鑑真

鑑真(がんじんわじょう。688?~763)

 奈良時代には僧侶に納税義務がなかったため、重税に苦しむ庶民は相次いで僧侶になった。にわか僧侶は激増し、そのため朝廷は税収の減少に悩むことになる。にわか僧侶たちは仏法を学ぶ姿勢はなく、風紀は乱れたままであったが、仏教を国策としているため僧侶たちを弾圧する訳にいかなかった。

 そのため朝廷は、唐と同じように僧侶を国家資格にしようとした。いわゆる「授戒伝律」制度を導入しようとしたのである。唐では僧侶を志す者は、10人以上の高僧の前で「律」を誓う儀式を経て正式に僧侶として認められていた。

 朝廷はこの制度を日本に導入しようとして、興福寺の僧侶・栄叡と普照を仏教先進国の唐に送った。栄叡と普照は遣唐使船で渡航し、授戒の方法を知る名僧を唐から連れて来るように命じられた。遣唐使は12回のうち無事に往復できたのは5回だけで、半分以上が遭難した。まさに命がけだったが、世の荒廃を憂いていた2人は勇気を出して遣唐使に乗船した。日本の仏教界に仏教規範の「律」が導入されれば、社会が良くなると2人は信じていた。

 733年、栄叡と普照を乗せた第9次遣唐使は無事に大陸に到着するが、唐は国民の出国を固く禁じており密出国の最高刑は死罪だった。国法を破ってまで唐から日本に来る名僧など簡単には見つからず、また渡航には遭難の危険が伴っていた。苦悩する栄叡と普照に、予算不足から遣唐使が中断来されつという知らせが入った。このことに激しく動揺しながらも2人は授戒師を探し続けた。

 9年におよぶ流浪の末、2人は4万人に授戒を授けた名僧・鑑真の存在を知った。鑑真は仏道を究めただけでなく「貧民や病人の救済」などの社会活動に力を注ぎ、民衆から大師として仰がれていた。

 栄叡と普照は最初から鑑真に渡日を懇願したのではなく、高弟の誰かを授戒師として遣わせて欲しいと思っていた。鑑真には多くの高弟がいて、各高弟には千人ほどの弟子がいた。栄叡と普照の思いを聞いた鑑真は強く心を動かされ、話を聞き終わると、高弟渡日の希望を尋ねた。

「いま日本から要請があったが、これに応えて、この一座の中で誰か日本国に渡って戒法を伝える者はいないか」

 誰も返答する者はいなかったが、暫くすると祥彦という僧が進み出た。

「日本へ行くには滄海をわたらねばならず、百に一度も辿りつかぬと聞いております。人身は得難く生じ難し。そのように涅槃経にも説いてあります」

 祥彦が言い終わらぬうちに、鑑真は口を開いた。

「他に誰か行く者はないか」

 誰も答える者はなかった。すると鑑真は再度口を開いた。

「法のためである。たとえびょうまんたる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」

 一座は水を打ったようにしんとなっていたが、総てはこの静寂のなかで決まった。この鑑真の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。54歳の鑑真はさっそく海を渡る準備を進めた。

 ところが唐の皇帝玄宗は鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかった。そのため出国は極秘で行われた。命がけの航海であったが、出国するだけでも大変だった。6度渡日を試み、挫折を繰り返す11年間であった。

・第1回…743年(55歳)。

 上海南方の霊峰に参詣するふりをして日本に進路をとったが、渡航を迷っていた弟子が密告して発覚する。しかも「日本人僧の正体は海賊」と港の役人に伝えため、栄叡と普照は4ヵ月を獄中で過ごすことになる。

・第2回…744年(56歳)。

 頑丈な軍用船を購入して、仏像や仏典を積み込み、彫工、石工など85人の技術者・職人を乗せて出航するが暴風雨で遭難する。

・第3回…744年。

 鑑真の渡日を惜しむ何者かに密告され、栄叡が再び投獄される。鑑真は栄叡を助けるために奔走し、最終的に栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。

・第4回…744年。

 長江からの出航は監視が厳しいため、台湾の対岸にある福州から渡航しようとした。しかしまたしても弟子が、鑑真を引留める為に当局へ密告。鑑真は官憲に捉えられ揚州まで送還された。栄叡と普照は逃亡し南京以西の内陸部に潜伏した。

・第5回…748年(60歳)。

 栄叡と普照は監視下にあったが隙をついて出航。この時は巨大暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流して遠くの海南島(ベトナム沖)まで流された。当地で1年間の滞在を余儀なくされ、揚州に引き返す途中で過酷な旅で体力を消耗した栄叡が他界した。鑑真自身も眼病を患い失明してしまう。

・第6回…753年(65歳)。

 あまりの悲運に渡航を諦めかけていたが、日本から20年ぶりに遣唐使がやって来た。遣唐使は鑑真と弟子5人を非合法の手段で日本に連れ出そうとした。遣唐使船は4隻600人の大船団である。「1隻でも日本にたどり着ければ、仏法を伝授できる」と鑑真と弟子は別々の船に乗った。ところが出航直前、唐の官憲の警戒を恐れた遣唐大使が鑑真らを下船させてしまう。

 だがこの時、副大使が独断で自分の船に鑑真一行を乗せ、11月16日に出航すると沖縄、種子島から北上していく。途中で嵐に遭遇して大使の船は南方マレー半島まで流された。漂着した地では地元民と言葉が通じず乗船者約200人の大半が殺された。副大使の船は奇跡的に1ヶ月後の12月20日に坊津秋目浦(鹿児島県)の地に着いた。着いた時に失明していた鑑真は日本の風景を見ることができなかった。

 鑑真が渡海を決心してから、すでに12年の星霜が過ぎていた。「びょうまんたる滄海」に幾度も渡航を阻まれた鑑真は6度目でやっと悲願が達成できた。翌754年2月4日(66歳)、鑑真は難波、京都を経て平城京に到着した。

 行く先々で熱烈な歓迎を受け、鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者「大僧都」に任命された。4月には東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440人に国内初の授戒を行なう。翌年、常設の授戒施設を東大寺戒壇院に建立。戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められた。この授戒施設で250項目の規律を守ることを誓った者だけが国は僧侶として認めた。この授戒によりこれで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。

  鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。鑑真は正しい仏法を伝え、僧侶を輩出することを願っていた。そのため鑑真は仏舎利を3000粒持参し、全国各地に戒壇を造ったが、朝廷の目的は税金逃れの出家を中断させることだった。この両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源のため、増収のため朝廷に利用されていたことを知った。 

 759年(71歳)、鑑真の境遇を知った心ある人が土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる「唐招提寺」を創立して戒壇を設けた。招提とは「自由に修行する僧侶」という意味である。唐招提寺の戒壇で授戒を受けても、国から正規の僧侶とは見なさなかった。しかし鑑真のもとには鑑真を慕う者が次々とやって来た。鑑真は社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児の世話をするなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。

 763年3月、弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。その2ヵ月後、鑑真は永遠の眠りにつく。西に向って座禅したまま息を引取った。享年75歳。来日から10年目、唐招提寺創建から4年目の春だった。現在でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。