応仁の乱

応仁の乱の背景

  恐怖の独裁者であった6代将軍足利義教(くじびき将軍)赤松満祐の自宅で暗殺されると、それまで抑圧されていた守護大名は胸をなでおろした。足利義教が凄惨な暗殺を受けたのは、義教による気まぐれな領地の没収や斬首など強権が相次いたため、次は自分の命が狙われると恐れた赤松満の自衛的行為と言えた。赤松満祐は将軍を暗殺すると、足利将軍の命を受けた山名宗全によって討たれることになる。

 足利義教は恐怖の横暴将軍であったが、強権によって世の中をまとめる将軍がいなくなると、守護大名や守護代は、たがが外れ自分勝手な行動をとるようになった。

 暗殺された足利義教は天台座主から還俗して籤引(くじびき)で将軍になったが、暗殺された時、跡取りとなる二人の子供は幼なく、義教の後を継いだ第7代将軍足利義勝はわずか9歳であった。幼い足利義勝に政治などわかるはずがなく、しかも足利義勝が翌年に急死すると、弟の足利義政が8歳で第8代将軍になった。

  将軍が幼いことから、政治は管領(かんれい)と呼ばれる執事にゆだねられることになる。管領とは鎌倉幕府の北条家と同じ役割であるが、室町時代の管領はその時の実力者による持ち回り制度であった。この「管領の持ち回り制度」が騒乱頻発の原因となった。

 家督争い

 足利義教が暗殺されたときの管領は細川持之で、暗殺直後に幕府は、足利義教が奪った領地や職を返還することを決めた。そのため義教に領地を奪われていた畠山持国は、幕府の方針に従って領地と家督の返還を求めたが、管領・細川持之がこの申し出を拒否して弟の畠山持永を支持した。

 細川持之にとっては、実力のない弟の畠山持永に相続させた方が自分の勢力を保つのに都合がよかったのである。そのため畠山持国は管領の決定に逆らい、実力で領地と家督を奪いとった。このことから管領の細川持之と畠山持国は幕府内で激しく対立した。

 鎌倉幕府以降、家督争いが頻発したのは、相続がそれまでの分割相続から家督を独占する方式に代わったことによる。家督を独占すれば、すべての権勢を独占できるが、相続できなければ全ての権力や財産を失うことになる。しかも家督争いの決定権は管領が握っていて、時の管領が守護の家督を自分の都合で決めることができたのであう。そのため室町時代の守護の家督争いのほとんどが「管領による家督決定」がからんでいた。

  家督争で管領が一方を支持すれば、もう一方は反管領に泣きく。そのため管領対反管領の争いに発展した。管領にとっては守護の家督争いを自分の地位を保持・安定のために利用した。この守護の家督争いが誰の目にも公平であれば問題はなかった、しかし家督争いは幕府内の管領と反管領の争いに発展して問題を泥沼化させた。しかも管領は持ち回り制であったため、管領が変わるごとに管領と反管領の地位が逆転した。

 管領の細川持之と畠山持国の争いは、加賀国の守護・富樫家の家督争いで再燃した。富樫家は兄の富樫教家と弟の富樫泰高が家督を争ったが、管領・細川持之は弟の富樫泰高を支持し泰高が家督を受け継いだ。しかしこれに不満を持つ兄の富樫教家が畠山持国に支援を申し出、しかもこの時、細川持之が急死したため、管領の座は畠山持国に変わっていた。畠山持国はすぐに富樫泰高から守護職を奪うと教家の子の亀童丸に譲ってしまった。このことから細川氏と畠山氏の遺恨は後々まで続くことになる。

 

足利義政

 第8代将軍となった足利義政は、当初は祖父の義満や父の義教にならい将軍の権力復活を図った。鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)と関東管領の上杉氏との内紛・享徳の乱(きょうとくのらん)にも積極的に関わった。しかし将軍足利義政の権力は著しく低下しており、義政の妻である日野富子や実家の日野家、あるいは有力大名らが次々と政治に介入してきた。そのため足利義政はしだいに政治への関心を失い、政治に興味をなくしてしまった。義政は贅沢な暮らしを始め、将軍としての人望を失ってゆく。

  足利義政は将軍の地位を誰かに譲って、気ままに余生を過ごしたいと願っていた。将軍を引退して隠居生活をしたかったのである。義政は日野富子との間に嫡男がいなかったので、出家していた妾腹の弟の僧侶・足利義視(よしみ)を還俗させ、養子として迎え次期将軍にすることを約束した。義視は将軍になる気はなかったが、義政は「今後自分に男子が生まれても、赤ん坊のうちに僧籍に入れて、そなたの妨げにならないようにする」と約束した。

 この約束を確実にするため義視は、管領の細川持之にその約束を保証させると、12月2日に還俗して僧名である義尋を捨てて義視と名乗った。細川勝元は管領を辞職しても義視を支持した。

 ところがその翌年、日野富子との間に出来ないと思っていた嫡男・足利義尚(よしひさ)が生まれたのである。我が子を可愛いと思うのは世の常で、当然、義政の気持ちはぐらつき始め、妻の日野富子にすれば腹を痛めて産んだ我が子を将軍にしたいと思うのは当然のことだった。

 日野富子は自分の子・義尚を次期将軍にしたい一心で、義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼した。このことから両補佐役である「細川勝元と山名持豊の勢力」が対立することになる。日野富子は義尚可愛さから義視を必死に排斥しようとした。そのため幕府内部は義尚派と義視派に分かれ対立することになった。義政にとっては「実の子と弟との次期将軍をめぐる争い」であった。

 義視にすれば次期将軍を約束したのだから反故にされたくなかった。将軍義政が決断を下せばよいのだが、優柔不断な義政は心情的には息子の義尚を後継にしたかったが、周囲の波風を恐れ決定できずにいた。義政が後継を決めないことに業を煮やした日野富子と足利義視は、お互いに有力な武将を味方にしようとして動き出したのである。

 日野富子と足利義尚は山名持豊(出家して宗全と名乗る)を中心としたグループが支援し、足利義視を管領の細川勝元を中心としたグループが支援することになった。

 細川勝元の妻は山名宗全の娘で、それまで細川・山名家の仲は良かったが、互いに守護としての領国を多く持っており、細川・山名の両家はこの争いで政治の主導権を握ろうとした。また同時に管領家である斯波家と畠山家の両家で相続争いが生じ、相続争いの当事者はそれぞれ山名宗全・細川勝元を頼り、ここに二大勢力が争う基盤が整った。

 

応仁の乱

 1467年、人世空(ひと・よ・むなしい)、応仁の乱は京都を舞台として、日本は戦国時代へ進むことになる。足利義政や足利義視は応仁の乱を引き起こすつもりはなかったが、山名宗全と細川勝元の二大の勢力が争い、引き下がることができなかった。山名宗全と細川勝元が争いの主導権を握り、それぞれの勢力は各地の大名・小名を陣営に引き込み、地方勢力も自分の利益を守るためにこれに応じた。そのため戦いの規模は全国に広がっていった。初期の対立構造は次のようになる。
細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信             賢、赤松政則、京極氏など16万人。
山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏な            ど12万人。
 細川勝元は本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷・花の御所におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある自分の屋敷を本陣とした。その位置関係から「東軍」「西軍」と呼ばれた。

 1467年、表面は平穏であったが大乱は既に潜行していた。3月の節句、山名持豊・畠山義就は花の御所の将軍義政と義視(弟)に参賀したが、管領・細川勝元は出仕せず秘かに兵を集めていた。4月に山名の年貢米が山陰・山陽の領国から京都に運ばれる途中で細川に奪われる事件が起きた。

 5月、失脚していた赤松正則が細川勝元の支援を受け山名氏から旧領播磨を奪還し、斯波義敏の兵が越前・尾張・遠江などに入り、世保正康が伊勢に侵入し山名方を攻めた。
 そして、1467年5月26日、京でついに戦いが始まった。こうなると流石の将軍義政も無関心ではいられなかった。かねてから山名宗全の横暴を憎んでいた義政は、細川勝元を支持し、弟の義視に山名宗全を追討するように命令を下した。このように義政と義視の兄弟は対立しながらも反山名宗全で一致していた。

 意外なことであるが、京都の室町では義政・義尚父子、日野富子や義視までも起居をともにしていたのである。

 最初の段階では東軍が勝利を収め、室町亭を占拠して将軍・足利義政、足利義尚義視らの身柄を確保していた。身の危険を覚えた義視は間もなく逃亡したが、同年8月、周防・長門などの守護である大内政弘が率いる大軍が西軍の援軍にやってくると、同年10月の相国寺の戦いで西軍は東軍を打ち破ってしまう。

 大内政弘は20万を超える兵を全国から京都へ集結させ、東軍と西軍は二手に分かれて実に10年も戦い続けた。

 戦いの中心になったのは足軽と呼ばれる傭兵で、多くは武士の下層の浪人か農民だった。足軽は武士と異なり、逃げることを恥とせず、集団戦を得意とした。自分が得する方へ簡単に寝が入り、京都では足軽の放火や略奪行為が目立ち、このため京都は無法地帯になった。応仁の乱では貴族や武士の屋敷、御所、寺院など3万件の家が焼け、京都は焼け野原となった。

 京都は焼け野原になったが、東軍西軍ともに勢力に差がなかったため、両軍ともに相手を打ち破れず両軍は膠着状態になった。そのうちに「いつ俺は将軍になれるんだ」と不安がっている足利義視が西軍の誘いに乗り、足利義尚と義視の立場が逆転してしまう。
 京都で争いをしている間に、守護や大名の地元では一揆が多発し帰国する武将が相次いだ。特に西軍に離脱者が多く、争いの当事者の一人・管領の斯波義廉も京都から撤退している。大内政弘も帰国のため帰り支度をするが、山口に帰るには播磨の赤松氏の領内を通過しなければいけない。そのため、やむをえずに東軍に降伏してしまう。
 やがて細川勝元と山名宗全が相次いで死去し、それからまもなくして皆帰国して京都の戦闘はひとまず終わりに近づいた。しかし両軍の大名たちは帰京してからも戦い続けた。結局は足利義尚が第9代将軍となったが、足利義尚に勢いはなく、将軍を守るはずの畠山、斯波などの各家も没落してしまっていた。

 室町幕府の権威は地に落ち、さらに地方では守護の家臣である守護代や地元の国人たちが力をつけ守護を追い出すようになった。こうして戦国時代と呼ばれる騒乱の時代へ突入してゆく。
 応仁の乱の間、足利義政は将軍でありながら庭園作りや和歌に熱中し、現実から逃避していた。その集大成が京都の銀閣寺を代表とする東山文化である。また妻の日野富子は、だらしない夫・義政に代わって関所からの税金を溜め込み、後世から批判されることになった。

日野富子

 日本三大悪女言うと、北条政子、日野富子、淀殿の三人の名を挙げることが多いが、はたして悪女と呼べるのだろうか。北条政子は息子たちの将軍職を奪い、父親を追放したが、それは北条家の安定のための冷静な判断であった。頼朝の浮気相手の家を打ち壊したことから過激な性格とされるが、当時の本妻としては当然の行動であった。頼朝がつくった鎌倉幕府を守ろうとする気概と能力の高さは抜きんでていて悪女というよりは稀にみる賢女といえる。

 淀殿については、徳川家康の再三の要求や和議を拒否し、そのため豊臣家は滅ぶが、それはプライドの高さからである。淀殿はある意味で戦国時代を終わらせた女性といえる。

 日野富子は様々な評価がなされているが、悪女とよぶにふさわしいとは思えない。日野富子は足利将軍家と縁の深かった公家の日野氏の娘として生まれ、16歳の時に8代将軍足利義政の正室になり、20歳の時に跡取りを出産するがすぐに死去してしまう。富子は嫡男の死去を義政の乳母で権力者の今参局の呪いのせいにして流罪にする。さらに義政の4人の側室も追放してしまう。

 それ日野富子はそれ以降子供に恵まれず、夫の足利義政は息子の出生を諦め、弟の義視に次期将軍の地位を約束してしまう。しかしその翌年、日野富子が26歳のときに、後の9代将軍足利義尚を出産してしまう。将軍義政が将軍の弟である義視を次期将軍に立てる約束をしていたことから混迷が始まる。日野富子は義視と対立した際に、強力な守護大名である山名宗全に義尚の後見役を依頼するが、これが応仁の乱の全国規模化につながることになる。しかし日野富子にすれば、自分の息子を将軍にしたいと思うには、母親として当然のことであった。

 応仁の乱の混迷の結果、義政が義尚に将軍職を譲ったため、8代将軍足利義政亡きあとの日野富子が幕府の実質的な権力をにぎることになる。日野富子が行ったのは、敵味方を問わず金銭の貸付と米の投機であった。

 将軍は飾り物にすぎず、室町幕府は財源に困窮していた。そのため日野富子はなり振りかまわず利殖にはげみ巨額の資産を手にする。京都七口に関所を設置すると関銭を徴集し、表向きのは内裏の修復費や祭礼の費用であったが富子はその資金を懐に入れた。これに激高した民衆が徳政一揆を起こして関所を破壊したが、富子は財産を守るために弾圧に乗りだし、民衆や公家から恨まれれることになった。このことが応仁の乱を長期化する要因になった。

 日野富子の節操のない金貸しは、対立している足利義視派の武将畠山義就にも軍資金を貸し付けていたほどである。息子のためならば、また幕府の財政を考えれば、富子にできることは自分の私腹を肥やし、息子や幕府を立て直すことだった。将軍が飾り物になり、守護大名の発言権が強まるなかで、日野富子の利殖は女性として当然の行為と思える。日野富子は室町幕府を立て直すつもりはなかったが、彼女の行き方は世の流れにそった女性として平凡すぎるくらい当然であった。

 日野富子はやがて息子の将軍足利義尚と不仲になるが、義尚が25歳で病死すると、敵対していた義視の息子である義材を10代将軍に立てる。その足利義材ともやがて対立し、義政の甥の義澄を11代将軍に立てた後、57歳で病死する。

 これほど生と金に凄まじいほどの執着をもった女性はいないだろう。ただ同じ逞しい女性でも、日野富子の場合は北条政子のような政治理念がなかった。すべてが自分を中心とした権力の構造を死守することに生命力を発揮し、溺愛していた息子の義尚も自分に支障が出れば失脚させ、応仁の乱の後は自分の権力の保持のため、昨日まで敵対していた有力者たちを平気で仲間に引き入れた。

 北条政子と比べると政治的スケールはまったくないが、女性としての生命力は溢れていた。彼女の不幸は、政治に愛想をつかし芸術家肌であった足利義政が夫であった。しかし他人の日野富子への評価はただ価値観の違いであるように思える。