室町幕府

室町時代概要

 北朝では1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、足利尊氏は正式に京都に幕府を開いた。だがこの新たな幕府は武士団を調整をするどころか、武士団すら満足に束ねることは出来なかった。それは室町幕府の統治権威が低かったからである。室町時代は平穏な時代と誤解しやすいが、それは太平記という歴史書の題名のせいで、室町時代は戦いに明け暮れた時代である。

 

足利尊氏

 足利尊氏はカリスマ性に溢れた武将であったが、幕府の混乱を招いたのは尊氏の人間味溢れる性格にあった。

 南北朝時代は、後醍醐天皇が建武の新政が失敗し、吉野に移り南朝を開いたのがきっかけであるが、これも尊氏の優しさが根本にあった。尊氏は後醍醐天皇を追放することができたが吉野に逃がしたままであった。尊氏には源頼朝のような冷静な判断力や猜疑心がなく、鷹揚であり心情的に後醍醐天皇に忠誠心があったのである。

 江戸時代から太平洋戦争にかけて、足利尊氏は天皇に弓討つ逆賊とされた。皇居には楠木正成の銅像はあっても尊氏の像はない。このように尊氏は逆賊・極悪人にされているが、それは尊氏が南朝の後醍醐天皇に背いたからとされているが、本当は気立ての優しい正直な人だった。

 後醍醐天皇に背き吉野で死なせたことを尊氏は後悔し、尊氏は夢窓疎石という僧侶と相談して天皇の魂を慰めるために天龍寺を京都の嵐山の近くに建てている。当時は戦いの続いた時代で寺を建てる費用も充分ではなかった。そこで中国に天龍寺船という貿易船を送ってその儲けを天龍寺建築の費用にあてたのである。尊氏は僧侶と2人で天龍寺の土台工事の土運び、荘園を寄付したりもした。今も、尊氏の描いた地蔵様の絵が残っているが、これは自分の犯した罪をくいて描いたもである。

 足利尊氏は武将であったが政治家ではなかった。戦いのための決断力は優れていたが、政治に対しては優柔不断であった。実際の政治は尊弟・足利直義(ただよし)に代行させ、当初は直義と二人三脚で順調だった。しかし尊氏の執事(管領)の高師直(こうのもろなお)の勢力と、直義らの勢力との間が不和となり、尊氏は両者をまとめることができなかった。

 尊氏は根っからの武人で、武将にしては珍しく優しい性格であだった。尊氏は功績のあった武将に気前良く領地を与え、領地を与えられた武将は様々な権利を得て守護大名となり、やがて幕府の命令に従わなくなった。

 鎌倉には尊氏に代わる別の組織として鎌倉府を置いたが、鎌倉府に権力が集中したことから、やがて幕府と対立するようになる。

 

建武式目

 1336年、足利尊氏は建武式目(けんむしきもく)を定め実質的に幕府を開く。この建武式目は足利尊氏の諮問に対し、二階堂是円(ぜえん)、玄恵(げんえ/天台宗高僧)ら著名な法律家たちが答申するといった形式でつくられた。

それは
 1.幕府の場所は京都にする。つまり本来幕府は鎌倉にすべきだが、北条氏が滅びた不吉な場所なので京都でも良いことにした。
 2.倹約に務め、遊興を抑制する。
 3.人々の家を勝手に没収しない。
 4.公家・女性・僧侶などの政治への介入禁止。
 5.賄賂は禁止、守護にはきちんとした人物を任命する。
 などといったものである。
 足利氏は京都に幕府を開き、京都内の地名から室町幕府と呼ばれるようになるが、尊氏が創り上げた幕府は室町とは別の場所にあった。室町幕府は足利義満からの名称で、それ以前の幕府名は不明である。

 新たな幕府の組織は鎌倉幕府の仕組みを受け継ぐことになるが、執権の代わりに管領(かんれい)を置き、さらに守護の力が強力になって、自らの領地に根を下ろしていく。

 1338年に足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられと正式に京都に幕府を開いた。足利尊氏は弟の足利直義と政務を分担して政治を行った。 

1.足利尊氏・・・主に軍事や人事を担当
2.足利直義・・・主に政治や裁判を担当
 兄の
尊氏は全国的な幕府の仕事で、弟の直義は地域的な問題を担当して政治を行い、二人の仲がよかったころは両輪の力で順調であった。しかし尊氏は次第に政治に口を出さなくなった。後醍醐天皇を追い出したことに「申し訳ない」気持ちから憂鬱だったのである。そのことは後醍醐天皇を討伐するなど、強力な措置をとることもなく吉野にいることを許していしたことから判断できる。

 尊氏は軍事に興味を失い半隠居状態になり、執事の高師直(こうのもろなお)らが軍事を担当することになり、高師直は足利直義と対立してゆく。室町時代は鎌倉時代と違って一族の結束は淡白で、そのため幕府内の統制が収束できなくなってきた。

 

 2代将軍は足利尊氏の子の足利義詮(よしあきら)がついだ。足利尊氏と足利義詮のころは、北朝と南朝の争いが続き、幕府の仕組みが整わず安定していなかった。足利義詮の子、足利義満が3代将軍になると、京都の室町にりっぱな御所を建て、この御所を人々は美しさと豪華さから「花の御所」とよんび、ここを幕府としたため、足利氏の幕府を室町幕府とよんだ。

 

 

観応の擾乱かんのうのじょうらん

 幕府は一枚岩ではなく、その政治方針をめぐって、直義を支持する漸進派勢力と、執事高師直を中心とする急進派との対立した。両者の対立は次第に激化し、ついに武力対決に突入し、全国的な争乱に発展した。この紛争を観応の擾乱という。

 高師直は太平記で「上皇や天皇がいなくて困るならば、木像か鋳像にしてしまえ。生きた上皇や天皇は流し捨ててしまいたい」と豪語した人物である。伝統的権威を無視し傍若無人な振舞いをする高師直のような者を「婆娑羅(ばさら)」といった。まず足利直義と高師直が対立し高師直が敗死すると、次に足利尊氏は弟・直義を毒殺した。このように尊氏派(幕府)、高師直、旧直義派、南朝勢力の4者が10年余りも離合集散をくり返し争ったのである。

 一時的ではあったが、後醍醐天皇の嫡男・後村上天皇率いる南朝の軍勢が京都に攻め入り、尊氏が南朝に降伏して北朝の三種の神器を引き渡すなど政局は混乱した。

 動乱が長引いたのは、すでに鎌倉時代後期ころからの武士たちの遺産相続の問題があった。それまでの中世の武士の相続は女子も含めた分割相続であった。分割相続であっても均等相続ではなく、男子の中で一族を統率する能力(器量)を持つ者がその主要部分を継承する例が多かった。

 しかし新規の開発も一段落したことで、分割相続では所領の細分化になった。従来の分割相続の繰り返しでは、所領が細分化するばかりで武士の没落は避けられなかった。そこでこの惣領制から単独相続が一般的することになる。

 武家は嫡子が所領を全部相続して、庶子は嫡子に従属するようになり、この単独相続はは各地の武士団の内部分裂と対立を引きおこし、一方が北朝につけば反対派は南朝につくことで動乱が拡大した。相続は総取り合戦となり、血族同士の争いが南北朝と結びつき動乱が拡大した。 

 尊氏は1358年に54歳で死去するが、南北朝の動乱は尊氏の生存中には決着がつかなかった。尊氏には人間らしい性格の良がはあったが、政治家としては 適さなかった。優柔不断に政権の足を引っ張り、彼の死後も室町幕府は混乱は続いた。鎌倉幕府は京都の朝廷の伝統的権威(王権)を背景に、見かけ上は全国に君臨したが幕府としての厳しさに欠け。朝廷の権威も低下することになる。2代将軍は足利尊氏の子の足利義詮(よしあきら)になるが、足利義詮のころも北南朝の争いが続き、幕府の仕組みは整わず不安定であった。

 

足利義満

 しかし足利義詮の子・足利義満が3代将軍になると、京都の室町に豪華な御所を建て、この御所を人々はその豪奢から「花の御所」とよび、足利氏の幕府を室町幕府とよぶことになった。足利尊氏が築いた新たな幕府は、その本拠地が京都の室町に置かれたことから室町幕府と呼ばれた。

 この幕府が京都に置かれたのは、吉野の南朝軍と対立状態にあったため、この南朝に睨みを利かせる必要があったからである。さらに京都の北朝は尊氏が擁立した傀儡に過ぎなかったので、王権の膝元にいても干渉を恐れることがなかった。

 1392年、足利義満は北朝の勢力を背景に、南朝の後亀山天皇に吉野から京都に戻るように勧めた。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に天皇の座を譲位し、次の天皇は南朝から出すという妥協案で南北朝の合体が実現した。

 これにより60年あまりの南北朝の争いは終わり、南北朝が1つにまとまった。和平妥協案の条件として両統迭立が約束されたが、もちろん足利義満はそれを守るつもりはなかった。足利義満は南朝の皇族を次々と出家させて子孫を絶ったのである。南朝の人々は北朝の仕打ちを恨むだけであった。
 足利義満によって南北朝が統一され、天皇・貴族の力が地に落ち、室町幕府の力の高まった。南朝と北朝が争っていた当時は室町幕府の全国支配は進まず、地方は室町幕府から独立した国になっていった。この地方でも南朝と北朝の争いが度々起こっていた。二つの朝廷が地方の守護をそれぞれ任命、地方豪族も南朝と北朝に分かれて争い、それぞれが自分の領地としたからである。

 

室町幕府の確立
 足利義満はそれまで朝廷が保持していた権限を幕府の管轄下におき、全国的な統一政権としての幕府を確立した。この足利義満の時代が最も安定し、幕府としての権威も保たれた。
 京都は政権の所在地であるとともに、全国商工業の中心でもあった。それまで朝廷は、京都に検非違使庁を置いての京の市政権を掌握していたが、幕府は侍所の権限を強化し、京都の警察権・裁判権などを検非違使庁から奪うとともに、1393年には市中商人への課税権を確立した。この他にも幕府は、諸国に課する課税収権や外交権などを獲得し、朝廷が保持していた機能を奪った。

 足利義満は動乱のなかで強大となった守護の力を削ぐため、有力守護を攻め滅ぼし、その勢力の削減につとめまた。1390年には、美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる土岐氏を討伐し(土岐康行の乱)、翌年には西国11カ国の守護を兼ね、六分の一衆・六分の一殿(日本六十余カ国の六分の一を持つ一族の意味)とよばれた山名氏一族の内紛に介入して山名氏清を滅ぼした(明徳の乱)。さらに1399年には、6カ国の守護を兼ね対朝鮮貿易で富強を誇った大内義弘を堺で敗死させた(応永の乱)全国的な統一政権としての体裁を整えた。
 足利義満は将軍としてはじめて太政大臣になり、武士としては平清盛に次いで二人目であった。また義満の妻は天皇の准母(名目上の母)となった。義満は出家したのちも幕府や朝廷に対し実権をふるい、義満が死去すると朝廷は義満に天皇の名目上の父として太上天皇の称号をおくろうとしたが、4代将軍義持はこれを辞退した。
 
室町幕府のしくみ  
 幕府の機構もこの時代にはほぼ整い管領(かんれい)の役職を設けた。管領は将軍を補佐する中心的な職で、侍所・政所などの中央諸機関を統轄するとともに、諸国の守護に対する将軍の命令を伝達した。管領は鎌倉幕府の北条家と同じ補佐役で、足利氏一門の細川・斯波(しば)・畠山の3氏(三管領)が交代で任命された。
 侍所の長官(所司)は京都内外の警備や刑事裁判を担当し、赤松・一色(いっしき)・山名・京極(きょうごく)の四職(ししき)から任命された。この三管領・四職がやがて室町幕府を牛耳ることになる。
 また有力守護は在京して重要な政務を決定し、幕政の運営にあたった。一般の守護も領国は守護代に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則だった。
 奉公衆(ほうこうしゅう)とは幕府の直轄軍で、古くからの足利氏の家臣、守護の一族、有力な地方武士などを集めて編成された。奉公衆はふだん京都で将軍の護衛にあたるり、さらに諸国に散在する将軍の直轄領の管理がゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を果たした。


地方の機構
 室町幕府は全国を統一したわけでなく室町幕府を中心に地方分権制度を取り入れたのである。鎌倉は鎌倉府として鎌倉公方(かまくらくぼう)を中心に関東から東北地方の10か国を治め、その地位は京都の将軍と並び関東将軍ともよばれた。足利尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東をとくに重視し、尊氏の子・足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方として鎌倉府をひらかせ、東国(関東8カ国と伊豆・甲斐)を、後には陸奥・出羽の2カ国も支配さた。以後、鎌倉公方は基氏の子孫が受け継ぎ、鎌倉公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)は上杉氏が世襲した。鎌倉府の組織は室町幕府とほぼ同じで、鎌倉公方の権限が大きかったため、やがて京都の幕府と衝突するようになる。
 九州探題は九州の武将を監督する役職で、中国や朝鮮との外交も行った。奥州探題は東北地方の武将を監督する役職である。その他、各地に守護大名が幕府から任命された、この守護大名はしだいに力を持ち自分の領地を幕府から独立して行った。
 奉公衆(ほうこうしゅう)は幕府の直轄軍で、古くからの足利氏の家臣、守護一族、有力な地方武士などを集めて編成された。奉公衆は京都で将軍の護衛にあたるとともに、諸国に散在する将軍の直轄領である御料所の管理をゆだねられ、守護の動向を牽制する役割を果たした。
 
幕府の財政
 幕府の財政基盤は脆弱で収入のほとんどが臨時税に偏っていた。財源の種類として御料所(幕府の直轄領)からの収入、守護の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などがあった。そのほか京都で高利貸を営む土倉・酒屋が負担す る土倉役(どそうやく。倉数に応じて賦課)・酒屋役(さかややく。酒壺数に応じて賦課)、交通の要所に設けた関所からの関銭(せきせん。通行税)・津料 (つりょう。入港税)などがある。また広く金融活動をおこなっていた京都五山の僧侶にも課税した。さらに日明貿易による利益(貿易に従事した商人にも課税し幕府の財源とした。
 また内裏の造営など国家的行事を行う際には、守護を通して全国的に段銭(土地税)や棟別銭(家屋税)を賦課することがあった。

 

南北朝の解決

 1392年、室町幕府(北朝側)は3代将軍足利義満により最盛期を迎えていた。いっぽう南朝はもっとも衰えていた時期で、このようなときに義満は南朝に、「これからは南朝と北朝とで交互に天皇を立てよう。とりあえずは北朝からはじめたいので、天皇の位の証拠になる三種の神器を渡してほしい」北朝の勢力を背景に、南朝の後亀山天皇に吉野から京都にもどるように勧めた。

 南朝の後亀山天皇が京都にもどり、北朝の後小松天皇に譲位するという形で南北朝の合体が実現した。 これにより60年あまりの南北朝の争いはおさまり、内乱に終止符がうたれた。

 和平の条件として両統迭立が約束されたが、もちろん実現することはなかった。三種の神器も一度受け取ったが最後、もう南朝に渡すつもりはなかった。ともあれ足利義満は、一人の犠牲者を出することもなく南北朝をまとめたのである。さらに幕府は南朝の皇族を次々と出家させて子孫を絶った。

 南朝と北朝の争いのため、地方は独立した国のようになっていた。地方でも南朝と北朝の争いが度々起こり、地方の守護は国を守るために自分の領地としていった。動乱が地方まで及んだ背景には惣領制の解体があった。このころ武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家のなかでは嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になっていた。新たな所領獲得が望めない状況下で、従来の分割相続の繰り返しでは所領が細分化するばかりであった。このことは各地の武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝につけば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させていった。

 

朝廷の衰退

 南北朝の戦乱で最も大きなダメージを受けたのは朝廷であった。戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は武家へ移ることになった。さらに武士によって南北朝が統一されたことから、天皇・貴族の力が地に落ち室町幕府の力が高まった。かつて後醍醐天皇は朝廷を日本の唯一の権力にしようとしたが、蓋を開けたら目算が狂っていた。朝廷が2つに分裂し、武士に「大義名分」を与える装置として利用され朝廷の権威は落ちた。

 足利家執事の高師直は「この世に、天皇とか上皇とかいうのがあるから話がややこしい。いっそのこと、まとめて島流しにするべきだ。どうしても必要というなら、木像でも飾っておけばよい」と云った。

 また美濃(岐阜県)の豪族・土岐頼遠は、酔って上皇の牛車に出会ったとき、道を開けるように云われて激怒し、「なに上皇のお通りだと。そうか、犬か。犬ならば射殺してくれる」と叫び、牛車に矢を射掛けた。

 伝統的権威を無視し傍若無人な振舞いをする高師直・土岐頼遠のような者を、当時の言葉で「婆娑羅(ばさら)」といった。

 朝廷は平安時代以来、政治らしい政治をしないで、権威に寄りかかって生きてきた。そしてその権威が無残に崩れ去り、木像や犬に喩えられるまでに落ちぶれたのである。しかし、それに代わる政治的権威が日本にはなかった。足利将軍家は、単なる「農協の親玉」に過ぎない。その足利家が衰退すれば、日本は事実上の無政府状態に転落していく。それが戦国時代であった。

 南北朝時代からすでに戦国時代の芽は生まれていた。各地の武士団は南北両朝を渡り歩き、攻伐を繰り返して領土を増やし、やがて中央の命令を聞かなくなった。山陰の山名氏は日本66か国のうち11か国を領有し「六分の一殿」と呼ばれ、武士団は「大名」へと成長を遂げた。朝廷の権威が崩れ去り、日本全体に「下克上」と呼ばれる風潮が蔓延した。権威に頼らない能力主義が徹底されたのである。

 ただ足利幕府の中興の祖である義満(三代将軍)の登場で、この混乱は一時的に緩和された。彼は将軍家の軍事力を高める政策を強行し、その力を背景に山名氏や土岐氏や大内氏といった巨大武士団を打倒してその勢力を弱めたのである。また義満はジリ貧状態の南朝の天皇家に対して次期皇位を約束するなどのペテンを仕掛けて京都に誘致し、これを軟禁状態に置いて、ようやく南北朝は合体を見たのである(1392年)。

 

自治が進む村々

 室町時代は荘園の力が弱まったこともあり、近畿地方やその周辺地域の村では荘園領主、守護、盗賊に対する自衛のために、次第に村々が自治的あるいは自立的な組織となり、独立的な傾向を示し始めた。農民たちが自治的に運営するようになった新たな村を、惣(そう)あるいは惣村といった。

 惣とは「全体」という意味の言葉で、宮座と呼ばれる神社の氏子組織が中心になった。村の神社の祭礼での寄り合いが、農業の共同作業の相談となり、やがて戦乱への自衛策を通して村人たちの意識が高まっていった。

 このような惣村を構成する村民を惣百姓といい、当初は有力農民である名主を中心にしていたが、次第に一般の農民が荘園の枠を超えて地域単位で結びついた。多くは寄合と呼ばれる寄合の協議に基づいて、乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)、年寄などが選ばれ惣を運営した。寄合では村内の秩序を維持するために地下検断(じげけんだん)と呼ばれる警察機構を行い、村の規則である惣掟を定めたりした。

 もちろん農作業に大切な山や野原などの共同利用地(入会地)の確保や灌漑用水の管理をもおこなった。さらにそれまで守護や地頭が請負っていた年貢を、惣村が一括して行う地下請(じげうけ)も広がっていった。個人で年貢を納入するより村で一括納入したほうが領主に対抗しやすかったからである。

 結束こそが力だった。神社に集まった農民たちが重要なことを決定するときには、神の前で水を飲みまわし(一味神水)結束を高めた。惣による強い団結心を持った農民たちは、折からの下剋上の風潮とあいまって、不法を働く荘官などの役人の免職や、不作の場合の年貢の減免を求め、荘官(荘園の代官)を辞めさせるため正式な手続きを踏まずに荘園領主に押しかけたり(強訴)、拒否されたら全員で耕作を放棄して山林などに逃げ込み(逃散)、さらには武力によって反抗した。これを土一揆というが、土一揆は農民たちの連帯行動であった。

 このような結束力による武力行為は農民だけでなかった。その最大級の一揆が足利義持が亡くなったのをきっかけに起きた。1428年の正長の徳政一揆である。輸送業者である近江(滋賀)の馬借たちが、借金を帳消しにする徳政を幕府に求め仕事を放棄した。これに京都周辺の惣村が呼応して、民衆は京都の酒屋や土倉を襲って質物や借金の借用書などを奪った。この暴動は徳政令と同じ効果をもたらしたため私徳政とよばれた。

 さらに足利義教の暗殺をきっかけに、1441年に発生した嘉吉の徳政一揆も凄まじいもので、数万の民衆が京都を占領して徳政令を要求したため、幕府は徳政令を出さざる得なかった。それどころか幕府は、徳政令を武器に商売を始めた。すなわち借金額の5分の1もしくは10分の1程度の手数料を納めたら「借金を認め、借金を帳消にする」という分一徳政令を出すことになる。

 民衆はしばしば「一揆」と呼ばれる騒動を起こした。徳政令を求めて高利貸しの土蔵を打ち壊し、山城国一揆のように大名同士の戦争に割って入って無理やり停戦させることもあった。このような実力行使は、地侍らの指導によって地方の豪族や惣村の有力者が扇動して行われた。

 勢力を伸ばした惣村は、やがて周辺同士の連合を生み出し、大きな力となって領主や中央政府に向かって牙をむき始めた。一揆の多発は荘園領主や地頭による領主支配の困難を招いた。

 一揆といい倭寇といい、室町時代の日本人は、非常にバイタリティに富んだ、政治意識の高い民族に成長していた。もちろん為政者の立場から見れば、これらは「悪しき下克上」である。この民衆のパワーは民度の向上ではなく、朝廷と幕府が権威を失い無能であることを知っていたからである。自分たちのことは自分たちが行い、防衛し、守るために立ち上がったのである。それは民衆のためという使命感に駆られていた。

 またこの時代は真宗(親鸞)の一派である一向宗などが広まった。鎌倉新仏教系の新興宗教が大ブームとなたのは、政府の無能無策ぶりに不安になった民衆が、せめてもの心の慰めを宗教に求めたからである。

 朝廷の権威が凋落し、室町幕府の機能が衰え、各地で大名同士が私闘を繰り返し、商業資本が「座」という組合を傘に着て搾取を行う時代においては、民衆は政治的にも精神的にも強くならなければならなかった。このような過酷な環境があったので、豊かな日本文化が鍛えられ育まれたのであろう。

 

鎌倉公方
 鎌倉府とは室町幕府の出先機関で、鎌倉公方とは鎌倉府の長官のことである。鎌倉公方は関東8か国と伊豆・甲斐両国を加えた10か国の統治を幕府から委託されていた。つまり鎌倉府は形式的には奥州探題や九州探題などと同様に幕府の地方機関に過ぎなかったが、実際の鎌倉公方は地方機関の長とは言えない程の強大な権限を持ち、守護と関東管領の任免権以外は京都の将軍に匹敵する力を持っていた。
 そのため鎌倉府は、室町幕府とは別の独立した国家的な様相さえ見せ、幕府の忠実な手足となって働くどころか、時には京都の幕府と露骨に対立するようのもなった。つまり室町時代や、その後に続く戦国時代を正確に理解するためには、まず関東公方とは何だったのかを理解しなくてはならない。

 たとえば「征夷大将軍」「執権」「管領」「大老」「老中」「奉行」などの武家政権に於ける役職に比べると「鎌倉公方」や「関東管領」はなじみの薄い役職であるが、それでも関東公方や関東管領を理解しないと中世史を理解することは不可能である。
 鎌倉公方の足利持氏が永享の乱によって自刃した後、鎌倉は将軍足利義教の支配下となり、義教は自らの子を鎌倉公方に据えようとするが、関東管領上杉憲実らの反対で実現はせずにいた。
 1440年、関東が将軍義教の支配下に入ることに不満をもった結城氏は、持氏の遺児安王と春王を担ぎ出し幕府に対して反乱を起こすが(結城合戦)、将軍義教によって鎮圧され安王と春王は殺された。ただ永寿王(成氏)だけは未だ幼児であったということで処分されずにいた。 
 翌年、将軍義教が赤松満祐に暗殺され、結城合戦で処分が下されずにいた成氏は将軍義教の死によって命が助けられ鎌倉公方となった。鎌倉公方の復活は義教の死がなかったらあり得ないことだった。こうして鎌倉公方が復活したが関東管領となった憲忠は、足利持氏の時代に関東管領を務めた憲実の子であったため、成氏を支持する旧持氏派と上杉憲忠を支持する反成氏派の対立を生んだ。
 1450年、山内上杉家の長尾景仲と扇谷上杉家の太田資清によって成氏が襲撃される事件が起きた。成氏は江ノ島に逃れた後反撃し、長尾軍と太田軍を退けた(江の島合戦)。この事件は室町幕府管領畠山持国の調停によって和睦がなったが、長尾景仲と太田資清への処分はなかった。
 翌年、管領が畠山持国から細川勝元に代わると、関東は再び幕府の統治下に置かれることとなる。その後も鎌倉公方と関東管領との対立は続き、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に招き謀殺した。山内上杉家は、憲忠の後継者を弟房顕とし、幕府は房顕援護のために今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた(享徳の乱の勃発)。
 1455年、範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し「古河公方」と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。その後、成氏が鎌倉から離れたことによって、源頼朝以来、武家の街として栄えてきた鎌倉も政治の中心から離れることとなる。1458年、八代将軍足利義政は成氏に対抗するため、異母兄の政知を鎌倉公方として派遣するが、関東の武士には受け入れられなかった。そのため政知は鎌倉に入ることができず伊豆に留まることとなる(堀越公方)。 1497年、幕府と成氏は、関東を成氏が、伊豆を政知が治めることで和睦している。