ジョルジョーネ

 ジョルジョーネ(1477年頃 - 1510年)は、ルネサンス再盛期にヴェネツィアで活動したイタリア人の画家である。本名はジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコで詩的な作風を持つ画家として知られている。

 確実にジョルジョーネの絵画とされる作品はわずかに6点しか現存していない。ジョルジョーネの人物と作品の記録がほとんど残っていないため、絵画の歴史のなかで最も謎に満ちている。
 ジョルジョーネの生涯はほとんど伝わっていないが、ヴェネツィアから40kmほど内陸にあるカステルフランコ・ヴェーネト出身とされている。ジョルジョーネが何歳ごろにヴェネツィアに移住しかについては不明だが、その作風からジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行したとされている。その後一生をヴェネツィアで過ごしている。
 ジョルジョーネの才能は若年の頃から注目され、わずか23歳でヴェネツィア元首の肖像画を描く画家に選ばれている。1504年には、生まれ故郷のカステルフランコの聖堂から祭壇画の制作を依頼され、1507年にはヴェネツィアのドゥカーレ宮殿大ホールの装飾絵画を手がけている。ヴェネツィアの大邸宅でフレスコ画を手がけたとされているが、これらの絵画で現存しているものはほとんどない。

 「ジョルジョーネは非常に魅力的な人物で、その作品には訴求力と創意あふれる美しさがあり、詩的な哀愁がただよう」と当時のヴェ ネツィア人の記録がある。その記録によると、「20年以上前にレオナルドがトスカーナ絵画界に新風を吹き込んだように、ジョルジョーネはヴェネツィア絵画に大きな影響を及ぼした」と評価している。それまでの古典的表現から絵画を解き放ち、より闊達で熟練した芸術へと導いた画家としている。

 500年、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品に影響を受けていたジョルジョーネはレオナルドと出会ったとされている。またティツィアーノと深い関わりがあり、両者ともベリーニのもとで住み込みで修行していた兄弟弟子で、フレスコ画をともに手がけ、ジョルジョーネが制作半ばで早世した後に、それらの絵画をティツィアーノが完成させたてい。
 ジョルジョーネは祭壇画や肖像画に新境地をもたらしている。それまでの絵画に見られた宗教的な意味も古典的な意味も作品に持たせずに、音楽的で叙情的で空想的な表現と色彩で対象を描いた。その天与の才能で同時期の芸術家たちを圧倒し大きな影響を与えている。
  ジョルジョーネは腺ペストに感染し、1510年10月に死去している。ジョルジョーネの名声と作品は、後世の人々をも魅了し続けている。しかしジョルジョーネの影響を受けた画家たちの絵画と、ジョルジョーネ自身が描いた真作とを正確に見分けるのは非常に困難で、100年ほど前にジョルジョー ネ風絵画のほぼ全てを精査しているが、現存する作品で間違いなくジョルジョーネの真作はわずかに6点だけとする研究者がいる。

ラウラ
1506年
ウィーン 美術史美術館

 純潔のシンボルである月桂樹を背景にした年若い花嫁と思われる女性の肖像画で、結婚式に用いるベールをかぶった姿で描かれている。はだけた毛皮の外套の下からのそいている乳房は愛と誘惑、豊潤と多産を意味している。一方で、花嫁ではなく高級娼婦が描かれているという説もある。伝統的なヴェネツィア絵画では「ラウラ」は娼婦を暗示しているからである。ジョルジョーネ作とされる絵画には様々な異論があるが、まず間違いなくジョルジョーネの作品であるとされている数少ない絵画である。

カステルフランコ祭壇画
1503年頃 200×152cm | 油彩・板 |
サン・リベラーレ聖堂(カステルフランコ・ヴェーネト)

 祭壇画の典型である玉座の聖母子に聖人を配し、本作では聖堂の名称ともなっている同地の守護聖人リベラーレと、イタリア生まれの聖人フランチェスコが描かれている。

 高い位置に聖母子の姿が描かれており、聖母子、特にキリストの神秘性、神聖性を強調するためとさられている。また聖堂を守護する聖人リベラーレは守護する者として魔を退ける力を持つ銀の甲冑を身に着け、左腕には正旗を掲げている。聖フランチェスコは、アッシジの裕福な商人の家に生を受け、若き頃の放縦な日々を猛省し、清貧・童貞・服従を旨とする修行と伝道の生活を送り続け、フランシスコ会の創始者となった聖人である。

眠れるヴィーナス
1510年頃 108.5×175cm | 油彩・画布 | 
ドレスデン 国立絵画館

 発見時はヴェネツィアの貴族邸が旧蔵していたが未完の作品であった。後に「ウルビーノのヴィーナス」を制作したティツィアーノが描き完成させられたとされている。穏やかな表情で眠りにつくヴィーナスは金星を意味し、愛と美の女神として知られるヴォーナスだが、この名称はローマ神話に基づくもので、ギリシャ神話ではアフロディーテとして名が知られている。この柔らかい曲線と色彩で描かれたヴィーナスの裸体の表現は、新古典主義最後のアングルやカバネルなど画家を始め、後世の画家らに影響を与えた。

ユディト
1504年頃 144×66.5cm | 油彩・板 (画布) |
サンクトペテルブルク エルミタージュ美術館

 第二正典に記される。第二正典とはカトリックや東方正教会などで正典とされるが、一部を除いたプロテスタントでは正典に組み込まれていない書物を指し旧約続編、旧約外典と呼ばれている。

 ユディト記はそこの書かれているが、女性ユディトの深い信仰心を描いた架空の物語とされている。アッシリアの将軍ホロフェルネスが侵攻するも、ユディトが将軍ホロフェルネスの気を惹かせる為に近づき、酒宴に招かれたその夜に酔いつぶれた将軍の首を切り落とし街を救うというものである。

 信仰心の深いユディトは悪をい将軍ホロフェルネスの首を踏み、右手には勇敢にもその首を切り落とした剣が握られている。ジョルジョーネの大きな特徴である色彩の豊かさは褪せているものの、均整のとれた構図や人物描写など見所は多い。またユディトが踏んでいる切り落としたホロフェルネスの顔はジョルジョーネ本人の自画像とも言われている。

 嵐(テンペスタ)
508年頃 82×73cm | 油彩・画布
ヴェネツィア アカデミア美術館

 本作は嵐と呼ばれているが、発見時に「嵐とジプシー女と兵士を描いた風景」と書かれていたからである。描かれているのは、古代神話説、旧約聖書説、聖人説(聖テオドロス)、文学説、寓意画説など20以上の説があり確証には至っていない。母子像の解釈だけでも羊飼いの妻、ゼウスの妃ヘラの女神官、アダムの妻エヴァ、娼婦などの解釈が挙げられている。またX線撮影の検査では、画面中左図の場所に水浴する二人の女性が描かれていたことが判明し、本作の解釈をより難解にさせている。

モーゼの火の試練
1500年頃
フィレンツェ ウフィツィ美術館

田園の合奏
1509年頃
パリ ルーブル美術館

羊飼いの礼拝
1505年頃 89×111.5cm 油彩・画布 | 
ワシントンナショナル・ギャラリー

 羊飼いたちが、天使からのお告げを受けキリストが誕生したベツレヘムへ向かい、同地で聖母と幼子キリストを発見した場面である。ジョルジョーネは聖母マリアの慈愛に満ちた微笑みを、情景豊かな美しい風景の中に描くことで人物の感情を表現している。幼子キリストは聖母マリアに抱かれる姿ではなく大地の上に描かれ、キリストの神聖性を表現したとされている。羊飼いたちがベツレヘムの大地に身を寄せる聖母マリアと幼子キリストを発見し、跪いて尊譲と祝福の意を表す。その後羊飼いたちは神を崇め賛美する歌を歌いながら帰路についたとされている。別名アレンデールの降誕と云う。

風景の中にいる三人の哲学者
1507年頃 123.5×144.5cm | 油彩・画布
ウィーン美術史美術館

 ヴェネツィア貴族邸に旧蔵されていた未完の作品で、セバスティアーノ・デル・ピオンが完成させたとされている。本作の主題は東方三博士(マギ)を描いたとされる説。青年から成人、そして老人へと至る人生の寓意を描いたとされる説。諸哲学における流派の寓意を描いたとされる説など、さまざまな解釈が出ているが確証はない。本作の美しい夕暮れの風景(又は日の出風景)からも、ジョルジョーネは風景画などでも名を残している。

日没
1500年 - 1510年
ロンドンナショナル・ギャラリー

東方三博士の礼拝
1500年 - 1510年
ナショナル・ギャラリー(ロンドン

矢を持つ少年
1506年頃
ウィーン 美術史美術館

歌 手
1508年 - 1510年頃
ローマ ボルゲーゼ美術館

リトラット・ジュスティニアーニの肖像
1503年頃
ベルリン 絵画館

ヴェネツィア紳士の肖像
1508年頃
ミュンヘン アルテ・ピナコテーク

男性の肖像
1508年頃
カリフォルニア サンディエゴ美術館

若者の肖像
1510年頃
ブダペスト 国立ブダペスト美術館

老 女
1500年 - 1510年
ヴェネツィア アカデミア美術館

 老婆は苦痛に満ちた表情で何かを訴えかけている。手に持った紙片には、「時は流れて」と書かれている。この絵の意味を「老年の悲哀と苦痛」の具象化としている。