後醍醐天皇

王権の反撃

 318年2月、弘安の役から40年後、京都では後醍醐天皇の即位の式典が厳粛におこなわれた。もともと天皇の名は、その天皇の死後に「おくり名」としてつけられるのが普通であったが、後醍醐天皇は、生前に天皇みずから「後醍醐」(後の醍醐という意味)と名のった。

 醍醐天皇は平安時代はじめごろの天皇で、藤原時平・菅原道真を左右の大臣とし、その上にたって、天皇みずから政治をおこなった。それだけに醍醐天皇の政治は、元号にちなんで「延喜の治」とよばれていた。その後、藤原氏の摂政政治になって、次に上皇(退位した天皇)によって院政がおこなわれ、鎌倉時代からは鎌倉幕府が朝廷よりも大きな力をもつようになった。後醍醐天皇は、その醍醐天皇の政治にあこがれ、みずから後醍醐と名のった。

 後宇多天皇の子である後醍醐天皇は幼少期から宮廷で生活していたが、現実の政治に意欲を燃やし、朱子学(儒教)に傾倒して朝廷の実権を握る鎌倉政権を深く憎んでいた。そのため後醍醐天皇は幕府を滅ぼし、かつての天皇中心の中央集権国家を創設しようとしていた。すなわち日本を藤原氏以前の天皇中心の(延喜、天暦の治)に回帰させようとした。さらに問題だったのは、当時の皇室は大覚寺統と持明院統という二つの系統にわかれ、天皇を交代に出すことになっていた。しかも天皇を選ぶのも幕府の指図だった。そのため後醍醐天皇が自分の皇子を次の天皇にしたいと思っても、そうはできなかった。

「なぜ、幕府の指図を受けなければならないのか。このまま幕府の言いなりになっていれば、自分も天皇の地位からひきずりおろされるかもしれない」このように「天皇中心の政治」をめざす後醍醐天皇の怒りやあせりが強まっていった。

 いっぽう蒙古襲来以来、幕府の政治には乱れがでてきた。恩賞などへの不満から御家人たちから恨みの声が強くなっていた。幕府の執権北条氏だけが繁栄し、ほかの御家人は貧しくなっていた。各地に「悪党」がふえ、社会不安が高まっているのに、幕府は十分に取り締まらなかった。

 後醍醐天皇にとって、西国の反幕府運動は渡りに船であった。貴族たちは後醍醐天皇が朝廷の権力を取りもどしてくれると期待した。後醍醐天皇はさっそく鎌倉幕府をつぶす計画を立てるが、その計画が鎌倉幕府に密告されてしまう。後醍醐天皇は鎌倉幕府の追求をのがれたが、計画に参加した貴族たちは罰せられた(1324年、正中の変)。

 しかし2度目の(1331年の元弘の乱)ときは世の情勢が変わっていた。後醍醐天皇の挙兵によって西国の反幕府勢力は「大義名分」を得て立ち上がった。各地で執拗な戦いが繰り広げられ、特に河内(大阪府)の豪族・楠木正成の勢力は強力で、正成が篭る千早城は、鎌倉幕府の大軍の猛攻を頑として撥ね付け幕府軍を苦しめた。

 後醍醐天皇は笠置山(奈良県)にのがれて立てこもるが、鎌倉幕府は20万以上の軍勢で笠置山を攻撃したことから、後醍醐天皇は敗れ隠岐島(島根県)に流された。しかしこの情勢を前に、隠岐島にも天皇方につく役人が現れ、後醍醐を隠岐島から山陰に脱出させた。脱出に協力した名和長年(なわながとし)は楠木正成とともに倒幕をおこし、鎮圧しようとした鎌倉幕府軍の足利尊氏新田義貞は、鎌倉幕府をうらぎり逆に鎌倉幕府を攻撃した。

 天下の情勢は天皇方に傾き、1333年、幕府を見限った御家人が続々と朝廷に忠誠を誓った。さらに幕府側の足利尊氏と新田義貞が、それぞれ京都と鎌倉を攻略し鎌倉幕府の命運は尽きた。執権北条一門は最期まで鎌倉で戦い、壮絶な最期を遂げた。日本は再び天皇中心の中央集権国家として生まれ変わった。

 

 建武の新政

 後醍醐天皇は京都に帰ると「朕の新儀は、未来の先例なり」と声明を発し、天皇親政を開始した。元号が建武に代わったことから、1334年のこの親政は「建武の新政」と呼ばれている。しかしこの新政府は、構成員する者たちは同床異夢で、天皇を中心とする朝廷勢力と、足利尊氏をリーダーとする武士勢力では、新政に寄せる期待が根本的に異なっていた。

 武士団の多くが鎌倉政権を見限ったのは、末期の鎌倉政権が、彼らの権益保護や利害調整を満たさなかったからである。武士たちは鎌倉政権に代わる「新しい幕府」を期待していた。すなわち商業資本と利害調整能力を持つ新たな幕府であった。

 後醍醐政権が武士たちの気持ちを満たす政策を展開していたならば問題はなかった。しかし朝廷は失政を繰り返した。最悪だったのは「公地公民」の建前戻るため、武士の所領をいったん国有化したことである。

 武士たちは所領の権益を確保するために、京都の新政府から改めて所領を下賜してもらう手続きが必要だった。この結果、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、その量は新政府の裁判調停能力を大きく上回っていた。日本を支える最も重要な基盤である武士団は、後醍醐の新政によって鎌倉政権よりも大きな不利益を蒙ったのである。

 日本の政治機能を朝廷に一元化する後醍醐天皇の政策は、考えとしては正しかったが、世の現状を無視した強引なものであった。後醍醐天皇は、短期的に武士団の権益を保護する政策、つまり長期的な視野に立っての改革を進めるべきだった。

 朝廷の失政を見て北条一族の残党が反乱を起こした。その中でも最強の勢力を誇る北条時行の軍勢は鎌倉を占領するほどに勢いであったが、朝廷軍の総司令官・足利尊氏の出陣によって反乱軍は崩壊した。諸国の武士団は古い北条幕府の再興よりも、新たな足利尊氏の手による幕府を希望したのだった。このことに気づいた尊氏は、鎌倉に腰を据えると軍功のあった武士団に勝手に恩賞をばら撒いた。朝廷の許可を得ないこの行為は、事実上の朝廷への独立宣言であった。

 尊氏に激怒した後醍醐天皇は、尊氏追討軍を鎌倉に送った。いわゆる1335年の建武内戦である。後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏の追討を命じたが、尊氏は箱根で新田義貞を打ち破ると、義貞を追撃する形で京都へ西上を開始した。この戦いは後醍醐政権を倒して、再び新たな幕府をつくるためで、その軍勢は10万を数えた。

 後醍醐天皇はいったん尊氏に京都をに明け渡し、比叡山に移り敵の兵糧を絶ちながら、諸国の援軍を集めて包囲網を敷いた。奥州から北畠親房が入京すると朝廷軍は再び勢いを取り戻した。

 この巧みな戦略に尊氏は京都で大敗をきたし、敗退した尊氏は九州へ落ちのびた。これ以降の約60年間、日本は戦乱の渦に叩き込まれることになった。