鎌倉文化

鎌倉文化の特徴
 鎌倉時代の文化の特徴は、それまでの公家に代わって武家・庶民が新たな文化の中心となったことである。それまでの優雅な貴族文化の流れをくみながらも、深い教養を必要とせず、素朴で質実な武家社会の気風や、庶民的な文学や美術などが新たな文化を生んだ。そのためこの時代の文化は「平易と躍動」が特徴で心に迫るものがある。平易な教えを説く鎌倉新仏教、文字が読めなくとも聞くだけの語物文学、迫まりくる写実的な彫刻などが代表である。

 またそのいっぽうで南宋や元の文化からも影響を受けた。日宋間に国交はなかったが、両国を往来していた僧侶や商人らによって、さらに滅亡した南宋から亡命してきた中国の僧によって朱子学・禅宗などの大陸文化が伝えられ、独自の発展をみせ学問や文芸の世界でも新たな動きが起きた。

 

文学

 鎌倉時代の文学の特徴は、源氏と平氏、さらに源頼朝の家来たちが争う武士の時代であったことから、このような争いを経験した庶民は、随筆や和歌にこの世をはかないと思う気持ちを込めて書いたのである。

 

鴨長明と方丈記

  1155年、鴨長明は鴨川のほとりにある京都・下鴨神社の神官・鴨長継の次男として生まれた。鴨長明は御曹司として幼少期は衣食住に不自由のない生活を送っていたが、鴨長明が18歳の時に父が亡くなり、後ろ盾を失くした鴨長明は後継者争いに敗れ、親戚に神官の座を奪われてしまう。

 鴨長明の夢は父の後を継ぎ下鴨神社の神官になることであったが、その後の鴨長明の人生は波乱万丈で、まさに転落していくようであった。失意の内に20代を過ごすことになるが、方丈記には自らの人生について触れていないので、長明の20代のことはよく判っていない。鴨長明は結婚していたが、生活だけでなく家族の存在、友人・知人などは不明である。

 鴨長明は30歳になっても売れない和歌ばかり詠んでいた。端から見れば遊んで暮らしているだけなので、鴨長明は家族と別れ家から追い出されてしまう。鴨川のほとりに家を建てたが、造り上げた家は水害に悩まされ、ときに浮浪者狩りに襲われた。それでも何不自由はなく、家族の目を気にすることなく和歌に集中できた。自分の才能は「琵琶と和歌」と認識し日々自分を磨くことに励んでいた。

 鴨長明33歳の春に「千載和歌集」に一首選ばれ、46歳の時に宮廷に雇われたが、身分の違いから宮中歌会では鴨長明はいつも末席だった。鴨長明は琵琶にも打ち込んだが師匠が亡くなり、長明は仲間と師匠の「秘歌・啄木」を披露する。その腕前があまりに素晴らしいことから評判になったが、秘歌とは門外不出の秘伝である。人前で演じてはいけないのが当時の常識だった。このことが大御所に知られ、長明は干されてしまう。

 50歳になった時、河合社(ただすのやしろ)の神主の話が舞い込んできた。河合社は下鴨神社の摂社で、若い頃からの憧れであった。後鳥羽院から推薦状までいただき内定が出た。しかし周囲が「長明は神主に相応しくない」と言ってきた。鴨長明にとって安定した職へ就くことは長年の夢だった。暗い過去と決別することができると思っていた。河合社への就職は目の前まで来ていたが、希望は叶わずまたも目の前で掌から零れ落ちてしまった。

 鴨川を眺めながら「安定した人生なんてどこにもない。この鴨川の流れは絶えることがないが、同じ水がとどまることは一度もない」。好きなことを好きなだけやる、本当の自由を求め、辿り着いたのが京都の街から姿を消すことだった。

 神職としての出世の道を閉ざされ、後鳥羽院のとりなしにも関わらず鴨長明は出家し、東山次いで大原で閑居生活を行った。
  山中に住むことにしたが、鴨長明53歳のとき大原を離れて「日野南山」に小さな庵を建て完全にひとりになった。人目を気にすることなく、衣服にこだわることもなく、山菜を摘めば食べ物はいくらでもあった。人に煩わされず好きな和歌を詠い、好きな琵琶を弾くことができた。これ以上の幸せがどこにあるのか。鴨長明は「本当の自由」を見つけ「小さな暮らし」の中で58歳の時に方丈記を書いた。

 方丈記は「日本三大随筆」と呼ばれ「枕草子」や「徒然草」と同様に高く評価されている。冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」この方丈記の冒頭の一文は、戦乱が続く世の無常・儚さを表している。なお平家物語が書かれたのは方丈記の後なので、方丈記は平家物語などの中世文学に大きな影響を与えた。
 鴨長明が生きた時代は、貴族から武士の世の中へと移る時代で、争いが絶えない上に火災や飢饉が人々を苦しめていた。地震や火事などの災害を目の当たりにして、家にお金をかけてもいつ壊れるかわからない。大きな家に住むためにあくせく働くのは人生の無駄、厄災や不安な情勢の中で「人生は思い通りにいかなので、物を持たず、人と比べず、自分がやりたいことを自由にやるのが幸せ」と方丈記に書いてある。

 しかし最後には「山の静かさや小さな家に拘ることさえ、おのれの醜い欲望の表れではないか」と自問し、自由な暮らしに執着していると僧侶としての反省をみせ、「修行不足の身で偉そうに言ってしまって申し訳ない。私めは念仏を唱えて筆を置くことにする」と最後を締めくくっている。

 方丈記は鴨長明が晩年に居住していた日野山(京都伏見区)の方丈庵(四畳半)にちなんでつけられた。最小限の家と物があれば充分と説き、方丈庵での世俗を捨てた閑居生活の心境を整然と、しかも簡潔な和漢混交文で綴られている。和漢混交文とは、ひらがなによる和文と漢字による漢文をまぜて書かいた文章のことである。

 山中の庵に隠居して琵琶を弾いていれば風雅と思われるかも知れないが、長明の人柄はあくまでも求道的で「まじめ」であった。方丈記では方丈庵の周辺の風景や生活論を展開し、そこでの生活を賞賛するが、終盤では一転して自分の心と静かに向き合い、人生に対して仏教者としての観点から自問自答をくり返している。現代語訳を付けなくても分かりやすく格調高い文章である。

 

方丈記の序文

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

現代語訳

 流れる川が絶えることはないが、その水は同じ水ではない。川面に浮かぶ泡つぶは、消えては生まれ、生れては消え、片時もとどまることはない。世の中に棲む人も住みかもまたこれに同じである。
 絢爛豪華な都の中にあって、軒を並べ、甍を競う、貴賎上下の人々の住まいは、幾世代にわたって尽きせぬものだが、これをよく見ると昔から続いている家は稀である。去年火事にあって建替えられていたり、大きな家だったのが没落して小さな家に替わり、中に住む住人もまた同じである。場所も変わらずに住む人も多いが、昔からそこに居たという人は20~30人のうちの1人か2人である。朝に生れて、夕方には死ぬ、まさに川面に浮かぶうたかたと同じである。
 生れ来たる人、死に行く人、何処に生まれ、何処へ去るのか。この世は仮の宿り、誰のために悩み、何を望んで楽しむのか。人と住まいをめぐる無常の姿はアサガオに似ている。朝露が落ちて花が残っても、朝日に当たれば花も枯れる。また時として、花が萎んで露が残る。残ったといっても夕方まであるわけではない。

(下鴨神社と河合神社内にある長明の方丈庵)

吉田兼好と徒然草
 徒然草は吉田兼好によって書かれた随筆で、清少納言の枕草子、鴨長明の方丈記と共に日本三大随筆の一つとされている。鴨長明が鎌倉時代の初めの頃の人物であるのに対し、吉田兼好は鎌倉時代の終りに生きた人物なので、徒然草は方丈記よりも100年ほど後に書かれている。

 吉田兼好は吉田神社の神職の家に生まれた。以前の教科書には吉田兼好と記載されていたが、現在の教科書では出家していることから「兼好法師」と書かれている。吉田兼好は幼い頃から非常に賢い子供で、20歳前後から朝廷に勤め、25歳頃には後二条天皇の外祖父(母の祖父)の堀川家に側近として仕えている。

 吉田兼好は後宇多院の護衛をする武士として仕えたが、上皇亡きあとに出家して兼好と名乗った。兼好が仕えていた後宇多天皇は後醍醐天皇の父であり、2度にわたる蒙古の襲来をみてきた。また後宇多天皇(大覚寺統)が崩御すると、対立する花園天皇(持明院統)が即位した。これは鎌倉幕府が「天皇は大覚寺統と持明院統の両統から交互に擁立する」という原則によるものあるが、このことで吉田兼好は出世の道を絶たれたと思い出家した。

 吉田兼好は比叡山で仏道に入るが、修行のかたわら学問、文学にも関わっている。俗世から離れて僧の修行や寺の生活に浸っていたが、僧の立場から人々の生活を眺めていたのではなく、むしろ俗世間から離れられない自分自身を眺めているようであった。隠者のような生活から吉田兼好の文学は隠者の文学と呼ばれている。

 いずれにせよ鎌倉幕府の崩壊を体験し、また天皇家の皇位継承をめぐる争いが続いており、その時期に書かれた徒然草は人の生死に関するものや、辛口の人間評価、有名人の逸話、政治批評など様々で、世の無常に関する段が数多く見られる。吉田兼好は自分の才を誇ることはせず、世捨て人として暮らす中で、名誉よりも自分の心が大切と気づいていたのである。
 徒然草の書き出しは「つれづれなるまゝに、日ぐらし 硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」
(することがなくて退屈なまま、一日じゅうすずりに向かって、心の中にうかんでは消えてゆくとりとめのないことを、はっきりとした目的もなく書き留めてみると、不思議な気持ちがする)。この文章は現代人にも共通するもので、他の段の文章にも現代人にも通じる教えがそれとなく書かれている。

 徒然草の根底には「すべてのものは絶えず変化し、この世のすべては幻で仮の姿に過ぎない」という無常観がある。無常観と言うと「人はいずれ死ぬもの」という消極的な印象を持つが、徒然草の無常観には「人生や生きることに前向きな姿勢」が込められている。そのことが分かるのは徒然草第92段の次の一節である。
 原文:道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕べあらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠(けたい)の心あることを知らんや。なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難き。

(仏道を究めようとする者は、夕方には明日の朝になったら行おうと思い,朝になると夕方になったらしようと思い,今なすべきことを後へのばして実行しない。このように今実行することは難しく、一瞬の怠け心が潜むことを知らないでいる)と書き、つまり無常感を意識し一瞬一瞬死に近ずいているに、すぐやる事の難しさを述べながら「どうせ未来のことは分からないのだから、先のことではなく、今を大切にするべきだ」と述べている。 吉田兼好は1350年5月、68歳でこの世を去った。吉田兼好が残した随筆集は死後しばらく埋もれていたが、250年以上もの時を経て江戸時代に大流行して世に広まった。江戸時代から現代に至るまで、その生き方は多くの人の共感を呼び、吉田兼好が著した徒然草は、独自の広い見聞や観察眼によって、心に響く人生訓として人々に親しまれている。

 南北朝時代に正圓寺付近(大阪市阿倍野区)に移り住み、清貧自適な暮らしをしていた。正圓寺境内東側に「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。

 

軍記物語
 鎌倉幕府の成立は源氏と平氏による源平の戦いの結果であるが、これら源平両氏の栄枯盛衰を主題として、武士の戦いを描いた軍記物語がつくられた。軍記物語は語りによる新しい文学の形式で、平氏の興亡をつづった平家物語は作家は不明であるが琵琶法師によって語られ、文字の読めない人にまで広く親しまれた。

 

平家物語
  「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。この平家物語を出だしの文章を覚えた人も多くいるだろう。

 平家物語は琵琶法師によって何百年にもわたり語り伝えられてきた。平家の栄華と滅亡を追い、衰退した貴族たちと勢いを増した武士たちの人間模様が見事に表れている。

 この冒頭部分に解釈を付ける。「祇園精舎(釈迦が説法を行った寺院)の鐘の音は「諸行無常」の響きがある。すなわちこの世のすべての物は絶えず変化しているという響きがある。沙羅双樹(ナツツバキ)の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を示し、世に栄えおごり高ぶっている者の栄華は長く続くものではない、それは春の夜の夢のように覚めやすい。勢い盛んな者も結局は滅亡してしまう。まるで風の前の塵と同じである 」

 平家物語の作者は不明であるが、吉田兼好の徒然草に信濃前司行長が生仏(しょうぶつ)という盲目の琵琶法師に教えて語らせたと記されている。その他、様々な説があるが確証はない。
 平家物語には日本各地を巡り口承で伝えてきた「語り本」と、読み物としての「読み本」がある。琵琶法師が平曲を語るための「語り本」は目の見えない琵琶法師が琵琶を弾きながら歌うが、内容は情緒的なので歌うとは言わず語ると表現されている。使われる琵琶は平家琵琶と呼ばれる小型のものである。平家物語の構成は13に分けられ、比較的分量は少なく、楽しみを目的としたものではなく鎮魂が目的である。

 物語は冒頭の部分から平家滅亡まで続く。

 平安末期、つまり政治の実権が貴族から武士に移っていった頃から物語は始まる。その中心となったのが保元・平治の乱を制した平清盛で、平家に敗れた源氏と対照的に描かれている。平清盛は清盛は順調に出世を重ね、平家一門の繁栄の基礎を築いてゆく。その後、武士として初めて政治に関わることが許され太政大臣になる。清盛は天皇家との太いパイプを作り、娘を天皇と結婚させ、生まれた子どもを天皇に即位させた。それが安徳天皇で、清盛は天皇の祖父という絶大な権威を手に入れた。
 清盛は朝廷の重要な役職を平家一族で独占し、権勢をほしいままにする。人々は風になびく草木のように平家に従い、大地をうるおす雨のように人々は空を仰ぐように平家を仰いだ。さらに「平家一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」。平家でなければ人ではないとまで述べている。このように没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。
 清盛を中心とした平家一族は、まさに栄華の絶頂にあった。世界遺産に登録されている厳島神社がその繁栄ぶりを表している。海に浮かぶ壮麗な社殿は清盛が私財を投じたもので、清盛はこの世のあらゆる権力を手に入れた。

 これを快く思わぬ後白河法皇側近の俊寛らが鹿ケ谷で平家打倒の陰謀を企てるが、しかし企てが発覚し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩)へ流される。続いて後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵するが、宇治の平等院の激戦で討ち死にし、清盛が福原に遷都すると伊豆に流されていた源頼朝が兵をあげた。平家は富士川の戦いに臨むが、7万余騎の平家の軍勢は水鳥の立つ音を敵襲と間違え一矢も射ずに退散してしまう。翌年、木曽義仲が信濃で挙兵し、清盛は原因不明の熱病でこの世を去る。
 清盛の死後、平家一族の転落が始まる。民衆にくすぶっていた不満が一気に噴出し、その先鋒に立ったのが源氏の武士たちであった。まず後白河法皇と結んだ「朝日将軍」義仲が京へ迫ると、平家一門は安徳天皇(清盛の娘徳子の子)を奉じて自らの拠点である瀬戸内海に逃れる。しかし木曽義仲は法皇に裏切られ、源頼朝の命を受けた源範頼・義経の軍勢と戦うが、宇治川、瀬田で惨敗して討ち死にする。

 平家と源氏は各地で激しい戦いを繰り広げるが、一の谷では義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲で敗退し、次いで屋島(香川)の戦いで破れた平家は、最後の決戦の地として壇の浦の戦いに臨んだ。

 壇の浦の戦いでは、源氏の船団は三千艘(そう)、迎え撃つ平家の船は千艘であった。明け方から始まった戦いは、初めは潮の流れに乗った平家軍が有利に進んで行くが、時が経つとともに形勢は逆転し、数に勝る源氏の兵が次々に平家の船に乗り移ってゆく。平家の負けはすでに明らかで、武運尽きた平知盛は「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と碇をかついで入水。清盛の孫である6歳の安徳天皇は祖母に抱かれて海に身を沈めた。天皇の母(建礼門院徳子)も入水したが熊手で救助され、その後出家し大原奥の寂光院に移り住んだ。

 壇の浦の激しい戦いの後、波は血で染まり、主を失った船が波間に漂った。

 平家物語は70年に及ぶ平家一族の栄枯盛衰の物語で、そこには勝ち負けを超えた人間模様が描かれている。平家の滅亡を「滅びの美学」として描き、同じ情感が悲劇的な源義経にも注がれることになる。「おごれる平家も久しからず」という勧善懲悪がないわけではないが「敗者への惻隠の情」を日本的美学として表現している。

説話文学

 説話文学としては、院政期に成立した今昔物語集とともに「日本三大説話集」と称される古今著聞集(ちょもんじゅう)や宇治拾遺物語(しゅうい)がある。

今昔物語集 巻29第23
 今は昔、夫は妻を馬に乗せ、妻を守るように弓矢を持って京から丹波の国に向かった。大江山のあたりで太刀を差した屈強な若者と出会い、その道すがら太刀を差した若者は「拙者が差しているこの太刀は、みちのくの逸物で、これをご覧なされ」と言って、その太刀を抜いて見せると、言葉に違わず素晴らしい太刀だった。若者は「良かったら、お主の持つその弓と交換してもよいが」と提案した。

 太刀と弓を交換して、しばらくすると若者は「拙者が弓だけで矢を持たずにいるのは、人目に見てもおかしい。山を行く間、その矢を貸してくだされ」と言った。男は「それもそうだ」と納得して矢を与えた。こうして若者は弓と矢を手に持ち後からついてきた。
 昼時になった。往来で昼食を食べるのもみっともないから、と若者は夫婦を藪の奥に誘った。藪の奥で男が女を馬から下ろすと、若者は突然弓をつがいて「動くと射る」と脅し、男に刀を捨てるように命じた。やむなく従った男は取り押さえられて木に縛つけられた。
 若者は実は盗賊であったが、男の妻の魅力にすっかり心奪われ、女に近寄ると女の着物を解こうとした。女は拒否することもできず、言われるままに着物を解いた。
  若者も着物を脱ぐと女を抱いて二人で伏した。女はどうしようもなく、若者のいうままになった。この時、旦那はどんな思いだったのだろうか。
  その後、若者は起き上がり、元どおり着物を着て、弓、太刀、脇差をつけて女に「気の毒とは思うが俺は行く。お前に免じてその男は殺さず許してやる。馬はいただいておくぞ」と言って全速力で逃げていった。
 その後、女は夫の縄を解き放ったが、男は茫然とした顔付きをしていたので、女は「何と情けない。こんな有り様ではこれからも、ろくなことにはならないわ」と吐き捨てるように言った。女の着物を奪わなかった若者の心ばえは立派であった(当時女の着物は盗賊の絶好の標的だった)。夫は情けなかった。山の中で見知らぬ男に弓矢を与えるとは、まことに愚かな行為だった。

 妻に罵倒された夫はどの様な心情だったのだろうか。妻をかわいそうと思ったのか、若者に身を任せた妻を憎いと思ったのか。若者に嫉妬したのか若者を憎んだのか。
 その後、その男の死体が藪の中で発見されるが、その真相は藪の中である。

 この作品を原作に書いたのが芥川龍之介の「藪の中」である。「藪の中」という言葉は、目撃者と当事者の証言が矛盾しているために真相が不明になることであるが、この本題名から「藪の中」という言葉が生まれた。黒澤の映画「羅生門」もこの作品を脚本にしている。「二人の男に恥を見せるのは死ぬよりつらい」と言って、夫を殺せと盗賊に迫る京マリコの妖艶な姿が印象的である。

武士・貴族
 鎌倉時代は武士の政権だったため、貴族の間では過ぎ去った古きよき時代への回顧が強かった。順徳天皇の手による禁秘抄(きんぴしょう)などの朝廷の儀式や先例を研究する有職故実(ゆうそくこじつ)が盛んとなった。一方、武士の間でも、承久の乱の後に学問を好む風潮が高まったことから、北条泰時の甥(おい)にあたる北条実時(さねとき)が、鎌倉の港であった金沢の地に私設の図書館となる金沢文庫を建て、和漢の優れた書を集めて学問に励んだ。また鎌倉時代には幕府の歴史を編年体でつづった吾妻鏡が成立している。
 なお鎌倉時代の末期には宋の朱熹(しゅき)によって広まった儒学の一つである朱子学が伝わった。朱子学は「臣下として守るべき道義や節度のあり方を示した大義名分論」で後世に大きな影響を与え、鎌倉幕府討幕運動の思想的な支柱となる。
 同じく末期の頃には、伊勢神宮の外宮(げくう)の神官であった度会家行(わたらいいえゆき)によって独自の神道理論である伊勢神道が生まれた。度会家行は従来の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)に対して、逆に仏が神の化身としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)を唱えている。

 

愚管抄
 愚管抄は関白九条兼実の弟で天台座主(延暦寺の最高位の僧)の慈円(じえん)が書いたもので、承久の乱の直前までの独自の歴史論を展開し愚管抄7巻として著した。愚管抄はは日本最初の史論書で、巻1,2は和漢の皇帝年代記,巻3~6は神武天皇から順徳天皇までの歴史の大要を説き,巻7は結過去の反省により現在を批判している。歴史を導く道理を明らかにしており、平易に説かれている。

 

和歌の世界
   和歌の世界では、西行が出家後に諸国を渡り歩き山家集をまとめ、後鳥羽上皇の命令で「新古今和歌集」が藤原定家や藤原家隆(いえたか)らによって編集されている。新古今和歌集は平安時代までの伝統を受け継ぎながらも、技巧的な表現や洗練された歌風が広く受け入れられ武士の間にも広まった。20巻約2000首の歌が収められ、編集に10年以上かかったとされている。

 新古今和歌集の歌の特徴は「幽玄(神秘的で奥が深いこと)」および「有心(しみじみして風雅なこと)」である。この歌集には西行や鴨長明、後鳥羽上皇、藤原定家の歌が入っている。

 <西行>
心なき身にもあはれは知られけり鴨立つ沢の秋の夕暮れ
(出家して風流など理解できない私でも、秋の夕暮れ時に鴨が飛び立つ沢を見ていたら、しみじみとした感情がわいてきた)
<鴨長明>
夜もすがら独りみ山のまきの葉にくもるもすめる有明の月
(終夜ひとり眺める深山の真木の葉に翳る月も、実は美しく輝く月と知られる有明の月よ)
<後鳥羽上皇>
見わたせば山本かすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん
(見渡すと山のふもとがかすみ、水無瀬川が流れている。夕べの情趣は秋に限るなどとどうして思っていたのだろう。こんなにすばらしい春の夕べがあるのも知らないで)
<藤原定家>
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空
(春の夜の、浮橋のようなはかなく短い夢から目が覚めたとき、山の峰に吹き付けられた横雲が、左右に別れて明け方の空に流れてゆく)

 

金槐和歌集

 第3代将軍の源実朝は万葉調の歌を集めた金槐和歌集を遺した。なお金槐和歌集の「金」は鎌倉の「鎌」の偏(へん)を、「槐」は大臣の別称を表している。

 

 

建築

大仏様
 鎌倉幕府成立前に起きた源平の争乱によって、東大寺の大仏殿が焼失するなど、奈良の諸寺は大きな被害を受けたが、その復興のために重源(ちょうげん)が大勧進職として必要な資金を集めたことから、南宋の寺院建築を基本とした大仏様の形式で東大寺が再建された。
 大仏様は天井を張らずに全体的な構造美を示すことによって、大陸的な雄大さと豪快な力強さを表現している。かつての建造物の残存物として東大寺南大門が挙げられる。 
 大仏様は使用する部材の種類が少なく、巨大な建造物を建てるのに適した建築様式である。大陸的な雄大さ、豪壮な力強さ・簡潔さが特色である。例としては東大寺南大門(大和、奈良県)、浄土寺浄土堂(播磨、兵庫県)などがある。ただ日本人の気風に合わなかったためか造られたのはそれほど多くない。現在、大仏は日本に50以上あるが、多くは昭和以降に作られたものである。

鎌倉大仏

 鎌倉名所となっている「鎌倉大仏」は長谷の高徳院の本尊として鎮座している。鎌倉に大仏を造ろうと思い立ったのは源頼朝だった。しかし頼朝はそれを果たすことなくこの世を去り、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時が晩年に大仏と大仏殿を作り始めた。北条泰時は62歳で亡くなったが、建立した大仏は木造で金箔が施された。現在の鎌倉大仏は野ざらし状態になってるが、かつては大仏殿の中に安置されていた。大仏建立の理由は不明であるが、死者の怨霊を鎮めるためとされている。

 しかし完成から4年後の暴風雨で大仏殿が崩れ、木造の大仏も2度の台風で倒壊したため、新たに青銅製の大仏の鋳造が始められた。1495年の「明応の大地震」による大津波で高さ40mにもなる巨大な建大仏殿が押し流されて以来、現在の露座の大仏となっている。

 高徳院の本尊である鎌倉大仏は阿弥陀如来で、高さは11.31m(台座を含めると13.35m)、総重量は121トンである。鎌倉大仏は鎌倉の仏像の中で唯一の国宝で、今も700年以上鎮座し続けている。なお大仏には入口があり、そこから大仏の胎内へと入ることができる。

芸術の新傾向
禅宗様(ぜんしゅうよう) 
 鎌倉時代中期になると、細かい部材を組み合わせて清楚で整然とした美しさを表現した禅宗様(ぜんしゅうよう、別名唐様)が大陸から伝えられた。円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)などがその例である。かつては唐様(からよう)と称していたが、「中国唐代の様式」と誤解されることから現在は用いない。禅宗様(唐様)では細かな部材を組み合わせて、整然とした美しさを表現し、急勾配の屋根や白木柱・花頭窓(かとうまど)・桟唐戸(さんからど)などを備えているのが特徴である。円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)などの禅宗寺院建築に用いられた。禅宗様は日本人に感受性に合ったためか各地に広がっていった。
和様・折衷様 
 伝統様式の和様建築も盛んに造られ、その代表例は蓮華王院本堂(通称「三十三間堂・京都)や石山寺多宝塔(近江、滋賀県)などである。また大陸から伝えられた新様式と和様が融合した建築も生まれた。これを折衷様(せっちゅうよう)といい、観心寺金堂(河内、大阪府)がその代表例である。

 

建物

 建築としては建て換えられた東大寺南大門がある。奈良時代に建てられた東大寺は1180年に平清盛の子の重衡のために焼かれたが、翌年には東大寺の再建が朝廷を中心として始められた。寺を造るお金を広く一般の信者から集める勧進職がおかれ、この役には浄土宗を開いた源空の弟子である重源が就いた。重源は東大寺の再建にあたり、宋(中国) から持ち帰った天竺様という立て方を用いた。天竺様は力強く自由な変化にとんでいて大きな建物を少ない材木でつくるには最もよい方法であった。

 鎌倉時代の建築には天竺様と唐様の二つの建て方があった。東大寺南大門の天竺様は後の人々の好みに合わなかったのか、同じ頃にでた宋から入ってきた唐様ほど発展しなかった。天竺株の代表的な建物には、東大寺の南大門の他、兵庫県の浄土寺阿弥陀堂がある。
 唐様は禅宗にともなって、建築の方法で鎌倉の円覚寺舎利殿は唐様の代表的な建物である。唐様は天竺様の男性的な力強さと違い、手のこんだ美しさを備えている。

 

彫 刻
 奈良の諸寺の復興とともにそこに安置する大量の仏像の需要がおきた。康慶・運慶・湛慶・康弁・快慶・定慶などの優れた彫刻家が次々とあらわれた。彼らの名前には「慶」の字が共通しているので、この奈良仏師集団を「慶派」という。彼らが生み出す仏像や肖像彫刻は、躍動的・写実的・個性的・豊かな人間味という特徴をもている。

 仏像彫刻の中では東大寺や興福寺の再建につくした奈良仏師の運慶(うんけい)や快慶(かいけい)らによって、奈良時代の彫刻の伝統を受け継がれ、写実的で力強くまた豊かな人間味あふれる名作を残した。

 運慶と快慶がそれぞれ一体ずつ彫り上げた東大寺南大門の金剛力士(仁王)像をはじめ興福寺に残る天燈鬼像・竜品燈鬼像・無著像・世親像慶や京都の三十三間堂にあるおびただしい仏像などはこの時代の代表的な作品である。この金剛力士像のような素朴ながら力強い作品は武士の世の中を象徴している。

 運慶は奈良の仏師・康慶の子で、鎌倉時代の最も優れた彫刻家である。運慶は小さいときから父の教えを受けて彫刻家への道を歩んだが、当時の仏像彫刻に飽き足らず苦心の末力に溢れた新しい仏像彫刻の様式を生みだした。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると奥州の藤原基衡は毛越寺を建てるとき運慶に仏像づくりを頼み、そこで運慶は薬師如来像と十二神将像を作り上げた。基衡はその立派な出来を喜んで馬50頭、アザラシの皮60枚あまり、美しい布数千反、そのほかたくさんの品物を送ったとされている。
 和田義盛など多くの武将たちも、彼に製作を頼み、運慶は大彫刻家として名を挙げた。
また運慶は東大寺南大門の金剛力士像をつくたが、これは後世の仁王像の手本にされるとともに運慶の名声から多くの寺に仁王像が運慶作となった。
 おもな作品に東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶)のほか、同僧形八幡神像(快慶)、興福寺無著像・世親像(運慶)、同天燈鬼・竜燈鬼(康弁)、蓮華王院千一体千手観音像(湛慶)などがある。また肖像彫刻として、六波羅蜜寺空也上人像(康勝)、東大寺重源上人像、明月院上杉重房像などがある。

 

金剛力士像

 歴史の教科書では東大寺の南大門の金剛力士像が有名である。そもそも金剛力士像は日本各地の寺に金剛力士像は存在する。一般的にはお寺の山門に安置されている仁王として親しまれている。2体で1対ということから二王(仁王)と呼ばれるようになった。金剛力士の語源は神聖な武器・金剛杵を持つものという意味で、邪悪なもの侵入を防ぐ仏教の守護神です。口が開いているのを「阿形」、閉じているものを「吽形」といい、阿吽の呼吸の語源になっている。「あ」から始まり「ん」で終わるサンスクリット語から、この世の始まりとこの世の終わりという意味がふくまれている。
東大寺南大門に安置されている金剛力士像は国内最大級で8.4メートルである。法隆寺のものの大きさが3.8メートル程である事を踏まえると、東大寺南大門の像の大きさがどれ位大きいかが分かる。こうした大きさを実現できたのは「寄木作り」という組み立て式で造られたからである。東大寺南大門の金剛力士像は3000もの部品を組み合わせて作られている。複数の工人の手によるので、仏像をより早く作り上げることも可能にした。東大寺南大門の金剛力士像は運慶・快慶を始め、20人近い仏師が携わったとされている。
 金剛力士像は、通常山門に安置される場合は寺の山門の南側向きに安置され風雨にさらされ、傷みが激しい事が挙げられます。そのため、日本国内で国宝に指定されているのはわずか3体で、東大寺南大門、法華堂、興福寺の国宝館にある像のみとなっている。その中でも東大寺の法華堂、興福寺の国宝館の2体は堂内に安置されている。東大寺南大門に設置されている金剛力士像は傷みが進むのをさけるため、阿吽像がそれぞれ向き合うように設置され風雨から像を守るために南側の壁を封鎖されている。
金剛力士像は筋肉体質で、足の筋肉が隆起しており、全体的に力強い風貌になっているのも特徴で、その姿から「健脚の神様」「健康の神様」としての信仰を集め、大小さまざまな草鞋が奉納されることもある。
金剛力士像の材質について一体何で造られているのでしょうか…?
 金剛力士像の材質は檜の木材が使われている。藤原道長、頼通の摂関時代に末法思想が広がり、阿弥陀堂や阿弥陀如来像が大量に作られた。そのため、日本の風土の中で最も手に入れやすい木材が大量に伐採され使われるようになった。9世紀ごろ仏像の作り方としては一本の木を材料として仏像を彫る一木造りが主流だったのに対して、11世紀ごろ仏師・定朝(じじょうちょう)により寄木造という手法が編み出された。この寄木造は複数の工人によって分業し、組み立てて一体の仏像を作り上げる手法である。これによって使用する木の節約や巨大な仏像を作るのが可能になりまた像の耐久性もあがりました。金剛力士像は檜の木材を材質としている以上、傷みやすいのが特徴と言えるでしょう。

絵 画
 絵画では平安時代末期にはじまった絵巻物が全盛期を迎えた。物語絵や武士の活躍を描いた合戦絵、民衆に教えを広めるための縁起物、人物の一代記を描いた伝記物などがある。また似絵、頂相などの肖像画も多く描かれた。
 絵巻物 この時代の絵巻物には、次のようなものがあります。
 ・物語絵:「紫式部日記絵巻」、「伊勢物語絵巻」など
 ・合戦絵:「蒙古襲来絵巻(竹崎季長絵詞)」「平治物語絵巻」「後三年合戦       絵巻」
 ・縁起物:「北野天神縁起絵巻」「春日権現験記」(高階隆兼)「石山寺縁起       絵巻」
 ・伝記物:「法然上人絵伝」「一遍上人絵伝」「西行物語絵巻」「鑑真和上東       征伝」
 ・その他:「男衾三郎(おぶすま)絵巻」「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草        紙」

 絵画は平安時代末期に始まった絵巻物が盛んにつくられ、人物の一代記を描いた一遍上人絵伝(しょうにんえでん)や、合戦における戦いぶりを描いた蒙古襲来絵詞(えことば)・平治物語絵巻などの作品が生まれた。また個人の肖像を写実的に描いた似絵もつくられ、藤原隆信(たかのぶ)・信実(のぶざね)父子による名作が生まれた。

 絵巻物類のうち、蒙古襲来の合戦における戦いぶりを視覚的に描い「蒙古襲来絵巻(竹崎季長絵詞)」(2巻)が重要である。この絵巻物は、肥後国(熊本県)の御家人竹崎季長(すえなが)が、蒙古襲来時の一番駆けの功名と、鎌倉への恩賞請求の経緯を絵師に描かせたものである。最初は鎮守甲佐(こうさ)大明神に寄進されたが、所有者が転々と変わり、明治時代に皇室に献上された。「海中に落ちて大魚の腹から出てきた」という伝承があるくらい損傷が激しく、江戸時代にはすでにばらばらになっていた。復元する際に絵や詞書の前後関係が狂ってしまっている。絵は21枚、詞書は16枚あり、全体に大きさが不統一なので、現在は補紙をあてがって約40cm幅に仕立て直してある。日本史の教科書には、竹崎季長が元軍に立ち向かって「てつはう」が破裂している有名な場面が載っているが、近年「継ぎ目に描かれたモンゴル兵などは後世の補筆ではないか」とする疑問が出ている。


肖像画
 平安時代までは天皇や僧侶の肖像画は描かれることはあっても、その個人の肖像を写実的に描くことはほとんどなかった。呪詛の手段に使われることを恐れたからである。
 個人の肖像を写実的に描いた似絵もつくられ、藤原隆信(たかのぶ)・信実(のぶざね)父子による名作が生まれた。「法然上人絵伝」は法然を見たままに描いている。これを対看写照(たいかんしゃしょう)という。作品に「伝源頼朝像」(伝藤原隆信)、「後鳥羽上皇像」(藤原信実)などがある。
 また禅宗僧侶の肖像画を頂相(ちんぞう)という。頂(頭部)の相貌(そうぼう)」を写した絵という意味で宋代に流行した。わが国には鎌倉時代にもたらされ、頂相彫刻とともに室町時代に全盛期を迎えた。頂相は外見的特徴を写しとるばかりでなく、描かれる僧侶の高い精神性までもが表現されている。これを伝神写照という。弟子が一人前になると、師が自分の肖像画(頂相)に、自ら漢文で教訓的・宗教的な賛(詩文)を添えて弟子に贈った。「自画自賛」という言葉はこれに由来する。頂相は直弟子の証明であるとともに、崇拝の対象であった。弟子は頂相によって師の面影をしのび、師から受けた教えを反芻した。

 

 伝源頼朝像

 古くから源頼朝像とされてきた神護寺蔵の肖像画(左)が、近年「伝・源頼朝像」と呼ばれるようになった。つまり源頼朝ではなく、別人の肖像画ということである。
 この別人説ではかつて教科書にもあった源頼朝像は、実際には足利直義(ただよし)の像ということになる。

 神護寺三像の残りの二人も、平重盛像は足利尊氏、藤原光能(みつよし)像は足利義詮(よしあきら)とされている。たとえそうであっても歴史的に価値あるものに変わりないが混乱してしまう。

その根拠は次の3点である。
 第一に、足利直義の願文に「尊氏・直義の影像を神護寺に納めた」と書かれているので、この像がそれに相当するとしている。
 第二に、これらの肖像画は室町時代に行われた表現技法が見られるため、室町時代に描いたということである。目に瞳を描き、眉や髭を一本一本細かく描く方法は室町時代からの描き方で、モデルの精神性を写しとろうとする制作(伝神写照)も、室町時代の肖像画の特徴とされている。  
 第三に、等持院にある歴代足利将軍の特徴を写した尊氏像・義詮像に、神護寺の像が酷似していることである。そのため源頼朝像は「足利直義像の影像」とされている。もしこれらが真実なら、伝・源頼朝像は「足利直義像」か、または足利氏関係者の誰かの肖像画になる。また「平重盛像」が「足利尊氏像」となる。 
 しかしこの肖像画を源頼朝本人とする説も根強く支持されている。この肖像画は絹地に彩色され、縦143cm、横112.8cmと巨大である。このように巨大な絵画に描くことは鎌倉前期までしか見られていない。また絹地の裏から彩色を施す裏彩色という平安時代の伝統的技法が用いられているので、鎌倉初期の作品で、従来どおり「源頼朝像」だとしている。


書 道
 書道では宋や元の書風が伝えられたことで、伏見天皇の皇子であった尊円法親王(そんえんほう)によって、従来の書風に宋の書風をとり入れて青蓮院流(しょうれんいんりゅう)が新たに作られた。青蓮院は親王が住した門跡寺院の地名なので、青蓮院流は粟田口流とも呼ばれている。代表的な作品が「鷹巣帖」で、尊円入道親王が後光厳天皇のために書いた習字の手本である。
 青蓮院流はすっきりとしていて読みやすい流麗な書法で、江戸時代になると御家流(おいえりゅう)と呼ばれ隆盛した。自己流の癖字では読みにくいため、誰にでも読みやすい字体が求められたことから、江戸時代には朝廷・幕府・諸藩の公文書は御家流で書くことが決められ庶民もまた御家流を学習した。

工 芸
 工芸面では武家政権の影響から武器や武具の製作技術が進歩し、刀剣では備前国(岡山)の長船長光(おさふね)や京都の粟田口吉光、鎌倉の岡崎正宗(おかざきまさむね)らが名作を残した。工甲冑(よろい)では明珍派(みょうちんは)があらわれ名作を残した。

 また宋の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)が輸入され、その影響を受けて各地で陶器生産が発展をとげた。なかでも尾張の瀬戸焼が有名で、今日でも瀬戸物(せともの)が陶器の代名詞になっている。釉(うわぐすり)を用いた瀬戸焼は、道元とともに入宋した加藤景正が創始したとされている。