鎌倉文化

鎌倉文化の特徴
   鎌倉時代はそれまでの公家に代わって武家・庶民が新たな文化の中心となった。素朴で質実な武家社会の気風や、庶民的文学や美術なだが新たな文化を生んだのである。それまでの貴族文化流れをくみながらも深い教養を必要とせず、我々の心に迫ってくるもがある。この時代の文化の特徴は「平易かつ躍動」であった。平易な教えを説く鎌倉新仏教、文字が読めなくとも聞くだけの語物文学、迫まりくる写実的な彫刻などである。

 そのいっぽうで南宋や元の文化の影響も受けた。日宋間に国交はなかったが、両国間を往来した僧侶や商人らによって、また南宋滅亡によりわが国に亡命した中国僧らによって、朱子学・禅宗などの大陸文化が伝えられ独自の成長を見せた。鎌倉仏教や中国の宋や元の文化の影響を受けながら、学問や文芸の世界でも新たな動きが始まった。

  鎌倉文化はより心に響くものがある。鴨長明が天変地異や戦乱が続く世の中の無常を方丈記にまとめ、関白九条兼実(かねざね)の弟で天台座主(てんだいざす、延暦寺の最高位の僧職)の慈円(じえん)は、承久の乱の直前までの道理による独自の歴史論を展開した愚管抄を著した。
   和歌の世界では、西行が出家後に諸国を渡り歩き山家集をまとめ、後鳥羽上皇の勅撰(天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)によって新古今和歌集が、藤原定家や藤原家隆(いえたか)らによって編集された。
 新古今和歌集は、平安時代までの伝統を受け継ぎながらも、技巧的な表現や洗練された歌風が広く受け入れられ、武士の間にも広まった。第3代将軍の源実朝もその一人で、万葉調の歌を集めた金槐和歌集を遺した。なお「金」は鎌倉の「鎌」の偏(へん)を、「槐」は大臣の別称を表している。
 鎌倉幕府の成立には源氏と平氏による戦いがあったが、これら源平両氏の栄枯盛衰を主題として、武士の戦いを描いた軍記物語がつくられた。軍記物語は語り物よる新しい文学の形式をもち、なかでも平氏の興亡をつづった平家物語は、琵琶法師によって平曲として語られ、文字の読めない人々にまで広く親しまれた。
 説話文学としては、院政期に成立した今昔物語集とともに「日本三大説話集」と称される古今著聞集(ちょもんじゅう)や宇治拾遺物語(しゅうい)が成立している。
 また鎌倉時代末期には吉田兼好(兼好法師)による独自の広い見聞や観察眼によって、徒然草という随筆集の名作が生まれました。
 鎌倉時代は武士の政権だったことから、貴族の間では過ぎ去ってしまった古きよき時代への回顧や歴史の尊重という姿勢がみられ、順徳天皇ご自身の手による禁秘抄(きんぴしょう)などの、朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)が盛んとなりました。
 一方、武士の間でも、承久の乱の後に学問を好む風潮が高まったことで、北条泰時の甥(おい)にあたる北条実時(さねとき)が、鎌倉の港であった金沢の地に私設の図書館となる金沢文庫を建てて、和漢の優れた書を集めて学問に励みました。また、鎌倉時代中期までには幕府の歴史を編年体でつづった吾妻鏡も成立しています。
 なお、鎌倉時代の末期には宋の朱熹(しゅき)によって広まった儒学の一つである宋学が伝わりました。朱子学とも呼ばれた宋学における、臣下として守るべき道義や節度などのあり方を示した大義名分論は後世に大きな影響を与え、鎌倉幕府に対する討幕運動への思想的な支柱となった。
 同じく末期の頃には、伊勢神宮の外宮(げくう)の神官であった度会家行(わたらいいえゆき)によって独自の神道理論である伊勢神道が生まれた。度会家行は、著書である類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)の中で、従来の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)に対して、逆に仏が神の化身としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)を唱えている。
 鎌倉幕府成立前に起きた源平の争乱によって、東大寺の大仏殿が消失するなど、奈良の諸寺は大きな被害を受けましたが、その復興のために重源(ちょうげん)が大勧進職(だいかんじんしょく)として必要な資金を集めたことで、南宋の寺院建築を基本とした大仏様の形式で東大寺が再建されました。
 大仏様は天井を張らずに全体的な構造美を示すことによって、大陸的な雄大さと豪快な力強さを表現しており、代表的な遺構(昔の建造物の残存物)としては東大寺南大門が挙げられる。
 鎌倉時代中期になると、細かい部材を組み合わせることによって、清楚で整然とした美しさを表現した禅宗様(ぜんしゅうよう、別名唐様)が伝えられました。円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)などがその例です。
 また、平安時代以来の我が国の伝統建築様式である和様)に、大陸伝来の様式を巧みに取り入れた、河内国の観心寺金堂などを代表とする折衷様も生み出されました。
 仏像彫刻では、東大寺や興福寺の再建に参加した奈良仏師の運慶(うんけい)や快慶(かいけい)らによって、奈良時代の彫刻の伝統を受け継ぎながらも、写実的で力強く、また豊かな人間味あふれる名作を残しました。東大寺南大門の金剛力士像などが代表的作品です。この他、一般には「鎌倉大仏」と呼ばれ親しまれている、鎌倉の高徳院の阿弥陀如来坐像も鎌倉時代につくられたとされています。
 絵画では、平安時代末期に始まった絵巻物が引き続き盛んにつくられ、人物の一代記を描いた一遍上人絵伝(しょうにんえでん)や、合戦における戦いぶりを描いた蒙古襲来絵詞(えことば)・平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)などの作品が生まれました。また、個人の肖像を写実的に描いた似絵もつくられ、藤原隆信(たかのぶ)・信実(のぶざね)父子による名作が生まれました。
 書道では、宋や元の書風が伝えられたことで、伏見天皇の皇子であった尊円法親王(そんえんほう)によって、平安時代以来の世尊寺流(せそんじりゅう)を基本とした青蓮院流(しょうれんいんりゅう)が新たに創始されました。
 工芸面では武家政権の影響を受けて武器や武具の製作技術が進歩したことで、刀剣では備前国(岡山)の長船長光(おさふね)や京都の粟田口吉光、鎌倉の岡崎正宗(おかざきまさむね)らが名作を残しました。また、宋の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)が輸入されたことで、尾張国(愛知県西部)の瀬戸焼を初めとする陶器の生産も盛んとなりました。

 

 

芸術の新傾向

建築
 大仏様(だいぶつよう) 
 源平の争乱によって東大寺の大仏殿が消失し、奈良の諸寺は大きな被害を受けた。その復興のために宋に三度渡ったとされる重源(ちょうげん)が必要な復興資金を集るために勧進上人となって、地で寄付を募った。このことから東大寺が再建し、この時重源が採用したのが大仏様の建築様式である。
 この様式はかつては天竺様(てんじくよう)と云っていたが、「インド様式」と誤解されるため現在は用いていない。大仏様は使用する部材の種類が少なく、巨大な建造物を建てるのに適した建築様式である。大陸的な雄大さ、豪壮な力強さ・簡潔さが特色である。例としては東大寺南大門(大和、奈良県)、浄土寺浄土堂(播磨、兵庫県)などがあるす。ただ日本人の気風に合わなかったためか作例はそれほど多くない。
 禅宗様(ぜんしゅうよう) 
 鎌倉中期になると大陸から禅宗様が伝えられた。かつては唐様(からよう)と称していたが、「中国唐代の様式」と誤解されるというので現在は用いない。禅宗様では細かな部材を組み合わせて、整然とした美しさを表現した。急勾配の屋根や白木柱・花頭窓(かとうまど)・桟唐戸(さんからど)などを備えているのが特徴である。円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)などの禅宗寺院建築に用いられた。禅宗様は日本人に感受性に合ったためか各地に広がっていった。
 和様・折衷様 
 伝統様式の和様建築も盛んに造られ、その代表例は蓮華王院本堂(通称「三十三間堂」。京都)や石山寺多宝塔(近江、滋賀県)などである。また大陸から伝えられた新様式と和様が融合した建築も生まれました。これを折衷様(せっちゅうよう)という。観心寺金堂(河内、大阪府)がその代表例である。


彫 刻
 奈良の諸寺の復興とともにそこに安置する大量の仏像の需要がおきた。そこで活躍したのが奈良仏師の運慶(?~1223)・湛慶(たんけい 1173~1256)父子や快慶らである。彼らの名前には「慶」の字が共通しているので、この奈良仏師集団を「慶派」という。彼らが生み出す仏像や肖像彫刻は、躍動的・写実的・個性的・豊かな人間味という特徴をもている。
おもな作品に東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶)、同僧形八幡神像(快慶)、興福寺無著像・世親像(運慶)、同天燈鬼・竜燈鬼(康弁)、蓮華王院千一体千手観音像(湛慶)などがある。また肖像彫刻として、六波羅蜜寺空也上人像(康勝)、東大寺重源上人像、明月院上杉重房像などがある。

 

絵 画
 絵画では平安時代末期にはじまった絵巻物が全盛期を迎えた。物語絵や武士の活躍を描いた合戦絵、民衆に教えを広めるための縁起物、人物の一代記を描いた伝記物などがある。また似絵、頂相などの肖像画も多く描かれた。
 絵巻物 この時代の絵巻物には、次のようなものがあります。
 ・物語絵:「紫式部日記絵巻」、「伊勢物語絵巻」など
 ・合戦絵:「蒙古襲来絵巻(竹崎季長絵詞)」、「平治物語絵巻」、「後三年合戦絵巻」
 ・縁起物:「北野天神縁起絵巻」、「春日権現験記」(高階隆兼)、「石山寺縁起絵巻」
 ・伝記物:「法然上人絵伝」、「一遍上人絵伝、「西行物語絵巻」、「鑑真和上東征伝」
 ・その他:「男衾三郎(おぶすま)絵巻」、「地獄草紙」、「餓鬼草紙」、「病草紙」

 上記の絵巻物類のうち、蒙古襲来の合戦における戦いぶりを視覚的に描い「蒙古襲来絵巻(竹崎季長絵詞)」(2巻)が重要である。この絵巻物は、肥後国(熊本県)の御家人竹崎季長(すえなが)が、一番駆けの功名と鎌倉への恩賞請求の経緯を絵師に描かせたものである。最初は鎮守甲佐(こうさ)大明神に寄進されたが、所有者が転々と変わり、明治時代に皇室に献上された。「海中に落ちて大魚の腹から出てきた」という伝承があるくらい損傷が激しく、江戸時代にはすでにばらばらになっていた。復元する際に。絵や詞書の前後関係が狂ってしまっている。絵は21枚、詞書は16枚あり、全体に大きさが不統一なので、現在は補紙をあてがって約40cm幅に仕立て直してある。日本史の教科書には、竹崎季長が元軍に立ち向かって「てつはう」が破裂している有名な場面が載っているが、近年「継ぎ目に描かれたモンゴル兵などは後世の補筆ではないか」と疑問が出ている。 


肖像画
 平安時代までは天皇や僧侶の肖像画は描かれることはあっても、その他の個人の肖像を写実的に描くことはほとんどなかった。呪詛の手段に使われることを恐れたからである。
 個人の肖像を写実的に描いた似絵もつくられ、藤原隆信(たかのぶ)・信実(のぶざね)父子による名作が生まれた。「法然上人絵伝」は法然を前に見たままを描いている。これを対看写照(たいかんしゃしょう)という。作品に「伝源頼朝像」(伝藤原隆信)、「後鳥羽上皇像」(藤原信実)などがある。
 また禅宗僧侶の肖像画を頂相(ちんぞう)という。頂(頭部)の相貌(そうぼう)」を写した絵、という意味で宋代に流行した。わが国には鎌倉時代にもたらされ、頂相彫刻とともに室町時代に全盛期を迎えた。頂相は外見的特徴を写しとるばかりでなく、描かれる僧侶の高い精神性までもが表現されている。これを伝神写照という。弟子が一人前になると、師が自分の肖像画(頂相)に、自ら漢文で教訓的・宗教的な賛(詩文)を添えて弟子に贈った。「自画自賛」という言葉はこれに由来する。頂相は直弟子の証明であるとともに、崇拝の対象であった。弟子は頂相によって師の面影をしのび、師から受けた教えを反芻した。
伝源頼朝像
 従来、源頼朝像とされてきた神護寺蔵の肖像画が、近年「伝源頼朝像」と呼ばれるようになった。つまり別人の肖像画ではないかという疑問が持たれたのである。
 別人説では従来の源頼朝像は、実際には足利直義(あしかがただよし)像ということである。源頼朝像を含む神護寺三像」の残りの二人も、平重盛像は足利尊氏、藤原光能(ふじわらのみつよし)像は足利義詮(あしかがよしあきら)とされている。その根拠は次の3点である。
 第一は、足利直義の願文に「尊氏・直義の影像を神護寺に納めた」と書かれているので、同寺の平重盛像・源頼朝像がそれに相当するとしている。
 第二は、これら肖像画の描写法に、室町時代に行われた表現技法が多く見られるので、室町時代の誰かを描いたということである。目に瞳を描く、眉や髭を一本一本細かく描く等は室町時代からの描きかたで、モデルの精神性を写しとろうとする制作態度(伝神写照)も、室町時代の肖像画の特徴だとされている。  
 第三に、等持院にある歴代足利将軍の特徴を写した木造の尊氏像・義詮像に、平重盛像・藤原光能像が酷似していることである。そのため伝平重盛像は足利直義願文にある「尊氏の影像」とされている。もしこれが真実なら、伝源頼朝像は「直義の影像」か、または足利氏関係者の誰かの肖像画ということになる。 
 しかしこの肖像画を源頼朝本人とする説も根強く支持されている。この肖像画は絹地に彩色され、縦143cm、横112.8cmと巨大である。このように俗人を巨大な絵画に描くことは鎌倉前期までしか見られていない。また絹地の裏から彩色を施す裏彩色という平安時代の伝統的技法が用いられているので、鎌倉初期の作品で、従来どおり「源頼朝像」だとしている。


書 道
 伏見天皇の皇子であった尊円法親王(そんえんほう)が、従来の書風に宋の書風をとり入れて青蓮院流(しょうれんいんりゅう)を新たに創始した。青蓮院は親王が住した門跡寺院の地名なので、青蓮院流は粟田口流とも呼ばれていた。代表的な作品が「鷹巣帖」で、尊円入道親王が後光厳天皇のために書いた習字の手本である。
 青蓮院流はすっきりとしていて読みやすい流麗な書法で、江戸時代になると御家流(おいえりゅう)と呼ばれ隆盛した。自己流の癖字では読みにくいため、誰にでも読みやすい字体が求められたことから、江戸時代には朝廷・幕府・諸藩の公文書は御家流で書くことを求められ庶民もまた御家流を学習した。

工 芸
 工芸面では武家政権の影響を受け、武器や武具の製作技術が進歩したことから、刀剣では備前国(岡山)の長船長光(おさふね)や京都の粟田口吉光、鎌倉の岡崎正宗(おかざきまさむね)、越中の郷義弘(ごうのよしひろ)らが名作を残した。甲冑(よろい)では明珍派(みょうちんは)があらわれ名作を残した。

 また宋の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)が輸入され、その影響を受けて各地で陶器生産が発展をとげた。なかでも尾張の瀬戸焼が有名で、今日でも瀬戸物(せともの)が陶器の代名詞になっている。釉(うわぐすり)を用いた瀬戸焼は、道元とともに入宋した加藤景正(かとうかげまさ 藤四郎)が創始したとされている。