クールベ

ギュスターヴ・クールベ

Gustave Courbet(1819-1877)

 レアリスム宣言で知られる19世紀フランスの画家。

 1819年、スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の山の中の村・オルナンで裕福な地主の子として生まれる。母は類いまれな美人で、彼自身も「アッシリア風」の風貌を備えていた。

 オルナンのカトリック系の中学校に入学し、そこで基本的なデッサンを学び王立高等学校に入学する。そのかたわら画家フランジューロのもとで絵画を学ぶ。
  1840年、21歳の時にパリへ出て、ソルボンヌ大学法学部に入学する。法律家にさせたかった父親の希望にそった進学であったが、親の意図に反しクールベは画家を目指していた。アカデミー・スイスに通い、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写した。
  1844年、「黒い犬を連れた自画像」がサロンに入選するが、当時26歳で画家としては非常に遅いデビューであった。
 1849年、「オルナンの食休み」がドミニク・アングル、ドラクロワの二人に評価され、そのことから国家が買い上げリール市立美術館に所蔵された。次に「オルナンの埋葬」を出品するが、保守的な評論家だけでなく既存の絵画を知る市民から猛烈な批判をうける。
  1853年、サロンで批判をうけた「水浴びする女たち」、「眠る糸紡ぎ女」が美術愛好家のブリュイヤスに購入され、以後、彼はクールベの後援者となる。

 1855年、パリにおいて世界で2番目の万国博覧会が開催された。クールベは、この万国博覧会に大作「画家のアトリエ」と「オルナンの埋葬」を出品する。しかし他の作品は審査を通過したにも関わらず、これらの大作は落選してしまう。19世紀のフランスは新たな芸術を求めていたが、レアリスム宣言で知られるクールベはまだ評価されていなかった。 クールベは後援者ブリュイアスに資金を仰ぎ、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立てて公開した。当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展示会は、世界初の「個展」と言われている。またこの個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。「レアリスム宣言」において、クールベは「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」と言っている。

  1858年、ドイツに数カ月滞在し、「フランクフルトの夫人」などを制作する。1870年、パリ・コミューンに参加し、反乱に加担しヴァンドーム広場の円柱破壊事件の責任を問われて逮捕され、莫大な費用の支払いを命じられる。
「私は天使を見たこどがない。だから天使は描けないのだ」と語ったクールベ。19世紀の写実の中心的な役割を果たしたが、クールべは絵画のみならず政治的にも革命を夢見るような男だった。彼はその政治的活動が仇どなりスイスに亡命した。
 1877年、フランスに帰ることを夢見ながら、亡命先のスイスで失意のうちに58歳の生涯を閉じた。なお、オルナンの生家は現在クールベ美術館になっている。

オルナンの埋葬

1849年 314×663cm 油彩・画布

ルーブル美術館/パリ

 縦約3.1メートル、横約6.6メートルもある巨大な「歴史画」である。「歴史画」と言えば有名な英雄や殉教者、古代の神々などを格調高く理想的に描いた絵画が一般的であるが、この絵画にはオルナンというフランスの田舎町の葬式に集まった無名な人々をテーマにしている。60人近い人物はほぼ等身大で描かれ、人々の表情は美化されることなく、現実の姿をありのままに描かれている。

 この作品を発表したとき世間は大騒ぎとなった。大きな絵画は歴史的なできごとか神話に限るという暗黙の了解があったからである。それを田舎の日常の一部を描いたために物議を呼び、発表当時の評判は芳しくなかった。クールベは「オルナンの埋葬はロマン主義の埋葬であった」と言い残している。その後、大げさで幻想的なロマン主義的絵画から離れ始めていた人々に受け入れられることになる。

画家のアトリエ

1855年 360x598  油彩・画布 

オルセー美術館

 

 この絵画はパリの万国博覧会中に開かれた、クールベの個展に展示された作品である。画家が描いているのは風景画なのに、ヌードモデルが立っているという不思議な構図である。縦約3.6メートル、横約6メートルの大作で、正式なタイトルは「画家のアトリエ ~私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意画」となっている。このタイトルが示すように、自画像でもあり、集団肖像画でもあり、芸術の寓意画でもある。全員が何らかの寓意をもって描かれている。

 クールベは写実主義と呼ばれているが、この作品に描かれている人物たちは象徴的である。絵画の中心に、アトリエでキャンパスを前に風景画を描くクールベを自画像のように配置し、向かって左側にはクールベの写実主義を理解し支持する友人・知人・後援者らを、右側にはクールベの芸術を理解しない政治家など芸術に縁のないブルジョワ階級の人々を描いている。

 クールベは友人への手紙に「私の主張を認め、私の理念を支え、私の活動を指示してくれている人全員を描いた」と書いているが、左右の人たちよりも「純粋な少年と裸婦」だけが絵の理解者と言いたかったのだろう。

源 泉

1868)

オルセー美術館

当時流行したコルセットによって異常にくびれた腰かよりいっそうお尻の大きさを強調している。女休を生々しく背後から画いている。だぶついた肉がつくる皺の表現に迫力がある。

寝床の女性

1862

白い靴

1861頃

バーンズ・コレクション

石割り人夫

(1849年)

 

 ボロボロになった服を着て黙々と作業に励む人物達、その顔は影に沈ませ、あるいは後ろを向かせて鑑賞者にわからないようにしている。光の演出や美化をしないで、社会の底辺の人物達をありのままに描いている。本作品は画家の政治思想を訴えかけ「最初の社会主義的絵画」として話題を集めたが、第二次大戦中ドレスデン爆撃で焼失してしまった。

出会い(こんにちは、クールベさん)

(1854年)

 画面右がクールベ、画面左にパトロンとその使用人が描かれている。クールベの媚びることのない様子が印象的である。自己顕示欲の強かった画家は数多く自画像を残しているが、本作もそういった意味を持つ作品とされている。人物が落としている影は、クールベだけはっきり描かれ、他を木陰の中で曖昧にしているのも画家の自負心の暗示なのであろう。

入浴する女

1868年 メトロポリタン美術館

世界の起源

1866)年 

オルセー美術館

 パリのオルセー美術館にある「世界の起源」である。これはリアリズムとエロチシズムを融合させた女性器の肖像画である。エロチシズムというよりもグロテスクに、芸術に慣れ親しんだものには、ど肝をぬかれるほどの衝撃であろう。しかしこれが世界の起源、人間の起源の真の姿である。

 この絵が描かれた当時、クールベのお気に入りのモデルは、ジョアンナ・ヒファーナンと呼ばれる女性だった。当時、彼女の恋人はアメリカ人の画家でクールベの信奉者のホイッスラーであった。クールベは1866年に「美しきアイルランド女(ジョーの肖像)」というヒファーナンをモデルにした絵を描いている。クールベは画業において4枚のヒファーナンの肖像を書いているが、おそらく彼女が「世界の起源」のモデルであろう。その後、クールベとホイッスラーが喧嘩別れをした事も説明がつきそうである。その後ホイッスラーは、彼女と別れアメリカへ帰った。

 ルクセンブルクの女性芸術家は自身をこの絵になぞらえ、群衆の前に現れ全裸になり局部を露出するパフォーマンスをおこなった。観客は拍手喝采だったが、すぐに警察に連行された。

 女性芸術家は「私がやったことは衝動的な行為ではない。美術史においてリアリズムの絵画において、女性が開脚して私は絵で表現されなかったものを明らかにした」と述べている。さらに26歳の男性がスーツを脱ぎ、全裸になる事件も起きている。

美しきアイルランド女(ジョーの肖像)

ジョアンナ・ヒファーナンを描いた絵。彼女が「世界の起源」のモデルとされている。

スペインの女

1855年  80.3X64.8cm 油彩・カンヴァス

フィラデルフィア美術館

 この「スペインの女」はクールべがパリ万国博覧会会場のすぐ側で個展を開催した年のものである。この女性の妖しげな目つきは、自信家で自己顕示欲の強いクールべらしい力強い表現である。この作品ではそれ自体が命を持ったようにうねる髪の、特に腕に絡みついた表現が興味深い。妖しげな目つきど相まつて性的なイメージを感じさせる。