奈良大仏

聖武天皇

 奈良の大仏は世界一の大きさだった。超大国の中国・唐にもない世界最大の仏を途上国の日本が作ったのである。莫大な費用と、高度な技術を要する世界最先端のハイテク建造物であった。

 聖武天皇は、743年に金銅仏鋳造の詔を出した。この詔は仏教の力を借りて天下を安泰にして、国民を幸福にするために大仏を建立することであった。この2年前の741年には、朝廷は厄災のために全国各地方に国分寺・国分尼寺を建立する詔を出し、全国的にエ事に取りかかっていた。国分寺・国分尼寺の建立だけでも大変な事業なのに、さらに大仏をつくろうとしたのである。

 ちょうどこの時代は、凶作・飢饉・地震・疫病とさまざまな災害が頻発して、国家財政は極めて苦しかった。それにもかかわらず聖武天皇はこの難事業を強行したのである。強行するにはそれなりの理由があった。

 藤原不比等は自分の娘を聖武天皇の皇后にしたかったが、藤原氏は皇族ではないため娘は皇后にはなれなかった。この皇室の資格を主張して反対したのが長屋王であった。このような時、聖武天皇と藤原不比等の娘との間に子供ができ、聖武天皇様も藤原不比等も大喜びであったが、しかし子供は1歳にもならないうちに亡くなってしまった。すると藤原四兄弟は「長屋王が呪い殺した」などとあり得ない事を言いふらし、ついに長屋王は自殺してしまう。

 729年に謀反の罪で自殺を強いられた左大臣長屋王は安積親王に次ぐ皇位継承者であったが、藤原氏は藤原系以外の天皇を認めなかった。当時の政権を牛耳っていたのは藤原4兄弟で、藤原4兄弟はこの「邪魔者・長屋王に無実の罪」をきせて、この世から葬り去ったのである。これが長屋王の変である
 長屋王いなくなると、反対勢力がいなくなった藤原4兄弟は、 聖武天皇の皇后に娘の藤原光明子光明皇后)を嫁がせた。藤原光明子(光明皇后)は皇族以外から皇后になつた初めての女性となった。

 ちょうど同じ頃、聖武天皇の別夫人・県犬養広刀自が安積親王を産んだが、藤原氏の血を引いていないため、藤原氏にとって聖武天皇の後継者に安積親王はふさわしくなかった。朝廷を牛耳っていた藤原4兄弟は、藤原一族の繁栄から持統天皇系の男子と藤原系の女子の間に産まれた子どものみが皇位継承すべきとしていた。

 しかし肝心の光明皇后は男子を授からず、しびれをきらした聖武天皇は、光明が産んだ長女阿倍内親王を皇太子に指名したのである。これまで女性の天皇は何人かいたが、女性の皇太子は前代未聞であった。この女性皇太子が、後に道鏡とのスキヤンダルで脚光を浴びることになる称徳天皇(孝謙女帝)であった。

 ところがこの時期、都に異変が起こり始めた。災害が起こり、天然痘が流行った。藤原4兄弟も次々に天然痘で死んしまい、これは「長屋王の呪い」であると朝廷は大慌てで遷都をしたが、それでも災いは治まらなかった。朝廷もどうして良いのか分からず宗教に頼り、国分寺や国分尼寺を建て、さらに長屋王の呪いから「奈良の大仏」がつくられたのである。 宝物を納めておく有名な正倉院もこの時に造られている。

 藤原氏が恐れたのは阿倍内親王の存在であった。聖武天皇の仏教への傾倒を恐れた阿倍内親王は、熱心な仏教信者である光明皇后とその背後に君臨する藤原氏を警戒した。阿倍内親王は聖武天皇に働きかけて雖波遷都を実現し、聖武天皇を藤原氏から切り離し、安積親王の擁立を考えていたのである。

 安稂親王に脅威を感じた藤原氏は、皇位継承問題に断を下すことになる。それが安稂親王の死であった。安積親王の死は「脚病」とされているが、藤原氏に暗殺されたと考えられている。

 怨霊封じのための大仏

 続日本書紀では、光明皇后が国分寺分と東大寺の造営を発案し、東大寺・大仏の造営は聖武天皇と光明皇后の合作としている。光明皇后が国分寺・国分尼寺の建立を聖武天皇に勧め、工事が未完成のうちに大仏の造立を聖武天皇に強く勧めたのである。

 光明皇后が大仏の建立にこだわったのは、跡継ぎの子が生まれず、皇后の兄(藤原4兄弟)が天然痘で死去したことがあった。また皇位継承のために長屋王を滅ぼし、さらに大津皇子、高市皇子らを抹殺した祟りが災いを引き起こしたとしたからである。天災や疫痫への恐怖、さらには怨霊の恐怖、この怨霊封じのために奈良の大仏が造営されたのである。

 743年、聖武天皇は大仏造立の詔を出し、行基をはじめとした多くの人びとをこの大事業に参加させた。

それまで行基は小僧行基とよばれ、朝廷から
罵られ弾圧されてきた。それは国家統制の枠組みに入らず、自らが民衆に禍福を説いたからである。しかし行基は橋をかけた、池を掘り、運脚らを救うために布施屋を作ったり、社会事業に取り組んんでいた。ことから民衆から行基菩薩と呼ばれ絶大な信頼を集めていた。この行基の民衆結集力を、朝廷は大仏造立のために利用したのである。行基は大僧正に任命され、大仏造立に協力することになる。

聖武天皇の詔
 聖武天皇は次のような詔を出している。
「万代の福業をおさめて、動植ことごとく栄えむとす」。これは人間だけでなく、動物も植物も、みんなが栄える世にしたい。だから大仏造立を決意したという意味である。さらに詔は続く。
「天の下の富を有つは朕(われ)なり。天の下の勢(いきおい)を有つ者は朕なり。この富と勢をもって、この尊き像を造らむ。事成り易く、心至り難し」。

 こては、天下の富と権力を持つのは私なのだから、その富と権力で大仏を造ることができる。しかし富と権力で大仏を造るのは簡単だが、それでは心がこもらない。だからそれではいけない、と聖武天皇は述べているのである。
 つまり「大仏造立に関わる人は、一人一人が自分の盧舎那仏を造るつもりでいなさい。造っている最中から日に三度、盧舎那仏を拝みなさい。さらに「人有(あり)て、一枝の草、一把(にぎり)の土を持ちて、像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」。このように「もし誰かが一枝の草や一握りの土を持ってきて、自分も大仏造立を手伝いたいと言うならば、これを許す」と言っているのである。
 力もない、お金もない、でもみんなを幸せにする事業に自分も関わりたい。そういう人たちを聖武天皇は願っていたのである。そういう人たちの力を結集して造らなければ大仏を造る意味がないとした。「責めは予(われ)一人にあり」。これは、政治に問題があるから災厄がおきるのであり、人々の苦しみは私一人のの責任である。人々を幸せにしたいために大仏を造るのである、という意味である。

開眼供養

 

752年4月9日、大仏の開眼供養が盛大に行われた。開眼供養とはできあがった仏像の眼を書き入れる儀式で、仏像の完成式典である。ちなみに大仏の正式名称は「奈良の大仏」ではなく「盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)」という。盧舎那仏という仏様が座している像のことである。大仏は華厳経の本尊で、この盧舎那仏は光明遍照を意味し、つまり盧舎那仏は太陽神崇拝から考え出された仏であり、大乗仏教では仏法そのものとされている。

 

大仏を安置する東大寺の正式名は「金光明四天王護国之寺」で、これは全国に造られた国分寺と同じ名称である。つまり東大寺は全国に置かれた国分寺の総本山 で、奈良の大仏は各国の国分寺に安置されている丈六仏(釈迦如来像)を総じる役割を担っていた。聖武天皇は社会不安に動揺する民衆を、盧舎那仏と諸国の丈六仏を結ぶ仏法のネットワークによって押さえ、攘災招福をはかろうとしたのである。



 749年、陸奥国で黄金が発見されると、聖武天皇はこれを瑞祥として年号を「天平感宝」にして、娘の阿倍内親王に天皇を譲位して孝謙天皇が誕生した。さらに聖武太上皇は出家して法名を勝満としている。

 

752年4月9日、孝謙天皇によって大仏の開眼供養が盛大におこなわれ た。聖武太上皇、光明皇太后をはじめ、インドや唐の僧ら1万人以上が参加した。眼を書き入れたのは菩提僊那(ぼだいせんな)というインドの高僧で、筆には長い紐が付けられていて、参列者たちはその紐を握ることによって仏との縁を結んだ。ベトナムの音楽(林邑楽)を奏でるなかで行われた。

 ちなみにこの時に使われた紐や筆は今も正倉院に残されている。

大仏の作り方

 大仏作りには高度な技術や260万の人々の力を集め、5年もの歳月を費やした。このことから聖武天皇の力や仏教を重んじる心が理解できる。

 どのようにして建造したのかを紹介する。

 (1)まず山を削って、土地を平らに固める。その上に木の支柱を作り、枝や縄を巻きつけて大まかな大仏の骨組みを作る。この骨組みに粘土をかぶせて大仏の原型を整え乾燥させる。これが原寸大の大仏模型(原型内型)となる。模型といえど原寸大であるため、この時点ですでに作業はかなり巨大になる。

(2)この内型の大仏に雲母の粉をふりかけ、ここから型を取るために、模型の外側に再び粘土を塗る。今度は40~50センチくらいの厚さに塗って、それが終わると再度乾燥される。これが外型となる。
(3)外型の大仏の粘土が乾いたところで、出来た型は各部分に切り分けて外しておく。そして剥がした型を焼き上げると外型の部分ができる。ここで原寸大の大仏模型(原型)内型のみが残される。
(4)次に原型の表面を5センチくらい削る。これで外型との間に5センチの隙間ができる。
(5)この内型に外型をはめ込み、まわりを土で囲む。このすき間に高温で溶かした銅を流し込み下の部分から段階的に組み立てる。銅を流し込んだら完全に固まるまで待ち、この作業を繰り返す。

 つまり前に作った外型を模型にかぶせると、内型表面を削った分、内型と外型の間に隙間ができ、そこに銅を流し込むのである。これで内型を外すと銅製の大仏ができあがるのである。東大寺の大仏はこの作業を8回に分け数年かけて行った。

(6)次に大仏の全身を水銀アマルガムを用いて金メッキをする。現在は千年以上も経ってるので金箔は剥がれている。
(7)次に大仏を囲うように直径1m高さ20mの柱を84本使い、巨大な東大寺(大仏殿)が作られた。 

 金属を溶かして型に流し込む方法を「鋳造」といい、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた。

 大仏のまわりには、銅を溶かし熱を保つための「たたら」という大きな装置が並び、大勢の人が足を踏み空気を送り込んだ。溶けた銅の温度は1000℃以上で危険な作業である。大仏は巨大なので、鋳造は8段に分けて下から順に進められた。工事が始まってからおよそ5年、銅でできた大仏の全身が完成した。

 なお実際の工事を担ったのは多くの民衆たちで、危険な工程も多々あり、死亡事故も頻発した。また大仏を造るのに必要な予算を捻出するために財政は悪化し、民衆の税負担は増すことになった。

 国家安定を願う大仏造立プロジェクトだったが、結果として内政のさらなる不安定を招いたことは皮肉である。

焼損と復興
 大仏はその後、穏やかに座り続けていたわけではなくたびたび壊れている。完成から数十年後には亀裂や傾きが生じ、855年の地震で頭部が落ち修理され、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養が行われている。
 その後、大仏および大仏殿は平安時代末期と戦国時代に兵火で焼損焼失している。1回目は1180年の源平合戦の時代で、平重衡が放った火により大仏は無惨にも焼けたが、その後間もなく建て直されている。この時には興福寺も全焼し、東大寺も伽藍のほとんどを焼失している。
 2回目の焼失は1567年の戦国時代で、松永久秀よって焼かれてしまう。松永久秀は裏切り者の代名詞的存在として悪役のイメージの強い武将であるが、大仏を焼いたのもまさにそのイメージどおりである。大仏殿は仮堂で復興したが、大仏殿は1610年の大風で倒壊し、大仏の頭部は銅板で仮復旧のまま、雨ざらしの状態で数十年放置された。
 江戸時代中期に再興が始まり、1691年に完成している。現在の大仏殿は1709年に落慶されたもので、752年当時と比較して約3/4の大きさになっている。
 現在の大仏は、奈良時代の姿ではない。奈良時代のままなのは台座などごく限られた部分で、顔つきは奈良時代当時とは随分違っている。大仏のどの部分が奈良時代のものであるかについては資料によって違いがあるが、まとめると下肢の部分は当初からのもので、体部の大半は室町時代末期の補修、頭部は江戸時代のものである。