後醍醐天皇

 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、南北朝時代を作り上げたことから、日本史上重要な位置づけがなされている。しかしなぜ後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうとしたのか、なぜ隠岐に流されたのか、なぜ幕府側の足利尊氏が寝返って南北朝時代となったのか。鎌倉時代末期から南北朝にかけてのわずかの期間に様々な事件が起きていて複雑であるが、その中心人物である後醍醐天皇について分かりやすく説明したい。


両統迭立(てつりつ)

 鎌倉末期、朝廷に皇位継承権を巡る大きな問題が起きた。その原因を作ったのは第88代・後嵯峨天皇で、後嵯峨天皇は次の第89代・後深草天皇に譲位して院政を行った。このまま後深草天皇の系譜に皇位が継承されていれば内部対立は起きなかった。しかし後嵯峨上皇は後深草天皇に、弟の亀山天皇への譲位を強く迫ったまま死去し、しかも次の天皇を決めずに鎌倉幕府の推薦に任せたのである。

 後深草天皇と亀山天皇は兄弟である。こうなると天皇の位や私有地をめぐって、後深草天皇の「持明院統」と亀山天皇の「大覚寺統」という二つの系統にわかれ(両統迭立)、亀山天皇の次は伏見天皇ではなく後宇多天皇になった。このように亀山天皇以降、皇位継承権を巡る対立が深まり、大覚寺統と持明院統との不満や軋轢は強まり、これが南北朝の遠因となった。朝廷内では皇位後継者をめぐる内紛から、朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂し140年もの間争うことになる。

 朝廷内では皇位継承権の問題を解決できず、当時の朝廷は鎌倉幕府の強い支配下にあったため、鎌倉幕府の仲裁によって天皇を10年ごとに両系から交互に出すことになった。天皇の在位期間は10年と決まっており、次の天皇は鎌倉幕府が決めることになった。

 この両統迭立によって朝廷の皇位継承は一時的に安定したが、天皇を決める権限幕府にあり、天皇に即位しても10年後には天皇の座を譲らなければならなかった。つまり自分の嫡男を次の天皇にしたいと思ってもできなかった。

 後醍醐天皇の兄である後二条天皇が第94代天皇となったが、1308年に24歳で急死したため、次の天皇は持明院統へ移り、花園天皇(95代)が12歳で即位した。花園天皇は若年だったので、当然、持明院統の父の伏見上皇や兄の後伏見上皇が「院政」を行った。

後醍醐天皇の誕生

 元寇から40年後、鎌倉幕府の統治権力は北条家が握るなかで、1318年2月、京で後醍醐天皇の即位式が行われた。現在でも天皇を今上天皇と呼ぶように、天皇の名は死後に「おくり名」として名付けられるのが通常であった。しかし後醍醐天皇は現役時代から醍醐天皇の後の天皇という意味で後醍醐天皇と名乗った。

 醍醐天皇とは平安時代のはじめの頃の天皇で、藤原時平・菅原道真を左右の大臣にして、その上にたって天皇自らが政治をおこなった。そのため醍醐天皇の政治は「延喜の治」とよばれ、その後、藤原氏による摂政政治になり、次に退位した天皇が上皇となって院政がおこなわれ、鎌倉幕府になると北条家が朝廷を左右するようになり、次期天皇さえも鎌倉幕府に決定権があった。

 後醍醐天皇は、かつての醍醐天皇の政治にあこがれ、自らを後醍醐と名乗ったのである。後醍醐天皇は幼少期から何不自由なく宮廷の中で生活していたが、現実の政治に意欲を燃やし、朱子学(儒教)に傾倒して、国の実権を握る鎌倉政権を深く憎んでいた。

 そのため後醍醐天皇は幕府を滅ぼし、かつての天皇中心の国家に戻そうとしていた。すなわち藤原氏以前の天皇中心の政治を理想としたのである。

 

院政
 院政とは天皇が生きているうちに天皇の座を後継者に譲って上皇になり、上皇が天皇に代わって政務を行うもので、即位した天皇は名ばかりで、権威・権力は上皇が握ることになる。

 後二条天皇が亡くなると、第95代に花園天皇となり、10年交代の約束により、次は後宇多天皇の第2皇子であった尊治親王(後醍醐天皇)が中継ぎとして皇位継承権が巡ってきた。中継ぎとされたのは後二条天皇の皇太子が幼かったからである。このようにして1318年に大覚寺統の後醍醐天皇(31歳)が第96代天皇になった。

 しかし父の後宇多上皇が再び院政を開始したため、後醍醐天皇は名ばかりの天皇になり、さらに後醍醐天皇は「中継ぎ」であり、自分の子である護良親王に皇位継承権がないことが不満であった。次期の天皇は大覚寺統の後二条天皇の皇子がなる予定であった。
 このように次期の天皇を継承し、決定するのは鎌倉幕府の執権・北条氏だった。

 1321年、後醍醐天皇は父・後宇多天皇の院政を停止させると、自分中心の天皇親政を復活させようとした。後醍醐天皇は「鎌倉幕府も摂政も関白も置かずに、天皇みずからが政治の中心となる朝廷政治」を目指した。


討幕計画(正中の変

 「なぜ朝廷が鎌倉幕府の指図を受けなければならないのか。このまま幕府の言いなりになれば、自分も天皇の地位からひきずりおろされことになる」、このように「天皇中心の政治」をめざした後醍醐天皇の怒りやあせりが強くなっていた。

 鎌倉幕府の指名で、次の天皇は持明院統の量仁親王に決まっており、大覚寺統の後醍醐天皇は窮地に追い込まれていた。後醍醐天皇は吉田定房、北畠親房らを登用して政治の中心機関・記録所をつくり政治改革を行うが、後醍醐天皇の政治は思うようにいかなかった。

 いっぽう蒙古襲来以来、鎌倉幕府の政治は乱れ、恩賞などの不満から御家人の恨みの声が強くなっていた。幕府の執権北条氏だけが繁栄し、ほかの御家人は貧しくなるばかりで、各地に幕府に逆らう「悪党」がふえ、社会不安が高まったが、鎌倉幕府は悪党らを取り締まらなかった。

 元寇以降、鎌倉幕府の支配力は急速に衰えていった。鎌倉幕府の役割は武士の利益を保護し、土地問題を調停することであったが、それが出来にくくなっていた。元寇の役で蒙古軍を退けたが、全国の武士達は疲弊の極地にあった。武士達は幕府の命令で自前で戦い、幕府側も武士達に恩賞を与えたかったが、それは与える土地がなかったからである。執権北条時宗は山積する問題を前に34歳の若さで死去した。

 恩賞をもらえず、訴訟を起こせば幕府の要人に賄賂を贈る方が勝つ。これでは何のための幕府なのか。 御家人たちの不満の矛先は北条氏に向けられた。時宗の後を継いだ14歳も北条貞時で、その後を継いだのが最後の執権となる北条高時であった。

 鎌倉幕府は源頼朝が開いた幕府なので、北条氏に不満を持つ武士は多くいた。後醍醐天皇はこの機会を狙って倒幕の計画を立てた。

 1324年西国から反幕府運動が起き、後醍醐天皇にとってはこの西国の反幕府運動は渡りに船であった。貴族たちは後醍醐天皇が朝廷の権力を取りもどしてくれることを期待し、後醍醐天皇は側近の日野資朝・俊基らと鎌倉幕府の討滅を計画するが、その計画が鎌倉幕府に密告されてしまう。

 日野資朝は佐渡に流されたが、日野俊基は無罪となり、後醍醐天皇は幕府に釈明して許された。天皇が武家に弁明することは前代未聞だった。正中の変)このように第1回目の倒幕計画は事前に発覚して失敗したが、これが第2回目の挙兵、元弘(げんこう)の変につながってゆく。

 

 元弘の乱

 正中の変から7年後の1331年、後醍醐天皇は再び討幕を企てるが、天皇側近の吉田定房が幕府に密告し、倒幕計画が暴露して六波羅探題(幕府)の軍勢が御所に乗り込んできた。後醍醐天皇は三種の神器を持って女装してひそかに京都を脱出して比叡山に向かった。しかし延暦寺は六波羅探題に降伏しており、奈良の東大寺と興福寺は幕府側なのか朝廷側なのかが決断できなかった。

 

笠置山での霊夢
 後醍醐天皇は比叡山から笠置山の笠置寺に潜伏したが、自身の周りに名のある武将が全くいないことを不安に感じていた。思い悩んで寝ていると夢を見た。それは「庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下に官人が座っていた。南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたのかと不思議に思った。

 すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたもの」と言って空に上って消えてしまった。後醍醐天皇は夢から覚めると、夢の意味を考えた。「木」に「南」と書くと「楠」という字になる。このことに気付き、寺の衆徒に「この近辺に楠という武士はいるか」と尋ねると、河内国金剛山(大阪府南河内郡千早赤阪村)に楠正成という者がいるということだった。後醍醐天皇はすぐに楠正成を笠置山に呼び寄せた。

 後醍醐天皇は笠置寺に入るが、すぐに笠置山は北条軍(六波羅軍)7万5000騎に包囲された。戦力の面では圧倒的に不利な状況にあったが、笠置山は天然の要害で幕府側相手に天皇軍の兵3000人は善戦し笠置は落ちなかった。笠置山は標高300メートル足らずの低山であるが傾斜の強い天然の要害であった。

 

後醍醐天皇の流罪
 執権・北条高時は20万7600の大軍を笠置へ向けて出発させるが、到着前の9月29日、風雨の激しい夜半に笠置山裏手から幕府軍の精鋭が笠置城内へ忍びこみ放火し、これが契機となって笠置山は火の海となり陥落した。

 後醍醐天皇は楠木正成の籠もる赤坂城を目差したが敗走軍からはぐれ、さ迷う中で幕府軍に捕えられた。後醍醐天皇の度重なる討幕計画に対し、1332年に鎌倉幕府は、かつての後鳥羽上皇と同様に隠岐へ流罪にして持明院統の光厳天皇を新たな天皇にした。しかし今回はかつての承久の乱のときとは時勢が変わっていた。

 

後醍醐天皇の脱出
 後醍醐天皇は天皇の座を奪われ島流しになったが、隠岐島にも天皇方につく役人がいた。また潜伏していた楠木正成が再び挙兵すると六波羅探題勢を撃破し、さらに護良親王が吉野で挙兵した。

 千早城の楠木正成が鎌倉幕府相手に勝利したとの知らせは日本各地に伝わり、後醍醐天皇も名和長年らの力を借りて隠岐島から脱出すると、伯耆・船上山にて倒幕の綸旨を天下へ発した。
 後醍醐天皇の挙兵によって、西国の反幕府勢力は「大義名分」を得て立ち上がった。各地では執拗な戦いが繰り広げられ、特に河内の豪族・楠木正成の勢力は強力で、正成が篭る千早城は鎌倉幕府の大軍の猛攻を頑として撥ね付け幕府軍を苦しめた。

 これを鎮圧するため、鎌倉幕府は足利尊氏軍を送るが足利尊氏は後醍醐天皇を倒さず、逆に幕府の六波羅探題を攻め、新田義貞は鎌倉を攻め鎌倉幕府を攻撃した。足利尊氏と新田義貞が鎌倉幕府に反旗を翻したのは、すでに世の情勢が変わっていたからである。

 天下の情勢は天皇方に傾き、1333年、幕府を見限った御家人が続々と朝廷に忠誠を誓った。幕府側の足利尊氏と新田義貞が、それぞれが京都の六波羅探題と鎌倉を攻略し、執権・北条高時ら総計800人余りが最期まで鎌倉で戦い壮絶な最期を遂げた。日本は再び後醍醐天皇中心の中央集権国家として生まれ変わることになる。

 

建武の新政

 後醍醐天皇は京都に帰ると「朕の新儀は、未来の先例なり」と声明し、光厳天皇を廃位させ後醍醐天皇による天皇親政が開始されることになる。元号が建武に代わったことから、1334年のこの親政は「建武の新政」と呼ばれた。しかしこの新政府を構成する者たちは同床異夢で、天皇を中心とする朝廷勢力と足利尊氏を中心にする武士勢力では「建武の新政」に寄せる期待が根本的に異なっていた。

 武士団の多くが鎌倉政権を見限ったのは、鎌倉幕府が武士の権益の保護や利害の調整を満たさなかったからである。武士たちは鎌倉政権に代わる「新しい幕府」を期待していた。すなわち利害調整能力を持つ新たな政府であった。

 後醍醐天皇が武士たちの気持ちを満たす政策を行えば問題はなかった。しかし朝廷は失政を繰り返した。天皇中心の政治を目指した後醍醐天皇は、貴族や寺院たちを優遇し、鎌倉幕府を倒すために命をかけた武士たちには恩賞を与えなかった。このため多くの武士たちは不満を持つことになる。最悪だったのは「公地公民制」を復活させ、武士の所領をいったん国有化したことだった。

 武士たちは所領の権益を確保するためには、京都の新政府から改めて所領を下賜してもらう手続きが必要だった。その結果、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、その量は新政府の裁判調停能力をはるかに上回っていた。

 日本を支える重要な基盤である武士団は、後醍醐の新政によって鎌倉政権よりも大きな不利益を被ったのである。

 日本の政治機能を「朝廷に一元化」する後醍醐天皇の政策は、考えとしては間違いではなかった。しかし後醍醐天皇の政策は世の現状を無視した時代錯誤と言うほかない。後醍醐天皇が短期的でも武士団の権益を保護する政策を進めていれば、違った展開になっていただろう。戦力を持たない天皇や貴族が再び政治の中心になることはありえなかった。

 戦いに勝つには戦力が必要で、戦うのは武士であった。貴族や天皇が戦うわけではなかった。鎌倉幕府の誕生によって武士たちは自分の力に目覚め、何かあれば自分たちが武力にうったえれば、武力のない貴族や天皇は何もできないことを知っていたのである。

 朝廷の失政を見て北条一族の残党が反乱を起こした。その中でも最強の勢力を誇る北条時行の軍勢は鎌倉を占領するほどの勢いであった。そのため朝廷軍の総司令官・足利尊氏が出陣して反乱軍は崩壊した。

 諸国の武士団は古い鎌倉幕府の再興よりも、足利尊氏による新たな幕府を希望するようになった。このことに気づいた尊氏は、鎌倉に腰を据えると軍功のあった武士たちに勝手に恩賞をばら撒いた。朝廷の許可を得ないこの行為は、事実上の朝廷への独立宣言であった。

 ちなみに後醍醐天皇の第1皇子・護良親王(もりよし)は足利尊氏が反乱を起こすのではないかと怪しみ後醍醐天皇に忠告したが、後醍醐天皇は逆に「あなたの息子の護良親王が反乱をたくらんている」という足利尊氏の言葉を信じ、1335年に護良親王を拿捕し、鎌倉の東光寺に幽閉させた。1336年の中先代の乱の際に、敵に護良親王を擁立されることを警戒し、鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義の命により護良親王は殺害されている。

 山梨県の石船神社に祀られている頭蓋骨は、護良親王のものとされているが、護良親王の子を身籠った雛鶴姫が同じく山梨方面に逃れたと伝承されており可能性が高い。護良親王が命を落とした東光寺跡には、明治天皇の命にて「鎌倉宮」が造営されている。

 

尊氏追討軍

 足利尊氏に激怒した後醍醐天皇は、新田義貞を尊氏追討軍として鎌倉に送った。いわゆる1335年の建武の内戦である。後醍醐天皇は足利尊氏の追討を命じたが、足利尊氏は箱根で新田義貞を打ち破ると、新田義貞を追撃する形で京都へ上った。足利尊氏のこの戦いは後醍醐政権を倒して、再び新たな幕府をつくるためのもので、その軍勢は10万を数えていた。

 1336年、新田義貞と楠木正成の軍勢が足利勢を迎え撃つが、朝廷軍に畠山氏の軍勢が加わると、尊氏は京の戦いに敗れ九州へ落ちる。しかし足利勢は九州で勢力を盛り返すと京に攻めこみ、湊川の戦いで楠木正成が討死して敗北した。後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、三種の神器を差し出して、奈良県の吉野に逃れ別の朝廷(南朝)を設立し自分が本当の天皇だと主張した。

 

南北朝時代の始まり
 足利尊氏は建武式目を制定し、持明院統の光明天皇を擁立すると(北朝)、1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開いた。
 後醍醐天皇は吉野朝廷を開き、足利尊氏の「北朝」と対立し、南北朝時代の56年間が始まった。持明院統と大覚寺統の対立は完全に分裂状態となり、後醍醐天皇は各地に自らの皇子を派遣して協力を要請した。しかし多くの武士は足利尊氏につき、後醍醐天皇についていた名和長年、結城親光、千種忠顕、北畠顕家、新田義貞らが討死にすると、吉野に移って3年目に後醍醐天皇は失意のうちに52歳で崩御した。
 南朝は勢力を弱めたが、北畠親房は篭城した常陸・小田城にて南朝の正統性を示す「神皇正統記」を書き、関東の武士を味方につけた。しかし懐良親王、北畠顕能、宗良親王らはすでに亡くなっており、次第に勢力が衰え、1392年に南朝は降伏する。
 後醍醐天皇は自分の理想通りの政治を始めたかったのだが、この政治は始めから武士によって、つぶされる運命にあった。なお明治44年に、明治政府は南朝の天皇を正統と定めたため、足利尊氏が擁立した光明天皇などの北朝時代の天皇は歴代天皇には数えられていない。

 

女性関係
 阿野廉子は後醍醐天皇の最も寵愛を受け3人の皇子を産んでいる。そしてこの皇子の誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、建武の親政にも様々に口出し画策した。
 後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中で比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐の子を産んだ女性だけで20人、生まれたの皇子17人、皇女15人である。子を産まなかった女性は数に入っていないので、実際に性的関係を持った女性が何人かは分からない。

  阿野廉子の運命が大きく変わるのは中宮・禧子の入内だった。このとき、阿野廉子が禧子について宮中に入ることになる。廉子17-18歳のことである。
 「太平記」から推察すると、20人以上の女性の中でも後醍醐の寵愛は阿野廉子に向けられた。廉子は阿野公廉の娘である。「太平記」の表現によれば、廉子はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになった。その結果、ほどなく後醍醐との初めての子・恒良親王を産み、次に成良親王、同年には義良親王を産んでいる。したがって後醍醐の寵愛を一人占めしていた。
 阿野廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐のよき話し相手だった。そのため後醍醐が隠岐へ流されたときも、廉子を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行った。
 後醍醐の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良の各親王たちである。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたことが分かる。恒良より上の4人の中に、仮に中宮禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が大きかったが、廉子にしてみれば幸いなことに中宮禧子の子はいなかった。

 ただ護良親王が元弘・建武の争乱にあたっては後醍醐の手足となって軍事行動を担っており、一時的には征夷大将軍にもなっている。ある意味では後醍醐の後継者だった。
 ところが、1334年正月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良親王ではなく廉子の長子・恒良親王だった。つまり後醍醐は実績のある護良親王ではなく、まだ10歳になったばかりの恒良親王を後継者として指名したのだ。

 廉子の産んだ二人目の子、成良親王は鎌倉に下り、三人目の子、義良親王は奥州に下った。つまり廉子が後醍醐と相談のうえで、将来性のある地位にそれぞれ後醍醐との子を送り込んだのである。つまり恒良親王を後醍醐直系、成良親王を足利尊氏に、義良親王を北畠親房路線として、最終的に誰が勝っても廉子の生んだ子を政権担当者の座に就かせることができた。
 才気煥発な廉子ならばがその画策をしたことは考えられる。また護良親王が皇太子になれなかったことについても、わが子が皇位に就くために将来邪魔になるであと考え、同じく護良を排除しようとしいた足利尊氏と目的が一致して尊氏と組んだのである。尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報があり、廉子からそれを聞いた後醍醐が護良を捕えたとする。この「太平記」の叙述を100%信用できないにしても、そのような素地はあっただろう。

まとめの年表

1288年 後宇多天皇の第2皇子として生まれる。
1318年 後醍醐天皇が即位して天皇になる。
     父の後宇多天皇が上皇、院政を始める。
1321年 父の後宇多上皇が院政をやめ後醍醐天皇が直接政治を始める。
1324年 後醍醐天皇が鎌倉幕府をつぶす計画をおこす。

    (正中の変)
1331年 後醍醐天皇が元弘の乱をおこし、後醍醐天皇は笠置山(かさぎやま 奈良県)にのがれ、立てこもる。鎌倉幕府軍は20万以上で笠置山を攻撃 醍醐天皇は敗れる。
1332年   後醍醐天皇が鎌倉幕府にとらえられえ、隠岐島(島根県)に流される。後醍醐天皇は隠岐島から抜け出し、名和長年、楠木正成などとともに倒幕をおこす。鎌倉幕府軍の足利尊氏や新田義貞が鎌倉幕府をうらぎり、逆に鎌倉幕府を攻撃する。
1333年 鎌倉幕府が滅びる。
1334年 後醍醐天皇が建武の新政(けんむのしんせい)を始める。                        ↓
1335年 足利尊氏が後醍醐天皇にそむき反乱をおこす。新田義

     貞、楠木正成、北畠顕家の活躍で足利尊氏をやぶる。
              ↓
    九州で戦力をととのえた足利尊氏に再び京都に攻めこまれ、
         今度は後醍醐天皇軍がやぶれる。
              ↓
         後醍醐天皇が京都から比叡山にのがれる。
              ↓
         後醍醐天皇が足利尊氏に降伏し京都にもどる。
              ↓
1336年 足利尊氏が京都で光明天皇)を天皇にする。(北朝)
    捕らえられていた後醍醐天皇は、吉野(奈良県)にのがれる。(南朝)
1338年 足利尊氏が光明天皇に征夷大将軍に任命される。
     足利尊氏が京都に室町幕府をひらく。
13391年 後醍醐天皇、吉野で病死(52才)