平城京

奈良時代

 710年、元明天皇は手狭になった藤原京から京を奈良の平城京へ移された(710:納豆食べて平城京、なんときれいな平城京)。これ以降、桓武天皇によって平安京(京都)に遷都されるまでの74年間を奈良時代という。

 平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たし、平城京は唐の首都である長安にならい、碁盤の目状の道路で整然と区画されていた。藤原京と同じく南北中央に朱雀大路があり、この朱雀大路で左京・右京を区切り南北を坊、東西を条に区切った、左右対称の方形の都市が完成した。

 天皇の住居や役所のある「宮」と、役人たちの生活する家を含めた全体を「京」と呼び、横に出っ張っているのは「外京」と呼ばれ、その端には東大寺があった。平城京は貴族などの邸宅のほか、飛鳥から移された大安寺や薬師寺などの寺院があり、さらに官営の市が設けられ大いににぎわった。政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市で、市は朱雀大路を挟んで左京(さきょう)と右京(うきょ う)に分かれ、それぞれ東市・西市と呼ばれ、地方の特産物や官吏たちに現物給与された布や糸などが交換されていた。

  左の建物は朱雀門(すざくもん)で、平城京内裏の南の正門になる。朱雀とは中国の伝説上の神鳥を意味しており。南方を守る守護神とされている。

  平城宮の正門にある朱雀門と向き合う形で、4km先の平城京の入り口には羅生門がある。この朱雀門と羅生門をむすぶのが朱雀大路で、朱雀大路の幅は約75mでまっすぐにのびていてる。

 復元された朱雀門は高さは20m、間口25m、奥行き10mの壮大な二重門として蘇り、朱塗りの柱と白壁が美しい。朱雀は南を守る意味であるが、残りの三方にも、東を青龍、西を白虎、北を玄武(霊獣)が守護神になっていて、これらを四神と呼んでいる。

奈良時代の政治

 平城京は宮廷内抗争が相次ぎ、専制君主としての天皇の権威は揺らぎ、藤原氏(中臣鎌足の子孫)に代表される有力貴族が台頭することになる。聖武天皇による東大寺や国分寺の建立は国威高揚のみならず、天皇に寄生する貴族の利権がからんでいた。また称徳天皇と怪僧・道鏡のスキャンダルも、その根底には藤原氏と橘氏(道鏡の出身氏族)の覇権闘争が隠れていた。

和同開珎 

平城京遷都直前の708年、武蔵国の秩父から良質の銅が朝廷に献上され、これを記念して年号が「和銅」と改め、それまの富本銭から全国への普及を目指して和同開珎が鋳造され。朝廷は銭貨の流通を目指し、712年に蓄銭叙位令を出した。この蓄銭叙位令は貯蓄額に応じて位階を与える施策であるが、銭貨は都や畿内などで流通したものの、地方では相変わらず稲や布などの物物交換が行われていた。 和同開珎の後も、958年に発行された乾元大宝(けんげんたいほう)まで12回にわたって銅銭の鋳造が続けられ、これらを皇朝十二銭、または本朝十二銭という

交通制度

 中央と地方とを結ぶ交通制度は、都を中心に幹線道路(官道、駅路)が整備され、駅家(うまや)が設けられた。駅家には駅馬(えきば)が置かれ、公用旅行のパスポートである駅鈴(えきれい)をたずさえた役人が利用した。
 地方の国府には様々な設備が設けられ、地方の政治や経済の中心地となった。また国府の近くには国分寺が建立され文化の中心になった。
 鉱山開発や農具の改良、それに伴う農地の拡大や織物技術の向上による生産性の増大などで国力を充実させた。政府は奥羽地方の経営と蝦夷(えみし)の平定を進め、7世紀には日本海側に渟足柵(ぬたりのさく)や磐舟柵(いわふねさく)を設け、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣した。712年には日本海側に出羽国が置かれ、733年には秋田城が築かれた。また724年には太平洋側に陸奥国の国府となる多賀城が築かれ、秋田城とともに政治や軍事の拠点となった。九州南部では隼人(はやと)と呼ばれた人々を服属させ、713年には大隅国を設置して種子島や屋久島などの南西諸島も服属させた。

 しかしながら奈良時代は全国で凶作と疫病が流行し、和歌に謡われるような美しい時代ではなかった。それでも「万葉集」のような優れた詩集が成立したことは特筆するに価する。万葉集には天皇から農民まで、あらゆる階層の人々の暮らしが詠まれ、世界に誇れる文化事業であった。当時の日本人が、いかに言葉による力「言霊」を大切にしていたかが分かる。奈良時代は仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時代である。

  聖武天皇は短期間であるが恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)、長岡京にそれぞれ宮都を遷したことがある。

 

奈良時代の生活

 「あおによし、奈良の都は咲く花の におうがごとく 今 さかりなり」これは万葉集で小野老(おゆ)が平城京の美しさを詠んだ歌である。このように美しい都とは裏腹に、奈良時代の平民は貧しい生活であった。

 平民は良民と賎民にわけられ、賎民には自由がなく、賎民の中の奴婢とよばれた者は売買の対象になった。

 奈良時代の都の住む人々はそれまでの竪穴住居に代わって平地式の掘立柱の住居になったが、農民たちは竪穴住居のままであった。当時の結婚は男性が女性の家に通う妻問婚で、結婚後に自らの家を持つようになった。

  当時の農民は重税のため苦しい生活で、班給された口分田を耕作し、口分田以外の公の田である乗田(じょうでん)や寺社や貴族の土地を借りて耕作していた。これを賃租(ちんそ)というが、賃租は原則として1年間土地を借りて、収穫の2割を地子(じし)として持ち主に納めなければならなかった。農民の生活は庸や調、雑徭の税に加えて兵役の負担が重く苦しかった。疫病の流行や凶作の影響から、口分田を捨て逃亡する者が後を絶たなかった。

 農民にとって口分田を捨てて豪族や貴族の下で暮らすほうが、税の義務を果たすよりも楽であった。女性の方が男性より税の負担が軽かったので、男が女性と偽る者も増え、僧侶には課税されなかったことから勝手に出家する農民もいた。

 また人口の増加により口分田が不足し、公地公民制や班田収授の基礎が揺らぎはじめた。このため722年に百万町歩の開墾計画を立てるが失敗に終わった。政策があっても農民に利益がなければ行動しないのが人の常である。開墾計画に失敗した政府は、翌723年に三世一身法を施行した。これは新たに未開地を開墾した場合は三世にわたり田地の保有を認めるものであったが、それでも開墾は進まなかった。三世の間は所有を認められても、いずれは国に返還しなければならないため、二の足を踏んでしまったのである。自分が開墾した土地は、自分の子孫に残すのが農民の願いであった。
 743年、墾田永年私財法が施行され、開墾した田地を無期限に所有できるようになった。これにより農地の開拓は増加したが、私有地の拡大が進んだことから公地公民制の根本を揺るがすことになった。有力な貴族や東大寺などの大寺院は、地方の豪族と協力して広大な山林や原野の開墾を進め私有地を拡大した。これが初期の荘園である。

 

公地公民の崩壊

 「土地と人民は天皇のもの」とする公地公民制は、天皇を頂点としたピラミット型の国造りの根本であった。しかし中央集権国家としての日本は、まもなく行き詰まることになる。それは新田開発を国家事業とせず、開墾地の開墾を豪族などに任せ、開墾者に特典を設けたからである。開墾地の私有化が進んだ(墾田永世私財法)ため公地公民制が崩れたのである。

 公地公民制は全ての土地と人民は天皇のものとする制度であり、中央集権国家を維持するために不可欠な制度であった。この公地公民制は「国民が国から土地を借り、地代として税金を払う」ことである。この考えは聖徳太子の時代からのものであった。

 6歳以上の男子には約24アール、女子には約16アールの土地が貸し出され、その土地での耕作が認められた。土地の売買は禁止され、死後は国に土地を返す決まりだった。ところが奈良政府が私有地を認めたため、この国家の原則を覆すことになった。

 例外的存在であった私有地は爆発的に広がり、貴族や寺社がこれに便乗した。彼らの私有地が「荘園」で、国有地に別荘を造り、その周囲の田地を別荘用地として税吏の介入を拒んだ。これを最初に行ったのは藤原氏で、一度認めた例外はやがて恒常化し、しかも上の者がやる事は下の者たちも見習うことになる。

 農民は口分田を捨て、性別を偽り、にわか僧侶になり公民制は崩壊した。農民が捨た土地は荒れ放題で、人口が増えて土地不足していたのに荒れた土地ばかりが増え税収も減少した。

 

遣唐使(630~894)

  618年、隋にかわって唐が中国を統一した。唐は律令制度を基盤とする大帝国で周辺諸地域に大きな影響を及ぼした。インドやペルシアなどの国々と交流して富を蓄え、都の長安は国際都市の様相を呈した。

遣唐使の派遣

 唐の制度や文物を輸入するため、日本から外交使節団が派遣された。630年に第1回の遣唐使として犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣され、894年に菅原道真の建議で停止されるまで、10数回にわたって派遣された。8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。

 遣唐使には留学生・学問僧なども加わり、200人から500人にも及ぶ人々が4隻の船に乗って海を渡った。4隻の船に分船したことから、遣唐使船は「四つの船」の別称がある。複数の船で渡海したのは、当時の造船・航海の技術が未熟だったため海上での遭難が多かったからである。4隻で行けば1隻は無事に到達できるだろうとしたのだった。事実、8世紀に新羅との関係が悪化すると、朝鮮半島の西岸沿いを北上して山東半島から入唐する安全な北路を通れず、五島列島から直接東シナ海を渡る南路にコース変更され遭難が増加した。

 東シナ海は夏から秋にかけては台風、晩秋から春先にかけては季節風と、1年中海の難所であった。東シナ海の横断は危険で、唐に行くにはこの東シナ海を渡らなければならず「百に一度も辿りつかぬ」と井上靖の「天平の甍」に書かれている。

 阿倍仲麻呂

 遣唐使として唐に渡った者の中には、阿倍仲麻呂のように帰国がかなわず、異国の土になった人もいた。仲麻呂は優秀で、王維・李白らとも親交があり、玄宗皇帝に仕えて政府高官になった。753年に56歳になった阿倍仲麻呂は、日本に帰る遣唐使とともに帰国を試みたが、途中で暴風にあって船は吹き戻されベトナムに漂着した。阿倍仲麻呂は一命をとりとめたが、帰国を断念することになった。

 「古今和歌集」の巻9に収められている「天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山にいでし月かも」の和歌は、帰国の途につく阿倍仲麻呂が送別の宴の席上で、30年前の日本での送別の情景を思い出して詠んだものである。

 このように東シナ海を横断するのはたいへん危険だったため、遣唐使の任命を拒否する者もいた。たとえば小野篁(たかむら)は病気と称して渡航しなかったため流罪に処せられている。

 多くの人々は先進の制度や技術・国際文化などを学びたい気持ちから航海の危険を冒して東シナ海を往来した。このようにして遣唐使が唐から持ち帰った先進的な制度・技術・文化はわが国に大きな影響をあたえた。

 帰国した人びとの中には吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)のように、聖武天皇に重用されて政界で活躍する者がいた。

 日本人留学生の墓誌

  2004年、中国西安市で日本人留学生の墓誌が発見された。西安はかつて唐の都長安があった場所で、墓誌は一辺が39cm正方の石の表面には171の文字が刻まれていた。この墓誌は「井真成」という留学生のもので、「井」は日本の姓を中国風に一文字にしたもので、「真成」は本名とされる。その墓誌には井真成が日本の留学生で優秀な人物だったこと、734年に36歳で死去したこと、玄宗皇帝がその死を悼んで「尚衣奉御」の官職を贈ったことが刻まれていた。皇帝が死後に官職を贈るこはきわめて異例のことで、よほど優秀な人だったのだろう。

新羅・渤海との交渉

 唐と同盟を結んだ新羅は、660年に百済を、668年には高句麗を滅亡させ、さらに唐を追い出し朝鮮半島を統一した。

 新羅は唐を牽制するために、日本と同盟を結ぼうとし、日本に臣従の態度をとり貢調使を派遣した。しかし733年、唐と新羅の関係が改善したため、日本に臣従する必要がなくなり、新羅は日本に対等な国交を要求してきた。

 日本はこの要求を認めず、新羅からの贈り物の受け取りを拒否し、新羅に非礼な態度をとった。753年には唐朝の元旦の儀式で、遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅使と席次を争い、新羅の席次を下位に引きずりおろした。あくまで日本は新羅の上位に立とうとした。

 そのため新羅との関係は悪化し、一時は藤原仲麻呂が新羅攻撃の計画を立てるほどであった。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまれになったが、商人たちの往来はさかんだった。正倉院には新羅からもたらされた物品に対する貴族たちの購入希望の書が残されている。これによると東南アジアやインド等で産出される物品も含まれており、新羅商人の交易活動が広域にわたっていたことがわかる。

 渤海(ぼっかい)との交渉

 713年、中国東北部に建国された渤海と頻繁な使節の往来があった。渤海は、698年にツングース系靺鞨族と高句麗遺民によって建てられた国で、建国者の大祚栄(だいそえい)が、713年に唐の玄宗皇帝から渤海郡王に冊封され渤海を国名とした。9世紀には「海東の盛国」と称されるほど繁栄したが、926年に契丹(きったん)によって滅ぼされた。

 渤海は唐・新羅との対抗関係から 、727年にわが国に通交を求めてきた。日本も新羅と対抗関係にあったため渤海とは友好的に通交した。渤海使の来日は、727年から919年の間に34回に及んだ。渤海使を迎える客院は加賀国(能登客院)と越前国(松原客院)に置かれた。

 最初は政治的意味合いが強かったが、後には貿易が主になった。渤海からは貂(てん)や大虫(虎)の毛皮、薬用人参、蜂蜜、宣明暦、仏典などが輸入され、日本からは絹、金、水銀、漆などが輸出された。渤海の宮都跡から和同開珎が出土していが、これも両国の交渉の歴史を裏付けている。