アルフォンス・ミュシャ

アルフォンス・マリア・ミュシャ

 ミュシャ(1860年7月24日-1939年7月14日)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナーである。多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花などの様々な概念を女性の姿を用いて表現する形式で、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。

 イラストレーションとデザインの代表作として「ジスモンダ」「黄道12宮」「4芸術」などがあり、絵画の代表作として20枚から成る連作「スラヴ叙事詩」が挙げられる。

 オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェに生まれ、ブルノ中学校に入ると教会の聖歌隊となり、合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵を得意とした。学業不振により中学校を中退し、声変わりにより聖歌隊をやめると地方裁判所の書記として働き始める。しかしデッサンに励みプラハの美術学校をめざした。受験には失敗するが、19歳でウィーンに行き、舞台装置などを製作する工房で助手として働きはじめる。しかし2年後、工房の最良の顧客であった劇場の火災にともない仕事が激減、解雇されてしまう。その後、南モラヴィアのミクロフの町で肖像画を描いて生計を立てたが、1883年に地元のクーエン・ベラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる。25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学し、卒業するとパリにてアカデミー・ジュリアンに通う。

 出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターである。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注する事になったが、主だった画家は休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャに飛び込みで依頼したのだった。威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、文字通り一夜にしてミュシャのアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした。

 またベルナールにとっても、この「ジスモンダ」がフランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなった。その後もミュシャは「椿姫」「メディア」「ラ・プリュム」「トスカ」などベルナールのポスターを制作している。さらに煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)など多くのポスターを制作している。これらは女性と、様式化された装飾の組み合わせが特徴的である。

 ポスターに並び装飾パネルも数多く手がけ、2点から4点のセットの連作が多く、いずれも女性の姿を用いて様々な寓意を表現している。

 出世作は突然やってきた。無名のミュシャが一夜にてスターになったのである。そのようなシンデレラ・ストーリーが現実になった

 1894年のクリスマスの日、女優サラ・ベルナールが正月公演のために演じる「ジスモンダ」のポスターの制作依頼が印刷業者にあった。あいにくの年の瀬で、画家は休暇でパリにおらず、印刷所に残っていたのはミュシャだけだった。ミュシャはそれまでポスターを作った事がなかった。しかしミュシャは劇場でサラをスケッチすると、ビサンチン風のポスターを作り上げた(左)。

 女性、花、エキゾチック、威厳に満ちた女優サラのポスターがパリの街中に張り出された。細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は大好評を博し、文字通り一夜にしてミュシャはアール・ヌーヴォーの旗手としてその地位を不動のものとした。それまで地道な仕事をしていたミュシャは、突然売れっ子のポスター作家として脚光を浴びたのである。

 女優・サラベルナールにとっても「ジスモンダ」のポスターがフランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなった。その後もミュシャは「椿姫」「メディア」「ラ・プリュム」「トスカ」などベルナールのポスターを制作た。彫刻家でもあった女優・サラとの交流を通して、ミュシャの芸術表現も成長した。

 さらに煙草用巻紙、シャンパン、自転車など多くのポスターを制作している。ポスターとともに装飾パネルも数多く手がけ、2点から4点の連作が多い。いずれも女性の姿を用いて様々な寓意を表現している。


四芸術 ダンス、絵画、詩、音楽

1899年 60 x 38 cmカラーリトグラフ(サテン・エディション) 

 西洋美術には寓意画というジャンルがある。シンボル(象徴)は仏教美術をはじめ日本美術にも頻繁に登場するが、いわゆる擬人化の手法を用いた抽象的な概念(愛、正義、運命、時間など)を表す寓意画は西洋特有である。これらの作品も様々なジャンルの芸術を擬人化したもので、ダンス、絵画、詩、音楽は4点で1セットになっている。「絵画」の場合、伝統的にはパレットや絵筆をもった人物が登場するが、ここでは若い女性が赤く咲く花をじっと見つめているだけである。絵画とは「自然の模倣・再現」とされてきたので、この花は画家が模倣すべき自然のシンボルとして登場している。

 ヨーロッパの美術史からすると、ミュシャが活躍した時期はめまぐるしくスタイルが変化する「イズム」の時代であった。しかしミュシャが求めたものは「芸術のための芸術」の追求ではなく普遍的な美を表現することだった。一点物の高価な美術品は貴族や富裕階級のものだったが、大量生産されたミュシャのパネル画は買いやすく、一般家庭の居間にも「美」をもたらすことができた。ミュシャにとって芸術家とは、美で大衆を啓蒙し、彼らの生活の質を豊かにすることだった。

 

 ミュシャには「アール・ヌーヴォーのプリンス」、「ベル・エポックの寵児」、「世紀末のサクセス・ストーリー」といったイメージがつきまとうが、チェコ民族復興運動のさなかに生まれ育ったミュシャにとって、チェコ人としてのアイデンティティと祖国愛は、生涯変わらぬ精神的支柱であった。

 10代で画家になることを決意した時から、画業を通して祖国のために働くことを夢みた、スラヴ民族に深い思いを抱く熱烈なナショナリストであった。パリでの華やかな成功と名声に甘んじることなく、第一次大戦の勃発(1914年)とほぼ同時に祖国に帰り祖国の復興に尽くし、貧しく恵まれない人々のためのポスターや、新生チェコの切手、紙幣などのデザインを(ノーギャラで)引き受けた。

 第一次世界大戦後、ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国の崩壊してチェコスロヴァキア共和国が成立する。ミュシャはスラヴ人としてのアイデンティティから民族愛や愛国心を高めてゆく。

 その思いが一連の大作「スラヴ叙事詩」である。20点の絵画から成るこの一連の作品は、スメタナの組曲「わが祖国」から着想し、スラヴ民族の歴史を描き完成まで20年という歳月を要している。またこの時期、ミュシャはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市民会館のホールの装飾等も手がけている。

 1939年、祖国独立から20年後、プラハに侵入してきたドイツ軍によって逮捕され健康を害し、2度目の大戦前夜に78才の生涯を閉じました。下記の「スラヴ叙事詩」からミュシャが思い描いた民族愛や平和へのメッセージを読み取ることができる。