室町幕府

建武の新政

 1333年、後醍醐天皇は公家や武士の助けを借りて鎌倉幕府を滅ぼすことに成功した。後醍醐天皇は政治への幕府、摂政・関白の関与を否定すると、天皇が自ら指示の出せる政治、つまりは天皇中心の政治を行うことに執念を燃やした。天皇をやめた上皇が院政を敷いたり、征夷大将軍が幕府を開いたりする政治を否定して、再び天皇中心の政治を行おうとした。これを建武の新政という。

 「建武」という元号は中国に由来があり、王朝(前漢)が王莽(おうもう)に滅ぼされ、劉秀光武帝)によって後漢が再興する時に、光武帝が用いた元号が「建武」であった。後醍醐天皇がこの元号を用いたのは、武家政権を倒して天皇親政が復活したことを光武帝になぞらえたのである。

 後隠醐天皇は記録所・雑訴決断所・恩賞方という役所を新設した。記録所は一般の政治を扱い、雑訴決断所は領地争いについての裁判を行い、恩賞方は手柄を調べ褒美を与える部署とした。

 京都を守る武者所の長官には新田義貞が、征夷大将軍には護良親王がなった。鎌倉には尊氏の弟・足利直義を、東北には北畠親房の子・顕家をつかわして治めさせた。しかしこの新政は天皇を中心とする朝廷勢力と、足利尊氏をリーダーとする武士たちでは、新政に寄せる期待が根本的に異なっていた。

 武士たちが鎌倉政権を見限ったのは、末期の鎌倉政権が、彼らの権益保護や利害調整を満たさなかったからで、武士たちは鎌倉政権に代わる「新しい政治」に自分たちの利権を期待した。しかし後醍醐天皇は北条氏の土地を取り上げると、天皇や皇子、貴族たちに領地として分け与え、武士を一段低く見ていた。これでは武士たちが不満を持つのは当然であった。

 武士の中では足利高氏の功績を最も重んじられ、天皇の名の「尊治」の「尊」の字を与えて尊氏(たかうじ)と名のらせたが、尊氏が望んだ征夷大将軍の位は与えなかった。後醍醐天皇がもし武士たちの権益を守り、武士たちの気持ちを反映させる政策をしていたならば軋轢は生じなかった。しかし朝廷は世の中の流れに反する失政を繰り返した。後醍醐天皇の狙いは政治を平安時代中頃の天皇中心の政治に戻すことであったが、武家政治が中心だった時代には流れに逆らうことになった。

 

後醍醐天皇の失敗
 後醍醐天皇の「天皇中心の政治」はわずか2年で崩れ去った。それは世の流れが武士の時代にもかかわらず、天皇や貴族が栄えた時代に戻そうとしたからである。武士は自分たちの武力を知っていた。刀の前では天皇や貴族が無力なことを知っていた。

 北条氏を滅ぼしたのは武士たちだった。しかし朝廷は戦いもしない皇子や貴族に領地を与え、さらに社会が安定していないのに大内裏(天皇の住まいと政治の場)の建設を始め、その費用を武士・農民に押し付けたため、武士や農民の負担がふえて不満を増大させた。

 最悪だったのは「公地公民」の建前に戻したことだった。武士の所領地をいったん白紙にして、朝廷が改めて所領を下賜する方法を取ったのである。武士たちは自分たちの所領の権益を確保するため、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、係争の量は膨大で朝廷の裁判調停能力を大きく上回ってしまった。日本を支える武士団が、後醍醐の新政によって大きな不利益をこうもることになった。

 日本の政治を朝廷に一元化する政策は、かつての公地公民の政策であった。しかし朝廷中心の政治は、世の実情を無視した強引なものであった。武士たちは土地を守るために鎌倉幕府を創設し、鎌倉幕府が武士たちの土地を守らなくなったので滅ぼしたことを忘れていた。後醍醐天皇が、短期間でも武士団の権益を保護する政策を進めれていれば結果は違っていただろう。

 武士たちの間でも睨み合いがあった。足利尊氏と新田義貞は互いに競い合い、古い家柄の武士たちは、新顔の楠木正成や名和長年らを快く思っていなかった。この対立の中で、かつてを知る武士たちの多くは足利尊氏のもとに集まり、やがて足利尊氏が後醍醐天皇に対して反旗を翻すことになる。

 1335年、北条高時の遺児・時行が反乱をおこして鎌倉に攻め込み、鎌倉の足利直義の軍を負かしてしまった。そこで尊氏は「自分を征夷大将軍にして関東に派遣すること」を天皇に懇願するが許されなかった。そこで尊氏は天皇の命令を得ずに、勝手に関東へ下ったのである。反乱鎮圧を名目にした尊氏の行動に武士たちはわれがちに追従し、尊氏は弟の直義とカを合わせて鎌倉の北条時行の軍を破った。これを中先代の乱というが、幕府の再建をめざしていた足利尊氏は、反乱鎮圧と同時に新朝廷政権に反旗を翻したのである。

 武士たちは古い北条幕府の再興よりも、足利尊氏による新たな幕府に期待した。征夷大沢将軍になれなかった尊氏は鎌倉に腰を据えると、軍功のあった武士に勝手に恩賞をばら撒いた。恩賞は公家であれ、武士であれ与えるのは朝廷の役割だった。この朝廷の役割を奪う行為は、後醍醐天皇への反逆行為であり反朝廷を宣言するに等しかった。武士たちは足利尊氏を中心とする新幕府組と、護良親王や新田義貞を中心とする朝廷組との二つにわかれた。

 足利尊氏の反逆に激怒した後醍醐天皇は、足利尊氏追討軍を鎌倉に送った。これがいわゆる1335年の建武内戦である。後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏の追討を命じたが、勢いを強めた尊氏は箱根で新田義貞を破ると、義貞を追撃する形で京都に攻め上った

 尊氏の軍勢は10万を数え、後醍醐天皇はいったん尊氏に京都を明け渡すと、比叡山に移り尊氏の兵糧を絶ちながら諸国の援軍を集めて尊氏包囲網を敷いた。奥州から北畠親房が入京すると朝廷軍は再び勢いを取り戻し、この巧みな戦略によって尊氏軍は京都で大敗をきたして九州へ落ちのびた。

 九州には自分の領地があった。尊氏の本拠地は鎌倉と足利であるが、そのほか全国30箇所に荘園を持ち、そこからの情報が常に尊氏に集められていた。そのため現地の武士の考え要望を直接把握することができた。

 都落ちした尊氏であったが、九州で兵力をまとめると起死回生の策略で窮地を乗り切った。尊氏はかつて後醍醐に皇位を奪われた持明院統(後醍醐は大覚寺統)を担ぎ出し「自分は正しい朝廷のために戦っている」という大義名分を掲げたのである。持明院統の光厳上皇から院宣を受けて、自らの軍が賊軍ではないとの正当性を確保すると、九州で態勢を立て直した尊氏は再び10万の大軍で京都に攻め上った。
 尊氏軍の勢いを感じた朝廷側の楠木正成は、尊氏との和睦を後醍醐天皇に何度も進言するが受け入れられず、1336年に天皇の命令を受けて摂津国湊川(みなとがわ)で尊氏軍を迎え撃ち敗れて自害した。この戦いを湊川の戦いという。尊氏が再び京都を制圧しすると、持明院統の皇族を帝位に就けた。

 後醍醐天皇は比叡山に逃れ、光厳上皇の弟・光明天皇が新たに即位し、2人の天皇が同時に在位することになった。後醍醐天皇は京都に幽閉され、尊氏との和睦に応じて天皇であることを証明する三種の神器を光明天皇に渡すが、隙を見て京都を脱出して奈良の吉野へ向かった。

 吉野に逃れた後醍醐天皇は光明天皇を認めず、光明天皇に渡した三種の神器は偽物であると宣言した。このようにして京都の朝廷(持明院統)と吉野の朝廷(大覚寺統)が対峙し南北朝の動乱の時代となる。これ以降、諸国の武士団は北朝(尊氏側)あるいは南朝(後醍醐側)に分かれて互いに攻伐を繰り返すことになる。この場合どちらにも「天皇」という大義名分があった。

 方角的に北側になる京都の朝廷が北朝、南側になる吉野の朝廷を南朝という。これ以降約60年間、日本は戦乱の渦に叩き込まれることになる。


南北朝の対立
 1336年に京都を支配した足利尊氏は、幕府を開くために建武式目を制定すると、2年後の1338年に北朝の光明天皇から征夷大将軍を拝命し新しい幕府を京都に開いた。しかしこの新しい室町幕府は絶えず不安がつきまとっていた。それは幕府の正当性を認める朝廷が二つに分裂していたからである。北朝は本来の朝廷の都である京都にあったが、天皇を証明する三種の神器は吉野の南朝にあった。尊氏に従った新興勢力の武士の中には、北朝の存在に疑問を持つ者がいた。

 また武士の本拠地は関東であり、尊氏も関東で幕府を開く予定だった。しかし南朝がいつ北朝を乗っ取るのか予断を許さない状態だったため、やむなく京都で幕府を開いたのである。
 南北朝時代といえども、軍事的には足利尊氏が擁立した北朝が優勢であった。後醍醐の新政に失望した武士団の多くが北朝についた。南朝では動乱の初期に楠木正成・新田義貞を失い(湊川の戦い・藤島の戦い)形勢は不利であった。南朝(後醍醐側)に味方したのは、後醍醐に個人的に深い恩顧を受けた一部の公家と少数の武士たちで、北畠親房らが中心となり東北・関東・九州などに拠点をきずいて抗戦を続けた。しかし彼らは時の経過とともに次々に倒され、やがて後醍醐天皇も失意のうちに吉野で病死して天下の帰趨は定まったかに思われた。しかし乱世はこれからが本番だった。

 幕府は武士団の寄り合いであって、将軍と幕府は武士団の都合によって擁立されているのに過ぎなかった。征夷大将軍を世襲する足利氏に期待するのは、武士たちの権益確保と相互間の利害調整であったが、この利害調整の調整には必ず負け組がいた。そのような負け組連中は、雪辱を晴らすために反幕府的行動を取り、それを正当化する大義名分が南朝にあった。

 負け組の連中は駆け込み寺よろしく吉野に出向くと、南朝から錦の御旗をもらった。つまり南北の朝廷は、対立する武士団同どうしが大義名分を得るための道具に使われたのである。武士たちはそれぞれの朝廷を旗印に土地争いを続けた。

 これが南北朝時代の特殊性で、優勢だった幕府(北朝)でも内紛が起きるたびに劣勢派は南朝側についた。後醍醐天皇が死去すると、後村上天皇が後をつぎ、その後、長慶天皇へと続いた。

 いっぽう北朝は足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の天皇が相次ぐことになる。南北朝の動乱も、尊氏の孫・足利義満が3代将軍になる頃にはしだいにおさまり、室町幕府はようやく安定の時をむかえた。しかしその後も、各地の大名はそれぞれ自分の領地を守り領地を広げようとして戦いに明け暮れた。このことで戦国の世が100年あまり続くことになる。

 

南北朝の戦乱

  この60年余にも及ぶ戦乱の中で、日本の人口はおおむね増加傾向だった。気候が温暖期になったことがその理由の一つだが、日本国内の内戦は、欧米や中 国とは違い残酷な殲滅戦に発展しなかったからである。日本は自然環境に恵まれ、極端な食糧難が生じにくいため、食糧をめぐる殺し合い(社会全体の口減ら し)の必要性が乏しいかったである。しかも南北朝の戦乱は、要するに武士団相互の利害闘争に過ぎないので、庶民はそれを遠くから観望していれば良かったの であった。もちろん、戦場付近の農地は荒らされ、略奪にあったが、社会全体としての損失はそれほど深刻ではなかった。

 太平記などの戦記文学には、常に10万から100万の大軍が殺し合ったように書かれてあるが、これは中国の歴史書に影響された小説家の創作である。実際には数百から数千規模の軍勢が矢を射ち合って、先に戦意を無くした方が退却する比較的のんびりした戦いだった。

 足利尊氏の新たな幕府は、その本拠地が京都の室町に置かれたことから室町幕府と呼ばれた。この幕府が京都に置かれたのは、吉野の南朝軍と対立状態にあったため、この南朝に睨みを利かせる必要があったからである。さらに京都の北朝は尊氏が擁立した傀儡に過ぎなかったので、王権の膝元にいても、干渉を恐れることが無かったからだった。

 だがこの新たな幕府は武士団と商業資本の調整をするどころか、そもそも武士団ですら満足に束ねることの出来なかった。それは統治の根拠としての幕府の権威が低かったからである。

 1350年になると、直義は尊氏と対立して南朝につき、観応の擾乱(じょうらん)が始まった。一時期は後醍醐天皇の子の後村上天皇率いる南朝が京都に入り、尊氏が南朝に降伏して北朝の三種の神器を引き渡すなど、京都や幕府は混乱した。

 1352年に直義が急死(毒殺とも伝えられています)した後も混乱は続き、尊氏派と旧直義派、さらには南朝勢力の三者の争いが続いたことで、この後も約10年にわたって京都を中心に動乱が続いた。

 この時代までの相続は惣領制(そうりょうせい)であったが、単独相続が一般的になり、その結果として各地の武士たちは血族同士の内部支配をめぐる対立が 激しくなった。相続は総取り合戦であり、戦いで片方が北朝につけば、もう片方は南朝につき、血族同士の争いが南北朝と結びつき、動乱が拡大したのである。 これらの動きは地方の武士の結びつきが、それまでの血縁から地縁的へと変化していく流れになった。

 尊氏は1358年に54歳で亡くなるが、南北朝の動乱は尊氏の生存中には決着がつかなかった。尊氏には人間らしい性格の良さはあったが、政治家としては 適さなかったばかりか、優柔不断が政権の足を引っ張り、彼の死後も室町幕府は混乱は続き、やがて来る戦国時代への流れにつながってしまう。

 鎌倉幕府は京都の朝廷の伝統的権威(王権)を背景に、見かけ上は全国に君臨したが幕府としての厳しさに欠け。朝廷の権威も落ちてしまうことになる。

 

足利尊氏

 足利尊氏はカリスマ性に溢れた武将であったが、幕府の混乱を招いたのは尊氏の人間味溢れる性格にあった。

 南北朝時代は、後醍醐天皇が建武の新政が失敗にし、吉野に移り南朝を開いたのがきっかけであるが、これも尊氏の優しさが根本にあった。後醍醐天皇に対して、尊氏は隠岐などへ追放することもできたが吉野に逃げられてたのである。たとえ吉野に逃げても攻め込み屈服させることも可能であった。しかし尊氏には源頼朝のような冷静な判断力や猜疑心がなく、鷹揚であり心情的に後醍醐天皇に忠誠心があったので、後醍醐天皇を追うことをしなかった。

 江戸時代から太平洋戦争にかけて、足利尊氏は天皇に弓討つ逆賊とされた。皇居には楠木正成の銅像はあって尊氏の像はない。このように逆賊・極悪人にされているのは尊氏が南朝の後醍醐天皇に背いたからとされているが、本当は気立ての優しい正直な人だった。後醍醐天皇に背き吉野で死なせたことを尊氏は後悔してたようで、尊氏は夢窓疎石という僧侶と相談して天皇の魂を慰めるために天龍寺という寺を京都の嵐山の近くに建てている。当時は戦いの続いた時代で寺を建てる費用も充分ではなかった。そこで中国に天龍寺船という貿易船を送ってその儲けを天龍寺建築の費用にあてたのである。尊氏は僧侶と2人で天龍寺の土台工事の土運びをして荘園を寄付したりもした。今も、尊氏の描いた地蔵様の絵が残っているが、これは自分の犯した罪をくいて描いたもである。

 足利尊氏は武将であったが政治家ではなかった。戦いのための決断力は優れているも、政治に対しては優柔不断であった。実際の政治は尊氏の弟・足利直義(ただよし)に代行させ、当初は直義と二人三脚で順調だった。しかし尊氏の執事(管領)の高師直(こうのもろなお)の勢力と、直義らの勢力との間が不和となり、尊氏は両者をまとめることができなかった。

 尊氏は根っからの武人で、武将にしては珍しく優しくて良い人だった。尊氏は功績のあった武将に気前良く領地を与え、領地を与えられた武将は様々な権利を得て守護大名となり、やがて幕府のいうことを聞かなくなっていく。

 さらに鎌倉には尊氏に代わる別の組織である鎌倉府を置いたが、鎌倉府に権力が集中したことから、やがて幕府と対立するようになった。

 

建武式目

 1336年、尊氏は建武式目(けんむしきもく)を定め実質的に幕府を開く。この建武式目は足利尊氏の諮問に対し、二階堂是円(ぜえん)、玄恵(げんえ/天台宗高僧)ら著名な法律家たちが答申するといった形式で出された。

それは
 1.幕府の場所は京都にする。つまり本来幕府は鎌倉にすべきだが、北条氏が滅びた不吉な場所なので京都でもいい。
 2.倹約に務め、遊興を抑制する。
 3.人々の家を勝手に没収しない。
 4.公家・女性・僧侶などの政治への介入禁止。
 5.賄賂は禁止、守護にはきちんとした人物を任命する。
 などといったものである。
 足利氏は京都に幕府を開き、京都内の所在地名から室町幕府と呼ばれるようになるが、尊氏の時代は室町とは別の場所にあった。新たな幕府の組織は鎌倉幕府の仕組みを基本的に受け継ぐことになるが、執権の代わりに管領(かんれい)を置き、さらに守護の力が非常に強力になって、自らの領地に根を下ろしていく。

 1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられと正式に京都に幕府を開いた。足利尊氏は弟の足利直義と政務を分担して政治を行った。 

1.足利尊氏・・・主に軍事や人事を担当
2.足利直義・・・主に政治や裁判を担当
 兄
尊氏は全国的な幕府の仕事で、弟の直義は地域的な問題を担当して政治を行い、二人の仲がよかったころは両輪の力で順調であったが、幕府を開くと尊氏はだんだん政治に口を出さなくなった。後醍醐天皇を追い出したことに「申し訳ない」気持ちから憂鬱だったからである。その証拠に後醍醐天皇を隠岐に流すなど、強力な措置をとることもなく吉野にいることを許していした。

 そのうちに尊氏が持っていた権限は、執事の高師直(こうのもろなお)らが担当することになり、次第に足利直義と対立してゆく。室町時代は鎌倉時代と違って一族の結束は淡白で、そのためなかなか収束できなくなってくる。

 幕府は一枚岩ではなく、その政治方針をめぐって、直義を支持する漸進派勢力と、尊氏の執事高師直(こうのもろなお、~1351)を中心とする急進派との対立があった。

 両者の対立は次第に激化し、1350年、ついに武力対決に突入しました。全国的な争乱に発展したこの紛争を、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)という。抗争は高師直の敗死・足利直義の毒殺後も続き、尊氏派(幕府)、旧直義派、南朝勢力の三者が10年余りもそれぞれ離合集散をくり返しながら相争った。

 2代将軍は足利尊氏の子の足利義詮(よしあきら)がついだ。足利尊氏と足利義詮のころは、北朝と南朝の争いが続き、幕府の仕組みが整わず安定していなかった。足利義詮の子、足利義満が3代将軍になると、京都の室町にりっぱな御所を建て、この御所を人々は美しさとりっぱさから「花の御所」とよんび、ここを幕府としたため、足利氏の幕府を室町幕府とよんだ。

 

室町幕府の確立
 足利義満はそれまで朝廷が保持していた権限を幕府の管轄下におき、全国的な統一政権としての幕府を確立した。
 京都は政権の所在地であるとともに、全国商工業の中心でもあった。それまで朝廷は、京都の市政権を検非違使庁を置いて掌握していたが、幕府は侍所の権限を強化することによって、京都の警察権・裁判権などを検非違使庁から奪うとともに、1393(明徳4)年には市中商人への課税権を確立した。この他にも幕府は、諸国に課する段銭徴収権や外交権などを獲得し、朝廷が保持していた機能を奪い、全国的な統一政権としての体裁を整えた。
 さて義満は将軍としてはじめて太政大臣にのぼった。武士としては平清盛に次いで二人目である。また義満の妻は天皇の准母(名目上の母)となった。義満は出家したのちも幕府や朝廷に対し実権をふるった。義満の死後、朝廷は義満に天皇の名目上の父として太上天皇の称号をおくろうとしたが、4代将軍義持はこれを辞退した。
 また動乱のなかで強大となった守護の統制をはかるため、有力守護を攻め滅ぼして、その勢力の削減につとめました。1390年には、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐し(土岐康行の乱)、翌1391年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆・六分の一殿(日本六十余カ国の六分の一を持つ一族の意)とよばれた山名氏一族の内紛に介入して山名氏清を滅ぼした(明徳の乱)。さらに1399年には、6カ国の守護を兼ね対朝鮮貿易で富強を誇った大内義弘を堺で敗死させた(応永の乱)。

 
室町幕府のしくみ

 管領(かんれい)
     将軍を助けて政治を行う役職で、鎌倉幕府の執権と同じ
     足利氏の一族である細川氏、斯波氏(しばし)、畠山氏
     が交代で担当した。この3氏を三管領という。  
 評定衆(ひょうじょうしゅう)、引付衆(ひきつけしゅう)
     領地の訴訟を審判し判断する役職である。
 政 所 室町幕府(むろまちばくふ)の財政を担当する役職
 問注所 室町幕府の記録や文書の保管を担当する役職
 侍 所 室町幕府の軍事や京都の警備を担当する役職山名氏、赤松氏、
     一色氏、京極氏の中から選ばれた。これら4氏を四職という。

 鎌倉府 鎌倉公方(かまくらくぼう)を中心に関東から東北地方の10か国を治め、京都の将軍と並び、関東将軍ともよばれた。鎌倉府も室町幕府とほぼ同じしくみを持っていた。

九州探題
 九州の武将を監督する役職
 中国や朝鮮との外交の仕事も受けもった。
奥州探題 東北地方の武将を監督する役職
守護大名 守護がしだいに力を持ち、幕府から任命された地方の国
     を自分の領地として幕府から独立したもの。

幕府の機構も、この時代にはほぼ整いました。
管領(かんれい)は将軍を補佐する中心的な職で、侍所・政所などの中央諸機関を統轄するとともに、諸国の守護に対する将軍の命令を伝達しました。管領には足利氏一門の細川・斯波(しば)・畠山の3氏(三管領)が交代で任命されました。
 侍所の長官(所司)は京都内外の警備や刑事裁判をつかさどり、赤松・一色(いっしき)・山名・京極(きょうごく)の4氏(四職(ししき)から任命されるのが慣例でした。

 これらの有力守護は在京して重要政務を決定し、幕政の運営にあたりました。また一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則でした。

 奉公衆(ほうこうしゅう)は幕府の直轄軍です。古くからの足利氏の家臣、守護の一族、有力な地方武士などを集めて編成しました。奉公衆はふだん京都で将 軍の護衛にあたるとともに、諸国に散在する将軍の直轄領である御料所の管理をゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を果たしました。
地方の組織
 幕府の地方機関としては、鎌倉府(関東府)や九州探題(きゅうしゅうたんだい)などがありました。
 足利尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東をとくに重視し、その子足利基氏(あしかがもとうじ。1340~1367)を鎌倉公方(かまくらくぼう。関東公 方)として鎌倉府をひらかせ、東国(関東8カ国と伊豆・甲斐を、のちには陸奥・出羽の2カ国も支配しました)の支配をまかせました。以後、鎌倉公方は基氏 の子孫が受け継ぎ、鎌倉公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)は上杉氏が世襲しました。鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、権限も大きかったため、や がて京都の幕府としばしば衝突するようになりました。
幕府の財政
幕府の収入のほとんどは臨時税にかたよっており、恒常的な財政基盤は脆弱でした。財源の種類を見ていきましょう。
 まずは御料所(幕府の直轄領)からの収入、守護の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などがあります。そのほか、京都で高利貸を営む土倉・酒屋が負担す る土倉役(どそうやく。倉数に応じて賦課)・酒屋役(さかややく。酒壺数に応じて賦課)、交通の要所に設けた関所からの関銭(せきせん。通行税)・津料 (つりょう。入港税)など。また、広く金融活動をおこなっていた京都五山の僧侶にも課税しました。さらに日明貿易による利益(貿易に従事した商人の賦課し ました。これを抽分銭(ちゅうぶんせん)といいます)なども幕府の財源となりました。
 また内裏の造営など国家的行事を行う際には、守護を通して全国的に段銭(たんせん。土地税)や棟別銭(むなべつせん・むなべちせん。家屋税)を賦課することもありました。 

 

観応の擾乱
 観応の擾乱は尊氏の執事である高師直(こうのもろなお)と尊氏の弟である足利直義の対立から始まる。

 足利尊氏と弟の足利直義は、同じ母親から生まれた1歳違いの兄弟で極めて仲が良かった。尊氏が石清水八幡宮で「今生の果報はすべて直義に与えて、その身を安穏に御守り下さい」と祈願した願文があるほどの仲であった。

 この兄弟は力を合わせて鎌倉幕府を倒し、室町幕府を立ち上げ、兄尊氏は将軍として武士との間に結ばれた主従関係をとおして支配権を掌握し幕府の軍事に君臨した。弟直義は公的な統治者として評定、引付などの行政・司法を担当した。
 室町幕府の初期はこのように兄弟で権限を分担して政治を行った。大らかで豪放な足利尊氏と理性的で実直な足利直義がひとつの幕府の中で二つに権限を分けての運営だった。諸国の武士たちは軍事統率者としては尊氏の指揮系統のもとにあり、裁判の執行などの行政としては直義の権限下にあった。しかし兄弟の強い情があっても、二頭政治が長期的に安定した政権をつくることは不可能であった。

 しかし足利尊氏の代官たる執事高師直は「所領欲しくば、近隣の荘園を勝手にかすめ取れ」とか「院や天皇がなくて叶(かな)わぬものならば、木や金でつくればよい。生身の院・天皇はどこかへ流してしまえ」などと言うほどの人物で、新興武士の利益を代表していた。

 一方の直義は実直で「建武式目」第七条に「諸国の守護人は殊に政務の器用を択(えら)ばる可(べ)き事」とあるように良い行政官であった。直義が病床に伏した時、「もし直義が死んだら、天下の政道はあってなきがごときになるだろう」と貴族たちが心配したほどの人物で、高師直と直義は政策も政治基盤も正反対であった。
 
先手を打ったのは足利直義で兄の尊氏に迫って高師直の執事職をクビにさせた。これに対し高師直はクーデターを実行して幕府の主要部を占領し、足利直義の側近・上杉重能は殺された。

 直義は尊氏の屋敷に逃げ込み、尊氏の嫡男・足利義詮に地位を譲り頭を丸めて出家した。しかし直義は京都を脱出すると、敵であるはずの南朝と講和し味方を集めた。例えば新田義貞を倒した斯波高経も足利直義に味方した。このように戦いは高師直VS足利直義となり、幕府は2つに分裂した。この二つの勢力が対立し始めると、武士たちはそのどちらかに付くことになる。例えば国に守護職を望みうる有力武士が二家あったとして、一方が尊氏側につけ ば、必然的にもう片方は直義側につかざるを得ない状況になった。石清水八幡宮の願文から10年後、両者の対立は決定的となった。観応の擾乱は室町幕府が名 実ともにその形をととのえるための生みの苦しみとなった。

 結局は直義が勝利し尊氏は直義と講和し、高師直・高師泰兄弟は京都に戻る途中での上杉能憲(上杉重能の養子)に「親父の仇」と殺された。しかし尊氏・直義の兄弟対立はしばらくして再燃し、直義は再び京都を脱出して軍を組織する。そこで尊氏も本腰を入れて直義との戦いを始め、今度は尊氏が南朝に降伏するという前代未聞の出来事がおきる。
 尊氏は東海道、さらに鎌倉で直義と戦い撃破。直義はついに降伏し、まもなく死去しました。尊氏による毒殺とのウワサされた。全国を巻き込んだ兄弟げんかは一応終結し、幕府の権限は1本化された。
 ただこれ以後も直義の養子である足利直冬(実は尊氏の息子だが、実子と認めず直義が可愛がっていた)は、幕府に対して反旗を翻し、反乱を起こし、九州の懐良親王の勢力が加わり、三つ巴の戦いになった。
 一方、足利尊氏を降伏させた南朝であるが、尊氏が鎌倉に行っている間に、楠木正儀(正行の弟)が京都に攻め込み留守を守っていた足利義詮を追い出す。これは明らかに南朝の約束違反である。しかし直義を倒した尊氏は、今度は安心して南朝と戦うことが出来た。こうして南朝は再び京都を失い北朝が復活する。
 ちなみに足利直義、直冬に味方した斯波高経は、1356年に降伏し、その子孫は細川氏、畠山氏と共に管領(かんれい)を務める家柄となり、幕府で重要な地位を占める。また上杉氏も関東管領として復帰し、鎌倉公方を支える重要な家柄として存続していく。そして1358年、足利尊氏は55歳で死去した。

 

 

 南北朝の解決

 1392年、室町幕府(北朝側)は3代将軍足利義満により最盛期を迎えていた。いっぽう南朝はもっとも衰えていた時期で、このようなときに義満は南朝に、「これからは南朝と北朝とで交互に天皇を立てよう。とりあえずは北朝からはじめたいので、天皇の位の証拠になる三種の神器を渡してほしい」北朝の勢力を背景に、南朝の後亀山天皇に吉野から京都にもどるように勧めた。

 南朝の後亀山天皇が京都にもどり、北朝の後小松天皇に譲位するという形で南北朝の合体が実現した。 これにより60年あまりの南北朝の争いはおさまり、内乱に終止符がうたれた。

 和平の条件として両統迭立が約束されたが、もちろん実現することはなかった。三種の神器も一度受け取ったが最後、もう南朝に渡すつもりはなかった。ともあれ足利義満は、一人の犠牲者を出することもなく南北朝をまとめたのである。さらに幕府は南朝の皇族を次々と出家させて子孫を絶った。

 南朝と北朝の争いのため、地方は独立した国のようになっていた。地方でも南朝と北朝の争いが度々起こり、地方の守護は国を守るために自分の領地としていった。動乱が地方まで及んだ背景には惣領制の解体があった。このころ武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家のなかでは嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になっていた。新たな所領獲得が望めない状況下で、従来の分割相続の繰り返しでは所領が細分化するばかりであった。このことは各地の武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝につけば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させていった。

 

朝廷の衰退

 南北朝の戦乱で最も大きなダメージを受けたのは朝廷であった。戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は武家へ移ることになった。さらに武士によって南北朝が統一されたことから、天皇・貴族の力が地に落ち室町幕府の力が高まった。かつて後醍醐天皇は朝廷を日本の唯一の権力にしようとしたが、蓋を開けたら目算が狂っていた。朝廷が2つに分裂し、武士に「大義名分」を与える装置として利用され朝廷の権威は落ちた。

 足利家執事の高師直は「この世に、天皇とか上皇とかいうのがあるから話がややこしい。いっそのこと、まとめて島流しにするべきだ。どうしても必要というなら、木像でも飾っておけばよい」と云った。

 また美濃(岐阜県)の豪族・土岐頼遠は、酔って上皇の牛車に出会ったとき、道を開けるように云われて激怒し、「なに上皇のお通りだと。そうか、犬か。犬ならば射殺してくれる」と叫び、牛車に矢を射掛けた。

 伝統的権威を無視し傍若無人な振舞いをする高師直・土岐頼遠のような者を、当時の言葉で「婆娑羅(ばさら)」といった。

 朝廷は平安時代以来、政治らしい政治をしないで、権威に寄りかかって生きてきた。そしてその権威が無残に崩れ去り、木像や犬に喩えられるまでに落ちぶれたのである。しかし、それに代わる政治的権威が日本にはなかった。足利将軍家は、単なる「農協の親玉」に過ぎない。その足利家が衰退すれば、日本は事実上の無政府状態に転落していく。それが戦国時代であった。

 南北朝時代からすでに戦国時代の芽は生まれていた。各地の武士団は南北両朝を渡り歩き、攻伐を繰り返して領土を増やし、やがて中央の命令を聞かなくなった。山陰の山名氏は日本66か国のうち11か国を領有し「六分の一殿」と呼ばれ、武士団は「大名」へと成長を遂げた。朝廷の権威が崩れ去り、日本全体に「下克上」と呼ばれる風潮が蔓延した。権威に頼らない能力主義が徹底されたのである。

 ただ足利幕府の中興の祖である義満(三代将軍)の登場で、この混乱は一時的に緩和された。彼は将軍家の軍事力を高める政策を強行し、その力を背景に山名氏や土岐氏や大内氏といった巨大武士団を打倒してその勢力を弱めたのである。また義満はジリ貧状態の南朝の天皇家に対して次期皇位を約束するなどのペテンを仕掛けて京都に誘致し、これを軟禁状態に置いて、ようやく南北朝は合体を見たのである(1392年)。

 

自治が進む村々

 室町時代は荘園の力が弱まったこともあり、近畿地方やその周辺地域の村では荘園領主、守護、盗賊に対する自衛のために、次第に村々が自治的あるいは自立的な組織となり、独立的な傾向を示し始めた。農民たちが自治的に運営するようになった新たな村を、惣(そう)あるいは惣村といった。

 惣とは「全体」という意味の言葉で、宮座と呼ばれる神社の氏子組織が中心になった。村の神社の祭礼での寄り合いが、農業の共同作業の相談となり、やがて戦乱への自衛策を通して村人たちの意識が高まっていった。

 このような惣村を構成する村民を惣百姓といい、当初は有力農民である名主を中心にしていたが、次第に一般の農民が荘園の枠を超えて地域単位で結びついた。多くは寄合と呼ばれる寄合の協議に基づいて、乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)、年寄などが選ばれ惣を運営した。寄合では村内の秩序を維持するために地下検断(じげけんだん)と呼ばれる警察機構を行い、村の規則である惣掟を定めたりした。

 もちろん農作業に大切な山や野原などの共同利用地(入会地)の確保や灌漑用水の管理をもおこなった。さらにそれまで守護や地頭が請負っていた年貢を、惣村が一括して行う地下請(じげうけ)も広がっていった。個人で年貢を納入するより村で一括納入したほうが領主に対抗しやすかったからである。

 結束こそが力だった。神社に集まった農民たちが重要なことを決定するときには、神の前で水を飲みまわし(一味神水)結束を高めた。惣による強い団結心を持った農民たちは、折からの下剋上の風潮とあいまって、不法を働く荘官などの役人の免職や、不作の場合の年貢の減免を求め、荘官(荘園の代官)を辞めさせるため正式な手続きを踏まずに荘園領主に押しかけたり(強訴)、拒否されたら全員で耕作を放棄して山林などに逃げ込み(逃散)、さらには武力によって反抗した。これを土一揆というが、土一揆は農民たちの連帯行動であった。

 このような結束力による武力行為は農民だけでなかった。その最大級の一揆が足利義持が亡くなったのをきっかけに起きた。1428年の正長の徳政一揆である。輸送業者である近江(滋賀)の馬借たちが、借金を帳消しにする徳政を幕府に求め仕事を放棄した。これに京都周辺の惣村が呼応して、民衆は京都の酒屋や土倉を襲って質物や借金の借用書などを奪った。この暴動は徳政令と同じ効果をもたらしたため私徳政とよばれた。

 さらに足利義教の暗殺をきっかけに、1441年に発生した嘉吉の徳政一揆も凄まじいもので、数万の民衆が京都を占領して徳政令を要求したため、幕府は徳政令を出さざる得なかった。それどころか幕府は、徳政令を武器に商売を始めた。すなわち借金額の5分の1もしくは10分の1程度の手数料を納めたら「借金を認め、借金を帳消にする」という分一徳政令を出すことになる。

 民衆はしばしば「一揆」と呼ばれる騒動を起こした。徳政令を求めて高利貸しの土蔵を打ち壊し、山城国一揆のように大名同士の戦争に割って入って無理やり停戦させることもあった。このような実力行使は、地侍らの指導によって地方の豪族や惣村の有力者が扇動して行われた。

 勢力を伸ばした惣村は、やがて周辺同士の連合を生み出し、大きな力となって領主や中央政府に向かって牙をむき始めた。一揆の多発は荘園領主や地頭による領主支配の困難を招いた。

 一揆といい倭寇といい、室町時代の日本人は、非常にバイタリティに富んだ、政治意識の高い民族に成長していた。もちろん為政者の立場から見れば、これらは「悪しき下克上」である。この民衆のパワーは民度の向上ではなく、朝廷と幕府が権威を失い無能であることを知っていたからである。自分たちのことは自分たちが行い、防衛し、守るために立ち上がったのである。それは民衆のためという使命感に駆られていた。

 またこの時代は真宗(親鸞)の一派である一向宗などが広まった。鎌倉新仏教系の新興宗教が大ブームとなたのは、政府の無能無策ぶりに不安になった民衆が、せめてもの心の慰めを宗教に求めたからである。

 朝廷の権威が凋落し、室町幕府の機能が衰え、各地で大名同士が私闘を繰り返し、商業資本が「座」という組合を傘に着て搾取を行う時代においては、民衆は政治的にも精神的にも強くならなければならなかった。このような過酷な環境があったので、豊かな日本文化が鍛えられ育まれたのであろう。

 

鎌倉公方
 鎌倉公方とは室町幕府の征夷大将軍が、室町幕府の関東に於ける出先機関で、鎌倉府の長官のことである。関東8か国と伊豆・甲斐両国を加えた10か国の統治を幕府から委託されていたた。つまり鎌倉府は形式的には奥州探題や九州探題などと同様に、あくまでも幕府が設置した一地方機関に過ぎないが、実際の鎌倉公方は地方機関の長とは言えない程の強大な権限を持ち、守護と関東管領の任免権以外は京都の将軍に匹敵する力を持っていた。
 そのため鎌倉府は、室町幕府とは別の独立国家的な様相さえ見せ、幕府の忠実な手足となって働くどころか、時には京都の幕府と露骨に対立するような事態をも招いた。つまり室町時代や、その後に続く戦国時代を正確に理解するためには、まず関東公方とは何だったのかを理解しなくてはならない。たとえば「征夷大将軍」「執権」「管領」「大老」「老中」「奉行」などの武家政権に於ける役職に比べると「鎌倉公方」や「関東管領」は影が薄い役職であるが、それでも関東公方や関東管領を理解していないと、中世史を理解することは不可能である。
 鎌倉公方の足利持氏が永享の乱によって自刃した後、鎌倉は将軍足利義教の支配下となり、義教は自らの子を鎌倉公方に据えようとするが、関東管領上杉憲実らの反対で実現はせずにいた。
 1440年、関東が将軍義教の支配下に入ることに不満をもった結城氏は、持氏の遺児安王と春王を担ぎ出し幕府に対して反乱を起こすが(結城合戦)、将軍義教によって鎮圧され安王と春王は殺された。ただ永寿王(成氏)だけは未だ幼児であったということで処分されずにいた。 
 翌年、将軍義教が赤松満祐に暗殺され、結城合戦で処分が下されずにいた成氏は将軍義教の死によって命が助けられ鎌倉公方となった。鎌倉公方の復活は義教の死がなかったらあり得ないことだった。こうして鎌倉公方が復活したが関東管領となった憲忠は、足利持氏の時代に関東管領を務めた憲実の子であったため、成氏を支持する旧持氏派と上杉憲忠を支持する反成氏派の対立を生んだ。
 1450年、山内上杉家の長尾景仲と扇谷上杉家の太田資清によって成氏が襲撃される事件が起きた。成氏は江ノ島に逃れた後反撃し、長尾軍と太田軍を退けた(江の島合戦)。この事件は室町幕府管領畠山持国の調停によって和睦がなったが、長尾景仲と太田資清への処分はなかった。
 翌年、管領が畠山持国から細川勝元に代わると、関東は再び幕府の統治下に置かれることとなる。その後も鎌倉公方と関東管領との対立は続き、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に招き謀殺した。山内上杉家は、憲忠の後継者を弟房顕とし、幕府は房顕援護のために今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた(享徳の乱の勃発)。
 1455年、範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し「古河公方」と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。その後、成氏が鎌倉から離れたことによって、源頼朝以来、武家の街として栄えてきた鎌倉も政治の中心から離れることとなる。1458年、八代将軍足利義政は成氏に対抗するため、異母兄の政知を鎌倉公方として派遣するが、関東の武士には受け入れられなかった。そのため政知は鎌倉に入ることができず伊豆に留まることとなる(堀越公方)。 1497年、幕府と成氏は、関東を成氏が、伊豆を政知が治めることで和睦している。