飛鳥・白鵬文化

飛鳥文化

 日本の最初の文化で、奈良県明日香村(飛鳥の地)に都があったことから、推古朝から大化の改新までを飛鳥時代というが、飛鳥文化とは推古天皇聖徳太子の頃の文化である。その特徴は聖徳太子の時代のので、当然のごとく仏教奨励による仏教中心の文化」である。

 第二の特徴である「国際色が豊かな文化」は、中国や朝鮮はもとより、ギリシャ、インド、ペルシャ文化ともつながっている。当時の中国の王朝は隋であるが、飛鳥文化は隋以前の南北朝文化の影響を受け、そのため北魏の厳しい面と、南梁の柔和な面の2つの表現をもつ。これらが高句麗や新羅などの朝鮮半島を経て伝わった結果、朝鮮半島の影響が見られる。遣隋使の以前から朝鮮半島の人たちが渡来人として日本にやってきて、寺院などの建築物や仏像を制作したのである。

 仏教は豪族を中心に受け入れられ、大王家や各地の豪族は古墳に代わり権威を示す氏寺を競って建立した。素朴な神祇信仰しか知らなかった人びとにとって、黄金色に輝く異国の仏は異国情緒をかもし出し、仏教の表面的な華やかさに飛びついたのである。有名な建造物では、聖徳太子が建立した世界最古の木造建築物・法隆寺(斑鳩寺)や四天王寺、蘇我氏が建立した飛鳥寺、秦河勝が建立した広隆寺などである。

 法隆寺の金堂の柱の中央部分はやや膨れていてギリシャの影響を受けている。また法隆寺に納められた釈迦三尊像百済観音像、玉虫の羽がはってある玉虫厨子も有名である。また法華経・勝鬘経・維摩経の3経の注釈書である三経義疏は日本最古の書物で、聖徳太子が師の高句麗の僧恵慈の助けをかりて書かれた。

 

飛鳥寺

588年に蘇我馬子が建立を始め、8年後にほぼ完成した。飛鳥寺は当時の朝鮮半島の先端技術によって建立された本格的な伽藍をもつ我が国最初の仏教寺院である。

 飛鳥寺の建立目的は馬子の強大な権力を皇族、豪族、民衆に誇示し畏服させるためで、人が驚き馬子の力に畏怖するほどの巨大で斬新な建造物を示すために造立された。

法隆寺

  法隆寺は607年に聖徳太子と推古天皇により創建された。「日本書紀」によると670に伽藍を焼失したとされているが、それでも兵火や天災にはあわず、世界最古の木造建築群として伝えている。参道は松並木になっており、参道を抜けたところに南大門がある。境内は西院と東院に分かれ、国宝・重要文化財の建築物だけでも55棟に及ぶ。全体は大垣と呼ばれる塀に囲まれている。この寺は法隆寺式伽藍配置と呼ばれる配置になっており、中心の西院伽藍には、五重塔と金堂が並び、中門と大講堂をつないで回廊が囲んでいる。東に向かって東大門を抜けたところに夢殿のある東院伽藍が広がる。また優れた仏教美術品を多く所蔵しており、その数は国宝だけで38件・150点、重要文化財を含めると3104点になる。法隆寺地域の仏教建造物として、世界文化遺産に登録されている。

    法隆寺に納められている国宝、左から百済観音像、玉虫厨子、釈迦三尊像。

 

法隆寺火災

 昭和24年1月26日の早朝、法隆寺金堂から出火し、金堂内部を全焼する出来事があった。出火当時、金堂は改築のため半解体されており、天井より上の上層部分と裳階部分の部材は解体済みだったため難をまぬがれた。また内部に安置されていた釈迦三尊像等の仏像も移座されていたため無事だった。しかし壁画は蒸し焼き状態になり、初層の柱、頭貫、組物なども表面が黒こげになった。

 出火原因は、壁画の模写をしていた作業員が寒さをしのぐために使用していた電気座布団の電源の切り忘れたことによる。しかし放火説などがあり真相は不明である。壁画の本体は失われ、その模写によって法隆寺金堂のかつての姿を偲ぶ事ができる。壁画の破損は火災だけでなく、消火作業のホースの水圧で剥がれたものもあった。法隆寺金堂は世界最古の木造建築として知られ、その翌年に金閣寺が放火されているが、両寺院ともに米軍の空襲を受けず消失を免れていた。

法隆寺金堂壁画

 金堂壁画は金堂の柱間に12面の仏教絵画があり、特に釈迦・阿弥陀・弥勒・薬師の各如来の浄土を描いた4面大壁が有名だった(1号、6号、9号、10号)。なかでも阿弥陀浄土図は優品で、日本史の教科書・図説資料集でよく紹介され、阿弥陀は当時の80円切手にもなっており、法隆寺金堂壁画といえばこの切手を思い浮かべるほどであった。法隆寺金堂壁画といえばこれを思い浮かべるほどであった。鉄線描という弾力性のある線描や、繧繝彩色という段層的なぼかしなどの特徴な技法が使われ、また、インドのアジャンターや中国の敦煌の石窟寺院の壁画との類似性が指摘され、世界史的にも貴重な絵画作品であった。 

 この法隆寺金堂壁画についてはしばしば「焼失した」と表現されるが、オリジナルの壁画は黒こげになっているが現存している。公開はされていない。

 下 昭和24年、法隆寺は火災にて焼損した。金堂壁画と当時の新聞記事。

白鳳文化
 白鳳文化は大化の改新から平城京遷都までに花開いたおおらかな文化である。法隆寺の建築・仏像などの飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺などの天平文化との中間に位置する。天武天皇・持統天皇の時代の律令国家の気運の中で生まれた若々しい文化である。この白鳳という元号は日本書紀にはないが続日本紀に記されている。つまり天武天皇の頃に使用されたと考えられ、白鳳文化はイコール天武天皇の頃の文化と考えてよい。
 ちょうど仏教の力で国家を鎮護する傾向が強まり、大官大寺(大安寺)や薬師寺などの大寺院が造営された。さらに遣唐使がもたらした唐文化の影響を受けた興福寺の仏頭などの彫刻が見られ、絵画ではインドの影響を受けた法隆寺金堂壁画や、鮮やかな彩色が特徴の高松塚古墳壁画などがある。

 また20年毎に新殿を造営する伊勢神宮の式年遷宮や、天皇が即位された年の新嘗祭などの儀式が整えられた。
 文芸では中国的教養を吸収して漢詩が盛んになり、日本古来の歌謡から生まれた和歌も五七調の長歌や短歌の形式が整えられた。天智・天武・持統天皇や額田王、柿本人麻呂ら額田王らが活躍し奈良時代の「万葉集」に収録されている。

 

高松塚古墳壁画 

 高松塚古墳は奈良県明日香村にある古墳時代終末期の円墳である。発見のきっかけは昭和45年10月に村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人たちが明日香村に働きかけ、明日香村はちょうど村発足15周年を記念して村史を編纂しており、明日香村が資金を出し、奈良県立が発掘調査することになった。

 昭和47年の調査で、高松塚古墳の玄室の壁に彩色壁画があることがわかった。彩色壁画は九州や関東でも見られるが、高松塚古墳のようにリアルに描かれた彩色壁画が見つかったのは初めてのことだった。
石室内は東壁・西壁・北壁・天井の4面があり、壁全体の切石の上に漆喰を塗り、その漆喰に8色の顔料で描かれていた。天井部に天文図の星、東壁には青龍と日蓮、西壁には白虎と月輪、奥の北壁に玄武が、さらに東西両壁の手前に男性像、奥には女性像が描かれていた。

 特に女子像は色鮮やかで「飛鳥美人」とよばれ、この女性像が発表されると一躍古代史ブームとなった。壁画は中国や朝鮮半島の影響が見られることから、高句麗の画師が描いたとされている。古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けていたが、盗掘をまぬがれた銅鏡などの副葬品もこの時に発見されている。

 極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見として、文化庁はさっそく壁画の保存および研究調査にとりかかった。古墳は特別史跡に、極彩色壁画は国宝に指定されたが墓誌銘がないので誰の墓かは不明でああった。

 当初からこの貴重な壁画古墳をいかに保存するかが大きな課題であったが、壁面が公開されるとカビやダニによって痛みが目立ち始め色彩も劣化した。壁中央の白虎は頭や首の輪郭がぼやけ、顔やたてがみの細かい描線はほとんど見えない。 朱色に塗られた口や前脚のつめは退色し黒っぽく変色し、灰色のカビで全体が覆われてしまった。

 大量のカビが発生し、壁画を劣化させたのだが、これは文化庁による21世紀の壁画保存の最大の失敗である。しかも文化庁はこの失敗を国民の目から隠し続け、この文化庁の失態は壁画発見30周年の記念事業として文化庁が2004年に出版した写真集により判明した。そのため古墳を解体して修復・保存が行われ、現在石室内を見る事は出来ず、復元模型が壁画館にあるだけである。一般人が国の特別史跡を少しでも傷つければ犯罪者として処罰されるが、文化庁だから史跡を破壊してよいということはない。まさに文化庁ではなく、文下庁である。

キトラ古墳
 キトラ古墳とは高松塚古墳から南へ約1.2kmのとところにある阿部山にで見付かった壁画古墳である。高松塚古墳の発見から11年後の1983年、ファイバースコープを差し込んで石室内を調査したところ、高松塚古墳と同じように石槨の北壁に「玄武」が描かれていることが判明し、第2の壁画古墳の発見と騒がれた。
 15年後の1998年になって超小型カメラによる内部調査が実施され、石槨内の天井石に星宿(星座)が描かれ、東壁に「青龍」、西壁に「白虎」が描かれていることが判明した。さらに2001年には再びデジタルカメラで石槨の内部撮影が行われ、南壁に「朱雀」が描かれているのを発見した。翌年には、十二支の「寅」とみられる獣頭人身像が描かれているのが確認されている。高松塚古墳と違い人物像は描かれていなかった。実際に描かれていたのは十二支像のみだった。
 キトラ古墳の壁画は、漆喰が石材から剥離した部分があり、今にも崩落しそうに見えたため、2004年9月文化庁は壁画を剥ぎ取った上で別の場所で修復し、ミュージアムで保管管理し公開する方針を決定した。そして4年半をかけて修復のためすべての壁画部分の剥ぎ取り、修復作業が終わった順に特別公開してきた。剥ぎ取られた壁画が再び石室内に戻すのではなく、外部で保存することが決まっている。
 同じ壁画古墳でありながら、高松塚古墳とキトラ古墳とでは、修理後の壁画の保存方法がどうしてこうもちがうのか。一つには、その修理方法の違いに依るのだろう。高松塚古墳の場合は石室を解体したが、キトラ古墳の場合は石室を解体したのではなく、絵画が描かれた部分だけを剥がして修理してきた。
 古墳の壁画は石室内に描かれた場所に置かれてこそ、その存在意義を発揮すると文化庁は言うが、そうであれば、キトラ古墳の場合、はぎ取った部分を元の位置に貼り付けるだけで石室と一体化できるように思われる。しかし早々と外部で保存することを決定しており、キトラ古墳の周辺を、国営飛鳥歴史公園の一部とし整備することが、2011年3月に正式に閣議決定されている。


月光菩薩の首切り事件
 薬師寺金堂薬師三尊像の月光菩薩像の首の部分に亀裂が走っていた。この亀裂は時を経るにしたがい次第に大きくなり、1952(昭和27)の吉野地震によって亀裂は悪化した。調査した文化財保護委員会(文化庁の前身)の技官は「このままでは首があぶない、頭部をおろした方がよい」と判断、なかごの鉄心を切って頭部をおろしたのだった。しかしこれを知った人たちは「月光菩薩の首が切られた」と大騒ぎになった。

 頭部が落下しないように応急処置を施し、修理方法を慎重に検討しての処置であったならば、これほど騒ぎになることはなかった。文化財保護委員会には専門家をはじめ、人びとの批判が相継いだ。国は専門家を集め協議し、内枠固定法と金属接着剤とを併用する方針をたて月光菩薩の修理を行うことを決めた。月光菩 薩像はこのような経過で現在の姿に蘇ったのである。(、月光菩薩の修正前の首の部分)。

       左、薬師寺。上、月光菩薩像。