はひとまず終わりに近づいた。しかし両軍の大名たちは帰京してからも戦い続けた。結局は足利義尚が第9代将軍となったが、将軍に勢いは無く、将軍を守るはずの畠山、斯波などの各家も没落してしまっていた。
 室町幕府の権威は地に落ち、さらに地方では守護の家臣である守護代や、地元の国人たちが着実に力をつけ、守護を追い出すような例が出てくる。こうして戦国時代と呼ばれる騒乱の時代へ突入してゆく。
 応仁の乱の間、足利義政は将軍でありながら庭園作りや和歌に熱中し現実から逃避していた。その集大成が京都の銀閣寺を代表とする東山文化である。また妻の日野富子はだらしない夫・義政に代わって、関所などからの税金などを溜め込み、後世から批判のされることになった。

日野富子

 日本三大悪女言うと、北条政子、日野富子、淀殿の三人の名を挙げることが多いが、はたしてどうだろうか。北条政子は息子たちの将軍職を奪い、父親を追放したが、それは北条家の安定のための冷静な判断である。頼朝の浮気相手の家を打ち壊したことから過激な性格とされているが、当時の本妻としては当然の行動である。頼朝がつくった鎌倉幕府を守ろうとする気概と能力の高さは抜きんでていた。悪女というよりは稀にみる賢女といえる。

 淀殿については、徳川家康の再三の要求や和議を拒否し、そのため豊臣家は滅んだが、それはプライドの高さからであろう。淀殿はある意味で戦国時代を終わらせた女性といえる。

 日野富子は様々な評価がなされているが、はたして悪女とよぶにふさわしいであろうか。日野富子について振り返ってみよう。日野富子は足利将軍家と縁の深かった公家である日野氏の娘として誕生した。16歳の時に8代将軍足利義政の正室になり、20歳の時に跡取りを出産するがすぐに死去してしまう。富子はこれを義政の乳母で権力があった今参局の呪いのせいとして流罪にすると、さらに義政の4人の側室も追放してしまう。

 それ以降子供に恵まれず、夫の足利義政は息子の出生を諦め、弟の義視に時期将軍の地位を約束してしまう。しかしその翌年、日野富子が26歳のときに、後の9代将軍足利義尚を出産してしまう。そこで優柔不断の将軍義政が日野富子の子・義尚ではなく将軍の弟である義視を次期将軍に立てる約束をしていたことから混迷が始まり、日野富子は義視と対立することになる。将軍後継者争いで義視と対立した際に、日野富子は強力な守護大名である山名宗全に義尚の後見役を依頼するが、これが応仁の乱の全国規模化につながり応仁の乱が勃発する。日野富子にすれば自分の息子を将軍にしようとするのは、母親として当然の親心であった。

 応仁の乱の混迷の結果、義政が義尚に将軍職を譲ったため、8代将軍足利義政なきあとの富子が幕府の実質的な権力をにぎることになる。日野富子が行ったのは、敵味方を問わず金銭の貸付と米の投機を行ったことである。将軍の勢力は飾り物にすぎず、財源に困窮していた。そのため日野富子はなり振りかまわず利殖にはげみ巨額の資産を手にする。

 京都七口に関所を設置すると関銭を徴集し、表向きのは内裏の修復費や祭礼の費用としてであったが富子はその資金を懐に入れた。これに激高した民衆が徳政一揆を起こして関所を破壊したが、富子は財産を守るために弾圧に乗りだし、民衆や公家から恨まれれることになった。このことが応仁の乱を長期化する要因になった。

 日野富子の節操のない金貸しは、対立している足利義視派の武将畠山義就にも軍資金を貸し付けていたほどである。息子のためならば、また幕府の財政を考えるならば、富子には自分の私腹を肥やし、息子や幕府を立て直すことしかできなかった。将軍が飾り物になり、守護大名の発言権が強まるなかで、日野富子の利殖は女性として当然であった。日野富子は室町幕府を立て直すつもりはなかったが、彼女の行き方は世の流れにそった女性として平凡すぎるくらい当然であったと思われる。

 日野富子はやがて息子の将軍足利義尚と不仲になるが、義尚が25歳で病死すると、敵対していた義視の息子である義材を10代将軍に立てる。その足利義材ともやがて対立し、義政の甥の義澄を11代将軍に立てた後、57歳で病死する。

 これほど生と金に凄まじいほどの執着をもった女性はいないだろう。ただ同じ逞しい女性でも、日野富子の場合は北条政子のような政治理念がなかった。すべてが自分を中心とした権力の構造を死守することに生命力を発揮し、溺愛していた息子の義尚も自身に支障が出れば失脚させ、応仁の乱の後は自身の権力の保持のため、昨日まで敵対していた有力者たちを平気で仲間に引き入れた。北条政子と比べると政治的スケールはまったくないが、女性としての生命力は溢れている。彼女の不幸は、政治に愛想をつかし芸術家肌であった足利義政が夫であったが、他人の彼女への不幸の評価はただ価値観の違いだけであるように思える。

 

下克上

 公家は武家に、将軍は管領に、守護は守護代に、下位の者が上位の者の実権を奪った。武家社会において主君は家臣にとって絶対的存在ではなく、相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため家臣の意向を無視する主君は、家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣の有力者が新たな主君となった。

 一族が宗家の地位を奪って戦国大名となった例として、島津忠良・南部晴政・里見義堯らがある。その他、河内守護家の畠山氏や管領家の細川氏では、守護代による主君廃立がたびたび行われ、陶晴賢による大内義隆の追放・討滅の例もある。

 中央政界においても、赤松氏は将軍足利義教を殺害し(嘉吉の乱)、細川政元は将軍足利義材を廃立させ(明応の政変)、松永久秀による将軍足利義輝の殺害といった例がある。このように将軍であっても危機にさらされていた。

 このように家臣が主君を倒すことを下克上とよぶが、主君を廃立しても家臣が主君にならず、主君の一族を新たな主君として擁立する例も多い。赤松・細川・松永氏による下克上では実際には足利氏の者が将軍になっている。

 武田晴信による父・武田信虎の追放も家臣団による後押しがあったからで、家臣団による後押しを「主君押込め」と呼んだ。戦国大名は専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取って領地を支配したのである。

 室町時代の守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代まで存続したのは、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に過ぎない。つまり守護以外の者が守護に代わって支配者となることは、戦国時代に頻発していたのも事実である。

 たしかに下克上と言える事例として、斎藤道三の美濃の国盗りは典型的である。しかしこの下克上は旧守護土岐氏の家臣たちの反感を招き、後に嫡男・義龍と敵対した際に、ほとんどの家臣が義龍の側についた。斎藤義龍は道三の実子ではなく、旧守護・土岐頼芸の子であるという噂があった。そのような噂が立つ事自体が下克上に対して抵抗が大きかった事を示している。言葉を換えれば、道三と義龍との敵対も、家臣らによる主君である道三の押し込めであり、主導したのは家臣らであった。

 しかし下克上は徳川家康によって終止符を打たれた。家康も下克上であるが、家康以降は下克上の風潮は廃れたたが、「主君押込め」の風潮は幕末に至るまでしばしば見られた。名君として知られる上杉鷹山も、その改革の成功は、改革に反対する家老たちによる主君押込めの試みを乗り切ったからあった。

 なお下克上と言われても、倒すのは直接の上位者で、さらなる上位者の権威は否定せずにその権威を借りる場合が多い。織田信長は最終的には追放に至るものの途中までは斯波義銀や足利義昭の権威を借りており、朝廷の権威は終生に至って借りている。安芸守護を討滅した毛利元就も、室町幕府と朝廷には忠実であった。極悪人とされる宇喜多直家も、勤王家としての側面を持っていた。伊勢氏出身の幕府官僚であった北条早雲による伊豆国侵入(堀越公方家の討滅)も、幕府の足利義澄の将軍擁立と連動したともいわれる。

 

朝倉孝景

 応仁の乱の初戦より西軍に属していた朝倉孝景の戦績は実にめざましいものであった。畠山義就が仕掛けた御霊社の合戦から、わずか3日後には東軍の斯波持種の宿所を急襲し、6月8日には京極持清を破り、11日には細川成之と戦い、さらに14日には武田信賢の兵を二条に破って劣勢にあった西軍の意地を見せた。

 朝倉孝景は越前の坂井郡黒丸を本拠とした国人で守護斯波氏に被官していた。それが斯波の息子の義廉と義敏による相続争いがからみ、義廉側についたのが縁で義廉に従い西軍に属した。朝倉孝景の活躍は京都でたちまち評判になった。

 ところが朝倉孝景が在京している間に、東軍に属した義敏が越前に攻め入り、地元の国人衆には東軍になびく者が続出した。朝倉孝景は腹背から敵の攻撃を受け、そのため1468年10月、領国を心配する斯波義廉の下向の命令で急遽帰国した。 しかし越前の国情は変わっていて、義敏の勢力が予想以上に拡大していたのである。

 危機に立った朝倉孝景は守護家の威力を痛感させられたが、この矢先に東軍の総帥細川勝元が越前一国の守護の地位を与えることを餌に、東軍への寝返りを勧めてきた。守護代になったばかりの朝倉孝景は元々一介の国人に過ぎなかった。その朝倉孝景にとって守護の地位は願っても叶えられない高嶺の花だった。そのため細川勝元の提案に傾き、遂に1471年2月、直接将軍に奉公するという名分で正式に東軍に寝返ったのである。

 1471年5月21日、将軍義政の名で朝倉孝景宛の守護補任条が出された。これは細川勝元の尽力に拠るが、現実に守護に成り上がった朝倉孝景は威厳を繕うため早速居城を一乗ヶ谷に移し立烏帽子・狩衣のいでたちで城主になった。実力で主家の斯波氏から守護職を奪い取ったが、朝倉孝景は都の貴人たちから「天下の悪事」と陰口を立たれた。しかしこれが実力による下克上であった。

 

斉藤道三

 商人守護が追い出して政権を乗っ取った代表例が美濃の守護大名斉藤道三である。斉藤道三は行商の油売りから美濃一国の「国盗り」を成し遂げたのである。斉藤道三は京都の油商人で、一文銭の穴を通して油をツボに移すという奇抜な芸で人気を集め、行商をしながら美濃の情報を収集し、城内外の動きに通じるようになった。

 器用で頭が切れた道三は美濃の守護・土岐氏の家臣・長井弥二郎に仕えると、主人である惣領・長井影弘を倒し、長井家の家督と所領を奪うばい、さらに長井の姓まで名乗るようになった。次に守護代だった斉藤家を乗っ取り斉藤の姓を名乗った。

 土岐頼芸に気に入られて家臣になると出世して軍事クーデターを起こして土岐頼芸を尾張に追放する。このように斉藤道三は家臣でありながら、長井家、斉藤家、土岐家の3家の主人を謀略で倒した。

 だが斉藤道三は土岐・斉藤一族が隣国の朝倉・織田氏に逃げ込んだため、周囲を敵に囲まれ侵攻を受けた。そこで道三は娘・濃姫を織田信長に嫁がせ、斉藤家と織田家の和睦が成立し道三は美濃を平定した。

 その後剃髪して隠居した道三は嫡男・斉藤義龍に家督を譲った。 義龍はかつて土岐頼芸の側室だった女性に産ませた子であり、道三は義龍が実は頼芸の子で土岐家の正統な跡継ぎであるという噂を流していた。もちろん道三が実権を握るつもりだったが、義龍よりもその弟たちを偏愛するようになった。

 斎藤道三の非道を知っている義龍は、次に自分が殺されると考え、その前に道三を倒すことを決意した。斎藤義龍が「実父、土岐頼芸のかたき」と兵をあげると、道三に不満を持つ旧土岐家の家臣たちが馳せ参じその数1万7千となった。対する道三には2千700人であったが、道三は逃げずに立ち向かいその生涯を閉じた。策士が策に溺れた結果となった。

 

北条早雲

 小田原北条氏の祖として名をはせた伊勢長氏(北条早雲は、伊勢の浪人とされている。しかし真実は室町幕府政所執事伊勢氏の一族で、本名は「伊勢新九郎盛定」、法名「宗瑞」とされている。北条氏に改姓したのは息子の代からであり、彼が存命中に北条早雲を名乗ることはなかった。

 室町幕府の家臣である伊勢氏の出身の妹・北川殿が駿河の守護・今川義忠に嫁いだのを頼って駿河に行き、今川家の世話になり今川氏義忠の死後の家督争いで、妹が産んだ子を跡継ぎとすることに成功し、この功績で早雲は駿河国興国寺城を得て一城の主となった。

 早雲は50代半ば頃であった。足利政知が鎌倉公方として鎌倉に下がってきたが、古河公方として関東に勢力をはっていた足利成氏のために、足利政知は鎌倉に入れず伊豆の堀越にとどまり堀越公方と呼ばれていた。

 1491年、堀越公方・足利政知(義政の弟)が亡くなると、後継の足利潤童子が異母兄の茶々丸に殺され茶々丸が堀越公方となった。この堀越公方の混乱を隣国駿河で見ていた早雲は好機到来として、手勢500を率いて伊豆に侵入。足利茶々丸を急襲して殺害すると、一夜にて堀越公方を滅ぼし伊豆国を乗っ取った。鮮やかな「国盗り物語」であった。

 伊豆一国の大名となった早雲は、韮山城に居城を移した。この時、もうすでに60歳になっていた。伊豆国の東方に広がる関東の政情は不安定で、関東公方や関東管領にとってかわれると考え、その関東制覇の足がかりとして、早雲が目をつけたのが隣国相模であった。早雲は鹿狩りと偽って、猟師に扮した兵を相模に入れて、またもや謀略と奇襲攻撃によって小田原城を落とし、扇谷上杉家の家臣・大森藤頼を追い出すと、小田原城を占領して関東進出の拠点を築いた。

 1516年には平安時代以来の相模(現在の神奈川県)の守護である三浦義同(よしあつ)を攻め滅ぼしついに相模国を平定した。これを機に早雲は家督を氏綱に譲り、1519年に韮山城内で没した。享年88。

 早雲は謀略を好む梟雄のイメージが強いが、当時の武将で早雲ほど民政を重視した人物はいなかった。足利茶々丸を急襲して伊豆国に乗り込んだとき、早雲がまず手がけたのは「風病」に苦しむ人々の救援だった。そして年貢を五公五民から四公六民に軽減して荒廃から救った。早雲は検地を実施し貫高制を採用して、それまで土豪や国人が支配してきた村落を直接把握した。守護領・荘園・国衙領などさまざまな支配体系が複雑に絡み合っていた村落を早雲の権力によって再編させた。この治世の巧みさは戦国大名の先駆けとしての早雲の真価を語るものと評価できる。

 

 ちなみに鎌倉ゆかりの「北条氏」は息子の氏綱の頃から名乗るようになるが、鎌倉時代の北条氏とはまったく関係はない。

 このように壬申の乱により室町幕府と将軍の権威はなくなり、 守護大名や武士が命令に従わなくなり、守護大名がその領地をとりあう戦国時代に移っていった。

 

一揆

山城国一揆

 応仁の乱に乗じて、地方の地元の武士や農民たちが、自分たちの権益を守るべ く団結して守護大名に反抗した。特に、1485年に発生した山城国一揆は有名である。応仁の乱が終わったも、その乱の引き金となった畠山持国の子である、政長と義就の小競り合いが続けられた。そんななか、畠山義就方に付いていた山城代官の斎藤彦次郎が政長方に寝返えり、それを知った畠山義就は河内や大和の国人(農村に住む半農の武士)たちに集合をかけた。しかし本来なら対立するはずの義就派の国人や政長派の国人たちが南山城に集結し、対立せずに国人たちは農民たちと立ち上がったのである。

 国人はもともと半農で普段は村の農民たちと同じような生活をしているので、地元の国人と農民たちは、義就派でも政長派でもない第3の地元派と言うべき勢力を結集させた。1485年12月11日、集会を開いた彼らは3つの掟を取り決めて、両畠山氏に突きつけた。1、今後両畠山方の者は国中に入るべからず。2、畠山氏が横取りした荘園はすべてもとの荘園領主に返すこと。3、畠山が新たな関所を設けて税を取ってはならないこと。これを聞き入れられなければ、国人衆が攻撃すると決意の固さを見せた。
 地元の武士や農民たちが内紛が続く畠山氏を追い出し、彼らは自分たちの地を「惣国」と呼び国人・農民が一致団結して新たな自治国家をつくりあげた。8年間も住民たちが自治を行う珍しいものだったが、結局は鎮圧されてしまう。

加賀の一向一揆

 浄土真宗(一向宗)による一向一揆(いっこういっき)は、守護たちの頭痛の種となった。宗教を中心に集まった民衆は死を恐れなかった。死ねば浄土に行けるのであるから恐れるものはなかった。一向一揆は各地で起きたが、とくに加賀の一向一揆が有名で、守護の富樫政親(まさちか)が倒された。

 1488年6月9日、浄土真宗の本願寺派(蓮如)の組織を中心に、僧侶や土豪(農民に近い武士)や農民などが団結した。南無阿弥陀仏と書かれたむしろ旗を先頭に連合勢力20万人が守護の高尾城を攻めた。高尾城を守る城兵は、わずかに1万で政親は自害する。ここに約100年間に渡る浄土真宗の百姓による国が誕生する。1580年に柴田勝家に平定されるまで約100年間、一向宗門徒の自治・本願寺による支配が続くことになる。